相馬御風集目次 卷頭寫眞 筆蹟 自然主義論に因みて・ 文藝上主客兩體の融會・ 「蒲團」評 詩界の根本的革新・ 「有明集」を讀む 自然主義の絶對境 : 北村透谷私觀 : 自然主義論最後の試練・ ツルゲーニエフ、態度、人・ 樋口一葉論・ 懷疑と徹底 : : ・三三九 : ・三四一 ・ : 三四三 ・ : 三四六 : ・三毛 : : 三査 德冨蘆花論・ ト川未明論・ 生を味ふ心・ 現代藝術の中心生命・ : 自我の權威 : 大杉榮君に答ふ : 作品解説 : 相馬御風入門 參考文獻 : ・ : 瀬沼茂樹四一六 ・ : 紅野敏郞四一一四 ・・四四六 三会 ・ : 三九 0 ・ : 三突 ・ : 四 0 三 ・ : 四只
自己の見解を述べている。これは、瓧會論的見地と藝術論的見地と 村透谷私觀』 ( 明治四一・九・早稻田文學 ) はその一つである。透谷が の二様の見地から考えられるとして、兩樣に吟味した後、兩者は部「文藝の爲めの文藝」の人ではなくて、生活の爲めに文藝を求めた 分と全體との關係にあるから、藝術は實人生の一部であるとする。 こと、思想的にはロマンチック・アイデアリストで、あらゆる因習 しからば、藝術は人生のいかなる事實であるかを吟味しようとして、 や形式と戦い、「自我の發展を求めて止ま」なかったこと、詩人と 觀照と實行との間題に入り、藝術的態度と實行的態度とがどう異る しては形式主義の歴史を破り内容主義の第一歩をなしたこと、等を かを明かにするのが文藝論の根本であり、「自然主義論最後の試練數えあげ、「明治の文藝史に於て透谷と樗牛とは最も偉大なる犧牲 である」とした。しかし、かように抽象的に論じ去ることは、御風者である」と結んだ。この他、『樋口一葉論』 ( 明治四三・一・早稻田 においても、問題の摩替えにすぎないことは、いうまでもない。 文學 ) 、『德冨蘆花論』 ( 同・六・中央公論 ) 、『小川米明論』 ( 明治四五・ 自然主義論の行詰りから生まれてきた『懷疑と徹底』 ( 明治四三・ 一・早稻田文學 ) 、『正宗白鳥論』 ( 同・五・新潮 ) などが、彼の作家論 五・文章世界 ) は、主客兩樣の生活において、いずれにも徹底できなの一斑である。 いために、懷疑苦悶の生活が殘っているとみている。『生を味ふ心』 大杉榮が雜誌『近代思想』 ( 大正元・一一 l) を創刊し、文藝雜誌と ( 明治四五・二・早稻田文學 ) は、この打開の一つを『三田文學』に現いう形で、社會思想にわたろうとした時、御風は大杉の「生の哲學」 れた「追懷文學」にもとめ、生を味ふ文學として認める。すなわち、 的な要素を肯定した。大杉もまた早稻田系の批評家の中で、本間久 「生活のうちに理想を味ははうとする」、「現實のうちに夢を味はは雄とともに御風を評價していたが、『時は來たのだ』 ( 大正三・一・近 うとする」のであり、「大詩人の主藝術をも、我みづからの客觀代思想 ) では瓧會革命を無視しては個人革命が仇花に終ることを警 藝術として味ははうとする」のであり、「生活の藝術化」というこ告し、もう一段の飛躍を要求した。『大杉榮君に答ふ』 ( 大正三・二・ とがいわれるとすれば、まさにこのような「新しき觀照の生活」に 同 ) はこれに對する解答であり、けつきよく糸魚川に隱棲して、良 あるとした。御風の考え方が、天弦にくらべて、柔軟性に乏しいこ寬研究に後半生を捧げることになった。 とがわかるだろう。 ( 附記 ) 本書はテクストとして單行本をもちい、これを根據に校訂した。 御風の評論家としての面目はむしろ詩論にあったかもしれない。 ロ語自由詩の實作者として、『詩界の根本的革新』 ( 明治四一・三・早 稻田文學 ) は、詩歌の傳統や形式の改革を要求し、舊來の雅語を し、音數律を破り、用語・語調・行聯などの自由を説いた。さらに 「『有明集』を讀む」 ( 同 ) では、有明流の象徴詩の成熟ではあって 解も、現代人の悲哀とは無關係な「遊戲詩の域を脱し得ない」と、き 品 めつけた。彼は、詩論では、このようにラディカルな論議を推進 作 し、ロ語自由詩の進展に力をつくしたが、創作態度としては、全我 〃の刹那的燃燒という主張を固持していた。 評論として、御風にはまた、注目すべき作家論が少くない。『北
って詩論の昻然たるたかぶりに比べて、強調ているように、作家その人の態度や心情、あプセンの自我ではなく、本當の自分の自覺を の度合いがやや弱い。一世をリードする氣魄るいは、作品中の人物論にもつばらカ點が寄説く態度があらわになってくる。片上伸と等 や論理の精密さ、革新性がそうじて乏しかっせられている、ということである。文藝評しく、生の充實、生の要求、といった理想主 た、といわねばなるまい。荷風問題につい論、文學研究というもののなかで、「作家論」義的な面も出てくる。さらにわが切實なる生 て、阿部次郞からの攻撃を受けきれなかったというものの占める位置、その在りかた、な活の要求を説き、自己革命の主張とともに、 のも、そんなところに由來する。抱月や天溪どについて、この地點におけるこれら御風の瓧會革命の主張も盛んならねばならない、と の用いた文藝評論用語は、そのまま時代精訷仕事は、やはりたかく評價すべきことと思も説く ( 「巷に出でよ」 ) 。御風みずからも、大 の用語として、一般に強く響き、普及していう。御風の第一評論集『黎明期の文學』 ( 大正杉榮や荒畑寒村らの主催する「近代思想」の ったが、 御風の場合、そのようなことはほと一・九 ) には、この作家論と、自然主義文藝小集會にも出たりする。御隱退の理由の一 んどなかった。谷澤永一のことばを借りれ評論が、共存して收められているが、わたくつは、大杉ら〈の接近とその怖れにあった、 ば、御風の評論は、「自然主義文學理論の埓しなどは、なにかの折に、しばしばそれを手というような白鳥の解釋が出てきたりするよ 内における二代目的性格」を持ち、「『早稻田にする。それは、抱月や天溪の評論集以上にうな状況もあった。『還元録』一卷を讀んで 文學』編集部の砦のなかで、直接波風にさらしばしばなのである。したたかな刺激を受けも、御風隱退の眞の理由の解明は、なかなか される心配もなく、彼は後備えの氣樂さを以る激しさはないが、親しみの持てる評論集を理解し難いが、結果としての御風の鄕里生活 て、自然主義文學理論の埓内における補正と彼は無意識のうちにつくり出したのである。は、彼個人にそれなりの充實を與えたと思 細密化」とに耽った、ということになる。むその親しみは、卷頭においた「生を味ふ心」う。多くの = , セイや歌作、良寛研究、ま しろ、すでに、吉田精一や谷澤永一によ 0 てと」う , セイ的評論の基調とも重なるはずた、一人雜誌「野を歩む者」や短歌雜誌「木 馬指摘されているように、峠を越した自然主義である。『新文學初歩』は、いわゆる文學入蔭歌集」 ( のち「木かげ」 ) の發行などについて 運動の地點から發せられたかずかずの作家論門ふうのものであるが、伊藤整の『文學入は、ただ、消極性のみを強調してはなるま 上活動に、御風らしい仕事の輝きをみることが門』同樣、御風の文學論、文學的生活の一端い。活動としては、やはり、多産な活動であ できる。「モゥパ , サン一面觀」「ツルゲー = が、平易なことばで高度に語られている。たり、決して、書けなくなっての隱退、という = イ態度、人」「アド」ーフ一面觀」とえば、「刺激を厭ふ心」の章で、白鳥の短類ではな」。御風の妻は、民權運動の闘士の 谷 というような外國作家をもそれは含めた仕事篇「こんな一日」をとりあげ、その「靜寂無一人、『文明東漸史』の著者鳴鶴藤田茂吉の 長 だが、「小川未明論」「正宗白鳥論」「藝術家活動裡の力ある消極的自我獨奪生活」に強い娘であったが、この江戸っ子の妻テ ~ の積極 月 としての永井荷風」などの同時代作家論と賛意を寄せているところなどにも、すでに的な同意を得ての邊土生活でもあった。この か、「北村透谷私」「樋口一葉論」など、先『還元録』の芽生えはみられる。第一一評論集妻が亡くな「た時に編んだ合著『人間最後の 行文學者の位置づけが、その仕事の中心とな『第一歩』、第三評論集『自我生活と文學』な姿』 ( 昭和七・一二 ) にも、人間御風の眞面目 幻る。御風の作家論の特色は、「ツルゲー = , 一どには、むしろ、文學的ェッセイといった面がよく出ている。 フ、態度、人」という表題がいみじくも示しのほうが強く現われている。トルストイやイ
五月、母節は高知縣幡多郡月灘村才角で長學の意義」を「太陽」、瓧論「文壇の批評文學」、十一月、時論「飢渇の極」を「早 男伸を頭に八人の子供を殘して死去 ( 四 + 一的精禪」を「早稻田文學」、四月、「田山花稻田文學」にそれぞれ發表。 歳 ) 。夏、一家は北海道根室に移住。秋、島袋氏の自然主義」を「早稻田文學」、十月、 明治四十四年 ( 一九一一 ) 二十八歳 村抱月が歐洲から歸國し、早稻田の敎壇に「奈何にして文壇の人となりし乎」を「新 潮ーにそれぞれ發表。 立った。毎週一回友人と抱月の自宅を訪問。 三月、「藝術としての人生」を「讀賣新聞」 十月、『テニソンの詩』 ( 隆文館 ) を刊行。 ( 四、日 ) 、四月、「イエーツ論」を「早稻田 明治四十二年 ( 一九〇九 ) 二十六歳 文學」、七月、「ロマンティシズムの意義」 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 二十一二歳 を「文章世界」、九月、時評「幻滅の眞の 四月、論説「文藝批評と人生批評」、五月、 一月、「早稻田文學」復刊。六月、抱月の 論説「評論の權威」を「早稻田文學」、「印悲哀」を「早稻田文學」に發表。 すすめで早稻田文學就の記者となり、月手象批評に就いて」を「新文林」に、九月、 明治四十五 當十五圓をもらい、近松秋江と白松南山の 論説「小説界の近事を論ずる書」を「早稻 年 ( 一九一一 l) 二十九歳 大正元 三人で同誌を編集。七月、早稻田大學文學田文學」に發表。十月、「近代英詩評釋』 科第一一回生として優秀な成績で卒業。 ( 有明堂 ) を刊行。同月、「ホトトギス」に書一月、「自己表白としての作物批評」を「新 いた「文壇現在の思潮」を松山中學の後輩日本」、「緊張充實を欲する文學」を「早稻 明治四十年 ( 一九〇七 ) 二十四歳 安倍能成が翌月の「ホトトギス」に「十月田文學」、三月、「生の要求と藝術」を「太 四月、「平凡醜惡なる事實の價値」を「新の評論」で批評したので、以來兩者の間で陽」、五月、「現文壇の中心思潮・強い執着 聲」に發表。同月、早稻田大學豫科講師と 「いがみ合いーと言われる論爭をかわした。深い味ひ」を「文章世界」、六月、「都會の なる。續いて「早稻田文學」の編集に從 生活と文學」を「太陽」、十二月、「告白と 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 二十七歳 う。五月、「英國の自然派」、九月、瓧論 批評と創造と」を「文章世界」に發表。こ 「無解決の文學」、十月、瓧論「文藝の新一月、論詭「國木田獨歩論」を「早稻田文の年あたりから本名の伸に統一。 味」、十二月、社論「人生観上の自然主義」學」、「先づ人生根本の問題」を「新聲」、 大正一一年 ( 一九一 lll) 三十歳 を「早稻田文學」にそれぞれ發表。抱月が「誇張の核心」を「趣味」に發表。四月、 この年、自然主義の擁護に乘り出し、伸も早稻田大學文學部本科敎授となり、英國十二月、長男晨太郎生まる。四月、「生みの いよいよ自然主義論を書くようになる。 九世紀初頭のロマンティシズムの詩を講義力」を「早稻田文學」に發表。五月、第一 した。同月、「自然主義の主觀的要素」、六評論集『生の要求と文學』 ( 南北瓧 ) を刊行。 二十五歳 上明治四十一年 ( 一九〇八 ) 月、「アーサー・シモンスに就いて」を「早 九月、「魯庵氏譯の『罪と罰』」を「學燈」、 一月、「フローベルの自然主義」を「早稻稻田文學」に發表。和歌山縣日高郡松原村十月、「近代文學に對する疑ひ」、十一月、 「『死人の家』に就いて」をそれぞれ「文章 新田文學」、一一月、瓧論「未解決の人生と自大字吉原、桂井當之助の妹アサ ( 明治一一三 4 然主義」を「早稻田文學」、三月、「新興女三・五生 ) と結婚。八月、時論「快樂主義の世界」、十二月、「文學思潮の一轉機」を
問題等と異なり在來文藝上の一傾向でまた範圍の廣汎なもの、自然クラシシズム印外形主義、而して外形を本位とする限りは、自然が 現實に造りだしてゐる者以上の標準は無い譯であるから、並に外形 主義と近似したものと見えるからである。 寫實主義は元來理想主義と對應して、美學上に一群をなすべき文に見はれた自然すなはち現實を最高模範として、藝術は之れを模寫 藝原理であってロマンチシズム、ネチュラリズム等はおのづから是する外は無い。自然の模寫、外形の模寫、是れがギリシャ人につき れと別の一群と見られる。而して兩者は互に相交錯して存するを得まとふ美學思想である。一二の學者が外形の模寫が内面の模寫とい べく、之れを文藝史上の傾向若しくは分類として見るときは、寫實ふ思想に一歩を轉じた事はあっても、大體に於いて外形的模寫論 主義の包容する所は自然主義よりも更に廣く、自然主義は寫實主義がギリシャ思想の特色で、同時に古代の模寫論と近代の模寫論との の一部とも見られる。また之れを哲理の上から言へば、一面に於い區分も此の點にある。外形の模寫、自然の模寫、之れを中心とする て相違したものであると共に、一面たとへば外に現はれた所を寫す點に於いて、寫實主義はク一フシシズムと通する 9 ヘーゲル、シェリ といふが如き點に於いて一致する二原理である。 ングの一致は是れに外ならぬ。而して自然主義が寫實主義と合致す 自然主義と寫實主義との哲理上の干繋は、一層精確に論すれば、 ると見るものもまた此の點に立脚する。美學者ハルトマンは、シャ 几そ三様の見解に歸する。第一は兩者を全然同一と見なすもの、第スレル、カリエール等を論する條に於いて、寫實説の理想説に對立 二は兩者間に程度の差ありとするもの、第三は兩者全く質を別にすする意義の不明瞭なるを難じ、また其の本論に於いても、假象説の ると見るものである。蓋し美學上から此の問題を論ずるには文藝は立場から、文藝上の現實自然といふことを難じてゐるが、それらの 何を如何にして具現すべきかといふ二重な根本論の結合したものと場合、自然主義と寫實主義の間に明確な區別を立てて居らぬ。また して取り扱はざるを得まい。而して是れまでの美學は專ら其の如何ベルリン大學のデソア氏 ( M. Dessoir) は、其の近著「美學及一般 にしてといふ方法論の上から兩者を區別せんとしてゐる。何をとい 藝術學」に於いて「自然主義は文藝印現實と見、諸種の理想主義は ふ主題論の一邊が不十分なやうに思はれる。今先づ寫實といふ語に文藝を現實よりもより多くなりと見、形式主義、幻像主義、感覺 主義は文を現實よりもより少なしと見る」と言って、暗に自然 ついて見んに、かの哲學者として最も詩味ある美學を立てたシェリ ングは、之れを中世以後の理想主義に對してギリシャ藝術の特色で主義と寫實主義とを同義に解してゐる。其の他にも此の種の説は多 あるとした。而して哲學者へーゲルは同じギリシャの藝術をク一フシ シズムに分類した。されば此の兩家を突き合はすれば、クフシシズ ムと寫實主義とはギリシャ藝術に於いて合體する。ク一フシシズム印 主 寫實主義といふ奇異なる結論に歸する。けれども此の奇異なる結論 自然主義と寫實主義とを程度の差とする第二の見解は、描寫法を の に眞理があるのであらう。すなはちギリシャ藝術の特色は通例其の如何に多く客覿化するかといふ論に歸する。此の説では寫實主義は 上 なほ全く自然のまゝを寫す度が足らす、私意巧僞の跡が多い。自然 外形印内容である所に存すると稱ぜられる。外形に見はれた所だけ で滿足する、十分である。外形を毀ちさへせねば、それで美の目的 主義は一層之れを客觀化して、寫眞の種板が事象の影を其のま、印 確は逹せられる。勿論ギリシャにも事實此の以外の傾向はあるが、吾するやうにならなければ止まぬ。技巧細工の痕迹を全然消し去らう といふに落ちつく。たとへば嘗ても吾人の彫刻論に引いたドイツの 人がク一フシカルといふ時の中央概念は外形本位といふことである。 こに
へると、兎角前に述べたやうな抽象論に終る傾がある。われ / —- は 最近わが國に起った自然主義蓮動について見るに、先づ舊來の藝 寧ろこれを How ( 如何にして ) の方面から観る方を先にしたい。 術が持し來った遣り方では、到底滿足な自己表現が出來ない、つま 藝術が人生の事實として存する事は、 Why の問を挾むまでもなく り自然の自己表現が外制的の形式に堪へられぬ、そこの所から第一 承認する事實ではないか。此事實にして消し難き以上、 How ( 如何に舊套打破が叫ばれた。これは何でもない事である。たゞ藝術本來 にして ) それが出來るか、如何にそれが有るかを觀る方が第一であの面目たる自己表現と云ふ自然の事實から離れて、道德や形式やさ ると思ふ。 Why の方面を先にして、之れのみに執するのは、藝術 う云ふさまみ、の外制的なものとした、それに對する十分な意味に の眞意義を正當に解釋し得る道ではない。 於ける藝術が爆發したと云ふままである。而して自然主義は、主張 の第一として、何等の形式に囚はれる事なくして自然の儘を描けと 云ふ事を言明した。かやうに自然主義運動が藝術本來の活動の爆發 なんびと 藝術は人生自然の事實である事は、考ふるまでもなく何人も承認であって、自然主義の主張が自然のまゝ現實ありのまゝの描寫と云 する所であるが、さて然らば藝術は人生の如何なる事實であるか、 ふ事であった。さてこそ其處に當然の結果として自然主義文藝は果 文如何にして藝術は生ずるか、これ等の疑問はどうしても起って來して「現實ありのま又の人生を描く」だけのものか、又それが藝術 る。純粹の藝術論はこれである。而して前に云った瓧會論的見地本來の性質と相合するかと云ふ反省考察が起って來たのである。 は、一方にどうしても此の藝術論的見地のある事を認めねば、結局 こゝに於て、藝術が生じ來るプロセッスが研究せられ、「現實あ する所、われノは藝術によらなくても人生から直にその意義を味 りのま又を描寫する」態度が考察せられた。最近論壇の観照と實行 へばそれで好い、と云ふやうな藝術否認論に傾き易い弊がある。 との問題が印ちそれである。 藝術は一方に藝術品として對社會對人生の職分を有するが、併し それと同時に藝術は藝術それ自らとして存在の意義がある。藝術の 起原は、決して何の爲め又は何に對してと云ふ妝態にあるのではな 「現實ありのま又の人生を描け」と云ふ事を、最も代表的に主張し い。自然に已み難い一種の衝動から、外に形を成したのである。人た人は田山花袋氏である。所が「現實ありのまゝの人生を描け」と 0 0 0 0 0 0 間自然の表現 ( エキスプレッション ) である。客觀のリアリティー 云ふ事は、單に方法論であって、熊度論ではない。始めの間こそ共 試を通して、自己を表現せんとする自然の活動である。此の點に於れだけで滿足が出來たが、結局は單純な方法論では滿足が出來なく 後て、藝術は他のあらゆる自然人生の現象と同じく、本來は無目的ななった。そこで覿照と云ふ事が唱〈られた。つまり自然主義の藝術 論自然事實である。が、併しわれ / 、は藝術を斯く解したとて、それは十分なる照によりて生ずる。照の世界は藝術の世界であると 主 で滿足は出來ぬ。反省考察の結果、如何にして藝術が生じたか、又云ふやうな事が云はれた。つまり観照と云ふプ。セッスが藝術を生 生ずるか、それ等のプロセッスを闡明せざれば止まぬのである。客むと云ふ事に到逹した。而して「觀照と實行」と云ふ問題はこ乂か 観のリアリティーを通して、自己を發現する藝術的活動とは如何なら起った。 る事か、如何なるプロセッスで藝術が出來るのか、それまでも究め 藝術は照であると云ふ、然らば觀照とは如何なる事か、實行と ねば止まなくなった。 如何に違ふか、斯う云ふのが「覿照と實行問題」の始めである。こ ( 五 ) 0 0 0 0 0
意志の發動を促したのが、あの論に共通の精紳であったと見ねばなる。その必要の充たされないために、窒息する思ひをして、白日の らぬ。 夢にうなされつゝあるものの、いのちがけの、生きるための叫び あの當時のプロレタリヤ文學論には、幾多の疑ひが挾まれ得るで である。そこにはもとより「詩」がある。而して同時に、眞にいの あらう。またいはゆるプ 0 レタリヤ作家の作品も、論以上に不滿足ちを生かすべき、贅澤ならぬ「必要」がある。それこそは、眞の新 な空疎なものであったに相違ない。しかし、あの一時の主張と呼びらしい文學である。眞に生きんとするものの、凡てのための文學で 聲とが、 ( 今日では殆ど全く音をひそめてしまったやうではあるある。 が、 ) 文學に意志を持てといふ要求から發したものであったことは、 ( 大正十三年一月「新潮」 ) 認めないわけには行かない。 最近に突發した自然力の激動と、それに件って生じたいろ / \ の 社會生活の變動と、異常の出來事の發生と、これ等はたま / 、、自 然に瓧會的現實に對する意識を刺戟した。現代の日本文學が、この 瓧會的現實に對する態度の決定を機として、自づから分解解體すべ き兆イ 矣は、既にプロレタリヤ論當時から明らかに見えてゐたのであ るが、最近の事變は、一面に於いて瓧會的現實を今までより露骨に 見せつけるとともに、隨って、他面に於いて、その現實に對する態 度の決定の時機を、一層促進せしめたと見られる。最近の事變の當 時に於けるさまざまの藝術論風の表白は、不用意の間に、既にその 事實を示してゐるのである。最近の事變は、たしかに日本現代の文 學の分解の機を早めたことになるであらう。現實に對する意志を缺 いてゐた在來の作家の作品は、作品の市場では或ひはますど、盛ん に取引せられるでもあらう。しかし、それ等の作家が、何等かの意 味で就會的に意志を有って來るやうなことは、恐らく全くあり得な の いところであらう。隨って、それ等の作家の蓮命は、晩かれ早か れ、本質的には定まってゐると言ってよい。 現代の日本文學に足りないのは意志である。 現 それは、「詩」の滅びないことに安心するやうな心持ちではない。 それは「いのちあってのものだね」といふやうな心持ちから、眞の 加必要を贅澤とするやうな凡俗主義ではない。眞の生活に、眞理と、 公正と、美とが、呼吸の如くに必要であると感するものの心であ
0 3 審美の意識とは、花を愛で月に浮かる、心の妝態也。蓋し、春花 秋月、心に會するときは、美の淨樂我れを包みて、我れはこれ花か、 花はこれ我れかの界を知らす。差別はやがて平等に部し、假に絶對 圓滿の相を現ず。此の時に當たりて、客覿なる花月に美ありやと問 一心と物との關係 ふ、もとより然なりと答ふべし。はた、主なる我が心に美ありや と問ふ、然なりと答へざるを得ず。相對界の、智量もて、絶對を議 心と物との關係を説けるもの古來尠からす。隨うて、そを、全く す、かくの如きは論理の自然なり。しかも、客副の美は直に主觀の別なる兩元となすものと、一體兩面の關係となすものと其の説種々 かなた 美にして、主覿の美を究むれば客観の美に及ぶ。彼方よりするも、 あり。此處には、後者、部ち心と物とは一體の兩面なりとの説を是 此方よりするも、歸は一なるの理を忘るべからす。今本論の期する とし、之れを立論の根據とす。そも′心とは何ぞ。意識の謂か。 所は、そが主觀の面に立ちて、審美的意識の成る次第を研究するに震魂の謂か。知情意を心界の相に配すれば、意識は知情意を生ずべ あり。思ふに、審美の意識は結局我他の同情を本とす。同情の性質き用にして、靈魂はそが體に當たる。心を解して、心界の相を指せ つまびらか を知らんとせば、まづ、情の由りて來たる處を審にし、そが知と るものとなす、本より不可なし。もしくは、心界の用と見做し、意 あきら 意とに對する地位を明めざるべからず。知情意を總括するもの之れ識と同義に解するも亦可也。獨り、之れを靈魂に同ぜしめ、物體に すなは を意識となす。乃ち問題を掲げていはく、第一、意識の性質は如何、 對する精靈存在の體となすに至りては、一體兩面の説と相容れす。 いんえん 第二、審美的意識の要素は如何と。而して更に之れを下の如く細分通常靈魂といふときは、精靈に資縁して全く物質を非定する、一種 す。 の存在體を指す。強ひてこれを本體となすときは、古來の學者が幾 第一意識の性質 たびか拒まんとして失敗したる物質存在を排拒し、擧げて心界の奴 一心と物との關係 隷となさゞるを得す。極端なる唯心論者は此の派に屬す。カントす 二意識 ら、説の根柢に Diry an sich ( 眞實體 ) を、少くとも、假定したる 三知、情、意 を思へば、唯心論が吾人を滿足せしめ得ざるは明なり。心物關係論 第一一審美的意識の要素 の難點は、唯心論と唯物論と、兩極の調和せざるにあり。一體雨面 こなた 工セチカル、コンシアスネス 審美的意識の性質を論す 二同情 三審美の意識 四理想 五實と假と、實在と現象と、形と想と、自然美と 藝術美と、寫實的と理想的と 此のうち第一の全章は、議論稍よ浩繁に渉りて、こゝに盡くし難 し、故にカめてその要を摘むべし。 第一意識の性質 コンシアスネス マインドマター
した理由もこゝにある。さて、理の言はるゝ如く藝術によりて人生 4 ( 四 ) の新意義を味はされる者は、代を經てそれが結局は實行に至る。か 前に述べた如く、藝術と實人生とは、部分と全體との相異がある るが故に「文藝は結局實行的なもの」と、かう見て來ると、當然藝 だけで、「非實人生と實人生」と云ふやうな別はない。藝術は自ら 術家は自己の藝術對瓧會の自覺を要する事となりはせぬか。こ、に 吾々の疑間が起る。人の心に何等かの影響を與へてそれが結局實行なる人生の事實である。もし藝術を以て實人生と違ふとすれば、戀 したがっ に至るもの必ずしも實行的であるか否かと云ふ事である。若し此のをする事も、飯を食ふ事も實人生ではなくなる。隨て金子筑水氏の 疑問に對して「イエス」の答を得るとすれば、櫻の花が咲いて而し云はる乂藝術品としての藝術と人生との交渉論、部ち藝術の對瓧會 て散ると云ふ自然現象が、或る人の心に人生の無常と云ふやうな味的職分論は之れを一面の眞理として是認し得るが、「藝術は決して を味はせて、それがさまえ \ にコンテンプレートされた結果、いっ實人生に匹敵するものではない」と云ふ一面は絶對的に吾人の傾聽 となくその人の實行に至ったとする。その場合にも吾々は「櫻の花すべからざる空論となる。つまり吾々の考ふる所によれば、藝術は 人生の事實である、實人生の一部である。而して若しこれを實人生 が咲いて而して散る」と云ふ自然現象が、「實行的なもの、正しく 云へば實行される運命を備へたものとも解釋」されやうか。氏は若全體と對せしむるならば、部分と全體との關係に於てるより外は しこの疑問にも、「イエス」と答へられるならば、この問答を追ひない。部ち實人生の一部分たる藝術的活動は、實人生全體に對して はて 行く果は、一種の目的論に到逹せねば止まぬと思ふ。これ果して氏 如何なる特質を有するか、これを考察する以外に道がない。然らば の甘んじられる所であらうか。吾々の最後の疑問はこゝにある。 近時の藝術論はこの點に於いて、如何なる事を論じっ長あるか、そ こゝに至りて吾々は思ふ。瓧會論的見地から藝術對實人生の問題れを顳る事とする。 さきだ それを論ずるに先ちて、實人生をさながらに寫し描くと云ふ自然 を論ずるのは、その人が非常に深く且廣い冥想のある人ならばまだ けふあい 好いが、この思想が淺薄な頭腦の人に宿る時、多くは狹隘なる而し主義の主張が、前に述べたやうな藝術對實人生の問題まで推し進ん て卑近なる理想説に陷る運命を有して居る。それを吾々は恐れるの だのと相並んで、一方にわれ / \ が現實ありのま乂を描くと云ふ事 0 0 0 0 0 である。政府當局者流が文藝作品に對して、無謀な制裁を加へつ乂 は現實ありのま又を描くと云ふその事の爲でなくて、自己の爲めで あるのも、之れ又文藝を結局實行的のものと解する點に於てのみであると云ふやうな觀方が出て來た事について一言述べて置かう。こ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 は、金子氏の説と相一致するではないか。最高な意味の藝術對實人の藝術は自己の爲めに存すると云ふ觀方は前に掲げた人生の爲めと 生論として、吾々の社會論的見地にのみ同意する事の出來ない點も云ふ觀方と同じく結局は一種の目的論に到らねば止まぬ觀方であ 0 0 0 0 0 こにある。併しかく云へばとて吾々は絶對的に文藝瓧會の關係をる。藝術が自己の爲に存するならば、戀をするのも亦自己の爲めと 無視するのではない。無論文藝の一面にはさう云ふ見地のあり得る 云ふ事になる。戀も藝術も共に人生自らなる事實ではないか。自己 0 0 0 事は信じて居るのである。たゞ吾々はそれを以て、文藝と實人生との爲めに藝術を造り、自己の爲めに戀をするのでなくて、自己が藝 0 0 0 云ふ問題を論ずる凡てとしたくないのである。文藝は矢張り文藝そ術を造り。自己が戀をするのである。爲めと云ふやうな間接辭は挾 のものとして觀なければならぬ一面を有して居る。否寧ろその方がみ得ない所の自然の事實である。 藝術が人生に存する事を、單に Why ( 何故に ) の方からのみ考 藝術を論する根本である。
126 は何の爲に此の阯に存するかといふ間題に答へることになる。 そこで小乘と見るところの藝術本能 ( 又藝術衝動 Art ・ impulse) 藝術研究の結論が是れに逹するに當たって、是非とも潜らなけれとは如何なるものかといふに、唯其の品が思ふ存分に作りたい、観 ばならないのは内在目的の論である。「藝術の爲の藝術」は要する たい、是れだけの性に過ぎない。藝術發作の動機である、起源であ に此の内在目的研究の途次に相當する思想である。或る者が之れを る。而して是れを一歩研究の方へ引き擴げたものとして古來ある所 以て藝術解釋の至極とすると、或る者が之れを以て全然藝術論の外の藝術本能の説を一暼して見るには、アメリカのゲーレー氏スコッ せいこう 道とするとは、共に正鵠を逸した謬論たるや明白。之れを實驗に徴ト氏合著「文學批評の諸流及諸材料」 (Methods and Materia1s ま して、作者が作をする氣持、觀者が作に接する時の氣持は、眼中唯 Litera 『 y c 「 iticism—Gayley and scott) と題する書に漫然數 ( 上げ 當の藝術あるのみで他に何物も無い。勿論繼續する心的經過の事で たものが最も便利である。それを拔抄すると あるから長い間には繼續交錯して種々の雜念もまじる。しかも其の ( 1 ) 模倣本能 (lmitative lnstinct) の發現すなはちプレトー、 純藝術的な、言ひ換へれば吾人が前に言ったやうな眞味に味到する アリストートル以來の説で、ただ造化の作物が模寫したいといふ 瞬間や、斯ゃうな妙趣を製作し出す瞬間やは、必らす此の藝術その 本然の性が藝術を成すのだから、藝術本能印模倣本能であるとい ものといふ唯一念の支配である。外在目的を許さないのである。此 ふに歸する。 の時の氣持を言ひ現はして最も適切なのは藝術の爲の藝術である。 ( 2 ) 自己表現 (lnstinct for Self-Expression) の本能が藝術本 「藝術の爲の藝術」といふ語が若し抽象に過ぎて他念を引き入れる 能である。自分を向ふへ突き出して見たいといふ本能が藝術を成 虧隙があるとすればもっと具體的に「其の作品の爲の作品」と言っ す。アメリカの心理學者ポールドウヰン氏等の唱説する所が是れ てよい。而して其の作品が作品になってゐるか居ないかといふ判斷 である。此説などが本論の研究には最もよく適合する。 は直覿的である。尺度はただ自己あるのみである。其時の自己が滿 ( 3 ) 遊戲衝動 (Play-lmpulse) がやがて藝術本能である。此の説 足すれば其作品は其の作者に取っては作品になってゐるのである。 の意は前來の論で略察せられよう。 標準すなはち目的は内在である、潜在である、殆ど本能的に之れを ( 4 ) 秩序本能 (lnstinct for Order) といふものが人間にはあっ 判斷する。藝術本能とは實に此の謂ひに外ならない。總じて斯くの てれで我々の發散する力を調整せんとする、是れが藝術本能で 如く一切の標準、尺度、目的を自己といひ主觀といふ一名辭の中に ある。夫の美術論の著者たるエヂンバラのプラウン氏の説が之れ 含蓄せしめて了ったのは十九世紀のロマンチシズム以來の傾向であ を代表する。 る。而して之れに行き止まってゐる所に「藝術は藝術の爲」の思想 ( 5 ) 吸引本能 (lnstinct to Attract Others) ち他に快樂を與 が醯酵する。是れが藝術論上の内在目的論でやがて藝術論の小乘境 へて以て他を自分に引き着けんとする本能が發して藝術を成すの である。けれ共更に進んで其の含糊として自己の主觀内に潜むとこ だから藝術本能印吸引本能若しくは與樂本能であるといふ、イギ ろを、何とかして取りひろげて見ようとする所に近世美學の意義が リスの建築美學家マーシャル氏の説の如きがそれである。 存する。研究上の大乘境は此所まで來なくてはならぬ。 ( 6 ) 威嚇本能 (Attempt ( 0 Repel or Terrify) とでも言ふべき 作用から發するのが藝術で、夫の甲冑に恐ろしい形相の飾りをつ 五 ける類がそれだといふ、フランスのドグリーフ氏が社會學に説い