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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

或る論理的遊戲の産物を本とするからである。例へば善惡正邪の 若しも文藝なるものが、單に娯樂用のものならば、現實研究を棄 しゃうかう 四差別、これが現實世界に契合するやうに、根本的に確實なる説明をてゝ、那邊に翔するも吾れ等の問ふ所では無い。哲學者が唯それ 獲ることが出來ゃうか。一方には平和會議が開設され、他方には殺推理の力を伸張し、理論系統の圓滿完全を目的とするが如く、文藝 人器が發明される世の中。一方には幾百の人間を苦めながら、他方家も現實を離れて、自分勝手の世界を創造するも敢て不可はあるま には慈善家として旌表せらるゝ長者ある世の中。此の他數へ來らい。所謂藝術ゆかかの藝術主を遵奉する人ならば、共の理想に從 ば、限りのない撞着、矛盾の多い、混沌たる瓧會に在りて、一概に ひ、想像に賴って、面白いものを作るが宜しい。去れど苟しくも文 彼れは善、これは正、彼れは悪、これは邪と判斷することが出來や藝と活人生との交渉、ち文藝の目的は單に與樂のみでなく、別に うか。よし理想を藉りて解説するも、それで滿足することが出來や闡明と言ふ眼目あることを念頭に於いたならば、上記の如くして滿 足することは出來まい。理論の圓滑なる轉移のみが目的である人 は、哲學者となり、書庫の番人となるであらうが、荷しくも理論と 或る意味に於いては、人間ほど愚の者は無い。何故なれば自分自 人生との交渉聯關を欲する人は、或は道德實踐家となり、或は宗敎 身の作ったものに惱まされ居る。而して一部の者は、與へられたる 理喞の爲かにかかいて居か。其の最も好き例は宗敎であらう。或家となるが如く、文藝家が人生との交渉を開かむと思〈ば、亦此の る人々は自分で訷佛とか言ふ理想を作り上げたが、其紳佛が思ふ様現實世界に觸れなければならぬ。而して其の現實界に對する態度、 加ち現實を見る方法は、一切の理想や道德を放棄したもの、余の所 に現實界を説明し得ぬために朝夕苦悶する。次に復た或る者は他人 謂破理顯實の態度であらねばならぬ。今日の所謂自然主義なるもの から此の理想を與へられて無理無體に現實界を此れに契合せしめや うとする。其の心根こそ殊勝であるが、本來水と油の如き性質の物い、正 0 ゅ立脚地に在るもかでかる。否、古今の大文學、部ち今 日尚ほ生命を失はざる文學には此の命脈が傅はって居ると思ふ。例 を、混和融合せしめやうとするのは無智の極である。宗敎家は動も すれば「愚なる者は其の心の内に紳なしと言ふ」と嘆息するが、愚〈ばハムレット或はファウストが今日尚ほ吾人の生命に觸る又所あ なると言ふ形容詞だけが餘計のものだ。心中に紳ありと言ふ人もあるのは、作者其の人が破理顯實的態度をとった故である。 藝術の爲めの藝術主義は別として、功利の爲めの藝術主義も兎角 らう、復たなしと言ふ人もあらう。孰れもこれ現實で、是非賢愚 の別を立することは出來ぬ。乃ち理想から看て、彼れ是れと批評すは理想的に流れ易い。詳言すれば、自己の腦中に造り上げた理想、 或は他より與へられた思想に據りて、現在の世を觀察し、或は現實 ることは出來ぬ。 沁御印分ゅ造っが理懃いいて印を失って居る、言はゞ自世界の幻像を作らんとする。此の習弊を破却して所謂無念無想の態 あらす 繩自縛の妝態に在る者だ。されば若しも吾人が眞に自由を求めむと度を取るに非んば、決して活氣あり生氣あり血の氣ある文藝は起る ならば、先づ戲論を離れ、理想界を去ると同時に、一切の道德的法ものでない。 理想主義の文藝が、何となく實人生に縁遠いやうのもの、現人生 則を破棄しなければならぬ。換言すれば、此の有りの儘の現實に立 脚して思索せねばならぬ。佛に遭 ( ば佛か物い、に朝 ( ば喞を物 6 のやうのもの、又實質なき思想のやうであることは、爭ふこと す 6 覺悟か固持するに非れば、吾がかの獨立自由と 2 實なる人生は出來まいと思ふ。何故なれば理想から此の人生を眺めて居るから である。美とか、詩とか、戀愛とか善とか惡とか、其の他種々のも とを作ることは出來ぬ。

2. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

277 見たり、或は水門を設けて見たり、或は堤防を築いて見たりするの は大なる誤解である。かの眞理なるものは、一部の現實を察し、 である。 論理的抽象によりて構成されたものである。印ち個性の無いもの さりながら茲に明白に區別して置かねばならぬことがある。それだ。善とか、美とかいふ理想は此の種の眞理で、自然派は之れを探 は、人物の生存を自然に描寫すい言うてい、決いて理想か避け用せぬ。只目前の事實其の物が材料である。元より科學的眞理とい るといふ意味ではない。別言すれば、作者自身の思想に依て、人ふものはある。こは眞理と云ふよりも、寧ろ現實と稱すべきもの 物を活動せしめずといふことで、人物其ゅ物が、運沖かい、柵かで、自然派の擯斥するものではない。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 造り、瀬を作るなかば、これをも其の儘に描寫するのが、自然派 6 更に一歩を進めて考究いかかかい、現實に二種の別を立て又見る 態度である。作家自身が人物の性行に變化を生ぜしむると、人物其ことが出來る。一は外延的現實で、客覿の山川草木、獸類、蟲類、 の物が、自己本來の性質より性行の上に一變化を生ずるとは、全然人間すべて吾れ等の五官に觸るゝ事象である。他の一は内面的現 區別して見なければならぬ。例〈ば甲なる人間が、非常に放埓なる實、印ち吾れ等の腦中に生起する思想、詳しく言〈ば、外來の刺戟 生活をなしたるはて、僧侶になったとする。此の場合に、表現すべ なくして腦中幅に構成さる、覿念、感情、或は理想等は、此の種の き主人公其の人の本然の性向から此の變化が起れば、自然派は其の現實である。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 儘に之れを描寫する。たゞ作者の都合上から彼れを宗敎的に引き廻 此の兩種の現實は、共に自然派の材料である。平凡の人物でも、 はすことは無い。 肉慾に支配せらるゝ人物も、或は理想にあこがる又人物も、或は狂 かく言〈ば反對論者は、左様のことは決して新しき意見ではない人も皆な其の材料である。茲に或る論者は去の如く難ずるであら と冷笑するであらう。元より吾れ等は、之れを新らしきものとは言 う。さらば自然派とて決して新なるものでない、理想的の事物をす はぬ。併し此くの如き目的を逹するには、すべての論理的觀念を棄ら描寫するならば、何も事々しく主義を立て乂、現實現實と大呼す ◎ 0 てゝ、現實に接近しなければならぬことを主張するのである。ち る必要はあるまいと。されど此れは未だ徹底せぬ察である。自然 無念無想、破理顯實といふこいを、尢い嚴椥に守るにからずかい、 派の特色は、何事にも價せぬ點に存する。現實を描寫する 決して現實を描寫することは出來かい主張するのである。 にしても、現實を有價なりと思惟する故でない、唯動かすべからざ る現實であるから、之れを取るのである。また理想的の事物や人物 四現實と理想と價値と を描くにしても、それに善美の意味を附帶せしめぬ。たゞ箇様の思 想も現實の一部であると思うて表現するだけで、其れが優等である 自然派は現實を描寫すといふのを見て、反對論者は、直ちに現實とか或は紳聖であるとか、非凡であるとか、人間本來の面目である とは何ぞやとの質問を提出する。吾人は此の質問に答辯する必要を とかと思考することは無い。 然認めぬ。若し分らぬならば、自然派の作を見れば最も明白に之れを 此の故に、取材の上からのみ印然派を區別する 6 い解である。 知ることが出來るであらう。 部ち材料を聊扱ふ態度の上から、此か派也い區別して見かいない されど尚ほ鉉に誤解を防がむため、一二の説明を加へて置かう。 ぬ。現文壇の自然派の人々が、理想的でない材料を選擇するのは、 或る人は、此の文字と晢學者 5 扉物眞琿とを可一視してゐる、いれ會ま其の方面の材料が、從來棄て又顧られなかったからである。自

3. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

のは、皆な論理的遊戲に據りて、現實を遠かった點に祭り上げられうか。 た。美の所在を主觀に覓め、其の發揮は具象的ならねばならぬと迄 父祖傳來の宗敎道德哲學すべての遺物を大海に投げ棄てゝ直接に 論じた美學者も、遂には美を説くに抽象的、理想的方法を以てして 現實世界に面し、更めて其の意義を發見するのが、吾れ等の進路で 居る。こは其の美論が文藝を作る實際の場合に何等の用もなさぬこ あらう。古人とても或は現實に據って確實なる理想を作ったかも知 とでも推知されやう。詩も亦理想化されて力あるが如くに見做さ れぬが、其の理想たる、今日では無用の長物だ。否、これが爲に現 れ、戀愛の如きは極點まで持ち上げられて神聖と言ふ王冠すら戴い 實の一部は、慥かに隱蔽され排斥されてある。其の例は直ちに掲ぐ て居る。善惡正邪の如きは、勿論或る理想から判定されたものであ ることが出來る。何ぞや、吾人々類の肉的方面これである。吾人が る。 直接に知って居る現實は心的と肉的とである。然るに理想派は心を 斯く理想を懷いて人生に對し、自然に對いたならば、羚か理想に上として肉を賤み、肉の征服を以って究竟の理想として居る。隨っ 恢ったやうの事柄のみが眼中に屮かれ、印分ゅ材料とした現第ゅ て肉的方面の描寫の如きは之れを避け、よし描寫しても悪德として 發展は、理想といふ鑄型に跼蹐する。トルストイが人生を察し、 現はしてある。何ぞ知らざる、肉が心を征服する現實あることを。 或は小説を作れば、皆なトルストイ色を帶びて、實の世界とは頗る これを惡とし醜とするのは、無用の長物たる理想に執着するからの ことに。 遠い物が生れる。元より此の種の作物は面白い。併し其の趣味ある は、活きた人生を表現したと言ふ點でなく、其の思想や材料を、自 文學者は一種の創造主であるとか、人は自然を征服しつ、進む者 己の主義に合はせて發展させ、構造しか巧妙かか手段に存する。吾 であるとか言ふのは、皆な人間、文學、自然などを抽象的に思惟し 人は其の妙技にこそ感ずるが、現實の寫像としては受取れぬ。 た結論に外ならぬ。或は又曰ふ、現實に忠なるも宜しいが理想が無 寫實主義なるものは、理想主義の缺を補うた。忠實に自然界を描 くてはならぬ、理想を與へよと。改めて問はむ、如何なる理想を現 寫する、ち我が主観を棄てを・客の相に服從した點は、大に理實中に置くべき乎。 想主義の弊を矯めて功績著しかった。陬い地の寫第主義なるいの 一切の理想を悉く棄てゝ、現實を直観して新なる意義を發見する も、終に亦一種の理想主義となった。何となれば科學的研究其の物こと、是れ部ち吾れ等の任務である。 ( 明治四十年十月「太陽」 ) を最高の理想と見做して、此れに信憑すれば、人生の諸問題は悉く 解釋することが出來ると見たからである。事實の陳列といふこと は、決して間違っては居らぬが、其の事實を見るに矢張一柳 6 戲想を以ってする。この派の泰斗ゾラを見よ。恆に厭世的思想を以っ て社會人生を眺め、遺傳説を理想化して、蓮命説を採用し、かくて 的 其の十數篇を綴って居る。要するに理想主義なるものは、父祖傳來 論 の宗敎哲學倫理を基本とするもので、寫實主義は此の宗敎哲學倫理 % 等に代ふるに科學的研究を以ってしたもの、而して兩者共に之れを 理想と尊敬する。斯くの如くして現實の眞相が解釋されるであら

4. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

現實に對するや、現實として此れを取扱ふのみで、決して論理的抽い、描寫ナか如い、寫實主義の一派は、未だ完からざる科學を、不 0 易帥 6 必琿いいつ、一群 6 沁 26 釥か沖いっかか。家庭小説と 幻象に依りて作られたる概念や、理想を以って判新することはない。 自然義なる各い、必藝上 0 かか扣てかるが、ぞい沖いて沁か、宗敎小説とか稱せらるゝものは、皆な理想的に造られたる脚色 新上 6 榔據かい藝静 II か主義でいい、榔掫いの虚無主義的世界を有して居るもので、心理小説とか、寫實小説とか稱せらる又は、 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 新に存ナるいいをて物い擲いかかか。總ての理想的修飾を剥ぎ去科學を本とした脚色を有して居る。これ共に、一種の鑄型を設け りて、眞の現實に逹せむとすること、恰も土塊を除きて寶玉を尋ねて、其裡に人間を箝め込 6 でか。讀者もし此の種の作を見 んとするが如しである。其の思想が、文藝上に現れたるもの、部ちむと欲せば、「新小説」誌上に掲げられた後藤宙外子の「靜苦動苦」 自然主義であって、此處には、美といふ理想も、善も眞 ( 固より哲を讀まるがよい。 自然主義の作家は、勉めて脚色の結構を避けむとする。脚色を設 學上に用ふる義 ) も、何等の理想をも許容せず、只管現實の暴露を くるは、恰い論文を草するやうのい 6 つ、かかか結論、ち結尾 自的とするのである。 がっつかかゆっかかが、印沖い羚 6 煢囀を豫定せぬ。一人 物を捕ふれば、其の人物の自然の發展を記するのみで、秋毫も自家 三無脚色 の尺度を以って、彼れを改造することは無い。恰も水の流るゝ如 、人物が其の本然の性に從って生存する状態を、僞なく、自家の 現實其の物 6 いか印とするのであるかか、自然主義の作物に 鑄型に容る又ことなく、描寫するのが、現實に忠なる自然派の目的 は、脚色なるものは無い。これが其の一特色だ。 自然主義以外の作物を見るに、孰れにも必ず脚色がある「興味中で、ツルゲネフの作品は最も良き無脚色小説の代表である。又我が 心主義のものでも、或は理想派のものでも、各其の目的にふやう最近の文壇にては、長谷川二葉亭子の作「平凡」が好例である。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 結構なく、改造なく、毫も彫琢を施さぬから、現實其のまゝが表 の結構がある。今理想派を例として見れば、一人物を捕へて、これ 0 0 0 0 を自家の人生観内に鑄造する、部ち自家の思想や、觀念を發揮し得現される。隨って先時代の人々や、理想家、或は道學者の所謂醜な るもの、非美なるもの、反道德的、反宗敎的、非藝術的のものが、 るやうに、其の人物の行動を述ぶる。素より其の記述には巧拙の別 がある。かのトルストイ翁の如きは、非凡の麒察力と、心理解剖の作中に表現される。恰も凹凸なき明鏡に所謂善惡美醜の一切が、僞 手腕あるために、其の人物を、實際に於ける人間の如く、紙面に活なく映ずるが如くに、自然派の作中には何事も描寫されるのであ 動せしむるが、而も尚ほ全篇を通讀した後には、自家の人生を發る。若しも作家の腦底に、論理的、抽象的に造り上げられた哲理、 揮するに相當するやうの脚色を設けてある。かの勸善懲惡主義の小 或は理想があるならば、現實に對して、彼れ此れと取捨をなし、其 の標準に適合するものゝみを表現するであらう。併しながら、水の 説の如きは、極めて露骨に脚色を見せたものである。 如き現實は斯くの如くに流れぬ。河流は淸水も、濁水も、溝の水 ゾラ一流の寫實主義にも脚色は存して居る。ち科學萬能といふ 一概念から、其の科學的思想に契合するやうに、人物を描寫して來も、汚穢も、砂金も、悉く併せ呑んで、地勢のま、に流れ流れて太 る。酒精の害毒とか、遺傳説とか、科學的運命説とかゞ、其の作の洋に朝するのである。其の水の流れと均しく人間の生存する様を描 背景となってゐる。想派の作家が、邯を理想的に顴察い、改沖寫するのが、自然派であって、其の他のものは、或は運河を掘って

5. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

120 こと、而して五官を通ずる物的現實といふことを取り出し、理想的ぜざるを得ないやうな、つまり未解決の心地が殘る。作者は肉的生 精訷的といふことに對照せしめる思想を蔵する。幾ら暗黑醜惡で活が善いとも靈的生活が善いとも自然が善いとも文明が善いとも言 も、それを隱蔽した人生圖は不眞實の人生圖である。我等が人生をはぬ。そんな風に思はせようともせぬ。思はせようとしたらち邪 考へようとするには、之れをも算中に入れなければ間違ひになる。 道である。されば現實の一相として取り扱ふ限り還元主義もよいと 斯ういふ方式で物的現實を掲示する所からまた自然主義の文藝と名同じく、光明主義も唯愛主義も皆よい。十分の力を用ひて之れを活 づけられる。 現せしむべきである。けれどもそれらは作の目的でない。目的は此 の時すり找けて一段高い所に懸ってゐる。 では何ゅゑ特に自然、物質、現實などいふものを自然主義の要 斯う解して見ると、文藝上の自然主義は文明對自然、精神對物件とするか。日はく此等のものは從來の主義の偏したものを解散せ 質、理想對現實といふ所まで、一般思想上の主義と通じてゐる。けしめんがために必要なのであって、其の跡に入り代はらしむべき主 れども吾人の見る所を以てする時は、兩者は此の點を追分にして相義として必要なのではない。理想主義、寫實主義等が文明、精神、 別れるものである。文明に對して自然を見、精神に對して物質を理想等の表面的なものの蔭に自然、物質、現實等の裏面的なものを 見、理想に對して現實を見るとは、一方から言へば既成物の破壞で押し隱した人生を描いたのに反抗して、斯かる偏した人生を破碎せ んがため、隱れた半面を大膽に暴露し、以て眞實な全人生と觸面せ ある。出發點に還元することである。一般思想、就中道德、宗敎、 しめる。約言すれば是れによって本當の世相を知らる。拵へ物の 瓧會等の實際文明が若し破壞還元を最後の解決とした場合には、恐 らく人生は悲劇のそれの如く絶滅するであらう、ち還元主義であ人生でないものを味はせるといふに歸する。決して人生を此の一面 ねはん ると共に一種の涅槃主義である。けれども今日の多數者は是を最後に限らうといふ解決や理想では無い。從って必ずしも是れでなくと の解決として安立し得るもので無からうから、どうしても破壞還元も增さず減らさぬ人生でさへあれば何でもよい譯である。事實に徴 の後には新しい何ものかの建設を豫想せざるを得まい。從って此所して見ても、文明對自然の間題でない自然主義もあれば、肉感醜悪 にまた他の種々の解決が生じて、個人主義にも瓧會主義にも本能主の世界を描く必要の無かった自然主義もある。要は現實である限り 義にも唯愛主義にも嚴肅主義にも之くであらう。さもなければ凡て選り好みをぜぬといふ一句に盡きるであらう。 を信ぜざる絶望のナイヒリズムにも入るであらう。要するに斯くし 論じて鉉に至れば文藝としての自然主義は、内容の上には全く無 條件主義である。在りのま又主義である。現實界が首もなく尾もな て何れにも相對的理想を求めて之れに解決の安心を托せんとするの が自然の成行である。 くあらはな結論の無いのと同じく無解決無理想主義である。斯ゃう な意味での現實主義である。 然るに一たび之れが文藝に入れば、破壞還元の事實はあっても、 それが還元主義といふ解決になって居らぬ、理想になって居らぬ。 九 ましてそれ以上の主義解決は尚さら出て居らぬ。其の作品に接し て、明瞭な歸結を認め、是れだ / \ と言ひ得るやうな氣持は決して 自然主義が折角内容上に所有した實際的意義の足掛りは、斯んな はうてき 起こらぬ。思ひ得たやうな、思ひ得ぬゃうな、却って瓮よ深く瞑想順序で一旦全く抛擲して了ふ。さすれば自然主義の文藝は寫實主義

6. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

學なるものは、推理の哉れに外ならず、究極の眞理も至善も、晝餅研究を、萬能と理想化して、其の幻像に迷うた點に本づくのである。 ノアの子孫はバベルの塔を造って、共の頂は蒼天に逹せむことを に等しいことを自覺するであらう。 元來哲學者や倫理學者が、現實世界と絶縁なる點まで、其の推理企てたが、偖て其の建設中に起った事實は何であるか。高く積み上 力を及ぼして、理想を作りたりとか、或は神的奧所に逹したりとかげた塔の上に居るものと下に居るものとの言語が通ぜぬことになっ 揚言して欣然たるは、人間の有する理性を重要し過ぐるからであたとやら。此れを一種の寓意談と見れば、宗敎的、哲學的に種々の る。理性は森羅萬象の本髑、實相を視る力を有するものと思惟す説明が出來るであらうが、吾れ等から見れば、現實世界を遠かった る、ち理性を崇拜して、此れに迷ふから、遂に途方もなき空論をもの長言は、終に現實世界に在る者の理解すること出來ぬもの、現 樹立するに至るのである。理性とは左程不可思議の能力を有して居實界には毫も用のなきものたるを説明して居るやうに思はれる。げ に今日の宗敎家、哲學者、倫理學者などの論述し、敎誨するところ るものではない。古來幾千億萬の人間が、眦の明性を働かせたので は、・ハベル塔の頂上に腰を据ゑて、下には通ぜぬ様の言語を發して あるが、何等の眞理をも發見せぬではない乎。吾が輩は主張する、 ゆだ 所謂眞理なるものは、此の現實世界、此の人生を説明し得るもの居るに異らぬ。所謂純理哲學の研究に身を委ねたる學者、或は科學 ◎ 0 ◎◎ 0 0 ◎◎ 0 0 ◎ 0 ◎ 0 ◎◎ 0 0 ◎◎◎◎◎ 0 ◎ 0 ◎ で、其の他のものは、如何に巧妙に幽玄に構成されても、是れ只空の研究を導門とする碩學にして、其の言論が現實世界を照らし、且 っ詭明せむことを願はゞ、其の建造したバベルの塔を破壞して現實 想洋蠣戲の所産のみである。 學問界には科學的研究といふことがある。其の特色は空想的理想界に降らねばならぬ。如何に哲學は高遠でも科學的研究は微細に亙 から演繹することに反對して、歸納的方法を採用する點にあると見つても、此の現實世界、雜然紛然たる眼前の客觀と人生とを説盡し ねばならぬが、動もナ扣ばの科學的研究方法其の物も、亦理想化得ることが出來ぬならば、そは皆な論理的遊鼓の所産に外ならぬも らわて、現實世界とは太だ遠い様の理論を述ぶることがある。歸の、である。 最近の思想界に於いて論理的遊戲を試みた一二の例を擧げて見や 納的といふ點は、飽く迄も現實を忘却せぬのであるから、吾人の極力 稱揚する所であるが、茲にも推理的遊戲が加はって、折角の長所を うならば、第一者はトルストイ、第二者はニイチェ、而して第三者 ひもと 壞して、全く無意義たらしむることが多い。歐洲の十九世紀史を繙はメーテルリンクである。ハウブトマンの如きは隨分理想的世界に くならば、社會の大勢が宗敎や哲學を放棄すると共に、科學的研究逍遙しさうの人であるが、現實感の強き彼れは、決して論理的遊戲 に據りて、宇宙の大眞理を看破し得べしと想像した時代のあったこ に沈醉せぬ、共の作「沈鐘」を見て、理想的と言ふは、恐らくハウ とが明白である。共の最も好き代表者を擧げたならば、生存競爭のプトマンの眞意を解した者でなからう。 なき瓧會妝態を夢想したスペンサーも共の一人である、復た科學的 トルストイとは如何なる思想の人であるか。言ふ迄もなく世界の 研究に據りて、宇宙萬象を説盡し得べしと信じたるヘッケルも其の巨人である。されど其の言論は果して現實瓧會に應用の出來るもの であらうか。彼れは基督自身の言に據りて、金錢なく、人爵なく、 一人であらう。「生物學原理」が現實を基礎としながら、而も結論 は現實的妝態を遠離した空想世界に走ったと等しく、「宇宙の謎」虚僞なく、人々自から耕作して自ら食ふやうな衝突なき社會を理想 は、現實を基礎とする科學的方法に立ちながら、而も科學萬能とい とした。そは實に金殿玉樓の如き光彩を放ってゐる。恰も儒者が夢 ふ一種の空想世界に飛行した。此の兩者の誤謬は、科學或は科學的想する堯舜の世の如き圓滿無碍の瓧會は彼れの認むる所であるが、

7. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

プ 89 理的遊鼓を排す な。徒、の如 る。の、妄き か。僞、想 な◎善、の吾 。的、みれ 地◎甘、、の 的◎言、歐既 に、米に 肉。迷、の知 的◎ひ、基る 、督所 自◎讃、敎な 我。美、國り 意。に、ら偶 志◎溺、奉ま 、る、ぜ奇 國。こ、ざ異 萌家◎と、るの 治の。な、も信 四肯◎か、の條 十定◎れ、なあ 年な◎。りれ 五る 0 反◎。ば か。基。徒、 美な◎督◎ら、其 陽。敎◎に、は 的◎基、只 精◎督、架 訷。敎、空 たまた 歐洲の讀者界を慄然たらしめたイプセンの作「幽靈」の女主人公 アルヴィング夫人は、其の子オスワルドに、亡夫の一生涯が破戒無 慙の汚點だらけであることを隱蔽したのを悔いて、自分の卑怯なる を罵った。此の時夫人の相談相手なる牧師マンデルスー・ー所謂温良 篤實な、舊思想の宗敎家との對話は、表面上こそ簡單であるが、意 義は餘程深奧であると思ふ。 牧「そこまでも ( 事實を隱したこと ) 貴方は貴方の義務と責任 おっしゃ をお盡しなさるのに、それを貴方は卑怯と有仰るのですか。子 は父母を敬ふべしといふ事をお忘れですか。 夫「これは然ういふ普通の場合と同じくは見られません。寧ろ 斯ういふのが當然です、オスワルド、アルヴィングはあのアル ヴィング侍從を敬ふべきものか、愛すべきものか、何うかと。 牧「貴方は御自分の令息が理想としてゐるものを破壞するが惡 いとは内心毫もお考へなさいませんか。 夫「それでもそれが眞實ならば何う致しませう。 牧「それが又理想ならば何う爲さるですか。 夫「あゝ理想、理想・ーー若し私が斯んなに卑怯で無かったら ( 以上「新小説」に掲載されたる橋本靑雨氏の譯に據る。 ) アルヴィング夫人に取りては、所謂理想なるものは、何等の權威 をも有して居らぬ。理想を尚ぶ位、愚のことはない。アルヴィング 理的遊戲を排す ( 所謂自然主義の立脚地を論す )

8. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

200 逐ふ善人なりき。 抗せむが爲に生存す。故に彼は能く忍耐し且っ恐懼を知らず。 ドンキオテは全然此の眼前の現實を顧ざる人物なり、否、共の能 彼れは粗食粗服に甘んず。其の意此處にあらざればなり。」 力なき奇人なり。彼れの眼に映じたる現實は、悉く騎士道を標準と ハムレットは同情すべき人物なり、ドンキオテは奪敬すべき人物 して、幻像化せらる。駑馬ロヂナンテは天晴逸物なり。古ぼけたる なり。されど現代には幾許のドンキオテありや。理想を口にし、訷 鎧も珍代の甲胃なり、怪しげなる槍も名匠の錬へし武器なり、村のを讃美する者其の數幾百萬なるを知らずと雖も多くは皆な活動を件 乙女も王公の姫君なり、百姓のサンチョも忠誠なる從士なり。彼れはざるドンキオテならずや。似而非ドンキオテは瓧會の大部分を占 は田舍娘を貴婦人と崇拜し其の爲に騎士道を磨かむとて、古道具屋め、その最も秀でたる者は、宗敎家とか、或は理想家、哲學者とか も迷惑するが如き甲冑を着け、武器を携へ、駑馬に跨り、唯これ物の名を戴きて、裏面には現實上の利得を貪りつ又あるに非ずや。彼 質にのみ執着する土百姓を從へて鄕土を去りぬ。彼れが眼には一小 れ等は一人のハムレットをだに救ふこと能はざる無能の徒輩なり。 えせ 村の旅店も、魏然たる城廓なり、野に草苅る田舍娘も王公將相の姫吾人は似而非ドンキオテたらむよりも、寧ろ物質主義、現實主義の サンチョ。ハンザたらむことを欲す。 君が惡漢のために苦めらる又もの、怪しき服裝せる農民は惡魔なり、 吾人はドンキオテたり得べき乎。彼れたるは幸輻なり。去れど一 信侶は魔法師なり、羊の群は怪物の軍隊なり、森林は奸賊の隱家な り。げに一事一物、な幻像化せかれざる御無い、而いて御れい其たび現實を眺めて、其の泌沌といつ、扉琿想ゅ影な無いを懿か たるもの、奚んぞ能く理想鄕に歸り得べき。勿論一種の遊藝として 6 幻像世界に在りて、天帝の定めし秩序を恢復せむことか謀りぬ。 秒時と雖も現實世界に還らず、幻化の世界をのみ眺めたる彼れの は、理想界に逍遙するを得べく、所謂天父を説き、天國を語り得べ 一生は、奮鬪の歴史なり。現實を回顧して逡巡躊躇するハムレット し。而して此れほど容易なるはなく、復た都合好きは稀なるべし。 されど其は畢に遊戯のみ。球を突くと何の異る所かあらん。 に比すれば、ドンキオテは、正反對なる實行家なり、活動家なり。 彼れの思想と行爲との間には一厘の隔隙もなく、思想印ち意志な 。彼れは惡と見れば直に之れを除かむとし、毫も自己の利不利を 六自然派文學の背景 顧慮せず。げに水車と喧嘩するが如きは、ドンキオテならでは能は ざる所なり。而して彼れは多くの場合に於いて失敗せり。愛ぺい ハムレットの傍にはポローニアスあり、ドンキオテの後にはサン 騎士は幾たびか傷を蒙り、侮辱せられ、狂人視せられき。去れど毫チョ隨ひ、ヤルマルとグレゲールスとの間にはギナ立つ。此の三人 も恨む所なく、自分の修業米熟なるを責むるは彼れなり。予はツル は共に現實主義の徒なり。御れ等い初阜第琿なかい 6 か有か尹、 ゲネフが語を藉りて彼れを紹介せむ。 美しく正しき幻像世界に優遊いがることなかりき。現實の裡に生れ 「ドンキオテは理想に對する信仰を肝に銘じたる人にして、其て、現實に滿足し、五官に觸る又現實以外を顧みず、曾って自覺し の爲には有ゆる辛苦を忍び、生命の犧牲をすら辭せず。彼れにたることなく、禽獸にも均しき自己滿足を樂みて醉生夢死の境涯に 取りて、生命とは理想を表彰し、地上に眞理と正義とを顯揚す終る人物なり。理想家、或は理想と現實との中間に懸りて懊惱する ることに仕ふる點にのみ價値あるなり。彼れは其の同胞のた者の眼より見れば、彼れ等は俗物なるべし。去れど彼れ等の眼に映 め、また人類に反する勢力ーー女、惡電印ち壓制者ーーに反じたる理想家又は煩悶者は、憐むべき狂者なるべし。

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701 理的戲を排す 吾が輩から見れば、此れ等は問題とするに足らぬものだ。現實界に に解釋されるであらう。如何にせば此の人生を幸篇ならしめ得るか と言ふ問題を解かむために、幾多の道德的思想が形作らる。その思用のないものが、現實界を影響する筈も無く、復た衝突することも 無い。畢竟宗敎なるものは、一部の人々のおもちゃの劒で、其れで 想を綜合し、美點を抽象し、更に幾多の矛盾衝突等を切り棄てゝ、 現實世界とは、甚しく隔った理想を設け、此れが宇宙の創造者であ芋や大根が切れるとか切れぬとかと論爭するのは、一の喜劇に外な あたか ると示したのが、禪に外ならぬ。これ恰も彫塑家が、彼の美婦のらぬ。 眉、此の美人の鼻、その他眼耳唇、肩腰さまざまの線を四方八方よ 哲學的研究も亦た一種の論理的遊戲に外ならぬ。別言すれば、哲 り抽き集めて美人を造るに異ならぬ。其の證據には、禪其の物の理學は一種の藝術である、吾人の推理力に據って、一の智的系統を建 想には内容の變遷があるではないか。太古の病太民族が理想としたてたものに外ならぬ。ギリシアの哲士以降、今日に至るまで、眞理 工ホ・ハは、肉體的に強大なる者に外ならなかったが、基督に至って の討究を職業とした人は甚だ多い。されど此の長い歴史の間に、如 愛といふ思想の加味されて、純然たる精紳的のものとなって居るで何なる眞理が發見されたであらうか。これが萬古不易の大眞理で、 はないか。 之れに據れば、此の大宇宙の本源も明瞭となり、また吾れ等の人生 偖て此の神といふ理想を持って、現實の世界を解釋しゃうと試みを圓滿幸輻ならしむべしと言ふ程のものは、誰人が述べたであら たならば什麼であらうか。換言すれば、飾といふ理想から演繹した う。大哲學者と稱揚せらるゝ人は多いが、其の人の學説は、遺憾な 説明は、果して善く現實と合一するであらうか。余輩は茲に例を擧 く此の現實世界を説明するものであらうか。此の現實界を説明し、 ぐるを好まぬ。讀者自身、其の門戸を出づること數十歩にして、神人生問題を餘蘊なく解決する程の哲學組織が有ったならば、皆な其 では解き難き現實問題に逢着するであらう。否、讀者其の人の家庭の面前に跪坐して、讃美歌を唱へるであらうが、左様の説は一も無 いものと見えて、今尚ほ哲學界は競爭場ではないか。或は理性を以 内にも、神的理想では到底解決し難き大小の問題が伏在して居るで あらう。固より其の理想に盲從して、萬事を理想的に看たならば、 って宇宙萬象の本體とする。然るに其れが此の現實世界に縁遠き説 例へば原罪論であるとか、或はの試みであるとか、サタンである明であるだけに、如何にしても滿足が出來難く、他に道を求めて意 とか言ふ一種の論理的遊戲の所産の力を借りて解釋したならば、ロ 女志を説く。其の意志説にも滿足が出來ずに無意識を説く。而して其 何なる人生問題も釋然として渙けるであらう。されど是れ印ち現實の無意識も亦威信を失墜する。此くの如く一學説倒れて新説起り を遠かった空論である。啻に基督敎に於ける紳ばかりで無く、小乘これが復た倒れて更に新説起れども、遂に此の現實世界に有用なる 敎に於ける佛も亦斯くの如しだ。「も佛も聞えませぬ」と言ふ嘆眞理は發見されぬではないか。これ畢竟哲學者とか或は倫理學者と 聲は、何時の世にも響く。これ暗々裡に宗敎理想の實界い無かゞ、現實か離れて、論理的遊戲を行ふからである。勿論其の遊戲 なるを證明して居るものではあるまいか。更に宗敎家間に行はるゝ の範圍内に加盟したならば、何事も説明されて興味津々たることで 懴悔は、半面に於いて現實は理想通りで無いことを語るものである。 あらう。何故なれば現實界其の物を、理想に合せて見るからであ ついで 序であるから一言する。宗敎と國家とか、或は教育とかの關係如 る、現實の實質を控除して見るからである。併しながら若し實の此 かん 何は、昔からの問題で、議論の絶えたことはない。近頃も加藤博士の世界、此の活人生に在って、哲學者の説く最高眞理とか、或は至 の「我が國體と基督敎」が、議論の焦點となって居る様であるが、 善とかゞ、何程の效力あるかを靜思したならば、終に所謂哲學倫理

10. 日本現代文學全集・講談社版 27 島村抱月 長谷川天溪 片上伸 相馬御風集

然派とても、理想的、宗敎的材料を取ってはならぬといふ規約を設に肉慾は醜惡であらうか。 2 元より肉慾挑發の目的を以って、之れを描寫するのは、極力非難 幻けて置くのではない。 茲に再び疑問が生ずるであらう。日はく、何故に理想に價値を認すべきである。何故なれば、こは此れに一種の價値を附帶して見る めぬのであるかと。吾人は此の點に關して、曾って論じたことがあもので、自然派の立場から見れば、理想に價値を附して観するもの と、均しく排斥すべきである。自然派は此の肉慾なるものが、人生 るから、今は只簡略に一言しゃう。 本來理想なるものは、弱者の要求する慰藉物である。現實界に在の現實である以上は、それを醜とも見ぬ。また惡とも見ぬ、善とも 言はぬ。乃ち一切の價値的判斷を超絶して之れを描寫するに止る。 りて、吾が生活を維持するには、強烈なる意志を有せねばならぬ。 元來現實を醜惡と見るのは、一種の理想から論結したものであ 然るに弱者は、現實界のために迫されて、一歩も動くことが出來 なくなる。是に於いてか、現實界以外に慰安の道を求めて、所謂理る。或る理想を準として襯察したならば、現實は醜惡のものと見 想なるものを作り、之れを善と云ひ、眞といひ、美と云ひて、人はゆるであらうが、其の範圍を去ってしま〈ば、何等の醜も悪も見え ぬ。為いい實界が惡いいなかい、か破壞いつ、立派な世 正に其れに御ねばないかと説敎する。ローマの爲に苦められたユ か、想的に作るがよからう。然か 0 斯拠 6 事業は、未だ曾っ ダヤの民が、メシアの來迎を望むだのは、其の尤も好き例である。 て聞いたことがない、否、理想なるものが、實現されたことを聞い 此の點から看て、ニイチ = が基督敎は弱者道德なりと喝破したの たことが無い。若しも理想に依りて、現實が改造され得るものなら は、實に痛快であると言はねばならぬ。 知が理想なかかか扉い第。加かか理懃い、第、物知的ば、現實を不完全、醜惡と罵るも宜しいが、其の事の出來ぬ間は、 理想なるものは一の空想で、之れを以って現實を論評するは、自分 圓沖か基 2 いかい 6 有るい。拠言ナ扣い、躑第の發展でなく して、其を印 0 海すかことが、理想 6 本體いなって居るではな勝手の論と言はねばならぬ。 但い鉉に區別すべきことがある。そい現實界を支配する智カ いか。天國でも極樂でも、今の現實を、自由自在に我が物とする一 種の空想に外ならぬ。社會主義の如き理想に至っては、益す能く此い、現第第か遠物ナる琿想いの差別でかる。別言すれば、智力を以 の趣を現はしてゐる。宗敎家は動もすれば、靈的生活を説くが、其って、現實界を支配することを、直ちに理想の實現と思惟してはな らぬ。智力は現實を支配するが、現實其の物の性質は秋毫も變化せ の生活たるや、要するに物質的圓滿に外ならぬ。これ印ち理想なる ぬ。耐いっ理懃ゅ第躑かかいゆい、瑯第ゅ幽印いがもので無 ものが、現實生活に敗北した者の一慰藉物であって、現實其の物の ゅいかかか。現實界の關係や、妝態やは、恰も建築の石材の如 中に生存する方面から見れば、何等の價値もない。 く、種々に變化するであらうが、現實其の物の性質は決して變化せ ぬ。 五現實は醜悪か 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 吾人の見て醜となすものは、現實に非ずして、僞善的生活を爲す 印沖が塘印か掵朝ナい一おか印つ、瑯第い物つかるい「〕物者であを。舌頭には「有るべき筈」の宗敎的、哲學的或は倫理的教 者がかる。何か椥準いいっい論尹か 6 つあらうか。例〈ば肉慾を義を上せながら、而も其の醜とする現實的生活を營む者こそ醜悪の 描くとすれば、四方八方より直ちに之れを非難する聲が起る。何故極である。吾人の善惡判別の標準は、露骨、天眞爛煜の數語を以っ