近づけるの心地す。彼も亦た安き價を以て彼の樂天主義を暙ひ得た シルレルは「自然」を論じて、其兩面を詳かにせんとしたり、 2 プるものにてはあらざる事愈明らかなり。 側面には力あり、他の側面には美あり、力を以て自然は人を脅か 彼は學生たりし時、心からの沙翁愛讀者たりし事は傅記家之を證し、美を以て「自然」は人を樂しましむ。多く詩人の經驗するとこ せり。然れども彼は獨り沙翁の愛讀者たりしのみならず、懷疑派のろ、詭明するところ、多くの哲學者の解詭するところ、釋明すると きょはく 巨擘モンターグの如きも、彼が尤も愛讀したりしものなる事「モン ころ、此の兩側面を見ざるは稀なり。然るにヱマルソンの説くとこ ターグ論」を讀んで之を知るべし。其他彼の讀書の嗜好は推察する ろは之に異なれり。彼は自然の中に靈カ靈氣あるを認めざるにあら に難からず。後年聖餐に同情なきの故を以て、公けの祈鳶に同倩なず、然れども此の靈カ靈氣は「自然」自身に存するよりも「心」に きの故を以て、聖職を辭するに至りしまでの彼の胸中豈に徒爾なら存するものなることを信ぜんとせり、「心」と「自然」との密接の んや。偉大なる人物は、己れの爲に己れの途を拓くなり、之をなす關係を認めて、各個人の事情は其人の心の外表なることを言ひ、英 いた が爲には、勢ひ周邊の物と鬪はざるを得ず、勢ひ荊棘に傷められざ雄らしき業のなさるゝ處には、太陽は其の燈火の如く、蒼天は其の るを得ず、之に克ち、之に堪え、而して後に、凡ての物を己れに同殿の如しと言ひ、自然は決して精訷を離るゝものにあらずして、心 化し、己れの爲の存在となさしむ。思想に於て然り、心性に於て然は「自然」を我が用として保つものなることを論じ、多くの論文に 、生活に於ても亦た然り。之を以てヱマルソンも亦た此の必然の於て此の理を明晰に説明したり。彼は「自然」を他の哲學者が見る 運命を越えざるを得ず。余が見る所を以てすれば、彼の第一歐洲行 如く畏るべき力ある者と思はざるなり、希臘の「自然」思想は彼の はち彼の前後の生涯を分っ境界にして、彼時までは彼はなほ未だ前に帽を脱ぎて去れり、彼は「心」を以て御する限は「自然」は甘 全く周邊に克たず、大盤石の立脚地未だ全く定まらず、通常一般の美なる朋友にして、人は如何なる處にても渠と共に歩み、渠と共に 牧師として一生を終るべき人なりしか、或は偉大なるヱマルソンと語り、渠と共に樂しむことを得るを信ぜり。日月星辰は吾人を離る る事遠しと雖も、心靈の眼一度び明らかに開かば、彼等は吾人の身 なりて、世界を光らすものとなるべきや、未だ全く渾沌の中にあり しなり。然れども時は來れり、歐洲に遊びて其の榮光と其の弊根と邊にありて、親しく吾人を慰むるものなり。「自然」は吾人と他人 0 0 0 にあらず、渠が他人たるは、吾人が先づ渠に對して他人たればな を究察せり。其の偉大なる心の人に接見したり。其の歴史的智識を 明らかにしたり。歸り來りて而して後、居をコンコルドに定むるのり。吾人が渠の甘美なる聖情を味ひ得る度に比して、渠は吾人に・對 時、彼の一生の希望も、彼の自然敎の根原も、彼の樂天主義の基礎する甘美なる朋友たるなり。而して詩人は、過度に之れを吸取する も牢固として動かすべからざるものとなり、此時よりして旭日は東者にして、彼の大なるは之を以てなり。「形」は「」の表面なり。 天に衝き上りたり。 深の上に深あり、終の後に終あり。彼は「自然」を以て「心」の前 にありては透明にして無色なるものと認めたり。 彼は微細に「自然」を察したり。彼の數學的の知識を以て、彼の 物理學的の智識を以て、之を各般の側より研究したり。而して凡て 彼は斯の如く「自然」と「心」との親密の關係を看破せり。而し 是等より得たる悟覺を、彼の唯心的悟覺に加へたり。彼は到底數學て彼は凡ての上に「純理」なるもの支配し居るを認めたり。人は一 的の人にあらず、唯心的の直覺、他の言葉にて言へば、心靈の内時一刻も此の純理を離れて立っこと能はざるを認めたり。之を離る るものは必然の罰を受け、之と與なるものは必然の報を享くること 覿、之れ印ち彼の思想の唯一の武器なりしなり。 サイト フォース
左はれ世の文運は一轉の機に際せり。現世紀終葉の文華別に異彩を 放って、今や漸く開かれつゝある時、センチメンタリズムを説くも のなく、ロオマンチシズムの氣啗また揚らず。これを英吉利の文學 に見るに、プラウニング、テニソン既に去りて遠く、プレラファエラ イト結瓧の詩人モリスさへ終に逝けり。共の詩壇は全く新らしき思 想と聲調とを以て代へられぬ。時代の精がやうやく變じ來りて、 Jn the faith of little children we went on our ways. 哲學の思想また改まれりし夫れ新らしき思想新らしき哲學とは何ぞ Then the wood failed—then the ま od failed—then the last water dr ied— ゃ。科學的思想と進化論となり。進化論の科學的哲學は經となり、 アングロオサクソン、及びノルマンの勇敢なる氣風は緯となりて、 ln (一〕 e faith of little children we lay down and died. 新詩人の思想はこゝに成れり。人は記臆すべし。アングロオ、サク On the sand-drift-on the veldt-side—in the fern-scrub we lay, ノン人種の進取的氣象に富めるを。かれ等は勇敢剛健なる話を有 し、海賊となりて四海を掠奪したる歴史を有す、其の主眼とする所 That 0 日 sons might follow after by 「 the bones on the way. は實行にあり。坐して考へ疑って想に沈むは共の尤も厭ふ所なり。 FoIlow after-follow after 一 we have watered the ro 。 (. かくて強力主義の文學顯はれたり。 strength! strength! これ其の格 And the bud 一〕 as come ( 0 blossom that ripens for fruit 一 言にして、ジョージ、メレヂスのこの主義を執るや、薄志弱行を以 Follow after—・ we are waiting by the trails that we lost て直ちに罪過となすと云ふ。力行重んずべし、勞働賤むべからず。 For the sound of many footsteps, for the tread of a host. FoIIw after—follow after—for the harvest is sown 【 倫敦市市府の黒煙また詩材たるべし。斯くの如きは則はち、一フデャ 1 ド、キップリングの詩なりし其の思想には強力主義現在主義あ By the bones about the wayside ye shall come ( 0 your ow 三 しはい り。其の聲調には機關蓮轉の響ありて、紙背よりは汽鑵の香、海風われ等が進むは茫漠たる處の只一條の道なり。樹は失せ、食渇き、 のかほり、盛んに立ち登るの趣あり。共の「七海の歌」の反歌に見水も乾きてわれ等はやがて仆る、人生の業大方斯くの如し。たゞ子 へし God of Things as They are. と云へる一句は、一時批評の 孫の此の枯骨を追ふて行くまでの道を備るのみ。今こ、に哲學の批 題目となりしが、詩人は神を以て現在のとなし、かの茫漠たる空評を加へんは別事に屬す。詩人が思想の可否を間はんも今の業にあ しりぞ 想の世界を斥く。これやがて強力主義のある處なり。今この歌の中らず。吾れ等互に知らんとするは、近代の氣蓮なり、共の事實な なる A song of the English のうちの一節を引きて、其の田 5 想と 。英國民族の實行的思想は何人も否む能はざる處、其の主張は永 整調のあらましを示さん。 く絶えさらん。さてもキップリングは此の舊性情を新哲理に適はし 「 e were dreamers, dreaming greatly, in the manstifled town. めたる、其の新思想を謳歌するとの名終に十九世紀終葉の詩壇に、 We yearned beyond the sky-line where the strange roads 0 優に桂冠を戴くべきが。 dO 翆一 n. Came the whisper, came the イ一 s 一 on 》 came the て owe 一・ witb the Need. Till the soul that is not man's soul was lent us to lead. As tl 〕 e deer breaks—as the steer breaks—from the herd where ( h ご「 graze,
藤庵 ( 藤村 ) の『琵琶法師』をはじめとして、詭『春』のなかに、藤村の角度からではある信じ、詩集『若菜集』の成熟に向うことにな 禿木の『吉田兼好』・天知の『阿佛尼』・透谷がかなりに生き生きと描きだされている通りった。藤村・柳村は、客員格だった樋口一葉 の『富獄の詩神を想ふ』等、中心的なものはである。 ともども『文學界』派のうちの重要なメンバ どれも浪漫派文學の色彩のいちじるしいものしかし、創刊一年餘りして透谷が歿してかーであるが、本書では他の卷にそれらのひと で、巖本の『文章の道』の道德主義的な空疎らは、透谷とその他のひとびととのあいだにのものは收められているので、天知・殘花・ な論と對照的に、傷つきやすい纖細な感受性あったちがいがおのずとあらわになり、明治禿木・孤蝶・秋骨の五名がこの卷に透谷とあ や古典 ( の鋧敏な美意識や主観・精神の高揚社會の状況にたいして透谷ほどの鏡い仕方でわせて掲げられることになった。 等がそれぞれ個性的な形で展開されていた。 對立していたのでなかったかれらは、ゆとり 天知は編集・經營の面で終始『文學界』の 三號からはこの雜誌は巖本と女學雜誌社からをもった態度で藝術・文學 ( の鑑賞的な傾倒中心となり、その刊行を支えてきたひとで、 離れ、天知の金と編集・經營で發行される雜に轉じ、透谷のように文學を唯一の梯子とし創刊號に『阿佛尼』をめぐる感想を書いての 誌となった。 て人間・自我の徹底的な自由を求めるというちは、史上の強い個性をとりあげて評傳ふう 透谷は客員的な存在であったが、創刊號のやり方の代りに、 " 世に學藝の數はあれど、のものを書くようになり、殘花のしばしば書 評論に續いて第二號に『人生に相渉るとは何人の世を飾り、世路の崢嶸を慰むるもの實にいた評傅とともに、民友社派の「史論」 ( の謂ぞ』を、第五號には『内部生命論』を、美術にしくはなく、自ら筆を染め鑿を執て書史人物論 ) とはまたおのずとちがった人生論 というふうに、かれとしての最も高揚した時家彫工たらざるも敏なる審美感だにあり的な主観性のややいちじるしいものをつくり 期の強烈な評論が次々とここに發表され、そて、諸の製作を味ふ事を得れば、其樂如何ばだした。これらは、人生的・人間的な深い内 れは廣く注目されはじめたばかりでなく、メかりぞや。という上田柳村 ( 敏 ) の『美術の翫容をもつ小説が不在だった状況のなかで、 ンバーたちの浪漫的傾向に自信と方向とを與賞』という論文の一節に見られる鑑賞主義的説に代位するものとして迎えられたのであ えるものとなり、『文學界』初期は文學的に・敎養主義的な傾向、それを支えるところのる。天知のそれらの作品は明治三三年刊のか は透谷中心の時代というべきものとなった。 " 人生は短かく、藝術は長し。という考えれの『文學雜著・破蓮集』にほぼ收められて 實社會 ( の違和と否定、女性・戀愛・自然・方、それにつらなる藝術至上主義。。ーーこうしおり、ほかに小説集『山菅』 ( 明治一一一五年刊 ) 「情熱等の讃美、 , ー。 , パの浪漫主義文學〈た氣分がしだいに濃厚になり、この柳村の長がある。天知は、日本橋本町の江戸時代いら 界の傾倒、等 ~ のかれらの一般的傾向は、透谷篇論文はそのような變化の一つの徴標となついの砂糖間屋の老舖に生れ、家業をさかんに 文の明治社會〈のはげしい批判的對立・否定、ている。藤村までが、これののった同じ明治し事業の才をもさまざまに示したひとだが、 藝術・文學の獨自な高い存在理由の確認とい一一八年五月號には柳村とあい似た文體で『聊同時に、早くから、巖本の女學雜誌瓧の經營 うことに支えられ活氣づけられて、實際に透か思ひを述べて今日の批 ~ 計家に望む』というを手傳い、同じく巖本の明治女學校 ( 明治期 谷を文學的な中心とした文學精神上の動が長めな ~ 計論を發表しており、結局のところでの最も先進的な女學校だ 0 た ) に敎務主任とな はじまったのである。この時期のメ一バーたは藤村は柳村の方向には進まなかったけれどり、また投書雜誌『女學生』の編集に當って ちのまとまった氣分と生活とは藤村の長篇小も透谷の場からは一歩退ったところで文學をいた。明治三一年一月五八號で『文學界』が
宿星我 コ泣時 粹厭 二徳一 松漫 ト最 處心各一 下 伽 を 川 女機人 . 念種 ルの地 に 心 の 日代佛の ス勝獄 こ ? ド 下を 内 潔 行祈び 幻民賣夷 伽と を を イ 反庇女スノ , んあ 理み・じ、 鏡夜从 則辭ごぶ性び平り ず宮境思て 、仙ぞむむ ず 人富鬼他 " 兆思真淸 桂主国熟内人頑復明 ェ慈劇一 禺 の民 部一生 因 業の 妄戦文 聲ーの詞 っと 生の 進前タ 排爭學 何と タヒを 、の自管 ? は 及し い意論辨義弊殺見ぞ る殿序熟・ ンむ何覲 め專リ 文 手雙蓬 月深静明北桂 熊交淸狂阿 村川戸 に覺少 の 界 智谷情 喰上 君死殘 かの御 れ れの ゕ男想り紆尼 簡篇曲 かげ政前秀て 南自以活變 善社地片酒 万它 を匂 り 下 詩私、 し の ど ほ杉 ゕ影観學論 ゕ君てへり川 ノレ 地草純薄 ) の堂美 の書文 レ節影界記影好 平田禿本 戸川秋骨 作ロ解説 1 ト」 ~ な 北村透谷 交學界派 ノ - ー一トしノ . ト″ 1 皿動調 夫 定債 5 0 0 回
プ 5 宿魂鏡 とも東京に置いて來い、置いて來ようと嚊奴と熟談に及んで來たなの揉め方も多いと見え、何うでも今年は埓明けて、安心が爲たい爲 れど、此様子では置いて行っては後の氣掛り。我も大事の大事の獨 たいと言募って、病氣が起らねば宜いと思ふ程の高じ方。何でも我 きめ に娘を連れて行けと云ふ、我が出ねば自分で出るといふに詮方な り娘を、置いて行かうと決たは能々の事、とっくり御前と相談をし 、奧州は知っての通り雪足切れて間も無い今日、今年の寒さに摘 て、後々まで間違の無いやう、この白髮頭の氣の濟むやうに、是非 とも爲てもらはねばなりませぬ。何に是が茶、黒茶かね、何に珈むにも惜しき新芽の桑、是から急がしくなるばかりの蠶時を脱け出 みなり わしら 琲、なんだか我儕には飮まれましねい、ウム美いぞ美いぞ、娘、手て、娘の身裝も御前の顔に關らぬ程の物を整へ、目立たぬ様に目立 せて、都下りの花簪。ホイこれはしたり、忘れて居た、芳三殿、こ 前も飲んで見ろ、東京に居れば斯ういふ物も飮み習れねばならぬ、 よい イヤそんなに恥かしがらいでも宜わ、ハ、年といふものは變な奴だれは御前に、嚊が丹精して織った夏衣、二年前から用意してあった と、さん よろ / 、、あ 品物、爰には御前の父様からの一封、それにも阿梅が事は書いてあ て、御前を背中に負って踉蹌歩るきした事のある芳一二殿に何の遠慮 あと があるものか、音まうで地蔵の祭日、何處へ行くにも連立って人ろ、後でゆるど、讀んで下され、娘が事は必らず / 、。ホイこれは にも笑はれる程仲が宜ったではないか、似寄った / 、芳一二と阿梅がしたり林太どのから御前に何やら賴み事があるとかで、此手紙、それ となりどし あと も後で讀んで下され、林太も此頃は學校の助敎になって、鹿爪らし 夫婦遊びするを見るに付け、隣家同士でもあり、舊縁もあり、優り おれ いひな 劣りは無い家柄、誰が言ひ出したでもなく親々の中に固めた言名い事ばっかり、御前の噂が出る度に、何うぞして / \ 己も東京に出 ・つけ 付。忘れもせぬ、芳三殿、御前が十五の春に東京に修行に出たいとて見たいと言ひ續けて居る、阿梅も一昨年の暮れに學校は卒業して はなし ちっ 免も取った程なれば、少とやそっとの事は談話相手にもなりませ 言った時、この我は逹て思ひ止まれと、娘の不爛ひとつに口を酢く して諫めても、草深い田舍に埋もれて居る時世にあらず、今に今にう、山家育ちの籔鶯、氣には人るまいが必らず見捨てゝ呉れてはな をさん 歴々の官員に成り濟して、其時は叔父様も東京に呼んでやらうといりませぬぞ。阿梅、何もそんなに赤い顔をして默って居る事はな はなし こんまけ すけなにがし い、故の様に仲好く遊べ、イヤ遊べではない、談話でもしろ。芳三 ふ御前の剛情に根負して、そんなら我もと、修行料 . の助に若干は、 可愛い娘の支度料にと蓄って置いた中より割きて飃み、目出度く 殿、御前も默って居るのか、阿梅、芳三殿、さて / \ もどかしい人 かけはな 御前を旅立せは爲たものゝ、我娘可愛しと思ふ心から懸絶れて居る逹だぞ、これ芳三殿、これ阿梅。 あいだ 御前の身の上が氣に掛り、今頃は何をしてムるか、病氣にもかゝら 長たらしき孫兵衞の述懷を、始めから終まで紙卷煙草の烟の間か ず息才で學間をしてムるか、もしゃ又た廣い都の引手數多の仇花に ら聞澄して居た芳三、阿梅が事はかねて胸にあり、孫兵衞の親切も 迷ひ込んで、阿梅の事忘れ果て、呉れは爲まいか、この志貫き遂げ忘れては濟まぬ事、百も承知。何學校かに三年、高等中學に四年、 おく この間の學資半分は我家よりも身代柱太き孫兵衞が仕遣った事、親 るまでは故鄕の土を二度蹈まぬと言った御前の言葉が耳に殘って、 びな はやた それまでは兎ても歸るまい、迅く經て歳月、春も秋も箭の如く飛ん親の間に約束がある事、阿梅が最早年頃になった事、鄙には珍らし を」りゃう で行け、首尾よく御前の修行が濟んで、立派な官員に成って呉れき容姿なる事、一々胸に納めて居て、折々固くるしき政治學の蟹書 の上に、異な姿が現はれて、自分で自分を笑った事もある、扨その て、而うして阿梅を呼んで呉れて、初孫の顔見に來いと迎ひを立て いとし られて、と、何が何たか分りもせぬ米來 / 、の夢結びつ覺めつ、漸阿梅が遙々と出て來て見れば、何となく可愛さが無いでもなけれ まっしぐらわきみち く今、阿梅は拾七、五つ違ひで御前は二十二、嚊奴は女たけに気ど、道ならぬ事とは知りながらツィ外れ出した駒の脚、驀地に他路 わがこ はなし
ろしくな」と思た熊に害れたのか、こりア考 ( ものであろう、心盲客便所から陌子のま、出て來た。之が透谷と私との初對面風景であ と〔ふ奴は恐る〈き鬼た、これに翼の生えた謾氣と」ふ魔は妙な勇る。急に逢ひたくて來ましたと、眞倩おもてに顯はして居たのは嬉 しかった。之は私の文覺上人の一文を見た時の事である。此日は情 氣と失敗とを繰返さするものである。 熱の事から始まって、空虚文學、沒趣味、沒理想の慨嘆に花が咲い ( 明治二十九年二月「文學界」第三十八 ) て時の移るをも覺えず、軈て夜食が出る、燈火が出る、日が暮れる、 夜具が運ばれ、蚊帳が釣られるといふ按配で、規則正しい家人等は 蔭で怫々言ったといふ。談益よ熱し、情愈よ昻りて眠られず、透谷 は洗面器の水で頭を冷やし / 、して、眠ろうと勤めるが眠られな 北村透谷君の奇矯 い。枕を排して、瓧會思想の低級、宗敎家の停頓、學者の沒理想等 そうくわう 等に付て痛憤止まず、日高く昇ったので、匇惶として透谷は去った。 之は吾家の茶の湯坐席での面會たったが、後年同じ席 ( 嵯峨の屋お むろを迎 ( た所、天井から床の間のあたりを視廻して居たが、「あ なたが斯ういふ所にお住ひとは意外でした。」と繰返しノ \ 言ひ績 二 ) 初對面の茶室 けて、文學談を忘れて歸って往ったのも奇であった。大橋音羽も此 女學雜誌の編輯を私が手傅って居た時、透谷の名を知ったのは、一一部屋 ( 來たが、之は博文館代人で來たのだから、羽織袴の左様然ら ばの調子であったので、よく調和が取れた。 十五年一月號に一點星といふ韻文を見た時からである。其末節に、 しばし呆れて眺むれば頭の上にうすらぐ雲の絶間よりあらはるゝ心 三 ) 其敎師ぶり ありげの星一つ忽ちに睛るゝ思ひに憂さも散りぬ。 島崎が女學校を去って透谷が其跡 ~ 這人った。私が番頭格だから 人は眠り世は靜かなる小夜中に音づるゝ君はわが戀ふ人の姿にぞ有け る。 同君を其講座 ( 紹介したが、不似合な袴を着けた透谷は、無雜作に これから其寄稿文を注意するやうになった。それは基督教文學の敎室〈小走りに這入るなり、ピ = 「 , と一つ頭を下げて、左手を袂 〈突込んだ儘、右手 ( 提げた英書を机 ( 投げ出して、「之から一緒 共鳴點からかとも思ったが、更に惻々として身に迫るものがあっ 橋た。其後の評論は追光彩を放って、ために此雜誌は次第に靑年社に勉強しましよう、どうか宜しく。」と云った調子で始めたものだ。 學生中に英學者齋藤秀三郎君の味が居て能く出來る。之は冬子と云 の會へも擴充されて往った。 って、透谷の譯讀に對立する意味を述べて可否を問ふ事がある。そ 谷或夏の午後、私の本町宅 ( ( ルメットにステッキの有髯壯士が、 紺絣の單衣に白木綿の兵子帶といふ風采で、突然「天知さんは居まれは偶 ( ム」 , トであ 0 たが、透谷の答は斯うだ。「成程そうで 、、北村ですが、」と訪問した。素より店員逹は天知などいふ名も好いやうだ。そこが沙翁の偉い所以だと思ふ。」何時も斯う答 ( 1 は知らないので、壯士の強請だと誤察して傅逹して來た。直樣客席て他を排さない。此娘の熱心な意氣と秀才とには、戀を悟ったやう な透谷も終に深い憧憬を覺えずには居られなかった。其娘も亦、透 〈出て見ると客が居ない。「ヤア文覺さんですか」と言ひながら、
は、果して吾人々類の享有する者なりや。この疑間は人の常に思ひあると、生命を敎ふる宗敎なきとの差異あるのみ。優勝劣敗の由 至るところにして、而して人の常に輕んずる所なり、五十年の事をて起るところ、鉉に存せずんばあらざるなり。平民的道德の率先者 經綸するは、到底五十年の事を經綸せざるに若かざるなり、明日あも、就會改良の先覺者も、政治的自由の唱道者も、誰か斯民に生命 るを知らずして今日の事を計るは、到底眞に今日の事を計るものにを敎ふる者ならざらんや、誰れか斯民に明日あるを知らしむる者に あらざるなり、五十年の人生の爲に五十年の計を爲すは、如何に其あらざらんや。誰か斯民に數々感々として今日にのみ之れ控提せら 計の大に、密に、妙に、精にあるとも、到底其計なきに若かざるなるゝを警醒するものにあらざらんや。宗敎としての宗敎、彼れ何物 り。一一十五年を勞作に費し、他の二十五年を逸樂に費やすとせば、 ぞや、哲學としての哲學、彼れ何物ぞや、宗敎を説かざるも生命を 極めて面白き方すなるべし、人間の多數は斯の如き夢を見て、消光説かば、既に立派なる宗敎にあらずや、哲學を談ぜざるも生命を談 するなり、然れども實際世界は決して斯の如き夢想を容るゝの餘地ぜば、既に立派なる哲學にあらずや、生命を知らずして信仰を知る を備へず。我が心われに告ぐるに、五十年の人生の外はすべて夢な者ありや、信仰を知らずして道德を知る者ありや、生命を敎ふるの りといふを以てせば、我は寧ろ勤勞を廢し、事業を廢し、逸樂晏眠外に、道德なるものゝ泉源ありや、凡そ生命を敎ふる者は、既に功 を以て殘生を送るべきのみ。 利派にあらざるなり、凡そ生命を傅ふる者は、既に瞹眛派にあらざ 吾人は人間に生命ある事を信ずる者なり。今日の思想界は佛敎思 るなり、凡そ生命を知るものは、既に高蹈派にあらざるなり、危言 想と耶敎思想との間に於ける競爭なりと云ふより、寧ろ生命思想と流行の今日、世人自から惑ふこと勿らんことを願ふなり。 不生命思想との戦爭なりと云ふを可とす。吾人が思想界に向って微 吾人をして去て文藝上に於ける生命の動機を論ぜしめよ。 力を獻ぜんと欲することは、耶蘇敎の用語を以て佛敎の用語を奪は 文藝は宗敎若くは哲學の如く正面より生命を説くを要せざるな んとするにあらず、耶蘇敎の文明 ( 外部の ) を以て佛敎の文明を仆 又た能はざるなり。文藝は思想と美術とを抱合したる者にし さんとするにあらず、耶蘇敎の智識を以て佛敎の智識を破らんとすて、思想ありとも美術なくんば既に文藝にあらず、美術ありとも思 るにあらず、吾人は生命思想を以て不生命思想を減せんとするもの想なくんば既に文藝にあらず、華文妙辭のみにては文藝の上乘に達 なり、彼の用語の如き、彼の文明の如き、彼の學藝の如き、是等外し難く、左りとて思想のみにては決して文藝といふこと能はざるな 部の物は、自然の陶汰を以て自然の進化を經べきなり、吾人の關す り、此點に於て吾人は非文學黨の非文學見に同意すること能はず。 る所爰にあらず、生命と不生命、之れ印ち東西思想の大衝突なり。 先覺者は知らず、末派のポジチビズムに於て、文學をポジチープの つら / 、明治世界の思想界に於て、新領地を開拓したる耶敎一派事業とするの餘りに、淸敎徒の誤謬を繰返さんとするに至らんこと 論の先輩の事業の跡を尋ぬるに、宗敎上の言葉にて、謂ふ所の生命のを恐る曳なり。 戲文世界の文學は、價値ある思想を含有せし者にあらざること、 生木なるものを人間の心の中に植ゑ付けたる外に、彼等は何の事業を 吾人と雖、之を視ざるにあらず、然れども戲文は戲文なり、何ぞ特 か成さんや。洋服を着用し、高裄子を冠ることは思想界の人を勞せ ずして、自然に之を爲すなり。凡そ外部の文明を補益することは、 更に之を以て今の文學を責むるの要あらんや。吾人を以て之を見れ 確何ぞ思想界の逹士を煩はすことを要せんや。外部の文明は内部の文ば、過去の戲文が、華文妙辭にのみ失したるは、華文妙辭の罪にあ 明の反影なり、而して東西二大文明の要素は、生命を敎ふるの宗敎らずして、文學の中に生命を説くの途を備へざりしが故なり、 こと
る人は、東京中にて第一等の敎師と評判せらるゝ程の人にてあり岡千仭の私塾は實に生をして不愉快に堪 ( ざらしめたり、其第三 し、其人は生の淡泊なる性質を鍾愛し、最も親愛して生を敎育せらは、曾て熱心に盡力したる靑年黨の面々散り / 、に分離したる事等 れけり、又た生は人の意表に出づる議論を好みて、文章を造るに愉なり、其第四は、政府の擧動漸くをかしくなりて此經質の少年を して憤慨に耐えざらしむる事少なからず、其第五は、生よりも一層 快活の氣象をあらはしければ、卑屈コンモンなる數多の敎師ども にはかに生を敬愛するに至りたり、從って校中の評判、生の一身に甚しき神經家なる我家の女將軍は生が活に粗暴を交〈て動作する をいたく嫌ひて、種々の軍略を以て生を壓伏せんと企てたり、 集まり、生の最も得意とするアンビションは此學校の生活には全く こもご 右等の仇敵は交も生の心中を惱亂せしめたれば、爰に全く活な 共功を奏したりと云ふ可し、此年は國内政治思想の最も燃え盛りた る時なりければ、生も亦風潮に激發せられて、政治家たらんと目的る天性をそこねて、穩着沈默なる肉落ち骨枯れたる一少年とこそな りにけり、從って又た怯弱なる畏懼心をかもし、年來腹裡に蓄へた を定むるに至り、奮って自由の犧牲にもならんと思ひ起せり、從來 るアンビションをして徒らにおそれをのゝく事を知らしむるに至れ のアンビションは悉く此一點に集合し、畏るべき勢力を以て生の心 り、アンビション果して成すに足らざるか、生が生活は何に寄りて を支配し始めたり、此年は多少、生をして愉快に其日を送らしむる を得たり、或日飄然として家を出で、懷中には一錢の金をも持たず過・こさん、何を目的として世を送らんか、などゝ考〈れば考 ( る程 心を病まし、氣を痛め、終日臥床にありて涙と共に一二月を過ごし、 して東海道を徒歩し、鎌倉に遊びたり、抑も鎌倉は詩人に取りての 何時癒ゅべしとも思はれざりし、此に至りて生が父は何の原因より イタリーの如く、最も生の渇望して一見せんと欲するの土地なり し、何となれば其頃生の日常讀む所は重に日本の歴史にして、其歴起りし病とは知らねど氣鬱病とは知るものから、生を放って地方に 史中最も重要の事件は彼地に於いて演ぜられたればなり、又た或日旅行せしめたり、此は是れ生が旅行の嚆矢にして、爾後重もに旅行 を以て氣鬱を慰むるの機具となしたるも、端絡を此に開きしなり、 は獨り千葉地方に遊びたり、生は此時滿十三年にも足らぬ少年なり 共年五月、生は本鄕なる共慣義塾と云ふに入塾せしが、是れまた しも、活渡に之等の運動を試みけるは、實に生をして身を誤るの基 たらしめたり、何となれば生は既に自ら謂らく、斯くの如く活漫に生をして不愉快を感ぜしむる者の一たりし、 翌十六年三月、生は早稻田なる東京専門學校に入塾したり、生は 生活は過ぎ行く可しと、何ぞ知らん未だ一歳をも經ざる内、生の一 常に學間の仕方は自ら脩め自ら窮むる禪宗臭い説を持ち居けり、左 身は全くアンハッピイの占領する所とならんとは、 れば學校に在りても敎科書をしらべんよりは數多の書史に渉獵する 同十四年の十二月小學校の課程を終りて、卒業の式を擧げたり、 こと面白しと、日々書籍室に入りて漸く鬱を慰め居けり、 生は是より先き靑年社會にありて演説の稽古をなし居りければ、少 簡 翌十七年は生をして一度び怯懦なる畏懼心を脱却して、再びアン しは其心得もあるものから、演臺に上りて一演説を試みたる所、意 ナ 外の好評にて、其座にありし「明治日報」記者の如きは其雜報欄内ビションの少年火を燃え盛らしむるの歳にてありし、此時のアンビ ションは前日の共れとは全く別物にして、名利を貪らんとするの念 坂に、生を稱して奇童なりと云へり、 同十五年は生をして殆んど困死せしむべき程の一年なり、之等ア慮は全く消え、憐む可き東洋の袞運を恢復す可き一個の大政治家と % ン ( ッピイの第一着は、我が極めて親愛せる善良の敎師谷口氏の去なりて、己れの一身を苦しめ、萬民の爲めに大に計る所あらんと熱 2 心に企て起しけり、己れの身を宗敎上のキリストの如くに政治上に て北海道に行ける事之れなり、其第一一着は、生が新たに入學したる
17 宿魂第 獨坐無言の芳一一一を騒がして入り來るは最前の乙女。はい、今しがたなったらと、それは譯も無い事、何處か馬鹿堅いに賴んで、め そと・て . はた・こや 黐田氏 ( 執事の名 ) を賴んで近所の覊亭に屆けてもらひました。我った外出もならぬゃうに爲して置けば、その内には氣が變るといふ も直ぐに行くからとは言ひましたが、それは先づ明日の事と、言ふ事もあらう。何に氣が變らなかったら、と、そんな無益らぬ事は度 顔を眺めて、何故今夜御出なさらぬ、而うして泊って御出でなされ止て下され、あれ、あの跫音は、あれは確かに輻田、斯うして居て ゆっくり ば宜いに。ハ、そんな口を、どこから、學校から覺えて來てか、華は惡るからう、さ、さ、早く、早く、また複々話しませうぞ。 族女學校には惡い敎師が居ると見える、それよりは昨日のロング オヤ何處かへ御出なさるの、荷物を造らへて。と突然聲懸けて入 フヱローの詩は何うなされし、能く解かりましたか。イヱ解りませ おくがたどちら り來しは彼の弓子。前回に物語りし事ありてよりは一月程も過ぎし ぬ、解からぬ事は矢張り解りませぬ。また共んな事を、夫人は何方 おくがた へか御出掛なされたか。例の龜野様と、あの舞蹈會へ。舞蹈會、何或朝の事なり。昨晩夫人から斷りが出ましたから。と見向きもせす とう、ま - どあなた 故、貴壤も御出なさらぬ。イヱ舞蹈會は大嫌ひ、あの龜野も大嫌して言ふは芳三。母が何を言ひましても、父様が未だ御歸りになら あなた ないから。と悲しげに言ふは弓子。イヱそれでも斷りが出てから此 ひ。嘘を、あの龜野は貴孃に、大の大の大執心だと云ふ事を聞まし どちら どちら たに。それは向ふの御勝手、妾は大の大の大嫌ひ、母ですよ龜野が處に居るのは、快よくありませぬ。さうして何方へ。何方と言って 十き 大好といふのは、いつでも、やれ舞蹈、やれ夜會と、一所に行きま格別行くところはありませぬ、まあ學校にでも、イヱ學校では此節 すが、それは母ばかり、それよりも、それよりも。それよりもが何の民黨ばやりに、學校の友人も敎師も戸澤欽官の提灯持ちと、この みさげ ばかり かたて てごめ あなた うしました。人を、貴郞は。と言ひさま、何事ぞ、男の隻手を手込芳三を輕卑るから、講堂にも最う三月計は出ないで居たから、試驗 前になって行くのも面白くない。それでは何處に。田舍にでも。田 に引寄せて、花の如きロ唇に押當てしが、いた / 、 / 、と男の聲の 下に、あやしやポロ / 、と落つる乙女の涙。 舍、あの白河に。左様、もう斯うなっては、東京に居るのも何だか これ阿弓さん、赦して下され、我が惡るかった、何も其んなに泣うしろめたいから。何か惡るい事でも爲されたの。イヱ惡るい事は ハンケチ わしもちまへ く事は無い、サ、サ、この手巾で顏を拭いて、オ、善い兒になっ爲ませぬ。氣の弱い事を。氣の弱いは我の持性。田舍に御出なされ わし たらこの妾は。何うなと爲さるが宜し、あの龜野といふ方もあるの た、善い兒になったら能く聞いて下され、成程あの阿梅と我との間 に許嫁のある事は我も豫て聞知って居る、知っては居れどそれは親に。何うかなすったの、昨夕一晩寐ずに御出なすったの、母がまた わし の勝手で爲た事、我と阿梅に何の約束があるではなし、昔なら知ら何か酷い事でも言ひましたか。左様、我の事を薄のろだの、厄介物 わたし いひなづけ ず今明治の御世に、言名付の何のと、親の定めた嫁御寮を大事がつだの。イヱあれは母の氣質、それほどの事を辛抱して、妾の様に笑 おやち て拜領する馬鹿ものは一人も無し、成程あの孫兵衞といふ老爺に學って居て。イヤ笑って居るといふ事は我には出來ぬ。そんなら阿梅 資なにがしは助力を受たが、それは金づく、金づくなら何千圓が何さんは。あれは矢張廱布に。連れて御歸りなさるの。なに、馬鹿 萬圓でも、後になって、元金利子耳を揃へて返濟して遣れば、何もを。白河のどちら。白河は白河、白河在。御手紙は下さるの。上げ 面倒な事があらう筈なし、法律さへあれば天下は樂々と治まる當世ます、上げられたら。あれ誰やらが妾を呼んで居る、悲しいことに きっときっと なりましたね、必よ必よ、忘れては下されますな。また後に來られ に、その法律を學んで居る我に何の其處等の拔目があらうぞ。イヱ たら、それまでは待って下さいよ。と涙ぐみて出でゝ行く。 それでも。イヱそれでも、とは、何に、あの阿梅が東京に居る様に いひたづけ いつも わたし
かぎ 萬象を包みて餘すことなく、而してこの廣大なる心が來り臨みて人観る事を許せども、その祕宮には各人之に鑰して容易に人を近かし みや めず、その第一の宮に於て人は共處世の道を講じ、其希望、其生命 間の中にある時に、渺々たる人間眼を以て説明し得べからざるもの の表白をなせど、第二の祕宮は常に沈冥にして無言、蓋世の大詩人 を世に存在せしむるなり。 吾人は墮ちて世間にある事を記憶せざるべからす、出世間の出世をも之に突入するを得せしめず。 今の世の眞理を追求し、德を修するものを見るに、第一の宮は常 間の事を行ふより、在世間の出世間の事を行ふの寧ろ大にして、眞 なる事を記憶せざるべからず。基督の敎理も亦た鉉に存す、彼は遁に開けて眞理の威力を通すれど、第二の宮は堅く閉ちて、眞理をし 世を敎へずして世にうち勝っことを敎へたり、彼は世の大とするもて其門前に迷はしむるもの多し。第一の宮に入るの門は廣けれど のを斥けて小とし、世の小とするものを擧げて大とせり、彼は學者も、第二の宮の門は極て狹し。第一の宮に入りたる眞理は、未だ以 法律家等を責むるに僞善者の名を以てし、却りて最も小額の義財をて其人を生かしむるものにあらず、又た死せしむるものにあらず、 たねま に獻ずるものを激賞したり、その斯く敎へたるもの、要するに人喝、第一の宮に善根を種き懺悔をなすは、凡人の能はざるところに かう 間の中に存在する心は至大至重のものにして、俗眼大小の以て衡すあらず、この凡人豈に大遠に通ずる生命と希望とを、いかにともす べきにあらず、學間律法の以て度測すべきものにあらず、小善小仁るものならんや。輻音何物ぞ、救何物ぞ、更生何物ぞ、是等の物を の以て論ずべきにあらざるを示せしに外ならず。 輕侮し、玩弄し、徒らに説き、徒らに談じ、徒らに行ひ、徒らに思 小善小仁は滔々たる天下之を爲すに難きもの多からず、大善大仁ひ、第一の門までは蹈入らしめて第二の門を堅く鎖すもの、比々皆 はいかなる人にして始めて行ふを得むか。 是れなるにあらずや。尤も笑ふべきは、當今の宣敎師輩が「輻音」 みだりげん の字句に禪力ありと信ずる事なり。彼等は漫に言を爲して日く、「輻 敎會内にて、つまらぬ批評眼をもって他の小惡小非を穿つものに あらは は、敎會内の小善小仁すらも旌し易からず、而して今日の敎會の多音の説かる長ところ必らず救あり」と、而して彼等は輻音を説かず 數は斯くの如くなるを悲しむなり。夫れ小善小仁は、古への。ハリサして、其字句を説く、自ら基督を負ふと稱して、基督の背後に隱る イ人能く之を爲せり、彼等は敎會にて威嚴を粧ひ、崇敬をあらはる惡魔を負ふ、咄、輻音を談ぜんとするもの、何ぞ天地至大の精氣 に對して、極めて眞面目なる者とならずや。其第一の宮を開きて、 し、小惡小非行を愼しむ事、今の俗信仰にまさり、 、善小仁を行ふ い ~ 、 A : っ 事、今の所謂基督敎信者なるものに幾等か加ふるところありし、然第二の宮を開かず、心あるも心なきに同じ。己れ寒村僻地より來 みた まむしすゑ り、國家の大に愛すべきを知らずして、叨りに自利自營を敎へ、己 るも基督は之を排して、蝮の裔とまで罵りぬ。 宮宗敎の本意、豈に狹穿なる行爲の抑制にあらんや。われは、敎會れ無學無識を以て自ら甘んじながら、人に勸誘するところ「學問」 'G の義財箱にちゃらノ \ と響きさして、振り向きて傲り顔ある僞善家を退ぞけ、聖經のみを奉ぜよと謂ひて、以て我が學間界以外の小人 宮を惡むと共に、行爲の抑制を重んじて心の廣大なる世界を知らざる に結ばんとし、己れ文學美術の趣味、哲學の高致を解せざるが故 とほざ 人ものをあはれむ事限りなし。何事ぞ、人間を遇するに鞭を用ひて、 に、愚物を騙罔して文學を遠くべしと謂ふ、斯くして一國の愛國心 かく 各 其行住坐動を制せんとするが如きは。宗敎豈斯の如きものならんをも一國の思想をも一國の元氣をも一國の高妙なる趣味をも盡く苅 ゃ。 盡して、以て輻音を布かんとす、何すれぞ田園の沃質を洗滌し盡し 5 みや みや 6 心に宮あり、富の奥に他の祕宮あり、その第一の宮には人の來りて、然る後に菓木を種ゆるに異ならんや。心の奧の祕宮の門を鎖し しか じん がいせい