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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

ン・ラボックの着想が惡かったのでこういう結果になったのではなるような戲曲の傑作は最高級の文學に屬すると考えられねばならな い。極めて多數、しかも様々な性格をもっている人々に、一定の讀い。しかしこういうものと考えられている本が何册あるだろうか。 書のしかたを決めることはできないからなのだ。サー・ジョン・ラ それほど數は多くない。最良の書は、ダイヤモンドと同様、數多く ポックは自分に最も訴えてくる書籍について自分の意見をのべただ發見されることは決してあるまい。 けのことだ。彼以外の文藝家がちがった表をつくっていることだろ 私が以上にあえて申しのべたような一般的な特長のほかに、若十 う。二人の文藝家が全く同じ表をつくっていることはあるまい。立の優良書、すなわち、學生が良い版を手に人れて一生讀んでいたい 派な書物の選擇はどんな事情があろうとも個人個人別個のものであと望むといったような書物についても少し論ずることができよう。 るべきだ。ひとことで言えば、諸君の心中の光りに従って、諸君自 こういう本が澤山あるわけではない。ヨーロツ・ハの學生には、ギリ 身のカで選揶しなければならない。多種多様な文學に自分たちの最 シャの作家の名前を澤山あげるのが必要であろう。しかし古典語の 高の注意を拂いたいような心を抱いてくるほど多才な人は殆んどい研究をしていなければ、こういうギリシャの作家はこの日本の學生 ないものだ。 一般の場合には、小範圍の間題にーーー自己の生第のム月 ー、ヒヒ諸君にはずっと價値が低からざるをえないであろう。その上、ギリ 力や性癖に一番よく合致する問題、自分の心を喜ばす問題にーー自 シャの生活とギリシャの文明について相當の知識をもっことがこう 分の關心を限定するほうがよい。われわれの個人の性格や性質を充いう作家の賞を刺激するのに必要である。こういう知識は彫刻、 分よく知り、それと同感するのでなければ、われわれの才能の所在貨幤、繪畫、塑像ーーすなわち、過去に存在していたものを想像力 をわれわれに代って決定できるものはいないのだ。しかし、一つだ によって理解できる力を與えるあの藝術作品を通じて、一番よくえ けは容易にできる , ーーすなわち、先ず文學上のどういう問題が今ま られるのである。しかも古典研究のうち美術方面は、繪畫やその他 でに諸君に樂しみを與えているかを決定すること、第二に、その間 の資料の不足のため、日本ではまず不可能である。そこで私はこの 題につい・て著述された最良の書は何かを決定すること、それから同 部鬥に屬する立派な書物についてはほとんどふれないことにしょ じ題目をとりあっかっていると稱するが大批評家や廣汎な肚論には う。しかし、ヨーロツ。ハ文學の根底は全く古典研究にある故、學生 いまだ承認されていないような、短命既っ愚劣な本を除外して、最諸君はギリシャ神話と、ギリシャの文學や劇の傑作に精紳をふきこ 上の書を研究すること、である。 んだ傳統の性格との輪廓をのみこむように努めるべきだろう。何か この兩者に承認されているような本は諸君の想像するほどの數の 高級な文學に屬するイギリスの本を諸君があければ先ず必ず、ギリ 多いものではない。大文明はただ一つギリシャ文明を除けば、夫々 シャの信仰、ギリシャの物語り、或はギリシャの劇に關連したもの 一流の書を一一、三册生んでいるにすぎない。立派な宗敎の教義を表を見出すであろう。ギリシャの飾話は諸君には缺くべからざるほど 現している神聖な書は、文學作品としても、當然のことながら一流のものであるが、この問題の廣大な範圍は諸君の大部分のものが、 のなかに入る。こういう書物は推敲に推敲を重ねられていて、その ギリシャ話を徹底的に研究するのをはばむのももっともなことで 書物に用いられている國語が表現しうる最高級のところまで文學とあろう。ギリシャの話の徹底的研究は、しかしながら、必要ではな して完成されているのである。民族の理想を表現している偉大な敍い。必要なことは輪廓のみである。生々と魅力にみちたこの輪廓を 事詩、こういうものも一流になりうる。第三に、人生をうっしてい諸君に與えうるような、良い書物は、計 りしれぬほど有益なもので

2. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

を適應させえないことをわれわれはきっと知るだろう、 環境を われわれの文明よりも進化していないし、われわれの文明よりも 知る困難のせいというよりも約三千年前に人々が抱きつづけた感情知的に隔たっている文明は、それ故必然的に、あらゆる點で劣って をいだくほうがずっとむずかしいという理由からである。ルネサン いると考えられるべきではない。このことを讀者が心にとどめてお ス以後ギリシャ研究の方面で逹成された一切の研究にもかかわら く必要はまずなかろう。最盛期のギリシャ文明は瓧會學的進化の初 ず、古代ギリシャの生活のもっ多くの面を今なおわれわれは理解で期を現わしていた。しかもその發展させた藝術は至高かっ到逹至 きないでいる、 たとえば、イーディ。ハスの大悲劇が訴えていた 難な美の理想を今なお與えている。それと同様に、古い日本のはる あの情絡や感動を現代人は誰もほんとうには抱きえない。それでかに古い文明は、われわれの感嘆と賞讃に十分ふさわしい美的道德 も、ギリシャ文明に關する知識を、十八世紀の先人たちよりもわれ的文化の水準にまで到逹していた。淺薄な心の人ーーーきわめて淺薄 われはずっと豐かにもっている。フランス革命のとき、ギリシャ共な心の人、のみがこの日本の文化の最上のものを低劣と言えること 和國的な環境をフ一フンスで再建すること、ス・ハルタの制度によってだろう。しかし日本文明は西洋に匹敵するものがないほど獨特なも 子供を敎育すること、は可能だ、と思われた。今日、現代文明によのである。それは素朴な固有の基礎の上に積み重ねられた異質文化 って發逹させられた心は、ローマ征服以前の古代瓧會に存在してい の累積した姿をわれわれに示しているし、眼を奪う複雜さのもっ魅 た都市すべてにみられた瓧會主義的獨裁制の下においては、到底幸力を形成しているからである。この異質文明は大部分中國文明であ 篇を見出しえないことをわれわれは十分知っているのである。われ り、この論文の主題には間接的な關係しかない。獨特にしてかっ驚 われはも早古代ギリシャの生活と融和しえないだろう、たとえそのくべき事實は次のことである、すなわち、すべての積み重ねられた 生活がわれわれに回復されるにしてもーーーその生活の一部とはなり 文明にもかかわらず、日本人とその瓧會の獨特な性格は依然として えないーーーわれわれの知的本性を變更しえぬと同様に。だがその生識別されうることだ。日本のもっ驚異は、日本が自からを裝う無數 活を眺める喜びのために、 コリントにおける祝祭に列する喜び の借りもののなかに求められるのではないーー古代の姫君が、様々 或いは全ギリシャ競技を見物する喜び、のために、われわれはいか な色彩と織地ででき、襟もと、袖ロ、すそまわしに幾多の色どりを ほどのものでも投げだすことだろう。 みせるようにと一枚一枚重ねていた十一一單衣と同様に。いや、眞に しかも、減亡したギリシャ文明の復活をこの眼でみること ピ驚嘆すべきものは「着ている人」なのである。衣服の興味はその美 タゴラスの學校のあったクロトオナの地を歩きまわること、テオク しさや形にあるよりも理念 , ーー衣服を工夫し或いは身につけている リトスのシラキューズを漫遊することでさえ、日本人の生活を研究 心を表わす理念ーーとしての衣服のもつ意義にずっとよせられてい 本するようにと現實に與えられている機會以上に特權とはいえないのるから。古い日本文明のもっ最高の興味は、文明が民族的性格を表 。事實、進化論的見地からすれば、それは特權としては低いもの現しているところにあるーー明治時代のあらゆる變革によっても本 であるー・ー藝術と文學とでわれわれが深く親しんでいるギリシャの質的には變らず殘されているあの性格であるが。 どの時代の社會生活よりも、ずっと古い、かっ心理的にはずっと隔た 「エクスプレス」 ( 表現する ) よりも「サジェスト」 ( 示唆する ) と っている瓧會生活の實態を、日本はわれわれに與えているのだから。 いう言葉のほうがよいかもしれない、この民族的性格は認識される 9 3 よりも察知されるべきだから。民族的性格の起源をはっきり知れば

3. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

あろう。フ一フンス語やドイツ語にはこういう本が澤山ある。英語に諸君が理解している必要はないが、大戲曲の筋を少しは知っておく はただ一册だけ、ポーン叢書中の一册で、カイトレーの「古代ギリ 必要はある。喜劇について言えば、アリストフアネスの作品がその シャとイタリアの訷話」を私は知っている。この本は高價なもので價値と興味との點で實に無比なものである。これらの作品は殆んど はない。そして哲學的精神で敎えるという特長をもっている。有説明を必要としない。彼の作品は幾千年も昔にアテネの人々を心か 名なギリシャの作者について言えば、そういう書物の大部分は諸君ら笑わせたように今日なおわれわれを笑わせるのである。そして彼 にとっても價値は些少なものにちがいない。その理由は適當な飜譯の作品は不朽の文學の一つとなっている。二册になっているポーン の數が少いからである。一切の韻文の飜譯は無益だという言葉から書店の譯本がある、これを私は是非とも推薦したい。アリストノア 説明を始めよう。ギリシャ語からの韻文の譯はどれもギリシャ語の ネスは、われわれが何度でも讀み返すに價いするし、しかも、その 韻文を再現しえないーー英語には、テニソン譯のホーマーの二、三 たびに利益があるといったギリシャの大劇作家の一人である。敍情 十行の詩と、テニソンに匹敵する才能をもった人の手になるもので詩人のなかでは、最近の譯ではあるが、英語の一古典となりそうな 實に立派なギリシャ詩人の英譯が數行あるだけである。諸君がギリ 英譯本が一つある。それは一フング譯のテオクリトスである。一小典 シャ或は一フテン詩人を研究したいと思うときにはともかく散文譯を子ではあるがこの種のものでは非常に賢重なものである。私は極め 用いなさい。勿論のことホーマーを第一に考えるべきだ。諸君がホ て少數のものをあげていることがお分りであろう。しかしこの極め ーマーを何か少しでも讀まないでおられるとは考えられない。英語て少數の本は諸君が上手に利用すれば諸君には實に貴重なのであ には二つの優秀な散文譯、すなわち一つはイリアッドの、もう一つる。後期のギリシャの作品のなかでは、すなわち、古い文明の袞退 はオデ = ッセイの、がある。オデ = ッセイは諸君にはこの二大詩の期にかかれた作品のなかでは、世界中の人々が決してあきることの うち特に重要なものである。オデ = ッセイに言及したものは文學のない傑作が一つあるーーー私はその作品をすでに話している、すなわ すべての部門のなかに無數にある。そしてこれらの言及はこの詩のち「ダフニイスとクロエ」の話である。この話は各國語に飜譯され 主題のもっ詩情に普通には關係がある。オデ = ッセイはイリアッドている。殘念な話であるが、最上の飜譯は英語譯ではなく佛語譯で よりもはるかにロマンスなものであるから。フングとブッチャーのある , ーーアミョーの譯である。英語譯も澤山ある。この本を諸君は 手になる散文譯の利點は、散文でありながら、ギリシャ韻文の起伏當然讀むべきだ。ラテン文人については、ここではあまり論ずる必 のある音色と音樂とを幾分か保存している點にあるのである。この要はない。ヴァージルとホレイスの實に立派な散文譯がある。しか 本こそ諸君の座右に絶えずおいておく價値があるとほんとうに私はしこれらの譯本は、一フテン語の知識がなければ諸君にはそう大きな 考える。ギリシャ悲劇の傑作はみな飜譯されている。でもこういう價値とはなりえない。さりながら、イニイドの話は知っておく必要 飜譯を諸君にたって推薦したいとは思わない。大抵の場合には、他がある。そしてコニントンの譯で讀むのが一番よいであろう。諸君 人の方面からギリシャ悲劇の筋に親しんでいくほうがよかろう。しか の敎養課程のなかで、主なラテン文人や思想家について少しは研究 もこういうものは幾百となく存在しているのである。ソフォクリー するのをさけるわけにはいかない。ところで、諸君があまり書名を 幻ズ、イースキ = ラス、特にユウリピディスの大曲の要旨ぐらいはみたことのないような不朽な書が一册ある。そしてそれは萬人が當 諸君は知っているべきだ。こういうものを好古家が理解するように然讀むべき本であるーー、アピレイウスの「黄金の驢馬」のことを

4. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

べンガール分離政策に反對し、農村に小學校ない。一九六一年生誕百年記念には各國で行スの「アガメムノン」を飜譯した。その後も 及び諸團體を設けて民族的覺醒を促進する活事が行われたが日本でも記念會が組織され、同じ作家の戲曲の飜譯をつづけている。詩劇 記念論文集が刊行されたし、印度の記念行事への關心がそうさせたのであろうが、一方、 動を件った。 日本にきて能を知り傾倒していったことと 一九一三年ノーベル賞をうけた「ギータンに代表を派遣した。 印度のように瓧會組織が複雜であり文化係が深いとおもえる。日本の傳統的藝術に眼 ジャリ」はべンガール語の原本からタゴール 自身が英語に移したもの。もっともそのまま的・經濟的に上下の差が甚しく、宗敎的にもを開かれたのは一九二一年に赴任してからの の譯でもないし、他に數篇の詩もそえられてむずかしい間題をかかえている國では、近代ことだが、繪畫の餘白に感心したほか、舞 いた。英語に直されてみると西歐の人たちは意識の確立には甚しい困難が件うであろう。樂、人形淨瑠璃、歌舞伎に心をよせていた。 キリシャ 初めてその偉大な價値を悟った。生そのものタゴールはその困難に立向った雄々しい戦士中でも能樂に最も興味をひかれた。。 悲劇の構成、様式、舞臺と通ずるものを能に のなかから體得してきた人間への愛をうたであった。 認めたせいであろう。アガメムノンを飜譯し い、そしてこの愛は同時にへの愛であるこ ポーレ・クロー一アル た經驗が能を一層よく理解させたにちがいな とを知ったのである。タゴールには人間こそ クローデルは一八九六年 ( 明治二十九年 ) 中い。「繻子の靴」 ( 一九二五年 ) には能の形式を の宿るものであった。 月説、戯曲の類も多いが、詩、評論も廣く知國疆州のフランス副領事館に勤務中、五月長とりいれているし、能、舞樂、歌舞伎などに 關する著述を殘したほどである。「女とその られている。三度目の日本訪間にあたって各崎にます上陸し、東京、横濱、箱根、日光、 地で講演したものは「有閑哲學」として一册京都、戸などをまわった。その印象は散文影」は歌舞伎の舞臺を生かしたものであっ にまとめられている。タゴールは瞑想の思索詩集「東方所觀」に收められている。一八九た。クローデルは一九一七年に人形劇臺本 ノーン、モラ . 工「熊と月」を書き、またヴァレー臺本「男と欲 家とよくいわれるが、この言葉は何か現實を〇年前後というのはロティ、、 離れた世捨人のようにひびく。しかし、そうス、ケーベルらが日本を訪れた時であり、日望」もある。こういう經驗が能や歌舞伎の所 作、踊を親しいものと思わせたことであろう。 ではなくてタゴールは、虚ろな瓧會生活から淸戰爭により世界の眼が日本に向けられてい 離れて、自然の中に生きる眞實の生命のうみたし同時に西歐諸國のアジア侵略が進んでい皇居の内凛はおの水と松の木で今日なお だす思想を求めたのであった。 る時代でもあった。クローデルはまだまだ傳人々の眼を樂しませているが、戦前には莊嚴 タゴールの才能は繪畫、音樂にも發揮され統的な風物が強く殘っていた日本をみたわけという感じが先に働いてしまい美的鑑賞の對 晩年には二千點餘の繪をのこしたし、作曲・である。その後ヨーロッパ各國と南米に勤務象にすることは憚られた。クローデルはこの 作詞したものも多い。日本では早く「ギータして一九二一年 ( 大正十年 ) に大使として東京美を「内凛十二景」としてうたった。クロー に着任した。以後六年間の在任中に職務のかデルは内凛のまわりを好んで散歩していたと ンジャリ」が一九一四年に飜譯されているが タゴールの日本訪間後は各種の飜譯と紹介とたわら日本を題材にした作品を書いている。いわれるが、今日とはちがい大正時代のこと がふえた。一 九二四年小山内懣の築地小劇場もともと少年時代から詩の創作を試みていであるから、江戸の面影をもっとも豐かにし が戲曲「郵使局」を上演したことは忘れられたが一八九四年にはギリシャ、アイスキロっとりと殘す水の風景に深くうたれている。

5. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

寢そべっている大やまごまごしている鷄をひくよりも、道をかえるのものである。 0 その幸餾は、夢のあたえる感動に似ている、夢 ことだろう : : : 、隨分長い間このような環境のなかに住んでいて のなかではわれわれが望む通りに他人が挨拶してくれるし、われわ も、その生活の喜びを損ずるものは何一つ氣づかないでいられるこれが言ってほしいように話しかけてくれる、われわれがしてほしい とだろう。 通りのことをしてくれるーーー人々は靜まりかえった場所を音もなく 今私が述べているような環境は消え失せつつある。しかしずっと歩きまわり、人々はぼんやりした光をあびている。まさにーー・仙 田舍では今なおみられる。何百年もの間窃盜事件がおこったことの界の住民は睡眠という優しい惠みを惜しみなく長い時間にわたって ない土地に私は住んでいたーーー明治政府が新設した刑務所はからっ諸君に與えうる。しかし、仙界の住民と長い間暮していると、諸君 ぼ、無用になっていたーーそこでは住民が書間だけでなく夜も戸に の滿足感は夢の幸輻と共通物をおおいにもっていることが、やが 鍵をかけないでいた。こういうことはすべての日本人には日常のこ て、わかるだろう。夢は決して忘れるものではない、 決して。 となのである。こんな土地で外國人としての諸君に示される好意はしかし夢は、結局は、消える、太陽の光り輝く日の午前、日本の風 お上の命令の結果であることに諸君は氣がつくかもしれない。だが景に不可思議な美をそえるあの春の霞のように。たしかに諸君は躰 土地の人がお互い同士いだく善意はどう説明すればよいのか。亂 ごとお伽の國に入りこんでいるから幸輻なのである。ーー諸君のも 暴、粗暴、不正直、法律違反が行われないことを知り、またこうい のでなく、また決して諸君のものになりえぬ世界へと入っているか う瓧會状態が何世紀の間變らずつづいたことを知るとき、諸君は道らこそ。諸君は自分の住む時代から連れだされているのだーーー廣大 徳的に優れた人間の世界に入りこんだと信じたくなる。こういう優な過去の時代をこえてーーー忘れられた時代へ、消滅した時代へと 雅、徹底した正直さ、眞に優しい言葉や振舞いを、諸君は眞底から善 エジプトかニネヴェのような古代へと溯って。これこそ日本の 良な心によって導かれた行爲として當然解釋することだろう。しか もっ風變りなものと事物の美との眞相であるーーそれらが與える昻 も諸君の心を喜ばす素朴さは決して未開のもっ素朴さではない。こ奮ーー日本人とその生活様式とがもっ仙界的な魅力の眞相である。 の國ではあらゆる人が敎育されている。すべての人が美しく書き話幸輻な人よ ! 時の流れは諸君のために轉回しているのだ ! しか す方法、詩のつくりかた、上品な振舞いかた、を知っている。いたる し忘れてはならない、ここでは一切のものが魔法であるーーすなわ ところ淸淨さと上品な趣味とがみられる、家の内部は磨きあげ淨めち諸君は死者の呪法にかけられているのだーーー光も色彩も聲もやが られている。お風呂に毎日入るのが一般の習慣である。あらゆる關 てはうすれゆき空と寂とにならねばならないのだ。 係が愛他精で支配され、すべての行爲が義務欟で行われ、すべて の品物が藝術的につくられるようにみえる、このような文化に魅惑 されるのをいかにして拒めようか。こういう環境には心樂しくされ あの美しい、消滅したギリシャ文化の世界にしばらくの間でも生 ざるをえないし、それが「異敎徒」的と非難されるのをきいて憤慨活できればとしよっちゅう願う人が、われわれのなかには、少しは しないではおられない。諸君自身の心のなかにある愛他精訷の程度いる。ギリシャの藝術と思想の魅力にはじめてふれて感激してしま に應じて、これら良き人々は、さりげなく諸君を幸輻にしてくれる うと、古代文明の實態を想像しえぬうちにこの願いが浮びあがって だろう。このような環境のあたえてくれる感動は落ちついた幸餾そくる。もしこの願いが實現されえたとしても、これらの環境に自ら かみ

6. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

いてある、そして織姫 ( たなばた ) は、機で織物をしているところ 4 が天の川のはるか向うにみえている。二の服は中國風である。日 それから中國の話ーー愉快なほどぼんやりした話・・ーー知らないう 本で最も早くあらわれる二の繪は中國でかかれた繪などをおそら ちに天上の國に行ってきた男の話、がある。毎年、八月中に、この くは寫したものだろう。 男は、高貴な木のいかだが自分の住む土地の海岸へ流れつくことに 現存する日本の歌集として最古のものでは紀元七五〇年の萬葉集氣がついた。そこでこの木がどこで育つのか知りたくなった。二年 男性の紳は普通ひこぼし、女性のはたなばたつめ、としてあ 情の振の食料を船につみこんで、毎年いかだが流れてくる方角へと るが、後代になると兩方ともたなばたとよばれている。出雲地方で船を走らせた。幾月も幾月も、いつまでも穩かな海をこえて、進ん は男訷は普通をたなばたさま、女はめたなばたさま、と言われて でいった。やっと氣持のよい海岸についたが、そこには不思議な木 いる。二ともさまざまな名でも知られている。男はヒコボシ がはえていた。船をつないで、男はひとりで、未知の國へ入ってゆ ( 彦星 ) 、ケンギュウ ( 牽牛 ) だけでなくカイボシ ( 貝星 ) といい、 き、銀色に輝く水の流れている川の岸へとやってきた。向う側の岸 女神はアサガオヒメ ( 朝顔姫 ) 、イトオリヒメ ( 絲織姫 ) 、モモコヒ に小さい建物がみえた、この家のなかには美しい女が坐って機を織 メ ( 桃子姫 ) 、タキモノヒ、、、 ( 薰物姫 ) 、ササガニヒミ ( 蜘蛛姫 ) と っていた。この女は月光のように白くて、あたりに光を放っていた。 いわれている。これらの名稱のなかには説明しにくいものもあるやがて顔のきれいな若い百姓が牡牛を川岸へひいてゆくのがみえ 特に最後のものだが、ギリシャのアラクネ傅説を思いおこさせた。そこで男はこの百姓にこの土地とこの國の名前を敎えてくれと る。ギリシャ話と中國の物語りには何ら共通するものはないのだ たのんだ。しかしこの百姓はきかれたのが不愴快な様子で、嚴しい 「この上地の名前を知りたければ、元きた所へ ろう。だが中國の古い本のなかには、ある種の關係を示唆するらし調子で答えた。 げんくんべい い、面白い事實が記されている。玄宗皇帝の時代には、七月七日に立ち戻り、嚴君平にたずねてみよ。」そこで男は、こわくなって、 宮廷の女官が蜘蛛をつかまえ占いのために香箱の中へいれておく習舟に急いでもどり、中國に歸って來た。そして聖人嚴君平をさがし 慣があった。八日の朝、香箱をあけてみて、夜の間に蜘蛛が集をあだし、自分の冒險旅行のことを話した。嚴君平は驚いて兩手をう ・ : 七月七日の日、 つくかけていたら、占いは吉であった。もし集をかけていなけれち、大聲でいった、「ではお前だったのだな ! ば、凶であった。 わしは天空を眺めていると、牽牛と織女とが逢おうとしていた、 ところが、二人の間に新しい星がみえてきた、その星はお客の こんな話がある。ずっと昔、一人のきれいな女が出雲の山間に住星だと思ったのだが。仕合せな男だよ、天の川へお前は行ってきた む百姓の家をたずねてきた。そして、その家のひとり娘に、誰もしのだ、織女の顏をみてきたのだから ! 牽牛と織姫との會うところは眼のよい人なら誰でも眺められると らない織りかたを敎えてくれた。ある晩、このきれいな女は姿をけ 言われている。會うときには二つの星が五色に輝くからだ。たなば してしまった。そこで家人には天上の織姫が來ていたのだとわかっ たの二紳に五色のお供えをささげるのは、また二をたたえる歌が た。百姓の娘は機織りの腕で有名になった。しかしこの娘はどうし たなばたさまのお相手をしてい五色のちがった色紙に記されるのは、實はこのせいなのである。 ても夫を迎えようとしなかった たからだ。 しかし、前に記したように、二人は天気の良いときにだけ會え

7. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

397 國日本 徳川時代には、まず國中いたるところ、七夕祭はすべての階級の 子供たちの樂しい祭であったーー夜明け前の提灯行列にはじまり、 その日の夜おそくまでつづくお祭の日であった。少年少女はその日 には睛着をつけ、友だちや近所の家を睛れがましく訪ねていった。 七夕の傳説はたしかに中國から借りてこられたが、讀者は次の歌 たなばたづき ふみづき には中國的なものは何もみいださないだろう。それらは古典の歌の 七月の月は七夕月といわれていた。文月とも言われた、七月の間 最高を示し、外國の影響とは縁がないからである、そして千二百年 は天上の戀人をたたえて歌が方々でつくられていたからだ。 前の日本人の生活と思想のありかたについて多くの示唆を與えてく 古い日本の歌で七夕傳説をうたうものを次にえらんでみたが、讀れる。近代ヨーロツ。ハ文學がいずれも形をなしていないうちにこれ 者諸氏は必ず興味をいだかれると思う。全部萬葉集からとってあらの歌がつくられたことを心にとどめるなら、日本の文語が幾世紀 にわたっていかに變化していないか氣がついて驚かされるのであ る。萬葉集は八世紀の中葉以前につくられた大歌集である。勅命に よって編纂され、九世紀の初めに完成した。その收める歌の數は四る。多少の語と發音上の雜多な、若干の變化とをのぞけば、一般 の日本の讀者は今日、英國の讀書人がエリザベス朝の詩人を研究す 千以上に逹する、なかには長歌もあるが大多數は短歌、すなわち、 三十一字でつくられた歌である。作者は廷臣か高い官位の官僚であるときぶつかる程度の僅かな苦勞しかせすに、自分の國の詩神たち のつくったこれらの古い歌を樂しみうるのである。その上、萬葉集 った。ここに英譯したもののうち初めの十一首は千百年以上の昔、 の歌のもっ典雅と素朴な魅力とはその後の日本の歌人に決して劣っ 筑前の國司であった山上憶良の作である。その歌のうち少なからぬ ものがギリシャ詩選にある若干の勝れた諷刺詩と匹敵するほどであていないし、また比肩する歌人もほとんどでていないのである。 ここに飜譯した四十餘首についていうなら、その主な魅力は、先 るから、その歌人としての名聲はまさに當然のものなのだ。その幼 祖の人間性をわれわれに啓示している點にあると思える。太奈八太 皃古日の死をいたむ次の歌は一例となるだろう まひ 豆女は、今日なお頭のさがるほど愛情のふかい日本人の姿をわれわ 若ければ道行きしらじ賂はせむ した れに示してくれる。また彦星はの光輝を少しももってはいず、 下べの使負ひて通らせ 六、七世紀ーー中國の倫理的慣習が人生と文學にその拘束力を及ぼ 八百年以前にギリシャ、サアディス生れの詩人ディオドオラス・ しはじめる以前の時代ーーの日本の若い夫としてわれわれにはみえ ゾオナスはかいていた この蘆のはゆる湖水に冥府をさして死者の船をこぎゅく汝ケる。またこれらの歌は自然美によせた昔の人の感情の表現によって ーロンよ、キニ一フスの息子の船の梯子をのぼりゆくとき、色黑われわれの心をひくのである。これらの歌には天上の蒼原に移しか えられた日本の風景と四季とがみいだせるのだーー天上の流れに きケーロンよ、汝の手をさしのべよ、しかして受けて迎えよ。 履く草履はかの子の足をすべらせるであろうぞ、岸邊の砂にそは、急流と淺瀬があり、石の多い川床で突然湧きたち激しくひびく 水音、秋風にふす水草、などがあって、賀茂川そっくりとなろう、 のはだしをつけるを恐れむほどに。 その岸邊にただよう霧は嵐山の霧そのものなのだ。彦星ののる しかしディオドオラスの諷刺詩は神話から材をえていたーーー「キ フルど サンダル ニ一フスの息子」とはアドーニスに他ならぬ故、ーーーそれに對して憶 良の歌は父親の眞心からの思慕の情を讀者に表現しているのであ る。

8. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

イ 21 外國人文學集入門 くるのである。このことは文學の本質をわれある。 をいだいて日本に來たことになっている。ア われに反省させる。 メッカにいる間に「中國怪談集」をあんでい 小泉八雲 ハーシーはもともとアメリカ人の兩親の間 るのは、東洋への異國趣味的な好奇心と、同 に天津で生れている。少年時代を中國で送っ ーンというよりも小泉八雲の方が親しみ時に、怪談的なものへの關心印ち、祕的な たことが異國のものをみる眼に關係しているやすい、それに「怪談」の作者として。日本怪奇趣味を、ロマンティックな情感をもって ことだろう。外國で生れたからとて必ず一様に住み日本を愛し、日本の姿を外國に紹介しいたことを、示している。アメリカ時代の著 の精をうるわけではない。人種的偏見をいた人といえばハ ンの名前がます浮んでく作にこの種のものが多い。 だくようになるか、連帶意識をそだてていくる。いわば偶像的な傳説的な存在に近いとい日本に來ると間もなく松江の中學校に赴任 かはその人による。 ってもよいほどである。しかしハーンのほした。ケーベルが東京に留っていたのに對し ーシーはシンクレア・ルイスの祕書となんとうのところが今の日本人にわかっているて文化のおくれた松江に行ったのは、ハーン って文學に縁が生じた後、雜誌記者になつのだろうか。「怪談」の作者というだけではにとっては自己の好尚をみたすことになった た。これらの經驗はリアリスティックに冷靜あまりにも不十分だ。ハ ーンの敎えをうけたであろうし、また日本を眞底から理解する道 に對象をとらえ、その眞實をさぐり出す眼と弟子たちが段々と減ってゆくにつれハーンのともなった。松江の人たちは西洋人は動物だ それを表現する文章との訓練になったことで眞の姿はくもって來ている。 と思いこんでいて、ハーンにも尻尾があるに あろう。太平洋戦爭に取材したルポルター ハーンは一八九〇年 ( 明治二十一二年 ) にアメ違いないと、風呂に入るところを祕かに覗い ジを書き、また、シシリー島のアメリカ軍リカから日本に來た。母の祖國ギリシャ、リてみた、という話が故老の間に傳えられてい に取材して「アダノの鐘」を書いて文名をえューカディアに行ってみたくてまず日本に渡たほどの土地であった。 た。そして「ヒロシマ」となっている。「ヒロって來たという話もあるほどで、ハーンを知松江は神々の國として最も古きものを保存 シマ」は油ののった頃の作品といえよう。そるにはその生れと經歴を知らなければならなしている。古い姿の、ゆがめられた佛敎もあれ の後も作品を發表しているが、最近は敎育界い。父はアイルランド系の軍醫でギリシャ駐ば、民間信仰に化した禪道の變形もあった。 に關係しているのも面白い。創作活動はつづ屯中、土地の女性と結婚して生れたのがハー狐の信仰におどろきその由來をたずねるには けているのだから、日本ではちょっと考えらンであった。名前のラフカディオは母の生地もってこいの土地であった。また傳統的な文 れない轉身である。 の島の名をとったもの。六歳のとき父母は離化と風物とを保存する人たちは、日本人の精 世界大戦が二度くりかえされ、日本はいろ婚し、ハーンは父の故鄕で叔母の手により育祚・感情の基本をさぐる上に恰好の對象でも いろな意味で第二次大戦では主役を演じた。てられるが、父は再婚していた。このことは、あった。ハーンは舊武家の娘と結婚したし、 日本の良い面も惡い面も世界にはっきり示したえず母親を慕い、愛情を求めるハーンをわ格式ある舊武家の屋敷に住み、日本風の家の た恰好である。文學でとらえられた戦爭と日れわれに想像させる。やがて未知の天地を求間取りや庭の作りのかもしだす雰圍氣にひた 本人の姿とを敎えてくれるものとしてハ ーシめてアメリカに渡り各地で苦勞をかさね、文りえた。日本と日本人に感覺でふれていたの ーはわれわれの注目すべき作家というべきで筆に從事した後知人に敎えられた日本に興味である。

9. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

のことは決して忘れるべきではない。日本は倫理意識を合理化したろいろなものを失って殘念がることだろうーーー古風となった忍耐心 6 後では、倫理意識を本能的なものにしてしまった。西洋の一流の思や自己犠牲、昔の禮儀作法、古代の信義がもっ深みのある温かい詩 想家が至輻かっ至高と考えているような瓧會的條件のうちいくつか 情を。日本は多くのことに感嘆するだろうが、後悔もするだろう。 を、制限された範圍内のことだが、早くも實現していたのである。 恐らく日本は古代の々の容貌をとりわけ感嘆することだろう、加 複雜な日本瓧會のあらゆる層を通じて、公的また私的な義務を西洋紳のうかべる微笑は嘗ては日本自身の姿であった故に。 では類例を求めてもえられないようなやりかたで、理解し實行し てきていたのであった。日本人の道德的な缺點でさえ、すべての文 明國の宗敎が一致して德義と稱しているものが過剩であったために 生れている、すなわち、家族のために、瓧會のために、國家のため に、個人が自己を犧牲にすること。これは。ハーシヴァル・ローウェ ルが、その著書「極東の魂」のなかで示した缺點であった。この本 は、極東について少しは直接知っていなければその眞價を正しく判 斷できない本である。就會道德の面で日本がすすめてきた進歩は、 われわれのはたした進歩よりもずっと大きなものだが、主として相 互扶助という方向であった。日本がすでに賢明にも受けいれてきた 哲學を生んだあの偉大な思想家の敎えを考慮することが日本の今後 の義務であろうーーすなわち、「至高の獨居も最大の相互扶助と密 接に結合しなければならぬ、」また次の文句がいかに表面上矛盾し てみえようとも、「進歩の法則は完全なる分離と同時に完全なる結 合へと向っている。」 過去とは日本の若い世代が今日輕蔑するふりをしているものであ るが、その過去へと日本はきっといつの日にか振りかえることだろ う、われわれ自身古代ギリシャの文明を振りかえるように。素朴な 喜びを味わう能力を失ったこと、人生の純粹な喜びを感ずる能力を 失ったこと、古く美しく淸らかな自然との親しみ、この親しみを反 映していた感嘆すべき昔の藝術、ーーこれらを日本は惜しむことを 知るだろう。その時代には世界がどれほども、もっと生き生きと美 しくみえていたことか、日本は記憶してゆくことだろう。日本はい

10. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

イ 40 濱崎浩子作製 敎育はすべてローマ舊敎の敎育だったが、彼 は生涯ローマ舊敎を嫌惡した。當時、フラン スは普佛戰爭の直前で、文壇はゴーティエ、 フローベル、ポードレールらが活 ーンがフ一フンスの 躍しており、この時代、 學校に學んだことは、將來彼が大陸の文學に 眼を開くもととなる。 一八五〇年六月二十七日、アイオニヤのリュ 一八六九年、未知のアメリカに渡り自己の運 カディヤに生れた。父チャールス・ブッシュ・ 命を開拓しようと、僅かな金を持ちニュー ハーンは、アイル一フンド人の、ギリシャ駐在ヨークに行く。つづいて移民列車でオハイオ 英國陸軍の軍醫、母はローザ・カシマティ。 州シンシナティに行く。當時窮乏のどん底に ざリシャ本土の人と云われる。兄弟は、兄いたが、雜役などをして食をつなぎながら、 ( 生伐間もなく死亡 ) と弟が一人。 公立圖書館などに通って文學の修業をつづけ ワトキンという學識と 一八五一年の末、父の西印度赴任により、母る。やがてヘンリー・ 敎養のある印刷屋の食客となる。この二人の と子家はダブリンに住むことになる。 一八五六年、父母の離婚、これによりハーン交友は以後長くつづく。三人の間に交された手紙 ヨークで刊行 ) プレは「鴉の手紙』として一九〇八年、ニ、ー・ は母と生別し、父の母方の叔母サリー・ ネンという富裕な米亡人に養育される。父に一八七四年、シンシナティ・インクワイラ瓧 對する反感は次第につのり、同時に不幸な母の記者となる。六月、金主を得て畫家ファー に對する限りない思慕の念が深まっていっニーとともに繪人日曜新聞を八號まで發行。 一八七六年、シンシナティ・コマーシャル社 一八六三年九月、英國ダラムのローマ舊敎のに移る。このころ、ゴーティエを翻譯する。 學校に入學。彼は生來ひどい近視であったまた奇書の蒐集を始める。 が、この學校で遊戲のときにうけたけががも一八七七年、一月、ニュー・オールリンズ とになり左眼を失明。 に移る。翌年の四月までここからシンシナ 一八六六年、大叔母の破産により退學。十一ティ・コマーシャル社に通信文を送る。生活 月二十一日、父死去。フフンスに留學し、ルの困窮はつづく。 ーアン近郊ィーヴトーにあるローマ舊敎の學一八七八年、六月、ディリ・アイテム紙に入 社説、隨筆を書いたり、翻譯したりす 校に入學。しかし中途退學する。彼の受けたり、一 小泉八雲年譜 (Lafcadio Hearn) 4