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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

イ 72 顧みるも、さながら隔世の感あり。幾多の國粹論德川時代推稱の聲 ど。だから著者と同感の者が讀めば非常に面白いが、考の違ふ人が 讀めば馬鹿げて見えるであらう。家庭小説流行の今日人氣がないのも、自然の趨勢を止むるの力なきこと、さながら大河の流を戸板に て防がんとするが如し。物質界は東西一となるも、精禪界思想界のこ は無理はない。 せつぜん とは各々獨立して、截然面目を異にすべしとは屡々聽かれたる所な ④著者は叙述の方法も文章も不器用だ。思ったまを寫さずして、 それを一生懸命に廻り遠く、勿體ぶって書いたり、感じもしないのるが、今日は最早この論の破壞されたるを見る。精禪界の潮流變遷の に、やれ空がどうであ 0 たの、月がどうしたのと、泣いたとか笑っ跡を辿ると、最も早く西洋の感化を受けたるは宗敎にて、明治初年 たとか、見えすいた虚言をつくのを絶好の美文たとして見れば、著の靑年にして既に基督敎を信奉せし者多く、今日半白の老翁にて西 者の文章は露骨で不整頓であるが、吾人には其の思想を最短距離の洋の思想を心解し得る者は、最も宗敎界に多きを見るもこの故な 。次で西洋の影響を受けしは繪畫にて、一時偏狹なる國粹論に壓 文字によりて寫っしたのがうれしい。 せられ發逹を止められしも、今や洋畫の盛運は疑ひを容るゝの餘地 ④「女難」とか「湯ヶ原より」とかを讀むと文章の壓力を感ずる。 後者などは氣取ってひねくって書いたらば、いやらしくて堪〈られなく、固有の日本畫も舊套を墨守しては、保存の望なし、西洋的思 ぬであらうが、キビ / 、した筆つきが痛快である。「正直者」は君想着色の日に浸入せるを見る。繪畫についで西洋の影響を受けしは 子家を罵倒したる者、「第三者」は三面記者の所謂痴情を辯護した文學にて、最近數年間の趨勢を見れば、一目瞭然たるべく、新體詩 者。而して此等の諸篇に散在せる「若し自殺する人が生きて此世には更なり、小説にても、今日文壇の傑作は、德川時代の小説よりも 呼吸すべく何の意味だと問〈ば、何人がよくこれに答〈ん」とか西洋近代の小説と似通〈ることの甚だしきを見るべし。文字こそ日 「何故に自然を愛する心は淸く高くして、少女を戀ふる心は浮きた本の文字なれ、作中の思想、結構、文體、德川時代の人情本洒落本 心いやらしい心不健全なる心であらうか」とか「諸君は何の權威あを去ることいよノ、遠く、西洋知名の作家のと殆んど相接近しつ、 って若い時は二度はないと稱してあらゆる肉慾を恣ま、にせんとすあり。半徳川式なりし紅葉時代も既に過ぎ去りたり。音樂演劇も最 る靑年男女の自由に干渉し得るぞ」とかの問題に對して何等の興味もおくれしが、此頃ゃうやく舊を脱して新に遷らんともがきつ、あ り。京傳、馬琴或は伐名域魯文等の作風を以て明治の讀書瓧會を喜 もくあみ いづもかいおん もない老成人は「獨歩集」を手に執る必要はないが、單調平凡の生 涯がいやで堪らぬ靑年は、一讀して少しは胸が透くやうな感じがすばさんとするの迂愚なるを知らば、出雲海音或は默阿彌の脚本の明 治劇としての適不適は論ずる迄もなし。 るであらう。 かく時代の變の急なる世に於ては、靑年は常に老人よりも先輩 ( 「讀賣新聞」明治三十八年八月二日 ) なり、德川時代の如く瓧會の秩序整然として、思潮好尚の變化の遲 遲たる時に於てこそ、年少者は長老に指導さるゝの運命を有すれど、 動搖甚だしき現時にありては、靑年たる者宜しく感觸の鈍き老人連 を踏みのけて進むべき也。世或は現今の小説洋畫等は老成人の趣味 に合はざる幼稚なる者なりと難ずるれど、老成人の趣味に適せざる こそ、其の勝れる所以にて、前途有望なる證となすべし。比較的早 靑年の勝利 明治の天地思潮變遷の急なるは誰しも認めざるはなく、十年前を 白鳥

2. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

「生」や「春」が文壇の噂になってゐた時分、私は花袋を訪間した 借りたり、ツルゲーネフを眞似たりするほどであったが、しかし、 ことがあった。その時藤村が來てゐた。私はにつり / \ 靜に話して腹のなかは、つまりは日本人なのだ。それが今になって分ったのか ゐる二先輩の話に耳を傾けた。自分の事を書くのと、他人の事を書と嗤はれさうだが、それはその通りで、今になって分ったのだ。新 くのと、どちらが六ヶ敷いか、たやすいかといふのが話題になった時代の靑年らしく振舞ってゐる一群の靑年を描いてゐる「春」や が、花袋は、それは他人の事を書くのが六ヶしいに極ってゐると云「櫻の實の熟する時」を今讀んで、新たにさう感じたのだ。 ったやうな口を利いた。藤村はそれに反對で、自分の事を書くのは 自分を蝶々に托して世をはかなんだり、自分の悔悟絶望を、丸坊 責任が重いと云った。筆を執りながら苦しい思ひをすると云った。 主で象徴したりするのも日本趣味であり、その道德も國家觀にも新 花袋は自己の現實暴露的小説を多量に書いたのだが、覺悟してか 味があるのでもない。たゞ、これ等の靑年は、かういふ時代に生れ ると、筆はすら / \ と運んだやうであった。藤村は、重くるしい筆て育って、何かの空漠たる「新」を求めてアクセクしてゐるだけの を持って、ねち / 、と自分を見詰めながら、深い溜息を吐きながやうに、私には思はれた。「櫻の實」や「春」を讀んで面白いのは、 ら、一字一句積重ねて行ったのであらう。「櫻の實の熟する時」を そのアクセクして新を求めてゐる有様であって、彼等より何年かお 讀みながら、さう思ったのだが、この自傅小説は、はじめを書きか くれて生れた私自身の影をもそこに見るやうな氣持がして面白くも けたばかりで、フフンスへ行って、 。 ( リの下宿で、少しづっ書きつあるのである。「櫻の實」の終りでは、人生の旅を「まだ自分は踏出 づけ、歸朝後に書き足してやうやく完結させたので、藤村として、 したばかり」であり、「春」の終りの族では、「自分のやうなもので 氣拔けのした作品のやうである。材料は「春」以前の作者の生活記 も、どうかして生きたい」なのだ。そして、藤村の小説の讀者たる 録なのだが、作品として「春」に比べると、木目があらいやうだ。 私などは、この二卷のうちで、かういふ風に生きてゐた作中の主人 キリスト敎系統の學校に入った關係から、洗禮も受けて、西洋の宗 公が、これからどういふ風に人生の旅を生き續けるかと、その經路 敎の妙味をも多少感得した筈なのだが、それに深入りするほどの興を見たくなるのである。 味もなかったらしく、芭蕉の「奧の細道」なんかに早くからかぶれ 私は、自分の靑年時代は、いかにも見窄らしかったやうに回顧し て、「古人も多く旅に死せるあり」を、感傷的に受入れたりした。 てゐるが、それは、靑春といふものを私が過重視してゐるためかも そして、芭蕉の眞似をして當てのない旅に立って、靑春期の一章を知れない。去年の夏、或雜誌の企てた靑年學生の會合の席〈引出さ 終り、まだ自分は踏出したばかりだと、一篇の小説に意味ありげなれて、何かの話をしたのであったが、その時、私は、今の學生の多 締めくゝりをつけたのであった。藤村は外來の聖書の聖句に感激すくは苦難の生活經驗をしてゐるのではないかと、それを氣の毒に思 論るよりも、自國の芭蕉の聖句なんかに心を浸したのである。 ふやうな口調で話した。昔は入學試驗の惱みはなかったし、授業料 村 日本人は異國の文化を受入れて消化することに巧みであって、文は安かったし、下宿屋に不自由はなかったことを思出したのであっ 藤學だって、西洋物の輪人を努めて、その摸倣をしたのであった。藤た。ところが、その會にゐた或學生は、「自分逹は氣の毒に思はれ 村なども異國文化にあこがれて、同輩が相集まると、ルネッサンス たくない」と、けな氣な言葉を放った。前時代の學生こそ憐れむべ 昭だの、ダンテの詩だの、オフリアの唄だのと、口々に讚美感歎の きもので、我々は彼等よりも生甲斐を感じてゐると、ハッキリ云っ 4 聲を放つのであった。小説を書くにも、ドストエフスキーの知慧を た。成程さういふものかと、私は反省したゞけで、押返して云ふべ

3. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

たって、東西の古人の定義に飽き足りない我等には、 ( ' キリした年が子守唄を聞くのは似つかはしくないのであらうか。 返事が下されないのだが、人間の心につよく根をおろして集くって 與謝野夫妻の經營してゐた新詩瓧とかいふ歌人團體の殘黨の發行 ゐる「詩」に憧憬する氣持が永久に存在するなら、現代詩人の詩してゐる「淺間嶺」といふ小册子に、數年前に載せられてゐた森鷓 に、もっと「詩」が漂ってゐなければならぬと思はれる。或は沈潜外の書翰は、私に面白く思はれたらしく、その斷片が反古棚の上に してゐなければならぬと思はれる。現代の詩には、昔の詩に見られ收められてあった。これは鷓外の書翰集のなかにはまだ入ってゐな ないやうな叡智の動きが窺はれるやうにも思はれるが、その叡智は いのではあるまいか。これは、日露戦爭時代に、鸛外が戦地から妹 詩のなかに融けてゐないで、これ見よがしに示されてゐるだけのやきみ子に宛てゝ送られたもので、「極祕」との警戒語が添〈られて ゐる。戦地でつれづれのまゝに書かれたものだが、知人の身に當り 「若菜集」その他數卷の藤村の詩集に收められてゐる作品は、一年障りがあるのを氣遣「たのであ 0 た。きみ子もその注意を守 0 て、 足らずの短い間の仙臺滯在中に作られたもので、それについて彼は極祕にして來たのだが、時代の經過した今日では、馬鹿正直にその 感慨を洩らしてゐる。「それまでに經驗して行「た劇しい精の動戒めを守るにも及ぶまいと思って、誌上に發表したものらしい。 搖をも、それを思ひ起すことも出來るやうなところ〈、やうやくの その極祕の感想の一つは、新派の女王鳳晶子の詩歌文章が絢爛人 ことで自分の身を置きえたやうな心持でした。それまでのいろノ \ 目を奪ふといふ、崇拜者一同の推稱する、その絢爛はどうして生ず な心の煩ひからも離れ、古人や先輩の影響からも離れ、自分の靑春るかを詮議したことである。「淺ぎ地に扇ながしの都ぞめ、九尺の といふものに思ひをひそめることが出來たのも、あの旅でした」 しごき袖よりも長き」「上二枚なか着はだ〈着、舞扇、はさめる襟 藤村一一十五六歳の頃で、年齡から云ふと、靑春のまった。中であの五いろのえり」なんかはその絢爛の一例だが、こんな歌は古來無 った。生れながらの詩人なら、靑春を心行くまでに唄ふ時である。 かったからえらいと云はれてゐる。しかし、下宿住ひの書生さん逹 靑春の惱みか喜びか。私は肉體の弱かったゝめか、生れながら、心の は、呉服の名や染色の名を知らないから、そんな歌は出來まいが、 うちに「詩」を缺いてゐたためか、何となく靑春を知らないで、靑娘 , 子やおかみさんには呉服模様は分ってゐるのだから、作らうと 春期を過したやうに感じてゐる。他のさまみ、な世相と同様、私の思〈ば出來る譯だ。 空影の靑春だけを見てゐるやうなものだが、藤村は自分の靑春に思 それで鸛外は、一つの試驗を實行した。それは彼が記憶に、妻が ひをひそめて唄ったのであ「た。「私の若菜集の中にあるやうなか婚禮の時に、大そう赤いところや白いところの錯雜してゐる、又處 ず , の詩が、その自分の胸から胸〈自山に流れて來るやうにな「處の光 0 てゐる服裝をしてゐたから、あの呉服地から染色縫模様を 論た」と。自分で云ってゐるほどだ。それで、明治文學中の青春歌は、 一番間うて見ようと思立った。さて早速質間して答辯されたところ りんす 村藤村にこそ止めを差すと思はれたので、私は、「若菜集」「落梅集」 で、それを三十一字づつにならべて見た。共歌に日く、「緋綸子に 藤のあちらこちらを、更にも一度讀直した。丹念に口ずさんで見る金絲銀絲のさうもやう、五十四帖も流轉のすがた」「箱迫や紅白に と、「その靑春の夢淺し。言葉の足らはず、魂も弱きを感じ、それほふ羽二重の襟にはさめる錆茶金襴」「前ざしのこがねか櫛のタイ 8 よりも陳腐なる靑春の如く唄はれてゐる詩の跡を見る」やうにも思 マイか、あらず映ゆるは黑髮のつや」 做された。つまりは老眼に映る靑春となるのだから爲方がない。老 拙者の歌も、晶子さんの御名吟と大差なささうだと、鸛外は諧謔

4. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

ばかり盜んだことがあり、美しい表紙畫の草双紙を繪本屋の店から き何の考へもなかった。 過去の彼等よりも現在の自分逹の方が意義のある生活をしてゐる萬引したことがあるとされてゐるが、それが、この「春」のやうな のだといふほこりを持っことが靑春の姿ではあるまいか。かの學生作品に收まってゐると、讀者の目にそれが愛嬌のやうに映りこそす の心には、私などの味ひ得ないやうな靑春が活躍してゐるのであられ、その行爲をさげすむやうにはならないのだから不思議だ。 花袋の「生」は、漱石の評語の如く薄汚く見え、「春」は、圖柄 うか。「春」作中の、文學を志す靑年逹には、さういふ靑春のほこり が冴えてゐなくなって、躊躇逡巡してゐるやうである。「岸本が落が淸らかに見えるのは、文學的天分によるのか。人としての態度に よるのか。 ちて行く考へでは、東西の大家が自分等靑年に殘して置いてくれた 私は、藤村には、たび / \ 會ってゐるが、最も興味ある印象の殘 文學上の産物も、多くは人間の徒勞を寫したものに過ぎない。悲壯 ってゐるのは、私がはじめて洋行の途に就いた時の事である。あの な戲曲も徒らに流した涙である。微妙な詩歌も溜息である。何を苦 しんで自分等は同じ事を繰返す必要があらう」といふ懷疑の思ひで時は、大勢が東京驛に見送って呉れたのだが、私が驛の構内をうろ ある。「新」を志しながら、何を苦しんで同じ事を繰返す必要があついてゐると、ふと、藤村が柱の蔭に立 0 てゐるのが目についた。 らうといふ懷疑の念である。何のために其日まで骨を折って來たの私は意外に思ひながら挨拶すると、藤村は會釋して、それだけで別 れを告げたつもりで歸って行った。無論プラットホームなんか ( は かといふ懷疑の念である。 私自身は薄志弱行の靑年でもなか 0 たのだが、藤村も岸本も自分出ないで、誰にも會はないで歸 0 て行ったのだ。私は、間貫一が、 で自分をさう認めてゐる薄志弱行のふるまひや考〈方に、心惹かれ新橋驛で、蔭ながら、荒尾讓介を見送「た劇的場面を、い 0 も連想 しながら、あの時を思出すのである。橫濱の埠頭場まで見送ってく るのは、我ながら不思議である。我等の云ふ文學は、薄志弱行の辯 れた知人も多かったが、私には見送り人のうちでは藤村の姿が、最 護であり、言譯であるやうなものか。藤村は、同時代の他の作家よ も鮓明に、興味をもって回顧されるのである。 りも、一層多く、一層丹念に、一層煩しく自己反省をする人で、戀 ( 「文學界」昭和一一十九年二月ー四月 ) 愛についても、文學についても、肉親縁者に對しても、さういふ習 慣を持ってゐる事は、その作中によく現はれてゐるが、「春」のうち で、或人の言葉に托して、「岸本は自分勝手の塊である。彼の戀は 人と一絡に死なうと云ふ戀で、人と一絡に生きようといふ戀ではな い」と、自己批判めいた事を云ってゐる。しかし、私は、人と一し ょに死なうと云ふ戀の方が一層純眞ではないかと空想してゐる。そ して、「自分のやうなものでもどうかして生きたい」と思ひ / 、し てゐた藤村が、人と一しょに死なうとするやうな戀をしたのであら うか。さういふ戀をしたのであらうか。さういふ戀をなし得るやう な素質を持ってゐたであらうか。 それから、作中の岸本は、同居人が机の上に置忘れた金錢を十錢

5. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

し、「動かし難い世間の定評」にな 0 ている。 ~ に措定したのは同時代の肚紀末思想の類縁落 0 けるために、大正初年の作品が書かれ、 しからばその頽的生活は如何と問い、七「によるものであ 0 た。しかも、大體、この方やがて第一次世界大戦をむかえた。『白権』 年間に書かれた七十數篇の作品に描かれた人向に白鳥は自己を完成させて、多くの代表作『三田文學』『「 0 ( ~ 』『新思想』などに集だ 物を「人生の意義など云ふものを考〈ない普を書いた。『心中未遂』 ( 大正 = 完刊 ) 『靑蚌』 0 た、大正期の文學を形づくる華やかな靑年 通人」と「や、高等な敎育を受け、相當に自 ( 同・〈刊 ) 長篇『生靈』 ( 同・刊 ) 『半生』 ( 大正一 = ・作家たちの活動がようやくめだ 0 てきた時で 意識の發逹した所謂新らしい時代の靑年」と一刊 ) 『人江のほとり』 ( 大正五・〈刊 ) 長篇『夏ある。白鳥は大正六年、痔疾の治療に病院邇 に分け、作者の察し、考え、暗示するとこ木立』 ( 同・一 = 刊 ) 『牛部屋の臭ひ』 ( 大正六・ , 刊 ) をしながら、この = 一十代の最後の年を送る ろを考えていった。兩者とも精艸的になんら長篇『波の』 ( 同・一一一型などの作品集におことばのなかに、次のように書いた。 の威をみとめぬが、消極的、外發的と積極さめられ、またはもれた數多くの作品とな 0 「新年用の原稿の執筆は、今年も相變らず忙 的、内發的とのちがいがあり、また境遇からた。このなかに初期の『二家族』などの系統しか 0 たけれど、自分逹の時代は最早去「 自然にきたのと我からもたらした幻滅とのちをひく、故を背景とした名作『入江のほとて、新進氣鋧の人逹の風變りな物が迎〈られ がいがある。この結果、前者が屈從的、あきり』『牛部屋の臭ひ』など、あるいは世相をる世の中にな 0 てゐる今では、流行はづれの らめ的、敗滅的であるのに、後者は反抗的、う 0 した佳作『心中末遂』『「「生者』など縞柄を織り出してゐるやうで張合ひがなか 0 執着的、破壞的である。その内部に人ると、 が含まれている。この間に、大正四年に月かた」 ( = 下弋 . ・大正六・一二 ) 兩一「とも一種沈滯腐敗の氣がみなぎ 0 ているら翌年一一月にかけて、『中央公論』に文藝時後の『文學的自敍』においても、この時 が、後者の否定は否定のための否定で、主張 . 評の筆を執った。すでに白鳥は三十代の終り代を回想して、 すき自己がなく、一種のイ一デフ , 」 , であり、卒直に感想を述・〈ているが、人間的「 = ・・・・私は長い間の執筆に倦んだ。相變らず スの从態である。兩者とも惡魘的、厭人的、 に圓熟して、初期のように皮肉を弄すること誰誌社の依賴はあったにしても、書き榮えの 唯我的、唯物的であるが、前者があきらめかが少くなった。 しない同じゃうなを繰返し卷返し書き續け ら無知覺の从態に入っているのに、後者は病 るのが詰らなく思はれだしたので、暫く故郷 四 的に、社會に有害な方面に、さらには反抗的 へ引込まうかと決心した、年齡も初老と云は になっていく。このような生活氣分が生まれ靑年作家として名聲を確立した白鳥は新聞れる四十歳に逹してゐた」 るのは、日本の瓧と生活とが不徹底、不充社を辭して作家生活に入るとまもなく、數え こうして大正八年十月十五日、市我善坊 實であるからであり、チ , ~ ホフの描」た九十年三十三歳で、明治四十四年五月七日、甲府の家をた、んで、夫妻で伊香保から中仙道を 年代の。シアのような社會があり、白鳥はポ市連雀町一番戸淸水德兵衞の三女「 ( 明 ( て、故窩に歸「た。「出來る事なら文學を オドレエルのように「私達の現在の生活に對治二五・四・一生 ) 從來の年譜に次女とある棄て、都曾生活を止めよう」 ( 年譜 ) と思った。 する戦慄」を創造したのである、とした。 は誤り と結婚をした。「形式的手續によ同じことが『私の文學修業』に出ている。 幻白鳥がチ , 一ホ , に深く影響されたことはす 0 た結婚をした」 ( 「文壇自敍傳 ~ ) と」「ている。「半年あまり田舍に蟄居してゐたが、故鄕生 てに述べたとおりであり、白鳥をポオド」この結婚で、一數年間の濁 0 た生活」に一段活は自分の氣持と調和する筈はなか「たの

6. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

涙の谷や笑の園、悲しみは來んよろこびと、よろこび受けんふたであらうか。 っとも、禪のみ心ならばこそ。 勇者のたけき力をも、敎師のもゆる雄辯も、われ望まぬにあらね ところで、靑年期の私に最も感銘の深かった内村の講演は、明治 ども、みむねのま又にあるにはしかじ。 弱き此身はいかにして、そのっとめをば果つべきや、われは知ら三十一年 ( 私の二十歳の時 ) 一月から、月日毎に田の靑年會館 で開催された文學講演であった。私は早稻田近傍の下宿屋から其處 ねど禪は知る、脚に賴る身の無益ならぬを。 おほ まで、千里を遠しとぜず通って行った。 小なるっとめ小ならず、世を蓋ふとても大ならず、小はわが意を その以前、「國民之友」誌上に於て、内村は、「何故に大文學は出 なすにあり、大はみむねによるにあり。 わが手を取れよわがよ、我行くみちを導けよ、われの目的は御でざる乎」及び「如何にして大文學を得ん乎」について、熱烈に論 むね じたことがあった。これは明治一一十八年の夏、すなはち日淸戦爭の 意をば、爲すか忍ぶにあるなれば」 イタリー この詩は、 ( 或詩 ) と題して、米國の宗敎雜誌に掲げられたもの直後、國民新聞紙上に、「時勢と文學」と題し、「以太利復活の大風 雲は、ダンテを産せり、アリオストを産せり、日本大膨脹の下一つ ださうだ。作者は身體虚弱を歎ずる際、天上よりの慰藉に與かり、 の大文豪を産するなきか」と云ってゐるのに刺戟されて、内村自身 その時の感を綴ったものらしいと譯者は云ってゐる。 ひょわ の文學觀を述べる氣になったのであらう。徳富蘇峯の文學觀、内村 あの頃の、羸弱な私は、かういふ詩を愛誦して感傷の甘味を味は ひ、人間、如何に生くべきかを空想してゐたらしい。若かりし頃の鑑三の文學觀は、當時の純文學者の文學觀とは異ってゐるが、それ は必ずしも見當ちがひであるとは云へないのである。あの頃の私 内村には、激しい感想の露出にも詩趣を帶び、人並外れた空想のう ちにも感傷的の甘味がまじってゐたのであって、それが私などの若は、硯友瓧文學を愛讀はしてゐたが、その作家態度を蔑視するや うな氣持になってゐた。私は藝術至上主義にはかぶれなかった。 い心に共鳴されたのではなかったか。 その後二十年、私が輕井澤で偶然植村師に出會って、少時間雜話「理想なき處には文學はなし」「世界思想なき處に大文學なし」と、 を寸じ〈た時、師は、「君は僕に、内村の詩を讀んで聞かせたこと内村は内村らしい事を云ってゐる。「敢て間ふ、過る十年間の日本 かくのごとき は如此原動力を養ひっゝありし乎、吾人は愛國心の養成と稱し があったね」と、昔ながらに破顏一笑されたことがあった。 て、吾人の靑年に多くの和文を暗誦せしめたり。故に彼等は源氏物 "Poetry is the morning dream 0 great minds" マルチインの 語に倣って能く艶文を綴り得るなり。温良なる民を作ると稱して、 この語は「詩は英雄の朝の夢なり」と譯されて、「愛吟」の卷頭に 載せられてゐる。「愛吟」は、森鷓外一派の譯した西洋詩集「於母吾人に兵隊的服從を敎〈たり。故に彼等に獨創の意見あるにもせ よ、彼等は謹んでロを開かざるなり。否彼等は多くの實例を以て 影」とは趣を異にしてゐるが、異にしてゐるところに宗敎味があっ きふきん たのか、靑年期の私の詩心が共鳴したのであった。藤村、泣菫な創の意見を懷くの不利と危險とを敎〈られたれば、彼等は平凡的多 ど、あの頃の新興の純粹の詩人に比べると、内村には詩人の骨法を數と歩むを知って、反俗的少數と共にせざるなり、吾人は吾人の希 持ってゐるやうではなく、その散文も無骨で滋味を缺いてゐるやう望通りに吾人の靑年を仕立てたり、彼等は能く吾人の命令に聽け り、故に彼等は、ダンテ、シルレル、カー一フィルたる能はざるな であったが、その點が却って我々の心に喰ひ人る力を持ってゐたの めあてみ あ・つ

7. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

月、「從姉」を「趣味」に、四月、「動搖」 「太陽」に、「藝術上の懷疑」を「早稻田明治四十五年 三十四歳 を「中央公論」に、五月、「二つの悲劇」を文學」に、三月、「お芝居」を「新潮」に、大正元年 「文藝倶樂部」に、六月、「名殘」を「文章 「手帖より」を「早稻田文學」に、四月、 一月、「茶の間」を「太陽」に、「都の人」 世界」に、「德富蘆花論」を「中央公論」 「畜生」を「新小説」に、「モルヒネ」をを「早稻田文學」に、「草乳香」を「文章 に、七月、「徒勞」を「早稻田文學」に、 「文章世界」に、五月、「死後」を「中央世界」に、「平和」を「女子文壇」に、四 八月、「旅より」を「世界文藝」に、九月、公論」に、六月、「文藝委員會の眞價如何」月、「白壁」義曲 ) 、「坪内博士」を「中央公 「開店」を「早稻田文學」に、「一夜」をを「中央公論」に、七月、「泥人形」を「早論」に、「通夜」を「早稻田文學」に、五 「文章世界」に、十月、「盲目」を「早稻田稻田文學」に、「ロ入宿」 ( 『白鳥傑作集』では月、「生靈」 ( いきりよう ) を「朝日新聞」 ( 五月一 文學」に、「微光」を「中央公論」に、十一 「ロ入屋」となっている ) を「新潮」に、「累」 日より七月二十五日、十九の四まで八十五回 ) に、「河 月、「有情」を「中央公論」に、「舊知」をを「太陽」に、「島村抱月氏」を「中央公辰の顔」を「新潮」に、七月、「柴田環と 「新潮」に、「感想漫録」を「早稻田文學」 論」に、八月、「閉店」を「早稻田文學」 松井須磨子」を「中央公論」に、九月、「靑 に、「近松と西鶴との比較」を「文章世界」に、九月、「窒息」を「中央公論」に、「八蛙」を「中央公論」に、「」を「新小説」 に、「竹越與三郞論」を「中央公論」に・十月初旬」 ( 日記 ) を「文章世界」に、十月、 に、「九助の旅」を「文章世界」に、十月、 二月、「書簡二束」を「早稻田文學」に發「窓」を「文章世界」に、「信仰」を「早稻「醉漢」を「太陽」に、「旱魃」を「文章世 表。六月、七年間いた讀賣新聞社を退瓧し田文學」に、「雎昔からの約束」 ( 「實際經驗界」に、「贋物」を「早稻田文學」に、十一 た。この年發表された、「靑年」 ( 鷓外 ) のなの上から觀たる結婚の意義」 ) を「新潮」に、 月、「汐風」を「中央公論」に、「お今」を かの一人物大石路花は白鳥をモデルにした十一月、「雨の日」を「中央公論」に、「の 「新潮」に發表。五月、『毒』を、九月、『白 といわれている。 け者」を「太陽」に發表。「毒」を「國民鳥小品』をそれぞれ春陽堂より刊行。 * 「白樺」「三田文學」「新思潮」 ( 第二去 ) が創 * 直哉が「大津順吉」、鷓外が「興津彌五右衛 新聞」 ( 十一月十九日より翌年三月三日、七十五回 ) 刊された。近松秋江の『文壇無駄話』が出、秋 門の遺書」を書いた。ヒュウザン會展覽會が開 に連載。六月、『落日』を左久良書房より、 聲が「足跡」を「讀賣」に連載した。 かれた。 八月、『微光』を籾山書店より、『泥人形』 * いわゆる大逆事件がおこった。韓國を併合し * 明治天皇が死に、つづいて乃木大將が殉死し ( 現代文藝叢書第一 ) を春陽堂より刊行。四月 ( 婚姻屆出は五月七日 ) 、中村吉蔵夫妻の媒酌に より甲府市の油商淸水德兵衞三女っ彌 ( っ 譜明治四十四年 ( 一九一一 ) 三十三歳 三十五歳 大正一一年 ( 一九一三 ) ね・明治二十五年生まれ ) と結婚した。 * 有島武郞が「或る女のグリンプス」を迚載し 一月、「呪」を「早稻田文學」に、「波の音」 年 一月、「心中末遂」を「中央公論」、「隣の を「文章世界」に、「親心」を「文藝倶樂はじめ、武者小路の『お目出たき人』が出た。 人」を「早稻田文學」に、「二人の靑年」を 「靑鞜」「朱欒」が創刊された。 「婦人公論」、「ひとり言」を「文章世界」 芻部」に、「涙」を「女子文壇」に、二月、「危 * 大逆事件の被告に死刑が宣告された。 險人物」を「中央公論」に、「他所の戀」を に、四月、「電報」を「中央公論」、「命知ら

8. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

「獨歩集」を讀む 靑年の勝利・ 「破戒」を讀む 「蒲團」合評拔萃・ 作品解説 : 正宗白鳥人門・ 一三ロ 參考文獻・ 二十歳の日記抄 ・ : 山本健吉四一五 : 瀬沼茂樹四一一 0 : 四四五

9. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

叙情文と云った趣きがある。それ故、小説よりも、彼女の日常生活彼れ等の多くが、師病などに罹って若死にをしたのは、貧乏が重な 0 原因をなしたと云ってい長。社會の冷遇が歎ぜられる譯であるが、 をそのま長に書いた日記の方が、今日の私には遙かに面白い。頻り に彼女を訪間してゐた當時の靑年文士の描寫は、彼女の小説中の人本來あの時代に原稿料で生活しようと企てるのが間違ひであった。 物よりも生氣を帚びてゐる。貧窶に惱みながら藝術に志を立てた若徳川時代の末期には、いろ / \ な戯作文學が流行してゐたが、原稿 き彼女 0 心境は一そ 0 小説では見られな」ほど 0 生彩を帯びて現は料だけで生活してゐた作者は、馬琴くらゐなも 0 だ 0 た。明治にな リ作ってから、西洋の感化で文學藝術の士が奪重されるやうになったと れてゐる。筆馴らしのためか、丹念に書記されたその日記が、倉 全部に匹敵するほどの分量を有ってゐるのは、國木田獨歩の、「欺は云〈、まだ草創の際で、新文學の讀者が急にさう殖える譯はなか かざるの記」が、殆ど彼れの創作全集と同じ量に逹してゐるのと同った。だから、小説や詩で、贅澤な生活の料を得ようと思って、そ の道に志した人はなかった筈で、貧乏は覺悟の前であったのだ。あ 様である。この二つの日記は、量に於ても質に於ても、明治文學者 の日記中類例のないものであって、私は特に興味を寄せてゐる。全の頃の作家で大正昭和と生き長ら ( て、圓本の御利益にあづかるな んか、夢のやうな話である。しかし、淸貧を覺悟の文士だって、一 體、下手に骨を折った小説よりも、書きっ放しの日記の方が面白い 度贅澤の味を占めると、貧乏がいやになるのは人構の常で、從って に極ってゐるのだ。 昔とは氣風が變って、營利に心忙しくなるのは自然の勢ひである。 一葉の日記には、日常生活の描寫に富んでゐて、藝術味があり、 「文學者詩人にして、猥りに生活難を説くもの、亦自分は其の理由 獨歩のには、抽象的な人生感想録が繰返されてゐて、描寫が乏し い。續けて讀んでゐると退屈する。しかし、男は男であり、女は女を解するに苦しむものである。歐羅巴諸國の如く、文學者を奪重す る國にあっても ) 最初より文學を以て一家妻子を養ふべき職業とな である。一葉は、他人に見られることは全然豫期しなかった日記に 於てさ〈、自己の心情を露骨にはぶちまけなかったと、私には思はし創作の筆を執った例を聞かぬ。文學が國家及社會に有害なりとの びうけん 謬見に囚はれたる日本に生れ、日本の文學者としてこれを職業にし れる。自分が書いて自分だけが讀むにしても、愼ましやかに美しく ようと云ふ。自分は先づあまりに其の暴なるに驚かざるを得ぬ。一 自己の姿を映したかったのだ。そこへ行くと、獨歩の方が率直であ った。「欺かざるの記」を讀むと、私自身若かりし頃、日常瞑想し身の不幸一家の悲慘を見るに至るは、最初より知れきった事であ る」とは、明治の末期に、永井荷風氏が隨筆「紅茶のあと」のなか たり反省したり、時には日記にも書き記したりした感想にたび / 、 に云ってゐる感想であるが、止むなく文學を職業としたために、一 出くはすのである。二十年代の眞面目で敏感な靑年の本體を知る には、この「欺かざるの記」が最も適切な文獻である。今日の靑年身の不幸遺族の悲慘を來たした實例は、明治文學史の裏面に甚だ多 の多くは、この日記に出てゐるやうな個性の鍛錬には、さして心をいのだ。その點では世界の文學史に類がないだらうと思はれる。以 前「文藝春秋」に、原田東風氏が「梁山泊時代の獨歩」と題して、 勞しないのかも知れないが、しかし、樗牛や獨歩の著書が、死後數 獨歩の鎌倉生活を仔細に語ってゐるが、これによっても、あの頃の 十年の今日まで、一部の靑年に愛好されて、可成りの賣行を保って 來たことを考〈ると、彼等には末長く靑年に共鳴されるところがあ文士の生活振りが如實に見られる。そして、獨歩は、この貧生活の 間に、彼一代の傑れた短篇を幾つも産出したのだ。それ等の創作に るのであらう。 は、作者の個性が發揮されて、時流に媚びたところは少しもない。 綠雨でも一葉でも獨歩でも、明治の文學者は大抵貧乏であった。

10. 日本現代文學全集・講談社版 30 正宗白鳥集

り、彼の靑春の頃であったので、彼地に於ける生活印象が鮓明であ文人等の中にあり。ち手を以って直ちに天然物に接する事なく、 6 多く室内に安住して、宇宙と人生に關し、沈思默考を凝す者の中に る。「如何にして基督信者となりし乎」の面白い所は、新興日本の 靑年が、自分の意識しなかった黄色人種の運命を背負って、世界のあり。懷疑は思想の過食より來る腦髓の不消化症なり、故にこれを 新興國たる米大陸のうつ勃たる生活に觸れたことなのだ。彼は彼ら癒すの方法は、疑間の解釋を供するにあらずして、是等憐むべき座 しく反抗を試みたので、盲從に甘んじなかったのだが、それも徹底食者をして沈思默考することを止めしめて手を以って働かしむるに 在り」と。 はしなかった。反抗もいゝ加減な所で終ってゐるのである。 農夫や樵夫や漁夫を美化し純化し、飾聖化して考へるのは、幼稚 彼は、親切な總長の好意で、或カレッヂに人れて貰って、無一物 の東洋の貧書生が安んじて文明の學業を學修することになったのでな考へであって、實在の彼等の多くは、愚昧で、悪ごすくて、迷信 あったが、カレッヂ内居住後間もなく、彼は總長に件はれて或宣敎つよくて、信賴すべきものではないのである。しかし、農夫や漁夫 師大會に出席した。その光景は私などが、今讀んで想像しても甚だや樵夫のやうに、毎日肉體を酷使して生活してゐると、如何に生く べきかの間題なんか考へる餘地はなく、懷疑に苦しむ暇もなく、 面白いのである。小説嫌ひの内村には、小説的描寫の筆がないから 光景鮮明にして身に迫る思ひはされないのだが、私自身でそれを空「如何に生くべきか」が、おのづからそこに解決されてゐるやうな ものである。我々が苦慮して、何か眞實に生きる方法を案出して見 想して見ると、或人間心理の躍如たる思ひがされるのだ。私は先日 ても、環境が許してくれなければ、何にもならないのである。 淺草の宏大な「國際劇場」で、多數のレヴューガールの活躍するシ この頃は、世路の經驗に富んでゐる知識人で、共産黨に入黨する ョウ ( 見世物 ) を見た。内村が半世紀以上も前に出席させられた米 ぐわんみ 大陸の宣敎師大會に於ける「外國傅道光景」は、印象深く翫味され者が多くなった。共産主義が正しい生きる道として光って來たので あるか。私なども、二十年も遲く生れてゐたら、我靑年時代に、キ るものちゃないかと思はれる。 リスト敎に感激するよりも、マルキシズムに感激したかも知れない このあたり日本の基督教徒の西洋顴察記と異り、内村の見聞録 に、今なほ生命があるのは、主我的察を施して、自から屈して盲と、平生さう思ってゐたのであるが、只今、熟考すると、必ずしも さうではあるまい。共産主義は、死後を認めない現世主義であり、 從しなかったためであるが、キリスト敎のワクに入ってゐるため、 乾燥無味である。私のやうな者の靑年の夢は、この主義によってそ 批判の自由は束縛されてゐるのである。外國傳道ショウに於ては、 そのかされなかったに違ひない。それに美女も醜婦も平等に見ろ、 宗敎を通じての世界の人間生活振りが現はれてゐて面白さうに空想 されるが、いくら負けじ魂を發揮してみたところで、こちらの人世差別を認めるなと云ふやうな思想は、わが亠円年時代には共鳴されな かったに違ひない。兎に角、キリストのマドンナは、靑春の夢をそ 眞相のいかに見窄らしくあるかは、目に映らないではゐられないの である。 そのかすほどに美しかった。 我等只今、共産黨にもキリスト教にも人り得ないとして、また内 私は經過敏で懷疑心の強さうな内村が、案外懷疑乏しく、造作 なく、祁に近づいて安住してゐるらしいのを不思議に思ひ、強ひて村先生などのお好きな農夫撫夫の眞似をして激しい肉體勞働を續 ける事は出來ないとして、如何にして生きるべきかを考慮するに、 安住を裝ってゐるのではないかと疑ひもしたが、彼曰く「農夫、 極力生活を簡素にして、繋累を避けて、自分の好みにかなった仕事 樵夫、職工、正直なる商人等に懷疑あるなく、懷疑は學生、信侶、