タゴール - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

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2. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

日本の精禪 201 ( 6 ) 天心が、物質文明の進出に倒されないような人間の恢復と、東洋の精 禪文明を強調した、その使命観には偉人の直観があった。外國に向って は東洋文化が、自然で健康な人間像をいつも追求していることを宣傅し た天心が、べンガルの文藝復興に大きな刺戟を與えた出會いについて は、タゴールの證言ばかりではなく、ロランも明言し、日本でも見なお されている。 ( 河上徹太郞著「日本のアウトサイダー」參照 ) タゴールは他のところでも「農村問題」の題下に云っている。 ( 古の 道 ) 「私がまだ若かったころ、諸君の理想家の一人で宏大な心と、偉大な獨 創心をもった人が、偶然日本からわれわれを訪ねて來た。彼はべンガル 諸君が皆、その人について日 の靑年逹の間にふかい印象を與えた。 本で御承知かどうか知らないが、彼はわが國においては忘れられない名 を殘した。その名は岡倉であった。彼こそ日本に對する愛情をわれわれ のうちによび起した最初の人であり、わが國の靑年達に對して、彼らの 過去、彼らの將來、および全人類に對する彼らの責任感を鼓吹したので あった。われわれはアジア精なるもののあることを彼から始めて學ん だのである。」 天心はフェノロサや・ヒゲロウの推擧で、中國や日本から買い集められ た美術品の整理調査に當るため、ポストン美術館の東洋部主事として毎 年半年間を渡米することになった。最後の滯米中 (一九 III) にタゴー ルと再會した。天心はその歸途歐洲からインドを經ているが、そのとき タゴールは滯英中で逢わず、歸朝して翌年九月死去した。 ⑦一九二四年の中國の姿は、民族解放蓮動がようやく醒めんとし、學生 蓮動を先頭とし、反帝國主義運動は、孫文の國共合作となり、日本の紡 績資本は、年齢・勞働時間の制限もなく、きわめて安い賃金で、上海、 靑島、天津を中心に現地勞働者をつかって大擴張をとげていた。やがて 介石の北伐がはじまり、日本は苦悶する中國をよそに、大正テモク一フ シーの沒落後、金融恐慌のため内閣の變轉を經て、ついに山東へ出兵 し、濟南事變から、滿洲事變へと悪化する。 一九五八 ) 岡倉天心が創立に盡力した美術 ⑧横山大觀は ( 一八六一 學校第一期生として卒業し、天心の推薦で明治三十六年 ( 一九〇三 ) 一 月、一學年後れて卒業した美術院の同志菱田春草 ( 一八七四ーー一九一 (l) と共に渡印して、カルカッタ・タゴール街のタゴール邸の客となっ た。タゴール詩聖が王子の敎育を頼まれていたチッタゴン洲の藩王國チ ッペラの宮殿の壁畫をかく計畫であったが、英國官憲の許可が出ず、べ ナレス、アグフ・アジャンタなどを見物して繪をかき、カルカッタの地 主協會で展覽會をして旅費を集めて、その年の七月歸朝した。 ⑨少し遲れて勝田蕉琴 ( 一八七九ーー ) 晝がインドへ行き、主として カルカッタ市内のタゴール家で日本晝を敎えたのは明治三十九年 ( 一九 〇六 ) で、二カ年間滯在してア・ハニンドフ・ナートの美術學校の基礎を 築くのを手傅った。大正七年荒井寬方氏も渡印ーーシャンチニケータン の美術院で敎えた。 ⑩主としてヒットラーのドイツがユダヤ民族に對する、ムッソリーニの イタリアがエチオピアに對する、英國がインドとアフリカ民衆に對する 熊度を指す。「東洋と西洋」 ( タゴール著作集第八卷「創造的ュニティ ー」參照 ) 一九二四年のタゴールの中國と日本訪問はロマン・ロランへの手紙に よると、「アジアの知的結東を覺醒せしめ、極東の敎授や學生をシャン チニケ 1 タンへ招くためだった。」タゴールの高弟カリダス・ナグ氏の ロ一フン師への文によると、「シナは大體夢中遊行の从態にあるようで、 日本は非常に目醒めて十分に自覺しています。男性も女性も關東大地震 の慘禍とその結果、またアメリカの移民排斥法案の屈辱のなかで「じつに 奪嚴と忍耐とをもって働いています。ーー・・資本主義的軍國主義的アメリ カ人と、西洋から來た救世の牧師たちが、相互に對立する精輝的闘爭の ただ中へーー私たちはよい時にここへ參りました。タゴールは平和主義 と、國際的の友情と豫言詩人の一人として歡迎されました。私たちは日 本で新しい理想主義の黎明を感じました。その上日本では東洋のどの國 よりも、女性と藝術と宗敎とが、眞に生きたカであることを認めました。 」 ( 一九二四・七・諏訪丸にて日本からの歸途 ) ( ロマン・ロフン著 「インド」參照 ) ( 大正十三年六月七日「日印協會講演會」 ) 日本人の特性 今から九年前、部ち一九一六年に、私が横濱の三溪園 ( 1 ) の別莊

3. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

きにおヨネが死に、小春が四年餘りの同棲のか、日本を題材にして創作したとかはいえなのがタゴールであった。この警告を無視した あと二十三歳で死んだことは、六十二歳のモい。タゴールはそれにしても日本と縁がふか結果日華事變をひきおこしたことを憤激し ラエスにはまさに無常、宿命を感じさせたこい。アジアで初めてノーベル文學賞を一九一て、長年の友人野口米次郎と絶縁している。 とだろう。 三年にうけた。川端康成の受賞が日本とアジ タゴールは詩、小説、戯曲を發表している 「德島の盆踊」「おヨネと小春」は小春の生ア各國に與えた感動を考えてみるだけでもタが、人間の魂は愛情のなかにおいてこそ永遠 前歿後にかけて書かれているが、しみじみとゴール受賞によって日本と東洋各國が激勵さに自由でありうると考えていた。この考えが した筆致に人生模様を濃淡まじえながらえがれた程度がわかるだろう。 作品・評論のすべてに行きわたっている。そ く作品となった。 もう一つ、印度獨立運動に捧げた情熱とそしてこの考えから、世界各國民の連帶は人類 モラエスの著作はすべてポルトガル語で書の理念とがおくれた東洋へ大きな刺戟となり愛によって、ちヒ「一ーマニティによって、の かれていたのと、ポルトガルと日本との關係日本においても大正期の民主的思考と行動とみ可能であるとする。それ故文學的活動にか がいわゆる南蠻紅毛時代ほど密接でなくなつに影響をあたえている。朗ちナショナリズムぎらず、民族解放、反帝國主義の運動にも積 ているため、日本の一般讀者にはほとんど親の動きと近代主義の要求とである。タゴール極的に參加していった。思想家としての面目 しまれてこなかった。戦後は戦前よりも著作の日本訪問はこうした面から日本人にも日本がここにみられる。ガンジーとは時に對立し の飜譯がすすみ、全集的企劃も實現すること文學にも感化を與えている。 てもそのよき理解者であった。 になった上、ポルトガル大使アルマンド・マ第一回の來訪の折、東京大學で「日本へのタゴールは大聖とよばれた父をもち天分に ルティンス氏のようにモラエス顯彰に努力すメッセージ」と題する講演を、慶應大學で惠まれていた上に、三十一歳のとき廣大な農 る文人大使もおられるから、モラエスの文學「日本の精」という講演をしている。これ地の管理をまかされた。このことは大地の偉 も正當な評價をうけることになろう。 らは後「ナショナリズム」にまとめられた。 大さと美しさ、自然に生きる人々の姿を知る あくまでも碧い海、嶮しい山容のポルトガその要點は、日本が西洋化を急ぐあまり日本機會をえたことになる。農業の改良と農民生 ルと温和な瀬戸内海と德島の山と川 、とがモ民族の良き傳統と精とを失っていることに活の改善に努力をかさねるが、同時に現實に ラエスをよむとき奇妙に結びついてくるよう對して警告するものであった。アジア人とし生きる人間を直接體驗してゆくことになり、 な氣がする。二つの國を感情の世界で結びっての自覺を求めることは眞の人間としての覺創作の上にまた思想の發展に大きな意義をも けたのがモフェスなのだろう。 醒を要請したのであり、そこには西洋人によってきた。一九四一年にシャーンティニケー る東洋人の支配は言うまでもなく、東洋人にタンに野外學校を開き少數の生徒を敎えはじ 一フビーンドラ・ナート・タゴール よる東洋人の支配も當然否定されることになめたが、一九〇七年にはこの土地にとじこも タゴールは一九一六年 ( 大正五年 ) 、二四年、る。日本の近代化が物質文明彜重による東洋り瞑想と敎育に專心することになる。これが ( 大正十三年 ) 二九年 ( 昭和四年 ) と三回日本を訪的な精紳文明の輕視をまねき、また物質文明後ヴィシ = ヴァバラティ大學に發展していっ 1 問しているがいずれも短い滯在であったかの發逹が武力の充實となり、東洋の他國を侵た。 4 ら日本に住んで日本と日本人とを理解したと略する道へ進むおそれのあることを警告する こういう敎育活動は同時にイギリス政府の

4. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

べンガール分離政策に反對し、農村に小學校ない。一九六一年生誕百年記念には各國で行スの「アガメムノン」を飜譯した。その後も 及び諸團體を設けて民族的覺醒を促進する活事が行われたが日本でも記念會が組織され、同じ作家の戲曲の飜譯をつづけている。詩劇 記念論文集が刊行されたし、印度の記念行事への關心がそうさせたのであろうが、一方、 動を件った。 日本にきて能を知り傾倒していったことと 一九一三年ノーベル賞をうけた「ギータンに代表を派遣した。 印度のように瓧會組織が複雜であり文化係が深いとおもえる。日本の傳統的藝術に眼 ジャリ」はべンガール語の原本からタゴール 自身が英語に移したもの。もっともそのまま的・經濟的に上下の差が甚しく、宗敎的にもを開かれたのは一九二一年に赴任してからの の譯でもないし、他に數篇の詩もそえられてむずかしい間題をかかえている國では、近代ことだが、繪畫の餘白に感心したほか、舞 いた。英語に直されてみると西歐の人たちは意識の確立には甚しい困難が件うであろう。樂、人形淨瑠璃、歌舞伎に心をよせていた。 キリシャ 初めてその偉大な價値を悟った。生そのものタゴールはその困難に立向った雄々しい戦士中でも能樂に最も興味をひかれた。。 悲劇の構成、様式、舞臺と通ずるものを能に のなかから體得してきた人間への愛をうたであった。 認めたせいであろう。アガメムノンを飜譯し い、そしてこの愛は同時にへの愛であるこ ポーレ・クロー一アル た經驗が能を一層よく理解させたにちがいな とを知ったのである。タゴールには人間こそ クローデルは一八九六年 ( 明治二十九年 ) 中い。「繻子の靴」 ( 一九二五年 ) には能の形式を の宿るものであった。 月説、戯曲の類も多いが、詩、評論も廣く知國疆州のフランス副領事館に勤務中、五月長とりいれているし、能、舞樂、歌舞伎などに 關する著述を殘したほどである。「女とその られている。三度目の日本訪間にあたって各崎にます上陸し、東京、横濱、箱根、日光、 地で講演したものは「有閑哲學」として一册京都、戸などをまわった。その印象は散文影」は歌舞伎の舞臺を生かしたものであっ にまとめられている。タゴールは瞑想の思索詩集「東方所觀」に收められている。一八九た。クローデルは一九一七年に人形劇臺本 ノーン、モラ . 工「熊と月」を書き、またヴァレー臺本「男と欲 家とよくいわれるが、この言葉は何か現實を〇年前後というのはロティ、、 離れた世捨人のようにひびく。しかし、そうス、ケーベルらが日本を訪れた時であり、日望」もある。こういう經驗が能や歌舞伎の所 作、踊を親しいものと思わせたことであろう。 ではなくてタゴールは、虚ろな瓧會生活から淸戰爭により世界の眼が日本に向けられてい 離れて、自然の中に生きる眞實の生命のうみたし同時に西歐諸國のアジア侵略が進んでい皇居の内凛はおの水と松の木で今日なお だす思想を求めたのであった。 る時代でもあった。クローデルはまだまだ傳人々の眼を樂しませているが、戦前には莊嚴 タゴールの才能は繪畫、音樂にも發揮され統的な風物が強く殘っていた日本をみたわけという感じが先に働いてしまい美的鑑賞の對 晩年には二千點餘の繪をのこしたし、作曲・である。その後ヨーロッパ各國と南米に勤務象にすることは憚られた。クローデルはこの 作詞したものも多い。日本では早く「ギータして一九二一年 ( 大正十年 ) に大使として東京美を「内凛十二景」としてうたった。クロー に着任した。以後六年間の在任中に職務のかデルは内凛のまわりを好んで散歩していたと ンジャリ」が一九一四年に飜譯されているが タゴールの日本訪間後は各種の飜譯と紹介とたわら日本を題材にした作品を書いている。いわれるが、今日とはちがい大正時代のこと がふえた。一 九二四年小山内懣の築地小劇場もともと少年時代から詩の創作を試みていであるから、江戸の面影をもっとも豐かにし が戲曲「郵使局」を上演したことは忘れられたが一八九四年にはギリシャ、アイスキロっとりと殘す水の風景に深くうたれている。

5. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

ソン、プランデンともに學生にも研究家にもらべて、プランデンの場合は日本人にたいすえるとやはりそこに横たわる二十年の歳月の 親しく接していたのだから、イギリスの詩人る深い信賴と愛情のにじみ出ていることを感重みをどうしても考えざるをえない。歴史は 貴いものである。 ぜざるをえない。 を遠く眺めて推測する程度ではなかった。 プランデンはこのようにしてイギリス文學イギリス人はとかく親しみにくい。長い交 關係者の心をとらえた。そして自分も日本と際でもなかなか本心を示さない面がある。た 日本人の中 ~ 深く入り親しんでいったとおもしかに、表面はこわばっていても現實の行動廣島に原爆が落されそして終戦となった翌 ーシーは廣島を える。この氣持と感情が互いに通っていたかでは十分配慮をめぐらしていることがわか一九四六年 ( 昭和二十一年 ) 、 らこそ、戦後一九四七年 ( 昭和二十二年 ) イギる。それでも心からなじめないことが多い。訪れた。そのとき取材したものを八月から發 リスから文化使節として再度訪れ、各地で講それに反してプランデンは温厚、親愛、誠實表していった。そこにみられるリアルな客観 義・講演をおこなうと、まさに壓倒的な歡迎というものをわれわれに自然と感じさせる。描寫の力と、意識の流れの手法を驅使したス をうけたのであろう。戰後の荒廢の中にあっ詩人とは氣むずかしい顔をしつきあいにくいタイル、ダイナミックな構成法とは「ヒロシ て文化的なものに飢えていたことだけがこのものとふだん感じている者には、プ一フンデンマ」を際物的な作品にとどめず一流の文學作 歡迎の理由ではない。熱狂的というよりも靡に接していると、詩人にしてこんなに優しい品にしあげている。 しかし作品は手法や技巧がすぐれているか くように惹きつけられていき、そこに親愛のものか、と思わされるほどである。 このように深く思いをよせていた日本が戰らとて名品にはなれない。ましてや人類初め 雰圍氣がみなぎっていったのであった。 しかしプフンデンは盲目的に日本を愛した爭に敗れ、廢墟と化したとき、プフンデンはての悲慘な現實を扱っているとき、もし戰爭 のではない。例の南京虐殺事件のときプフン四年間も在して、各地を訪れては人々の渇の慘禍や罪惡などを描寫するにとどまるなら ルポルタージュに終るだろう。しかしハー デンは日本をよく知り愛する者として抗議のききった心に文學の甘露をそそいで歩いた。 文章を發表している。日本軍隊の犯した罪はその努力、その變らぬ誠實さこそプフンデンーは戦爭の苦しみにあえぐ人たちの中に、ま きびしく非難しながらも、なお日本國民の中の人柄でありまた日本を愛する心の深さであたそれをみる自分の眼に、ヒ = ーメインな温 には奪敬すべき人々のいることを確言していろう。この四年間の日本全國遍歴の旅の想いみをにじませていた。むしろヒ = ーメインな もので對象をとらえたというのが正しい。 る。戰爭の動亂のさ中にあって、軍除の犯罪出は「日本遍路」 "A Wanderer in Japan" レと魯迅の日本との關係には政治的 的行爲にたいしてこれだけのことを發言するとなった。そこに書きとめられたものは日本タゴーノ だけでも勇氣を必要としたことだろう。その ( の愛情と自然への讃美であり、印ち日本人な背景をみうるがともに人間を見失うことを 趣旨は軍閥の非を責め日本國民に警戒を求 ( の理解と確信であった。なおプランデンは警告していた。ハーシーも政治的背景を強く め、かつ日本人の眞實の姿を擁護するものでその後數回日本を訪れ友人・弟子と舊交をあもちながら日本にふれていても、人間的意識 はしつかりと根底にすえていた。それ故、わ あった。嘗てタゴールは日本の「近代化」をたためている。 日本がハーンを受けいれた時と、またハーれわれが「ヒロシマ」を讀んでも反感がうか 警告し、日華事變の勃發するや長年の親友に さえ絶交を宣した。このタゴールの熊度にくンがみた日本と、プ一フンデンの場合の差を考ばない。國境と民族とをこえたものが訴えて

6. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

薄れてゆく姿をうち仰ぎ、永遠の音樂がタ暮の靜寂の中に湧き起る 幻のを聞いた時、私はひしひしと感じたのでありますーー天と地と、 そして黎明と日沒の詩情は、詩人や理想主義者と共に在って、それ は決してあの人間のあらゆる感情を侮辱してはばからぬ市場商人と 共には無いということを。そして、今や自らの禪性を忘れている人 間も、やがて、天は常にこの人間世界と接觸を保っているものであ り、この事實は、人間の血を嗅ぎまわりながら、天に向って吼えっ つある現代の狼逹の前に、決して見棄てられてはならないものであ ることを思い出すであろうと。 〔註〕 大正五年 ( 一九一六年 ) タゴールの第一回來朝の時日本郵船の土佐丸 で戸に上陸し、北野町四丁目ターター南曾のドッサ邸に泊った。 タゴールは一九一三年に東洋人として最初のノーベル文學賞を贈與さ れた。その著「生の實現」と「ギーターンジャリ」の英譯を通して英米 佛などに知られ、一躍有名な作家となった。 ③戸から上京の途上「靜岡驛へ來たとき、或る信侶の團體が香をたい て合掌し、私を迎えてくれた。このとき初めて日本だなあという感じが して涙の出るほど嬉しかった」とタゴールはあとで友人たちに語ってい た。これは靜岡市佛敎徒團體の四誓會員約一一十名の出迎えであった。 ④インドでは新しい年の初日の出を禮拜するために、海岸に夜中から集 り、東方の空へ向って太陽の登るのを待ち、海水に半身をひたしながら 祈りの章句をとなえる。ことにインド南端のコモリン岬の初春の群集の 禮拜は有名で、波に洗われた石ころが赤、黄、靑、綠の七色に光るとい われている。 ( 大正五年、慶應義塾大學にて ) ( 高良富子譯 )

7. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

0 0 2 もどろに述べた。岡倉は私達亠円年の意氣銷沈した言葉を聞き、「それは 非常に私を悲しませる』と長嘆息した。」 この若主人はスレンド一フ・ナートと言い、後まで、日本人でカルカッ タへ行った人々をよく世話し、カルカッタ大學の寄宿舍の監督にも當 り、河口惠海師が西蔵入りのときにも、客として招待されている。その 觀察中に次の語がある。 「唯一つだけ、私の印象を去らないことがあるが、それは岡倉が仕事の ことを讃めていたべンガルの一美術家が、彼の勸告に從って末完成の繪 を持って來たことがあった。すると岡倉は何とも云わずに、ただ簡單に スケッチの隅に、或る角度で二本のマッチの棒を置いただけであった。 この美術家があとで私に話した所ではーーー彼の苦しみ惱んでいた缺陷の 本質がはっきりしたと同時に、それを修正する方法も明瞭になったとい うことである。」 天心は、カルカッタのタゴール家に、六カ月餘滯在し、その後宿願で あったアジャンクの壁晝などを視察し、インド思想界の指導者・ハラモン や反英運動の志士たちと交り、西歐からのアジアの解放と日本の使命 を新しく感受して、一九〇二年一〇月三〇日歸朝している。 近代インドの國民の自覺を高めた精的指導者としては、プ一フフマ 協會の創始者、知的宗敎改革者ラジャ・一フム・モハン・ロイ ( 一七七四 一八八一一 l) があり、べンガル文學改革者で、タゴールの同時代人とし ての・ハッキム・チャンドフ・チャッタジー ( 一八三八・・ーー一八九四 ) 、 ラビンド一フ・ナートの父、マハルシ ( 大聖者 ) デベンドフー・ナート ( 一 八一八ーー一九〇五 ) がある。彼は天心の來訪中も生存していた。長兄 ドウイジェンドラ・ナートは哲學者數學者文學者で九十八歳まで生き、 人々から聖者と呼ばれた。リスや小鳥は彼の肩にきて遊んだという。晩 年はシャンチニケータンに住んだ。ロマン・ロランは彼をインドの聖フ ランシスと呼んでいる。ラビーンドラ・ナートの最良の父代りであり頭 問であった。ラビーンド一フ・ナートが「私の人生」の中に書いている 「その頃わが國に始められた國民運動と呼ばれるものがあった。それは 自分自身の人間としての存在を主張しようとしていた私たちの國民の心 に聲を與えはじめた」「しかもその運動は、私の家族の中に私の兄や從 兄弟達の中にその指導者をもっていた。そして彼らは、國民が自ら侮辱 し無視してきた、民族のこころを救おうとして立ち上ったのである。」ラ ビーンドラ・ナートもプフフマ・サマーヂ協會の祕書として働き、兄た ちの創刊したブハー一フタ誌には、編輯者として政治及び社會評論を十年 間書き Vangadarsan というべンガル語誌を一九〇一年以來五年間刊行 しつづけた。またシュライダ 1 地方の農民の苦惱を土地管理者として見 るに忍びず ( 一八八七年以來 ) 政治的にも全國を行脚した。 ③ラビーンド一フ・ナートはタゴール家族の一員で、四十代に入ったばか りの末弟として、イタリア、フランス、英國から、二度目の歐洲旅行を して歸り、すっかり人生觀を深めて、一九〇一年一二月一一二日開校した ばかりのシャンチニケータンに兒童敎育と詩作に集注するために引きこ もり勝ちであった。當時のべンガル靑年蓮動の間からタゴールの兄達の 「ブハーラタ」文藝雜誌の刊行、私立美術學校の設立等が興り、ゴゴネ ンドラ・ナート晝伯や、ナンダ一フール・ポースらが輩出した。タゴール の詩歌と演劇はべンガルの一般人を風した。この時期は「べンガルの 文藝復興期」とよばれている。 ④カルカッタの郊外にも、ことにシャンチニケータンの近村には、サ ンタルと稱する原住の民でドフヴィダ族が、素朴な農耕生活を營んでい る。北方から來た征服者としてのヒンヅー・プフフミンのタゴール一族 は初代にはネパール山麓から、べンガル海邊まで領地とした由で、土着 民の藝術と生産を助けるために、春秋に市場や收穫祭を奬勵し、詩聖は 特にこの地域開發のために、シ、リニケータン ( 希望の鄕 ) 農業指導所 を設けた。 ( 一九二三 ) アメリカで出逢ったエルムハーストが主任であ った。日本からも庭師として笠原一家が招かれ今も永住している。 天心の「東洋の理想」は一九〇三年ロンドンのジョン・マレー社から 出版された。出發前マクフウド孃を通して要請があり、渡印旅費も出た とのことで、インド滯在中に書かれたものが多い。天心は日露戦爭の 日に、インドから前年歸っていた大観、春草と、六角紫水を件って渡米 し、「日本の覺醒」といで「茶の本」を刊行している。これらの本か ら引用し、又明治の日本帝國主義成長過程の時代に、官界に在った彼の 行動を指して、天心は大アジア主義者で、戦爭謳歌者であったとするの は當らない。「日本の覺醒」の中でも天心は云う。 「キリスト敎の宣敎師と帝國主義、平和の保證としての巨大な軍備の保 持、かかる矛盾は、東洋の古代の文明には存在しなかった。日本の維新 の目的はかかるものではなかった」と。武士の家に育った志士的氣質の

8. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

る國家が、從屬している民族自身の中に充分な力を許して、支配者ったことを希望いたします。私は純粹な同情の精神から、私の使命 たちに、正しく正直で、同情と敬意を表わさなければならないこと をつたえたものでありまして、それによって、聽衆にさゝげ得る最 を、思い出させるようにすることが必要であります。勝利者側に立高の敬意を表したのであります。 つ者が、自分たちが正しかったことの誇りを保っためには、カによ っては、權利を取り返せない人々に、その權利を與えることによっ て、證明するのが當然であります。その人々も、人間らしい同情 をうけることは、當然の要求として持っているのであります。その 人々に自信をもたせるように訓練し、その人々の潜んでいる力を表 現させるように、陽の當たる所へ連れ出し、偉大さと自活へと、助 け出すことが出來れば、あなた方は永續する統治を築くことも出來 るでしよう。敗れた人々が、復讐する機會をもつ日の來ることを知 らねばなりません。ーー民族の記憶は永いものでありまして、惡業 は人々の心に深く悲憤の情をもやし續けるものです。強い人々に對 して弱い人々が、致命的な災害と、不運をもたらすような困難な時 代が、あらゆる國々に必ず來るでありましよう。 攝理から來る警告は、しばしば沈默の中に現われます。そして政 治家たちは、それに一顧もあたえません。政治家たちは、遠くを見 す視力も、理想も持ち合せませんーー・・ただ目の前だけが、薄暗く みえる、洞窟の中に住んでいるからです。ですから、あなた方の民 族の代表者として、私はあなた方に訴えますーーあなた方は、心服 しないのに屈從させるような、弱い者いじめをすることをおろかし くも、許されている人々に對して、特に愛情をもってのぞむように 努力して下さい。その人々を信賴し、奪敬することによって、みな さまの信賴に答え得る人々にと敎化し、自奪心をもつ人民へと敎育 精して下さい。それがみなさま方自身のためになるのであります。理 解と同情とにみちた雰圍氣の中で、最良の政治手腕が運營され、一 民族の感謝にみちた心の中に、あらゆる背景の中の、最上のものか ら、その民族の天才が生れ出るようにつくして下さい。 ( Ⅱ ) 終りにのぞんで、私は聽衆のみなさまの、感じ易さを傷つけなか 岡倉天心 ( 一八六二ーー一九一三 ) のこと。天心は美術學校長を退官 し、美術院を創立し ( 一八九八 ) 數名の弟子たちと野にあって官制でな い美術運動を推進したが、保守派と洋畫派との兩面から攻撃をうけ、こ とに無線畫の朦朧體に世評の風當りはきびしく、經濟的にも苦しかっ た。一九〇一年一〇月東洋美術の粹アジャンタ壁畫を見る目的で、米人 マクフウド孃を同件して、インドへ出かけた。マクラウド孃は天心の美 術講義を聞きに來ていたが、七年前アメリカとイギリスでヴィヴェカー ナンダと知り合い、自宅を提供したりした三十六歳位のディレッタント ( ロマン・ロランの評 ) で、天心にすすめて、ガンジス河畔で、ヴィヴュ カーナンダに會わせた。この聖者は天心に心醉して、面曾の翌日マクラ ウド孃に云った「彼はあなたたちに屬してはいない。彼はわれわれの 人間だ」と。そのあとで天心にいった。「あなたはここで私を相手に何 もすることはありません。ここは諦念です。タゴールに會いにおいでな さい。彼はまだ世の中にいますから。」天心はヴィヴェカーナンダの行 動の偉大さを理解しながらも、自分には別の世界、藝術の世界があるこ とを感じて、タゴールのところへ行った。タゴール家の人々に、インド への使命を啓示したのは天心である。インドの民衆とアジアの震感をう けた詩人・大タゴールが生れたのは彼の來訪からである。 ( ロマン・ロ ラン「インド」參照 ) 詩聖タゴールの次兄サチェンドラ・ナートの若い子息がその「思い 出」の中に書いている。「岡倉は莊重だが慇懃な客として、言葉少なに 一座に加わっていた。やがて彼の姿は見えなくなった。私は瓧交的會見 は終ったと思って、次の室のヴェランダに移った。するとそこに彼が一 人座っていた。彼は私に煙草をすすめポッポッと語った。突然彼は、 「君は自分の國をどうする氣なんだね』と聞いた。私はすっかりまごっ き、革命の準備をするには今、條件は不利だ。今は個人個人が時代の高 まり來るため、その一小部分をなすのみだ、という意味のことをしどろ

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が、「日本精神」補遺の「日本における敎育」など、今日の大學問複雜な屈折を〈なければならなかったにちがいない。しかし、おそ 題に通じる新しさがある。 らくはまれなほど惠まれた家庭に育ち、豐かな天分にも惠まれてい そこでモ一フェスは、おびただしい大學がつくられ、ネコもシャクたことで、彼には終始人間性〈のあつい信賴があり、自由奔放にそ シも大學へ行ってどうするのだとか、なかでも文學部の學生が一番の才能をのばすことができた。 多いのが問題だ、とのべているし、「日本通信」のなかでは、日中そしてその自我の成長と展開が強い桎梏によって妨げられる時 友好を中心にしたアジアの未來を考察したり、日米關係を論じて、も、梵我一如のヒンズー敎の汎禪論に生れ落ちた時から深く養われ 日米戦爭の豫測や、日本が進路を誤って苦しい運命におちいる ( たた彼にはーー、彼の父は大と呼ばれた新宗敎運動の指導者だった だし「再びそれを克服するだろう」と付記しているが : : : ) 心配の 、個我への執着によって魂の平靜をかきみだされることなく、 あることなどにもふれている。 しずかに自分の世界に引きこもって遠い未來に期待をつなぐこと、 短かいこの文で、モ一フェスの全貌に言及するのはむずかしいが、 さらには歸するがように死を迎えることにさえ、みずから慰めるこ かれの文に直接當っていただければ、かれの眼の正しさ、新しさなとができた。このことは、性急で欲深い近代主義者には、或いは物 どが感じられるだろう。それを鶴見俊輔氏は、「自分を日本土着の足りぬ思いをさせる點かと思うが、彼の生涯と創作をふくめてのす 文化の中にうずめつくそうとした生活の中に ( モ一フェスの ) 批評のべての活動に、ふしぎに調和的な美と靜けさと、その中での不退轉 場がある」といったことがある。 ( 作家 ) のヒュ ーマニストとしての持續と節操を與えることになっていると 思う。 彼は時に東洋のゲエテと呼ばれるが、たしかにこの稱呼は彼にふ タゴール雜想 さわぬものではなく、その活動の幅廣さ深さもまた、決してゲエテ 山室靜 に劣るものではないであろう。日本ではもつばら詩人として知られ タゴールの詩に私が始めて接したのは、信州の田舍の中學にいたるが、小説家としても劇作家としても「ゴー一フ」「郵便局」その他 時に、國語副讀本に出ていた「チャンパの花」を讀んだのが始めての名作を書いているし、「サダナ」、日本文明の鐃い理解と批判を だった。いま讀んでみても、この詩はタゴールの汎論的な考えがふくむ「ナショナリズム」、「人間の宗敎」その他のエッセイは、東 童話的構圖の中にみごとに生かされていることと、その表現の平明洋と西洋との思潮をみごとに調和させた哲人の思索を結晶させた名 優婉であって、しかも深い知惠をたたえていることで、タゴール詩著であった。その他、イギリスの暴政に對する抗議や、農村改革の の中でも最もすぐれた一つと思われる。 ための努力や、サンチニケタンでの敎育の試みや、その人と著作の 彼の詩を淸らかな水にたとえた人もあったが、たしかに彼の世界すべてで新生インドの目ざめを促し、それを導いた功績にいたって は自然で澄明で美しく、澹泊のようでいて無限の慈味をもっていは、はかり知れないほど深いものがある。だからこそガンジーもネ る。彼も近代人であり、ことに當時イギリスの植民地だったインドー ルも、彼を師とし、新生インドは彼を偉大な國民敎育者として讃 の深い苦惱と屈辱の中に生い立った人だから、その自我の目ざめは頌を惜しまないわけだ。

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しかし殘念なことに、彼は大正期には日本でもかなりもてはやさつの絶對的な美を、詩としての完成を持っていただけでなく、私が れたものの、その後は少しも理解が深まっていない。それは彼の世ただ時折りの閃光として、しかも惱みにみちた不確實さの中で見出 界が、微風のように輕やかで、眞淸水のように淸澄なため、誰にもすことができたあの聖なるものを、永遠に私の前に理解させてくれ すぐ親しめると同時に、それでもう底までわかってしまった感じがたからです。」 して通りぬけてしまったのだろう。事實はしかし、輕やかなもの、 タゴールの詩、さらには彼の人間そのものには、彼女が言ってい 澄明なものほど、祕密は深いし、それがひそめている慈味もくみつるように、たしかにある「聖なるもの」が漂っている。だから、こ くしがたいのだ。 のことがあってからまもなくイエーツの序を附して刊行された「ギ 一九二一年、五十歳を迎えた彼は、身心がひどく疲れているのをタンジャリ」は、たちまち世界的な反響をまき起して、ジイドが佛 感じて、しばらく外遊して休養することにした。もはや荷物も船で譯したのをはじめ、各國譯がつぎつぎに出て、ほぼ一年後には早く 發送してから、醫者にもう少し旅を延期するように言われ、つれづもノーベル文學賞を與えられることになる。さして厚くもないたっ れのままにその頃出したばかりの詩集「ギタンジャリ」を、ふと思た一卷の詩集で、これほど迅速に世界を歸依させた詩人もめずらし いついて自分で英譯にかかった。その仕事は船上でも續けられ、ロい。彼がアジア人だったことで、ヨーロツ。ハ人の創設したノーベル ンドンについた時には、一册の手帳にほぼそれを譯し終えた。その賞を、そんな未知數のアジア人にやる必要はないという議論もあっ 手帳がインドに旅したことのある畫家ローセンスタインをまず感激て、賞の決定にはかなり異論もあったと言われる。しかし、その詩 させ、彼からその手帳を受取って讀んだイエーツは、ローセンスタの疑うべからざる美質がすべてを押しきって、彼の受賞が決定し イン以上にこれに魅惑されて、外出の時もこれを手放すことができた。選考委員長格のスエ 1 デンの詩人へイデンスタムーーー彼も數年 が、こんな演説をしたことが大勢を ず、電車やバスの中やレスト一フンでまでそれを廣げては讀み耽っ後にノーベル賞を受賞した た。一度などは、その手帳を・ハスの中におき忘れて、靑くなったこきめたらしい。 ともあるという。 「私はこの二十年かそれ以上もの間、これらに匹敵するようないか こうして一夜、ローセンスタインの家に、イエーツをはじめ、アなる詩も讀んだことがない。それは淸新澄明な泉の水を飲むのに似 リス・メーネル、エズ一フ・パウンド、メイ・シンクレアらのえりぬていた。彼のすべての感情と思想をひたしている愛情にあふれた強 きの詩人と作家が集まって、タゴールの歡迎會をやることになり、い敬虔さ、心情の淸らかさ、スタイルの高貴で自然なことーー・、その その席上でイエーツが數篇の詩を朗讀した。これがそれまでまったすべてが結合して類い稀な深い美をもつ一全體を作りだしている。 くヨーロツ。ハに知られなかったタゴ 1 ルが、にわかに脚光をあびるもしノーベル賞に値いする詩人があるとすれば、それこそ彼であ ことになるきっかけだが、その感銘は壓倒的だったらしい。メイ・ る。いまや我々はついに眞に偉大な姿をもっ理想的詩人を見出した のだから、彼を見すごすべきではない。」云々。 シンクレアはその夜の印象をタゴールに書き送っている。 「私が生きているかぎり、二度とあれらの詩をきく機會がないとしノーベル賞受賞後の彼は、東洋と西洋のかけ橋たるべくっとめ ても、決してあの時の印象を忘れることはないでしよう。それは一て、世界各地を遍歴した。日本にも三回來ているし、南米や中國や 5