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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

とのない日本人は誰でも、まず、理解しえないだろう。たとえ諸君理上の差異とはうつらない。ただパーシヴァル・ローウエル氏の心の ような、科學的に働く心のみがこの問題を直ちに了解しうるのであ が日本語辭典のなかの言葉を全部おぼえたにしても、その知識は、 諸君が日本語で話すときほんの少しでも相手に理解させることにはる。それほど才能をもたぬ外國人は、もし生來共感する能力をもっ ならないだろう、日本人のように思考することも覺えていなけれているなら、ただ喜びかっ當惑するのみ。そしてこの世界の反對側 でえた↑西洋 ) 幸輻な生活の體驗によって、彼を魅する社會環境 ば、ーーー換言すれば、逆に考えること、逆に、内と外とを反對に、 アーリア人種の習性とは全く縁のない方向で思考すること、であを説明しようとっとめるのである。内地の古風な町で半年か一年の 間幸輻にも生活しうると假定しよう。この生活の初めから、周圍の る。ヨーロツ。ハ言語の習得の經驗は、火星の住民の話す言葉を諸君 が學習する助けにならないのと同程度に、日本語學省の助けにはな人々が示す外見上の優しさ愛想のよさに必ずや感心することだろ らない。日本人が日本語を用うるように日本語を用いうるためにう。周圍の人と彼との關係においてだけでなく、土地の人相互の間 は、生れかわり自分の心を根底から段々とすっかり再構成する必要の關係においても、特定の關係の人々がいだきあう友情においての があろう。ヨーロッパ系の兩親をもち、日本に生れ、赤ん坊のときかみ味わってきたような愛想のよさ、如才なさ、善意をみることだろ らこの言葉を使いなれている人なら成長した後で本能的に働く知識う。すべての人が誰でも嬉しそうな顔で、樂しげな言葉で、挨拶す をもちうるだろう、この知識のみがその人の心的關係を日本の環境る。顏はいつもほほえんでいる。毎日の生活にみるごく平凡な事柄 でさえ、ごく自然に申分のない鄭重な言葉に言いかえられているの にも適應させうるのだ。現に日本生れの、プ一フックというイギリス 人がいる。彼の日本語の流暢さは、彼が専門の噺家として多額の收で、それが、何ら敎わることなく、心から直接生れてくるもののよ うにみえる。どんな境遇にあっても樂しげな外見は決して失われな 入をあげうるという事實によって證明されている。しかしこれは例 外の場合である : : : 文學的な日本語についていうなら、それに習熟い、どんな心配事が訪れようとーーー嵐や火事、大水や地震ーー - ・愛想 よい聲でひびく笑い、明るい笑いとしとやかなお辭儀、優しい見舞の するためには多數の漢字の知識よりも遙かに多くのものを要する、 ことだけを指摘すれば足りる。いかなる西洋人も眼の前にひろげら言葉、相手を喜ばせようとする心、とは生活をたえず美しくしてゆ く。宗敎はこの明るさに暗い影をもたらさない、佛や神の前で人々 れた文學書を一日で飜譯することはできないーー事實、日本人の學 さまざまなヨーロ は祈りながら微笑をうかべている、寺の境内は子供たちの遊び場で 者でこれのできる人の數はごく少數である ツ。ハ人がこの方面で示した研究はまさしくわれわれの讃辭をうるけある、大きな瓧の敷地のなかにはーーーこれは嚴肅な場所というよ りもお祭の場所であるーーー踊りの場がつくられている。家庭生活は れども、その仕事のうち一つとして日本人の援助がなかったら世界 どの家庭でも優しさを特徴としているようにみえる。あからさま に發表されえなかっただろう。 な口論、大聲で騷ぐこと、泣いたり責めたりすることはない。むご い仕打ちは、たとえ動物にたいしても、行われないように思える。 外見上變っているものが美にあふれているように、内面的に變っ お百姓が、町に來るとき、馬や牛のそばを默々と歩み、物いわぬ相 ているものも獨自の魅力をもっていると思えるーーすなわち國民の 一般生活のなかに反映している倫理的な魅力である。日常生活のも手が荷物を運ぶのを助け、笞も棒も使わないのをわれわれはみるの 3 である。荷車をひいている者は、この上なく腹立たしいときにも、 っ魅力的な形相は一般人の朖には、幾世紀という年月をへてきた心

2. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

しとするものについての、彼の説明を見よう。 0 有「日本人は死の淵にのぞんでも微笑でき、そしてふだんもそういう 微笑をうかべている。しかし日本人は、死の淵にのぞんで微笑する のと同じ理由から、死に臨む時以外にも微笑しているのだ。この微 笑のなかには反抗心もなければ僞善もないのだ。われわれが性格の 弱さと結びつけがちな笑いと、この微笑とを混同してはならない。 それは深い心から出た、長い年月をかけてつくりあげた作法なの だ。それは沈默の言葉でもある。」 このやうな、人間の表情と、本人も意識してゐないその思想とを 結びつけてハーンが解釋するとき、この少々センチメンタルな外國 人は、突然、日本を理解することによって人間存在の不可觸の本質 を手でんでみせる偉人に變化する。 モ一フェスは、ハーンの後に日本についての文章を發表した人であ るが、天才のハーンに較べて自分の書くものは劣ると心から言って ゐるところがある。 ハーンが亡くなったのは明治三十七年であるが、それからのち、 モ一フェスをはじめ多くの外國人作家が日本のことを書いた。だが、 ーンがここで「日本人の微笑」を扱ったやうな高さに到逹したの は、「藤野先生」を書いたときの魯迅のみであるかも知れない。 ーシーのやうな、日本の受け この戦爭を機會として、ジョン・ た原子爆彈の被害を、人類の問題として書く外國人作家が幾人も出 りハーシーの作品が圖找けてゐることは、 て來た。その中でやつば ここにその一斑を載せたのを見てもらっても分ることと思ふ。

3. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

壜であった 2 察する所これは講義の間々に元氣を附けるためであっ良性質を復活せしむることが、貴國の敎育家にとって眞のーー當分 たらう。高齡の根本氏は常に黑い色の、短い、しかし非常に重い鐵の内は恐らく唯一のーー任務であらう。ーー現今貴國の若い人逹 の笏を携へてゐたが、その用途は私には竟に一つの謎として殘っ の大多數が依って以て自己を飾り又少からずそれを誇となしてゐる た。彼を見る毎に、私はアラビアの童話によく出る魔術師を想起す所の、「近代文明」のきらきら光る似而非黄金は、彼等に能く似合 が、しかし彼等は何時かはそれに對して高い代價を拂 ることを禁じ得なかった。この三人の紳士の如き日本人こそ私にとはない、 私が日本語をふことになるかも知れないー っては日本的精訷と性格との眞の代表者である。 解しないために、私は獨り濱尾氏とのみ相語ることが出來た、さう して氏をば常に温雅なる、好意ある且つ高貴なる精の人として見 私の友人力ール・デュ・プレル (Carl du Prel) は常に日本を「禧 出した。他の二氏とは實際の會話こそは到底不可能であったけれど も、我々は殆ど毎日の様に敎員室に於て顔を合すところから、次第者住む島」 (makarön nésoi) と呼んでゐた 2 さうしてその晩年の手 次第に身振と目つきとを以てする一種の言語 ( それによって我々は紙の一つに於ても、彼はこの國に住むことの出來る私を幸輻だと言 って居る。私自身に關しては、既に述べた通り、私は日本に於て實 遂にはまあ何うにか互を了解することが出來た ) が出來上った、 又この仕方では全く意の通じない樣な場合には、已むを得ず私際幸語であった 2 「輻者住む島」と呼ぶのは、しかし、今日の日本を ヒ・ハーポレ の知れる少しばかりの切れ / 、な日本語が私を窮地から救ひ出した表示する語としては餘りに甚しき誇張である、さうしてそれを第一 デュ・プレルは彼の日本 のであった。 に嗤ふ者は日本人自らであらう。 是等の老紳士を見また彼等の近くに在ることは、 太平洋上の理想鄕ーーをば昔時の文人や族行家の報告によって造り 私には極めて愉快であった、蓋しそれは本物の人間に接して居る、 フォールネーメ 印ち誠實なる、高雅なる、立派に仕上の出來た、健全なる人格にし上げたのである。然るに此等の人々は當時なほ容易に外人の接近を エキゾーティッシコ・ゲハイム て又その本職に堪能なる士ーー敎養ある、彼等一流の敎育を受けた許さなかったこの國をば實際に知り得ずして、ただ異域の事物を不 一一スフォルレン る、否、學問ある、さうしてあらゆる虚飾や、あらゆる自負を超脱可思議に見せるところの魔幕を通じて彼の眼に映った通り せる、決して喜劇を演ぜざる又彼等が實際あった所のもの以外の何に、それを記述し且っ評價したまでである。ーー過去の日本人が果 者たらんとも欲しなかった所の人々ーーに接して居るといふ感じをして幸なる國民なりしや否やについては、此處では問ふことをす まい 2 尤も私は寧ろこの問に肯定的答を與へるに傾いて居るーーー兎 持ったからである。 に角今日の日本人よりも幸輻であったらうと思ふ、これは恰も私に 本 は總じて幾百年か以前の人の方が、中世のあらゆる「暗黑」と「野 日 キンドリヒカイト 日本人の本質の中には、子供らしさや、精禪的並に道義的健全や蠻」とにも拘らず、現代人よりも遙に幸輻にして又自由であったら の又自足〔る所のものを以て足れりとし、妄りに外なるものを追はざるの意〕の諸うと思はれるのと同じ事である。しかしながら日本人が生來地上的 性質が在る、がしかし今日の日本人に於ては、此等の諸性質は借り「輻祉」を齎すところの諸性質を具へてゐるといふことは慥である。 フニアケールトハイテン 來られたる様々の轉倒せるものによって、社會的並に精禪的生活の否、それは性質といふよりも寧ろ喞一つの自然的性質 ( それから 2 あらゆる領域を通じて窒息して居る。私の觀る所に從へば、此等の他の諸性質が結果する所の、さうしてそれ無くしては個々人並に國 シャク アウタルキー 工ヒテ ュートビア カッ アウフガーベ ツアウバーシュライアー ッ ンゴルド

4. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

事實は次の通り、私は完全に日本人の風俗習慣になじんでいて西 れうるような法則は嚴密にはつくりえない。これが眞相である。嚴 密に考えれば、われわれは現在のところ一定の對照物を一般的に研洋人の生活と縁がきれていたのだ、そこで私の友人の質問が、私に 究はできるが、これらの對照物をつくりだしている極めて複雜な原何だか風變りな態度を私がとっているのだとはじめて氣づかせてく 因を十分に説明する希望はもちえないのである。このような對照物れたのだった。このことはまた、二つの民族の間の相互理解のむず それぞれの民族は、 かしさを示すよい例證だと私には思えた、 の一つ、しかも特に興味あるものは、イギリス人と日本人とが示し 當然きわまることだが、ひどい間違いを犯しながら、相手の民族の ているものである。 イギリス人は物堅い人間だ、表面だけ物堅いのではなく民族性の風俗や行動の動機を自分自身のものによって評價しているのだ。日 根底にいたるまで物堅いーーこれが世間一般の考えである。日本人本人がイギリス人の堅苦しさに當惑しているのなら、イギリス人 は、表面も内心も、イギリス人ほど物堅くはない民族とくらべてみも、ごく控え目にいっても、等しく、日本人の輕々しい態度に當惑 こういっても兩方の考えはまず同しているのだ。日本人は外國人の「怒ったような顏」の話をする。 ても、あまり物堅くはない、 その笑いは 程度に正しいだろう。日本人はさほど物堅くないが、少くとも、そ外國人は日本人の微笑を強く非難して話題にする。 の度合に比例して、日本人は幸輻なのだ、そして日本人は文明世界不誠實さをあらわしているのだと疑っている、事實、あの笑は不 では今なお最も幸輻な人間の状態にある。われわれ西洋の物堅い人誠實さ以外の何ものもあらわさないと斷言するものもいるもっと 間はわれわれ自らを極めて幸輻だとはいえない。實際のところ、い深く觀察している者のうち少數の人があの微笑は研究に値いする謎 かにわれわれが物堅いかわれわれにはよくわかっていない。たえずなのだと氣がついているにすぎない。私の橫濱の友人の一人が 加わる産業生活の重壓のもとにあって、われわれがどれほど、さら實に愛すべき人で、その人生の半ば以上を東洋の開港都市ですごし 「君 、私が内陸地方へ出發する直前にいった、 に物堅くなりつつあるのか、もし知るなら、われわれはきっと恐ろている人だ しくなってしまうだろう。性格からみてイギリス人ほど物堅くないは日本人の生活を研究しようとしているのだから、私のために何か 國民のなかで長い間生活してはじめて、われわれ自身の氣質が一番發見してくれるだろう。私には日本人の微笑が到底理解できない。 よくわかるものだ。日本の内地で約三年間暮したあとで開港都市禪澤山ある實例のうち一つだけお話をしよう。ある日、私が山手から 戸に戻り、數日間イギリス人の生活をしたとき、このことがとても馬でおりてきていたとき、曲り角の反對側から、からの人力車が上 影強く筆者に確信されてきた。イギリス人の話す英語を再びきいたとってくるのをみつけた。だが衝突をさけうるように馬をとめられな のき筆者は到底信じられないほど感動させられた。しかしこの氣持はかっただろう、たとえ努力してもだ。で、私は馬を止めようとしな かった、特別に危險なことがあろうとは思えなかったからだ。その 日ほんの一瞬つづいただけだった。私の目的は二、三の必要品を買う ざことだった。私について來てくれたのは日本人の友人だった、この男に道の反對側にさけるようにと日本語でどなっただけだ。反對側 にさけるかわりに、この車夫は、車を曲り角の道の低くなった側に ら友人にとって外國人の生活は全く新しく感心するものばかりだっ 「外國人が全然笑ある塀に車を押しつけただけだった。車の轅を突きだしてだ。馬の た。そしてその人はこの奇妙な質問をした、 わないのはなぜでしようか。あなたは笑うし、物をいうときおじき進む速さから考えて、私にはさける餘裕がなかった、次の瞬間、そ 3 の人力車の轅の片方が馬の肩にあたっていた。車夫は全然怪我をし をなさる、だが他の外國人は全然笑わない。なぜなのでしよう ? 」

5. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

歐的敎養を擴めて日本の知的水準を向上させめ、日本の知識人がなめていた近代意識覺醒れてきた。日本語譯の全集・選集がでている 2 復る努力をした。そこに兩者の差がみられる。ハの苦惱にふれ、自我と人間性へ眼を開かれ、ことからもその親しみのほどが推察できる。 ーンは前者に屬しながら敎育に關係し、特に後の文學運動展開の準備をしたといえる。ハ日本には明治三十五年から四十二年までい 東京大學で明治二十八年から三十七年まで、 ーシーは第二次大戦終了直後の一九四六年にた。仙臺で醫學を學んでいたが、やめて東京 早稻田大學では僅かな間ながら英文學を講じ來て、廣島を訪れ、原爆の慘禍とそこにみらに出て文學の世界へ進んだ。醫學をえらんだ ているが、文學の鑑賞と批評の根本を當時のれるヒューマニズムの閃きとをとらえた。 のは父親の死という個人的事情が働いていた 日本の學生にもわかるよう、やさしくかっ適このようにみてくると、九人という數は不と思えるが母國の實状ち、日本でいえば明 確に説いた。この點ではプ一フンデンの受けい滿ではあるが、日本の各時代をそれぞれの人治維新前後のような近代化への鼓動が反映し れられる地盤を早くも用意していたことにながいかにみたのか、ある程度推測できることていたことも十分想像される。文學へ進む動 るが、文學を考える根本態度を啓蒙的に敎えになろう。 機として傳えられるものは、「藤野先生」の た點が、これら二人とちがうところである。 九人以外にイギリスのプローマーのようになかに描かれているところだが、魯迅自身が クローデルは明治三十一年に初めて日本を昭和初年に日本で講義するかたわら學生と一近代人の意識にめざめていったことが根本で 訪れているが、これはロティら三人のグルー絡に生活した經驗をもとに日本の風物、人情ある。そこにはヒューマニズムの力強い命が プと大體同じ雰圍氣をのぞいたことになる。を作品にした人、或いはべ一フスコ凸フングの流れている。このことが重要とおもえる。そ しかし東京に大使として赴任したのは大正後ように「お蝶夫人」をかいて幻想的なロマンの後の魯迅の作家としての活動、文敎關係を 半であり昭和に入るとすぐ離日した。クロー スの中に日本への夢を描いた人とそれに類似主にした政治行政面での活躍は、大正・昭和 デルは大使という公的任務をもちながら、すした作家たち、ベルツ、モース、フェノローサ期の日本の知識人にとっては強い共感を呼ぶ でに詩人としての地位を確立していた。クロなど明治維新前後の日本を麒察した人々、ラものであった。魯迅が日本に知人をもってい ーデルはハーン、ケーベル、プランデンらとイシャワー、キーン、サイデンスティッカーらたことだけが魯迅を日本人に親しませている ちがって、能、歌舞伎などの古典的様式美にのような戦後の日本文化・文學研究家、日本のではない。 うたれたり、皇居内濠のもっ傳統的な美を發に來なくても「源氏物語」の譯をのこしたイ魯迅の日本語譯が昭和七年に全集の形でで 見したりしている。これは高い水準におけるギリスのウェイリー、その他各國の日本文學ているし、つづいて岩波文庫に選集がある。 日本の傅統にひかれて詩心を養ったものだ研究家は多數いるわけである。これらの人々こういう事實は一つには、中國における革命 し、作品にも感化を示した。それがモラエすべての日本観とその理解表現を考えなけれの展開が日本人の關心をひいたこと、同時に ス、ロティ、、 ノーンとはちがう點である。 ばここに求める目的には完全とならないが、日本における左翼文學運動が昭和初年にかけ タゴール、魯迅、 ーシーはいずれも政治ともかく一斑を窺いえられることを期した。て強力に發展したという事實とも相應じてい 的背景が注目される。タゴールは東洋的理想 る。日本に魯迅が居たということが、これら 魯迅 を提示して、東洋人としての自覺を日本人に の事情に加わったのである。 促したし、魯迅は明治末の日本に滯在したた魯迅の名は日本の讀書界に早くから親しま魯迅は日本ではいろいろな讀みかたをされ

6. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

ことは出來ない、また日本在留の歐米人とは私は少しも合はない。 本人を愛してゐても、彼がその日本人の醜いところや狡猾なところ 6 和まで一つ一つ描いて、これ等の缺點があるにしてもなほ私は日本人かくて永久に私は日本に告別する。」 を好む、といふ風に書くとき、我々はそこに把握されてゐるのは、 明治・大正年代においては、西歐諸國の人が遠い海を越えて日本 に來ること、日本に定住すること自體が大きな事業であった。そこ 分解され、ばらばらになった日本人のカケフの寄せ集めに過ぎない には旅人として見て過ぎ去るところの輕い思考でなく、日本への關 ゃうな氣がして來る。 心と自分の生涯との重さを比較して、その何れが、どの點で重いか そして、そのやうな日本人の描き方はケーベルのみでなく、ロ を判斷するための人生麒を決定することが必要であった。 ティにおいても、その基本姿勢になってゐるものであり、以下モフ エス、クローデル、プ一フンデンからハーンに到るすべてのヨーロッ ケーベルは一九〇九年 ( 明治四十二年 ) にその學生齋藤の死を弔ふ 文を發表してゐる。この齋藤とは、高山樗牛の實弟なる齋藤信策の ・ハ系の文人の筆に見られる特色である。英語でものを書いたインド 人なるタゴールの書き方の中においても、それと同系の分析による ことである。樗牛高山林次郞は齋藤家の出で、去男であるが、その 弟に三男良太、四男信策、五男信平があった。齋藤家では揃って秀 把握が基調をなしてゐるかに感じられる。 我々日本人が讀者として、これ等の人々の筆になる日本の描出才が出たが、肺結核にかかりやすい體質のものが多く、樗牛その人 に、時として、他人らしさ、そらぞらしさ、先進國人らしい倨傲さは明治三十五年に三十一歳で死んだ。三男良太は第一高等學校に在 を感ずるのは當然だと私は思ふ。しかし、さういふ風に日本と日本學中に死んでゐる。その次の信策は吉野作造などと同期に仙臺の第 人を見ざるを得ないところの彼等外國人がまた、日本の中にゐなが 一一高等學校を經て東京大學に學んだ。大變な秀才で、また眞面目な ら、日本と自分との距離を深く感じてゐるのだ。たとへばケーベル學生であった。東京大學の獨文學科に學び、在學中から文藝評論を はそんなにまで愛してゐる日本から、年老いてから立ち去る理由を「帝國文學」等に發表し、強い理想主義で一貫した。その雅號を「野 の人」と言った。兄の死んだあと、彼は自分の生も將來が長いもの 欽のやうに述べてゐる。 「に於てか貴君は間うて言ふ、何故私は、日本及び日本人に對すでないと考へ、その勉強と仕事には超人的な努力をし、そのため一 る私の愛にも拘らず、僅かに數年を餘す晩年をば此地に過さずし層身體に負擔をかけた。大學を卒業してから、彼は大學院でケーベ ルのギリシャ文學の特別講義を聞き、プフトンの「シンポジウム」 て、歐羅巴へ歸らんと欲するのであるか。 ( 略 ) 私は、歐羅巴に於て 私が嘗て有した所のもの、さうして私の死ぬ前に尚ほ見て樂しみたや、ホメーロスの「イリアッドーを、たった一人の學生としてケー トイエル いと思ふところの、私に親愛なるものを再び見出さん事を望んで居ベルに習った。ほかに彼はピアノを習ひ、繪を愛し、すべての藝術 ラウテ メンシェンゲーグンデン の分野に手をのばさうとした。彼の評論が「太陽」に載るやうにな る。それは印ち人間や、地方や、形相や、響や、音を謂ふので ある。 ( 略 ) 私の願望が餘り基督敎的でないのは、それが非常に現世ると、樗牛を繼ぐ人は彼なりとして、世人は齋藤野の人を天才扱ひ 的なる心の徴證であり、又私の年齡にとっては全然ふさはしからざにした。小説家小栗風葉は明治四十一一年この人をモデルとして小説 フェアグングリツへ・ディング る、無常なる事物に對する愛著だからである。此等總ては私の承「天才」を「萬朝報」に連載した。間もなく彼はその明治四十一一年、 知せる所である、しかもそれにも拘らず私は歸歐の念に驅られてゐ三十一歳で死んだ。やつばり樗牛と同じく結核であった。 トリープ る、さうして私はこの衝動に從はうと思ふ。 ( 略 ) 私は日本人となる ケーベルはその晩年に、日本を去った。しかし彼と同じ時代に日 ルトリヒ フォールメン

7. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

6 さう容易には同じないであらう。 この内面的なる貴族主義に對私の學生等が羞かしげに俯目になった、あの實に感動せしむると同 する證據の一つは日本の國語である。聞く所によれば日本語には罵時に可笑しい姿をいつまでも忘れないであらう ! 獨逸語を話 詈の語が極めて少く、又凡そ我が ( 獨逸語の ) 「豕奴」 (SaukerI) とす私の弟子逹とゲーテの「コリントの花嫁」 (Braut von Korinth) か、「豕狷」 (Schweinigel) とか、「畜生」 (Vieh) とかいふ位の可を讀むといふ試は全然失敗に終った。ただ彼等の中の一人には竟に コーゼウエルター 成り無邪氣なーー・時によれば愛撫の語としてさへ用ゐ得る如き 光明が顯れた、さうして彼はこの詩の驚歎すべき美を了解し、そし 語よりも強い詞が無いといふことである。これは事實さうであるに てその猥らなる點をばもはや意とせざるに至った。 相違ない。私は此等の語を知って居る、そして日本語を能く話しま た母國語に於ては好んでまた手ひどく罵詈する如き歐洲人が、日本 語を話す時には唯此等の罪のない詞のみを用ゐるのを聽くのであ 尚ほこの外に私が日本に於て好む所のものは何であるかーー・それ る。また私の知れる日本人の中にも隨分外國語を能くし、さうしは例へばその服裝や部屋の飾付のささやかで優美なること、淸潔な て、もし罵詈したり又總じて粗野に且っ無作法に語る習慣と要求と ること、上品で單純なること及び趣味に富めること等である。無論 がその血管の中に流れてゐたならば、 ( 例へば最も野鄙なる語をもすべて純日本式で、歐風の分子は寸毫も混ぜられてはならぬ。最も 氣分を爽快にするものと做し、また正に耳の御馳走と做すところの美しい歐風の家具といへども之を日本風の室に置けば一種の醜き汚 露西亞人に於けるが如く ) 、屹度外國語に於ても罵詈したであらう點となる 2 それで日本服に幾分か似合ふ所の西洋のものと言へば、 と思はれる者が二三人あるが、彼等は一つもさうしない。ーーー飽く先づ小さい軟かな帽子位のものである。 日本人には一種の自然 グラチェ までも稱揚すべき日本人の性質、印ち彼等が決して淫猥の言を發し的なる優雅が具はって居る、さうしてこの美質は泰西の無趣味なる ないこと、否、あらはならざるも淫猥とも解釋し得る如き語は用ゐ近代的服裝によって阻害されてはならないものである。この生れな くるまや るを敢てしないこと、また總じて話が少しでも性的關係に觸れる時がらの優雅は車夫の走方に於てさへ認められる、さうして年若き者 は非常に遠慮深いといふこと、この事も亦私は彼等が生れながらにや、諸學校の生徒や、大學生などが、跳んだり、驅けったり、踊っ して有する、且っ育成せられたる、言語や擧止の上に現れたる上品 たり、泳いだり、又は唯靜かに道を歩くときーーその輕い、殆ど女 ツアールトハイト と端正とから説明するのである。 この點に於ける敏感 性的な、幾分「嬌態ある」歩き振りに於てーーーは尚更よく認めれら 殆ど過度の謹嚴とも謂ふべきーー・は、學生が、特に古代作家の講讀る。ーー・若い日本人にはアダムの著物に最も近いところの ( 日本 ) アンステーシヒ に際して、彼等に猥らなと思はれる句をば往々無雜作に飛ばして、 服が一番よく似合ふ 2 年の行った者には、普通の著物 ( 「羽織」と それが爲に原文の前後關係が斷ち切られること、及びこの「猥らな呼ばる又外衣なしの ) が能く似合ふ。それで私は、彼等がその優雅 る句」が時代の特徴を示すものであり且つ大なる美的價値を有すな綺麗な形の體をば歐風の馬鹿げた燕尾服とか、フロックコ 1 トと 私は、 るといふことを顧慮しないといふまでに至るのである。 か又靴ーーー彼等がそれを著ける術もまた小綺麗にして置くことさへ も解しない所のーー中に入れるといふこと、この事を以て一種の美 曾て私が講堂に於て、 alpha の繋辭的用法 (a-copulativum) 震っ例極〕 の一例を示すために、黒板に alochos 「衾者 〕といふ語を書き con ・的罪惡と呼びたい。このしとやかなる、優美なる、歩調の輕快な cumbo 〕及び concubina 〔によってそれを説明した時、る、その本來屬する周圍と服裝とに於ては潔癖とも謂ふべき人々 チンベルリヒカイト ミュッツェ ガング

8. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

4 ゐるといふことを充分感知してゐるからである。蓋し私の知れる日 なくなったのである。恐れらるべきものは既に侵入したのである。 本人は高い程度に於て鏡敏なる感じを有って居る。彼等は人の彼等泰西の侵入者等は、日本に於て思ふが儘に振舞ひ、殆どそれを彼等 に對して取る熊度を立所に看破する、さうして極めて鏡い且っ誤らの一州であるかの如く見做さうとし始めた。純粹の日本といふもの ざる眼を以て我等 ( 歐米人 ) を判斷評價する。 日本人には信をの消滅する日の來るのは、もう遠いことではあるまい。恐らくは何 置くことが出來ぬとか、彼等と單純に、純人間的に友人の如く交る處か田舍に於て、邊陲の島々に於て、百姓や漁夫の間には今猶ほそ ことは不可能であるとか言って、歐洲人の歎聲を洩らすのを聽く時、れ ( 生粹の日本 ) が存在して居ることであらう。都市に於てはしか シヴィリゼーション 私は笑を禁ずることが出來ない。否、更に甚しきは、日本の僕婢に 的〕が日本の し、今や全然價値なき西洋の「近代文明」文明を指す 對して不平を鳴らす者さへあるのである、 この種の人の中で最必伀気精禪的 〕をば殆ど食ひ盡した。私は到る處に歐羅巴や亞米利 も良き、最も敎へ易き、最も淸潔な、最も勤勉な、進んで事を爲す加の罪惡と愚昧の猿眞似を見る。然るに此等の罪惡や愚昧たる、實 念の最も盛んな、しかも最も慇懃な此等の人々に對して ! まは日本的及び總じて東洋的精訷には徹頭徹尾矛盾するものにして、 た假りに實際歐羅巴人等の言ふ如くであるとしても、その罪は日本また高級の眞 0 敎養ある日本人には嫌惡の情を催さしむるに相違な フリッシェ・ウールシュ・フリュング い所のものなのである。 人の方にはないであらう。純人間的に、表裏なき心を以て來るな 日本は愈よ益よその淸新な本原的な リヒカイトキンドリヒカイト ヴィルデ らば、日本人は充分よく我等と交ることがか。これ私が自らの所と、子供らしさと、一種愛すべき「野性」ーーーその殘餘は私の 經驗によって知れる所である 2 しかし我等 ( 西洋人 ) も亦自ら彼等渡來當時にはまだ認めることが出來た、そしてそれは私にとっては に對して純人間的態度を取らなければならない、然るにこれ必ずし極めて好ましい性質であったが とを失ひっゝある。 も常に歐米人の爲す所ではない。彼等は用のある時には、日本人に 媚びる、これを出來るだけ利用する、さうしてそれが濟めば、自分 逹にはもう關係のない、唯自分逹の利益若しくは慰に役立ったとこ 鉉に於てか貴君は言ふ。私の日本について語るところは恰も盲人 ろの一種の劣等なる者として、人種的高慢心を抱ける彼等は、何等の色を説くが如くである。私に知られてゐるのは精々私の學生と家 良心の苛責を感ずることなくして、彼等 ( 其等の日本人 ) を見棄て人位のもので、極めて小範圍に過ぎない。私は國内を旅行したこと るのである。 「黄禍」が泰西を脅威しつ曳あるとは歐羅巴に於もなければ、日本の家庭に出人したこともない、又その國語を て能く言はれた所である。が、これ實に一種の馬鹿氛たそして笑ふ何うにか用が足せるといふ程度に於てさへもーー學習することをも シャーデン べき空言に過ぎない。もし東洋が西洋の「害になる」ことがあると たとひ しなかった、と。ーー・此等總ては無論眞實に相違ない、 すれば、それは高々純物質的意味のもの、印ちその巨大なる人群に全然とは言へないにしても。それにも拘らず尚ほ私は敢て、自分は 由る侵害、ーー例へば蝗の群が耕地を害するが如き、 に止まる 日本人を知る、それも日本について著書を公にせし歐米人中の或者 であらう。然るに彼等の意味したるは全然別種の危險であった。し に劣らない、と主張する。一體我等の知り且っ理解するところの一 かしながら之に反して若し日本に於て「白禍」否むしろ「赤禍」が切は、是非とも自ら目睹し經驗したものでなければならないだらう 説かれ始めたとしたならば、それは決して馬鹿氣てもゐないし、又か。それが果して必要であったならば、一切の史述と詩歌とは何處 笑ふべきでもないであらう。實を言へばこの危險はもはや危險ではに存在の餘地を見出し得よう ? 日本に於ける自身の經驗から得た

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かない。しかしだからと言って、ロティが描いたやうな日本が存在しての見榮や評價や、愛着や嫌惡に結びついたものとして讀まれて しなくなった譯ではない。それと同じ卑陋さ、人間性無視、外國人ゐるのである。 へのへつらひ、おべつかの類が、日本人の中に存在してゐる。むし だが終極的に言ふと、そのやうな日本人としての見られる自己を ろロティのやうに、づけづけと書いたのを讀むとき、事實に直面さ知るための讀み方が、そのまま文藝作品を讀む正しい態度であると せられるときの殘忍な喜びを感ずることがある。 言ふことはできない。それは單に、我々が避けることのできない、 このやうなプフンデンよりも、もっと日本の文化に高い評價を與やむを得ない民族的な讀み方なのである。 へてゐるのは、インドの詩人タゴールである。ここに取られたの そのやうな避けがたい讀み方と違ふところに、もう一度我々は、 は、彼の日本についてのスピーチや感想であるから、自然にそれ等 これ等外國人作家の作品を讀み味ふ道を見出さねばならない。さう なるとやつばりラフカディオ・ハ は禮節の中での發言であった。しかしタゴールにとっては、非ヨー ーンの作品が大きく我々の目に見 ロツ。ハ的な東洋民族の日本が優秀な民族である證據がほしかったのえはじめる。その「怪談」の中の「耳なし芳一」の話などは、彼の だ。彼の日本人稱讃は東洋民族の仲間としてのエゴイズムがあるに物語作家として、またフェアリー・テールの語り手としての才能か しても、鋭く、デリケートで、適確なところが多く、この人の驚く ら生れた見事な傑作である。 ーンのこれ等の日本物語は、それそれより處があるらしいが、 べき聰明さを示してゐる。我々が日本人として、かすかに理解して ゐる我々の自然な心の働きの中にある直感的な判斷の動きなどを、 ーンは意識してか無意識にか、それを原型と違ったものとしてま この人は、その深部から、一瞬のうちに見拔いて引き出して見せとめ上げてゐる。「雪おんな」のやうなのは原型とあまり違はない であらうが、「ろくろ首」や「靑柳ものがたり」のやうなものは、 そして彼はその見拔いた日本人の特色から、好ましからざるもの 物語が讀者を納得させるものとなるやうにハーンの加筆の行はれて を總て捨て去り、圓滿、完全なところまで日本人を高く持ち上げずゐるのが分る。日本のこの種の物語には、いつも、はかない尻切れ にゐることができないのである。 とんぼの感じがある。それにハーンは手を加えて、物語を讀む人の 心の中で反響し、效果が集中するやうな、用心深いまとめ方をして その指差し、稱讃するところはたしかに根據があるけれども、私 ゐる。それがハーンの再話手法による物語群の魅力である。 個人としては、その完璧主義とでも言ふべき日本賞讃の仕方に、あ る種の苛立たしさを覺えずにゐられない。 ハーンの才能は單に物語の探集と補筆に限らない。彼の著作に そして、ピエール・ロティが、フフンス語を解するヨーロツ。ハ人は、日本と日本人の特色の解説として「知られざる日本の面影」と 説しか讀まないと信じて書いた「お菊さん」の中の長崎の俥夫や役人いふ、最もすぐれた仕事があり、更に、その東京大學で行った文學講 解や淫賣の周旋人などの描寫の中に、より強く日本の質が躍動してゐ義の記録である「人生と文學」のやうな、見事な文學概論がある。 彼は日本の民族藝術としての傅説に生命を與へたばかりでなく、日 作るかのやうに感じるのである。 この奇妙な露惡と、サジスティックな、不當なほどの日本に對し本を概念として理解し、また文學そのものの解説においても一流の ての率直さが眞實といふものの味につながるのは奇妙なことだ。そ仕事をしてゐる。 たとへば、所謂「日本人の微笑」といふ世界各國人が理解しがた れだけ日本人にとって、これ等外國人文士の書いたものは、國民と

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大學では初めて敎え、學生とギリシャ古典をて、文藝批評に知的・論理的な性格を與えて性と結婚することもせず、或いは日本各地を いた。そのハルトマンの推薦というのも面白族行したり、庶民の生活のなかに傅統的な味 よんでいる。 ロシアの國籍ではあったがもともと父はドいめぐり合わせである。ケーベルがハルトマわいを求めることもしなかった。大學との契 自分に親愛なるもの印 ィッ系、母はロシア人とスウェーデン人の血ン哲學の背景と特徴を論じたのが縁で、「ハ約が切れたとき、 の混ったドイツ系であり、ケーベル自身ドイルトマンの哲學體系」を著すこととなり、二ちヨーロツ。ハの人、土地、姿、響や音を懷し んで歸國したい、たとえ再び日本に來ること ッ的意識を強くもっていた。二十四歳のとき人の親交が生れたのである。 ケーベルは音樂から自然科學を志してドイがあっても一つの訪問にすぎまい、自分は日 モスコーの高等音樂學校を優等で卒業して、 ドイツ、カールスルーエの音樂學校でピアノ、ツに行き、更に自然科學をあきらめてイエー本人にはなれない、日本在住の西洋人には親 和聲などを敎えたこともある。この經歴からナ大學、ハイデルベルヒ大學で哲學を専攻ししめない、と記している。日本人には精禪的 ー。ヘンハウアーを學位論文とした。後ミ紐帶で結びつけられていると確信していたが 日本でも上野の音樂學校で三十一年から十一一ショ 年間にわたりピアノと音樂史を敎えている。 ュンヘンで研究中に日本に來ることになったそこには感情の結びつきはなかった。しかし 哲學とならんで音樂においても大きな功績をこの經歴からわかるようにケーベル哲學は第一次大戦のため歸國できなくなり、知人横 のこしたわけである。ケーベルといえば哲學ドイツ念論の系統に屬するもの。明治維新濱のロシア領事の官邸の一室にとじこもって という風に考えられやすいが、その活動は文後ミル、べンサム、スペンサーとイギリス流讀書と著述に從って生涯をおえた。ひろく 學、音樂にもわたっていたのであり、從っての經驗哲學や進化論哲學が受けいれられてい日本人と接することは求めなかった人であ 哲學の講義も無味乾燥な知識のつめこみではた後に、これを轉回し日本にその後確固としる。 なく、自己に部して考えるという人間的な幅た勢力を占めるドイツ派觀念哲學を確立したケーベルが日本と日本人について小品集そ の廣いものであったため、日本の哲學を確立のであった。その門下には、西田幾多郎以下の他で記しているところは鏡利な目でみた觀 しうることになった。 の哲學者と夏目漱石、上田敏らの文學者もい察であった。小品集として迚載されたものを 父親はロシア皇帝の顧間官であったし、祖る。この弟子たちの活躍がドイツ派の全盛をよんでケーベルの米知の側面を理解したとい 母も皇后の敎育掛をしていたと言われる名門きたし、日本の知識人のもっ特質的性格、卩 う日本人の批評に對して、ケーベルは、自分 に生れたため、ケーベルは貴族的な敎養と品ち觀念的な思辨的な、また現實を離れて理想は從來とも常に自己の所見をはっきり述べて 格をそなえていた。この家門と性格とはケーを求めがちな性格を生んでいる。その意味できたといい、今まで自由に交った學生や友人 ベルの講義にも反映していた。 は哲學界のみの間題ではなく大正期に限らずはもっとよく私を識っているべきはずだ、と ケーベルが日本に來たのはエドユアルト・ 知識人と稱される人々の思想とそれによる日も言っている。そして、さらに日本の學生は フォン・ハルトマンの推薦とすすめによるも本文化の展開を考える上にケーベルは重要な重要な語ですら特に強調したり、際立った發 音でもしなければ聽きおとす、それ故自分を のであった。ハルトマンは當時ヨーロッパを役割を演じたことになる。 風靡していた哲學者であったし、日本にとっケーベルは知的貴族らしく、二十四年餘り知っていないのは當然である、と言ってい ては特に森鸛外が文學活動のよりどころとしの滯在にもかかわらす、獨身で過して日本女る。これは日本の知識人が事物の本質を提え