つかまつりさふらふ 「わたくし : : : あの : 炎塵の眞中へ引返へした。松村からは、何日何時無事到着仕候の 「僕が悪いのです、僕が悪いのです」 報告的はがきが一枚ぶらりと來たばかり、「やっと四五日前に歸っ 「御免・ : : ・遊ばして・・・・わたくし : : : あの」 て來た、駒場の方の手數彼此で、直ぐ來る筈だったが、失敬した」 「ヱ ? ヱ ? 」 と間の惡そうな顔して本人が尋ねて來た其までは、縁談の件につい すっ 「わたくし : : : あの : ・ : ・うれ、嬉しくて : : : 」 ては、広とも庠とも云って寄越さなかった ( 無論羞かしかったの あたり わた イタル = テー 四邊の世界は忽焉と消〈てしまふ。永遠に架す夢の浮橋に健等で ) が、併し儷件談判の進行は僕や中島にちょい / 、來た母や伯母 は雎二人立って居る。 の手紙でよく承知した。松村老人は最初から大賛成、不曾の淸磨が っ 月は照って居る。風は吹いて居る。虫は鳴いて居る。併し僕等は野田家の様な名家の跡を嗣ぐのは、當人の仕合、親の面目、と大喜 見もせず、聞きもしない。 び、殊に鈴江君のさつばりと大竹を割った様な性質が至極老人の氣 まこと 何秒若くは何時間若くは何世紀過ぎたか知らないが、人間の聲に入り、眞に當世の娘の様に白粉くさくしゃなら / 、とした所が寸 のりぢ ( 後で考ふれば、石川の細君が松村と垣の外を高笑して歸る聲であ分無く如何しても大家の娘、淸磨には過ぎた奧様と、頻りに乘地に った ) に愕然と吾にかへった時は、僕の右手は敏君の左手を、敏君なって居た。併し淸磨君の義兄で松村家の總領の謹次と云ふ男が、 義理ある弟に他姓を名乘らすも世間の手前如何と妙な所に義理を立 の左手は僕の右手を互に緊と握って居た。 たくはヘ て、殊に名家とは云へ一枚の田半錢の貯あるでなき野田家にわざ わざ財産背負はして異姓を名乘らせに義弟をやるにも當らぬ事との 十の卷 さばった。其は猶可として、松村の母なる人の腦中には、淸磨君の あ 身の上を、卒業したらば斯うして彼様してと云ふ分別も已に出來て あの 居た所で、嫁も色は少し淺黒いがはっきりした悧巧な女と頻に彼お このかたも 冬君を望むで居たそうな。併しお冬君は故兼頭君を亡くして以來最 早人に見ふる心もなく、殊に松山なる其實家も侊活氣な老人は次第 ひとま くげぬま 鵠沼の農家の一室に、僕が中島叔母に誓った言は、反故にはなら に老衰の境に向ひ、弟の戸主は猶し、近々に歸って家の世話をせ わかもの なかった。松村は終に野田を名乘り、鈴江孃は淸磨夫人となったのずばなるまいと云ふ都合で、其方の望は絶へたが、併し立派な壯年 である。 まで育て上げた淸磨君をむざイ、野田家に奪らるをつらがり、且 併しながら此事の中島叔母の腦中に湧き出でてから事實となっては鷹揚な鈴江君に兎角十分の同情が行き兼ねて、未だ早い / 、を口 かの なかうどわらち の現はるゝまでには、實に豫想外の手數を費やした。「媒妁は草鞋千實に、頻と防禦の陣を張ったのであった。其堅固な陣を破り、彼謹 とりで 足とは云ふが、此位骨が折れた縁談は初めて」とは母の述懷であっ欽氏が一徹の砦さへ陷れて、如何して首尾よく成功まで漕ぎつけた 思 またぎ、 けだし そんそ たが、實に此事件の發端から結末まで一人で樽爼折衝の役目を引受か、其處は蓋手紙や傅聞では到底云ひ盡されず聞き盡されぬ苦心の 潜む所で、實に斯事の成就は、此時こそと双肩ぬいだ母の骨折と、 けた母の骨折は並大抵の事では無かったのである。 1 松村兄妺が鵠沼を立って歸省の途に上ると、間もなく僕も東京のまた此はあまり人の知らぬ事實だが、吾敏君が内にあって石を融か こっぜん まみ まだい・、 そっち
どろばう さいしれう 儀仗兵祭粢料の榮典は無くも其愛する妻子に護せられて、村人の飾を置いて歸ったり、車夫を裸にして茶代を拂はせたり、盜賊を叱っ 6 1 らず作らぬ同情に圍まれて、和やかに瞑したのを、伯父の記臆に件て酒を飲まして歸したり、奇人傅の材料は伯父の生涯に滿ちて居 ふ遣憾の中の慰としなければならぬ。 た。伯父は屋敷を手離すを餘程殘念に思ったと見〈て、買主が定 正月の三日と云ふに、伯父は川向ふの淸泉寺と云ふ寺の樫木の下って、明日はいよ / \ 引拂と云ふ日は、何の監督もせず、唯屋敷中 あちこち あの かきのきもゝのま に葬られた。墓は大一郞君の墓に並むで居る。大一郎君の墓は彼屋を彼方此方ぶらっゐて、柿樹桃木を撫ては「よく生れよ」など云っ 敷を賣拂ふ時、此處まではるみ、移したので、旧父は常に「乃公が て居たそうな。僕は耳にとめて此話を聽ゐた。 死んだら大一郞が傍に埋めるが宜い、決して坊主なぞ呼ぶな、立派 伯父の逝去について、今後の處置を協議の結果、鈴江君は矢張上 いろノ、 な石塔を建つな」と云って居たそうである。葬式は至て質素であっ 京して勉學をつゞけることになり、伯母は種々片付欽第城下に引出 へきち た。伯父が異常の人物で敵の多かった爲、一は場所の僻地であったて母と同居することに決した。其と聞知ってか、村の者共が頻りに 爲、會葬者は親戚の者一一三人 ( 笠松後家も三次郎君も來なかった ) 伯母を引とめて、決して御不自由はさせませぬ、何卒何時までも此 ひとしに 伯父の舊友總代が一人 ( 西山先生は他縣に逗留中であった ) 信父の 村に御在なされて、と歎くに、伯母の袂はまた一入濕ったのであっ もとの居村の者が三四人、あとは皆村の者。村の者の厚意は實に尋た。 とにり はか准 常では無く、棺舁ぎ、墓穴掘り、臺所の手傅、人數が多くてま・こっ 伯父の一七日が濟むと、僕は母と一先づ山下村を引揚げた。 く位であった。此村はもと旧父の祖父なる人が、郡代を勤めて居た 時の管下で、水源に杉山をしたて、寺子屋を設けて算筆を奬勵し、 くろびろうどを 心學道話の様なものを聞かして村の風儀を正すなど、色々德政も多 母は蝙蝠傘を杖いて黑天鵞絨絡の下駄、僂は桃色になった赤毛布 かったので、村人も今に到る迄野田家に一方ならぬ厚意を有って居を頸に卷いて薩摩下駄を踏み鳴らし、打件れて山下村を出で、歸途 るのであった。 についた。此十日ばかりは、伯父の事で殆んど夜の目もあはず、人 葬式濟むで二三日は、其れこそ眞の大風の吹いた後の様に、僕等の出入の多くて、母と差向ひに話す機會もなかったので、此日は途 おやこ びれう 母子が居なければ、伯母も鈴江君も恐らく悲寥に堪へかねたであらすがら問ひっ答へつ、語りつ聽きつ、四里の道をゆるど、話しなが このどき ふ。夜は殊に寂しく、彼奥の六疊に火鉢を圍むで、つい四五日前ま ら歩いた。霜枯れ時の田舍道を面白いものとは、斯時知った。 ゐはい では此處に臥して居、今は白木の位牌になって立上る線香の煙越し 僕は手紙に書き漏した出奔以來の遭遇を話せば、母は僕が出奔後 に僕等を眺めて居る亡き人の上を物語った。伯父は逸事の多い人、 伯父の怒の甚しく其爲伯父の家を引拂って別居するに到った事、伯 さかなうり 分けて僕が出奔後の三年間は、奇行も多かった。不圖途上に魚賣人母が中に立って苦心した次第、今年伯父の家の破産の時母が伯父に に會って、一の海を買ひ占めて、往來の者に配ったり、山の蕨知らさず奔走心配した事、今は獨居が却って都合好く春夏の養蠶、 しるべ にうがちゃう を馬に三駄も負せて知人の許へ贈ったり、或時はまた奉加帳を腰に秋冬の機織、餘暇は近所良家の子女に裁縫習字など敎へてつましく 下げ白馬に乘って知己親類の家を乘廻って ( 大久保彦左の様に ) 死すれば活計に事を缺かず、猶供が將來の爲め一絲一毛も積むで居る んだ後の香奠はつまらぬ、生きて居る内に貰って置かうと己が石塔事、已に舊冬も左る有志の人々が女子英語學會と云ふものを設くる らなぎ 料の寄進につかせたり、無一文で鰻屋に上って一圓のかたに其白馬につゐて是非其監督をして呉れと賴むで來て居るが此は伯母に讓ら かっ あの おた ( 十六 ) かう・もりつ
あの に母の片腕であった。彼は僕の誕生の時から知って居るので、十一覧なさいまし、彼新屋敷 ( 叔父の事 ) も此雪丸同然になりますか やはりてうち / 、 ねんね になっても猶手打々あわゝの孩兒の様に思って、老牛の犢を舐ら。御辛抱が大事でございます』。何の事だかよくは分からなかっ このいち・こん る如くに僕を愛した。第が所嫌はず、相手を問はず、僕の自慢を たけども、斯一言はしつかり小耳にとまって居る。 ちと いくたび するのは些片腹痛かったが、併し僕はお重が大好きであった。 三里程山奧に住むで、月に幾回、炭馬を引いて出て來る、二十二 かっすけ お重の父も大好きであった。彼は名を勝助と云って、祖父が惣庄三の新五と云ふ男、此も僕は大好き、彼も僕が大好きであった。彼 屋と云ふ役をして居た時分に、配下の庄屋であった。三世に歴事しは面白い男、も大きく、聲も太いが、其割に眼が細く、それで たけのうちすくね ばく て、云はゞ我家の武内宿禰である。尤も宿禰の様に白髭を蓄へては鼻が無性に大きいので、一寸見ると顔中鼻ばかりかと思はれる。博 てつべん 居らぬが、てら / 、と禿げた額の頂邊から皺の寄った顋の邊まで、 奕もうたず、酒もあまり飲まず、寺の和尚に書いて貰った手本を夜 あかびか 一面赭光りに光って、眼と口元に云ふに云はれぬ愛嬌をもって、始の暇々に習って、山道の往來に論語を懷中して、馬のロ綱をとりな さながら たび しのたまはくまなんでときにこれをならふ 終笑を含むでにこノ \ して居る所は、宛然チョン髷の惠比須様だ。 がら子曰學而時習之と誦する男である。彼は山から出て來る毎 ろ・ヘり じねんじよ なまじひたけ 彼は先づのっそり入って來て、爐側に坐って、ゆったり「愼ちゃま」 に、炭俵の上に或は一間程の自然藷、或は笹にぬいた生椎茸、或は さう やまもゝ いっ たんび と僕に云って、ゆる / 、古びた革の煙草入を出して、二三服吸っ蕨、或は楊梅などを載せて、毎も土産にした。而して僕の顔見る毎 てのひら て、吹殼を吾掌の上にはたいて、また新に一服つけて、それから悠に、『坊ちゃん、エライ人に御なんなさい、御なんなさい、なあに 悠と掌の上に燃て居る吹殼を棄て乂 ( 僕は珍らしい掌だと思った、 人が如何したって構ふもんか、エライ人になって皆を御辭儀させて さてはなし 何時か眞似てやって見た所が、眞黑に掌を焦したつけ ) 偖談話に入御遣んなさい』と賑云った。 るのである。彼は蕪漬が大好物で、僕は常に斯様な地口を云って居 まだ一人僕が好きな人があった。誰と思ひなさる ? 大嫌ひな叔 いとこ た『カブッケや、カッスケ食べないか』。世には不思議な事もある 父の娘、僕の從妹だ。其も姉の方は大嫌い、好きなのは妹の方であ ひとっ きりゃうよし もので、立派な水引かけた土産をもって上手に挨拶をして慰めてもった。姉は僕に一歳まさり、お藤と云って容色好だが、小娘のくせ 一向有り難くもないが、扱いで來た大根一把窃と土間に置いて、上にしゃなら / として、いやに白粉をつけたり鏡と睨めッくらをし ひとっ ったきり何も言はず唯坐って居て、其れで此方の氣苦勞もめつきり たり着物の小言ばかり云って、昔から大嫌ひだった。妹は僕に一歳 輕くなることがある。實に沈默は金、雄辯は銀、勝助は通用する金下で、色は淺黒いが、眼鼻立のきりっとした、氣の利いた兒で、 は有たなかったが、 此の金は確かに持って居た。併し彼は決して沈まだ僕が先の家に居た頃は、始終遊びに來て、「愼ちゃん」「芳ちゃ 默してのみ居なかった。或時彼が斯様母に言ふのを聞いたことがあん」と云って、大の仲好だった。今の家に越してから、一度隱れて ぶた る。『奧様、天道様あ光って御坐らっしゃいます。人間が羽振りの遊びに來たが、あとでひどく叔父に打れたとか、何とか、其後はふ あの ゆき、 宜い時にや、彼雪ころがしの如 ( 前日雪が降ったので、僕がお重をつつり會はなくなった。小學校の往復に顔見合〕はせると、涙ぐむ ゆきころがし らゞい 相手に雪丸を拵へて置いた、其を勝助爺は指したのだ ) 轉んで行で、恥かしそうな悲しそうな顔をするのをしば / 、見た。母は新屋 おもみ く程我重量で土でも藁でもくつつけて太って行くでございますが、 敷と云ふと虫より嫌ひだったが、 ( 芳ちゃんの母は悪い人ぢゃない このこ 逎付お天道樣が照りつけらっしやると、段々融けて、土も流れる、 が、と母は云って居た ) 此女兒ばかりは氣に入りで、可愛想に、彼 襤髏も出る、つまりは元の無に還りますでな、はい。奧様、今に御兒も行々は苦勞をするだらうと、暗涙を含むだこともあった。 おつつけ ろ ゑみ そっ こち こうしねぶ わらび せん あの
0 2 覺へて居る。 てしまはうか、と互に相談するのを、伯父は平氣の平左で聞いて居 其れから日が暮れて、湯に人って、故鄕ではまだ大々的贅澤である。流石の賊も「此者が面魂を見ろ」と讃嘆したと云ふことだ。木 あんどういくっ った一フンプと云ふ行燈が幾個もついて、其から故鄕に居た時の様に山の營でも、夜は高鼾で寢る、五圓札を出して鰻を注文する。賊も みんな よっあし 別々の膳ではなく、伯父を初め一同大きな机の様な四足の膳に一所荒肝をぬかれて、西鄕に面會は許さなかったが、併し馬まで戻し ゆる について、其れから伯父が食べるも食べるも喫驚する程食べた事て、三日ばかりして終に免した。共は宜かったが、伯父は途中で居 や、食べる時に猪の様に鼻息を立てた事や、僕等を乘せて來た馬士睡ったと見へて、馬は夢中の英雄を乘せながらまたひょっくり木山 なにがし の新五が振舞酒に醉って臺所で大氣焔を吐いたのを母が氣の毒がっ の營に歸った。賊の隊長某は洒落な男で、「野田君、最早大概に た事や、兎に角色々な事があったが、よくは覺へぬ。唯、面白い、 して歸って呉れないか」と笑って、兵をつけて三四里送り出したそ より 妙な、珍らしい感覺の中に搖られて、此新天地に於ける僕の第一日 うだ。虚言の様だが、本當の事だ。斯様な人物だから、悧巧者の集 あひじよ わけ は過ぎてしまった。 合所とも云ふ可き政府の役人が中々以て勤まる道理は無い。已に某 あの 縣でも、某長官が私利を營むだとか怒って、伯父は突然彼大力で長 このたび 官を押倒し、存分に撲ったので、電報免職になったが、今度も中央 伯父は野田大作と云った。もとは由絡ある鄕士。若年の頃は藩中政府でまた / \ 上長官と喧嘩して、論旨と發意と五分五分と云ふ辭 くんたう きよくわい 第一の人物たる某先生の薰陶を受けて、門下俊秀の一人と云はれ、 職をして、歸國したのは去年の暮。此れからは地方有志家の巨魁と さまえ、、 維新後は或は地方に或は中央政府に種々の官職を冒して居た。名が して、率先して殖産興業の事に從はうと云ふので、もと或雅人が住 さんしつ 大作、體が大漢、大志、大膽、大氣、大言、大食ーー、實に大の字揃 むで居た此丘陵の地面家作を買ひ取って、蠶室を建て、牛小屋を作 ひで、先づ英雄型の人物であったが、仕上げの時に臨むで天道様が 、豚小屋を拵へ、鷄柵をしつらひ、また夥しく菓樹を找へ茶や桑 やさい 、、出日 一寸何かに氣をとられて居たのであらふ、英雄ーーーではあるが を仕立て、西洋蔬菜類を作って、文明的殖産家の先逹を以て自ら任 たが いかな、皹裂がいって居た。譬へば箍のゆるむだ十石桶、如何に じて居るのである。 大きい、が酒桶にもならず、風呂桶にもなり兼ねる厄介物。併し胸 伯母は名を實と呼むだ。母に似て居る様に前に云ったが、母より とをあまり もっとからた ゆったり 中唯憂國の念あって、自から期する所の大なるは、中々小悧巧な當は年の十餘も上で、今些體も顔も大きく、何處やら綽々して居る。 しらが 世才子の比では無かった。で、明治十年の際にも、伯父はしー ( 丿廾某縣年はまだ四十あまりだと云ふに、白髮も大分見へ、額のあたりに皺 いた の要職に居たが、西鄕の亂が起ると甚く慷慨して、實に「市も市も見へる。良人が良人だけに、人知らぬ氣苦勞も多いのであらふ。 きら ( 大久保市造 ) 吉も吉 ( 西鄕吉之助 ) ちゃ。馬鹿共が、内輪喧嘩を 如何やらすると今にも泣き出しそうな顔をして、よく「そうなあ する様な今の時節か。宜、宜、乃公が一つ叱ってやらずばなるま 宜、宜」と云ふ癖がある。一寸見には男の様で、二度見ると唯 や ひとふし い」と慨嘆して、單騎肥後に乘り込み、西鄕を説破して兵を弭めさ もうやさしくて、三度見ると其やはらかな中に凛とした一節の籠っ けいかくりよう′ー、 せ、然る後大久保を叱って、市と吉との仲直をさす筈であったそうて居るのが分かる。母が圭角稜々たる水品なら、伯母は圓く磨っ めなう な。所が、中途で賊兵に押へられて、木山の賊營に引かれた。已に / 上 こ馮瑙とでも云はうか。此家に來た翌日と覺へて居る。小座敷の前 其途中で、賊兵が刃をぬいて、如何だ、面倒臭いぢゃないか、やつを通るとーー障子がしまって居たがーーしんみり母と伯母と話す聲 びつくり こいっ こん
0 3 て嫡子の妻に親類の娘を貰ふことにきめてあったが、或時彌兵衞老 りでもする様に、秩序整然として、見るも淸々しい心地がする。の うら ふを 人親類の宅に行って見ると、七尺に三尺五寸といふすばらしい總桐みならず、障子の補綴一つにも、櫻紅葉を切り、袋戸の切張にも千 こさ おはり の簟笥が三も四も拵へてあって、わざ / \ 城下から呼び寄せた針妙 づから桔梗朝顔を畫くと云ふ風に、一種の「グレース」が物毎にあ にしちんくだ が何でも西陣下りの織物を夥しく仕立てゝ居たので、老人大に怒っ らはれて居る。或時松村の母が、夥しい古下駄を井戸端でせっせと て「其様な贅澤な事する馬鹿は、最早貰はぬ、貰はぬ」と罵って、 洗って居るのを不圖見かけて、僕は可笑しいと思ったーー。西山先生 あれほど ふう 其きり破談にしたと云ふことだ。僕が逗留中は、別に大して物珍ら から彼程鍛はれても、如何しても矢張菊池の坊ちゃまであった風が こんな しいと思ふこともなかったが、或時松村が、塾では皆が威張って、 徐かないーーが、斯様に下駄を洗って、乾して、自身絡をくけて、 乃公の家は何千石だったの、乃公の爺は何と云ふ官員だの云ふ癖が たて又、一足づゝ朴 才の貧乏者や乞食に施すのが母の癖だと云ふこと おまへ あって仕方がないと愚痴をこぼしたら、彌兵衞老人は「其ちゃ卿も を後に松村から聞いて、僕は赤面した。隱宅は、此兩夫婦の外に、 たはこきざみ 僕は煙草刻の息子だ、と其様云って遣れば宜ぢゃないか」と笑っ松村が体ーーお敏ちゃんとか云ったーー其れに松村を迎へに來た下 た。また此も逗留中目撃したことであったが、或日近邊の金滿家の男の萬吉夫婦に、大が一疋、家鴨鷄各十數羽ーーいやまだ忘れて居 ごさ 隱居で、俗物の標本は手前でムいと云ふ顔をぶらさげた嫌な老人が た、非常に音の美い鶯が一羽飼ってあった。 ながざ つぎのま ホームシック 話に來て、少し長座をすると、彌兵衞老人は大きな聲で、隣室に居 松村が塾に居ても始終懷鄕病をもって居るのは、無理でない。此 る細君を呼むで「最早何時かいーーー皆戸でも締めて、早く寢ろ、寢家庭の空氣は實によかった。松村が妹の敏ちゃんが、天眞爛煜とし あだな おて ろ」。斯様な老人だから、村でも、俗物は「變物」と諢名を負はして、寸分の修飾なく、花の笑ふが如き面を見ても、共は分かる。家 て、笑って然も恐れて居た。 庭の空氣も實にさまみ、で、いやに蒸暑いのもあれば、骨が冰る程 きやら くさみ 若し彌兵衞老人のみであったら、あまり己を潔ふするに過ぎて、 冷たいのもあり、座敷に伽羅を燒いて臺所の臭を隱すのもある。大 一家親類知己朋友の交際も隨分圓滑を缺いたかも知れぬ。其を甘く 人は却って欺さるゝカ月仁 : 、、共の鼻覺は案外に敏なもので、寄ると直 びほう 彌縫するのが、松村の母ーー・・兄と松村と一向肖て居ないと思ふたも ぐ其家庭の空氣を嗅ぎ分ける。僕は直ぐ此家が好きになった。 あいし 道理、兄は先妻の子であったーーーの役目であった。睦と云ふ名は至 愛子の友と云ひ、また不幸な身の上と聞き知ったからでもあら 極其人に適當したものであらふ。如何なる人にも、調子を合はして ふ、松村の兩親は大きに僕を可愛がって呉れた。老人は「若い時の 行く。否先方から自づと合はされて行くのである。人の世話を燒く 苦勞は買ってもせいと云ふ通り、子供の内から鍛った體でなければ をいま のが大好きで、必ずしも求めて味方を作るでないが、自づと人が懷物の役に立つものでは無い、あなたでも、淸磨ーー松村の名だ 、う いて來る。田舍で誰敎ふるでもあるまいに、和歌も讀む、手もよくでも、精出して勉強なさい」など幾度か其様云って呉れた。松村が 書く、畫も一寸かく。氣澤山で、趣味の多角形なること夥しい、一母も僕の母の事など色々細かに聞き質して、ロには何も云はなかっ 寸家の内を見ても、長火鉢は拭ひつけて黑光りに光り、銅壺はいたが、眼にはしばみ \ 涙を持って居た。 こより ひきだし て赤光りに光り、傘は袋に、小刀は鞘に、紙撚は束ねて机の小抽斗 境遇が變って、事毎珍らしいので、僕等は如何して日が立つか知 に藏め、隅の隅まで塵一つ落ちて居ず、恰も無心の道具も此名將のらなかった。或時は汐干にいって、貝をとったり、蟹に手をはさまれ くらげ きんしよう 意を受けては一寸除外に呼び出されてはまた自づから元の位置に歸るやら、海月を握った手で顏を撫でゝ顏が眞赤に衝するやら、だ いや むつ なっ
うれ いたり するのである。「彼様な奴等は蠅も同様、臭がすると直ぐ寄って來る野田家にとって、患ふ可きの至ではあるまいか。僕は野田家の入 じぶんため る、今に見ろ何か自家の利益になると見ると、頭を下げてやって來人が、三次郞如き痴漢を僕同様に待遇するを不滿に思ひ、鈴江君も る」と伯父がかねえ、云った言葉に少しも違はぬ。大一郎君は死冷淡になれば、伯父の僕に對する愛も餘程衰 ~ たのではあるまいか ひそか ぬ、あとは鈴江君一人、機失ふ可からずと次男の三次郞を入れ込ま と、竊に不快を懷ゐたのである。 おやちあのこと うとの心底は、實に鏡にかけて見るが如しだ。其心底を、伯父や伯 勝造爺が彼事を僕に話した其日の午後、僕は一葉散り初めた櫻の 母や鈴江君は果して見破って居るであらふか。伯父は彼不幸後、兎下に秋蝉の音を浴びながら本を讀むで居た。實は此夏休に、幸な ふだん むらくも 角茫然自失の氣味で、平生は唯幡々として居る。素より時々は叢雲連中は吾敬愛する駒井先生と共に九州旅行を企てたが、供は不幸に の間から雷様が鳴り出す様に、さも無い事に烈火の如く怒り出すこ して先生に從ふことも出來ず、せめて此休暇の間に英學でも勉強し くたび ともあるが、共發作が濟めば、大方草臥れてぐっすり寢てしまふ。 て置かうと、思ったので、今日も涼しい木蔭に來て頻りに字書をひ るゐわう 其幡々の間に、三次郞氏もずる / \ はいり込むで來たのであった。 っ張りながら、スヰントン萬國史の佛國革命の章、路易王が斷頭戞 あの くびき くだり 伯母は何人でも愛して、何人にもっとめる人だから、彼困り者をも に馘らるゝ條に喰ひ人って居ると、儺の右の耳を引張って、 「三さん / 、」と云っ・て居る。鈴江君は例の大竹を割った性質、別 「おい」 とあみ に氣づいた容子でもなく、また如何しゃうと思ふ容子でもなく、三 と云ふ聲がする。ふりかへって見れば、三欽郎氏だ。投網を肩に びく 次郎が可笑しい事を云〈ば笑ふ、問はるれば返事をする、至って平して、魚籃をつき出しながら、立って居る。 ひきくる あみうち 氣なものだ。引括めて云へば、野田家は今其肺腑に喰い入らふとか 「おい、網打に行かう。魚籃持、立たんか」 ちゃうど かって居る虫をば、別に嫌ふ様子でも無く、平然と其家庭に入れて 云ひながら魚籃もてこと / 、僕の頭をたゝいた。恰其時、鈴江 居る。此れが果して野田家の爲めに得策であらふか。まだ肩揚もと君であらふ白がすりに紅い帶の影がすぐ向ふの臺所にちらりとし てあら れぬ小供の癖に、小癪な事を云ふ様であるが、菊池愼太郞も男であた。と思ふと、僕の右手は突然魚籃を手暴く拂って、 わがもの れば、晝寢して居て他人の身代を吾有にしゃう、なんぞの卑劣な心 「行かんと云ったら行かん」 は露持たぬのである。否々、打明けて云へば僕等母子が野田家に寄 吾ながら調子の高いに驚いた。三郎氏は呆れ顔。共筈さ、僕も あの るすら、已に面白からぬのである。勿論伯父伯母は快よく僕等を待他の事なら兎も角も、腕力にかけては所詮彼三次郎君に勝つ見込が つ、また母が野田家に盡した功業は僕等が伯父の厄介になるよりも ないので、これまで供の分別は僕の堪忍袋にゴムひいて、嫌々なが 遙かに多かったのであるが、其れでも僕等の今の身分の滿足す可き ら魚籃持の役を務めたこともしば / 、であったのだ。三次郎君は何 で無いのは、幾度か僕の小さな胸に浮むだ。母は素より共念を一日時にない僕の權幕に驚いたが、見るイ、其頭冥不靈な顔に壓制者の 記 も胸中に絶やしたことは無いのであらふ、ロには云はぬが、僕が行相を出し、にやりノ \ 笑って、 の 出って母を省する毎に、母の眼は僕の背丈を測って、「未だ、小さい、 「來いと云ったら來い。長者の云ふことを聽かんか」 がほ これど 小さい」と云ひ貌であるのを、僕は常に認めた。斯程獨立の日を待「乃公の自由だい」僕の耳は熱して來た。 1 兼ねて居る僕等親子が、然る可き人の野田家に入り込むを何條嫌ふ 「來んか」 いたり 5 けねん 可き。併し彼笠松如きの勢力が入り込むに到ては、實に吾等に恩あ 壓制者は突と寄って、僕が右の手を執へる。懸念らしい鈴江君の だれ せい とら
かのくまがヘ の小行李を持ち出して、一抱程の手紙を一切の事情と共に僕の前 或夜牧師の宅で、ロングフェロウの輪講があって、彼隈谷と云ふ きんこ にうちあけた。此は金子女史の曾根君に送った「ふみ」であった。 文學士、曾根君、僕、金子女史、其他男女四五人一座に落ち合っ こう・もん た。此間からの評判もあるし、何となく殺氣座に滿ちて、鴻門の會「見て呉れ玉へ」と迫られて、僕は恐る / \ 一つ宛披いて見るに、 にでも出た様な心地であった。やがて「ハイアワサ」の篇の講義が未だ十五六の筆跡もあれば ( 近い頃のは餘程稀であった ) 英語まち りの讀みにくいのもあり、歌が書いてあるのもあり、言文一致もあ 始まると、忽ち左る一句の解釋について、隈谷對曾根の衝突が起 ( 僕は舊弊な男で、艶書は必ずん。・、で來るものと思って居たの り、曾根君が靑筋立てゝ爭ふと、隈谷氏は冷然として、 「匹夫も志は奪ふ可からず、頭腦が違へば解釋も違ふ、最早議論は で、此等はや意外であった ) 滑稽を云ってあるのもあり、飴の様 わらは 止したまへ」 な文句もあり、「君は妾にうつり氣ある様に云ひ玉へど、妾が心は はペ 鐵石よりも堅く侍る、君は妾が富貴利逹を求むる様に思ひ玉へど、 「匹夫ーーー失敬」と曾根君は立ちかゝった。 「曾根君、 よよ」と牧師が制する。 妾の幸輻は成業の人に嫁すよりも是れより業を爲す可き人と困難を 「否、其様邪推をされちゃ困る、匹夫とは僕自身を云ったのです」。共にするに侍るを知り玉はずや」、「兄が日本の科學界に一新紀元を にやり笑って、隈谷氏は金子女史とちらり眼を見あはせた。實に開き玉ふ日を今より信じて且待つものは此小妹」、など云ふ句もあ たらまち 瞬間の事であったが、忽焉曾根君は身震ひして躍り上り、隈谷を突って、要するに證券印紙張った契約證書は無いが、双方の間に立派 アングアスタン屮ング はっきり 倒して、一一三回踏みにちった。 な默契が成立して居たことは歴然と見へる。 かの 然るに其默契を無にして、彼少女は輕薄男子に僕を見かへた、と 一座は總立。「失敬な、君」と云ふ聲。「踏み殺すぞ」と叫ぶ聲。 こめつ おっかさん っゞいて米春く様な響。女の呀と叫ぶ聲 ( 此は顔をうたれた金子女曾根君はる。「其だから阿母が云はぬことちゃない、此頃の學問 史の叫であった。うったのは誰の手であったか、足であったか、混が出來る女は皆斯様です、猫をかぶるのが上手で、若い男は直ぐ欺 されてしまふが、本當は中々勘定だかで、すわと云ふと面をとって 雜の際よくは知らぬ ) 。「曾根君、よよよ」。「逃げ玉へ、早く」。「打 たちまち およそ 殺すぞ」。平和の家は忽修羅場となった。約五分やっさもっさも 如何様な不實な事でもします。彼様な女はいけない / 、と阿母が云 おまへ めかへした後、僕は漸よ曾根君を介抱して其家に行た。曾根君は年ひ / \ したのを、卿が聞かないものだから、御覽な、御顏はお奇麗 でも彼腐った魂が卿の目にもお見へかーー , 菊池君、貧乏程つらいも 寄の母と唯二人士族屋敷のはづれにあまり豐かならぬ生計を立てゝ 居た。 のはありませんね工、何かと云ふとひけばかりとって」と母君は泣 あ乂僕は生れて初めて戀の劇藥の人を惱亂さす妝を見た。而して いた。聞けば聞く程、思へば思ふ程、僕は不思議でたまらぬ。彼淑 どれほど 初めて人の親の如何程其子を思ふかと云ふ事の一端を覗ひ得た。怒女に限ってーー萬一したら曾根君の思ひ違ではあるまいか、此様な のの反動で石の如く默った曾根君と、おろ / 、する母君の間にはさま手紙も書いた人、彼様なしほらしひ容子の人がーー兎も角もおせつ って、無經驗の僕は如何慰めて宜か知らず、さりとて此場を見棄てかいな話だが、行って樣子を見てやらふと、僕は直ちに金子女史の 思 かねて、一夜まんちりともせず「男ちゃないか、しつかりし玉へし家を尋ねた。 つかりし玉へ」と同じ事ばかり云って居た。や明方になると、曾 女史は居らない。父君に聞けば、昨夜電報がかゝって今朝坂府の 根君の石の様な沈默は融けて、雨の如き涙となり、戸棚の奥から竹學校へ歸ったと云ふ。其足で牧師の家に歸って聞けば、隈谷は昨夜 ひつぶ いや さま ひょっと ひとか、ヘにど けい はんぶ
ふと思 0 て居る事などを話し、蕕僕が新五の事を物語 0 たに對し命ばかりは御助けと賣溜の錢を人れ物の升ごとさし出して平伏し かのどろばうから / 、 て、昨年の春彼お重の父の勝助爺が絶〈て久しい御機嫌伺かたえ、 にふしやく た、すると彼盜賊は呵々と笑って、錢は人らぬが、腹が減って溜ら 淸正公様〈願ほどきに出た事、延年寺の和尚様は人寂した事、堅吾 ぬ、飯を呉れと、冷の麥飯湯漬にして七八杯平げ、ついでに些寒い 叔父の家では山師にかゝって鑛山で大分身代を傾けた上に近來叔父 から此を借りて行くと老媼が着ふるしのちゃん / \ を被って、錢は が胃癌とかにな 0 て非常に苦むで居る事、病氣の父、氣弱い母、妾有たぬからまた與ると、言ひ棄て、悠《と出て行 0 た、老媼はやれ に攪されたあとの身代を負ふて欽女のお芳が一人で苦勞して居るやれ一命を拾「たと胸撫で下ろし、其れから逢ふ人毎に昨夜の不敵 事、手紙は恥しくてやれぬと云 0 て勝助にくれみ、傅言を賴むだ事な強盜の話をして居たが、或日馬の上から「おい」と呼ぶ聲に眼を を物語 0 た。偖話は僕が卒業後の事に及むで、僕は未だよくは分かあげると、先夜の強盜が莞爾よ、、笑 0 て「先には重疊、生憎錢人を らぬが、今一二年は學校の生活をするかも知れぬと云ふことをざっ 忘れたから , ーーそれ飯代ちゃ」と素睛しい金具つきの煙草人 ( 此も と話した。母は手紙の上で思 0 たよりも、逢「て餘程安心した様子破産の名殘 ) を投げて通 0 た。強盜は野田様であ「た。老媼が話 で決して干渉する譯では無」が、自己を安賣する樣な事はすな、幾に、僕等は涙まぢりの笑聲を立て、居ると、呵《と下駄の音が近づ らっこ 年でも待って居るから、此方の事には掛念なく、第一等を目ざして おまへ いた。不圖見ると、古い獵虎帽に黑紬の紋付羽織、懷手して大きな 呉れ、卿が今迄他人の厄介にならず獨力で道をきり開ゐた其覺悟を緒の下駄を穿いた中老人が、萌黄の風呂敷包を提げた丁稚を件れ こなた 何時までも失はずに居て呉れ、年毎に歸省するよりも、結構な物品 て、前を通りながら此方を見た。 送らふよりも、早く月給取になって引取って呉れるよりも、其が第「や、奪老は , ーー」 一の孝行と云った。 驚ゐて立上る僕。立とまって怪訝な顔の老人。 しみみ、した話に、何時か道の二里ばかりも歩むで、丁度城下〈 「誰人だったかな ? 」 せいまさん 半途と云ふ虎が石の所 ( 來た。往還の側に小家程の大石が臥虎の如 しめなは えのき 「奪老は淸磨君のーー御忘れでございますか、菊池ーー」 くに蹲 0 て、注連繩を張「た大榎が其上に葉も無」枝を廣げて居「あ、、愼 = 一郎 ( 老人僕の名を間違〈て居る ) さんだ 0 たか。此れ る。其蔭に一寸した茶店があって、草鞋、馬沓を吊し、駄菓子、 は不思議な所でーー」 飴いかちれた蜜柑などを並べ、七十位の老媼が日光を橫頬に受けて 實に不思議な所で不思議な人に逢ふものだ。此老人は印ち僕の舊 繽《木綿をひゐて居た。僕等は此處に暫らく腰かけて、老媼が汲む友松村淸磨の父君、僕が淸磨君に件はれて此老人の家に行「たのは で出す澁茶に咽を濕した。 最早六年前、十四の春であった。 デい 往來に母の顔を見知って居る老媼は、早や伯父の死を聞き知って あの ( 十七 ) の「彼お丈夫な御方が」とくやみを述べ、猶一場の逸話を語った。 ( 伯 ごと ふと 思父の逸話は、此往還の石の様到る處にごろ / 、して居た ) 。其は、 とりいれ 「貴君が餘り長ったものだから、見忘れてしまうた」と云ひ / 、松 丁度明けて去年の收獲時分、或夜破る又ばかり此小家の戸を敲く者寸 本老人は茶店に入って來た。 があるので、老媼は恐々ながら戸を開けて見ると、頬被りした雲衝 母は座を起って、一禮し、席を掃って老人を請じた。 おっかさん く程の大男がぬっと立って居たので、老婆は膽を潰し、お盜賊様、 「あゝ、愼三郞君の母君 ? 」 どなた はお
プ 52 そらうそぶ てきめんい、こ、ち ええう であった。實に邪に険く榮耀の花の盛は一時、吾家沒落後は妻籠現に天罸覿面好心地と聞いて空嘯いた新五も、お芳が姉の子を負っ 一と云はれた叔父の身代も、意滿ち気驕った女狂ひが原になり、彼て、裏の井戸側に洗濯する姿を見て落涙し、思はずゆっくり上り込 恐ろしい知慧者に魔がさしたかと村の者には云はれて己れは得意のむで慰めて來たとの事である。其時お芳の話に、家は斯うなってし あたりまへ 冒險事業の損が損を生み、三都すりからしの山師に腹をあはした腹まふし、これが尋常であれば力になっていたゞくのだけれど、本家 黒の妾に大分掻さらはれ、さしもの身代もめきと弱った所 ( 、養子の伯母様や愼太郞様も人非人の様に思ってお出なさらふ、と泣いた かけおち を嫌った姉娘が當歳の子を殘し大金と小學敎師を連れて驅落し、叔そうな。 もの あのおとっさん 「感心な人でござす。如何して彼爺の娘に彼様した娘が生れたち 母の氣鬱症、其あとが叔父自身の大難病、百日に近い間苦痛呻吟の おくさん を」りゃうよか おそ あたりをの、 聲に四近を怖かせ、病苦に疲れてうと / 、眠るとすれば、忽ち魘はやろな。彼松村の孃さんの様學間や容貌が好と、立派な夫人じゃ れて、片時も安眠の暇なく、骨だらけの手で蒲團の上を拂ふを何事が」 と新五は深く嘆息した。 と問へば、「愼吾さん ( 僕の父、叔父の實兄 ) が來て胸を壓つける」 と額から冷たい汗を流し、「惡ふございました、惡かった」と人も あのがうき 居らぬに詫び、彼剛氣な人が一人は恐くて居られぬと云って、始終 新五が歸って三十日、松村老人が歸って二十日、花の上野は靑葉 妺娘を側からはなさず、死ぬる時も娘の手を握って、 ( 寧ろ握られ て ) 苦しい息を引取った。而して葬式の日は車軸を流す大雨、汲みとなって、さしもの賑合も大風のあとの様に淋しくなった。 また、 僕の心の中も亦。 乾してもど、瞬く間に墓穴が水になって、棺が浮き出すので、誰一 や うしな 何故 ? 僕は非常の苦痛を忍むで自殺を行った。とばかりでは分 人色を喪ばぬものはなかったと云ふ事である。 しんぐ かるまいが、僕は心を砌って、其處に深く深く印された或人の面影 「ほんに親子の何のと如何した縁でござすか喃」と新五は更に話を はたち を削り去ったのである。 進めた。可愛想なは妹娘のお芳で、廿歳そこらの細腕で、此倒れか たいか 僕は最早決して松村とも敏とも思ふまいと心を決したのである。 かった大嗄の心張棒になり、背には姉が殘した當歳の兒をあやして 誰が故障を入れたのか。お敏君が其と知って拒絶をしたのか。 大病の父、半狂の母を右左に撫でさすり、氣をつかい、心を配って、 たったいちる 池分家の命脈人望を唯一縷に県いで居たさうな。父の沒後はいよ否、否、誰も知らぬ、ーー少なくとも知らぬと思ったーー - ー僕自ら考 いよ家も細う疊むで、骨と皮ばかりになって働ゐて居るが、半病人へて僕自ら斷行したのである。印ち僕は自殺したのである。 彼上野の博覽會見物以來は、菊池愼太郎は最早世に存在して居な の癖で、母は娘に不足たら / \ 、杖柱の子は措いて不義に走った姉 はた ごくてい かった。魂はお敏君と名づくる憎む可く將愛す可き獄丁の手に錮せ 娘に是非逢ひたい / 、と云って居て、何かと云へば直ぐ姉娘に逢ひ むくろ に巡禮でもしそうに云ふので、お芳は何卒姉を尋ね出して、母に逢られて、娑婆に往來して居たのは、僕の亡骸であった。自由自主不 き はせたい一心に、人に賴むだり、神佛に祈願をかけたり、新五にま羈獨立の菊池は彼日お敏君の明眸の一閃に殺されて、あとは奴隷で でも賴むだそうな。菊池の分家と云へば、昔は荒神の様に恐れ、中あった。 さげす 僕が愛は從來天地間に雎一人母の上に集った。彼お敏君何者ぞ、 頃は蛇蝎の様に忌み、終には糞上の如く蔑むだ村の者も、お芳には 突然と上野にあらはれ出でて、忽ちに僕の愛を占領してしまふ、と 我を折って、おのづと見舞の大根の一本も提げて來る様になって、 だかっ かっ よこしま い おご どうそ かの かの ざと いっせん
かへりみち せお歸途ですから、なにわたくし共は最早歸らふと致して居たので厭になった。併し此回の花見は少くも僕に二個の利益を與へた。 4 は敏君の母御の腦中に、僕が敏君の爲めには如何なる利益も抛棄し すから て顧みぬと云ふ感を意外に深く印象したのと、今一つは此れが爲め 中川夫人が勸めるので、僕は弱りきって居ると、よせば宜いに、 にすつばりと中川の方の係累を免れたのである。別るゝ際に中島叔 中島叔母が折角あ仰有って下さるから、では一寸お邪魔をしませ うかと引受けてしまった。僕はます / \ 弱はる。 母は僕を招いて耳にロよせ、二間さきの者に聞ふる位の小聲で、 「愼さん、少し荒療治だったけれど、中川の方はわたしがすつばり 中川夫人が何かさゝゃいたのでお糸孃は眞紅になって一禮し、他 みしらぬひと なにむかう さん とやったよ。何有、先方もはやいもので、敏君を見ると直ぐ感づい の二人と急ぎ足に土堤を左手に下りてしまった。生面者の件が殖へ つうちゃん たので、不二男君や露坊までが靜かになって、一行言葉少に刻み足た容子だった。何しろ一方は切れて、一方は繋がる、今日は目出度 たそがれどき で小梅の別莊に行ったのは、最早誰彼時、晝間の雲はさらりと消へ花見だった。此れでわたしもゆっくり寢られる。愼さんも今夜は高 鼾でおやすみなさい」 て、タ月の光薄ふ地に落ちて來た。座敷には電燈をつけて、人數だ ちゃん け絹座蒲團を敷き、火鉢まで整然として、彼娘が恭しく一行を迎 へた。車にでも乘って急いで歸ったものと見へる。 中島叔母の所謂手荒な療治で、中川の方がすつばり手切になった 一月の間に、梅の代は過ぎて、池畔の老櫻雪の如く険いて居る。 風のすうと渡る毎に、月影の散るかと見へてほろど、と花の池水に翌々日、敏君母子は無事歸國の途に上ったが、五月の五日と云ふに こぼる、風情、は宛ながらの歌である。併し僕は唯もう鍼のむしろ母の手紙が來て、談判首尾よく結了し、敏君はいよ / 、菊池愼太郎 の妻と定まった事を報じて來た。此については、松村老人を説き、 に座る様に冷々して居る。敏君も頻りに落つかぬ容子。彼お糸とか なた くわ 云ふ娘も、茶をくみ、菓をすゝむる間も、頻りに敏君を見つめて、 義兄の謹玖氏を宥むるなど、定めて一ト方ならぬ手が人った事であ かの 此れも心騷げる様子。平氣なのは鈴江君夫婦に石川の夫人、敏君のらふし、また彼蒲谷代議士や周旋人の笠松後家の方でも隨分激烈な おっかさん 母御は頻りに電燈を見、座敷の観を見、庭の構の壯麗を見、彼お對抗蓮動があった事であらうと思はれるが、三百餘里を隔てた僕に おっかさんきもいり はっきり 糸孃を見て、默って考へて居る。話は中島叔母と中川夫人の間に專は母の苦心伯母の骨折敏君の母御の肝煎も大方は想像で、歴然と眼 きっしゃうもじ ら行はれて居た。 に見たのは唯松村敏君が遠からず菊池敏子となると云ふ吉祚文字で はなし あった。 やがて中川夫人は一寸お談があるからと、中島叔母を別室に請じ たので、あとはます / 、てれて、僕等はいよ / \ かたくなり、果て 實に明治廿四年と云ふ年は、僕にとってなっかしい嬉しい年だ。 は此體の筋が張り切れはせまいかと心配する程であったが、幸に如共五月の節句に敏君の事もいよ / 、定まったと云ふ確報に接し、共 こちら なにか すていしょん 才ない江戸兒の石川夫人が何角とロ輕くばつをあはせて、彼お糸と七月の五日に僕は母を新橋停車場に迎へた。實は此方から歸省する いくらくげん よもやま か云ふ娘と四方山の問答して居たので、幾何か苦艱を免れ、其れか筈であったのを、母はまだ東京の土を踏まぬので、一には僕が卒業 ら叔母が出て來るを機會に、一同摯を述べて立上った。 式にも列し、二には東京も見物し、三にはまた歸省の往來に無駄び まを費やすよりも其間に身を固むるが大事と云ふ意見なので都合よ 先の花見でも苦しみ、今の花見でも苦しむ、世に花見ほど辛いも くば僕が最初の家持を世話する爲め、國許の家は忠實な婢に留守を のは無い、と僕は逃げる様に眞先に別莊を出てからっくみ、花見が さん かの ( 十一 ) をんな