ふる書」 ( 二月一一十一日ー一一十三日 ) などをはじ には河上肇が千山萬水樓主人の名で「社會クス』は、九月、讀賣新聞社より刊行。こ め、碩學〈 0 攻撃文、「懸賞史劇」 ( 〈「〕 ) 主義評論」を連載して」た。十月、「新小説」 0 頃、興味をも 0 て讀んだのはチホと ほか多くの劇評を書く。五月、「ヴィクト に評論「古を師とせず」を書き、今古堂よ 『獨歩集』であったという。 ル・ユーゴーの繪畫」を「中央公論」に、 り生の名で燾學生々活』を刊行。 * 「早稻田文學」が復刊し、「文章世界」や「趣 六月、チ = コックの「不運くらべ」の譯を * 漱石が「吾輩は猫である」を書きはじめた。 味」が創刊され、藤村が『破戒』を書いた。 「太陽」に、七月、「繪畫小論」を「中央公 『獨歩集』、上田敏譯詩集『海潮音』が出た。 明治四十年 ( 一九〇七 ) 論」に、九月、シ = ーンケウィッチの「過 二十九歳 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 誤の喜劇」の譯を「太陽」に發表。十一 「讀賣」に、小品「めぐりあひ」 ( 三月 = 一日 ) 、 月、後藤宙外のすすめで處女作「寂寞」を 「讀賣」に「靑年の勝利」 ( 二月十一日 ) 、「美「美術館總評」 ( 三月 = 一十一日から六月九日ま「毎 「新小説」に發表。十二月から翌年一月に術界雜感」 ( 四月一、「太平洋畫界展覽會」 週、十一回にわたって ) 、小品「一本櫻」 ( 五月五日 ) 、 かけて「讀賣」に「文科大學學生々活」を ( 四月八日 ) 、「『破戒』を讀む」 ( 四月一一 + 九日 ) 、 。 ( ッサンの「蝙蝠傘」の飜譯 ( 八月四日 ) 、 蓮載した。 「文藝時評」 ( 五月六日 ) 、 マックス・ノルダウ 「隨感録」 ( 九月八日 ) 、「劇界漫言」 ( 十月 + 三日 ) 、 * 木下尚江が『火の柱』を刊行、「良人の自白」作「。 ( 一フド ' クス」の飜譯 ( 六月十日ー七月十 を連載しだした。 小品「先生」 ( + 月二 + 日 ) 、「官設美術展覽會 六日 ) 、「懶惰主義」 ( 八月二十六日 ) 、 * 日露戦爭がはじまった。 トルストイを評す」 ( 十一月三日、十日 ) 、ツルゲーネフの の「時代末」の抄譯 ( 九月一日ー十八日 ) 、モー 「お政」 ( 十二月一日 ) 、「最後の會見」 ( 十一一月十五 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 二十七歳 。 ( ' サンの「一家族」の飜譯 ( + 月七日 ) 、「文日 ) の飜譯、などを書く。一月、「醜婦」を 藝時評」 ( 十一月六日 ) など、多く書く。二月、 「新小説」に、「漱石と一一葉亭」を「文章世 こ 0 年から龍土會に參加しだした。泡鳴と「破調平調」を「新小説」に、五月、「『破界」に、二月、「塵埃」 ( 文壇「最初 = 認められ 知りあうようにな 0 た。「讀賣」に「三十七戒』を評す」を「早稻田文學」 = 《』、」たも 0 ) を「趣味」に、 = 一月、「幕間」を 年 0 文學界」 ( 一月一邑、「三十七年 0 美術に、「大學派 0 文章家」 ( 時を「文章世界」 「早稻田文學」に、「我が兄」を「太陽」 界」 ( 一月一日 ) 、「現今の靑年」 ( 一月一一十日 ) 、 に、八月、「二階の窓」を「早稻田文學」 に、四月、「國木田獨歩論」を「趣味」に、 「漱石と柳村」 ( = 000 《 0 「 ) ( 一「一下。に、九月、漱石 0 「草枕」とならんで「舊「衣服 0 專横」を「文藝倶樂部」に、「批 ー = す一百「「孟子を讀む」 ( 一 " 一下〈邑、「戦友」を「新小説」に、十月、「感想録」を評家」を「文章世界」に、五月、「獨立心」 譜時の文學」三月 + 日 ) 、「『獨歩集』を讀む」 ( 八 「太陽」に、十一月、「近松會」を「趣味」 を「新小詭」に、「美術界雜感」を「太陽」 月二日 ) 、「島村抱月氏を迎ふ」 ( 九月 + 四日 ) 、「藝に發表。「エ 。、ール・ゾ一フ」の評傅を上司に、六月、「安心」を「趣味」に、七月、 年苑時評」 ( + 月 + 五日ー + 七日 ) 、「靑年と宗敎」 ( + 小劍のはじめた「簡易生活」 ( 十一、十二月、 「妖怪畫」を「趣味」 ( 早稻田號 ) 、「好人物」 二月十三日 ) などのほか、モ ー。 ( ッサンの「夜明治四十年一、二、四、五月 ) に寄稿した。八月、 を「早稻田文學」に、八月、「久さん」「紅 3 寒」の飜譯 ( ト月三 + 日 ) や、「十人十色」欄に ホールケーンの『誰の罪業』 ( とが ) を抄譯葉山人」を「中央公論」に、九月、「離別」 多くの〉セイを書いた。この年の「讀賣」飜案し今古堂より、ノルダウの『。 ( ラド , を「文章世界」に、十月、「空想家」を「太
中から押退けてゐた。自分の國に於ても働いて金を取るのは、容易 た。地方の學校に赴任した知友の一人は一年足らずで辭職して歸京 したので、會って聞くと、「敎へる事はどうにか間に合って行くん ならぬ骨折り業であるのに、外國で外國人から金を取る事が生柔し だけれどね。我々私立學校出の者は將來の望みのないことが分った い業であらう筈がないと、渡米の知人に對してむしろ痛ましさを私 は感じてゐた。 から、早く見切りをつけることにしたのだ。帝大や咼等師範出が敎 この渡米者のために、私逹は簡單な送別會を開いて、組酒を酌み育界では何處にでも勢力を張ってるやうだよ」と、二三の實例を擧 唄ったり騷いだりして靑年の元氣を發揮したが、二三の重な來會者げて、不平らしい氣焔を吐いてゐた。しかし、そんな不平には、私 ゐじゃう の送別の唄は、西洋でもなければ江戸のでもなく「渭城の朝雨輕塵は痛切に同感されなかった。帝大であれ、高等師範であれ、好んで かくしゃ をほす、客舍靑々柳色新たなり、君に勸む更に盡せ一杯の酒、西敎壇に立って他人を敎〈んとする靑年どもは、天を恐れざる所行で 陽關を出づれば故人無らん」と云ったやうな中國の送別歌であつある點では、官立私立の差別なんかは物の數ではなささうに、當時 た。この渡米者は故鄕の漢學塾に學んだ經歴があって、送別會參會の私は獨斷してゐた。 「それで、君は敎師を止めて何になるつもりだ ? 」と訊ねると、 者にも塾の出身者が多かったために、漢詩が朗吟されたりしたので 「僕は船乘りになりたいんだ。下級船員でいいんだ。水夫でもいい あったが、この漢詩趣味中國趣味、幕末の志士的浪人氣質は、一部 の靑年の心に根深く集くってゐるらしかった。この渡米者彼自身にんだ。陸上でコセコセした暮しをするよりも、海上で活漫に働いて しても、中國の文字は多少知ってゐて、老莊の哲學などについて見たくなったよ。一年間の敎師生活の經驗でそんな氣になったのだ よ。大海へ出て見たいね」 は、物知り顏に論じ立てる事は出來ても、西洋の本はいくらも讀ん でゐないし讀めもしなかった。無論英語が話せはしなかった。彼方「船に醉はず、仕事も過激でなければ、海上生活はいいんだらうが へ行けば英語ぐらゐしゃべれるやうになると、彼は事もなげに云っね」 私は、この知人の職業轉換に對して、通り一ペんの受答へをし てゐたが、さう手輕に事が邇ぶものであらうかと私は疑ひを起して ゐた。 た。海邊に生れた私には、海上の勞働が陸上の勤務よりも氣樂であ 同級生のうち幾人かは、地方の中學や女學校の敎師になったが在らうとは想像し得られなかった。 同級生のうちには、卒業後鄕里へ歸って、父祖の業を嗣いで、資 學中私よりも成績が悪かった彼等が、重に英語を敎へ、地理歴史な ども敎へてゐると聞いて、私はそれを奇怪に感じてゐた。どんな氣産の管理をしてゐる者もあった。或團體の寄附金募集係に雇はれて 持で彼等は敎壇に立ってゐるのであらうか。若し私がその地位に有ゐる者もあった。誰れの職業がいいか、誰れの境遇がいいか。さう 草りついて、他人に英語なんかを敎へねばならぬと極ったなら、私はいふ事が友人間で時々話題になったが、傍觀的には、私が最も氣樂 であるらしかった。 し恐怖に打たれて身震ひしたかも知れなかった。一言一句でも外國の 自分の靈魂の行衞に屈託しながら、俗曲研究を樂しんでゐるの 根言葉を正確に發音し解釋し得る自信は私にはなかった。外國語の複 雜な文法なんか、生徒からきび / 、しく質間されたら、へどもどしは、「おっ」なくらし振りであると云ってもよかった。ところで、 この俗曲の研究會の先輩久本江風などは、はじめから俗曲の研究だ て、滿足な返答はなし得ないだらうと想像された。全若い身空で けでは物足らなかったので、演劇の方へ心を向けたした。それも、 人に物を敎へるとは大それたことのやうに當時の私には思はれてゐ
372 あったため、世相人事の洞察力の乏しきため、全體が薄手で底が淺 に比蛟すると、面白い。 くって、氏自身が魅せられてゐる樂園の夢に讀者を誘ひ入れて恍惚 漱石氏はまた、巴里を一暼して、「巴里の繁華と墮落は驚くべき とさせるほどの強い力は有ってゐない。 ものなり」と簡單に斷定してゐるが、荷風氏は、「現實に見たフン 明治の文壇で私などに、エキゾチックの淸新な情味を滿喫させた ンスは、見ざる時のフランスより更に美しく更に優しかった」と云 ものは、森鸛外氏譯の「閉興詩人」であった。氏は、學者で理論家 ひ、「われ多年の宿望を遂げ得て、はじめて巴里を見し時は、明く で、歐洲文壇の新知識の輪人者として、初期の明治文學史に光彩を る日を待たで死すとも更に怨むところなしと思ひき」と云ってゐ る。漱石・抱月・荷風の三氏は、略よ同じ時代に歐洲〈渡ったので放ってゐるが、その頃の私は、まだ幼かったため、坪内逍遙氏の沒 なうちゅう あって、共に嚢中は豐かでなかったのだが、三人三様の察をして理想論に對する論戦など、何の事やら理解されなかった。靑春期に ゐるところに、各作家の素質、趣味好尚、對人生の態度が現はれて讀んだ「興詩人」によって、私は、空前の特異の文藝に接した感 じがした。これは飜譯とは云へ、和漢の文字を自在に驅使した新代 ゐて興味が深いのである。 「アメリカ物語」「フフンス物語」「西遊日記鈔」など、靑年の夢をの創作と云っていゝ。「舞姫」「文づかひ」「うたかたの記」など、 描いた物語として、私は愛誦してゐる。氏に取ってはフランスは地海外情話の片影を描いた鸛外も、アンデルセンを日本に移すことに よって、靑年の豐かな夢を思ふ存分に描き得たのだ。高山樗牛の 上の樂園である。自然の風物にしても、日常生活にしても、美術で 「瀧ロ入道」「わが袖の記」、樋口一葉の「たけくらべ」、德冨蘆花の も音樂でも、言語でも、婦人の姿態でも、完全無上のものとして、 「思ひ出の記」、泉鏡花の「照葉狂言」、田山花袋の「野の花」「ふる 氏の心に映ってゐる。漱石氏には、驚くべき墮落と感ぜられるもの 郷」、島崎藤村の「若菜集」など、明治三十年前後に、文學好きの が、荷風氏の胸には、ならぬ轟ろきを覺えさせるのである。靑春 時代にかういふ氣持で西洋漫遊を試みたなら、さぞ面白いだらう靑年を魅惑した新しい詩であり文章であったが、私に取っては、こ と、私は思ってゐる。明治初年以來、日本はあらゆる點で西洋模倣れ等明治の秀才の作品も、「興詩人」とは比べものにならない氣 がした。 を企て、來たので、西洋憧憬の念は、盛んに文學に現はれてゐるの 「偶然に生を享けたる國土の如きは、我故鄕とするに足らず」と傲 だが、荷風氏の作品には、最も棈味豐かにそれが現はされてゐる。 語した内村鑑三氏でも、幕末の日本に生れ明治初期の雰圍氣に育っ 「凡ては皆生きた詩である。極點に逹した幾世紀の文明に、人も自 たために、武士道と基督敎をチャンポンにしたやうな愛國心を有し 然も惱みつかれた此の巴里ならでは見られぬ生きた悲しい詩ではな て、故鄕とするに足らぬ故鄕から心を脱却させることが出來なかっ いか。ポードレールも自分と同じゃうに、モウ。ハッサンも亦自分と たやうに、私も、明治の日本の風潮に、一から十まで支配されなが 同じゃうに、此の午過ぎの木蔭を見て盡きぬ思ひに耽ったのかと思 〈ば、自分はたとひ故國の文壇に名を知られすとも、藝術家としてら微々たる生を營み脆弱な心魂を養って來たことが、まざ / \ と回 の幸輻光榮は、最早これで十分だと云はねばなるまい」と云ってゐ顧される。政治や實業や軍事のやうな俗界の事業に興味が乏しくて、 る如く、この世の樂園たるフランスに陶醉してゐる作家の心意氣は文學藝術に惑溺した私は、自から明治文壇の感化を受けて人となっ たので、よかれ悪しかれ、明治文學を輕視する譯には行かないのであ 隨所に散見してゐる。エキゾチックの情味は脈々と波打ってゐて、 私の心にも觸れるところがあるが、氏は、その佛國滯在が短日月でる。私は近年明治文學の復習をしながら、自己の影を隨所に見つけ
、否決して能はざるなり」と斷じてゐる。日本には西洋に存在し接彼の口から出ると、聽者の心を捉へるのであった。この「月曜講 てゐるやうな傑れた文學は出現しないといふのが、明治初年以來の演」の筆記者は、白井某といふ植村門下の靑年で、筆記術には長け 知識人間の通詭であって、内村は内村らしい觀察でさう云ってゐるてゐたのであった。この講演の會場は、亠円年會館の内の狹い部屋 のであった。内村は、つねに俗世に反抗する事を好み、文學でも宗 で、聽講者は四五十人ぐらゐではなかったかと記憶してゐる。後日 敎でも、世間多數者の好みに反抗するものを是としてゐたのであっ彼の宗敎講演は多くの靑年男女を惹き付けたらしかったが、あの頃 ( 0 は、彼はまだ廣く知られてゐなかった。題目は、「カーライル」「ダ しかし、日本現代の文學を否定した彼も、過去の或種類の和歌な ンテとゲーテ」「米國詩人」「南米詩人ー「文學としての・ハイプル」 どには好意を寄せ、大文學の地質は吾人にもありとし、要は世界精 「西班牙のセルべンテス」「詩人ホヰットマン」などである。内村は 御の涵養と注入とあるのみと云ってゐる。世界精といふ事には、 カーフィルを好み、その著書を讀破し、事に觸れてカーライルを引 あの頃の我々は文句なしに感激してゐたのであった。ところで、そ合ひに出すので、日本のカーフィルと呼ばれるくらゐになってゐた の世界的精とは何ぞ。内村は、品性の修養を貴重視してゐる。 が、内村とカー一フィルとに左程類似性があるのではなかった。カー 「大文學は氣魄なり」と云ひ、「人たることなり、人の面を怖れざる フィルは「キリスト信徒の慰め」のやうな感傷的文章を書かなかっ ことなり、正義を有りのま乂に實行することなり、輿論と稱する呶たにちがひない。世間を罵倒するにしても、内村式小刻みの斷片語 呶の叫びに耳を傾けざることなり、富を求めざることなり、爵位を の羅列はしなかった。「過去と現在」「サルトルレザルタス」など、 輕んずる事なり、これ大文學者の特性として最も貴重なるものな規模の大なるものである。容貌に於ては多少の共通點がなかったで り」と云ってゐる。今から見ると空疎な學論のやうであるが、あのあらうか。内村の風半は凡ではなかった。奇異な感じが與 ( られ 頃の私などは氣魄ある議論として快讀したのであった。 た。演説する時には聽者を壓迫するやうな威力を放ってゐた。若し につきだんじゃう しかし、當年の内村は、文章よりも演説に於て、一層つよく自己俳優であったなら、仁木彈正に扮し得られさうであった。五代目松 を發揮してゐた。聽者を感動させる力を持ってゐた。それで、靑年本幸四郎は、鷲っ鼻で、兩眼が小粒ながら妻味があり、仁木役者と 會館に於ける若き内村の文學講演は、歌舞伎座に於ける老いたる團して模範となってゐた。内村は鼻高く、眼底に威力の潜んでゐるら 菊の所作以上に私を陶醉させたのであった。歌舞伎座では私以上に しい所幸四郎と一味相通ずるところがあったと、私は空想してゐ 老優の所演を翫賞してゐる見物が幾人もゐるだらうと思はれてゐた る。カー一フィルの風羊については、内村語って曰く、「カーライル が、靑年會館に於ける内村の講演は、私ほど熱心に聽いて、よく咀老年に及び、貴族に列せられんとせしも、固辭して受けす、意氣頗 三嚼しよく玩味したものが外にあったであらうかと、あの時分に感じ る昻れる頃に當り、 一日或公園に散歩を試みんとし、途に乘合馬車 鑑てゐた如く、今も追懷してゐる。今回、半世紀を隔ててその筆記録に乘ず。同乘の客その何人なるを知らず、蓬髮疎髯、素服して飾 内「月曜講演」を、内村全集に於て讀んだ。あの當時も筆記録を讀んらず、眼光のみ々として人を射、容貌の極めて奇異なるを凝視し で、講演の魅力の找けた、芝居で云へば筋書同様のものであるのを 『あの老醜さよ』と嘲笑す。豫めこの醜き老人こそ文豪カーフィル 誌認めて、本物の講演を聽いた喜びを感じたのであったが、今度もさなれと知りゐたる馬丁は、その嘲笑を聞き、顧みて客に謂って日く う思った。高山林次郎の批評通りの、千篇一律の内村の感想も、直 ( 汝は彼の帽子の下に如何なる宇宙の存在せるかを知らざるなり ) だう
直接に敎へを受けたことが多かった。キリスト敎の話ばかりでな 從事しつ長ある』と。彼は更に間うて曰うた、『何を飜譯しつゝあ く、詩の話も小説の話もした。私が八大傅を十歳の時に讀破したと るか』と。余は答へて日うた、『余は自分の思想を著はしつゝあ インティード 云ふと、植村師は、僕は八歳の時に讀んだと自慢された。師はプ一ノ る』と。此答に對して彼は、『本當に ! 』と曰ふより外に言葉がな ゥニングのやうな英詩人の六ヶしい詩を讀んで居られた。さうして かった。誠に當時の米國人 ( 今も猶然り ) の日本の基督信者に對す 植村正久の部下にして、數ケ年間の快い信者生活を送ったのである態度はこの如きものであった。そしてこの如き時に方って、歐米 ったが、師の所説 ~ こ感激する事もなく、師に心醉する事もなかっ の敎師に依らずして、直ちに日本人自身の信仰的實驗又は思想を述 た。あの頃の私には内村第一であった。彼によって刺戟され、彼に べんと欲するが如きは大臚極まる企圖であった。」 よって智慧をつけられ、彼によって心の平和を得る道を見つけんと 内村の所説と雖も、外國の思想の感化によって出來上ってゐるの したのであった。内村は演説がうまかった。植村の説敎を聽いてゐ であったが、それでも、彼獨自の影がきらめいてゐた。「國人に捨 ると、眠くなるやうであったが、内村は我々を昻奮させ、眠い眼をてられし時」などと唱〈て、自分を國家的人物に擬するは、片腹痛 も醒まさせるのであった。押川正義はあの頃の基督教界の雄辯家で しと嘲った者もあったさうだが、艱難でも悅樂でも誇張して感應し あったが、これは世俗的雄辯家で、内村は精的雄辯家であった。 考慮するところに、彼の特色があり、靑年をして彼に魅力を感ぜし しかし押川が世を離れ獨りで道を修めて安んじてゐられなかったや めた所以であらう。高山樗牛が彼を詩人であると云ったのは、當を うに、内村も壇上に立って所感を述べる事も、靑年を集めて放談す得てゐる。詩人の素質はありながら、技巧に至らぬところがあっ る事も好きであったやうだ。私はその著書を讀み講演を聴くことをて、今讀んで、宗敎詩としても、あまり面白いものではないが、あ 努めたが、個人的に接したことはなかった。直接に話を交へたこと の時分私は、文壇の新體詩よりも愛讀したものだ。明治二十九年の はなかった。それが、私が靑年として彼に心醉し得られた理由であ 「國民之友」に掲載された「樂しき生涯」や「寒中の木の芽」など ったかも知れなかった。私は獨りとぼ / 、と讀んでゐたのであった ちよくせつ は、自作の詩として面白く、若い時分の彼なればこそ、こんな詩が が、内村の聖書の解釋が直截であり、基督敎観に、他の傳道者の説作れたのであらうと察せられる。彼自身の經驗したさま , 「な人生 と異った獨自一己の趣があるのに心惹かれ、それによって、我が聖苦を歌はないで、「生を得る何ぞ樂しき、讃歌絶ゆるひまなし」と 書の讀み方が生きて來るやうな氣がしたのであった。 歌ひ終るやうな詩を作ってゐるのに、我々は飽き足りない思ひがさ 「基督信徒の慰め」の改版 ( 大正十二年 ) の自序に、「回顧三十年」 れるが、樗牛の非難し冷罵してゐる千篇一律の悲憤慷慨文よりは遙 と題して、こんな事が書かれてゐる。 かに勝ってゐる。私は、「愛吟」と題された小册子を殊に愛讀し = 一「今より三十年前に、日本に於て日本人の基督敎文學は飜譯であった。内村好みの西洋の短詩數十篇の飜譯集であって、原詩をも添〈 鑑た。日本人自身が基督敎の事について獨創の意見を述べんと欲する られてゐる。私はそれ等を暗誦し朗吟してゐた。植村師を訪間した 内が如き、僭越の行爲である乎の如くに思はれ、敢て此事を爲す者は時、記憶にある「愛吟」のうちの一篇を師の前で朗讀すると、師は なかった。丁度共頃の事であった。米國の學校に於て余と同級生た破顔一笑。「なる程い乂詩だ」と云はれた。 りし米國人某氏が、余を京都の寓に訪うた。彼は余に問うて日う 「我のこの世につかはされしは、我が意を世に張る爲めならで、 た、『君は今何を爲しつ長ある乎』と。余は答へて曰うた、『著述に の惠みを受けんため、そのみむねをば遂げん爲めなり。
の豫期に反して、英米では賣れなくって、却って歐洲の小國で賣れてゐるが、西洋人に讀ませるため、英文で書かれてゐるので、これ 2 を日本文に飜譯すると陰影が乏しくなるのではあるまいか。 肪たといふのは、日本のやうな、東洋の一弱國に對する同情によった 内村の英文も、どうせ日本人の英文であるから、文章美に乏しい のかも知れない。黄色少年が大國へ行って苦しめられながら、基督 であらうと想像されるが、彼の日本文とても、優美でもなく閑雅で の敎へを學んでゐるのをいた / \ しく感じた結果かも知れない。ス もなく、荒削りで、稚拙なところがあり生硬なところがあって、多 トリンドベリが晩年、スウェーデン譯か何かで、この書を讀んで、 「異敎徒が基督敎に歸依することの如何に難きかを知った」と、何年に渡って多量に執筆してゐながら、いつになっても書き馴れた文 章と云ふ感じはしなかった。むしろ英文の方に書き馴れた文章と云 かの本で云ってゐるのを私は讀んだ事があった。 まんてうはう 成程内村はキリストの門に人るために可成苦鬪した。しかし、異った感じがするのではないか。「萬朝報」の英文欄は、私などもよ 敎徒が基督敎に轉換するのが、必ずしも困難な事ではないのであく讀んで、英文研究の材料としてゐたのであったが、鏡利な社會批 判や、知名人に對する毒舌があるので、英文研究以外の興味も加は る。今日、キリスト敎會には續々信者が參加してゐる。物珍らしさ ってゐた。後藤象二郞が死に際し、病苦を紛らすために、白樂天の にやすノ、とこの敎へを奉する者がある。我々の靑年時代にだっ て、異鄕の敎 ( といふ新に惹かれて、造作なく洗禮を受け、祈疇を長恨歌を吟じた事を述べ、彼等が生死の間に安らがな心を持し得な 覺え讃美歌を歌ふものも少くなかったのである。罪にをの、き、いのを諭笑するやうな筆法を見せてゐたのを、私は今思ひ出した。 しかし、詩吟によって病苦を忘れるのは、さすがに日本的豪傑らし を恐れ、永遠の生に憧憬し、十字架に縋って、やうやく心靈に一轉 いと、私はその時感じたことも思ひ出した。死に際し讃美歌を歌ふ 化を來すやうな事は、多くの信者のうちにあった譯ではなかったで のと同様であらうと私は思った。 あらう。 その頃の萬朝報は、赤新聞であって、惡德新聞と呼ばれてゐた 頭腦敏なる内村は、本場の基督敎國に於て、この敎への支配下 が、賣行がよく、勢力があって世に恐れられてゐた。主筆黑岩涙香 にある信者の美と醜とを併せ知った譯であるが、彼は本場の人々の 敎 ( に盲從して信仰の境地に奧深く進むのではなく、彼が遺傅的には、まむしの周六といふやうな悪名を付けられたりしてゐたが、文 持ってゐる武士道精禪を活躍させて異國の新宗敎を把握せんとした才があって、「巖窟王」や「噫無情」など、西洋の名作を、巧みに のであった。米國を流浪しながら武士道を心から離さなかった。武日本流に抄譯し飜案して、世に迎 ( られてゐた。そして紙面に權威 あらしめるために、内村鑑三、森田思軒、齏藤綠雨などの、文壇の 士道大和魂を心に帯びながら、基督の國の眞相を見極めんとして、 新大陸を流浪してゐる一靑年を描くのも、新時代の日本の象徴とし異材を招聘して、獨特の筆を揮はせてゐた。「蓄妾實例」を擧げて て一つの繪である。彼は、キリスト敎修業のため渡米した日本の靑筆誅を加 ( たり瓧會の裏面をあばく悪辣行爲はあったが、いき / 年が、野蠻米開の日本を憐みて、その敎化の資を惠まれよと、博愛した面白い新聞であった。 内村は、萬朝報社に迎〈られて東京に居を定め、一年と三ヶ月の 心ある米國の男女に平身低頭してゐる有様に憤慨したのであった。 間勤務して後、感ずる所あり、退瓧して、單獨で個人雜誌を出すこ アメリカ人から資金を貰って敎會を建てたり、基督敎主義の學校を とになった。「東京獨立雜誌」と題する月二回の薄っぺらな、見掛 建てたりするのを蘊としてゐた。腑甲斐なしとしてゐた。 この書は、アメリカ見聞記、精禪修養記として特種の妙味を有つけのお粗末な雜誌であった。明治三十一年の初夏に創刊され三十三
一一十七日曇。午前神樂坂邊に行きたり。河本來り、例の唯物主義 にて鰈々す。予は大に激し非常に不快となりにき。午後散歩し、會 堂にて植村氏のヨハネ傅十三章三節以下に付ての説敎を聞きぬ。過 食したため腦茫然。 三十一日曇。何故か午前腦大に茫然、殆んど前後を忘るが如し。 私は學生時代から十數 い一・間、牛込小石川本鄕などの都の西北に、 大に養生に注意せざる可らず。散歩す。午後アヅビルの會話は、相 あちらこちらと轉住してゐたしその後、芝蹴布など、都の南方に住 什うて戸外を逍遙しながら學ぶ。 居を移した。いづれも下宿住ひ借家住ひであった。 : カ老年になっ て、洗足池のほとりに水住のつもりで堅牢な家屋を買ったのであっ 四月八日曇。寒。午前散歩。午後三時間課業。夜會堂にて救主の たが、その家はあっけなく、戦災で消減した。をり / \ 通りがかり 受難を記念するの祈疇會に列す。植村氏罪に付て説敎す。大に感動 に昔の住居の跡を搜して見ることがあるが、多くは燒けるか壞され したり。碎けたる心の必要なる事、又その六ヶしき事。予の現从に るかしてゐて、舊形を存してゐる家は稀れである。 適中す。矢張り寒き故風を引かんかと恐れ、學間金錢を重んじ罪を それで、數年來上京のたびに泊ることにしてゐる江戸川ア。ハート 修ゆるの時なきなり。 の近所は、、私の住馴れたところであの時分には、川の兩岸に櫻 が植ってゐて、貸舟もあって春から夏にかけての遊覽地であったし 九日曇。後雨。午前憲法。又今日より大石氏 ( 註・この敎師は大隈 私が東京生活最初の夜を過したのは、樂坂のほとりの横寺町の下 伯の秘書嘗及通譯なりしと記憶す ) の作文あり。誠にいやなり。午後圖 宿であったが、その下宿は搜しても見當らない。燒けたのか潰れた 書室にて三十分程。マ 1 シャル ( 宣敎師 ) を訪はんとせしに雨降り のか、さつはり分らないが、最初の東京の下宿屋として、私にはそ ョ生円 跡出しし故止む。夜關ロ敎會。 ( イプル講義に列し、後聽衆少くして氣の家の様子が ( ッキリ記憶に殘ってゐる。云ふまでもなく、安 7 ー罸ロ 燒の毒なる故、殘りて靑柳氏 ( 靑柳有美 ) の内棈論とゾラといふ演題 の、下宿屋型の下宿屋であって、この種類の下宿屋に略よ十年もの の演説を聞く。終りて井川君 ( 註・短篇徒勞のモデル ) 靑柳氏に宗敎間轉々として住みくらしてゐたため、私自身が下宿屋型の人間にな 未來等を尋ね、氏の答ふるを聞き愕然としぬ。氏の信仰薄弱淺薄、 りきってゐたとも云へるのである。 引以て、我國信者をトすべし。 私は横寺町の一角に立って、昔有って今は無いその下宿屋を記憶 2 ( 明治一二十一年三月ー四月の日記より ) から呼起しながら、そこに泊ってゐた幾人かの知合ひの學生を思出 も死ねばそれつきりであるが、 ( 「文藝」昭和二十五年四月ー六月 ) 心の燒跡
鐐した。氏は作家として出發する以前に、批評家であった。その出れにならぬといふのが、昔から今まで一貫する氏の主張なのだ。こ こには氏の思想における逆説と中庸とが示されてゐる。 發點を知るためにも、これらの文章は見落しがたいと思ってゐる。 たとへば、『漱石と柳村』 ( 『文科大學學生々活』といふ標題で新聞に連 藤村について、「この人頭腦怜悧にして事物の分り過ぎるたけに、 載され、後に單行本になった ) は、二人の大學敎授を比較評論しなが鬱勃たる情絡を發露して我れを忘れる人ではない。眞の詩人の風骨 ら徹頭徹尾漱石を褒め、柳村 ( 敏 ) を貶めてゐる。執筆は明治三十八 を備へてゐない」と言った氏は、半世紀を隔ててまた『若菜集』 年一月だから、漱石が『猫』の第一回分を、「ホトトギス」に發表し 『落梅集』を讀み直し、「老眼に映る靑春となるのだから爲方がな たばかりのころである。柳村の「厚化粧の美文」と漱石の「粉飾な い」と言ってゐる。明治以降の文學者のなかで、氏は結局藤村が、 き散文」との眞の相違をんでゐるばかりでなく、「百方社會に知たとへその才能は貧弱でも、もっとも苦しんだその生き方におい らるるを勉め」る人と、「超然毀譽褒貶の外に遊ばんと勉むる」人て、しかも無類に巧妙に生き切った點において、一番興味を抱き、 との、人間の違ひを洞察してゐる。白鳥は他の何處かで書いてゐた何回も藤村論を書いてゐる。だが、藤村の散文、藤村の生き方に が、柳村がこれを讀んで、何かを爲さうとしてゐる者と、してゐなは、無上の興味を寄せてゐる氏も、人間的な薄氣味惡さの感じられ ない藤村の詩に、さほど深い關心を抱いたわけではなかった。 い者とを比較するのはひどいと言ったといふ。漱石が何も爲さうと してゐない者であったかどうかは、その後の活動が反證するところ だ。柳村が自然主義文學運動の制覇について、「文壇は不良少年の 私はこの集に、白鳥氏の初期の作品をあまり取ってゐない。明治 手に落ちた」と歎いたさうだが、彼が不良少年と言ったとき、若い 白鳥氏のことが念頭にあったのかも知れない。 三十七年に發表された處女作『寂寞』は別としても、彼の名を高か かういふ文章を持ち出すと、あるいは氏は、それは靑年客氣の過らしめた「何處へ』『徴光』『泥人形』などの作品がはひってゐない ことは、不滿に思ふ人もあるだらう。これらはもちろん、白鳥氏の ちだと言ふかも知れない。あるいはまた、このころは私は思ひ切っ たことを言へたと言ふかも知れない。後の氏の批評文の圓熟からは初期の代表作であり、すぐれたものではあるが、六十五年の氏の文 遠いが、現實の奥を見透すリアリストの鋧い眼光は、すでにこのや學生活を考へれば、氏の初期にあまりに比重をかけるわけにも行か うな文章に含まれてゐる。たとへばまた、『論語と。ハイプル』の一ないのである。それに、これらの作品に描かれた主題は、その後の 篇は、この二つの經典に對する氏の斷罪であるが、その論據は幼稚作品で、それぞれ發展させられてゐると言へるのである。 日本の近代文學は、書かれる片っ端から、大急ぎで古びてしまふ だとしても、その根本の考へは、次第に深まりながら今日の白鳥氏 といふ悲しい運命を持ってゐる。明治の文學者たちは、第一線の作 設にまで、一貫して流れてゐるものである。『現代の新體詩人』にお 解ける新體詩否定は、この集に收めたいちばん新しい評論である『藤家としての活躍期は、せいぜい五年か十年くらゐであった。自然主 作村論』と比較して讀むと面白い。かって、このごろの新體詩よりも義の作家として、やや遲れて登場した白鳥氏も、もちろんその例外 長唄の越後獅子などの方がいいと言った白鳥氏は、今も新しい詩よではない。日本の近代文學史は、それぞれの作家の史的位置を、デ ルり歌謠曲の方がいいと言って憚らない。人間の心に「詩」に憧憬すビュウから五年、十年のあひたの活躍によってしか、描き出すこと 4 る氣持が永久に存在するなら、現代詩人の詩にもっと「詩」がなけができない。あとの作家活動は、張弩の惰性としてしか扱ふことが
イ 29 年譜 作品中、最初に讀んだものだという。 明治三十年 ( 一八九七 ) 十九歳 明治二十六年 ( 一八九三 ) 十五歳 * 一葉の「たけくらべ」「に・こりえ」、鏡花の 「夜行巡査」「外科室」が書かれた。 植村正久によって洗禮を受け、市ヶ谷の日 このころ「文學界」を購讀。民友瓧一派の * 遼東半島の還附が決定した。 本キリスト敎會の會員となった。このころ キリスト敎文學とともに、この「文學界」 學内では、坪内逍遙のシークスピヤの講 の雰圍氣は、白鳥の文學癖の萌芽ともなっ 明治二十九年 ( 一八九六 ) 十八歳 義、學外では鑑三の講演と観劇に熱心であ ている。 った。 * 「文學界」が創刊され、透谷が「内部生命 はじめ京都の同志社入學を望んでいたが、 * 紅葉が「金色夜叉」を連載。獨歩・花袋・國 論」を書いた。また山路愛山との間に「人生相 けつきよく、二月下旬上京にふみきり、牛 男・湖慮子らが『抒情詩』、藤村が『若菜集』を 渉論爭」が展開された。 込横寺町に下宿した。それも文學志望とい 出した。樗午が「太陽」の主幹となった。 うのではなく、ただキリスト敎と英語の勉 明治一一十七年 ( 一八九四 ) 十六歳 二十歳 強、それに團十郞、菊五郎の芝居を舞臺で明治三十一年 ( 一八九八 ) 近村香登村 ( かがとむら ) のキリスト敎講義所見たいというのが、東京〈の憧憬となった一月から、月曜日毎に沖田の靑年曾館に通 に通い、さらに岡山市に寄宿し、病院に通 という。早稻田大學の前身である東京專門い、鑑三のカーフィル、ダンテ、ゲーテ、 ホイットマンなどに關する文學講演を聞 うかたわら、米人宣敎師の經營する薇陽學學校英語專修科に入學。毎日曜、市ヶ谷の 院 ( びようがくいん ) で英語を學んだ。校長は當 キリスト敎講習所 ( 行き、植村正久の説敎き、もっとも深い感銘を覺えた。七月、東 時アメリカに留學していた安部磯雄であっ を聞いた。また上京後間もなく、禪田の美京專門學校英語學部卒業、學業優秀で、大 た。 ( 白烏の在學中に歸朝した ) 在學中孤兒院の 土代町のキリスト敎靑年會館で、多年敬慕隈伯夫人からの賞品を受けた。さらに、新 院長石井十次から聖書の講義を聞いた。こ していた徳富蘇峰の演説を聞いた。夏には設された史學科へ入學。史學科の主任はか れは白鳥にとって記念的事件であったとい 歸省の途中、興津で開催されたキリスト敎っては熊本・ハンドの一人であった浮田和民 夏季學校に出席、内村鑑一二の風貌にはじめであった。そこでローマ史をえらんだ。ま * 北村透谷が自殺した。 た慶應から轉校してきた同縣出身の德田 て接し、連續講演「カーフィル」を聞い * 日淸戦爭がはじまった。 た。身體を強健にするため、毎日柔道の稽 ( 近松 ) 秋江と席をならべるようになった。 戰後この當時の日記「二十歳の日記」が發 古にはげんだが、過激な運動が體質に不相 明治二十八年 ( 一八九五 ) 十七歳 應だったために、かえって歸鄕後大患にか表された。 故鄕に蟄居し、文學書類を亂讀した。このかり二カ月餘臥床した。このころの學生生 * 獨歩が「武藏野」、内田魯庵が「くれの廿八 日」を書き、蘆花の「不如歸」が連載されだし ころ、「國民之友」に媒介されて、とくに 活は『夏木立』に描かれている。 た。荷風が柳浪の門に人った。横光利一が生ま 内村鑑三の作品に親しむようになった。「流 * 尾崎紅葉の「多情多恨」が「讀賣新聞」に連 れた。 載されだした。廣津柳浪が「今戸心中」を書い 竄録」や「何故に大文學は出でざる乎」「如 た。樋口一葉が死んだ。 何にして大文學を得ん乎」などが、内村の
それで、私は、「破戒」と「春」との間に、藤村の創作態度の變「罪と罰」に知慧を附けられて「破戒」を書いた藤村は、「春」を 化を見るのである。「蒲團」を書いた花袋の暗示があったのだ。自描くに當って、まづ、ツルゲーネフの「處女地」の卷頭の描寫を眞 分を見ろといふ事なのだ。自己を書けといふ事なのだ。「隱せよ」 似て、二十歳をちょっと過ぎた程度の若者數人の會合から書きはじ と教へられてゐた丑松が、「告白しろ」との暗示にかかったやうなめたのである。それ′「の亠円春を持ってゐる若者數人は、東海道の ものだ。自己を書き自己の周圍を書き、小説の夢を捨てろと云ふ事富士の麓の吉原といふ宿場に集って、西から來る岸本捨吉を待合せ てゐる。捨吉すなはち藤村はそこへ乘込んたのである。讀者の心を なのだ。たとへ、人生の夢を書き、人生を夢見る自分や彼等を書い ても、小説の夢を捨てろといふ事なのだ。藤村は小説中に現はす自惹く趣向としては滿點と云っていゝ がらくた 分の變名を岸本捨吉と名づけた。何かを捨てようと志してゐたか 當時は、硯友瓧風の小説が榮えてゐた時代であったが、我樂多文 ら、おのづからそんな名を思ひついたのか。 庫式の硯友瓧グループの會合であったなら、互ひに駄洒落の連續に 笑ひ興するのであらうが、「文學界」同人であったこの一群の靑年 それで、彼はまづ靑春時代の自分を書かんとした。文學者氣取り は眞面目に戀愛を語り文學を語り、ルネッサンスの藝術を夢み、沙 の人間には、まづ靑春が懷かしいにちがひない。ことに「新體詩の 翁戯曲中の詩を吟じたりするのである。私は明治二十年代にかすか 一つも書いたことのある藤村」である。この小説題目の「春」につ いては藤村はポッチェリの繪畫をも念頭に置いたと云ってゐる。 に現はれてゐた新しい文化の芽生を見てゐるやうな快感を覺えるの である。しかし、作家の筆は弱く、空想は乏しく、かういふ時代の このルネッサンスの名畫工の傑作「春」は、日本でも寫眞版で傅へ られてゐたが、そこには、人生の春が鮮かに豐かに描かれてゐるの 靑年の面目を讀者の頭腦に強く印象する力を缺いでゐる。藤村の愛 である。フローレンスのフィージー美術館には、ポッチェリ描くと讀してゐたらしいツルゲーネフの小説は、小説といふ名に價ひする ころの、「春」と「ヴィナスの誕生 , と、「聖母と幼兒」の三幅對がやうに、叙述描寫が整理されてあり、作中人物の會話行動も、その 並べられてゐるが、これこそ人間の描いた限りの、人生の春の極致人らしく鮓明である。 と云ってもいゝのである。春爛漫と云ったやうな春ではない。絢爛「春」作中の人物を、私は實名に直して一層の興味を感するのであ な春ではない。心を浮立たせる春ではない。だけど、春といふ言葉るが、それを知らないで、たゞ作者の空想の人物として讀んだなら 興味は甚だ淡いのである。平田禿木、馬場孤蝶、戸川秋骨、上田 で我々が想像し得る限りの春の光景である。かういふ繪畫の「春」 に比べると、藤村の春なんか、甚だ見窄らしい、甚だ貧乏な、甚だ敏、星野天知、それから北村透谷。 紅葉も記實小説としての心構へで「靑葡萄ーを書いた時、作中の 弱々しい春である。春の名にふさはしくない光景である。 人物に本名を使はないで變名にした。小栗風葉を西木としたのてあ 論しかし、日本現代の小説に、或は詩歌に、春らしい春をたつぶり 村描いたもの、寫したものがあるであらうか。藤村の春には、あの時った。本名では小説らしくないので、さうしたのであらうが、姑自」 藤代に於ける靑春の惱み、靑春の夢、靑春の言葉なんかゞ、おぼろ氣な手段である。小説といふ名前に拘ってゐるのである。藤村は紅葉 よりも作小説態度が一歩進んでゐる筈で、小説と雖も、嘘八百の作 に出てゐると云っていゝのではあるまいか。そして、それが薄汚く り事でなくって眞實に肉迫せねばならぬと思ってゐながら、實名を なく、淸らかに出てゐる。私は、この小説を機縁として、私の少年 4 避けたのは何故か。たとへ眞實の描寫であっても、作中の人物や事 時代ーー・・日淸戦爭前の日本の靑春を空想裡に浮べるのである。