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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

( 新潮就大正三 ) 7 末雄譯「鄕愁」 最近魯迅闢係研究論文目録「魯迅研究」 ( 一號 ) ( 魯迅研究會昭和二八・こ野上豐一郞譯「お菊さん」 外國人文學集參考文獻 ( 新調社大正四、のち岩波文庫に收録昭和四・五 ) 周遐壽 ( 松枝茂夫・今村與志雄譯 ) 「魯迅の故家」 ( 筑摩書房昭和三 0 ・三 ) 吉江孤雁譯「氷島の漁夫」 ( 附埃及行 ) ( 博文館大正五、のち吉江喬松 魯込研究文獻目録「文學」二十四卷十號 譯・岩波文庫に收録昭和四 ) ( 魯迅研究會昭和三 0 ・一 0 ) 魯迅 ( 新潮瓧「現代 和田傳譯「フマンチ . ョオ」 ( 翻譯 ) 一フファエル・フォン・ケーベル 佛蘭西文藝叢書」 3 大正一三、のち新 庄嘉章譯岩波文庫に收録昭和三 0 ) 井上紅梅譯「魯迅全集」 ( 改造瓧昭和七こ一 ) ( 翻譯 ) ( 近代就「世 宮島新三郞譯「老夫婦の牧歌」 佐藤春夫・增田渉譯「魯迅選集」 界短篇小説大系」佛西篇下大正一四 ) ( 岩波文庫昭和一 0 ・六 ) 久保勉・深田康算譯「ケーベル博士小品集」 ( 岩波書店大正八・六 ) 吉江喬松譯「名もない國」他三篇 茅盾・許景宋・胡風・内山完造・佐藤春夫「大魯 ( 新潮瓧「世界文學全集」昭和四 ) ( 改造瓧昭和一一 ・二ー七 ) 久保勉譯「ケーベル博士續小品集」 迅全集」 ( 全七册 ) ( 岩波書店大正一二 ・一 ) 岡野馨譯「水夫」 ( 春陽堂「世界名作文庫」昭和 增田渉・松枝茂夫譯「魯迅作品集」 ( 全二册 ) 和佛協會譯「學及中古哲學研究の必要」 八・、のち創藝瓧「近代文庫」に收録昭和二八 ) ( 東西出版社昭和二二・七 ) ( 和佛協會大正一三・九 ) 津田穰譯「ロティの結婚」 ( 岩波文庫昭和一二、 竹内好編譯「魯迅評論集」 ( 岩波新書昭和二八・二 ) 久保勉譯「ケーベル博士續々小品集」 のち世界文學社「世界文學叢書」 4 に收録昭和二 0 ) 竹内好譯「魯迅作品集」 ( 筑摩書房昭和二八・五 ) ( 白水社昭和一 ll) ( 岩波書店大正一三・九 ) 落合孝幸譯「ロティの日記」 小田嶽夫他譯「魯迅選集」 ( 全五册 ) 安倍能成編・久保勉譯「ケーベル博士隨筆集」 渡邊一夫譯「アフリカ騎兵」 ( 白水社昭和一三、 ( 亠円木書店〈文庫〉昭和二八・一〇ー二九・一こ ( 岩波書店昭和三・四 ) のち岩波文庫に收録昭和二七 ) 金子一一郞譯「魯迅雜感選集」 久保勉・深田康算譯「一フファエル・ケーベル集」岡田眞吉譯「スタムプウルの春」 ( ハト書房昭和二八・一 0 ) ( 改造瓧「現代日本文學全集」前昭和六・一 ll) ( 白水社昭和一四 ) 竹内好譯「續魯迅作品集」 久保勉譯「隨筆集」抄 ( 白水瓧昭和一四 ) 大塚幸男譯「靑春」 ( 筑攣書房昭和三 0 ・七 ) ( 筑摩書房「明治文學全集」的昭和四三・四 ) 岡田眞吉譯「東洋の幻」 ( 「スレイマ」を含む ) 竹内好他譯「魯迅選集」 ( 全一三卷 ) ( 白水社昭和一五 ) ( 岩波書店昭和三一・五ー三一・ ( 研究書 ) 井出正男譯「トトさんとカカさんの唄」 ( 富山房 久保勉「ケーベル博士略傳」 「冨山房百科文庫」フランス短蠶小説集 2 昭和一五 ) ( 研究書 ) ( 思想 ( ケーベル先生追悼號〉大正一二・八 ) 佐藤輝夫「アンコール詣で」 ( 筑書房昭和一六 小田嶽夫「魯迅傅」 三枝博音「日本に於ける哲學的觀念論の發達史」 ( 白水社昭和一六 ) ( 日本評論瓧昭和一九・一一 I) 竹内好「魯迅」 ( 世界書院昭和二一一・七 ) 村上菊一郞・吉永淸譯「秋の日本」 ( 靑磁社昭和一 獻太宰治「惜別ー學生の頃の魯迅ー」 和辻哲郞「ケーベル先生」 七、のち角川文庫に收録昭和二八 ) ( 朝日新聞社昭和二〇・九 ) ( アテネ文庫昭和二三・五 ) ( 岩波文庫昭和一一八 ) 津田穣譯「少年の物語」 參鹿地亘「魯込評傅」 ( 養德瓧昭和二六・四 ) 姉崎嘲風「わが生涯」 ( 岩波文庫昭和二七 ) 佐藤輝夫譯「東洋の幻影」 ( 日本民主主義文化連盟昭和二三・四 ) 久保勉「ケーベル先生とともに」 ( 岩波文庫昭和二七 ) 佐藤輝夫譯「アヂィアデ」 文竹内好「魯迅」 ( 世界評論社昭和二三・一 0 ) ( 岩波書店昭和二六・七 ) 大井征譯「お梅が三度目の春」 人中日文化研究所編「魯迅研究」 中桐大有「ケーベル博士とその弟子たち」他 ( 白水瓧昭和二七 ) 外 ( 八雲書店昭和二三・一 0 ) C ハイディアハケーベル博士記念號〉昭和三八・一一 l) 大塚幸男譯「死と憐れみの書」 增田渉「魯迅の印象」 ( 講談瓧昭和二三・ ( 白水瓧昭和二七 ) ピエール・ロティ 竹内好「魯迅雜記」 ( 世界評論社昭和二四・六 ) ( 翻譯 ) 馮雪峰 ( 鹿地亘・呉七郞譯 ) 「魯迅回想」 ( 研究書 ) ( ハト書房昭和一一八・六 ) 飯田旗軒譯「おかめ八目」 ( 春陽堂明治二八 )

2. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

全くうれしくなってしまった。私は後になって、百姓は金がたまる この英語研究の私の小さい覿察をまとめるに當り、私は英國作 から猛烈に働くとか、作物の不完全な收穫や貯藏のためこの組織が家、または著名な英書の、一般日本の讀者に與えた種々の影響を調 ぼろを出したとか、そのほかいろいろな批評が耳に入るのであっ査することに重點をおこうとはしなかった。それは個別的の研究と た。けれども私が日本へかえってきた時、日本の農場からえた最初なることであろうし、また實際そうなっていたと考える。一八七〇 の観察が作り出した印象は、遂に變らなかった。市場や店頭にかざ年以降のその題目を研究するものは、これに關係している著者や書 られている農産物を見ると、大體において的はずれではないように籍のうちのあるものが、敎育一般以上に果して效力があったかどう 思われる。 かを決定することを必要とするであろう。たとえば、スマイルスの 私の祖父、つまり私の父の父は農業を理解していた。彼自らは耕「自助論」が日本語に譯された時 ( 一八七一年 ) 、學園以外において も、相當人心に訴えたにちがいないのだ。ハー 夫でも脱穀者でもないし、また生垣を刈り込んだり、溝を掘ったり 、 1 ト・スペンサ 1 するわけでもなかったが、このような生活も、またそのほかの農業の手記に述べられているように、彼の本が日本で流行したというこ 從事者の生活もできた人であった。それは彼はこのような人々の努とは注目に値することである。そしてこのような流行というもの 力の結果を見てやることができたからだ。彼はすべての人がそれぞは、時代の生きた哲學を知ろうとのみ念願している成年の讀者の間 れ所を得、また正しい心境に入れるようにすることができた。だが の事であったに相違ないのだ。 祖父はこれによって富は作らなかったらしいが、よい農場を作った そこで私は近代のものの例を多くかかげ、また「あらゆる時代」 のである。さて農業日本をかけ廻る時、祖父が同行していてくれた に通用する實例として沙翁をわずらわして話をすすめたいと思う。 らと私はしみじみ思うのである。多分祖父は、よく視察してくれた けれども全體として問題は未解決になっていることだし、書物にも ろう。 談話にも常に新しく問題がわいてくるということを私は思い出して いた。それが何處に落ちつくかということは、多くこのような問題 英語研究Ⅱ逆説 を日本人が扱う時の意見によるものだ。つまり、日本における英語 研究の證左は日本の生活の學究的方面のみに限って適用できるもの であろう。 私は日本に到着すると程なく、「日本における英語研究史」とい う大きな題をかかげて「東京アジャ協會」で講演する榮譽に浴し そこで私は、私の記憶にしたがい最善をつくして、英國並びにそ た。私としては豐田博士 ( 靑山學院大學 ) や齋藤博士 ( 東京女子大この古い大學に多くの情熱をささげている若い秀才の日本の學者 學 ) のような學者が蒐集された資料のうちのあるものを選び、ある が、私の書齋で、最近この問題につき私に物語ってくれたところを 路 遍整理を試みる程度のことしか出來ぬと申し上げておいた。しかる解説してみたい。「恐らくは、ラフカデオ・ハ 1 ンのような時代に、 に、このようなものの梗概をまとめるだけでも、前にやった事から英文學は日本における趣味の人の讀みものの一部をなしてはいた 分ったことであるが、並大抵のことではないことに氣づいたのであが、これはだんだんに變ってきた。ロシャ並びにフ一フンスの作家は 幻る。プリントのままになっている關係著作の目録ーー原版、飜譯その好むところであった。日本の知識人にはこの二つのものは受け 2 版、文學史等ーー・は、ゆうに一册の單行本にもなるであろう。 入れられた。けれども英文學は『學校で研究するもの』であったの

3. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

val of conscrence," "American Moderns," 1958. 6 イ Bu 「 ton, Arthur. "Existential conceptions in John Hersey ・ s NoveI, "The Child Buyer. 、 0 ミ 7 ミ I Q 、・ト ~ ・ ste ミこ I 、受 ch ミ 05 い 2 (Fall, 1961 ) McDonnell, T. P. 'Hersey's Alleg01 ・ ical No ・ イ e 二 C ミ h ミ Wo ミ、 45 ( 196 ド 7 ) Sanders, David. "John Hersey. ご 1967. 小泉八雲 ( 翻譯 ) 今東光譯「文學入門」 ( 金星堂大正一四・一一、 ( 研究書 ) のち町野靜雄譯で金星堂から刊行昭和一一 ・六 ) 「小泉八雲記念號」 ( 帝國交學明治三七・一一 ) 十一谷義三郞・三宅幾三郞譯「東西文學評論」 ( ア 「小泉八雲記念號」 ( 水鄕 4 輯大正一五・二 ) ハート・モーデル編 ) ( 聚芳閣大正一五・ 野口米次郞「小泉八雲」 ( 第一書房大正一五・七 ) 五、のち岩波文庫に收録昭和二五 ) 「小泰八雲特集號」 ( 文藝研究昭和三・九 ) 戸川明三譯「國日本」 ( 第一書房昭和七・一一 ) 「學生版小泉八雲全集」豫約募集主旨書 ( 岩波文庫昭和一五・五 ) 平井呈一譯「怪談」 ( 第一書房昭和五・一 0 ) ( 岩波文庫昭和一五 ) 平井呈一譯「骨董」 「學生版小泉八雲全集」月報一ー一七 田代三千稔譯「日本の面影」 ( 愛宕書房昭和一八、 ( 第一書房昭和五・一 0 ー七 ) のち三笠書房から刊行昭和二五 ) 小泉一雄「父八雲を憶ふ」 ( 警醒瓧昭和六・六 ) ( 興風館昭和二一・一 0 ) 田部隆次譯「文學論」 市河三喜・北村恒夫「小泉八雲書誌」一ー一七 田部隆次譯「續文學論」 ( 興風館昭和二一・ ( 研究社昭和八・三ー一 0 ・一 l) 田部隆次譯「日本の女、怪談」 丸山學「小泉八雲新考」 ( 日本瓧昭和二一 I) ( 北星堂昭和一一・ 田部隆次・大谷正信譯「草ひばり」 年月女子大學近代文學研究室編「近代文學研究双 ( 同研究室昭和三二・ ( 文藝春秋社昭和二三 ) 書」 7 光吉夏彌譯「ちんちん小誇」 「ハーン特集號」 ( 研究瓧英語靑年昭和四一・ ll) 昭和二四、のち三十書房から刊行昭和二五 ) BisIand, EIizabeth. ま L 一ま and letters 0 「 Lafca ・ 小泉一雄譯「點滴」 ( 北星堂昭和二五 ) dio Hearn, 2V. New イ ork. 1906. 平井呈一譯「心」 ( 岩波文庫昭和二六 ) Perkins, P. D. and Qona. "Lafcadio llearn: a 平井呈一譯「東の國から」 ( 上・下 ) ー新しい日本にお bibliography 「 of his writings." 1934. ける幻想と研究ー ( 岩波文庫昭和二七・五 ) McWilliams, Veras. "Lafcadio Hearn. は lhston, 1946. 田部隆次他譯「小泉八雲全集」 ( 豪華版・全一八卷 ) M01deII, Albert. "A discovery early YIearn ( 第一書房大正一五・七ー昭和三・一、のち普通 essa} 「 s. TO 0 、トミ 1. 1959. 版〉昭和四ー五〉學生版〈昭和五ー七・三、家庭版 St(A 「 enson, EIizabeth. "Lafcadio Hearn." New 〈全一二册、昭和一一・ イ or デ】 961. 田部隆次他譯「小泉八雲集」 ( 上・下 ) ( 中央公論瓧 ( 新潮文庫昭和二五 ) 太田一二郎譯「ハーン文學論集」三卷 ) ( 市民文庫昭和二八 ) 太田三郞譯「ハーン文學論集」 ( 河出文庫昭和二九 ) 平井呈一譯「小泉八雲作品集」 ( 筑摩書房昭和二九 ) 平井呈一譯「小泉八雲全集」 ( 未完結 ) ( みすず書房昭和二九・一〇ー三〇・一 ) 平井呈一譯「小泉八雲全集」 ( 一二卷 ) ( 恒文社昭和三九・六ー四二・三 ) 編集濱崎浩子

4. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

レアなどを思わせるような田園詩人として出一九二三年 ""Christ ・ sHospital:ARetrospect" 發する。 を刊行。 一九一六年、ジーグフリード・サスーンに初一九二四年の春、東京帝國大學の英文學敎師 期の詩を集めて自費出版した詩集 "The har- として招かれ、始めて日本に來る。以後、一 bingers" を送る。それによってサスーンに九二七年に日本を去るまで、敎鞭をとる一 認められ、以後二人は親しく交友することに方、一九二六年から季刊となった「英文學研 なる。 究」には毎號長い研究論文を發表、また、新 一八九六年 ( 明治一一 + 九年 ) 十一月一日、ロンド 一九一八年、マリー・デーヴィスと結婚、郊刊書評も盛んに發表し、これは歸英後もつづ ン市トテナムコ 1 ト・ロードの西に生れた。外のボアズ・ヒルに住む。プリッジェズ、メけられた。これにより日本における英文學研 のち、父の轉任によりケント州ヨールディンイスフィールド、グレイヴズ、ニコルズなど究者に大きな刺激を與えた。彼の東京大學 グに移り、幼少時代をここで過す。彼の思想と交わる。 での講義の一部は、 "Lectures in EngIish 的背景にはこの田園生活がある。ついでヨー 一九一九年、大戦の終結後、除隊。オックス Romantics は ( 一九二七年、弘道館 ) "Reprinted ルディングのクリーヴス・グラマースクールフォード大學に戻る。 Papers" ( 一九五〇年、研究社 ) などからうかがえ に入學。さらにロンドンのクライスツ・ホス一九二〇年、大學を去り、「アスナウム」紙る。彼の講義は、物靜かで誇張がなく、含蓄 ピタル校に進學。この學校は古い傳統を誇りの副編集長となる。 "The Waggoner and に富む表現のものであったという。しかも講 とし、コウルリッジ、ラム、リー・ ハントな Other Poems" を發表。 "John Clare 【 Po- 義の中には、彼自身鑑賞力の秀れた詩人とし どを先輩としてもっていた。プランデンは成 emsChieflyfromManuscript"( 在學中に發見したての見方が示されて、聽講者に深い感動を與 績優秀で、ギリシャ語、一フテン語の詩で賞をクレアの未發表原稿に、長い評論をつけたもの ) を刊行。えた。まだ日本には紹介されていない作家や もらっている。また、古典語の作品やフランこれにより英文學研究家としてもかなり廣く作品も紹介している。メルヴィルの『白鯨』 ス語の作品の英譯も試みている。 認められる。また、その後クレアの評價が高を始めて紹介したのもプ一フンデンと思われ 年一九一三年、オックスフォード大學のクウィ まったのも、プ一フンデンに負うところが大きる。また、「英文學研究」に寄稿した論文の い。 ーンズ・カレッジの人學許可を受ける。 中には、リー・ ハント編の "The LiberaI, 一九一四年、第一次世界大戰が勃發すると志 一九一一一年、戦爭後からすぐれなかった健康 London Journal" および "The lndicator" ま 願して軍除に入る。中尉に找擢され、フランを回復するため南米に行く。この結果、第一た、キーツなどの名作が載った "The Annals ン ス北部の最前線に送られる。この戦いで戦功の散文の本 "The Benadventure 【 A Rando of the Fine Arts, The Monthly Chronicle" マ 十字章を受ける。この戦場での經驗は彼に非 m Journal 。 ( an atlantic HoIiday" ( 一九一三などに關する研究など、プランデンによって 工 常な衝撃を與えたが、初めはまるで戦爭の悲年刊行 ) が出來る。 始めてなされた研究もあり、プランデン研究 痛を忘れようとするかのように母國の自然に一九二一一年、詩集 "The Shepherd" を刊行。のための資料としても重要である。 親しみ、ジェームズ・トムソン、ジョン・クこれによりホーソーンデン賞を受ける。 一九二七年、六月、任期を終えて、東北大學 工 ドマンド・プランデ . ン (Edmund Blumden)

5. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

ン・ラボックの着想が惡かったのでこういう結果になったのではなるような戲曲の傑作は最高級の文學に屬すると考えられねばならな い。極めて多數、しかも様々な性格をもっている人々に、一定の讀い。しかしこういうものと考えられている本が何册あるだろうか。 書のしかたを決めることはできないからなのだ。サー・ジョン・ラ それほど數は多くない。最良の書は、ダイヤモンドと同様、數多く ポックは自分に最も訴えてくる書籍について自分の意見をのべただ發見されることは決してあるまい。 けのことだ。彼以外の文藝家がちがった表をつくっていることだろ 私が以上にあえて申しのべたような一般的な特長のほかに、若十 う。二人の文藝家が全く同じ表をつくっていることはあるまい。立の優良書、すなわち、學生が良い版を手に人れて一生讀んでいたい 派な書物の選擇はどんな事情があろうとも個人個人別個のものであと望むといったような書物についても少し論ずることができよう。 るべきだ。ひとことで言えば、諸君の心中の光りに従って、諸君自 こういう本が澤山あるわけではない。ヨーロツ・ハの學生には、ギリ 身のカで選揶しなければならない。多種多様な文學に自分たちの最 シャの作家の名前を澤山あげるのが必要であろう。しかし古典語の 高の注意を拂いたいような心を抱いてくるほど多才な人は殆んどい研究をしていなければ、こういうギリシャの作家はこの日本の學生 ないものだ。 一般の場合には、小範圍の間題にーーー自己の生第のム月 ー、ヒヒ諸君にはずっと價値が低からざるをえないであろう。その上、ギリ 力や性癖に一番よく合致する問題、自分の心を喜ばす問題にーー自 シャの生活とギリシャの文明について相當の知識をもっことがこう 分の關心を限定するほうがよい。われわれの個人の性格や性質を充いう作家の賞を刺激するのに必要である。こういう知識は彫刻、 分よく知り、それと同感するのでなければ、われわれの才能の所在貨幤、繪畫、塑像ーーすなわち、過去に存在していたものを想像力 をわれわれに代って決定できるものはいないのだ。しかし、一つだ によって理解できる力を與えるあの藝術作品を通じて、一番よくえ けは容易にできる , ーーすなわち、先ず文學上のどういう問題が今ま られるのである。しかも古典研究のうち美術方面は、繪畫やその他 でに諸君に樂しみを與えているかを決定すること、第二に、その間 の資料の不足のため、日本ではまず不可能である。そこで私はこの 題につい・て著述された最良の書は何かを決定すること、それから同 部鬥に屬する立派な書物についてはほとんどふれないことにしょ じ題目をとりあっかっていると稱するが大批評家や廣汎な肚論には う。しかし、ヨーロツ。ハ文學の根底は全く古典研究にある故、學生 いまだ承認されていないような、短命既っ愚劣な本を除外して、最諸君はギリシャ神話と、ギリシャの文學や劇の傑作に精紳をふきこ 上の書を研究すること、である。 んだ傳統の性格との輪廓をのみこむように努めるべきだろう。何か この兩者に承認されているような本は諸君の想像するほどの數の 高級な文學に屬するイギリスの本を諸君があければ先ず必ず、ギリ 多いものではない。大文明はただ一つギリシャ文明を除けば、夫々 シャの信仰、ギリシャの物語り、或はギリシャの劇に關連したもの 一流の書を一一、三册生んでいるにすぎない。立派な宗敎の教義を表を見出すであろう。ギリシャの飾話は諸君には缺くべからざるほど 現している神聖な書は、文學作品としても、當然のことながら一流のものであるが、この問題の廣大な範圍は諸君の大部分のものが、 のなかに入る。こういう書物は推敲に推敲を重ねられていて、その ギリシャ話を徹底的に研究するのをはばむのももっともなことで 書物に用いられている國語が表現しうる最高級のところまで文學とあろう。ギリシャの話の徹底的研究は、しかしながら、必要ではな して完成されているのである。民族の理想を表現している偉大な敍い。必要なことは輪廓のみである。生々と魅力にみちたこの輪廓を 事詩、こういうものも一流になりうる。第三に、人生をうっしてい諸君に與えうるような、良い書物は、計 りしれぬほど有益なもので

6. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

だ。この證據が見たければ、何かすぐれたものを風格のある傑出し敎師を多數に養成するためです。それでたいていの學問というもの 四た日本語に譯したいと思った時、その事情がどんな風に展開してゆは、それぞれおはこというものがあり、それが他人にとって價値と くか見ていただきたい。フ一フンスの本についていえば、その目的に興味がほとんどないとしても、そんなことには頓着なく、それに對 かなうような飜譯者が數十人は出てくるだろう。しかし英書の場合 し、こっこっと身を打ち込んでいるのですーと。 となれば、二人を越すとも思われない」このように私の友人は嚴然 これを聞いていると、その言うところにうがったことが多いのに と説いて來たのである。 動かされてしまった。それで、知識の追求は學者の本分であること 私は亠円年時代並びに最近の一二年は、これほどに擴がっていた日 を、いったん承認するとしよう。大科學者に例を取れば、彼が自然 本の英語研究を助成する目的で日本に來た多くの人の中の一人であ界の特性を研究している間は、實用的の目的を念頭におく必要は少 ったゆえ、このような見解を耳にして悲しむのも當然であった。さ しもないのだ。彼は何が宇宙を構成するか、それからこの大なる機 て、日本人並びに外人の群がなした英文學の説明並びに解説の斯か構が如何にして、また、如何なる法則によって蓮轉しているかとい る努力ーー無數の敎室並びに講堂における一見有效であるらしい方うことを探求しているのだ。彼が眞理として確認することの應用 法ーー、英文學を説く書物または定期刊行物の出版などの一切にもかは、市民としての日常生活の一局部では興味をひいても、それは科 かわらず、第一義的のものが完成されていないように思われた。 學的性格の興味を呼び起すことはないであろう。さて文學者もまた 私は以上を英國とその一味並びに日本の敎養的分野の著作に關す眞理を探求するものである。それで文學者が特殊の研究を行い、そ る正確な全眞理と斷じなくてはならぬのであろうか。 の結果が他人と關係するところがないとしても、その理由で彼を責 私はそう限ったものでもないと思う。私はある人が敎授であるかめるべきではないと私は思う。文學は物質ではなくて精紳的の現象 だ。その提唱者の持ち出す第一の辯明は、「文學を人生の樂しみと らという理山で、敎養のない、知性の乏しい、一般型でない人だと 必ずしも斷ずべきではないと考える。もちろん、その人は自分の專幸輻の一つとして他人に示すべし」ということだ。ウォルト・ホイ ットマンの言もこれである。文學は生命の血液である。 門に學者としての興味を感じ、知識を與え、その機智をみがくため 私が、ラムの隨筆、デモステネスの講演、ヴェルレ 1 スの詩を考 の世間並みの手段を靑年に訓練する方途として、それを敎えさせら れているのだ。ところが多くの敎授は敎壇の玄人たるに止まらぬ。 えてみると、氣の流れは私の小舟を捕え、私の想像も及ばぬ風光 と冒險の岸邊をさまよわせるように思われる。私は詩篇作者の聲を 彼らはまた自分自身の生活を營み、就會の敎養並びに美的方面の一 員であり、その讀む本を敎えるのみならす、またこれを愴しむであきき、またはダンテが永遠の紳とおぼしきものへの近接を物語るの ろう。文學愛好者の一部としての彼らの存在を抹殺することは、デをきくと、私は新しい生命を賦與され、この現實の生活の中にあっ ンマークのエ子を拔きにしてハムレットを演するにやや似たものがて、我々の淺はかな探求の多くに對する解答として、豫言者の激勵 あろう。 を感ずるのである。人に敎えるものは、その研究の若干の道樂を見 友人は敎授らしいパイプと眼鏡に身ごしらえして、日本における出すことは許されるが、このような經驗を表明することを第一の間 英文學の效果の批評を鋧く試み、その勢い當るべからざるものがあ題としなくてはならぬ。「人生の文學」はありふれてはいるが明言 であろう。 った。彼は言う、「大學における英文學の研究の目的は、英文學の

7. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

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8. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

うなり去る灰色の集團の彼方を見 しあうことはわけもないことだ。そして一縉に歩き回って齊しく生 この強い道が夜に連る瀧と變らないで 活を見ることも容易だ。しかし私の毎日の日課は、英國にいた時と またこの速い車が疾風にもてあそばれる 同じく、たいてい書齋か講壇ということになる。田舍を散歩した 風車のように靑白き嵐の世界に り、話しにふけったり、雜沓の場所をのぞいたり、出來事につき ( 自 蜷きあげられなければ 然の意欲のままに ) きかせてもらったりすること、これは研究の最 しぶきのように狂う岩も樹も 良の方法であるが、見込みというよりも、むしろ、欲望というべき だろう。 われわれとひとしく無に迷うその世界に 日本に關する私の概念 , ーーこの概念は遠い昔に發祚したものだ が、かなり親しんできた考えであったーー・に、活に反對してきた 隨想・一九四八年の東京 者は、最近こんなこともいっていた。「あなたは極めて小數の人々 昔、マレーが書いた「日本案内記」のお世話になったような外人について話しておられるのです。あなたの動いている小さい範圍 を、私はどんなにか、うらやましく思ったことであったろう。このは、大衆とは關係が少しもないのです。」これについて私のつける 本では、讀者はひまのある金持だということになっていた。少くと註釋は、私はいつも東京あたりを歩き廻っていて、時には他所へも も四カ月は日本の風景と生活にひたってみようという人を豫定して出かけるということだ。現在の有様では、東京は記憶にえがくとな いた。その本によると、「その期間をすごしたものは再遊に來ない ると、一一十年前のようなわけにはゆかぬ。しかし保町は昔の場所 ことはまずないのだ。旅行者の趣味も人により大分ちがっている。 に控えていて、昔と同じ話をくりかえす。一體、日本人はなんと讀 書好きな人々であろう。この印刷物をむさぼる食欲はほとんど國民 或る者は獨得の文化の研究に、或いは保養に、または火山に登り に、また或る人は特殊の技術や産業の研究にやってくる。」この本の病氣であろう。親愛なる讀者よ、よく耳を傾けていただきたい。 によると、食物は粗末だとしてあるが、ゆっくりと杖をひく樂しい研究癖や文學熱は依然として日本の特性であり、しかも奪敬に値す るものだ。外の國では本があふれていても、讀者は決してこんなに 光景をえがき、名所や傅承や國民の明るい印象をもって綴ってい る。 多くはない。だが、今日の若い日本を眺めると、ワーズワースの警 これからしばらくの間は、日本その他の國について知ろうとし句を、つい持ち出したくなる。 て、思い切って四カ月も、のらりくらりとやることを望みうる人 は、あまりあるまい。私たちは自分の國から出ても、しばらくの 友よ、早く早く本を棄てよ さもないと、背中が曲がる 遍間、多少ともつづくような仕事や役目を背負いこむことなしに、ぶ 本 らぶらすることはできない相談だ。私としていえば、もう一度東京へ これは外來者ならば言い易いことである。しかし爆彈に一掃され よこしてもらう幸運にありついたわけであった。私の仕事は主とし 町て學校や大學方面にあったから、一九四八年の日本の思想や意志をてから二三年にしかならぬ今日として見れば、催し物の機會など自 2 熟知することができる。舊友は手近かに澤山いる。彼らと率直に話ら制限されている。私は、私の講義をきく學生が、尻に帆をかけて

9. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

4 ー、シャヴァンヌ、モネー、ルノアール、スゴンザック、。ヒサロない兒島の作品を一寸見ただけでも、私は私の理論を一層固く信ずる % どがあったが、これはそのうちの少數にすぎぬ。繪はその道の研究ようになるのだ。それは、日本では、あまりにも多くの晝家たちが、 家以外のものにとっては必ずしも全部がその期待通りのものという 對象に眼を据えることなく、野心にもえて制作したということだ。 わけではない。一例をあげると、ミレ 1 のものは、「晩鐘」とは全く 彼らは、えらばれたフランス或いはほかの模範と仰いだ畫家の作と ちがった風のものだ。それはあざやかな外光を氣持よく扱ったものして通る程の繪をかき、技巧と模倣に成功しようとした。それは印 だ。それからユトリロの堅實な作がある。私たちは一息にフ一フンス象の印象だ。これは一流の作品の制作には惡いし、またカ作を生み へ渡って、それや、またほかのいろいろな作品の魅力に接している出す合間の小品を作るにも面白くないと思う。劇場では「芝居が第 わけだ。 一のものだ」。そして繪では直接の觀察が第一だ。 視覺の世界はカンバスに眺めることの出來る人の生活の一部分と 流派の研究も大切だが、それは自然を見る眼、物それ自體の喜び なり、自然の世界におけるひとしく近いものに對する感情及び遠近のつぎに位置すべきものだ。私たち何百萬にものぼる大衆は繪畫の のない、觸れることはできぬが輝かしいものの想像の二つを共に豐繪晝は眞平だ。それは一寸もてはやされるだけだ。器用だというだ 富にするのである。そしてこの世界は一瞬にして入ることができるけだ。しかし、私たちの經驗に累加されるものはどこにあったであ ・ : 但し倉敷へ行けばである。 ろうか。夢を見た人によって既に示された他人の夢の寫生などによ 人の心を奪う理念と外形の美との饗宴の設けられているホールはって、誰が人の心につき、または木の精について知るところがあろ 莊嚴であって、しかも華美に走らず、光線も適當で、繪がみなたのうか。さて、繪描きさん「まず自分で御覽なさい」と言いたくなる。 しそうに見える。 このような誤謬がフ一フンスの研究所に學んだ初期の日本の畫家た 中心の室につづく所には、この創立者が後援していた日本の畫家ちの眼をくもらせ、または、その明晰をにごすことはなかった。彼 の作品が並べてある。これらの畫家たちは、その技法をフフンスそらの學んだ技法は、詩的に見たもの、言葉を換えていえば、子供や の他から學んでいるといわなくてはならぬが、主としてフ一フンスか 農夫が見たものに、仕えさせるための物だということを理解してい ら習得しているのであって、しかも忍耐と深い親しみを以て、これ た。彼らはあせらなかった。人生は、色彩と線に表現された知覺と をなしとげたのだ。彼らはその傅統において堂に入っている。しか 情絡の彼らの詩に、機會を與えるものであり、また事實與えても來 しこの初期の西洋畫家たちは、その流派を示すために描いたのではたのだ、そこで彼らはそのふところへ飛び込んで行った。「ここに なかったのだ。ここにあるその繪は、物、風景、建築家、石匠、彫金色の瞬間がある。私はそれを把えるのだ」これが彼らのささやき 刻家の遺品、男、女、子供など、魅力あり、心に留むべきだと考えであった。 たものに獻げられた作品だ。 以上述べたことにより、私が少し獨斷にすぎると諸君がお考えに この點においては、私は日本中でこれ以上のものを見たことがななるようであったら、日本の新しい時代の藝術家に向って、「倉敷へ い。日本では名のある料理屋にゆけば、印象派風の繪が一枚や二枚行きたまえ、そこの美術館へ急いで行きたまえ、そして古い流派の、 は必ず立派な額縁に納めてあるものだ。私はこのような作品の多く 靜かな、完成された晝家たち : : : 兒島や滿谷に、それからいうまで につき一つの理論を懷いているものだ。模範的な、そして親しみ深もないことだが、大原氏一家に敬意を表したまえ」と言いたいのだ。

10. 日本現代文學全集・講談社版 15 外國人文學集

8 學である。そのとき、はいって來たのは、色の黒い、痩せた先生でに、と言った。持ち歸って開いてみたとき、私はびつくりした。そ あった。八字ひげを生やし、眼鏡をかけ、大小とりどりの書物をひして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、は と抱えかかえていた。その書物を講壇の上へ置くなり、ゆるい、抑じめから終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの拔けた箇所 が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあ 揚のひどい口調で、學生に向って自己紹介をはじめた るのだ。かくて、それは彼の擔任の學課、骨學、血管學、經學が 「私が藤野嚴九郞というものでして : : : 」 うしろの方で數人、どッと笑うものがあった。つづいて彼は、解終るまで、ずっとつづけられた。 遣憾ながら、當時私は一向に不勉強であり、時にはわがままでさ 剖學の日本における發逹の歴史を講義しはじめた。あの大小さまざ まの書物は、最初から今日までの、この學問に關する著作であっえあった。今でもおぼえているが、あるとき、藤野先生が私を研究 た。はじめのころの數册は、唐本仕立であった。中國の譯本の飜刻室へ呼び寄せ、私のノ 1 トから一つの圖をひろげて見せた。それは もあった。彼らの新しい醫學の飜譯と研究とは、中國に較べて、決下膊の血管であった。彼はそれを指さしながら、おだやかに私に言 った して早くはない。 「ほら、君はこの血管の位置を少し變えたねーーむろん、こうすれ うしろの方にいて笑った連中は、前學年に落第して、原級に殘っ た學生であった。在校すでに一年になり、各種の事情に通曉していば比較的形がよくなるのは事實だ。だが、解剖圖は美術ではない。 た。そして新入生に向って、それぞれの敎授の來歴を説いてきかせ實物がどうあるかということは、われわれは勝手に變えてはならん た。それによると、この藤野先生は、服の着方が無頓着である。時のだ。いまは供が直してあげたから、今後、君は黒板に書いてある ふる にはネクタイすら忘れることがある。冬は古外套一枚で顫えてい通りに書きたまえ」 だが私は、内心不滿であった。ロでは承諾したが、心ではこう思 る。一度など、汽車のなかで、車掌がてつきりスリと勘ちがいし った て、車内の旅客に用心をうながしたこともある。 「圖はやはり僕の方がうまく書けています。實際の从態なら、むろ 彼らの話は、おそらくほんとうなのだろう。現に私は、彼がネク ん、頭のなかに記憶していますよ」 タイをせずに敎室へ現れたのを、實際に一度見た。 學年試驗が終ってから、私は東京へ行って一夏遊んだ。秋のはじ 一週間すぎて、たしか土曜日の日、彼は、助手に命じて私を呼ば せた。研究室へ行ってみると、彼は、人骨やら多くの單獨の頭蓋骨めに、また學校に戻ってみると、すでに成績が發表になっていた。 やらーー當時、彼は頭蓋骨の研究をしていて、のちに本校の雜誌に百人あまりの同級生のなかで、私はまん中どころで、落第はぜずに 濟んだ。こんどは、藤野先生の擔任の學課は、解剖實習と局部解剖 論文が一篇發表されたーー・・のあいだに坐っていた。 學とであった。 「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。 解剖實習がはじまってたしか一週間目ごろ、彼はまた私を呼ん 「少しできます」 で、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調でこう言った 「持ってきて見せなさい」 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日 「ぼくは、中國人は靈魂をうときいていたので、君が屍體の解剖 してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるようをいやがりはしないかと思って、ずいぶん心配したよ。まずまず安