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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

4 4 身平等一如の大調和に歸趨する上には、二手二足といひ、橫目縦鼻に設けたる小計の如し、實数の上には何の關係をも有せざるなり。 といひ、有心動物といふこと、何の關係をも有せざるなり。理性は儼するが如き、多少此の間の消息を解するもの。理想と概念との別明めざるべけ たる實性、豈さしも空虚のものならんや。概念は、衆差別の普遍性をんや。 更に之れを腦の活動に就きて按ぜしめよ、腦が幾たびか類似の活 示せども、衆差別を平等に印せしむるに與からず。理想は、其の形式 に於て衆差別に普遍なると共に、共の内容に於て特殊の相を含み、以動を演じて、遂に同の點のみ一圈を成し、漠然名け難き活動形を現 て能く差別を平等に歸趨せしむ。概念は遍通を生命とすれども、理ずるに至れるもの、喩へば幾多の寫眞を重ねて面貌の模型を得るが 如きは概念なり。概念は先天の理想を形式として後天の經驗を概括 想は事々物々全く別趣なるをもて極致とす。されば、試に生れて以 來曾て見ざりし一物に對すとせよ、他に一切の知識なくば、此の物せるもの、一端先天に沖するに似て、尚他端の後天に根するを免れ に模型的理想ありとは如何にしてか知るべき。唯此の物は此の物獨ず。此をもて必しも必至的ならず、必しも普遍的ならず。ヒーム 得の致あるが故に此の物の理想全しといふの外なかるべきのみ。更の論鋒は善く此の急處を突けり。しかも突きて而して先天的形式的 の半面をば碎盡すること能はざりき。カントは乃ち此の殘壘に據り に之れが經驗を重ねて、統同辨異の作用を施したる結果、同の點の みを集成して之れに一定の符號を附するに至れば、此に始めて所謂て新に其の哲學を組織せるの観あり。論じて此に至れば、吾人は私 ・フラトニックアイデア に、哲學の本城の實に形式の一方面にあるべきを思ふ。共れ唯形式 概念あり。ショオペンハウヱルの Platonic idea といへるも、究竟 する所、此のたぐひにあらざらんや。八表の間、微塵といふとも同一なるが故に能く普遍なり、些の内容をも之れに加ふれば乃ち基礎の 這般の事物なきに至りて、天地の理想、全しといふべし。輕重の分動搖を免るべからず。是れ科學と哲學との岐かるゝ所以にして、ま を論ぜば、寧ろ差別の邊こそ理想の本旨なるべけれ。人間といひ獸た概念と理想との別ある所以ならんか。斯の如く知識上にては、哲 類といふが如き類同の性は、縱令之れなしとするも、差別の相だに學と科學と劃として相犯すべからずといへども、然れども形式を持 存ぜば、以て一個の存在たるを失はじ。之れに反して差別の相なきするものと、内容を供するものと、實際に於ては兩端遂に調和して ものは自立存在の價値なきなり。所詮理想の實性は、萬物をして宇天地の美を成ずるを見る。然り、兩端の調和といふもの既に形式的 宙の大調和に歸入せしむると、之れをして自家特殊の面目を有たし説明にして、萬物の極致、天地の理想は蓋し之れに外ならざるな 。見るべし、最後の説明を吾人に與ふるものは知識の結論にあら むると、所謂大平等と大差別と、換言すれば、直觀せらるべき平等 の形式と、知識に上るべき差別の性質と、兩面の調和したる處に存して本然の信仰なることを。哲學と科學と、理想と概念と、純理 ず 、自然の雇物は此の和圓滿にして、櫢に喩ふれば五 + 五差別獨り理想にもあと經驗と、先天と後天と、凡そ此等の兩極を取りて調和せんと勗め らねば、平等獨り理想にもあらず。されどまた、差別の完全なるは直しもの古來何ぞ限らん、しかも蜃樓砂丘、彼れ一時、此れ一時、今 に平等の致に合し、平等の完全なるは瓮差別の旨を明にす、故に にして壞れざるもの幾許ぞ。惟ふに當來も亦此の如くならん。幾た 理想を指して差別といはんも通ずべく、平等といはんも通ずべし。 びか築きて而して幾たびか壞れ、終に遂に山おのづから靑々、雲お 之れを數に配すれば全と分との如し、分の總計は全にして、全の幾のづから悠々、造化の心は知識の悉す所にあらざるを信ずるに至る 部は分なることだに忘れずば、單に全と呼ぶも可、また分と呼ぶも もの、禪家の所謂止観の極諦も誠に所以なきにあらず。唯之れが順 可、概念は乃ち我が打算の方便として、總計と部分との中間に、假路に於て異論あるのみ。人生は無智に起こり、智を經て無智に還 ひそか

2. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

形を五十に進むれば、想はおのづから之れと並行すべしと思へるな幅に澁る自主圓滿の趣致なり。差別平等の形式なり。知るべし 4 5 るべし。ち形を先にし、形四十とならば想も四十となり、形五十と精訷的作用は必竟實の一部に過ぎざるを。寫實的といへるの解釋は ならば想もまた五十となるを美術の本面目となせるもの之れ寫實派此に止めて、さて理想的とは何ぞや。概念と理想との混ずべからざ の立脚地ならんか。勿論寫實的作物のうちにも、時の或は天才の手る所以は、既にも述べつ。之れを作家の上より見るに、事柄を組成す に成りしため、形は四十ながらも想は五十に達すといふが如き妙作るに必要なる概念、意匠などが作家の心内に運轉せらるべきはいふ なきにあらねど、此は必しも寫實派の期する所にあらず、寫實といはに及ばず、吾人もとより之れを難ぜざるなり。されど此の外に、か くして組成せられたる事柄の上に、更に作家の抱持する所見、すなは ん限りは、尚かゝる上にも形の加ふべきあらば加へて想の五十に追 隨せしめ、終に形想共に五十の自然相に到逹してこそ其の主義に忠ち概念を隱見せしめんとするものあり。吾人之れを審美界の事なら なるものとはいふべけれ。されば寫實の本義此の如しとぜば美術はずといふ。しかも斯かるたぐひを稱して理想的といふは一般の風な り。もし之れを理想といはざるを得ずとせば、宜しく概念的理想と 到底繪に於ける帷畫、劇に於ける活歴劇を其の極致とせざるべから いふべし。概念的理想派の作物にして美なるを得たりとせばそは概 ず。假に非凡の巨腕ありて形想ともに五十を博し得たりとせんも、 之れを觀る者恐らくは欺かれて身の實境に臨める思をなし、悲喜哀念の見れたるがゆゑに美なるにあらずして、作者の着意せざりし間 に理想の現じたるに由る。「八犬傅」は馬琴の儒敎的所見によりて 樂一々實情を動かし來たるに終らんか。果たして此の如くば、何を 好みてか美を藝術に求めんや。去りて自然を娯むの勝れるに如かざ審美的なるを得ず、「。ハラダイス、ロスト」はミルトンの淸淨敎徒 るなり。美術の美術たるは想のみ自然と合して、形の之れと違ふも的観念によりて審美的なるを得ず。審美の眼より見れば概念と美術 のあるに由る。況んや凡手の寫實の作家が漫りに形のみを摸倣して と何の關する所もなし。美なる傍に隱約たる作者の念を認め、之 想を五十に致すを知らざるの弊あるに於てをや。完全なる寫實は自れによりて作者の人物手腕を嘆美するは批評家の地に立ちたるな り。さて概念的理想派を以上の・ことく非審美的として引き去ると 然美と擇ぶ所なく、不完全なるものは活氣なき寫眞と一般の結果に 到るものとせば、極端なる寫實が美術の本旨に遠きや明也。或は、 きは剩す所は前の極端寫實派の正反對に立つべき極端理想派のみ。 人事を寫すに當たりて、物質の面と精禪の面と並行し得ざるものと極端理想派は只管理想を主とし、形をば二十三十の低處に下して顧 思惟し、寫實とは此の中の物質の方を寫すに忠にして精のかたにみざるもの、例へば鳥羽繪を晝き超人間の景像を畫く一派の畫家の 疎なるものと考ふれど、此は僻見なるべし。果たして完全に物質の 如き之れなり。此の派が想を先として形を重ぜざるの極終に美術を 記號に近からしむるの弊あるは寫實派が美術を。ハノラマに歸せしむ 面を寫し得たらんには精訷的作動は必然之れに件ふべきものにし て、心といひ物といふも別種ならぬは前論これを悉せり。吾人の形るの弊と徑庭なく、共に極端に走りたるものといふべし。今此の兩 といひ實といへる中には精訷的作用、印ち腦活動の有様をも含み、 極端の異同の點を比較するに理想派は想だに數に滿たば形はいふに 物質的作用を離れて精紳的作用は存せずとするなり。想といひ理想足らずとし、寫實派は想の十分なるも望ましけれど形も十分ならん といふは、決して單に精神的經過の謂ならず、物と心と調和して一を要すとなす。されば兩者ともに理想の圓滿を期するは異なること 個の人間を現ずとせば、此の人間の云爲行動は観者の知覺に入りてなし。たゞ形に於て、前者は自然に遠かるも不可なしとし、後者は 知覺圖を成す。此の圖はすなはち形なり、實なり、理想とはそが全自然と全く合せざるべからずとなすの點に於て相逆行するのみ、而

3. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

198 に、自己一人の幸幅を追求する野卑なる人間なり。 人に取りて最も確固たる事實は、眼前の實世界に非ずや。其の現實 プ一フトンは此の世の人間が从態を譬へて、洞窟の内部に面して束世界と幾多の疑問とに接したるものは、爭でか抽象を重ねたる理想 縛せられ、毫も後邊を眺むること能はず、唯後邊に在る實在の影のを信じて、此處に最後の解決を求め得べき。若し求め得たりとすれ おも 窟内に映じたるを實體なりと惟へる者の如しと言ひたりとか。さてば、其は單に推理上の遊戲にあらずんば虚僞の表言に外ならず。 ヒューマニズム 若しも技巧の點より論ずれば、「ハムレット」には幾多の缺陷も も勝手の愚論なるかな。「人道主義」の著者シルラー氏 (). C. S. Schiller) は、問答體を借りて、プ一フトンに對して日はく、理想なるあるべく、また不自然の點もあるべし。而も尚ほ今日に於て其の生 なんち 命を失はざるは何故ぞ。そこに偉大なる理想あるに非ず、麗しき敎 ものは甚だ可なりと雖も、束縛せられたる者は爾を知らざるべし、 また見ること能はざるならむ、何となれば爾は彼れ等に降ることな理あるに非ず。たゞ現實暴露の悲哀に立脚したるが故に、そは人類 く、彼れ等は爾にまで昇ること無ければなり、我れは理想と囚人との存する限り、無上の珍寶として傅へらるべし。今の自然派なる者 の間に立てる者なれども、理想と囚人との 0 何等共通の點を有せは、正に幻像を失ひしハムレットと等しき状態に在る者ならざる ざれば、吾れ如何に理想か圓滿無碍か語るとも、彼れ等吾れを静塾か。然るに群多のポローニアスは彼れを指して狂なり、痴なりと市 ざるべし、予にして窟内に映じたる影を、より善く看取し得るにあ笑す。嘲ける者をして嗤はしめよ。彼れ等は、現實に生存する悲哀 の裡に研ぎすましたる利刃の爲に刺さるべし。さはれ多くのホレシ らずんば、余が上界にて見たるものを説くも、彼れ等は信ずるの必 オ無きは遺憾ならずや。 要を感ぜざるべく、信じ能はざるべく、復た信ぜざるべしと。 ( の「無用なる知識」と題する一章を見よ 現實世界と沒交渉なるもの、豈啻にプフトンの理想のみならん 三「野鴨」の悲劇 ゃ。有ゆる宗敎的理想、又は哲學者の捏造したるもの、皆なこれ、 一種の戲論にして、現實世界には要なきものなり。ハムレットが歎 強烈なる意志を有して現實を摘發するストックマンを描きたる後 じて「曾て一人の旅人だに歸らぬ國」云々と言ひたると、シル一フー のイプセンは「野鴨」に於いて、未だ曾って顯はさざりし悲麒的色 氏が假令理想界を説明するも現實世界の人は信ぜざる可しと言ひた調を示しぬ。彼れは尠くとも自己が所信の一部を客観視して、主人 るは、表現の方法こそ異なれ、其の深意に於いては符節を合したる公グレゲールスを描き、其の主義の實施は果して如何なる結果を生 が如し。ーハムレットと均しく現實の種々相を見たる者の眼には、此ずべきかを思考したりとは、多くの評家が一致する所なり。而して の世界は「淑德却って不德の前に、語を卑うして頭を下げ、許容を 最後の舞臺は、現實暴露の悲慘なる光景なり。 乞はねばならぬ」澆季の世ならずや。世が澆季なるや否やは余の判 ヱールなる者、その汚したる婦を寫眞師のヤルマルに嫁がしめ 斷せむと欲する所にあらねども、宗敎家或は理想家の所謂德が、不ぬ。ャルマルは無垢の婦と信じて樂しき家庭を作り、ヘドヰヒと云 德の面前に跪謁するは今の妝態ならずや。斯くの如き世にありて、 ふ女兒さへ生れき。後十數年を過ぎ、久しく他處に在りしヱールの 誰れか亦理想の下に安心を求め得べき。 子グレゲールス歸鄕するや、親友ャルマルが欺かれつ又日を送るを 現實世界を説明もぜず、嚮導もせず、また之れと契合もせざる宗見るに忍びず、窃かに父とギナ ( ャルマルの妻 ) との關係をャルマ 敎或は理想の幻影を眺むるは、自ら欺くと共に、他を欺く者也。吾 ルに告ぐ。蓋し彼れの意は、事實を明白にすることに因りて、却て いか

4. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

る。若しくは第一歩を信仰に啓きて、懷疑又懷疑の後重ねて信仰の て個々無量の事相を生す。事物に美の階段あるは理想表現の度に應 門に歸ぐ。而し落着後 0 無智、落着後 0 信仰は、經驗を包沒し = ぜるに一」、事物 0 性質とは相渉る 0 となし。此 0 花は此 0 花とし = 安神 0 地に到逹したるも 0 なるが故に、不壞なり、不退轉なり。哲美、彼 0 鳥は彼 0 鳥とし一」美なり。荷くも自然 0 所産なる限りは、 學 0 人生」必要」し一」、到底立命 0 地を吾人」與ふるも 0 なき所以度 0 そ種《なれ、皆自《 0 存在理想を現ぜざるなく、隨ひ = 一芥 0 微といふとも美ならざるなし。自然は美の無盡藏にして絶對は美の 種《なる腦 0 活動 0 反覆 0 結果は概念なり。理想は乃ち腦 0 全局源泉なり。ミ = 1 ズ 0 紳、 ( リ「 , 0 山、遠く之れを他に求めん を支配する本具 0 形式にして、雜多 0 活動を一定の調子に整理し行や。自然界に醜 0 存ぜざる所以をば「審美學史」の著者ポザケも く其の一定の調子なり。之れを譬ふるに天地は一大音樂場の如し、 之れを論じぬ、以爲へらく 、ハルトマンは自然界に純粹なる醜の存 萬種 0 樂器は己が自《錚琅《 0 音を發すれども、其 0 曲一なるがするを許しミ造化が美を現ぜんとするときは、美見れ、之れを現 ために相合して差別印平等 0 妙調を成す。音色と曲調とは概念と理ぜざらんとするときは、醜見れ、先天の理想が美を目的とすると否 想との相違の原づく所にして、音色の類同は之れを概念と呼ぶべ とによりて美醜の別を生すと説けど、恐らくは然らざるべし。惟ふ く、曲調の一なるは之れを理想と稱すべし。概念は彼此の關係を離 に先天は本來無意識にして、之れを一貫するものは理法なるが故に れざれども、理想は全局唯一體として 0 外「之れを説くを得ず。概 ( 一旦理法を定着したる上は ) 決し先天が自由に之れを破りて、 念は知識 0 事にし一」理想は直覿 0 事なり、一は推理比較を許せど或は美と現ぜんとし、或は美と現ぜざらんとするが如き = とある〈 も、他は一旦抽象すると共に其 0 實性を離る。琴にても甲 0 曲を調からず。且此 0 必然 0 理法 0 目的とする所 ( 勿論無意識的に ) 寧ろ 一、三絃にても甲の曲を彈ずとせんか、理想は曲 0 甲なる點に於て天地萬象を現出するにありて、美不美を現ぜんとするにあらざる 平等絶對とも」ふく、三絃 0 甲曲と琴 0 甲曲と異なる點に於一」差は、獪藝術家 0 目的とする所、作る物にありミ直」美を現ぜんと 別法界とも」ふ・〈し、されど共に冷なる抽象的 0 も 0 にあらず。獨する = あらざるが如し。美は結果なれども目的ならず、天地果たし り概念に至り一」は、三絃と十三絃と絃たるに於一」別なきがゆゑ」絃理法 0 出現にし、理法的動作 0 諸部能く一に調和する處には美 0 甲曲と名けんと」ふも 0 、存在 0 上に關する = となし。要するに來たり、衝突する處には醜來たるとするも、天地既に絶對に理法的 本論 0 理想と稱するは、個物 0 個物とし一」活現する趣致、印ち諸活なる限りは、何に由りてか其 0 裡に醜と」ふが如き沒理法 0 現象 0 動 0 形式なり。 ( ~ ト「 , 0 所謂個想は之れ」近し、そ 0 類想は寧あるを得んや。強ひ一」醜を求むれば、凡眼に一」調和 0 迹 0 見極めら ろ概念 0 部に屬するも 0 し一」、理想とは」ふ・〈からず。理想 0 性れざる點を 0 み引き離したるも 0 と」ふ 0 外なしと。然り、自然界 の質は到底不可説なり。已むことなくば、之れが形式によりて差別の に醜なるものありとすれば、恐らくは我が察の方法によりて生 ながれ 意調和なりといはんか、一事物の中に含まるゝ諸部分が、差別を著く ぜしものなるべし。例〈ば萬法の流混々として絶對の一洋に瀉ぎ、 美すると共に ( 0 よ一致して平等 0 旨を彰にするを、理想 0 最も善く現以て全宇宙 0 美を成就するに當たり、吾人有限 0 眼をもて、彼 0 一 じたるものといふ。天地はこれが大なるものゝ例、人間の身體の如 隅、此の一端を捉ら〈來たるときは、或は醜と見ゆることも之れな 5 きは、これが小なるものゝ例也。 きを保せざるの類なり。然れども嚴にいふときは、絶對は何れの一 理想の天地に流行するや、其の本は一なれども現不現の度により 部を取るも、直に全に副ひて、一分なるがために美ならずといふが

5. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

158 ると、承認せらるであらうか。 め其内容となる者が無からねば、決して美相を呈する事が出來ぬ。 人間の本性に基いた行動にしても、快樂を件はぬ者がある。依っ 知識上或は道德上の理想が確立して、是に向って進む生活は、 て高山君の説を推し廣げて快樂の隨件する本能的行爲のみが、美的ち美的として現れる。更に詳しく云へば、理想に向ふ行爲が、習慣 あなが であると言ふは、強ち不當では有るまい、然しながら快樂の強弱大的となる所が美的として、千歳不減の光明を放つのである。正成も 小を言はれる所を見れば、鉉に其標準は、いづこに在るかを究めね菅公も、共に忠といふ理想を畫いて、是に向ふ行爲が殆ど習慣的で ばならぬ。時間の長い快樂を追求するのが美的であるか、或は度はあったればこそ、其行爲が美的と成ったので、芳名を今日に傳へ た。たとひ理想があるにしても、是を追ふ行爲が、瞬間的であるな 強くとも、時間の短い快樂を得るが美的であるか、太く短くと世を らば、其場合は兎も角も、人生一體としては美相を呈ぜぬ。美相を 送るが、美的生活であるか、或は細く長くと計畫するが美的である か。而して此兩種の快樂を引き起す行爲は、性質に於いて、全く異呈す生活と言ふは、片時も理想を忘る乂ことなく、勉めて之に向 る所が有る。永續する快樂を覓むる場合には、多くは人間の本性にひ、遂に其一擧一動が、習慣的となる場合に在るのである。而して 反對する行爲に出でなければならぬ。之に反して強度短時間の快樂此點が亦科學の所謂本能的活動には、美相がないことを確かめる。 いづ 役者が正成の役を演ずる場合には、先づ正成の意志が、常に忠義 は、多く體機性の要求に從ふ行爲に件ふ。然らば其孰れを追求する といふ理想に向って毫も其道筋を外れなかったことを承知せねば、 が美的生活と成るのであらうか。 高山君は美的生活の例として、眞理其物の研究を無上の樂とする 到底美的動作に出づることは出來まい。それと均しく人生も、何等 かの理想を認めて、飽く迄も之を追求し、其行爲が遂に習慣的と成 學者、金錢其物の貯蓄を人生の至樂とする守錢奴、月光を浴びつ、 薔薇花の籠の蔭で戀情を語り合ふ男女の妝態、印度の瑜珈派の修行る所に、初て美相を發揮するのである。猿芝居の眞實と、人間の芝 者等を擧げられた所を見れば、孰れの快樂でも構はぬといふ説らし居の眞實とに、相違のあるのは何故であるか。詩人の畫いた愛と、 色情に溺れた者の行爲とに、天地の差別あるは何故であるか。理想 いが、果して然らば瑜珈派の修行者が、解脱の快樂を得るために、 しりそ の有無が、其原因であるは、誰しも承認するであらう。 人間本能の要求を斥けたものを、何故に美的といふのであらうか。 知識的竝に道德的理想は、絶對的價値の有る者であって、其内に 氏の説では、顔回が陋巷で勉強して居ったのも、ステフアノの末路 たうせきキリ も、大石良雄の艱難辛苦も、皆非美的生活で、極惡無道の盜跖、基生活するといふが、一面より言へば、理想を習慣的に追求するので 督を賣り渡したユダ、腰を拔かした大野九郞兵衞が生涯は、却て美ある。而して是が美と現れるので、印ち美的生活の内容は、智德の すた はしき者であると推論しなければならぬ。從って、氏の擧げられた 理想其物である。老子の所謂「大道度れて仁義あり」といふ場合の 正成、菅公の生涯は、頗る無味の者で、氏は如何なる前提から、之仁義は、無論道德的法則 ( 悪人を誡むるための ) のことで、全文の 意味は道德其物の價値を無視したものではない、否寧ろ道德的理想 を美的生活の例として掲げられたかを怪まざるを得ない。 の無限の價値を示して、道德的理想、印ち大道に復歸して、習慣的 吾輩の考ふる所では、氏は人間行爲の景象をのみ観じて、其内容 に ( 飮食物に對する行爲の如く ) 德行あれと示したので、爰に至っ を棄て、直に美的生活を説明しゃうと試みられたが故に、論旨に矛 盾を生じたのであらう。固より人間は美的に生活しなければならて初めて美的生活が表出するのである。 人間の本性の要求といへば、既記の如く、隨分廣いもので、其滿 ぬ。然しながら其美的生活といふは、他人の目に映ずる景象で、豫 ズト ゆがは

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220 た信じてならぬのである。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 . 0 0 0 0 0 0 0 0 0 此の場合、吾れ等の人生に對する問題の形は、如何にして生存す べきかである。何處から來たかを問ふ必要はない。前世は蛆蟲であ っても宜しい。また死後、何處に往くかと心配する必要もない。極 樂淨土に往けば儲けもので、たとひ地獄に落ちたからとて、仕方が ない。赴擲い、未來世い、物 ( 0 地 6 婆いい沒交かつある以上、 扣等 6 間いゅい、騨物かやか、將か指力い同一のものだ。 「〕沁 0 恥つついがか印、地ゅ擲 0 扣て、物か踏んで ゐることである。そこで問題は、如何にして此の生を繼續するかと い點つみつつ、茲に到ると、亦もや種々の理論が出て來て、吾れ 一出發點は現實 等を惑はせやうとする。印ち或る理想を模範として、吾れ等の人生 吾れは何處より來って、何處に往くかとは、古今の宗敎家や、晢を規定しゃうとする。厭世家は其の悲麒説から、瓧會主義者は自由 學者が、常に其の念頭に懸けた問題である。成程大問題だ。金星に平等の思想から此の人生を論じて、物 0 かべき筈の人生を説く。 人類が棲息してゐるか否かを研究するよりも、更に難解なるは、此此の他、種々の宗敎とか、倫理學とかは、皆な競って理想の實現を 希望し、且つ自家の信徒を造らんと勉めて居る。 の疑問であらう。 6 琿第が、自説の效能を述べ立つか 6 御、恰も藥屋の廣告 い少しい氣か換〈て考ふ扣い、此の間題ほど詰らぬものはな い。何處から來たかとか、何處に往くかを苦慮して、或る解決を下か、さもなくい衞生學者か議論 6 ゃうである。寶丹、淸心丹、ゼ いづ ム、仁丹。廣告で見れば孰れも諸病に效能あるさうだが、いざとな した所で、畢竟するに、安心の基礎は信仰に外ならぬ。故に其の信 仰ゅ力が消滅すかい共に、印い第かか解沁、一 6 御 0 れば孰れが良藥か分らぬ。一方の論者は水浴を薦め、他方は之れを 非とする。或る醫師は肉食を薦め、他の者は野菜食を可とする。吾 きものとなる。 くるし 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 今日、如何なる信仰が存して居るであらうか。勿論、宗敎家、哲人は其の孰れを奉ずべきか、全く選欅に困む。思想界に於けるも亦 士といふ人もある、また各宗の信徒もある。併し共の胸中に立ち入此の如い、種様ゅ小ズ 3 が有って、孰れに組いて宜しいか全く って見たならば、何程の信仰が殘って居るであらうか。口にはと不丱で、霧 0 彷カるなくんばあかずだ。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 人間の體内には遺傳性ある如く、社會其の物の中にも、遺傳性が いひ、キリストと云ひ、祈疇に妙な音調を用ふる人々の胸底に、ペ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 テロ、・ハウロの熱烈なる信念が存してゐるであらうか。恐らくは零非常に多數存在してゐる。こは自己の思想でなく、先代の作ったも コム・フロマイズ のを、其儘に傅承して、此れで萬事を處分しゃうとする人々のこと であらう。恆に瓧會と讓和しつ又ある彼れ等に、信念があると言 である。所謂保守派の人々は言ふ迄もなく、遺傅的人物であるか、 ひ得るならば、砂石にも知覺ありと稱し得る。 科學的研に依て、昔印 6 陬薄かい。今印の沁々は、客進歩派とても、同じく此の種の人物である。何となれば自己の造り 鉚 0 證呷かかがの 6 蜘い、価事かい信ずかいいい丱來拠。ま上げた思想よりも、寧ろ他の思想を受け次いで、人生を處理せむと 現實主義の諸相

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9 9. う、屹度見てをれ、一年とは續かぬから、などと五寸釘でも打ち込 みさうなものがあるかと思へば、ぐっと高くとまって、おれ等が見 れば小供のいたづらだ、ワハ、、、、と、時平公の七笑ひ、苦しい のか可笑しいのか分からぬのもある。 早く飽きられるかも知れぬが、飽きられぬかも知れない。飽くの 飽かれぬのと、浮氣者の言ひ草に類した事はどうでもいゝだらう。 無論思潮といふ者は何所の國でも變って行く、變らなければ思潮で はない。今の自然派でも、乃至は理想主義でも、寫實主義でも傾向 僕は自然主義賛成だ。少くとも今のところ、日本の文壇では是れとなり思潮となって出て來る以上、萬年不易であられてはたまらな い。何年かの後には、フランスの跡を追っかけて、自然主義が神祕 が一番新しい趣味だ。いや端緒は以前からあったかも知れぬが、小 詭界に明白に乘り出して來たのは新しいことだ。ュイスマンで一轉主義なり、標象主義なりに變って行くかも知れぬ。けれども單に將 しかけた、プールゼーで反對になった。それは遠いフランスの事で來變って行くといふことを豫想するために、現在のものが價値を失 ふ譯はない。フランスではもう一立て場前に行ってゐるから、自然 ある。二十何年後れて居ようが居まいが、わが讀書界がネチュラ - リ ズムと西人の呼ぶ趣味を眞に身にしめて味ひ知らんとするに至った主義を過去のものとして取り扱はんとする者もあるのだらう。日本 では自然主義が正にプレゼント、テンスだ、ひょっとすればまだ のは、眼前の事實であるから仕方が無い。長い前途をひかへてゐる フューチュア、テンスかも知れぬ。眞に其の意義を理解し味得する 我が文壇が一歩でも前へ進めばー・ーー前へ進むとは今までに無かった 新しいものを經驗することだーー進んだだけの利益はある。此の意のは是れからである。好い自然派の作品が盛に出でて、特色が十分 認められるやうになった、共の後にこそ自然派は欽の思潮に地を讓 味で新しいものは結構である。 いはゆる っても差支はない。また讓るのが當然の時も來るだらう。まだ現在 或者は、自然主義はい又が、今の所謂自然主義の作物はいかぬと にすらなりきらぬものを、新しいといふので、寄ってたかって過去 いふ。いかぬとは趣意が違ってゐるといふのか、不出來だといふの か。趣意が違ふといふのなら聞きものだが、不出來だといふのなへ擔いで行かうとは、不心得の事だ。 奇態なのは此の自然主義の後に理想派が起こって、それが舊硯友 ら、自然主義そのものとは別の事だ。出來不出來は何所にもある。 今の此の派の作物には、いかにも不出來なものが多いと思ふ。何等就風の復興だらうと夢想する人のあることである。ルナンが理想哲 評かの方法で、もっと實の人生をるといふことと併せて、もっと藝學の後に文壇の祕主義起こるといふべアリング式の論法から言へ 術的良心を修養するといふことは、今の靑年作家の根本要件であば、理想派といふに難はないとしても、硯友瓧風を比較に取るに至 すぐ 蒲る。しかしながら其の目ざしてゐる傾向はおもしろい。是れに批難っては大に難儀だ。隨分妙な事を考へたものではないか。勿論傑れ を加へることは無い譯だ。 た作家になると、後世の讀者をして時々思ひ出したやうに回歸熱に 無い譯の批難を強ひて加へようとする所に種々の滑稽が演ぜられ罹らせることはある。スコット、デューマに至るまでさうである。 る。自然主義、はいゝが何だか氣に喰はぬ、今に飽きられるだら紅葉も一葉もさうであらう。けれどもそれが同じ思潮の復興を意味 「蒲團」を評す

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果して實現されてあるか否かを、疑はざるを得ないのである。或る かといふを暴露するのみである。 敎理には不朽不滅の眞理が含蓄されてあると稱せらるゝが、その眞 人間が靈ばかりで動くものならば、藝術家も、理想家の歡迎する 理は、如何程現實界を支配してゐるであらうか。別方面かか言 ( ゃうな小説脚本を作るであらうが、現實の社會には、斯様な人間を ば、現實界は如何なか眞琿っ造、善扣て有るつみらう 認むることは出來ぬ。勿論人間を抽象的に考ふれば、如何様にも描 か。吾人鉉に例を擧ぐるの必要はあるまいと信ずる。たゞ一言、如寫することが出來る。或は神的人物も作り得られやうし、共の正反 何なる敎理や理想が、いかなる程度に於いて、實現されたか、と言對にサタン的人物を想像することも出來るであらう。併し現實界 ふ疑問を掲げたならば、誰人も此れ等に畏服すべき權威の無いことは、想像の世界ではない。生きた人間、性慾あり、生存慾あり、脚 を悟るであらう。 しはし 底地を離るゝことの出來ぬ人類が、此の現實界を組織してゐるでは 屡ば言ふ如く、吾人の最後の試驗石と見做すべきは現實である。 ないか。而して之れを如實に描寫するのが藝術である。 此の現實の、堅固にして復た無限に大なる岩石に對しては、如何な 紛々たる現實界に對いつ、等 6 琿想的判斷か下ず、か解沖 ◎ 0 る權威も屈せざるを得ないのである。此 6 坤合 0 於いて、吾人の態 を附與することなく、有第 6 儘を眺むるのが自然主義であって、此處 度の一い、ナ〈て 6 邸襲想か脱知いつ、喞和ゅ儘ゅ塘實かが藝術の範圍である。換言すれば、自然主義なる語は、飽く迄も藝 むるのみであか。俚諺に、泣く兒と地頭に勝たれぬとあるが、現實術上に用ゐねばならぬ。若いい塘第第 0 對いて等かゆ解沖か 2 い は印ち泣く兒である、地頭である。恰もデカルトが、終に自己一人たならば、そは既に藝術か卸域外 0 丱でたも 6 と言御擲ばなかか。 の存在に歸りし如く、吾れ等は我が眼前に橫はる事實、吾が胸中に その解釋を發表する形式は、脚本であると、小説であると、詩歌で 往來する事實其の物の外には、何事をも認むることが出來ぬ。いあるとを間はず、一たび理想を持って現實を眺むるからは、無解決 て其の現實其 6 物が吾れ等ゅ基礎でみ 0 て、地ゅ描寫が、印ち藝術の態度を守る ~ き藝術範圍の埓を越えたものである。かのト ~ = ト となるのである。 イは漸次に解決の道を拓き、遂に原始的基督敎の精神を以って、現 道德論者の所謂至善といふ理想が、果して現實を支配するもので實を批判するに至った。乃ち彼れは何時しか藝術の境界を踰えてし あるか、現實に於ける善は、果して至善と云ふ理想に契合するもの まひ、その天賦の藝術家的才能は、光彩を失うたから、ツルゲネフ であるか、毫も吾人の解釋し得ぬ所である。之扣を裏面かか 2 をして、かの言を成さしめたのである。 ば、現實に或かいか物静いかっ観察いついなかぬ。吾が主顴 0 自然主義を論評する諸氏は、先づ此の境界線に就いて、絶えず注 構成した思想脚靜か驟つつ、か現實 0 情い、或か物か排斥する、意して貰はねばならぬ。 決非難すかいいふ熊度を棄つつ現實を蜘かなゅわい加かかゆっかか。 宗敎家や倫理學者は、一一言目には世間が墮落したと云ひ、藝術家が 四解決の道路 解其の妝態を描寫するのを非難するが、藝術家は初より客觀の状態を 見て、醇化したとか、墮落とか、退化とかいふ判斷を下すことは無 吾人の性として、無解決状態に安住することは出來ぬ。如何なる 左いのである。たゞ現實は斯くの如きものである、心身、靈肉兩面を 1 題をも、分析し得るだけ、解剖し得るだけ研究せむとする精神 有してゐる人類の行爲は、如何なる場合に於いて、什麼の形を取るは、たしかに吾人々類の一性向である。

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346 雲、疾風、襲はぬさきに遁れよと、 この一聯は、又等しく氏の詩そのもの乂象徴であるやうに思ふ。 激越せる情調、深刻なる情趣それ等は、氏の領ではない。現代人の 苦痛、現代人の悲哀、現代人の不安、それ等は全く氏の詩に出て居 ないではない。寧ろ氏は好んで、それ等の切ない情緖を歌はうとし て居る。しかし、氏は終に歌はうとするそのものを歌ふ事が出來な いで、常に知の鑿で彫んでしまって居る。氏はまだ遊戲詩の域を脱 し得ないで居るのではないか、苦痛、悲哀そのものを歌はずに苦 痛や悲哀を樂しみながら歌って居るのではないか。 ◎佛教の説に有にあらず無にあらず、非有にあらず又非無にもあ 吾人は前號の社論及び本號の社論に於て、我が國の新體詩は、内らずと云ふ事がある。自然主義者が人生観照の態度に、この論法を から湧いて出て形を成したのではなくて、形が先に出來たのだと云持って來れば、それは解決にあらず無解決にあらずと云ふ事になら った。有明氏は、この詩と云ふ形式を以て、情絡を表現して行くと う。或一派の論者の如く自然主義が人生觀照の態度を以て、無解決 云ふ我が新體詩の極致を示したものと云ってよい。形を先にして起と解決するものであるとするのは、考の到らないものである。自然 ったわが國の新體詩と稱するものゝ起原經過をさながらに、繼承し主義者が人生を觀ずる態度は解決を絶したる、少なくとも解決無解 て、さまみ、に工夫し、さまみ、に開展せしめ、且その上に西歐の決を眼中に置かぬものでなくてはならぬ。あらゆる念の何れにも オーソリティーを置かぬと同時に、あらゆる念の何れをも無視し 風格をカの限り取り人れて、終に今日に至った效果を最もよく收め 得た詩人は有明氏である。更に明らかに云へば我が國の所謂「新體除去せぬのである。擴充せる刹那の絶對的態度である。 ◎自然主義者があらゆるオーソリティーを無視する態度を以て、 詩」を完成して、その極致を示したものは、有明氏である。而して 將來の我が國に詩と云ふ文藝の存在が可能であるとすれば、この有そはやがて新しきオーソリティーを得んが爲めの破壞であると斷ず 明氏によって收められた在來の所謂新體詩の效果を全然棄却した上る人がある。甚だしきは自然主義を以て新理想主義に至るの階段で に、起り來るものでなければならぬ。吾人が「有明集」を讀んで感あるとる人がある。これ又至らぬ考である。やかましい形而上的 じた所は、有明氏が所謂新體詩の最後の勝利者である事と、更に全の談議はいざ知らず、極めて通俗に考ふる時は、自然主義の態度は く新らしい詩の起るべき時期に至ったと云ふ事とである。たゞ吾人信ぜず且疑はぬ態度である。あらゆる傳襲的理想に對しても、矢張 の感想だけを遞べて、この光輝ある詩集の批評に代へて置く。切に りこの信ぜず疑はぬ態度を以てするのである。その初め自然主義的 態度を採ったる人にして、後或る理想を立てたりとするも、そは決 作者の寬恕を乞ふ次第である。 ( 明治四十一年三月「早稻田文學」 ) して自然主義そのものが理想主義そのものに變形したのだとは云へ まい。自然主義と云ふ名稱に惑はされて、何等か一種の主義方針を 定むるのゝ如く見做すは淺見である。自然主義は決して一個別様 の人生を立するものではない。そは萬人を通じたる生活の發足的 のみきイ、 自然主義の絶對境 0 0

10. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

が最後の聲を發したるよりも、美妙なりと言はざる可らず。氏以て べき。然れども超自然は、現實を離れて、幾許の意味を有するか。 如何となす。 現實世界の研究を離れ、現實と避かり、現實と反對して、何處にか 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 吾人の望む所は精訷の自由獨立なり。「物質文明の世界ーに屈從 理想主義は成立するぞ。レヰスは予が言はむと欲する所を言へり。 0 0 0 0 0 日はく、「詩的心意は、普通の心意が平凡に解説する細事に、高周せざる精溿の獨行なり。理想の勝利なり。吾が肉體に現るゝ行爲 サゼッション にして感嘆すべき動意を見る。而して理想派の眞義は最高にしは、因果律に束縛せられて、當然の果を得るも、精訷的理想が、此 て、尢も感動すべき形に於ける此の現實麒に在りて、現實より遠かの狹隘なる牢獄以外に獨立する所に、大自在あり。釋奪は涅槃に入 るも、精靈は獨立す。これ悲劇の成立する所なり。理想と現實との り或は之れに反對せる或物の觀に在るに非ず」 ( ゼ、プリンシプル、 オフ、サクセス、イン、リタ一フチュアーーー第三章第五節 ) 衝突より、理想の勝利に終るもの、これ悲劇の妙奥なり。讀者の之れ 現實に忠なるの後に、不易の理想的作出づ。沙翁の作が最も現實に接して快感を覺ゆるは、其勝利を見たるが故に外ならず。これ余 の贅言を俟たずして明かなり。されど斯くの如き結尾は、現實世界 的なりと稱せらるゝは、今更言ふ迄もなし。又詩歌たると繪晝彫刻 たるとを問はず、大作と稱せらる乂物にして現實を基礎とせざるも 6 硎究措きては到底望み難し。又此れが爲に殊更に不自然を畫く の必要何處にかある。若しも詩人の眼を以てすれば、尤も卑近なる の何處にかある。超自然は印然い衝突ぜず。否自然の研究進んで、 0 0 0 0 始めて超自然の意義確固たり。印ち智的方面ある超自然にして始め者の裡にも、理想の勝利を見、且っ之れを現し得べし、否、現實を 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 て深意あり。歐洲の文界が、寫實主義を棄て、想主義、或は新覗はずして、理想の成立は望むべからず。現實を知らずして、理想 の自由を追ふこと能はず。 マンチシズムに轉じっゝあるは、決して現實を棄てむとするものに 醒雪君は、漠然たる意味に於いて、不自然を説く。これ予の氏が 非ず。トルストイの作、ズーダーマンの作、或はシェンキヰチ、メ レヂュコ〔フ〕スキーの歴史小説等、皆な事實、現實を基として、 意見を採らざる所以なり。若しも現今の作家に向って寫實の弊を説 かむと欲さば、明瞭なる論法を以てせよ。 其處に理想を表さむとす。超自然主義は可なり。然れども其の爲に 0 0 0 0 0 更に吾人は言はむ、吾が小説界は、未だ充分に寫實主義を咀嚼せ 漠然不自然を作れと言ふは、餘りに大膽なる論法にあらずや。 0 0 0 0 0 0 9 0 氏は因果律以外の天地を作れといふ。然れども是れ亦朦朧たる説ず。吾が所謂寫實派とは何ぞや。皮相の模倣に外ならざるにあらず ゃ。固より歐洲の一派にも此の弊あり。されど寫實派の特色は、事 明に非ずや。吾人は固より自由の天地を愛す。現實世界を去りて、 0 0 0 0 か「桃源洞裡太古の人たらむ」ことを希ふ。されど其の自由は、吾が肉物の主脈の研究にあり。ダーヰン 6 進他物或はロムプロゾーの犯罪 體 6 印なりや、或は精 6 印喞なりや。氏は一面に於いて其の第第學、或い病理學、或は心理學等の科學的思潮に浴して出でたる文 0 0 0 0 0 一義の不自然に此の自由ありと認むるが如し。ち物質的自由を描學、ち寫實派なり。其の弊として或は科學を誤解したるもあらむ けと言ふに外ならず。淺薄も亦甚しからずや。偶然の出來事、或は ( ゾラの如く ) 或は事實其の物に束縛せられたるもあらむ。これゾ あり得べからざる事を造って、自由を示ぜと論ずるは、人間の欲求一フの弟子たるイ〔ス〕マン、モーパッサン等が、ゾラを棄てたる 0 0 0 0 0 は單に體質の自由なりと見たるものに非ならすや。若し此の意味の所以なり。然れども現實其の物の研究は、決して等閑視せられず。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 確自由を許せば兒雷也豪傑物語を以て大作といひ、白縫物語中の老將例〈ばダンスンジョーの如き其の例なり。って吾が小説界を見る に雎寫實派の寫眞物方面を捕〈て、能事終れりとす。この時に當っ が一たび死して、何時の間にか生き返りたる點を以て、デスデモナ ヴィジョン いかん