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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派
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1. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

たのであった。ただ米國の宣敎師を崇拜することは知って居たの 者の言葉はそのまま受け人れてよさそうである。 この居留地の特徴は最初豫定された貿易市場としては發展せず、一である。 ( 「自畫像」 ) 主として外人住宅地となり、とくに宣敎師によって傅道、敎育のセという秋骨の批評は玉子を典型的な歐化主義者としており、そこに ンターとなったことで、東京のミッション・スクール、たとえば靑築地的な一面を見ることができるが、孤蝶の「流水日記」、藤わの 山學院、明治學院、立敎大學などすべてここに呱々の聲をあげた。「春」などにその片影をとどめている玉子には武家氣質のきびしさ 靑山學院の半身靑山女學院の前身はここに明治七年創立の十三番女もあって、彼らにはこわい叔母さんであったらしい。いずれにせよ、 學校であり、明治學院はここにあった築地大學校、東京一致學この玉子を通じてもーー。彼女はこの女學校の舍監の様な地位にあっ 校、東京一致英和學校の流を汲んでいる。島崎藤村が明治學院普通た。ーーー・築地が彼らの意識に上ったことは想像できる。 學部に人學した明治一一十年はこの一致英和學校が改組されて、明治しかし以上の様な具體的なつながりよりももっと重要なのは、 學院となり、築地から白金に移轉した初年度にあたる。設立申請當「文學界」同人らの關係した敎會や學校の性格、雰圍氣に多分に築 時までは外人敎師などの大部分はまだ築地に住んでいた。したがっ地居留地的なものが殘っていたのではないかと考えられることであ て築地の記憶もまだ新しい頃であった。 立敎の濫觴は明治七年、監督ウィリアムスが七十番館で創めた立當時築地は學校町の様で、私逹の四十二番の外に、天主敎の小中 學校、亠円山女學院、立敎學校、それからサンマー姉妹の語學校な 敎學校にあるのではないかと思うが、立敎大學校の名稱の下にカレ ッヂとしての形態をとったのは明石町五十八番地に新築開校した明どあって、寄宿舎のあちらからもこちらからも、異人さん ( 共當 治十六年以後である。星野天知は一時ここに在籍したことがあり時の言葉 ) に立ち交って前髮を下げて南京さんと云った娘逹や、 ( 「默歩七十年」による ) 、秋骨、孤蝶も多少のつながりがあったこと唐人髷や銀杏返へしに結った若い娘さん逹が、夕方など散歩して が孤蝶の日記に見えている。一高時代の禿木も數學が不得手で進級居るのが見られたものです。 ( 津下實子「四十二番館の時代」女子學院 五十年史及學窓回想録 ) ができないので、立敎に轉校しようかと考えたことがあるらしい。 住居の點で地理的に居留地に近かったのは敏と秋骨である。敏はという追憶は開化風俗的なスケッチにとどまるが、つぎの一文など 築地二丁目、秋骨は同じく一丁目に住んだ。敏のエキゾティシズムには藤村の「櫻の實の熟する時」の中の雰圍氣にかなり近いものが と築地とがどんな關係をもっていたか、度證すべき資料がないが、ある。 秋骨は居留地に對して無關心でおれない境遇にあった。それは彼の日曜日に敎會に行く事は、籠の島のやうに生活せる私共には、禮拜 叔母横井玉子が築地新榮町の新榮女學校、通稱四十二番館 ( 後の女であり慰安でありました或は理想の種にもなりました。老弱男女 に注視されて設けの席に就きました。明治學院生徒も同様だと思 子學院 ) の先生をしていたことである。 キリスト敎の信者で、何でも外國人のする事を立派な事だ敎範とひます。洋裝の淑女連が人車を連ねて、繰込みました。是は當時 すべきだと考へて居た當時の進歩的婦人なのであった。そのくせ獨占の慈惠病院、看護婦諸姉で、全盛振を發揮しました。現在の 西洋のことなどは一向に解らす、極めて舊式の考しか頭に無かっ工學博士眞野文治氏も、當時の洋行歸の靑年紳士でしたが、未來 7

2. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

彰義隊の動亂を見聞、後にまで記憶され 明治十一年 ( 一八七八 ) 十七歳 た。 四月、お茶の水師範學校附屬小學校 ( 上等 明治二年 ( 一八六九 ) 八歳 小學校 ) を卒業。大學豫備門に入學を許可 弟男三郞 ( タ影・タ軒 ) 生まれる。 されたが、商業の實務のみ重んじ、學問の 敎養を輕視する父の反對で斷念した。月刊 文久二年 ( 一八六一 l) 明治四年 ( 一八七一 ) 十歳 雜誌「月とスッポンチ」に俳句めいた考え 鳴戸塾 ( 芝新錢座の英學塾 ) に英學を學び、 一月十日、江戸 ( 東京 ) 日本橋本町に生ま もの二句を投じて掲載された。作品が活字 れた。新之助と命名されたが、後、明治五歸途漢學塾に寄って漢學を學ぶ。數年にし となった最初である。 年になって愼之輔と改名。父は砂糖問屋△一て、品川町の英語敎習場に移る。 明治十三年 ( 一八八〇 ) 十九歳 の三代目星野淸左衞門という富商。母は松 おやかましゅう 明治五年 ( 一八七一 l) 十一歳 平家・田安家などに御殿奉公をした人で、 五月、會田皆眞「親釜集」という興歌唱道 琴・押繪・茶の湯・書道にたけ、またその愼之輔と改名。下總街道 ( 千葉縣 ) の船橋町の雜誌を發刊、天知もこれに加わって作品 關係で天知の生家に文學書が藏され、天知で、父の始めた開墾事業に從うよう命ぜらを載せはじめ、天地坊のペンネ—ムを用い 長ずるに隨ってこれらを耽讀。その後、襲れ、約百町歩の開墾地の地主となる。 る。この戲作調は「文學界」時代にも殘存。 名した兄の後を承けて五代目の主人となっ 明治六年 ( 一八七三 ) 十二歳 明治十五年 ( 一八八一 D 一一十一歳 たが、一時衰退した家運を挽回した後、家 督を弟男三郎に讓る。なお、妹に勇子があ常盤小學校 ( 日本橋本町所在 ) に入學。 二月、「親釜集」度刊。この頃から、武藝 り、吉田賢龍 ( 後、廣島文理科大學總長 ) に嫁 の修業に努める。 明治九年 ( 一八七六 ) 十五歳 した。天知は文學活動で、天地坊・天爲居 明治十六年 ( 一八八一一 l) 二十二歳 士・暗光子・暗光廬主・蓮花庵・破蓮坊な上等小學校に進學、校長の特別推薦により どのペンネームを用いた。島崎藤村の小説お茶の水師範學校附屬小學校に轉校。 四月、柔術中傅許从を受ける。五月、劍法 剪紙免状を受ける。林包明の英語學校に入 明治十年 ( 一八七七 ) 十六歳 學。この年、小金ヶ原 ( 千葉縣 ) の開墾地 慶應三年 ( 一八六七 ) 小學校の級友野間光彦に片假名雜りの「漢を植樹開拓。 天 明高木靑春堂等小屋 ) に入塾、書道と實語楚軍談」を借りて讀み、それ以來演戲作に 明治十九年 ( 一八八六 ) 二十五歳 敎の素讀を學ぶ。 凝ったが、のち京傅、馬琴に及ぶ。千葉縣 9 下の開拓事業に盡力し、縣から賞として木農科大學 ( 東京大學農學部 ) 林學科に入學 8 明治元年 ( 一八六八 ) 七歳 3 杯一組を受けた。 し、藥草學の研究などもはじめる。 「春」では岡見のモデル。 星野天知年譜

3. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

て彼を仲間入りせしめんとせば、彼は極めて不一 , ロ川 出さず。ち彼は哲學者なりやといふの問に對しては、否、と答ふ る、不整合なる哲學者たるを免がれざるべし。 るを以て尤も適當なりとす。 彼は數學の法を看過せし譯にはあらず。自然の法、物質の法を怠 彼は如何なる學派に屬して、如何なる新説を唱へ出たるか。彼は プレト 1 にも屬せり、祕派にも屬せり、ゾロアスターにも屬せ慢に付したるものにもあらず。然れども要するに、彼は秩序を守り り。或は又たカントより出たりと言ふもあり。而して彼は自ら日て物理を講究するの人にあらず。彼は多く心と物に就きて談れり、 、尤も古るき眞理は尤も新らしき眞理なりと。彼の論文は概ね講然れども形而下及び形而上の哲學的通語は彼を包擁すること能はざ 話の躰をなせり、哲學書として取るべきにあらざるは無論なり。彼るものなり。彼は「自然」に就きて多く説けり、然れども彼の「自 の學説は大方重複せり、彼は自から言はんと欲するところを言ふが然」は哲學的成語の意味に從へるものと認むること能はず、彼の 爲に、譬喩をも引照をも、全力を擧げて、之に傾むく、之を以て彼「自然」はち彼自らの解釋に基ける「自然」なり。 の論文を讀むには勢ひ論理を離れ系統を離れて、彼の哲學に沒入せ 彼は哲學者の名に於ては斯くの如く大なる哲學者にあらず。試に ざるべからず。 彼をして哲學の淵叢なる獨逸に入らしめば、誰か彼に付するに此の 彼は既に彼に沒入したる吾人の眼を引て、自在に或は無限、或は榮譽ある名を以てするものあらむ。然らば彼は如何なる人ぞ。彼は 有限の哲學に遊ばしむ。或時は生命の存在に關する重要なる法則を人間の尤も高尚なる榮名の中に就いて、既に詩人をも否まれたり、 敎へ、或時は人生の行爲に關する法則を捉へて之を敎ゅ、斯くの如哲學者をも否まれたり、宗敎家としても亦た彼の傅記が示めせる如 く彼の敎理は錯雜を極むるものにして、今しも超然的妙理に耽りて、 く無禪論者として、異敎徒として、彼の國民に否まれたり、彼れ果 悠々として心靈の奥を語るかと思へば、忽ち去って人生日常の行爲して偉大なる人物なりや、如何。 に移り孳々として人間の德性を敎ふ。斯くの如く「彼」に沒入した へだ 其四ヱマルソンの地位 る後、彼を去って少しく遮たりたる所に往きて反顧するに、彼は本 來のヱマルソンなり、彼の哲學は哲學者の哲學にあらず、彼の學説 余はヱマルソンに關して、多くの否定を以て彼の本據を明らかに つくゑ は學説者の學詭にあらず。彼は靜かに儿に隱れて古今の哲理を味ひしたり。彼は詩人にあらず、哲學者にあらす、宗敎家にあらず、元 より頑迷なる政治家にあらず。爰に於て吾人は彼の地位を知らんと っ乂あり、然れども、彼は自ら哲理を開發せんと欲するの心あら ず。彼は新らしき哲理なるものゝ存するを信ぜざるに似たり。「哲欲すること切なり。 學とは人の心が世界の成立に關して自らに與ふる記載たり」と、斯 凡そ偉大なる靈魂を有てる人は、自らの身邊に其の時代を吸收す るものなり。多くの小政治家が、議會の内外に喧囂し、多くの小宗 く彼は言へり。「我が曉天は我がアッスリヤにして、我が日沒は我が フハホス等の想像的 國なり。我が白書は感覺と理解力の我が英敎家が正統不正統の末節に紛糾し、多くの小哲學家が茫漠たる智識 ル マ の大海原に漂蕩する間に、眞に偉大なる人物は、己れを圍める宇宙 國にして、我が深夜は祕的思辨的の獨逸なり」と、彼は斯く云へ り。彼は又た或る論文に於て、哲學も詩も宗敎も其の元素に於てはと、己れを繞れる時代とを己れの足臺として立つなり。 吾人之をヱマルソンの生涯に徴するに、彼は心と躰と與に成熟し 一なることを論じ、又た眞と善と美とは一にして離るべからざるも のなることを言ひぬ。要するに哲學者と稱する階級に向って、強ひたる年を以て、コンコルドの幽境に身を退けり、其處にて彼は・東西

4. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

の九大總長などとは、夢にも思ひませんでした。其他にも洋行歸 りをして今云ふハイカラ其ものの如き亠円年も忘れられません。妙 次回配本野 一ーイノ 齡の男女學生が、屡よ顔を合せる機會は興へられても、一向奇怪 第四卷堀田善律 事の出來せざりしは、矢張内外諸先生の監督周到なためだと思ひ ますが、敎會員の中から幾多の新家庭が造り出されたのは、聖愛 第作品 が其中に芽生えたものだと思はれます。 野 間宏集 講堂狹隘のため卒業式が敎會で行はれたり或は本挽町の厚生館ま 暗い繪肉體は濡れて第三十六號顏の中の赤 でも、持出されました。明治學院も立敎大學も同様でした。お生 い月地獄篇第一一十八歌殘像哀れな歡樂崩に上級生が招かれました。其頃は今のやうに活動寫眞音樂會など 一切學生にふさはしき娯樂機關なきため、男子の學校の文學會に 解感覺悲しい錘ジイドの一フフカディオ感覺 招かれる事は、此上なき樂で名譽のやうに出掛けたものです。王女 と欲望と物について詩 會が初めて新榮女學校で創立されるまでは、他の女學校との交渉 堀田善衞集 は殆ど無かったと思はれます。 ( 中略 ) 殊に交通は不便でお互の往 齒車廣場の孤獨鬼無鬼島鶴のいた庭ある 來も皆人車を連ねて出掛けるか如何なる遠路も歩行するかでした ヴェトナム人中央アジアの草原にて自殺するから、自然筋向ふの立敎や明治學院と親しくしたものでした。 ( 望月あさ子「昔の寄宿舎」女子學完五十年史及學窓回想録 ) 文學者と殺される文學者異民族交渉について ここに明治學院とか立敎大學とあるのはもちろん築地當時の東京 詩 一致英和學校や立敎大學校をさしている。したがって男女學生の交 ・作品解説本多秋五 渉は居留地内のことである。敎會や文學會が男女學生の交歡の機會 ■作家入門 久保田正文 であったことは「櫻の實の熟する時」の記すところであるが、白金 第年譜・參考文獻 ■發賣五月十九日時代のこの風俗は既に築地時代に始まっており、白金時代はいわば それを受けついだものであった。文明開化の風潮が築地から銀座 新へ、山手へと廣がってゆくにつれ、敎會や學校の風俗にも築地的な 善要素が濃くなってきたのである。これは「文學界」同人の文學のも っている性格の一面ーー・・それはあくまで一面にとどまるが・ーーを理 田 解する一つの鍵であろうと思う。 ( 東京女子大敎授 ) 8

5. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

六月、「女學生」を創刊。女學雜誌瓧から「故人」、山月子 ( 川合信水 ) の「英雄」、脱 一一十六歳 明治二十年 ( 一八八七 ) 3 發行、主筆となる。巖本善治の勸めで女學蠅子 ( 北村透谷 ) の「孤飛蝶」、タ軒 ( 星野男 日本橋敎會の北原牧師により平田禿木・藤校を壓訪し、女學生間に文藝熱を作興し、 三郞 ) の「望夫石」、紫苑山人 ( 湯谷瑳一郞 ) 井米八郞とともに受洗。 その文才涵養のため、明治・立敎・女子の「鎌倉紀行」、禿木子 ( 平田禿木 ) の「松 學・獨立・東洋英和・靑山英和・廣島英和風夢」などあり、やがて女學雜誌の文學界 明治一一十一年 ( 一八八八 ) 二十七歳 ・海岸・頌榮・フェリス・共立・金城・淸を自負し、志向するに至る。この頃、天 不田禿木・藤井米八郞らとの聖書研究會は流・高田・梅香崎・描濱搜眞・女子學院・ 知、鎌倉の禪寺建長寺に參禪し、管長霄道 矢ロ信・淺田洋次郎らを加えて英書による成立學舍女子部を同盟校として發刊した。貫より允可从を受け、天爲居士と命名され 研究に進み、就會への呼び掛けを期して敎天知は主筆として、毎號執筆し、修身道話る。九月、「女學雜誌」に評論「文覺上人 育演説會を開き、北原牧師にあきたらずしによる人格向上と文學思想の奬勵とに努の本領」を發表。島崎藤村を明治女學校に ゆかんかい て、別に無敎會・無牧師の一團日本橋靑年力。これより早く愉觀會という遠足會を主招聘した。初めて北村透谷の訪問をうけ、 倶樂部を結成して敎會からは脱會。 宰し、三カ月に一度廻覽誌を出したが、こ快談深夜に及び、透谷一泊する。十月、 れにマコーレーの一文を寄せた平田禿木の「女學雜誌」に評論「徒然草に兼好を聞く」 二十八歳 明治一一十二年 ( 一八八九 ) 文才を認めて「女學生」の編集を手傳わを發表。十二月、「女學生」第三十號を以 十月二十一日、「在校三年間の試驗成績優せ、やがて北村透谷。島崎藤村も加わって て發刊。この月、與謝野鐵幹の文學雜発 にうすう 等にして平素品行方正なるを以て特に之をの文學熱が「文學界」創刊の母胎を成す。 「鳳雛」が發行され、これも一つの動因と 褒賞す」という賞从を附與されて、農科大この頃、不田禿木は天知宅 ( 飯田町所在 ) になって、星野天知・星野タ影・平田禿木・ 學を卒業。在學中しばしば紳田の錦城學校寄寓。 島崎藤村・戸川秋骨・北村谷らの間に自 に通って坪内逍遙のシェークスピア講義、 分逹の新しい雜誌を持とうとする機運が熟 三十歳 明治二十四年 ( 一八九一 ) す。 森田思軒の英國小説や詩經の講義などを聽 講し、種々の益を受けた。この年、農科大十月、濃尾地方に大地震あり、死者九千五 明治二十六年 ( 一八九一一 l) 三十一一歳 學在學中、明治女學校に迎えられ、敎頭巖百名餘を出す。巖本善治の勸めにより、天 本善治から學校と女學雜誌瓧の經營面にお知被災地に赴き、傳道のことに從う。 一月、雜誌「文學界」を創刊。當初は、星 野天知自ら編集人となり、藤井米八郎を發 ける立て直しの相談を受け、次第に深く關 三十一歳 明治二十五年 ( 一八九一 l) 行兼印刷人とし、女學雜誌瓧を發行所とし 係する。天知の義姉 ( 兄嫂 ) 增田たき子がか て發刊。創刊號とその再版および第一一號ま って巖本善治宅に寄寓していたことが、そ八月、雜誌「女學生」 ( 夏期號外 ) に評論「一 の契機をなした。 休和尚」および「怪しき木像」をそれぞれでは「女學雜誌」の文字を冠したが、第三 天知子・暗光子のペンネームで發表。同時號から終刊に至るまでこれを度した。創刊 明治二十三年 ( 一八九 0 ) 一一十九歳 掲載の作品としては無名氏 ( 島崎藤村 ) の號千五百部は旬日にして賣り切れ、翌二月

6. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

オット」、四月、「花幻」、五月、「俳人の性 明治十八年 ( 一八八五 ) 十六歳 行を想ふ」を寄せる。年末頃から、透谷の 前年上京。再び築地の祖母の家に住む。獨後任として明治女學校の敎壇に立つ。この 逸協會學校に入學。當時、高柏樹の夜學期、筆名に棲月・秋骨を用い、以後、鸛水・ 早川漁郞などを併用。さらに明三の本名で に通い、英語と漢學を學んだ。 も書く。 明治二十年 ( 一八八七 ) 十八歳 明治三年 ( 一八七〇 ) 二十五歳 明治一一十七年 ( 一八九四 ) 十二月十八日、肥後國 ( 熊本縣 ) 玉名郡岩前年からこの年にかけて祚田猿樂町の日本 崎村に生まれる。名は明 = 一。父等照は原家英學館に通う。さらに二十一年にかけて駿「文學界」に一月、「變調論」、二月、「活動 論」、十月、「罔影録」ほかを發表。五月十 の人で戸川家に人る。兩家とも、細川家の河臺の成立學舍に學ぶ。同級に美濃部逹吉・ 六日、透谷死去。この時期、強い感銘を受 分家肥後高瀬藩の定府で、等照は百五十石土肥春曙らがいた。 けたのは透谷と樋口一葉であった。 ほどの扶持を受けていた。維新の改革で代 明治一一十一年 ( 一八八八 ) 十九歳 代の江戸邸を引拂い歸國、明三はその間に 二十六歳 明治二十八年 ( 一八九五 ) 高等中學の受驗に失敗。叔母 ( 大野洒竹の 生まれた長男である。 「文學界」に一月、「自然私観」、九月、「文 母 ) の世話で、九月、明治學院本科二年に 明治十年 ( 一八七七 ) 八歳 編入。同級に藤村があり、遲れて馬場孤蝶・學復興期の事を想ふ」を書く。東京帝國大 西南戰爭直前に、親族ともども上京。内幸中島久萬吉らが編入された。藤村・孤蝶ら學英文科選科に入學。ケ 1 ~ ~ に私淑し、 町の師範學校附屬に通い、のち巴町小學校と「甲乙雜誌」を出したりした。雅號秋骨のち「文學界」の表紙にゲーテの句を受け る。 に轉入學。父は米の小賣を業としたが、店は藤村の命名である。 を疊んで以後俄かに貧困生活に陷る。その 二十七歳 明治二十九年 ( 一八九六 ) 二十二歳 明治一一十四年 ( 一八九一 ) 結果、我善坊に住む祖母・叔母らの許に引 きとられた。父は家を出、一時母にも去ら六月、明治學院普通部卒業。以後帝大に入一月、「近世の思潮を論ず」を「帝國文學」、 るまで從弟洒竹を件い内田周平の許で漢學五月、「以太利盛時の文學」を「うらわか れるなど逆境に育った。 を學ぶ。この年遠縁にあたる德富蘇峰に接草」に寄せ、「英詩評釋」を「少年文集」 に連載。九月、「希臘及希旧來の思想管見」 髀明治十六年 ( 一八八三 ) 十四歳 し、敎えを受ける。 を「太陽」、十一月、「戀愛に對する日本の 叔父と大阪に赴き、この間、大阪中學校に 二十四歳 明治二十六年 ( 一八九三 ) 小説と西歐の詩歌と」を「文藝倶樂部」に 通う。叔父から漢譯の聖書を、基督敎信者 一月、「文學界」創刊。同人に加わる。同書く の許で英學を學ばされた。 0 4 誌に、三月、「英國騷壇の女傑ジョージィリ 戸川秋骨年譜

7. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

月、高知市私立共立學校の英語敎師として 取 ) に嫁す。 赴任。この年より、二十九年まで、「文學 明治十七年 ( 一八八四 ) 十六歳 界」の研究には興味多い「孤蝶日記」があ 祚田の共立學校 ( のちの開成中學 ) で英語をる。 ( その一部は、本間久雄により「明治大正文 學習。平田禿木・桑木嚴翼・瀧精一・片山學研究」に掲載された。 ) 貞次郞 ( のち、片山廣子の夫 ) らと同學。 二十四歳 明治一一十五年 ( 一八九一 l) 明治一一年 ( 一八六九 ) 明治十八年 ( 一八八五 ) 十七歳 八月、夏休みに東京に歸り、眼疾にかか 十一月八日 ( 戸籍面は、明治三年十一月九日 ) 、 り、十月まで在京、駒子の長子太一の敎育 高知市金子橋に生まれた。本名勝彌。父土仲兄辰猪、爆發物取締條例違犯の嫌疑で、 を托せられ、件ってふたたび高知に行く。 佐藩士馬場來八、母虎子。兄に、源八郞大石正巳とともに投獄された。 藤村からの便りで北村透谷を知る。 ( 明治五年歿 ) ・辰猪 ( 明治二十一年歿 ) ・菊衞 明治十九年 ( 一八八六 ) 十八歳 ( 明治十五年歿 ) 。姉駒子 ( 東京の草鄕淸四郞に 明治二十六年 ( 一八九一一 l) 二十五歳 嫁す。草鄕は、慶應義塾に敎鞭をとり、のち、明 仲兄辰猪ら、無罪の宣告を受け、渡米。 二月、藤村、高知に來訪。この年の一月に 治生命保險の監査役、三菱財閥の一人 ) 、妹小鶴 二十歳 明治二十一年 ( 一八八八 ) 創刊された「文學界」のこと、「春」の戀 ( 東京の醫師黒岩德明に嫁す ) 。とりわけ、自 由民權運動の鬪士であった仲兄辰猪の存在十一月、辰猪、米國費府で歿。享年三十九愛の話を聞く。八月、共立學校を辭任、歸 京。九月、日本中學の敎師、ついで、築地 歳。 が有名。 の輻音敎會牧師フィッシャの書記をつとめ 二十一歳 明治二十二年 ( 一八八九 ) 明治十一年 ( 一八七八 ) 十歳 た。十一月、詩「酒匂川」十二月、ロマン 一月、共立學校を退き、明治學院普通部第二チシズムの評論「想海漫渉」を「文學界」 初夏、長兄源八郞の遣兒安子とともに、父 母に件われて上京、姉の婚家草鄕家に投じ年級に入る。同級に島崎藤村。戸川秋骨がに發表。「文學界」時代は、ドーデーを愛 讀。 た。身體虚弱のため、就學をおくらす。仲いた。國文學の知識は拔群だったという。 兄辰猪、九年の留學を終えて歸朝。 二十六歳 明治一一十四年 ( 一八九 l) 二十三歳 明治二十七年 ( 一八九四 ) 蝶明治十一一年 ( 一八七九 ) 十一歳 六月、明治學院普通部卒業。「櫻の實の熟一月、自傅的な戀愛小説「片羽のをしど り」、三月、小説「流水日記」 ( 五月まで連 する時」に、足立 ( 孤蝶 ) は、基督敎主義 四月、下谷區茅町忍ケ岡小學校に入學。 の學校の空氣の中にありながら卒業するま載 ) 、九月、小詭「みをつくし」 ( 十一一月まで 明治十三年 ( 一八八〇 ) 十二歳 5 で未信者で押し通した、とある。八月、相連載 ) 、詩「破三味線」、十一月、詩「孤雁」 0 州酒匂の松濤園で、尾崎紅葉を知る。十一一を「文學界」に發表。一一月、樋口一葉を知 年上の姪安子、盟川良平 ( のち、三菱銀行頭 馬場孤蝶年譜

8. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

38 ノ * 地租改正。征韓論破れ、西鄕、板垣ら下野。 明治十一一年 ( 一八七九 ) 十二歳 明治八年 ( 一八七五 ) 八歳 ヒす透谷年譜 五月、弟垣穗、元小田原藩士族丸山家の絶 この年、小田原で小學下等八級に入學か。 家を繼ぐ。透谷、小學上等へ進級か。 本源守學校、綠學校、啓蒙學校等に順に學 明治十三年 ( 一八八〇 ) 十三歳 んだ。 明治元年 ( 一八六八 ) この頃、透谷、母の紳經質な干渉に惱む。 明治九年 ( 一八七六 ) 九歳 十二月二十九日、小田原にて出生。 * 自由民權運動、國曾開設請願をめぐって全國 * 明治維新・新政權樹立。 父快藏は大藏省記録寮、十等出仕。 的な大運動に發展。奈川縣下にも國會開設 請願運動昻まり、この年六月には相州九郡五 * 華士族に對する金祿公債發行、家祿廢止。 明治一一年 ( 一八六九 ) 五九町村二萬三千五百餘人の上願書が提出さ 風連の亂、萩の亂あいついで起る。 れた。 父快藏は單身上京。昌平學校に入學。 明治十年 ( 一八七七 ) 十蔵 * 版籍奉還。 明治十四年 ( 一八八一 ) 十四歳 この頃、楠公三代記、漢楚軍談、三國志な 明治四年 ( 一八七一 ) 四歳 どの歴史小説を愛讀した他、祖父の監視の四月前に父母、透谷、垣穗、上京、京橋區 九月二日、大學 ( 昌平學校 ) 閉鎖。父快藏眼を逃れて戰爭遊びに耽る ( 透谷書簡 ) 。 彌左衞門町七番地に移住した。父は大藏省 は卒業。家督を相續して小田原に歸る。 * 西南戦爭勃發。 に出仕。母は丸山姓で煙草小賣店を開き、 透谷兄弟は泰明小學校に轉人學した。この 明治五年 ( 一八七一 D 五蔵 明治十一年 ( 一八七八 ) 十一歳 年、自由民權運動の最高潮に激發され、政 この年、ジフテリアに罹る。祖父玄快は醫春、祖父中風に倒れた爲、父、官を辭して治家たらんとの志を固め、靑年瓧會で演説 者の爲、家傳藥龍麝散で治る。父足柄縣の一家を擧げて小田原に歸る。父は足柄上郡の稽古等をした。また、無錢で徒歩族行を 官員となる。 郡役所の書記に奉職し祖父の看護に盡す。 行い、鎌倉や千葉地方に遊んだ。 * 學制發布。土地永代賣買の解禁。 これ以來、透谷は父母と共に暮すが、母は * 國會開設の詔勅下る。自由黨結成。石坂昌孝 透谷の活な遊戲を好まず、毎夜十一一時頃 ら武相地方の有志者を糾合して政瓧融貫瓧を 年明治六年 ( 一八七一一 l) 組織。一方、石坂公歴はこの年初めて上京、 まで机に向わしめたという。またこの年ご 村 父昌孝につれられて小永井塾に入る。ロシア 五月十七日、足柄縣布告により小學設立。 ろ、磯田老人の撃劍道場に通う。 皇帝アレクサンドル二世、ナロ 1 ドニキに暗 五月三十日、弟垣穗出生。 * 板垣退助愛國社を再興す。大久保利通暗殺さ 殺さる。 秋、父母、透谷を祖父および繼祖母のもと る。自由民權運動勃興の氣運。 に殘して東京に移住。父は大藏省に出仕。

9. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

きてい この夜は山麓の羈亭に一泊し、あくる朝連立て蒼海を其居村に訪もすべからざるが爲めならんかし。 もぐさゑん ひ、三個再び百草園に遊びたることあれど、記行文書きて己れの遊 人生はまことに説明し得べからざるものなるか。好し左らば、人 興を得意顔に書き立つること平生好まぬところなれば、こゝにて筆生は暗黑なる雲霧の中に埋却すべきものとせんか。何物とは知らず を擱しぬ 2 吾人の中に、斯くするを否むものあるに似たり。 明治二十五年八月十三日「白表女學」三二五號 人の本性を善なりと認めたる支那の哲學者も、人の本性を惡と認 明治二十五年九月十日「白表女學」三二七號 めたる同じ國の哲學者も、世界を樂天地と思ひ定めし一フィプニツツ も、世界を苦娑婆と唱へたるショッ。ヘンホウヱルも、或は善の一側 を観じ、或は惡の一側を察し、或は樂境を睥目し、或は苦界を睨視 したるものにして、是等大思想家の知り得たるところまでは確實な れども、なほ知り得べからざる不可覺界のひろさは、幾百萬里程な おもてひとっ 各人心宮内の祕宮 るべきか。眞理は實に多側なり。の面は一なれど、之を見るもの の眼によりていかやうにも見ゆるものなるべけれ。深山に分け入り て蹈み迷ふは不案内の旅客なり、然れども其出で來る時には、必ら ず深山の一部分を識得して之を人にも語り、自らも悟るなり、眞理 みづか を尋究する思想家の爲すところ、亦た斯の如くなるべけん。 各人は自ら己れの生涯を説明せんとて、行爲言動を示すものな いく ーんぎん こんにち 深山に蹈入る旅客なかるべからざるが如くに、眞理に蹈迷ふ思想 り、面して今日に至るまで眞に自己を説明し得たるもの、果して幾 個かある。或は自己を隱慝し、或は自己を吹聽し、又た自らを誇示家もなかるべからず。人間は暗黑を好む動物にはあらざるなり、常 するものあれば、自らを退讓するものあり、要するに眞に自己の生久不滅の靈は其故鄕を思慕して、或時に於て之に到着せん事を必す すく 涯を説明するものは尠なきなり。 るものにてあればこそ、今日に到るまで或は迷信に陷り、或は光明 かた 哲學あり、科學あり、人生を研究せんと企つる事久し、客艘的詩界に出で、宗敎の形、哲學の式、千態萬様の變遷を經たるなり。人 かけ 人あり、主観的詩人あり、千里の天眼鏡を懸て人生を観測すること性に具備せる戀愛の如き、同情の如き、慈憐の如き、別して涙の如 きは 既に久し、而して哲學を以て、科學を以て、詩人の靈眼を以て、終きもの、深く其至粹を窮めたるものをして造化の妙微に驚歎せしめ ざるはなし。蠻野より文化に進みたるは左までの事にあらず、この 宮に説明し盡すべからざるものは夫れ人生なるかな。 が厭世大詩人・ハイロンが「我は哲學にも科學にも奧玄なるところま至妙なる靈能靈溿を以て遂には獸性を離れて、高尚なる眞善美の理 宮で進みしが、遂に益するところあらざりし」と放言し、萬古の大戲想境に進み入ること、豈望みなしとせんや。 歐洲の理想界に形而上派の興りてより、漸くにして古代の崇高な 人曲家シヱーキスピーアが「世には哲學を以ても科學を以ても覗ひ見 るべがらざるものあり」と言ひたりしも、又た學間復興の大思想家るプ一フトニックの理想的精を復活せしめ、爾來歐洲の宗敎界、詩 コンが「哲學遂に際涯するところあらざるべ文界に生氣の活動し來りたるを見る。律法儀式にのみ拘泥したる羅 と人の言ふなるべ 3 6 し」と戲れたるも、畢竟するに甚深甚幽なる人間の生涯をいかんと馬敎の胎内よりプロテスタニズム生れ出で、プロテスタニズムより かく みたり つれだっ つひ みづか げいし

10. 日本現代文學全集・講談社版9 北村透谷集 附文學界派

398 「薄命記」を發表。これは後日蘆の里人編月、「文藝倶樂部」に「三日風流」掲載。寄稿。 白百合』 ( 明治四十年九月、矢島誠心堂刊 ) 九月、「文學界」第四十五號に、評論「ダ 明治三十四年 ( 一九〇こ に收録。四月、「文學界」第十六號に、評論 ンテが後年の事を記す」を發表。十月、 「草堂書影」を發表、べイターの影響を示「文學界」第四十六號に、美文小品「暗流」一月、「明星ーに、美文「飄遊記」發表。 す。五月、「文學界」第十七號に、北村透を發表。十一月、「文學界」第四十七號に、 三十歳 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 谷に對する哀悼文「蠅羽子を弔ふ」を掲評論「モウリス、ド、グエランーを發表。 載。七月、「文學界」第十九號に、紀行文この年から翌年にかけて、星野勇子 ( 天知二月、「明星」に、上田敏の著書の書評 「三日風流上」を發表。八月、「文學界」第の妺 ) と戀愛、結局天知により不成立にお「『みをつくし』を讀みて」、「藝苑」に評論 「テニソン卿とプリラファエライト」を寄 二十號に紀行文「三日風流下」を發表。こわる。 稿。三月、「明星ーに、上田敏の著書の書 の年、第一高等中學校を中途退學。 一一十五歳 明治三十年 ( 一八九七 ) 評「『詩聖ダンテ』を讀みて」を發表。 明治二十八年 ( 一八九五 ) 二十三歳 六月、雜誌「藝文」剛刊され、禿木も寄 一月、「文學界」第四十九號に、「漫評」 八月、「文學界」第三十二號に、評論「ウ ( 「金色夜叉」「つき草」「一葉全集」「網代木」稿する。 「ふところ日記」「段々染」その他の寸評 ) を掲十月、星野天知編「透谷全集」の中に、 ヰンケルマンの事を述ぶ」を發表。十一一 月、「文學界」第三十六號に、飜譯「べア載。二月、「文學界「第五十號に、評論「南歐禿木の追悼文「亡友を弔ふ」が收録。 詩影」を發表。四月、「文學界」第五十一一號 トリチェ」を發表。この年、東京高等師範 三十一歳 明治三十六年 ( 一九〇三 ) に、評論「以太利初代の敍情詩」、往復書 學校英語専修科に入學した。 一一月、「明星」に「書憤一則」を發表。こ 簡體小品「なかたがひ」を發表。五月、 二十四歳 明治二十九年 ( 一八九六 ) 「文學界」第五十三號に、評論「曲餘韻」の年、イギリスに留學、明治三十九年まで オックスフォード大學に學ぶ。 一月、「文學界」第三十七號に、幸田露件を發表。六月、「文學界」第五十四號に、 小品「たまくら ( 共一 ) 」を發表。九月、 の小説の書評「さゝ舟を讀む」を發表。五 三十四歳 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 月、「うらわか草」創刊、これに、評論「地「支學界」第五十六號に、小品「手枕三 の一 ) 」および評論「以太利に於ける榔曲十一月、「藝苑」に紀行「ウォッツが村莊 獄の卷の一節」「べアトリチェ」を掲げる。 を訪ひて」を發表。この年、イギリスより 後者は「文學界」第三十六號 ( 明治二十八註疏の事を記す」を掲載。 歸國。これより、東京高等師範學校・明治 年十二月發行 ) に一部既收。この月二日、戸 明治三十一年 ( 一八九八 ) 一一十六歳 大學・學習院・第三高等學校、晩年には法 川秋骨とともに樋口一葉を訪間、「たけくら ・ヘ」に對する「めざまし草」の好評を傅え一月、「文學界」、第五十八卷を最終號とし政大學・立敎大學などに英語・英文學を講 る。六月、「文學界」第四十二號にランドて廢刊。この年、東京高等師範學校英語專じた。 ル作の飜譯「アス・ヘシア」を掲げる。八修科を卒業。五月、「太陽」に「度屋」を 一一十九歳