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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

った、この微笑が彼に怒りを失わせたのだから。「私はとても惡うす。」 ・こざいました。お怒りになるのは當然でございます、毆られるだけ 四 のことをしました。ですから恨みを抱いてはいません。」 しかし、極貧または最下層の日本人でさえ不當な處置を、まず、甘 しかし日本人の微笑は、心の假面としていつも裝われる一種のつ 受することはない。このことは理解しておくべきである。その上べくり笑い、と考えられてはならない。その他の態度振舞いと同樣、 の從順は主として倫理覿から生れているのだ。日本人を輕々しくなさまざまな瓧會層に應じた異る禮儀作法によってこの微笑は律せら じる外國人は、大變な誤りをおかしたことに當然氣がつくことだろれている。一般的には、年配の武士はどんな時にも微笑はしない。 う。日本人を決して輕蔑してはいけない。日本人を輕蔑する野蠻な彼らは長上の者や親しい人には温雅な態度を保っているが、目下の 所業が數人の哀れな生命を奪っている。 者には嚴格な態度を持していたようにみえる。訷道の神主の威嚴は このように説明してみても、先ほどの日本人の子守女の話はまだ諺になっている。何百年の間、孔子の敎の嚴肅さが役人のいかめし 理解しにくいと思えるかもしれない。しかし、話手がこの事實のない態度のなかにあらわれてきた。古代から貴族はもっと愼しみをみ かのある事を言わなかったかききのがしたか、そのいずれかのせい せていた。身分に件う威嚴がすべての階級を通じて深まってゆき、 だ、きっとそうだと、私には思える。前半では、この話はきわめて天子様をとりまくいかめしさにまでなっていった。天子様のお顔を 明瞭である。夫の死を知らせるとき、若い子守女は、すでにのべた生きている人間が拜するのは許されなかった。しかし私的生活面で ように日本人の禮儀に從って、微笑をうかべていた。全く信じがたは高貴な人の態度にもやさしい、くだけたものがあった。今日で いことは、この女が進んで、女主人に壺、すなわち骨壺の中味をみも、救いがたく近代化されたために生れた例外はあるが、貴族、裁 るようにと言ったこと、である。夫の死をつげるとき微笑をうかべ判官、高信、高級官吏、軍人も、仕事の合間には、家庭において、 るのが日本人の禮儀だとよくわかっていたら、この女がこのような昔風の優しさから生れる好ましい習慣をとり戻している。 誤りをおかすのをとめるだけの分別が、きっと主人にははたらいた 會話をいろどる微笑は、微笑だけからみれば、この禮儀の小部分 にちがいない。實際にみせろといわれたため、または何となく命ぜにすぎない。だが微笑が象徴する倩緒はもっと大きな部分をたしか られたからこそ、壺とその中味をみせることもできたのだろう。そにふくんでいる。あらゆる點で眞に日本人らしさを保持しているよ うな敎養ある日本人を友人にもっていれば、ーーー新しい利己主義や れから、みせるときに、この女が低い、優しい笑聲をたてたとは到 の底考えられないのだ、しかたなくいやな仕事をするとき、無理に苦外國の影響によって災わいされていない品格をもっている人 しい話をさせられるときにこの笑聲はでてくるのだが。この女は氣その友人のなかに日本人全體のもっ特殊な社會的特性を檢討しうる まぐれな好奇心を滿足させなければならなかったのだ、これが私自 だろう。すなわち、その人の品格のなかに特に強められかっ洗練さ ら 身の考えである。この女の笑顏や笑聲はそのとき次のような意味をれている特性を。概していえば、その人は自分のことを決して口に もっていたのだろうーーー「私のつまらない話でお氣持を惡くなさら しないこと、個人的なことを詮索しても答としては、その人は、有 馥ないで下さいませ、御主人さまの言いつけとはいえ、私の不幸とい難うと丁寧にお辭儀をして、できるかぎりぼんやりとかつ手短に返 3 ったようなつまらないことを申上げてほんとうに失禮でございま事をすること、このことに諸君は氣づくことだろう。ところが、そ

2. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

長い左の袖から赤い絲をとりだした。縛るような風に、この絲の片打明けてみたのだった。微笑みながら、娘はききかえしたーーー「御 端を梅秀の躰にぐるりとまわした。もう片方の端を社の燈明の焔に存知ではなかったのですの、あなた様の妻になるようにとわたくし みたび かざした。絲がそのまま燃えている間に老人は手を三度ふった。暗は召しだされましたのを。」そういって娘は梅秀と家の中〈入って 闇から誰れかを呼びだしているかの様子だった。 きた。 たちまち、大通寺の方角から、こちらへ近づく足音がきこえてき 妻となってから、心ばえと優しい情とで梅秀の考えた以上に、娘 た。次の瞬間には一人の乙女が姿をあらわしたーー・愛嬌のこぼれるは梅秀を喜ばせてくれた。その上、思いのほかたしなみが深いこと ような、十五、六歳の乙女だった。しとやかに近づいてきた、恥か もわかった。驚くほど美事に字をかくだけでなく、繪をきれいにか はた しげにーー・扇子でロのあたりをかくしながら。そして梅秀のそばに いたし、生花、ー 刺、音樂にも堪能だった。機を織れるし縫物もで 坐った。稚兒は梅秀にいった きた。家事も十分心得ていた。 「お前は戀に惱みつづけていた、その命をかけた戀故に病にふして いる。そのような苦しみをすておくわけにはゆかぬ。それ故月下の 若い二人が會ったのは秋の初めのことだった。そして冬の季節に 翁を召しだして短册をかいた娘を引合わせることにいたした。そのなるまで仲睦じく一緖に暮していた。この月日の間、二人の平和を 娘は、今、お前のそばにいる。」 亂すことは何一つ起らなかった。優しい妻に對する梅秀の愛情は月 こういいながら稚兒は御簾の蔭に姿をかくしてしまった。老人は日のたつにつれ深まっていった。だが、ほんとうに不思議なこと もと來たほうへ歸っていった。乙女も老人の後に從っていった。そ だが、妻の過去については何一つわからなかった、ーーその家族のこ れとともに梅秀は大通寺の梵鐘が、時を告げて鳴りひびくのをきい とは一切しらなかったのだ。こういうことを妻は全然口にしなかっ た。梅秀は誕生の辨天様の瓧の前に有難やと心をこめてひれ伏し た、神さまが妻を授けて下さったのだから、妻にたずねるのはよく た。そして家へ戻っていったーー・、何か樂しい夢からさめたような心 ない、と梅秀は考えていた。月下の翁も、他に誰れも、ーー梅秀が でーー・あれほど心から會わせて頂きたいと祈った可愛い乙女に會え 心配していたことだがーー妻を連れ戻しには來なかった。誰れ一人 た嬉しさを抱いてーー・また、二度と乙女に會えないかもしれぬと暗として妻のことをききに來なかった。それに近所の人たちも、何だ い心を抱いて。 かわけは分らないが、妻の存在に全然氣づかないような様子だった。 門を拔けて通りに出るとすぐ同じ方向へひとりで歩いている若い 梅秀はこういうことをすべておかしいと思っていた。しかし妙な 娘の姿が梅秀にみえた。朝早く薄暗かったがその娘こそ辨天様の社 ことが起ろうとしていたのだった。 の前で引合わされた乙女だとわかったのだ。急ぎ足で娘に追いつく ある冬の日の朝、梅秀は京都のなかでも少し邊鄙な所を偶然通っ と、娘はふりむいてしとやかにお辭儀をした。そこで梅秀は、初めていたとき、大聲で梅秀の名前を呼ぶ聲をきいた。みると、ある屋 影 て、娘に話しかけてみた。すると娘は優しい聲で返事をしたので梅敷の門から下男が手招きをしていた。この男の顔に見覺えはなかっ 秀の心は喜びであふれた。靜まりかえった道を二人は樂しく話しなたし、京都でもこのあたりに知合いもなかったので、思いがけず呼 がら歩いてゆき、梅秀の住んでいる家の前まで來てしまった。家の びとめられてびつくりしたどころではなかった。でも下男は、近づ 3 前で梅秀は立ちどまった 心にいだいていた願いと心配とを娘に いて來て、深ぶかとお辭儀をしていった、「主人が是非ともあなた

3. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

吉は戸をしめ、蓑をかぶって横になって休んでいた。初めのうち二 こういう次第で盜賊は首と衣を手にいれた、そしてしばらくの間人はさほど寒いと感じなかったので、吹雪はやがておさまると考え ていたのだ。 街道筋で化物・泥棒かせぎをかさねていた。しかし、諏訪の近くに きて盜賊はこの首のほんとうの由來をきいた。そしてろくろ首の靈 老人は横になると同時ぐらいに眠ってしまった、が、巳之吉少年 が災難をあたえるかもしれぬとこわくなってきた。そこでこの首をは長い間眼をあけていて、おそろしい風の音、戸にたえ間なく吹き 元あった場所にもってゆき、その胴體と一絡に埋めようと決心しつける雪の音、に耳をすませていた。川も轟々と音をたて、小屋は た。甲斐の國の山中の一軒家へと訪ねていったが、そこには誰れも海にうかぶ小舟のようにゆれきしんでいた。おそろしい嵐だった、 いなかったし、胴體もみつからなかった。そこで小屋のうしろの木そして大氣は一刻一刻冷えていった。巳之吉は蓑のしたでふるえ 立の中に首だけを埋めた。埋めたところに墓石をたててやった。そた。やがて、寒さにふるえながらも、少年も眠りこんでしまった。 してろくろ首の靈のために施我鬼の法事を行わせた。その墓石は 顔に雪がふりかかるので少年は眼がさめた。小屋の戸が押しあけ ろくろ首の墓石として知られているのだがー・・・・今日なお存在していられていた、雪明りでみると小屋の中に一人の女ーー眞白な姿の る ( と日本の物語作者だけは斷言している ) 。 女、がみえを女は茂作の上にかがみこみ、息をはきかけていた その息は輝く白い煙のよう。ほとんど同時に女は巳之吉の方に 雪おんな むき、少年の上に身をかがめた。少年は聲をだそうとした、が、 一つたてられないことがわかった。白い女は巳之吉の上にかがみ、 武藏の國のある村に茂作と巳之吉という二人のきこりが住んでい少しずっ迫ってきて、女の顔が巳之吉にふれるばかりになった、見 た。今お話しをする頃には茂作は年をとっていた。弟子の巳之吉はると、この女はとてもきれいな顏をしていたーー・その兩の眼は少年 十八歳の若者だった。毎日二人は村から五マイルほどの林に一緒に を脅えさせたけれども。しばらくの間女は少年をじっと見ていた でかけていった。その林に行く途中、廣い川を渡る、そこには渡舟 それから、ほほえんだ、そしてささやいたーーー「妾はお前も、も があった。何回となく渡舟のあるところに橋がかけられたが、そのう一人の男のようにしてやろうと思っていました。でもお前がどう 度びに橋は大水で流されてしまった。川の水かさが高まると普通の にも何だか可愛想になって、 : : : お前はとても若いものだから、・ 橋では到底激流にたえられないのだ。 可愛い子だね、巳之吉、だからお前には仇はすまい。ですが、もし 萬が一、お前が誰れにでも話したらーーお前の母親にでも・ーー今晩 ある日とても寒いタ方、茂作と巳之吉が家へ歸る途中、大吹雪が見たことをね、妾にはわかるのよ、そしたらお前を殺してやる : 談 おそってきた。二人は渡しへついた、だが渡守は、舟を向岸につな妾のいうことを覺えておくのだよ ! 」 いで、歸った後だった、泳げるような日ではなかった、そこで木こ こう言いながら、女は巳之吉から離れ、入口から出ていってしま 怪 りは渡守の小屋に難をさけた、 ともかく避難する所がみつかっ った。氣がつくと巳之吉は躰を動かせた。彼は飛びおきて外を眺め て倖せだと思って。小屋の中には火鉢もなく、火をたく場所もなか た。だが女はどこにも見當らなかった、雪は猛烈に小屋の中へ吹き 2 ったー・ー二疊敷ほど、戸は一つ、窓のない小屋だった。茂作と巳之こんでいた。巳之吉は戸をしめた、數本の薪を突っかえにして戸を みの

4. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

ばれて天上に登り、星になった。そのとき百三歳であった夫は、月 をわたって戀い焦れる二人は逢えるのだ。だが、もし雨がふると、 天の川の水かさがまして、川幅がひろくなりすぎて橋がかけられなを眺めては天上に別れ住む妻を戀うる心を慰めようとした。月がの ぼりまた沈むのを眺めていると、妻が今なお傍らにいるような氣が い。そういうわけで夫婦は七月七日の夜でさえ、毎年逢えるとはか ぎらなかった。お天氣が惡ければ、三年でも四年でもつづいて逢えしていたのだった。 ある夏の夜のこと、妻の伯陽がーーー今や永久に若くて美しい ないこともおこりうることになる。しかし二人の愛情はいつまでも 若々しく變ることなく辛抱づよいものであった。二人は互いの務めかささぎにのって、天上から夫を訪ねてきたので夫は大層喜んだ。 よくとし しかしその時以來、夫は自分も星となり、天の川をこえて伯陽と一 を毎日間違いなく果してゆくーーー樂しく、翌年の七月の七日の夜に 絡になる喜びだけしか考えなくなった。やっとのこと自分も死んで は逢える望みをいだいて。 烏にのって天上にのぼっていった。だがすぐには、かねての望み通 り伯陽と一絡になれなかったのだーー自分の定められた住居と伯陽 中國の古代の人は、「乳白色の道」は光り輝く河ーー天の川 しよくしょ の住居との間には天の川が流れていたから。天帝がその川水で日毎 銀河、と想像していた。たなばたさますなわち織女は天琴座の星、 けんぎゅう その愛人である牽牛は、銀河をはさんで反對側にある鷲座の星だと水あみをなさるため、いずれの星も川をわたることが許されなかっ た。その上、川には橋がなかった。しかし毎年一日だけーーー七月の 西洋の作家たちはかいている。しかし、二つの星は、極東の人々の 想像のなかでは、星の群れと考えられていると言うほうが一層正し七日ーーーは、夫婦は相みることを許されていた、天帝が、その日は 毎年、佛陀の敎えの説敎をききに善法堂へ行かれる。そこでかささ いだろう。日本の古い本はこのことをはっきりと記している 「牽牛星は天の川の西にあり、一列にならぶ三つの星で示され、牡ぎと鳥が、空とぶ躰とひろげた翼とで天上の川に橋をかける。そし 牛をひく男のようにみえる。織女は天の川の東側にある、三つの星て伯陽がこの橋をこえて夫に會いにゆくのである。 たなばたといわれる日本の祭がもともと中國の機織りの女訷織女 が女の機の前に坐っている姿と似てみえるようにおかれている。 と同じものであったことに疑間はまずありえない。日本の祭は古い : ・牽牛は農業に關することをすべて司どり、織女は、女の仕事に かかわることすべてを司どる。」 昔から、特に女の祭であったようにみえる。たなばたという言葉を 漢字でかくと機織りの娘の意味になる。しかし二人のが七月七日 に祭られたので、この名前を普通通りに解釋することでは滿足せ 雜話集という古い本には、二人の訷はもともと地上の人間であっ たとされている。嘗てこの地上で二人は夫婦であり、中國に住んでず、その名前はたね ( 種 ) とはた ( 織機 ) という言葉からもともと はくよう ゅうし いた。夫は胙子、妻は伯陽といった。夫婦はとりわけ、この上なくつくられたものだと主張する學者も日本にはいる。この語源研究を 本 日月を信じていた。日が沒して空の睛れた夜はいつも、夫婦は月がのうけいれる人々は、たなばたさまという名稱を單數とせずに複數と ぼるのを熱心にまっていた。月が地平線へかたむきはじめると、月し、これを「穀物と織物との禪々」の意味にしている。すなわち、 の面をできるだけ長い間眺めておられるようにと家の近くの山頂に農業と機織を司どる禪々である。古い日本の繪では二溿の星は、そ いつも登った。そして月がすっかりみえなくなると、ともに悲しんれぞれに與えられた屬性の考えによって、えがかれている、ーー彦 3 でいた。九十九歳で妻が死んでしまった。その靈はかささぎにはこ星は天の川の水をのませに牡牛をひいてゆく百姓姿の若者として描

5. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

の魅力は薫香のようにとらえがたく、かっ移ろいやすいのだ。 0 橫濱の外人居留地から日本人街〈とまず人力車で出かけたとき に、日本の魅力に初めて私はふれたのだった。この魅力を、想いだ せるかぎりこれからかき記してゆく。 な家、靑いのれんをさげた小さい店先、亠円い着物をきて笑ってい る小さい人たち。この幻想も、時折通りすぎる背の高い西洋人、 それから馬鹿げているが英語の文句をかいた様々な看板、こういう もので破られるだけだ。それでもこんな不調和も却って現實感をつ よめるだけで、小さい町からうける面白味を實際には全然感じな 日本人街を初めて通って行くときうけるあの樂しくも心をうつ驚 はてしなく飜っている旗の波やゆらぐ紺のれんをすかして、通り きこそ、東洋にいるのだ、極東に、いろいろと本でよんでいたし、あを眺めわたしていると、これも初めのうちは樂しくも奇妙な混亂と れほど夢にえがいてきたのに、今この眼がみているようには、全然みえるだけだ。旗にものれんにも日本や中國の文字が染め拔いてあ わからなかったあの極東に、居るのだという氣持が初めてするのだ、 って美しくも沖祕的な感じを與えている。家の建てかたにも飾りか 萬事一切がロで言えないほど樂しくて物珍らしいものだから、 たにも、それとすぐ分るような方式がないせいだ、 ーー家はそれぞ どこへでも、いたる處へ車をひいてゆけと手振りで、氣狂いじみたれ獨自の、氣まぐれにつくられた美をもっているらしい。どれ一つ 手振りでするほかは、人力車夫には通じないのだ。手振りでしか通としてそっくり同じものはない、どれもこれも呆れるほど變ってい じないというわかりきった事を、初めて十分に、悟ることでさえロマ る。しかし、日本人街に一時間いると、この屋根の低い、輕そうな、 ンティックな趣きがある。お天氣がすばらしくよいので言葉に言え變った破風のある木造の家の建てかたにも何か共通の方式のあるこ ないほど私にはこの自覺が樂しいものになっている。朝の大氣にはとが段々とわかってくる。家にはペンキは塗ってないし、一階はす えも言えぬ魅力が何か感じられる、日本の春のひやっとした感じ、雪 つかり道路に面して開いていて、薄手の細い瓦が、ひさしのように を頂いた富士山の頂きから吹きよせてくる風のためただよう冷氣、 店先までさがっているし、裏手は、障子のはめてある二階の小さ には。それは華かな色彩から生れるよりもごく柔い、澄みわたった な物干臺のところまで瓦がならんでいるのだ。道路の高さからかな 空氣から生れる魅力らしいーー・大氣に僅かに靑味がただよい、そのり高められた床に疊のしいてある小さい商店にも共通の建てかたの 大氣の向うにびつくりするほどはっきりと遠い遠い物が姿をうかびあることがわかってくる。またのれんの上に搖れ動いていたり、金 あがらせている、このような、格別に澄みきった大氣なのだ。太陽箔や漆で塗った看板の上にきらめいていようと、いずれにしろ看板 は暖かく、ただ、心を浮き浮きさせるのみ。人力車は、これほど小 にかかれた文字は一般に上から下へかかれていることもわかってく さくて快適なものは思いつけないほど。わらじをはいて走る車夫のる。同じ濃紺の色が一般の人たちの着物の色となっているが、これ 白いまんじゅう笠が踊っているのを眺めながら、通りの向うまでが店先ののれんの色にもなっていることに氣がつく、もっとも濃紺 見渡していると、いくら見ても見飽きないとおもえるほど心が惹き 以外に明るい藍色と白と赤とが時折まじってはいるが ( 綠や黄色は つけられてゆく。 ない ) 。それから勞働者の着ているものにも店先ののれんと同じ奇 小人國のようにどれもこれもみえる、人も物も皆小さくて、變っ妙な文字が染めてあるのに諸君は注意する。どんな唐草模様もこれ ていて、わけがわからない、 靑みをおびた黒い屋根をした小さほどの效果を生みだせないことだろう。これらの表意文字は裝飾

6. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

397 國日本 徳川時代には、まず國中いたるところ、七夕祭はすべての階級の 子供たちの樂しい祭であったーー夜明け前の提灯行列にはじまり、 その日の夜おそくまでつづくお祭の日であった。少年少女はその日 には睛着をつけ、友だちや近所の家を睛れがましく訪ねていった。 七夕の傳説はたしかに中國から借りてこられたが、讀者は次の歌 たなばたづき ふみづき には中國的なものは何もみいださないだろう。それらは古典の歌の 七月の月は七夕月といわれていた。文月とも言われた、七月の間 最高を示し、外國の影響とは縁がないからである、そして千二百年 は天上の戀人をたたえて歌が方々でつくられていたからだ。 前の日本人の生活と思想のありかたについて多くの示唆を與えてく 古い日本の歌で七夕傳説をうたうものを次にえらんでみたが、讀れる。近代ヨーロツ。ハ文學がいずれも形をなしていないうちにこれ 者諸氏は必ず興味をいだかれると思う。全部萬葉集からとってあらの歌がつくられたことを心にとどめるなら、日本の文語が幾世紀 にわたっていかに變化していないか氣がついて驚かされるのであ る。萬葉集は八世紀の中葉以前につくられた大歌集である。勅命に よって編纂され、九世紀の初めに完成した。その收める歌の數は四る。多少の語と發音上の雜多な、若干の變化とをのぞけば、一般 の日本の讀者は今日、英國の讀書人がエリザベス朝の詩人を研究す 千以上に逹する、なかには長歌もあるが大多數は短歌、すなわち、 三十一字でつくられた歌である。作者は廷臣か高い官位の官僚であるときぶつかる程度の僅かな苦勞しかせすに、自分の國の詩神たち のつくったこれらの古い歌を樂しみうるのである。その上、萬葉集 った。ここに英譯したもののうち初めの十一首は千百年以上の昔、 の歌のもっ典雅と素朴な魅力とはその後の日本の歌人に決して劣っ 筑前の國司であった山上憶良の作である。その歌のうち少なからぬ ものがギリシャ詩選にある若干の勝れた諷刺詩と匹敵するほどであていないし、また比肩する歌人もほとんどでていないのである。 ここに飜譯した四十餘首についていうなら、その主な魅力は、先 るから、その歌人としての名聲はまさに當然のものなのだ。その幼 祖の人間性をわれわれに啓示している點にあると思える。太奈八太 皃古日の死をいたむ次の歌は一例となるだろう まひ 豆女は、今日なお頭のさがるほど愛情のふかい日本人の姿をわれわ 若ければ道行きしらじ賂はせむ した れに示してくれる。また彦星はの光輝を少しももってはいず、 下べの使負ひて通らせ 六、七世紀ーー中國の倫理的慣習が人生と文學にその拘束力を及ぼ 八百年以前にギリシャ、サアディス生れの詩人ディオドオラス・ しはじめる以前の時代ーーの日本の若い夫としてわれわれにはみえ ゾオナスはかいていた この蘆のはゆる湖水に冥府をさして死者の船をこぎゅく汝ケる。またこれらの歌は自然美によせた昔の人の感情の表現によって ーロンよ、キニ一フスの息子の船の梯子をのぼりゆくとき、色黑われわれの心をひくのである。これらの歌には天上の蒼原に移しか えられた日本の風景と四季とがみいだせるのだーー天上の流れに きケーロンよ、汝の手をさしのべよ、しかして受けて迎えよ。 履く草履はかの子の足をすべらせるであろうぞ、岸邊の砂にそは、急流と淺瀬があり、石の多い川床で突然湧きたち激しくひびく 水音、秋風にふす水草、などがあって、賀茂川そっくりとなろう、 のはだしをつけるを恐れむほどに。 その岸邊にただよう霧は嵐山の霧そのものなのだ。彦星ののる しかしディオドオラスの諷刺詩は神話から材をえていたーーー「キ フルど サンダル ニ一フスの息子」とはアドーニスに他ならぬ故、ーーーそれに對して憶 良の歌は父親の眞心からの思慕の情を讀者に表現しているのであ る。

7. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

普通日本人は佛教信者で死ぬ。死體は肉體と精溿とを正しく導く 一二ヶ月前に、隣りの家で、やっと二十時間ほど生きてゐた男の 役目の僧侶の手で始末され、擧式される。かうした事情は理窟に合赤ん坊の遺骸を見たことがあ 0 た。のやうに蒼ざめたその小さい ってゐる。尤も、さうした區別は變に思〈るが。禪道の宗敎は主と體はすぐ墓地〈と運ばれてい 0 た。白い衣にくるま 0 て、小さい箱 して、光英と英雄と祖國〈の純眞な愛との祭祀である。希望とともに入れられて、いまはの際に買「た人形と二「の蜜柑とを持 0 てい に人生を歩みだす赤ん坊とびったり合ってゐる。佛敎の敎義はこの った。あんなに早死して、永い初旅に持ってゆく、たった一つの荷 世の享樂を輕んじ、魂を矯正し、地上の生活から離れる。死んだ人物だった・・ 人にふさはしい。 家族は愛情こめて死體を始末して、遺骸を洗ひ、髮を梳り、一番 日本の土地では、よく街頭で葬式を見かける。人々が大ぜい列を 上等の着物やその亡き人《が一番好きだった着物を着せて、棺に納なして、風になびく禪祕な幟や、蝦燭や花輪などの供物がついてゆ める。近所の人々が世話をやき、親戚や友人が遠くから來る。佛壇 く。役信たちが亡き人の靈に捧げる ~ 果子や果物を持って往く。とき を設け、燭を點け、香を焚く、大勢集まってお通夜をし、木魚を によると、花と一緖に鳩のはひった大籠も往くが、それは、この世 ならしながらお經をよむ。一度この死の讀經を聞いたものは、よし を離れ、縛られてゐたきづなを釋かれて、遠い祕の國へ飛んで往 異國人であらうと、けっして忘れはしないだらう = : : ただ譯もなく く靈を表はすかのやうに、儀式の終ったときに放っ : 憂愁な感じで一杯になるのだ ! 遺骸は珍しい棺に入れてゆくが、その形は長い棒に載っかった假 す〈てが葬ふための、死體を墓地に運ぶための、精神を = ・ = ・祕屋を思ひださせるもので、擔ぎ手がそれを肩で擔いで、ゆっくりと のある不可解の場所に蓮ぶための準備だ。亡き人《が一番よく使っその運命を運んで往く。參列者のなかで、ひときは目立つのは、悲 てゐて、一番好いてゐた品 ~ を、たと〈ば、煙管と煙草とか、書いたしみをつつんだ白づくめの裝束の死者の家族と、金銀で刺繍した綠 り描いたりした筆だとかとい 0 たものを持 0 てゆく。歸化して日本や赤や黄のすばらしい絹の大きな儀式用の信衣を 0 けた坊さんたち 人となり、佛敎の敎義によって火葬された偉大なる作家一フフカディ とだ。その背後から會葬者が隨いて往く。 オ・ ( ルンはいく年か前に一人の友から贈られた金ペンを持ってい 葬列はかうして、ある佛敎寺院に往き、そこで、ある宗敎上の嚴 った。女どもは小鏡や白粉や香水や愛好の寫眞やその他多くの細々肅な儀式があり、それからその死體を墓地に運んで、燒く。そのと したものを持ってゆくだらう。 「それから、お人形は ? まあき、坊さんが死者に戒名をつける。なぜなら、家族につけられて一 可哀さうに、もしよかったら、お人形も一絡に人れてあげませうね ? 般に知られてゐる俗名が、死とともに一瞬に失くなってしまふから 踊 ・ : 」ーーあるとき、ある女がその友逹の遺骸の前で、かう言ふのなのだ。 盆を聞いたことがあった。さうして、みんなで抽斗を掻きまはして、 人形をーー子供の頃から最後の老年の日に至るまでどの日本の女も ここでちょっと火葬について解説を下さう。 持ってゐる人形を見つけだした。遺骸は、また僅かの銅貨や、また 基督敎禪學の観點から火葬を研究することは、わたしの柄でない は、地獄の川に架けられた橋を渡るときの渡錢として支拂ふ料金を し、進歩的な衞生主義者と反對の點とか、火葬主義者がそれにつ 書きこんだ、小さいただの書付を持ってゆく。 いて考〈る點とかから研究するのも、尚更その柄でない。感傷的な

8. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

れとは反對に、あなた自身のことはいろいろと訊ねることだろう、 されていないのである。われわれの人生における喜びは、われわれ 2 あなたの意見、考え、あなたの日常生活のこまごましたことでさの周圍の人々の幸輻に、またひいてはわれわれ自身が沒我また忍耐 え、その人にはとても關心があるかのようにみえる。そしてその人の精紳を涵養することによってきまってくるにちがいないーーーこの はあなたについて知りえたことはどんなことでも決して忘れていな眞理が、他の民族においてこれほど廣く理解されていることもな いことに氣づく機會があろう。だが、その人の思いやりからでる好い。この理由から、日本の瓧會では、諷刺、皮肉、辛辣な機智は喜 奇心にも恐らくその人の察にも、あるはっきりした限界がある、 ばれない。こういうものは上品な生活には存在しないと言ってもよ 不快な、嫌なことは何事も決して話題にしない、奇癖やちょっ いほどである。個人の失敗は嘲笑や非難の對象とはされない、變っ とした缺點は、たとえあなたが何かそんなものをもっていても、みた癖も話題にされない、うつかりした誤りも笑いをさそわないの ないふりをつづけるだろう。あなたの面前ではその人は決してあなだ。 たをほめない。だがあなたのことを笑ったり、批評したりは決して 古い瓧會條件が生んだ中國流の保守主義によって倫理體系が相當 しない。たしかに、その人は決して他人を批評せずただ行爲をその硬直化しているため、この體系が個性を犧牲にして、觀念を固定化 結果からみて批評するだけなのをしるだろう。個人として助言するするほど守られてきたことは事實である。しかも、この道德的處世 とき、その人は、自分が賛成しない計晝でも直接には批評せず、何法が社會の要望をずっと廣く理解することによって調整されるな か次のような用心ぶかい言葉で別な計晝を言いだすことがある ら、知的進化に不可缺な自由を學問的に理解することにより發展さ 「こんな風にするほうがあなたの現在の利瓮にずっと合致するかもせるなら、この處世法そのものが、最高の最も幸輻な結果を生みだ しれませんね。」他人のことをどうしても言わねばならないときに してくる處世法となりうる。しかし實際にみられるように、それは は、一枚の繪が出來上るほど特徴的な事實をいろいろと話したり、 獨創性にとって好ましいものではなかった。今日なお殘っているも またそれらを結びつけたりして、奇妙な間接的な言いかたで他人の のだが、例の鄭重かっ平凡な意見と想像とを人に押しつけるように ことを話題にする。しかしそのときでも語られる事は、相手の關心むしろなっていた。それ故、日本内地に住む外國人はときには西洋 をひき、その人に有利な印象をつくりだすような性質のものであろの生活がもっ鋧い、風變りな、變化のあみ生活をどうしてもなっか う。これはまず間違いない。この間接に意圖を傅える方法は元來孔 しく思うのである。西洋人の生活にはもっと大きな喜びや苦しみ、 子の流儀である。「深く信じているときでも、自分の言うことを自 またもっと理解を示す同情心が、みられるのだ。しかし時になっか 分の意見とは思わせるな」 ( 「直而勿有」 ) と禮記に記されている。 しむのみである。知的な面の損失は瓧會的な魅力によって實際には あなたの友人に、中國古典の知識が多少なければ理解できないようおおいに補われるし、日本人を一部分であれ理解する人の心のなか な多くの特性を發見すること、はおおいにありうることなのであには、日本人はやはりともに生活するには世界中で一番良い國民だ、 る。しかし他人にたいする友人の優しい配慮を、また自己をよく考ということが疑いもなく心に殘ってゆくのである。 えて抑える態度を、あなたが理解するためには、以上のようなこと 五 を知っておかなくてもよいのだ。幸輻な生きかたの祕訣が日本人の 間で十分に理解されているほどは、他の文明國民の間では十分理解 こういうことをかいていると、京都のある夜の想い出が心に浮ん

9. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

とは、眼がみえぬにただ一人で、あんなに遲い時刻に、危い。なぜのように。これほども多數の鬼火が人間の眼にあらわれたことは嘗 皆に默って出かけたのかな ? 寺男にお件をさせることもできたの てなかったのだ。 に。一體どこへ行ってきなさった ? 」 「芳一さん ! ・ : 芳一さん ! 」下男たちはどなった・・・・ー「だまさ 芳一はうやむやな返事をした。 れてるんですよ ! ・ : 芳一さん ! 」 「お許し下さい、和尚さま ! ちょっとした用事がありましたの しかし盲人の耳に聽こえているとはおもえなかった。力をこめて で、それに他の時刻では果せない用事でしたから。」 芳一は琵琶をかきならしては語っていた、いよいよ烈しく壇の浦合 和尚は驚いた、いや心配した、芳一の言葉少ない返事をきいて。 戦の段を語っていた。下男たちは芳一をつかまえたーー耳に口をあ この返事は變だと感じたし何だか怪しいと疑った。目のみえない靑 ててどなった 年が何か惡靈にたぶらかされているか、だまされているのだと心配 「芳一さん ! ・ : 芳一さん ! : すぐ一緒に寺へお歸りなさ した。それ以上何もきかなかったが、寺男に芳一の様子を見張って いるように、そして日がくれてから芳一が寺を出ることがあれば後 咎めるように芳一は下男へいった を追うようにと、内々言いつけておいた。 「このような邪厳立てをするとは、このやんごとなき方々のおん前 で、許しませぬぞ。」 まさにその翌晩、芳一が寺をでて行く姿がみられた、寺男たちは それをきいて、薄氣味わるいことではあったが、男衆たちは笑い すぐさま提灯に火をつけ後をおいかけた。その夜は雨がふっていて がおさえられなかった。たしかに芳一はたぶらかされていたのだ、 ひどく暗い。寺の者たちが道路まで出てゆかぬうちに芳一の姿はみ皆の者は芳一をつかまえ、立ちあがらせ、全力をつくして芳一を寺へ えなくなっていた。明らかに芳一はとても早く歩いていたのだ 急ぎつれ戻した , ーー寺では和尚の指圖ですぐさま芳一にぬれた衣服 眼のみえないことを考えれば、不思議なことだ、道路はとてもひど を脱がせて着かえさせ、飲食物をあたえた。それから和尚は芳一に、 くなっていたのだから。男たちは道路を駈け拔けた、芳一のよく出あきれた所業についてくわしく説明をしてほしいと強くせまった。 かける家を一軒一軒たずねながら。だが誰れ一人として芳一の消息 芳一は長い間口をきくのをためらっていた。だがやっと、自分の を傅えるものはいなかった。最後に、海岸をまわって寺へ歸ろうと したことがほんとうに親切な和尚をびつくりさせ、怒らぜているこ していたとき、寺男たちは琵琶の音に驚かされた、阿彌陀寺の墓地とを知って、沈默をやぶる氣になった。そして初めて侍が訪れたと で、激しい勢で彈奏されている琵琶に。點々とする鬼火のほかにはきからのいきさつを一切物語った。 暗い夜などいつも墓地に飛びかうあの鬼火だがーー・あたり一面 和尚はいったーーー 談 眞暗闇だった。だが下男たちはすぐさま墓地へいそいだ、するとそ 「芳一、氣の毒に、そなたは今とても危ない目にあっていなさる ! こに、提灯のあかりのおかげで、芳一をみつけたのだ、 ただ一 ほんとうに不幸なことだった、もっと早くこの事をわたしに話さな 人、雨にうたれ、安德天皇の墓石の前に、琵琶をかきならし、壇の かったとは ! そなたが琵琶の名手であるため世にも不思議な災難 浦の合戦の段を聲高く語っているのを。そして芳一のうしろに、まを身に招いているのですぞ。今となれば氣がついておられようが、 2 わりに、また墓のあたり一面に、死靈の火がもえていた、鑞燭の灯そなたはいかなる屋敷をも訪ねていたのではない、毎晩、墓地で、

10. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

の數年前、狐は東海道線に幻の列車を走らせ、そのため鉞道の技師 を混亂させおののかせなかったであろうか。しかしすべての鬼訷に ひとけ 惡性な狐がとりついた人間が示す狂態も變っている。ときには町 似て、狐は人氣のない所に出沒するほうが好きである。狐は夜分、 中を裸でどなりながら走る。ときには寢ころび、ロから泡をふき、 提灯の火に似た、得體のしれぬ鬼火を危險な場所にちらちらさせる 狐が鳴くような聲をだす。狐につかれた人の躰には、皮膚の下にぐ のが好きだ。兩手を特別な形に組合わせてダイアモンド型の隙間が りぐりができて動きまわる部分もある、そのぐりぐりは自から生 組んだ指の間にできるようにし、この隙間から火の方向に息をふ き、きまった佛敎の呪文をつぶやくと、どんなに遠方にあろうと鬼命をもつもののようにみえる。それを針でつきさすと、すぐよそに 火を識別できる。この狐の奸計から身を守るためには、このことを逃げてゆく。強い手でどんなにしつかりと握り抑えつけても、指の 下から逃げられてしまう。狐つきの人は、狐にとりつかれるまでは 知っておく必要がある。 しかし狐がそのいたずらの力を發揮するのは夜分とはかぎらな全然しらなかった言葉をしゃべったりかいたりするといわれてい る。彼らは狐の好物とされるものしかたべない、豆腐、油揚げ、 い、眞晝間、諸君が必ず殺されるところへいざなうことも、ある幻 豆飯など。彼らは大食であって、その人ではなくとりついた狐がが 像をつくりだし或いは地震を感じていると諸君に思わせて、おどか かたぎ つがったべるのだといわれている。 すこともできる、その結果、昔氣質の百姓は、とても怪しげなもの 狐にとりつかれた犧牲者が身内の者にひどいめにあわされること を何かみると、自分の眼が證明するものをなかなか信じようとしな がよくあるーーーひどい火焙りにされたり毆られたりする、こういう い。一八八八年の磐梯山の大噴火の最も面白いかっ貴重な證人 ようにすれば狐を追い出せると考えるのだ。それから法印すなわち この噴火は大火山をうちくだき、一一十七平方マイルの地域を荒度さ せ、森林を平地にし、河川の流れを變え、多數の村落を住民もろと山伏がよばれるーーーすなわち惡魔を拂う人だ。惡魔を拂う人は狐と 問答をする、狐はとりついた人のロをかりてものをいうのである。 も埋めてしまったーーはこの大異變を近くの山頂から、芝居をみて いるかのように平氣で眺めていた一人の老百姓であった。この老人人にとりつくという惡質なふるまいについて宗敎上の議論をいどま は眞黑い灰と蒸氣の柱が二萬フィートの高さまでまいのぼり、そのれて、答につまってしまうと、狐は豆腐やその他のたべ物を澤山も 極點で傘の形にひろがり太陽をかき消すのをみていた。それから風らう條件で離れてゆくことに、普通の場合には同意する、約束した 影呂のお湯よりも熱い變な雨が降ってくるのに氣づいた。そして天地たべ物は、特定の稻荷禪瓧ーーー狐がその眷屬と稱するところーーに の萬物が眞暗になった。足許の山が根底からゆれるのを感じたし、世すぐ持ってゆかれねばならない。人にとりつく狐は、誰の命令によ 界の破壞する音に似た雷鳴の響きをきいた。それでもこの老百姓ってとりついたにしても、普通には特定の稻荷の使いだと告白す る は、一切の異變がおわるまでじっと立っていた。こわがらないのる、ときには自から禪であると稱することもあるが。 れ 狐にとりつかれていた人間は、狐が離れてゆくとすぐ、氣を失っ らだ、と老百姓は覺悟していた。自分のみたりきいたりしたものは一 て倒れ、長い間うつ伏せになっている。一度狐にとりつかれた人は 切、狐の呪法によってつくりだされた幻だと思いこんでいたのだ。 tx 豆腐、油揚げ、小豆飯、その他狐の好物はどれも、二度とたべるこ 6 3 とはできないともいわれている。