未だ以て眞正の詩歌界に於ける月桂冠とは云ふべからざるなり。吾 6 ⑨創造的勢力の淵源 野人は「早稻田文學」と共に、少くとも國民大の思想を得んことを希 望すること切なりと雖、世の詩歌の題目を無理潰りに國民的問題に 吾人は再び日ふ、今日の思想界に缺乏するところは創造的勢力な 限らんとする輩に向ひては、聊か不同意を唱へざる可からず。「國りと。模倣、卑しき模倣、之れ國民の、尤も悲しむべき徴候なり、 民之友」曾って之を新題目として詩人に勸めし事あるを記憶す、寔我は英國文學を唱道すと宣言し、我は獨逸文學を唱道すと宣言し、 に格好なる新題目なり、彼の記者の常に斯般の事に烱眼なるは吾人我は佛國文學を唱道すと宣言す、その外に又た、我は英國思想を守 の私に畏敬する所なれど、世には大早計にも之を以て詩人の唯一のると日ひ、我は米國思想を傳ふと日ひ、我は何、我は何と、各よ便 みだ 題目なる可しと心得て、叨りに所謂高蹈的思想なるものを攻撃せん利の思想に據って、國民を率ゐんとす。而して又た、少しく禪道を とする傾きあるは、豈に歎息す・ヘき至りならずや。詩人は一國民の謂ふものあらば、印ち固陋なりと罵り、少しく元祿文學を道ふもの かりそめ 私有にあらず、人類全躰の寶匣なり、彼をして一國民の爲に歌はしあらば、印ち苟且の復古的傾向なりと日ふ。嗚呼不幸なるは今の國 めんとするの餘りに、彼が全世界の爲に齎らし來りたる使命を傷ら民かな。彼等は洋上を渡り來りたる思想にあらざれば、一顧の價な しめんとするは、吾人其の是なるを知らず。 しと信ずるの止む・ヘからざるものあるか。彼等は摸傚の渦卷に技げ 然りと雖、詩人も亦た故國に對する妙高の觀念なきにあらず、邦られて、何時まで斯くてあらんとする。今日の思想界、逹士を俟っ 國の區劃は彼に於て左までの事にはあるまじきが、その天賦の氣禀こと久し、何ぞ奮然として起り、十九世紀の世界に立って恥づるな に於て、少くともその國民を代表する所なき能はず。之を以て・ハイ き創造的勢力を、此の國民の上に打ち建てざる。復古、爾も亦た賴 ロンは如何にその故國を罵るとも、英國の一民たるに於ては終始變むべからず。消化、爾も亦た賴むべからず。誰か能く剛強なる東洋 るところなく、深く之を其の著作の上に印せり。之を以てレッシン趣味の上に、眞珠の如き西洋的思想を調和し得るものぞ、出でよ詩 わた にしいま、 グは佛國の思想がフィン河を渉りて、縱に其の鄕國の思想を橫領人、出でよ眞に國民大なる思想家。外來の勢力と、過去の勢力と するを惡みて、大に國民の夢を醒したり。斯く詩人も亦た其の鄕土は、今日に於て既に多きに過ぐるを見るなり。缺くところのものは の愛國者たるは、拔くべからざる天禀の存するあればなるべし。 創造的勢力。 ( 明治一一十六年七月十五日「評論」八號 ) 詩人豈に國民の爲にのみ産れんや、詩人豈に所謂國民的なる殃少 なる偏見の中にのみ限られんや、然れども事實に於て、詩人も亦た なをう 愛國家なり、詩人も亦た國民の中に生くるものなり。拿翁の侵略に なをう 遭ひて國亡び、家破れんとするに當りて、從容として、拿翁の玉座 に近づき、彼をして言ふ可からざる敬畏の念を抱かしめたるギョー しかばね テが、戰陣に臨みて雜兵の一人となり、尸を原頭に暴らさゞるの 故を以て、國民的ならずと罵るものあらば、吾人は其の愚を笑はず んばあらざるなり。
下にあらんやと。 4 も多く人間の邇命を示すもの、部ち、此目的に適合する事尤も多き 姉の頭にはデモクラシー ( 共和制 ) と云〈る銀簪燦然たり、イン者なるを。斯の如く余はインヂビジュアリズムの信者なり、デモク チビヂュアリズム ( 個人制 ) といへる花釵きらめけり、クリスチア 一フシ 1 の敬愛者なり。然れども、 / ・モフリチーも亦た飾られたり、眞に之れ絶世の美人なり。而し 局國民の元氣 て妺の頭には祖先の血によりて成りたる毛髪の外、何の有るなし。 妺の形は悄然たり、姉の面は嬌妖たり。妹の未然は悲的なり。姉 國民の元氣は一朝一タに於て轉移すべきものにあらず。其の源泉 の將來は希望的なり。姉を娶らんか、妹を招かんか。國民よ少しく。 は隱れて深山幽谷の中に有り、之を索むれば更に深く地層の下にあ 省みよ、爾の中に爾の生氣あらば、爾の中に爾の希望あらば、爾のり、砥の如き山、之を穿っ可からず、安くんぞ國民の元氣を攫取し 中に爾の精神あらば、安くんぞ此の婚嫁によって爾の大事を決せんて之を轉移することを得んや。思想あり、思想の思想あり、面して とするを要せむ。この二娘子の一を娶らざるべからずと信ずる勿又た思想の思想を支配しつべきものあり、一國民は必らず國民を成 れ。止むなくんば多妻主義となりて、この二娘を合せ娶れよ、汝はすべき丈の精を有すべきなり、之に加ふるに醫術を以てし、之 この婚嫁によりて爾の精榔を失迷せしむべからず、然り、爾に大なを率ゆるに輕業師の理論を以てするとも、國民は頑として之に從ふ る元氣 (Genius) の存するあり、一夫一妻となるも、一夫多妻となべからざるなり。渠を圍める自然は、渠に與ふるに天然の性情を以 るも、爾の元氣に於て若し缺損するなければ、爾は希望ある國民なてし、渠に賦するに「特異の性格を以てす、是等の性情、是等の性 格は、幾千年の間その國民の活動の泉源たりしなり、その國民の精 神の滿足たりしなり。國民も亦た一個の活人間なり、その中に意 國民の一致的活動 あり、その中に自由を求むるの念あり、國家てふ制限の中に在て其 凡そ一國民として缺く可からざるものは、其の一致的活動なり。 の意志の獨立を保つべき傾向を有せずんば非ず。以太利は如何に斧 活動、われは之を心性の上に於て云ふ、政事的活動の如きは我が關 鉞を加へて盛衰興亡の運命を悟らしむるも、其の以太利たるは依然 り知る所にあらざればなり。凡そ心性の活動あらずして、外部の活として同じ、獨逸も亦た斯の如し、佛蘭西も亦た斯の如し。國民の 動あるはあらず、思想先づ動きて動作生ず、ルーソーあり、ポルテ 元氣の存する處に其の豫定の運命あり。死すべきか、生くべきか、 1 ルあり、而して後に佛國の革命あり。國民の鞏固なる勢力は、必塢呼一國民も亦た無常の風を免れじ、逹士世を訊ずる時、宜しく先 らず一致したる心性の活動の上に宿るものなり。此點より察すれづ命運の歸するところを鑑むべし、若し我が國民にして、果して秋 ば、國民の生命を證するものは、實に其制度に於て、能く國民を一 天霜滿ちて樹葉、黄落の曉にありとせんか、須らく男兒の如く命 致せしむる舞臺あると否とに存せり。何を以て、國民に心性上の結を迎ふべし、然り、須らく男兒の如く死すべし、國民も亦た其の天 合を與 ( ん。如何なる主義を以て、此の目的に適ひたるものとせ職あるなり、其の威嚴あるなり、其の死後の名あるなり、其の生前 ん。如何なる信條を以て、此の目的に合ひたるものとせん。吾人はの氣節あるなり。之を破らず、之を折らず、而して能く生存競爭の びやうどう 多言を須ひずして知る、尤も多く並等を敎ふるもの、尤も多く最多國際的關係を、全うし得るの道ありや否や。 數の幸輻を圖るもの、尤も多くヒューマニチーを發育するもの、尤 デモク一フシー ( 共和制 ) を以て、我國民に適用し、根本の改革を ゑっ
今日の夕方までといふのであって、今がもうやがてその時刻だと思は國法を蹂躙するも已むを得ないといふ考を公表するのを見ては、 かくひっ ぼつぶんげう ふので、殘念ながら、これで擱筆します。 その人の餘りにも沒分曉なるに唖然たらざるを得ないのである。 この次ぎには、責めてもう少し考だけでも何とか纏まったものを 吾々は、國家は國法に依って維持されて居るものと考へてゐる。 うがふ さし上げる積りで居ます。 國にして國法なくば、それは國ではなくして、人間の唯鳥合して居 ( 十二月十一日夕 ) る集團に過ぎないのだと考へて居る。吾等は國家と國法とは不可分 ( 大正九年一月「黒煙」 ) のものだと考へて居るのだ。國法はその國に住む總ての人々の間の 公の約束であって、これがなければ、人民は據るところがないの で、名々勝手なことをする譯になるので、國といふ如き組織的な團 體は成り立ちゃうはない。 ぐわんめい 大杉君夫妻がさういふ頑冥な考の爲めに犧牲にされてしまったこ とは、殊に悼むに餘りあることである。 大杉君夫妻の死によって、世間の正義の考が喚起されて、軍憲な どの間に潜んでゐる頑冥な考が一掃される機縁を作くるといふこと になるのならば、大杉君夫妻の死も全然大死とは云へぬことになる のであらうが、大杉君夫妻を善く知って居った吾々に取っては、そ れにしても餘りに大なる犧牲であるやうに思はれる。 大杉榮君と伊藤野枝君が、官憲の手で慘殺されたといふことは、 然しながら、何と云っても、大杉君夫妻はもう此の世にはゐな 何だかまだ本當の事ではないやうな氣がしてし方がない。國法執行 い。あのぶらっきぼうのやうで、何處からか温情の溢れて來るやう の職にある官吏が、國法を無視して、殘虐を行った今回の如き例 な感じのする大杉君にも、如何にも優しみのある、何時までも娘ら あつれき は、官民の軋轢甚しかった明治十五六年頃にさへなかったことであしい可愛らしい笑顔を失はなかった野枝君にも、もうふたゝびその るので、文明の世での事件としては、それが眞實の出來事であると聲を聞き、その風貌に接することはできないのだ。僕は先づ大杉君 君は、一寸首肯し兼ねるやうな氣がするのだ。 のことを思ひ出づるまに左に記して、大杉君を悼むの意を表した 大國法を犯さゞる者は、國法の前では何人も平等に無辜であるとい いと思ふ。 し ふ原理は、吾々は訷聖なるものであると思ふのであるし、又人命の 人何處までも奪重すべきものであることを確信する吾々は國法擁護、 靆人命保護の任を托された官吏が、よしそれが如何なる下級の者ども 大杉君の所謂主義に就ては、僕は多く言ふことを持ってゐない。 にもせよ、私見に由って公の機關を動かして、その職任に全く背反僕は大杉君の主義を論評するに足る知識を持ってゐないのだ。大杉 した暴虐を敢てして置いて、それは唯個人としてなした行爲である君が如何なる主義を持ち、如何なる終極の目的に向って活動してゐ と揚言し、更に又國家あっての國法であるのだから、國家の爲めに たにしたところで、その主義の行はれるのは、その終極の目的に達 善き人なりし大杉君 じうりん
6 9 の反響なり、故に天下の蒼生が朝夕を安ずること能はざる時に當り 吾人をして、此相敵視せる二大潮流を観察せしめよ。 て、超然身を脱して心を虚界に注ぐべしとするにあらす。畢竟する 極めて解り易き名稱にて之を言へば、其一は東洋思想なり、其二 に詩文人は、其原素に於ては兵馬の人と異なるなきなり、之を詩人は西洋思想なり、然れども此一一思想の内部精禪を討ぬれば、其一は かたらづく かたちづく に形り、之を兵士に形るものは、時代のみ。國民は常に活動を公共的の自由を經驗と學理とによりて確認し、且握取せる共和思想 欲するものなり、國民は常にその巨人を造るなり、國民は常にそのなり、而して其二は、長上者の個人的の自由のみを承認して、國家 巨人によって其精祺を吐くものなり、國民は常に其精紳を吐きて、 公共の獨立自由を知らず、經驗上にも學理上にも國家には中心とな りて立つべきものあるを識れども、各個人の自己に各自の中心ある 盛衰の運を迎ふるものなり、精禪の枯る乂時、巨人の隱る時、活 動の消ゆる時、國民は既に衰滅の徴を呈するものなり。之を以て、 ことを認めざる族長制度的思想なり。 巨人は必らず國民の被造者にして、而して更に復た國民の造物者た 明治の革命は既に貴族と平民との堅壁を打破したり、政治上既に らずんばあらず。國家事多ければ、必らず、能く天下を理する人起斯の如くなれば、國民内部の生命なる「思想」も亦た、迅速に政治 革命の跡を追躡したり、此時に當って横合より國民の思想を刺撃 るなり、國家德乏しければ、必らず、聖淨なる君子世に立つなり、 國家安逸ならば、必らず、彼の一國の公園とも云はるべき詩文の人し、頭を擧げて前面を眺めしめたるものこそあれ、そを何ぞと云ふ に、西洋思想に件ひて來れる ( 寧ろ西洋思想を抱きて來れる ) 物質 起るなり、若し此事なくば國家は半ば死せるなり、人心は半ば眠り たるなり、希望全く無き有様に近きなり。讀者よ誤解する勿れ、吾的文明、之なり。 輻澤諭吉氏が「西洋事情」は、寒村僻地まで行き渡りたりと聞け 人は偏狹なる理論に頑守するものにあらず、吾人は國民をして、出 。然れども泰西の文物を説敎するものは、泰西の機械用具の聲に 來得る丈自由に其精禪を發揮せしめんことを希望するものなり。宗 敎に哲學に、將た聰明に、國民は常に其耳を傾けてあるなり、而してありき、一般の驚異は自からに崇敬の念を起さしめたり、文武の て「時代」なる第一一の造化翁は國民を率ゐて、その被造物なる巨人官省は洋人を聘して改革の道を講じたり、留學生の多數は重く用ひ られて一國の要路に登ることゝなれり、而して政府は積年閉鎖の夢 の説敎を聞かしむるなり。 を破りて、外交の事漸く緒に就くに至れり、各國の商賈は各開港場 明治初期の思想は實に第二の混沌たりしなり。何が故に混沌とい に來りて珍奇實用の器物をひさげり、チョンマゲは頑固といふ新熟 ふ。看よ、從來の紀綱は全く弛みたりしにあらずや、看よ、天下の 人心は、すべての舊世界の指導者を失ひて、就いて聽くべきものを語の愚弄するところとなれり、洋服は名譽ある官人の着用するとこ 有たざりしにあらずや、看よ、儒敎道德の大半は泰西の新空氣に出ろとなれり。天下を擧て物質的文明の輸入に狂奔せしめ、すべての 會ひて、玉露のはかなく朝暉に消ゆるが如くなりしにあらずや。然主的思想は、舊きは混沌の中に長夜の眠を貪り、新らしきは春草 れども此混沌は原始の混沌の如くならず、速に他の組織を孕まんと未だ萠え出るに及ばずして、モーゼなきイスラヱル人は荒原の中に する混沌なり、速に他の時代に入らんとする混沌なり。而して此混さすらひて、靜に運命の一轉するを俟てり。 斯の如き、變遷の時代にありては、國民の多數はすべての預言 沌の中にありて、外には格別の異状を奏せざるも、内には明らかに 二箇の大潮流が逆卷き上りて、一は東より、一は・西より、必らず或者に聽かざるなり、而して思想の世界に於ける大小の預言者も亦 た、國民を動かすに足るべき主義の上に立っこと能はざるなり。之 處にて衝當る・ヘき方向を指して進行しつゝあるを見るなり。 トランジション たづ
なさんとするが如きは、極めて雄壯なる思想上の大事業なり、吾人るの眼なり。 は其の成功と不成功を論らはず、唯だ世人が如何に諭淡に此の題目 思想界には地平線的思想と稱すべき者あり、常に人世の境域にの あっ を看過するかを怪訝しつ、あるものなり、吾人は寧ろ進歩的思想にみ心を注め、就界を改良すと曰ひ、國家の輻利を増すと日ひ、民衆 の意向を率ゆと曰ひ、極て雜なる目的と希望の中に働らきっゝあ 與するものなり、然りと雖、進歩も自然の順序を履まざる可から ず、進歩は轉化と異なれり、若し進歩の一語の裡に極めて危險なる り。國民は尤も多く此種の思想家を要す、凡そ此種の思想家なき所 には何の活動もなく、何の生命もなし、然れども記憶せよ、國民は 分子を含めることを知らば、世の思想家たる者、何ぞ相戒めて、如 何に眞正の進歩を得・ヘきやを講究せざる。國民のヂニアスは、退守此種の思想家のみを以て甘んずべきにあらざるを。眞正のカルチュ ーアを國民に與ふるが爲には、地平線的思想の外に、更に一物の要 と共に退かず、進歩と共に進まず、その根本の生命と共に、深く且 かた っ牢き基礎を有せり、進歩も若し此れに協はざるものならば進歩にすべきあり。 あらず、退守も若し此れに合ざるものならば退守にあらず。 ⑦高蹈的田 5 想 地平線的思想 吾人は之を高蹈的田 5 想と呼ぶ、數週前に民友先生が言はれし高蹈 政事の論議に從事し、一代の時流を矯正して、民心の歸向を明ら派といふ文字と、其意味を同うするや否やを知らず。吾人は實に地 かにする思想家、素より偏見僻説を頑守し、衆を以て天下を脅かす平線的思想の重んすべきを知ると雖、所謂高蹈的思想なるものゝ一 てき 的の所謂政事家なるものに比較すべきにあらず。然れども共の説く 日も國民に缺くべからざるを信ずるものなり。ヒューマニチーを人 ところ概ね卑近にして、俚耳に入り易きの故を以て、人之を俗物と 間に傅ふるは、獨り地平線的思想の任にあらず、道德は到底固形の 稱す。吾人は、斯の如き俗物の感化が、今の米國を造り、今の所謂善惡論にあらざれば、プ一フトーの眞善美も、ミルトンの虚想も、人 文明國なるものを造るに於て大なる力ありし事を信ずる者なり。凡 間をして正當に人間たる位地に進ましむるに、浩大なる裨益あるこ そ適切なる感化を民衆に施こして、少歳月の中に大なる改革を成就とを信ずるなり。ヒューマニチーは瓧會的義務の爲めにのみ存する キャラクター すること、多くは謂ふ所の俗物なるものゝ力にあり、マコーレーもにあらず、人間の性質は倫理道德の拘束によりてのみ建設すべき 或意味に於ては俗物なり、ヱモルソンも或意味に於ては俗物なり、 ものにあらず、純美を尋ね、純理を探る、世の詩人たり、學者たる カルチューア 彼等は實に俗物なりしが故にグレートなりしなり。敎養は素と自者、優に地平線的思想家の預り知らざる所に於て、人類の大目的を 然を奪びて、眞朴を主とするものなり、古より大人君子の成せしと成就しつゝあるにあらずや。 ころ、蓋し之に過ぐるなきなり、平坦なる眞理は遂に天下に勝っぺ ⑧何をか國民的思想と謂ふ し、此意味に於て吾人は所謂俗物なるものを崇拜するの心あり。然 民れども、爰に記憶せざるべからざることあり。世間幾多の平坦なる 必ずしも國民といふ題目を以て詩歌の材とするを、國民的思想と 眞理を唱ふるもの乂中には、平坦を名として濫りに他の平坦ならざいふにあらざるなり。マルセーユの歌に對して製りたる獨逸祖國歌 おるものを罵り、自から謂〈らく、平坦なるものにあらざれば眞理には非常の賞賛を得て、一篇の短歌能く末代の名を存せしと聞く。然 あらずと。斯の如きは印ち眞理を見るの眼にあらずして、平坦を見れども是れ賞賛のみ、喝のみ、一の國民の私に表せし同情のみ、
に當りても、彼は滿足したる傍観者にてありき。彼は一度び宗教上於て之を確かむることを得るなり。この奇有なる宗敎、自由、民 の講壇に立てり、否な之れを以て畢生の天職とまで思ひ込みし事あの國はヱマルソンに注集して然る後ヱマルソンより傾瀉せられた りしなり、然れども彼は良心の故を以て自ら之を棄てたり。彼は到 り。この偉大なる成果 ( 近頃の言葉にて事業 ) をなすが爲には、彼 底コンフォーミストたる事能はざるなり。衆を以て輿論を制する所は彼の時代を彼の一身に集めざるを得ず、之を以て彼は宗敎界に立 謂政治的運動なるものは彼の尤も疾惡する所なり。舊式に泥み、舊ちては、一般の敵となれり、政治界に立ちては退隱の立法者となれ 法に拘はる所謂宗敎的敎養なるものは彼の遂に自ら堪ゆること能はり、詩界に立ちては自らの哲理を歌ふの外に餘暇なき詩人となれ ざるところなり。彼は聖餐を論じて、聖職を去るに當りて自ら日り。思想界に立ちては廣ろく世界觀の沈思家とならざるを得ざるに く、人の之を守るは余に於て何の異存あるなし、只だ余は之を守る至れり ホストン近傍に 亞米利加の民は思辨の民にあらず、彼は之を知れり。亞米利加の 能はずと言ふのみと。彼は多くの友を持っ能はず、 : 住へる僅少の思想家が時に彼の靜默を破るのみにして、世に言ふ八民は理解力の民にあらず、彼は之を知れり。亞米利加の民は莊重の 方美人たるは彼に於て爲し得ざるところなり。要するに彼は漸次に民にあらず、彼は之を知れり。亞米利加の歴史的高大の以て天下に 彼の境地を狹め行けり、ノンコンフォー、、、ストたる彼は漸次に孤煢誇るべきなし、彼は之を知れり。亞米利加は兵力を以て世界に雄視 單獨の身となれり。而れども之と同時に、彼は思想の本地に於て、 すべき國にあらず、彼は之を知れり。之を知れるは心を以てなり、 奇しきまで偉大なる人物となれるなり。彼は前にも言へる如く滿足精訷を以てなり。然れども之と共に彼の知れる事あり。亞米利加は したる新世界 ( 米國 ) の新民なり。彼は新世界の粹美を着服して己英國及び歐土の粹を拔きて持ち來れること之なり。宗敎上の自由の れの用に供することを厭はず、彼は迂濶なる慕古者を笑へり。彼は爲に萬里の險を犯して、移住し來りたるもの部ち米國の中心を成せ 過去の枯骨の中に盲摸するの愚を嘲れり。彼は今日も亦た昔日と同ること之なり。亞米利加は新らしき國にして故るき國々の諸よの制 じ太陽を仰ぐにあらずやと言へり ( 自然論序論 ) 。彼は古の善きは度文物を適用するを得ること之なり。亞米利加は傅説若しくは謬信 自然なるが故なりと言へり ( 詩人論 ) 。斯の如く彼れは滿足したる の深く根蔕を据ゑたるものを見ざるなり。亞米利加は不覊自由の民 を棲息せしむるに宜しく、全く個人主義の應用を見るを得ること之 新民なり。然れども記憶せよ、彼は米國の思想の潮流に滿足したる にあらざるを。彼の滿足したるは彼の身邊に新共和國の新精禪を引なり。亞米利加は土地廣ろく希望多く、活きたる生命にてること これら き付けたればなり。この精禪の上に堅く立ちて、彼は靜かに現代の之なり。斯等の事をも亦た、彼は心に於て之を知れり、精神に於て 思想に對する逆航者となれり。頃日米國より歸朝したる信憑すべき之を知れり。彼が立っぺからざるところ彼に於て明らかなると共 學士の説きしところを聞くに、米國の宗敎界及び一般の思想界は著に、彼が立つべきところも亦た彼に於て昭々乎たり。爰に於て彼の 自信は彼を導きて、一の新らしき哲理、故るくして新らしき哲理 るしき變革をなせりと言へり。吾人の彼の洲の事物に接する毎に、 ル マ或は雜誌に或は書籍に、或は見聞に、吾人は彼の洲の最早著るしきを、部ちヱマルソン的哲理の光を、コンコルドの寒村より晃々とし 變革を成し遂げんとするに近きを疑ふ能はず。此の希有なる宗敎て放ち出でしめたるなり。 この光の爲には彼の超然派と稱する一種の思想家の團躰は、先驅 確國、此の希有なる自由國、此の希有なる民立國は、ヱマルソン及び 彼の同志によって、前の紀元より後の紀元に移りし事實は、今日にとして物質的形式的の思想界に其の道を開けり。歐洲に於けるカン ナチュラル しか
( 聖文閣昭和一四・一一 l) ( 「明治大正文學研究」昭和ニ四こニ ) 吉田精一「北村透谷の浪漫主義」 高木市之助「楚囚之詩」 ( 「國文學誌」昭和一五・三 ) 吉田精一「雙蝶のわかれ ( 近代詩鑑賞 ) 」 ( 「自然主義の研究」上東京堂昭和三 0 ・一一 ) ( 「解釋と鑑賞」昭和二五・二、 關良一「透谷と風雅」 ( 「寒雷」昭和一五・一一 ) 三 ) 内藤洋子・倉田久子「北村透谷」他 ( 「近代文學研究 太田三郎「『蓬莢曲』とマンフレッドの比較研究」 榊原美文「北村透谷の『蓬莢曲』について」 叢書 2 」昭和女子大學光葉會昭和三一・四 ) ( 「國語と國文學」昭和一一五・五 ) ( 「國文學研究」昭和一五・一二 伊藤整「日本文壇史 3 ( 第一章ー第六章 ) 」 「近代日本文學の研究」所收 ) 增田五良「文學界のころ」 ( 講談瓧昭和三 0 ・五 ) ( 「朝日新聞」昭和ニ五・六 ) 禪崎清「北村透谷と石坂美那子」 ( 「現代日本文學 勝本淸一郞「谷文學の生命」 ( 「透谷全集」第一卷・ ( 「日本近代靑春史」書物展望社昭和一六・七 ) 勝本淸一郞「解題」 全集 4 」筑摩書房昭和三一・一 0 ) 第ニ卷岩波書店昭和ニ五・七、九 ) 稻垣逹郎「北村透谷」 ( 「月刊文章」昭和一七・四 ) ( 右同書 ) 小田切秀雄「解説」 ( 「文濠」昭和一七・八太田三郎「エマソンの先驗思想と透谷」 小田切秀雄「透谷と政治」 片桐禎子「透谷に於ける美の観念」 ( 「文學」昭和ニ六・ 「人間と文學」「近代日本の作家たち」等所收 ) ( 「文藝研究」二四集昭和三一・ 小田切秀雄「文學確立の基礎ー北村透谷の意味ー」太田三郎「透谷とパイロン・エマンン」 鈴木正「思想家としての谷」 ( 「解釋と鑑賞」昭和二七・三 ) ( 「法政大學新聞」昭和一七・一一右同書所收 ) ( 「思想」昭和三ニ・ 安住誠悅「北村透谷における『近代』」 山岸外史「北村澄谷」 ( 「國語國文研究」昭和二七・三 ) 勝本淸一郎「透谷と幻境」 ( 「明治文學作家論」小學館昭和一八・三 ) ( 「アカハタ」昭和三二・ 小原元「北村透谷」 平田禿木「「文學界前後」 ( 「現代文學總説」學燈社昭和一一七・四 ) 佐藤善也「『楚囚之詩』の成立について」 ( 「國語と國文學」昭和三三・ ( 四方木書房昭和一八・九 ) 遠山茂樹「日本近代化と透谷の國民文學論」 ( 「思潮」昭和二一・ 小田切秀雄「北村透谷論」 ( 「文學」昭和二七・五 ) 平岡敏夫「透谷年譜訂正私見」 ( 「解釋」昭和三三・五 ) 「人間と文學」「近代日本の作家たち」等所收 ) 草部典一「反戦文學者透谷」 良一「谷と自由」 ( 「新日本文學」昭和ニ七・五 ) 平岡敏夫「北村透谷のアンビション」上 ( 「末定稿」五號昭和三三・七 ) ( 「果實」三號昭和二二 ・こ橋浦兵一「『蓬莢曲』ー位相と本質」 ( 「文藝研究」昭和一一七・六 ) 大津山國夫「『三日幻境』の背景」 小田切秀雄「三人の靑年作家ー透谷・啄木・多喜 ( 「國語と國文學」昭和三三・ ( 「光」昭和二二 ・二「日本の永平和雄「北村淺谷ノート」 ( 「日本文學研究」昭和ニ七・七、八 ) 笹淵友一「北村透谷」 ( 「『文學界』とその時代上」 近代文學」「新文學人門」所收 ) 明治書院昭和三四・一 ) 小田原國民文學研究會編「透谷追慕展覽會目録」片岡良一「浪漫主義の成立ー北村透谷とその周 ( 小田原市立圖書館昭和二二・五 ) 圍」 ( 「法政大學通信敎育テスト」昭和二八柳田・勝本・猪野・小田切「座談會・近代日本文 學史五ー透谷を中心に」 勝本淸一郎「北村透谷の生涯」 ・一「日本浪漫主義文學研究」所收 ) ( 「文學」昭和三四・一「座談會明治文學史」所收 ) 良一「『蓬莢曲』と『琵琶法師』」 ( 「傳記」昭和二二・九、一一 l) 關 勝本淸一郎「透谷の文學的立場」 ( 「東京民報」昭和 ( 「國語」昭和一一八・九 ) 平岡敏夫「『楚囚之詩』の發想」 ( 「國語と國文學」昭和三四・三 ) ・一・一五、一六「近代文學ノート ) 所收 ) 安住誠悅「透谷試論ー『内部生命』の構造」 ( 「文學」昭和三 0 ・三 ) 平岡敏夫「北村透谷のアンビション」下 獻小田切秀雄「厭世詩家と女性」 ( 「靑春群像」眞 文 ( 「未定稿」六號昭和三四・四 ) 善美瓧昭和二三 ・二「近代日本の作家たち」等所收 ) 勝本淸一郞「北村透谷ベストスリー『蓬莢曲』『我 考 勝本淸一郞「日本平和主義運動の黎明」 牢獄』『一タ観』」 ( 「毎日新聞」昭和三色川大吉「『明治十七年讀書會雜記』について」 ( 「文學」昭和三四・六 ) ( 「日本評論」昭和一一三・ 谷 0 ・三・一四「作家とその名作」所收 ) 透家永三郞「北村谷における近代市民精」笹淵友一「北村透谷の内部生命観とキリスト敎」平岡敏夫「透谷の戀愛・入信の意味」 ( 「言語と文藝」昭和三四・九 ) ( 「人間」昭和二四・五「近代精とその限界」所收 ) ( 「國語と國文學」昭和三 0 ・四 ) 中村完「『内部生命論』其他」 猪野謙二「透谷から藤村へー文學史的素描ー」笹淵友一「透谷の『宿魂鏡』について」 ( 「日本文學」昭和二四・七「近代日本文學史研究」所收 ) ( 「國文學研究」昭和三四・九 ) ( 「文學」昭和三 0 ・五 ) 田中萬里子「劇詩『蓬莢曲』の悲劇の構造につい 1 石丸久「文學界運動の性格ー特に成立初期、勝本淸一郎「解題」「年譜」「系譜」等 ( 「日本文學」昭和三四・一一 ) 北村透谷を中心にー」 ( 「透谷全集」第三卷岩波書店昭和三 0 ・九 )
8 トの勢力は漸く大西洋の此岸にも、其の波動を打ち寄せたり。ゴ工然れども彼は彼の新敎理を詭けり。故るくして新らしき人性の上 % テの世界的智慧と稱する一種の魔力は始めに英國を振盪して、而る に、撓むべからず折るべからざる敎理をうち立てぬ。 後、漸く正に其進路を此方に向けっ乂あり。力アライルの猛烈にし 吾人をして聊か彼の敎理を知らしめよ、而して第一に彼の自然敎 て熱火の如き聲は今や酣に英國を轟ろかしつあり。此の際に當りを學ばしめよ。 て、ヱマルソンは温かなる春日の靜かに東天に冲るが如く、大西洋 余は之を自然敎と呼ぶ。或る批評家が謂ふ所の ReIigion of Na- の此濱に於て新らしき光を輝かし始めぬ。力アライルを羨めども敢 tu 「 e 之なり。自然敎とは自然を禮拜するの義にあらざるなり。 てカアフィルを學ばず。ゴエテを慕へども敢てゴエテを擬せず。カ 「自然」を恐怖し、若しくは崇畏したるべルシャ人、グリ 1 キ人は ントを究むれども敢てカントを祖述せず。自ら立っこと盤石の如遠く歴史の海の彼方に沈みたり。十八、十九兩世紀の哲學者が鋒を く、遂に不死不朽なる思想界の大天地に、コンコルドの哲人ヱマル並べて、研究に研究を重ねたる「自然」、之も亦たヱマルソンには ソンの地位を打ち立てたり。 甚だ大なる便益を與 ( たるにあらず。ヱマルソンの「自然」は自か ら異なれり。字義の解釋すら廣汎にして、他のものとは異なれり。 其五ヱマルソンの自然教 何方より彼は此の希代の妙珠を尋ね得しぞ。暫らく之を説かむ。 ヱマルソンは已に哲學者にあらず、然れども哲學を整排して、乾 彼は新らしき民として生れたり。血は之れを英國の人種に得しと 燥なる學理を温血ある敎理となせしものなり。彼は自ら言へり ( カ 雖も、彼は自ら能く新らしき人種たるを得るなり。歐洲のポジチー しストレッス たまもの アライルに與ふる書の中 ) 「余は雜尨の犠牲なり」と。然り、雜ルプの思想は、歐洲の休息なき心性の賚物にして、英獨佛等近世の歐 は彼の天職たりしなり。彼は己れが東道となりて、我土に歡迎した 洲國は、何れも此の種の心性によりて成り立たざるなし。羅馬の胎 りし「サルト・レザルタス」の熱中したる痛罵と、昻揚したる預言内より生れ出でし近世國は、この積極的の思想を以て、古代の消極 かけ 者らしき靈聲を發すること能はずと雖も、雜種雜様の部局に渡り 的心靈的の東洋國を破滅して、取って以て易れるなり。東洋に生れ て隈なく涯なく其の民を敎へたり。英國の批評家アーノルドは彼を たる基督敎は、彼等の西洋に入りて其の半面なる積極的敎理に蔽は 以て、羅馬のアウレリアス王に比せり。力アフィルもゴエテも存生れたり。歐洲は所謂事業の國として發逹せり、羅馬及希臘の潰物を 中に於て、彼の如く己れの思想の普及を見ること能はざりし點を以合せて、更に莊嚴高美の國として進歩せり。シヱークスピーアを生 てするも、アーノルドがアウレリアス王に比して彼を思想界に於けめり、ナポレオンを生めり。然れども彼等の中にありて、一の缺け る、帝王なき國の帝王としたるも敢て異しむべきにあらず。 たるもの、一の免がるゝを得ざる缺點、として知らる乂は、幽寂の ちから ニュー・イングランド へプライ 此の驚ろくべき權は果して那邊にか存するとせん。新英土に味之なり。波斯の如き、印度の如き、希來の如き古代國に見るとこ 於ける改革的の小噴火山は彼の近傍に於て、愈多く米國從來の宗敎ろの消極的の德、義、愛、善、美、等は彼等の中に其の面影を殘さ 及道德を打却しつゝありし間に、彼は如何に、打破せしか、建設せざるなり。彼等は能く理學を談ず、然れども理學の窮極は何ぞ。彼 しか、打破したるものは如何に、建設したるものは如何に。彼は一等は能く形而上學を談ず、然れども形而上學の終局は何ぞ。彼等は 方に向っては寧ろ此の噴火坑を埋めんと試みたるものなり、然れど 能く機械を邇轉するの民なり、能く物品を製造するの民なり。然れ も到底彼は舊式舊法の人にあらず、彼は打破もせす、建設もせず、 ども古代の靈高偉大なる觀念は彼等の中に存するなし。ヱマルンン ミセラニー
この年から再び明治學院に出講 ( 大正十五 五月、『英文學精講』を東亞堂書房、九月、 ( 四十四年七月まで ) 。この年結婚。 年まで ) 。 『先覺』 ( 譯 ) を國民文庫刊行會から刊行。 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 四十一歳 別にこの年、同會刊行の『エイルヰン物 大正十年 ( 一九二一 ) 五十一一歳 二月、『比較文學史』 ( 譯 ) を大日本文明協語』がある。 三月、欽女エミ出生。 會刊。八月、「英文學研究ー英文學史の撰 大正五年 ( 一九一六 ) 四十七歳 擇」を「英語世界」に寄せ、以後大正二年 大正十一年 ( 一九一三 ) 五十三歳 五月まで、ほとんど毎月、種々の副題で連二月、『十日物語』 ( ポッカチオ ) を國民文 庫刊行會から出し發禁。八月、「上田君の八月、「鸛外先生の追憶」を「三田文學」、 載。九月、慶應義塾大學豫科講師となり、 「古い追憶から」を「新小説」 ( 「文豪鷓外森 計報に接して」を「英語靑年」に寄せる。 のち本科にも出講。 林太郞」 ) 、九月、「文鳥」を「三田文學」、 一月、次男正悟出生。 明治四十四年 ( 一九一一 ) 四十二歳 十二月、「文學者の國籍」を「心の花」 ( 「一 四十八歳 大正六年 ( 一九一七 ) 葉女史記念號 ) 」に寄せる。この年別に『鋸 『エマーソン論交集』上卷を玄黄就刊。十 一月、「夏目漱石氏と英文學」を「新小説」山奇談』を國民文庫刊行會刊。 二月、長女エマ出生。 ( 「文豪夏目漱石」 ) に寄せる。この年刊行され 大正十二年 ( 一九二三 ) 五十四歳 明治四十五年 ( 一九一 (l) 四十三歳 大正元 た『エマアンン全集』 ( 國民文庫刊行會刊 ) 一月、『エマーソン論文集』下卷を玄黄瓧全八册のうち、第四、六、七、八卷の四册一月、相曾博との共譯『文化の聖書』をア ルス社刊。「三田文學」に、七月、「ケーベ を譯す。 ル先生」を書く。十一月、三女工ダ出生。 大正七年 ( 一九一八 ) 四十九歳 大正一一年 ( 一九一三 ) 四十四歳 五十五歳 大正十三年 ( 一九二四 ) 十一月、博文館刊の眞筆版『たけくらペ』 六月、『幻の人』を國民文庫刊行會から、 七月、『そのま乂の記』を籾山書店より刊に「三十三回忌の秋に」を收める。この年五月、『大英國民史』 ( ジ ' ン、リチャード・ 別に『オリヴァ・クロンウエル』を實業之グリイン ) 上卷を國民圖書株式會社刊。六 行。 月、『文鳥』 ( 藤村序 ) を奎運瓧刊。 日本社刊。 大正三年 ( 一九一四 ) 四十五歳 大正十四年 ( 一九二五 ) 五十六歳 大正八年 ( 一九一九 ) 五十歳 骨四月、「社會と文學」を「讀賣新聞」に發 表。同月、『哀史』ーゴー ) を國民文庫「三田文學」に三月、「雪の窓にて」、六月、九月、『大英國民史』中卷を刊行。この年 より文化學院に出講 ( 昭和十四年三月まで ) 。 「『櫻の實の熟する時』の事」などを書く。 刊行會刊。四月、長男有悟出生。 3 大正十五 年 ( 一九二六 ) 五十七歳 大正九年 ( 一九二〇 ) 五十一歳 大正四年 ( 一九一五 ) 四十六歳 昭和元 /
7 ( わくくっ 的趣味を專らにし、到底人間を假僞の虚榮世界、貪慾世界、迷盲世と己れの天地を蠖屈の窄きに甘んぜんとするものぞ。 幽玄なる哲學者カントが始めて萬國仲裁の事を唱へてより、漸く 界より救ひ出して、實在の莊嚴なる圓滿境に引誘するの望みなし。 歐洲の思想家、宗敎家、政治家等をして、實際に平和の仲裁法の行 而して一種の攘夷論者は此有様を以て上々なる社界の組織と認め、 はるべきを確信せしめたり。十九世紀の當初、米國に平和協會の設 永遠にのぞみをかくべき邦家ぞと信ず。 歐洲の文明國と關聯して得たる利益は、いづくにありや。荒縱な立ありてより英獨佛以西等の諸國雷應して、この理想を貫かん事を うまれ る佛國生の自由主義、我に於て甚だ有難からず、絶望より轉化し來カむ、プ一フィト、コムデンの輩は英國に起りて熱心に此理想を實行 れる獨露あたりの虚無思想、我に於て得るところありと云ふ可からせん事を圖り、大陸の大政治家も亦た頻りに此理想を唱道せり。 たふと 人は理想あるが故に貴かるべし、もし實在の假僞なる境遇に滿足 ず、頑迷にして局量狹き宣敎師的基督敎思想の我國に益せしことの すくなきは、世の人の普ねく認むるところ、法政經濟等の諸科學し了る事を得るものならば、吾人は人間の靈なる價直を知るに苦し むなり。理想なくては望もあるまじ、希望なくては生命もあるま は、未だ以て我國の未來の蓮命を確固にしたりとは言ふべからず。 じ、唯だ理想あるのみにては何の善きを見ず、吾人は理想を抱くと 歐洲今日の毒弊として識者の痛斥すなる皮相文明の輸入、吾人にと りて何かあらむ。此點に於て吾人は、吾黨の攘夷論者と同情なきに共に、理想の終極まで貫き到らん事を望むべきなり。 日本には外交の憂患尠し、故に平和協會の必要を見ずと云ふ論者 あらず、然るも吾人の輸人を厭ふは、攘夷といへる一般の厭忌にあ らずして、攘僞文明といへる特種の性質を帶びて、歐洲の文明國に多し、これ將た一種の攘夷論者にあらざらんや。日本は天照皇大 ぐわいこう あるものとし言へば直ちに輸人し來らんとする輕佻なる歐化主義者以來の國なれば外寇の懼る・ヘきものなし、故に平和主義の必要を 見るなしと言ふは純然たる攘夷論者の言分なるが、これらの論者は 流と反對の位置に立たんとするものなり。 然れども僴し夫れ、彼にありて極めて高潔、極めて莊重なる事業強ひて咎むべきにあらず、前に言ひし一種の攘夷思想を抱けるもの と認むべき者あらば、吾人は邦と邦との隔離を遺忘するに躊躇せざは、今日の新鮮なる生氣を以て立てる宗敎家、思想家の中に多きを るなり。吾人は東洋の一端に棲居するが故に歐洲の大勢を顧眄する見て、慨歎なき能はず。歐洲の思想家、宗敎家は日本を以て、新思 ぼつじよ 想悖如として歐洲に對峙すべき覺悟あるものと見做しつ、遊説者を の要なしと信ずる一種の攘夷論者の愚を、笑はんとす、世界は日に まり行きて、今日の英國は往日の英國の距離にあらざる事を思ふ派して、平和協會に應援するところあらしめんとせり、而して吾人 べし、況んや理想境には遠近なきものを。彼の事業もし我が理想境もし、我邦は世界の極端にあるが故に、世界の出來事と世界の運命 たす には關り知るところあらずと言ひて、この高潔偉大なる事業に力を の事業と同致ならば、我は奮って彼の事業を佐くべし、彼の事業も し我理想境と背馳せば、吾は奮って彼の事業を打破すべし、此點に借すことなければ、彼等果して我を何とか言はむ。 直接に痛痒を感ぜざればとて、遠大なる事業を斥くべきにあら 攘於て我等は、一種の攘夷思想と趣を同うする事能はず。 世界萬邦の思想は、相接引するの時となれり、東西南北の區劃はず、況んや歐洲のみに戰爭の毒氣盈つるにあらずして、東洋も亦た 早晩、修羅の巻と化して塵滅するの時なきにしもあらず、いかんぞ 政治地圖の上にこそ見れ、内部文明には斯かる地圖なからんとす、 對岸の火を見て、手を袖にするが如きを得んや。 この好時代に生れて、思想界に足を投ずるの榮を得たるもの、誰か いたづら 且っ夫れ、東洋と西洋といづれの業にも相離反するを免かれざる 徒爲に舊思想を墨守し、狹隘なる國家主義を金城鐵壁と崇め、己れ っと わさ