ナポレオン - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集
10件見つかりました。

1. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

0 ナポレオンは乂、悟ったね。 一度偵察にやって見い。 ダリュー却って此のアンドレー君などが十九世紀の若い息を呼吸アンドレーは。 ( 再び下手へ行って令を傅へる ) してゐて、自然と詩人になってゐます。 うそ 、どちらのダリュー町が段々靜かになって來るやうに感ずるが、藷かねえ。 ナポレオンふん。若い者の時代か。俺なぞはダリュー 動く光線や活きた音波の刺戟といふものが、まるで無くなったや 組か、若い方か古い方か。 ダリュ うな感じがする。見給へ、馬鹿に森として來たちゃないか。河の さやう : : : 陛下は勿論私なぞよりも若くていらせられる 瀬の音が聞える。 し、國家の上では新しい時代を代表せらるゝのでございませう。 モルチェールは又、生の町がまた死の町になったかな。モスコウ ナポレオン其の譯は ? ダリュー がポロディノになるのかな。 さやう : : : 十八世紀の纎弱な冷たい文明に對して、強い ナポレオン ( モルチェールの方へ鋧い一霄を投げて ) 熱力の要求が陛下のお體に權化したと申したら、如何でせうか。 わし 馬鹿ッ ! ナポレオンふむ。併し其の力は何處から來るだらう。私に言はす れば運命だ、運命 ! 力はそこから來る。若し私が十九世紀の時モルチェール ( 姿勢を正してナポレオンの方へ向き ) 陛下、お氣に觸りましたら御免下さいませ。併し私は飽くまでも 代を暗示するとしたら、私は運命の權化だと言って貰ひたい。 なんどき アンドレー ( 進み出でて ) 戰地といふことを忘れたくないと思ひます。モスコウに何時敵軍 が現れても驚かない覺悟はして居たいと思ひます。私は今以てま 陸下、陛下、私は雎今の瞬間に於いて、陛下に仙の如き高風を だ確實にモスコウを占領したとは思って居りません。 感じます。運命の權化 ! 何といふ深いお言葉でございませう、 ( ナポレオン、無言のま又往ったり來たりしてゐる。皆々無一三ロ。一同 手が此の通り感激に顫へて居ります。何うか握手を願ひたうござ の胸に一種の氣まづい心持が流れ込む。しばらくして ) います。 ナポレオンよし / 、。 ナポレオン分ったよ、分ったよ。併し私はもう確實にモスコウを ( 微笑しながら固く握手する。其の途端に市街の方で爆發の音が一つ 占領したつもりで居るね。先つきからクレムリンの宮城で、大夜 おびただ する。皆々愕然として其の方を向く。ナポレオンも俄に正氣づいたや 會を開く手筈まで考へて居る。二百九十五寺といふ夥しい寺の うに屹となる ) 坊主どもを集めて論してやらうと、其の演説の腹案まで拵へた。 あが モルチェールあれだ / \ 。外郭に接した東の處に煙が上ってゐ 寺の建物には、殘らず大きな字で Maison de ma mere と彫り つけさせてやらうと考へた。此のモスコウには、お前等のうち誰 る。何事だらう ? うむ。騎兵が這入って行くやうだから、今に を總督にしようかとそんな事まで考へてゐる。モスコウ占領 ! 分るだらう。是れや長く斯うして居るのは危險かも知れんよ。使 もう動かん事實だ。夢ぢゃない、夢ぢゃない。 節は何うしたのだらう ? 何うして遲いのだらう ? ( 一同無言で、待遠しい樣子に市街の方を見る。ナポレオン、こちら ( 言ってぢっと市街の方を見下して立ってゐる。皆々同じ方を見て無 きぎ を向いて ) 一一一口。此のとき一同の胸に一種の不安が萌す心持。やがてナポレオンは そこらを歩きはじめる ) ナポレオン今に來る。屹度來るよ。先つきの報告はまだか。もう ごんげ いかゞ

2. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

ダリュー もう何時だらう ? 日があんな方へ行ったね。何うだら う、兵をやってロストプチン總督を連れて來させては。 モルチ = ール何うもそれがよくはないかな。暗くなると面倒だ ぞ。先つきの爆聲が何か意味があるのぢゃなからうか。 ( ナポレオンはまた市街の方を見て沈默してゐる。日影が薄くなって、 處々の庭木の森が黒んで來る。間を置いて ) アンドレーあ、來たど、ー 報告を持って來た。 ( 騎兵一人、飛び下りて、アンドレーの前に直立し、封書箱を渡す。 手早く開いて ) アンドレーあゝ、是れは先つきの爆聲に關聯した事です。 ( 急いで讀む内に顔の色がかはる ) 是れは怪しからん。大事件でございます。 ( 皆々驚いて聞耳を立てる。ナポレオンも無言で立って聞いてゐる ) ロストプチン總督が囚徒を悉く解放した様子で、其の一人が先程 の爆發に關して我が軍に捕縛せられました。場處はドロゴミロフ の門に近い市街の空家で。爆發の原因等は不明、出火にはならな かったが、附近で擧動不審な一人の韃靼人を捕縛したのださうで ございます。 モルチェール其の韃靼人を調べて見たのか。 アンドレー取調べたが更に口を開かないとあります。 モルチールそれや容易ならん事だ。すぐ市街を警戒しなくちゃ いくまい。 アンドレー勿論やってるやうです。 モルチ , ールそれから其の捕縛した韃靼人は連れて來たのか。居 の るならすぐ此處へ連れて來いって。通譯を附けてな。 命ナポレオンなあに心配するには及ばない。大勢はもう極まってゐ る。この運命は動くものぢゃない。そいつは追っしてやれ。 モルチールでございますが、此の際注意しませんと : ナポレオンいゝさ、い乂さ。それは何か偶然爆發したんたらう グッタン よ。偶然の事だ、恐る又に足らん。 ( 立ってゐる騎兵に向いて ) さう言って行け。 ( 騎兵敬をして引きかへす ) それよりか、一方の様子は何うだ。一向に報告が來んぢゃない か。誰れか此の内で行って見い。 アンドレー私が參りませう。 ( 敬禮をして行かうすると時第二の傳令來る ) お報告か。 ( 下手〈急ぎ足に行くと、馬から飛び下りた士官、あわてた様子で、 聲を潜めて話す。アンドレーの顏色また / \ 變る。他の一一人もって 來て報告を聞き、顏を見合はす。ちょっと密話をして、ナポレオンの 方を振り向くと、立って鋧く皆の方を見てゐたナポレオンの眼と見合 って、あわてて他を向く。同時にアンドレーがっか / 、と群を離れて 進み寄り、顫へた聲で ) 陛下 ! モスコウは空虚で・こざいます ! ナポレオンえ乂 ? モスコウが空虚 ? アンドレーはい、空虚でございます。 ( ナポレオンは聞くと同時にアンドレーの上に投げた鋧い眼光を、市 街の方へ轉じて、無言のま又ぢっと見てゐる。顏の色變る。アンドレ ー共の他、皆々佇立したま一齊にナポレオンの横顏を見つめて、 身動きせず。しばらくの間、森として聲無き氣持 ) ナポレオン馬車を持って來い。 ( 士官の一人走り去ると、跡からナ・ホレオン大股につか / \ と丘を下 手に降りる。皆々沈默のま人績いて降り去る。丘の上には夕日が淋し く薄れて殘る ) ( 幕 )

3. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

8 わし の城へ來なくちゃならん運命があったと思ふ。モスコウは私の戀 これだけでも胸が躍りますね。あれが此の町の命なのだ。命のサ ぜんを 人だ。古い / 、前世からの戀人であったのだ。先つき一目見た時 ンポルが、あ乂して光ってるのだ。不和ですね。つい、そこいら に、私はすぐさう思った。今までこの懷しい戀人を人手に委せて まで煙硝の煙で重くなってゐた空氣が、鉉へ來ると水晶を斷ち切 置いたのが妬ましいやうだ。 ったやうに澄んでゐる。其の中に強い色を塗り立てた屋根や壁が しな ( 振りかへって復た市街の方を見る ) 品を作ってる所は、成るほど女性的ですね。ロシア人は此の町を 前世からの戀人ですね。約束されたる土地ですね。人生 おっ母さんと言ふさうだが、私等には美しい尼さんといふ感じでダリュー にはたしかさうしたものがあります。 すね。 モルチェール處々隨分大きな庭がある。人家の間に森を切って撒アンドレー併し閣下、前世からの戀人といふやうな者は、こんな 北の暗い國へ來てこそ道理と思ひますが、フ一フンスには、少なく き散らしたやうな處だ。何うしても繪本だ。是れが本當にモスコ とも女にさういふものがどざいますまいね。明るい國の人間は淺 ウなのかなあ。夢のやうだ。 い戀をします。共の代り急です。底まで透き徹った小川の瀬のや ( 飽かず市街を見てゐたナポレオンは此の時初めてこちらを向き、近 くに立って居るモルチェールの肩を輕く叩いて ) うに、急な思ひをするのが、フ一フンス人の習ひでございませう。 モルチェール此處で女の話なんか怪しからんな。 ナポレオンおいー いくさ ダリュー フランス男は戦をしながら戀を論ずるさ。 モルチェールはツ ! モルチェール戀を論ずるもいゝが、早く陛下をクレムリンへ御供 ( 皆一齊に其の方を向く ) したいものだな。 ナポレオンモスコウへ來たんだよ。氣をたしかに持たなくちゃい アンドレー ミロフドヴヰッチ少將が歸ってから、彼れ是れ一一時間 かんよ。 近くなりませう。もう、町の使節が來てよい時刻ですね。あゝ御 モルチェール陛下、夢のやうで・こざいますなあ。 覧なさい、今やっと敵軍の後衞が町を出はづれました。あの森の ナポレオン夢ぢゃあない。本當のモスコウへ來たのだ。到頭來た 蔭に續いてるのが共れです。あれでクツーゾフ元帥の率ゐて居ら のだよ。 れる九萬がすっかり退却した譯です。 ダリュー夢が事實になったのですね。 ナポレオンお前にも似合はん事を言ふね。初めから事實さ。夢がダリ = 1 ゃあ、ミ = ラー將軍が市街の入口で盛に歡迎せられてゐ るぞ。貧民どもが珍しさうに集って來るちゃないか。まるで觀せ 何で事實になるものか。俺が。ハリーでセギュール伯に言って聞か 物扱だ。 ぜたのはそこさ。俺には初からモスコウは目に見えて居た。必ず 來られるものといふ確信があったのだ。確信は運命だ。運命は事ナポレオンクレムリン ! 響のい言葉だ。あの邊が宮城だらう な。おい ! 地圖を見せないか。 實だ。 ひら ( アンドレー、市街の地圖を被いて捧げる。ナポレオン、手に取って ダリュー陛下の其の筆法によりますと、モスコウは陛下の運命で 見て ) ございますね。 ナポレオン運命だ、全く運命だ。俺には是非とも一度此のザール ふむ。

4. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

( 顔を上げ、また市街を見入って ) り來たりして居たが、寄って來て ) あれだ。クレムリン、クレムリン。俺はあの宮中の繪を見た事が ナポレオンまだ來ないか。遲いぢゃないか。 ある。あの大きなサロンには、さうく、イタリヤから磨かせて モルチェールもう來さうなものでございますな。おい君、一つ偵 きさを、 來た大きな大理石の柱があった。あの前にアレキサンドルと后と 察にやって呉れ。 が並んで腰をかけて居た。あのアレキサンドルの經質らしい顏アンドレーは。 は、決して愴い顔ぢゃない。私の兄弟にして、つき合ってやりた ( 下手へ行って何か命ずると、一人の士官急ぎ足に降り去る ) いと思った。 ダリ = ー陛下はお疲れであらうから、そこらへ假りに何したら何 ( 直立して凝視してゐた將校等互に顏を見合はせる。ナポレオン、顧 うだらう。 みて ) ナポレオン要らん / \ 。俺の顏に疲れが見えるか。 ねえ、さうだらう ? 全くルッスは憎くない國民だと思はないダリ = ー いや、お顏色は却って瓮よ活氣を帶びて參るやうでござ か。俺は好きだよ、俺は。 いますが、何にしても一週間以來のお疲れでございますから。 モルチ = ール全く憎さげの無い國民でございますな。のろっとしナポレオン俺には疲勞といふ事は無い。此の眼の輝くのは、そ て居て、素直で、勇敢で。 れ、邇命が眼の前に來たからさ。此の晴れた空に、此の壯麗な景 みなもと 久リュー いや、我々の脈管に流れてゐる血が同じセルトの源だ 色を見て、興奮せずに居られるか。ダリ = ーなぞも顔色が違って から : ・ 來たぜ。つい先つきまで君等の顏にはポロディノの影が粘りつい アンドレーそれもさうでせうが、一方から言ふと寧ろ違ってるか あひひ てゐた。死の影がついてゐた。それが今ちやモスコウの影が反射 ら相惹くのかも知れません。異性相惹く道理ですね。永い間冷た してゐる。生の影だ。みんなの眼が躍って居る。今にクレムリン い外部の壓迫で、反抗的に沸いた彼等の血は、永久に熱いので の城へ這入ったら、君等は一番がけに何をするだらうな。モル す。所が、自然が温めて呉れた我々の血は冷熱が早い。僕はむし チェールは何が欲しいか。 ろ、僕が西南の人であるといふ理由で、此の東北の禪祕な國民を モルチ = ール久しぶりで善い葡萄酒でも御馳走になりませうか 慕ひたいと思ひます。 な。 モルチールはゝ、君の言ふことは、あんまり感に入り過ぎて可アンドレー私は先づ靜かな部屋に引っ込んで、この興奮の心の褪 かんよ。第一我々は征服者だぜ。強きものが弱きものを愛する關 せない内に日記をつけたいものでどざいます。 係だぜ、忘れちゃあ可かん。 ダリュー 私もそれに賛成。 丘アンドレーですが、愛は強い弱いの關係ではありません。 ナポレオンさう / 、、ダリューは歴史家で詩人だったな。 モルチェールは乂、生意氣を言ふなよ。 ダリュー 「だったな」は恐れ入りました。 れくさ 運ダリ、ーまあいゝさ。若いからなあ。戦をしながら戀を論ずる筆ナポレオン忘れて居たのだよ。 法だらう。ねえ、君。 ダリュ 9 忘れられて少しも恨みは・こざいませんな。私なぞは新世 ( ナポレオンは地圖を卷いて手に持ったま戈そこらを大股に往った 紀の上にさしかけてゐる十八世紀の影のやうなものですから。

5. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

7 運命の丘 人 ナポレオン ( 四十四歳 ) ダリュー ( 五十蔵 ) ミュラー ( 四十二歳 ) モルチェール ( 四十五歳 ) アンドレー ( 三十歳 ) ダッタン 韃靼人二人 將校下士從卒其他 場所 モスコウ市外 時代 千八百十二年九月十四日の午後 第一場 運命の五 モスコウ市の西南、雀が丘の一部、丘の頂を舞臺の前面に現はして、 背後は一面にモスコウの市街を見下した景色、秋日和の午後二時過の 日たが強くモスクワ河に反射してゐる。市内すべて本文にある通りの 景【】 軍服のナポレオン、馬を麓に乘り捨てた氣持で、数歩先に立ち、つか つかと小急ぎに下手から丘の頂に現はれる。續いてダリ、ー モル チール、アンドレー及三四の將校從卒等登場。 ( ナポレオン、モスコウの市街を見るや否 ) ナポレオンモスコウ ! モスコウ ! ( 叫んで尚熱心に向うを見てゐる ) ダリュ モスコウだ ! モスコウだ ! ( 他の人々も之れに和して、競うて市街の方をる ) そら見給〈、あれがモスクワ河だ。其の向うがクレムリンさ。丸 の内だ。綺麗ぢゃないか。 モルチ = ールなる程、これや綺麗だ。まるで古い繪本が找け出し たやうな町だな。 ダリーあの建物を見給〈。木造だらう。塗った屋根や壁の色も 違ってるね。東洋的ぢゃないか。其の前を、まるで灰色の熊が馬 に乘ったやうなコザークめが、木材を橫たへて通る所は似合って るな。配合がい、ちゃないか。 アンドレー 北國に似合はん明るい町ですね。空氣も實に澄んで る、たしかに訷聖な町といふ感じがしますね。 モルチール眩しいやうだ。金の十字架が、まるで星を散らした ゃうに光ってるちゃないか。あれが皆んな寺だらうか。寺の多い 處だな、外郭も内郭も、見給へ、町の半分は寺だが、尖塔がまる で雜木林のやうに並んでる。其の一本々々に金の星がかゝってゐ るのだ。 アンドレー寺院ばかしが三百近いでぜう。それから處々新月の徽 章も光ってゐます、マホメタンの寺でせう。斯うなると壯觀です ね。十字の星と新月が此の古い街の空に撒いたやうに浮んでる。 および

6. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

第二場 モスコウ市の一方の入口たるドロゴミロフの見附がタ日を負うて遠見 に立ってゐる。路傍の土手上の景。 やっ 髮も髯も蓬々と伸び、垢まびれの顏の蒼白く窶れた韃靼人一一人、土手 に腰をかけ、下の路からかけて向うの方を眺めてゐる體で幕上る。 甲一體どうしたと言ふんだ。馬鹿に騷ぎ出したぢゃないか。 乙町へ這入って來ると言ふんだらうよ。 めえ 甲それにしてもお前をよく放免しやがったなあ。よっ。ほど言ひ拔 けがうまかったと見えるな。 乙俺は言ひ拔けなんかしやしねえ。ただ言葉は一切韃靼語のほか は分りませんといふ風をして默って居ただけさ。なあに、俺の體 はどうせもう、持てあましてる體だあな。殺さうが活さうが、悲 しくもなけれや、嬉しくも無え。總督さんに賴まれたから、火だ けはつけてやるが、つけねえかも知れねえ。どっちだっていゝ事 甲だってお前、同じロシア人だな。賴まれた以上は : ( 向うを見て ) あ人、通るく。あれがナポレオンだらう。來ねえ / 、。行って 見ようよ。 ( 甲が乙を引っ張るやうにして後へ降りる ) 第三場 ドロゴミロフの見附前、夕暮の光景、門の兩側に數人の衞兵が立って ゐる。路を離れて前場の韃朝人一一人及び貧民體のもの三四人まばらに おんな まへな ( 舞臺廻る ) いか 立って見てゐる。 ミュフーに ナポレオンは馬車を降り、徒歩で、第一場の人々を從へ、 先導せられて門の前まで來る。 ミュフー是れがドロゴミロフの見附で・こざいます。御命令で兵は 總て一足先に市街へ入れて置きました。 ( ナポレオンは、見附の入口でばたりと歩を止め、石門を見上げて立 ってゐる。皆々一様に立止まる。しばらく無言 ) わし ナポレオンもう是れでいゝ。此の門さへ見れば、私は滿足だ。今 夜は私は引きかへして此の村へ泊らう。ミュラーは市街の方を氣 をつけい。 ( 一「ロってすた / 、と跡へ歸らうとする。皆々驚く。ミごフー、急いで 其の前に立ちふさがる ) ミュフー陛下、それはまた何うした譯で・こざいます。こまでお 出でになって引っかへすと仰しやるのは意を得ません。縱ひ市民 は遁走しても、市街と宮殿とは殘って居ります。陛下、是れが此 の大戦爭の目的地たるモスコウの町でございます。是非お這入り を願ひます。申すまでもなく危險は少しもございません。ミュフ ーが身を以てお守り申して居ります。危險をお恐れになる陛下で はない。此處からお引っかへしになるといふ法は、斷じてござい ません。 ( ナポレオン、再び門の方を向いて、見上げたま默して答へず ) モルチェールちょっとでも、クレムリンの宮城へ陛下がお這入り になれば、一般の士氣が振ひます。 アンドレー陛下はモスコウの町に這人るのが運命だと仰せられた で・こざいませんか。其の通りになって參ったのです。躊躇なさる 理由はございません。 ( 熱心に進み寄って ) 運命 ! 運命 ! 陛下、運命の門はこに開いて居ります。ただ 一足です。クレムリンの門も開いて居ります。我等、フフンス入 あゆみ たと

7. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

13 清盛と佛御前 の手で明けて待って居ります。あれ程待ち焦れておいでになった モスコウへ來たのでございませんか。陛下は運命の權化だと仰し みた やった、あの豫言が今一足で充されます。よしロシア人は一人も 居なからうが、フ一フンス人のモスコウで結構でございませんか。 何うかお這入り下さい。陛下、我々がお手を取りませうか。馬車 にお召しなさいますか。 ナポレオン ( ぢっとアンドレーの顔を見て、や、涙ぐみ ) 運命 ! 運命 ! 運命の門 ( アンドレーの肩に兩手をかけ ) 序言 此「淸盛と佛御前」は數年前單に「淸盛」と題して本誌 ( 「早稻田 空虚なモスコウ ! 空虚なクレムリン ! はゝ、はゝ。 ( 絶望的に笑ひすてて、すた / 、と門の中に這人る。皆々驚いてつい文學」 ) に掲げたものを、一昨年一度其の第二幕だけ改作して本誌に て這入る。跡に衞兵も見物人も居なくなると、先程の韃靼人二人門の再掲し今回いよ / 、藝術座大正五年度の春季興行に上演する目的で 前に進み出で、人々の這入った跡を見送って ) 改めて第一幕第一一幕とも殆ど面目を一變するまでに作り直したので ある、此たびは第一回を一月二十四日より大阪中座、京都南座、神 乙運命の門だとよ。 しゅうらくくわん 戸聚樂館で開演し三月二十六日より東京帝國劇場で開演すること 甲這入って行っちゃった。 になってゐる、其の役割は、 乙は、は。 佛御前 ( 二十四五歳 ) 松井須磨子 ( 乙が氣の無い笑ひを一聲したまゝ、二人とも口を明き、窪んだ眼を 一杯に見ひらいて、無意味に門を見て居る。日が暮れて行く ) 淸盛 ( 六十歳位 ) 澤田正二郞 宗盛 ( 三十四五歳 ) 中井哲 ( 幕 ) ( モスコウはフランス人にはモスクウであらうし物クレムリンはロシア人にはクレ 叡山の法師順念 ( 五十歳位 ) 宮島 ムリださうである。又ダリューは實際は此の時四十六歳であった。是等は舞臺上の 同西念 ( 三十歳位 ) 小川洛陽 發音の便宜や筋の便宜で詩的特權の自由を用ひた。 ) 安部資成 ( 三十歳位 ) 中田正造 ( 明治四十四年四月「早稻田文學」 ) たいふはうぐわん 大夫判官季貞三十七八歳 ) 宮城千之 侍士三十一一三歳 ) 花田幸彦 妓王御前三十一一三歳 ) 三好榮子 よしえ 侍女澤井嘉枝 侍女磯野不一一子 尚、此の劇の舞臺面、衣裳道具共の他詳細のことは、大正二年五月 植竹書院發行、「影と影」と題する私の著作集に收めた初作による、 盛 と せんし

8. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

イよ アダムとエ・ハとは智識の果實を喰ひたるが故に、エデンの樂園を 逐はれたりとか。げに恨めしきは知識ならずや。吾れ等成人は、今 日少年時代に歸りて、美麗なる幻像世界に暿戲せむと欲するも、既 に現實を味ひたるが故に、望みても爲し得べからざるに非ずや。享 樂の絶頂に在る幼年すらも、或る場合には、現實に歸らざるを得ざ るなり。創世紀に於ける蛇にも似たる惡太郞は、邪見の棒を振り廻 して、仲好く飯事する少年少女を苦しむ。少年少女の樂める凡ての 幻像は、惡太郞の一喝と共に破れて、有りの儘の現實は、頗る殺風 景に現じ來り、可憐の少年少女は、泣いて其の保護者の家に歸る。 一最も樂しき經驗 譓第がかか有ナか御扣等い幸かい。吾第現代の人々は幻像 を失ひて後、歸るべき家なく、倚るべき保護者なきにあらずや。實 貴老若の別を論ぜず、荷しくも自覺を得たる人に向って其の最 に宗敎も哲學も、其の權威を失ひたる今日、吾れ等の深刻に感する も樂しかりし經驗を間はゞ、諸種の答案ある・〈しと雖も、子をしていのは幻滅の悲哀な、現實暴露の苦痛なり。而いて地 6 痛苦を最 試嶮官たらしめば、「飯事」の二字を以って應へたる人こそ、眞にも好く代表するもの、印然派か文學ない。 人生の快樂と苦痛とを味ひたる者なれと言ふに憚らざるなり。 如何に富貴の人なりとも、或は位人臣を極むるも、或は靈界、學 ハムレットの悲哀 ま、こと 界に於いて顯著の位地を占むるも、其の享樂は、飯事の無垢なる歡 粽に及ばざるべし。新婚の夫婦を評するに當りて、「彼れ等は飯事 古今東西の歴史は、現實暴露の悲劇の連續なり。ギリシアの哲士 しばし を爲す」とは、吾人の屡ば聞く所なれど、而も其の飯事は、幼年時 が、悲劇に關する研究を試みたるより以降、幾多の碩學、此のため 代の飯事にてはあらざるなり。婚夫妻の飯事御、既に現實世界か に數千言を費したりと雖も、予は僅小の辭を以って之れを説明し得 波瀾の一部を潜りたる後のもかな第。幼時の其は未だ現實世界 0 べしと信ず。日はく、幻像の破滅いて、現實の赤裸々に現れ來る所 漂はざる前の遊戲なり。 に悲劇あるなり。ギリシアの滅亡、ローマ大帝國の瓦解、ロ 1 マ法 飯事せし時代に還るを好まざるもの何處にかある。かの周圍の萬王權の衰頽、ナポレオンの末路、近くはアリアンの世界統一的空想 象は、悉くこれ美しき幻像にあらざるか。一莖の草も、片々なる一 の破れたる、復た我が國に於いては、壇の浦に於ける平家一門の滅 葉も、一小土塊も、人形も、木片も、皆な異彩ある道具なり、秀麗亡、大阪城の沒落、德川政府の崩壞、皆なこれ美しき幻影を眺めつ なる人間なり、山海の珍味なり。詩人哲士をして、飯事しつゝある っ現實を忘れ、倏然幻月の如く、空華の如き理想と實の世界との契 なが 幼年男女を詠めしめよ。に愛の種々相あり、道義禮法の發現あ合せざるを悟りたる大悲劇に非ずや。物ふに讀史の興味は、功史 り。若しも出來得ぺいかば、吾人い地 6 飯 6 經驗か終世純かいかかナいつ、躑第露 6 悲い在い。邨いな扣ば鉉 0 沁い 6 深第 ことを欲す。 存するが故なり。 現實暴露の悲哀 いづこ

9. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

ホーリ 1 ツリニチー りに見て、我れは眞實我が身の此の境にあるかを疑ふの肩に堪へな ・ハストと言って此の寺にある半身像は、 かった。 世にあるシェークスピーアの肖像中でも最も古いと信ぜられるもの けれども、斯ゃうにして墓前の欄に手をかけたまゝ、しばし茫然の一つである。是れからそれを一見しようと、振りか〈るはずみに さき たる胸の底から湧いて來るものは、一種の喜悅光明の情であった。 後から聲をかけるものがある。誰れかと見れば、に誕生室で會っ がらん 伽藍の中は取りわけて空氣がひやびやとしてゐる。光線は色硝子に た老紳士親子であった。 透けて明るさを減ずる。場所は人氣の少ない寺院の而も十字架像の 「あすこにある・ハストを見落しちゃいけませんぞ。」 ひや、か へきがん 前である。それにも拘らず、此の時の我れは、千古の詩人が冷に 成程像はすぐ香壇の横、我等の左手の壁龕に安座してゐる。床か 骨を横たへてゐる傍に立って、一種の温さを感じた。嗚呼にこそ ら數尺の上に、黒い大理石を彫り窪め、同じ石のコリンス式圓柱で シ = ークス。ヒーアの靈は安まれと思ふに、おのづから、肅然として左右を裝飾した龕中に、半身をあらはしてゐる石灰石像が印ちそれ 容を正しうするの氣は生ずれど、されども哀傷の心寂寞妻愴の倩はで、本來は赤の上衣に黒の袖無しガウンと、粉塗の跡あざやかであ 絶えて萌さぬ。むしろ愛慕の感、同悅の感、光明の感が身邊を圍繞ったといふ、その服裝は人のよく知る通りである。左に紙、右に鵞 するやうに思はれた。由來英雄の追懷は如何なる莊嚴美麗の形に於べンを持った手は臺の上にさ又〈られて像の下にはたの「停まれ行 いてするも、畢竟生時の燦爛と死後の變易荒發との對照に外なら人、何とて御身然は急いで行き過ぐるぞ」云々の文句を彫った石が ぬ。玉壘浮雲、無主の江山、何れか發墟を傷み荒殘を哀しむの倩で箝めてある。 なからう。所詮英雄を弔するの意は荒發を弔するの意である。而し 「お父っさま、此の像をよーっく見つめてゐますとね、笑って來ま て斯くの如きは亦實に現人生を弔するの意味ではないか。人生は到すよ。そら御覧なさい、ね。」 底其しりへに變易を豫想し發減を豫想しなければ、深切の感味を發 と眼は我れの方を見ながら、娘がいふと、 しない。ひとり我は今、詩人シ = ークスピーアを弔ぜんと欲して此「あ、それは此の像についての有名な話ぢゃ。是れはもと墓作りの の以外のものに逢着した。彼れの追懷は繁榮である、光明である。 ジョンソンといふ土地の石工が刻んだもので、一つは据ゑゃうが心 而して発の藝術の追懷もまたに歸するであらう。滅び行くは人生持高過ぎるからでもあらうが、あの通り顎が二重顎のやうで、顔が の姿、之を、暫く天上不減の光に照して示すものが藝術ではない總體下から見上げた形になってゐる。御覽なさい、日本の紳士、唇 記か。さればいふ、「人生は常に荒廢也、藝術は常に繁榮也」と。 が少し開いて齒でも見えさうではありませんか。あれが此像に特殊 の る の表情を與へて、愛くるしい小供のやうな所が見えるのちゃと言ひ ます。」 離後年巴里にナポレオンの墓を訪うた時は、其の構造の如何にも壯 「いかにもさうのやうですね。そしてあの眼と眉とがまた : : : 」 2 麗を極めてゐるに拘らず、金粉榮華の底に、堪〈られぬ程の淋しさ 「さうですよ。わたしもさう思ひますの。何か斯う向ふに見詰めて 物悲しさを感じ、愴然として寺を辭したが、シ , ークスピ 1 アの墓ゐるものがあるやうですわね。」 に詣でゝは、我れは覺えず笑みの眉を開き、和親の面を輝かして、 7 「さうです。何か普通の人には見えないものを、はっきりと見据ゑ 7 周圍を見まはした。 て寫し取らうとでもしてゐるやうではありませんか。おもしろいで ゅんで

10. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

となれば、ルーテルの主張せし所は、陰鬱なる中世紀の思想を脱し ること能はざるべし。既に現實の世界を賤みて、超自然の天地印ち て、個人の自由なる精紳を發揮せしめむとする文藝復興の意志と、 天國にあこがる又とすれば、これ人世の否定なり、消滅なり。速か 其の根柢に於いて一なるものあればなり。更に降第っ今印か基督敎に自殺しての世界に歸れ。自殺も嫌ひなり、さりとて地に屬する 世界をぜ阜。到る所に憎むいい善 6 御、橫御するに非ずや。所物に從ふも厭なりと言ふ位ならば、去 0 て無人島に往け。吾が日本 謂基督敎徒なる者の行爲を、原始的基督敎の敎義と照合すれば、誰帝國は斯くの如き卑劣漢を要せざる也。また地的を許容する以上 れかまた僞善の徒にあらざる。牧師と言ひ、宣敎師といひ、皆なこは、斷じて基督を語る勿れ。不覊獨立の精神を立て、此の世に處せ れの名をりて、一身の安樂を求むる僞善の徒なり。彼れ等は眞よ。何ぞ訷の名を唱 ( 、僞善の假面を藉るの要あらむや。 の人生界に出で又活動するの勇氣なきが故に、所謂善男善女の臍繰 まいす ゴルゴタの十字架上に死せし基督を以って世界史的活動の源とす 金を絞りて、肉欲的快樂に耽る賣僧なり。牧師宣敎師なるものは天れば、基督敎も一種の意義を有するものなり。何となれば其は今日 下の遊民也。獨立自營の精訷なく、他人の勞働して獲たる金を奪略の歐羅巴を造りたればなり。されど其の活動其の物は、基督敎の精 して、地上の生活を送らむとする卑劣漢也。彼の徒輩は國家の毒素訷と相反するものならずや。看第、歐羅巴に於けか古今か偉人い、 なり、ロに禪の名を唱〈て所謂俗物以下の生活を送る下等動物な孰扣か亦必物静む抱か第い第ぞ。文藝復興の大精神を代 我が國家が寬大なる處置を取りたるに甘えて、陋醜の生活を營表したるレオナルド、ヴィンチを首めとし、ペテ 0 大帝、フリード むもの即ち彼の徒輩なり。彼れ等は基督の敎理を信ずることなく、 リヒ大王、ナポレオン等、皆な純基督敎的精紳の以外に立脚して、 たゞ自己一人の地的平安を追求する俗物なり、否、體の好き乞食文明の發展に貢獻したるにあらすや。 也。若しも基督をして今日の彼れ等基督敎徒を批判せしめれば、彼 畏縮せる中世紀の人生觀を打破して、近世の新文明を作りたるカ れ等皆な三十棒を喰ふ〈し。看よ全國の敎會なるものを、これ正には、純基督敎的勢力にあらずして、むしろ基督敎を俗化せる一大精 愛の讃美歌を以って、陋劣なる靑年男女の痴態を隱蔽しつ、ある匱訷に外ならず。然れども一たび勝利を占めたる該敎は、容易に其の 窟に非ずや。「心の中にて姦淫したる者」は日曜毎に敎會に集合し勢力を失はざるなり。西洋文明の潮流は如何に其の勢力範圍以外に っ又あり。基督は「狐は穴あり、天空の鳥は集あり、然れど人の子超脱せむとするも、容易に成功すること能はず。それ西洋人の思想 は枕する所なし」と言ひたれど、敎會に集る者は、穴ある狐なり、 には、彼の敎理によりて養成せられたる部分あり。其の因襲の久し 集ある鳥なり、枕を棄てざる下等動物なり。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 き、今や本能的勢力を有して、自由の活動を束縛す。彼れ等をして されど吾人は、文明史の上より見て、原始忤基怦亡い、停徳 言はしむれば、これ皆な絶大の眞理なるべけれども、一たび覺醒す 現世間趣味を發見したるを喜ぶ者卯。彼の敎徒が現實 0 世れば、むしろ人生 0 發展を阻害する者に外ならざるを知る〈し。 界に對して嗜好を有したるに非ずんば、今日の文明を見ること能は 彼れ等基督敎御 6 一ゅ琿いか扉御、訷い各がいる趣印加 基ざりし也。扣いい朝い瑯印擲界に對いて崢か有扣い、これ反か秘在 0 いて、地扣に對る停陬かてん和來の面印と 基督敎的精訷の勃興也。此の精あればこそ、鉉に現在の社會を生力。参れば、こ栖ほど無意啝るはなかるべし。唯一溿と じたるなれ。若しも眞に溿を敬し、基督を愛慕する者あらば、彼いふ、これ唯想像に依りて作りたるものを、客觀視したるに外なら れは決して今日の文明に服從せざる〈し、否、肉と地的とに服從すずして、何等理性の批準を經たるものにあらざるなり。想像にて作