←明治三十三年一月民友社刊 今明治三十二年夏神奈川縣逗子の寓居で 記ま着 説小 不加歸 行育載友民京東 今「不如歸」浪子のモデル大山信子 ←「不如歸」插繪黒田淸輝畫 ←右から英佛獨譯になる「不如歸」 れ 0 { い 09iS0 第をこ 0 10 、、 l)lut()tla M() れ
分大正二年十月淸凉里 ( 韓國 ) にて右から妻愛子蘆花鶴子い 蘇峰 ←大正七年銀婚式の際蘆花夫妻 ミ ' 、一 3. 今大正八年世界旅行の際の蘆花夫 今大正十一年二月熊本市大江高等女學校に於ける講演 ト妻のパスポー 个大正十三年筆 「冨士」原稿の ←大正八年十月ベルリンにて蘆 一部 ~ 一花五十二回誕生日に 'l'llllili
恆 、第 3 - いき 个蘆花のデスマスク 石井鶴三畫 ←東京世田谷粕谷町に ある蘆花の墓 今蘆花記念館内部 ( 恆春園 ) ←同書齋
かた 内となれば、道は宛ながら炬火を照らせる様に、行手の方は闇に染「旦那、駄目でがすよ、斯様なっちゃ龍旺水が千挺あったって、萬 めぬく紅の烈火一團、炎々として燃へ上る状、手にとる如し。 挺あったって、仕方がありませんや」 よっつ 「しまった ! 「消すも、消さんもあったもんちゃねへ、寄付いたら體が焦げる たてかみゆんで 三たび叫むで、今は流石に疲れし駿足の鬣を左手にかい攫み、 「旦那、一人で消しなさろ ! 」 右手には鞭、ふり上げて責め立てイ、ひた走りに走らす。一歩々々 きふさん おもてあふ 「何、不埓な」 に火は面を炊って、繽紛と飛び來る火の粉は急霰の如く面を撲ち、 をわた・、 「お、猛、猛、猛。燒けた、燒けた」遽しく呼びて駈け來る大男。 馬鬣に落ちて、ぢりちりと燃ふるも覺へぬ猛。 「しまった ! 」 「馬鹿、覺さん、何故火事を遣り出來した ? 」 おれ 「吾は知らん、吾は知らん」 四たび叫むで、一町が内に來れる頃は、母屋も土藏も納屋小屋一 むわ 切の建物殘なく烈火に包まれぬ。母屋の棟はまだ落ちず、珊瑚の 「知らんた何だ、道具は出したか」 柱、黄金の瓦、燦々と紫だちたる啗の中に閃めきて、吹く風に紅の 「阿母は吾が負って逃げた、今預けて來たんちゃ」 うち あや 花飛び、金の雨滴り、鎔々と宛ながら今鎔爐の中なる金殿の奇しき 「道具は如何した ? 大切な物は皆出たか ? 」 しを、 「出すも何も出來るこっちゃない」 美觀。三棟の土藏は今炎々と燃へ盛りて、五色の焔の中より猶黒き 「何、燒いた ? 」 瓦の見へつ隱れつ。風息つけば、五棟に別れて炎々と立上る啗、ま た烈風の吹く毎に五所の火焔一塊にもつれ、凄じき音たてゝのの字 「皆命からえ、逃げ出したんぢや」 に渦まき、しの字に狂ひ、餘炎を災って千竿の竹立ちながら爆發 「馬鹿奴」 らうなん こか すれば、焔の中に包まれし老楠の葉は焦れ、幹は々脂を流して、 馬を飛び下り、鞭打ふって、烈火の家を眼がけて十二三歩。忽ち くす きんくづ 夥しき樟の臭を放ちつよ火龍の如く燃へぬ。 烈風一陣横さまに拂ふて、母屋の柱ゆらノ、と俯くと見れば、金頭 けりまし 「やあ、猛旦那だ、猛旦那だ」 れ朱傾きて、撞と倒れつ。煙交り灰交りの火花の柱空を沖いて、ま 燃ふる建物を遠卷きにして眞黑に群立ったる村人は口々に叫びたはら , く、と降り來る火の雨。眉を焦せる猛は匇々に退きつ。 て、道を開きつ。 「やあ母屋が落ちた ! 」 「何を見とる、何故消さん、消さんか、消さんか」 「最早土藏も落ちる ! 」 馬上ながらに、齒ぎしりし、手を戟にして燃ふる吾家を睨みたる 「あ、最早駄目ちゃ」 「上田の御屋敷も灰になるかな」 生猛が顏は猛火に向ひて赤鬼の如くなりつ。 とても 人 「旦那、此風に ! 到底寄りつかれたもんちゃありません」 「罸だよ」と云ふ聲も聞へぬ。 「素睛しい火勢ぢゃねへか、最早御屋敷も駄目ちゃの」 自 齒を喰しばりて、猛は突立ちたり。土蔵は一つ落ち、二つ落ち、 お虐たいまっ 口々に云ひ罵る。 三つ落ちぬ。今は唯三百年の老楠の宛なから大炬の如く弗々と烈 ふらち 「何、駄目 ? 不埓な奴め、消せ、消さんか、何を立って見とる ! 風に燃へて末路の闇を照らすのみ。 60 りうどすゐ 龍吐水は如何した ? 」 群がる人をかき分け、押分け、 たてがみ たいまっ ひとっ かん らやう
が奇麗で、物の便利が備はって、面白い物盡しの東京、其東京につ せんころ い先頃まで机を並べて睦み合った松村が行く、而して僕は ? いきなりなんだ ゆるかせ 僕は ? と思ふと、俄然涙がはら / v-- 手紙の上に落ちた。 松村が上京遊學につけても、自身の學間の一刻も忽にす可きで つま・こめ 吁僕も若し父が生きて居たら、昔の通り妻籠一の豪家であった ないのは、染々心に感じたのであった。伯父の祕書官も宜いが、日 ら、直ぐにも許を受けて、松村、君行くか、僕も行かうで直ぐ出かは飛ぶ、月は奔る、少年は老い易ふして學は成り難しと口癖にも吟 けるのであらふもの、其は返らぬ昔の夢、今は母と共に伯父の家にずるに、何時まで斯様遊むで居るのでもあるまいと思へば、宛なが とても ぢた、ら 厄介になって居る身分、到底、到底と思ふ今の吾身が始めて鮮やか ら地鞴でも蹈みたい心地。母も同じ思いで、然る可き學校のあれか に見せられた心地がして、僕は恨めし氣に松村の手紙を打眺めた。 しと日々祈って居た。 しはらく はたして 數日經っと、果然新しい單衣に新しい小倉の袴を穿き新しい下駄 當時僕の縣下には學校師範學校中學校の三つが新に設けられて むぎわらしやつぼ を穿いて新しい麥藁帽子を冠った松村が、東京まで送って行くと云居た。併し僕の考では、醫者になるのは嫌だし、師範學校を卒業し いとまごひ ふ父の隱居と打連れて、欣々然と告別かたみ、立寄った。手紙を見た處で、鞭を執って田舍の小供を敎ふるが關の山、苟くも妻籠では てさへ此四五日碌々眠れなかった僕は、今松村を見るより、胸一ば禪童と云はれ ( 尢も童先生一度は落第したが、其は夫子の罪にあ いになって、彼の父が流石に僕の心情を察して慰めて呉れた言葉らずだ ) 西山塾で一廉の俊秀と云はれた少年が、其様な屑々なもの ちぎ のち も、松村が向後を契る言葉も、多くは耳に人らず、僕が嗜きであっ に入らふや、中學こそ行く / 、は至高學問の府たる大學へも通ふ順 にしえび たからと云って松村の母がわざ / \ 彼に持たして呉れた干鰕の禮な路、此だ此だ何でも此に入るのだと矢も楯もたまらず、母に迫り伯 しはらく ど半ば咽につかへて、餘程男らしく振舞はうと思って居たにも拘は父に詞ふて見たが、伯父は夫れよりも斯様な事があるので今暫時待 わかれきは らず、いざ告別の際になって、松村が車の上から、 って見よと云ふ話をした。其は伯父の仲間で、新に一校舍を興すの けいくわく 「其れちゃーーー君も早くして來玉へ」 經畫があったのである。 と云ふと、僕はつい意氣地なく涙をこぼしてしまった。次第に遠 伯父の仲間は縣下の漸進黨とも云っ可き連中であった。當時僕の おやこ きんかんのき くなり行く松村父子の車を見送りながら門邊の金柑樹の側に立って鄕國は、略々甲乙丙の三黨派に分れて居た。丙は保守黨である、維 さばく 居た僕の姿は、其れこそ「失望」の化身であったらふと思ふ。今も新前の佐幕黨で明治十年前の不平黨、十年後の政府黨、此れが此の あきこ ぜさう よく覺へて居る、僕が泣き顔を拭き / 、歸って行くと、秋蠶の桑を黨の三世相であった。甲は急進黨、夙に自由の空氣を呼吸した慷慨 あの 摘むで居た鈴江君ーー彼鷹揚な鈴江君が驚いた顔して、 激烈の徒は、爭ふて此の旗下に立って居た。甲丙の間に立つのが乙 「如何したの ? ヱ、如何したんですの ? 」 黨印ち漸進黨である。此黨の先輩は何れも老練着實、曾て一たびは いつも とすり寄って尋ねるのを、少勳爵士は毎になく腹立聲で、 地方に中央政府に然る可き官職を占めて居たが、今は概ね野に退い の 出「何でも無いⅡ」 て、地方有志家を以て自任し、政治上は温和的進歩の主義を執り、 と一つ怒鳴りつけて、走り出すと、鈴江君は呆氣にとられてちい 元來の學問は一種開新的儒學だが、猶新智識を求むるかと云って、 みおく と僕を目送って居た。 9 時々四五輩打寄っては自由原論瓧會平權論道德の原理など新版の譯 3 書を講習して居た。伯父は印ち此黨に屬する一人であったが、例の し一、つ のど ( 五 ) っと や さ
始末をつけ、差當り必要の荷物を携へて、直ちに橫濱なる先生の宿が世界の舞臺に出れば出る程、國家の實力を試す機會は多くなる。 0 とを、 に赴ゐた。其頃の替歌にも「連れ衆はあとから車で來る」と歌っ志士自ら愛して大に修養勉勵す可き秋では無いか。僕が所謂志士は た様に、都落の連中相追ふて横濱に落合ったので、同港の騷ぎは實政治家に限らず、渾ての方面に於て國家に貢獻するの志を抱くの士 に非常なものであった。志士の多くは、故鄕に歸って地盤を造ると を云ふのである。」 云ふ者、地方新聞に從事すると云ふ者、横濱にとゞまって東京の政 と僕に向っては飽くまで今の目的を追ふて、且っ志士の魂を維持 論壇を賑はさうと云ふ者、何れとも決せず徒悲憤する者、歸らうにする様にと勸められた。 ゅゐごん いましめ も族費がないと先輩に泣きつく者、さまみ、であったが、駒井先生 殆んど遺言を聞く様な嚴肅な訓戒に不覺の涙を墮した僕は、翌日 は逸早く心を決せられたと見へて、僕等が先生に會って初めて聞ゐ ( 明治廿一年一月三十一日 ) 大勢の見送客と共に先生を米國へと奪 た新聞は、旅行免从が下がり玖第海外へ行かる又との事であった。 ひ行く「オセアニック」號の甲板を去るに臨むで吾ながら女々しと ( 平民新聞は主筆が退去命令を受くると同時に發行禁止を命ぜられ、思ふまでに落涙を禁じ得なかった。 ざんじてをにぎりてまたてをわかっ 大阪に名を更へて同新聞を出さうとの經畫もあったが、先生は辭せ 「暫時握手還分手」とは實に先生と僕の間を云った句である。 どうしんいちにんさってそ ~ 、ろにおぼふちゃうあんのむなしきを られたそうである。猶洋行費は先生の知己の豪商中川とか云ふ人が 唐人の詩に「同心一人去、坐覺長安空」と云ふ句がある はとば 出すとの事であった。 ) 今二三年は此土に居ても、別に面白い事も が、茫然とした二三子と埠頭に立って見す / \ 消へ行く「オセアニ あるまいし、窮屈な思をしゃうより外國に遊むで、自家の修養も ック」號を目送った時、僕は日本が空になる様に思った、而して僕 かの なきがら し、及ばずながら日本を外國に紹介して、外人の誤解疑團をも解く 自身も魂は彼船が持って行ってしまって此處に立つのは其亡骸であ 様に務めたら、將來條約改正の一助にもならふと思ふ、と先生は云る様に思ったのである。 はれた。 此間僕は先生の要を帶びてしば / \ 京濱の間を往來して居たが、 八の卷 ちょっと 免从もいよ / 、下って、明日は乘船と云ふ其日、些の閑に先生は 僕を件ふて野毛を散歩しながら種々論された。其中に今も忘れぬの は、左の數言である。先生が云はる又には、 うれ 「今の所謂藩閥は患ふるに足らぬ、年配から云っても彼等の前途は 知れたものさ。併しながら患ふ可きは敵たる彼等にあらずして寧ろ 味方にありだ。君も目撃して知って居ゃうが、今の民間黨ーー志士 明治廿一年の一月末に僕は恩師駒井先生の洋行を見送り、同年の いくら と云ふ者の中、話が出來る者が幾箇あるか。大抵は不學無術、で無秋九月の初旬に僕は愈よ文科大學の第一年に入って、英文學を修む ければ德操も識見もない輩だ。此輩が國家の繼續者と云ふでは、實る事となった。駒井先生と別れて後は、彼湯島の下宿に再び小生涯 に心細い譯ちゃないか。否、菊池君、此れから後の日本は決して從を始めた。先生が彼百忙の中に不肯の一弟子を忘れず、後々の事ま 來の空疎な事では行かぬ。渾て實力の勝負だ。政治界でも、眞の困で考へて、僕の事を保安條例に漏れた其頃評判の好かった雜誌「明 難は廿三年以後に始まると思ふね。政治に限らず、皆然りで、日本治評論」の主幹安藤と云ふ人に紹介委托し置かれたので、僕は早速 やから しゅ から かの
あかりなが 九段のタに佇むで、ちら / \ 見へ染むる街の燈光を瞰めながら、 毎、見附、、、・、の大石を撫して通る毎、新東京の眞中に封建の昔を語 それ る長屋門、屋敷跡を見る毎、新聞紙上に某の侠客某の老爺など江戸僕が想った所、右の通りであった。 時代の遺物の沒去を見る毎、大學に來て日夕の散歩に不圖梅鉢の紋 かけ はうふつ っゐた瓦の片を蹴る毎に、封建時代の面影は髣髴として眼前に湧き 斯く多忙の中にも、僕は聖經の靈漿を吸ふて心の枯渇を慰すを怠 出づるを覺へ、昔し寢物語に父母が話して呉れた談片と共に、小兒 らず、日曜には、會堂に行かなければ、野外を歩るき / \ 默思して 時代に眼に觸れた繪双紙の記臆と共に、非常の興味を喚び起すので かん 居た。同輩の多くは今日宗を奉じて、荷くも日本の最高學府に籍を あった。或秋のタ僕は麹町に菅先生を訪ふて、歸途此も昔の名殘り の長屋門をさっさと人の取崩すを見て、九段へ來か又ると、秋の日置きながら時勢後れの信心沙汰は沙汰の限りと諭笑するのであった だいばんじゃく 落ちて暮靄ゃうノ萬家を罩め、近衞の喇叭の音は頻りにタを催ふが、僕は此に據る可きの大盤石を見出したのみならず、英文學を研 わうやう さうばう して居る。彼銃劒形の記念碑の側に立って、眺むる吾腦中に「蒼茫究するに當って、其汪洋たる詞海想海の何處に漂ふとも、少し潜っ ばんこのい とをくくわうえんらくしつのうちよりル二たる て見れば其裡には萬古不盡の宗敎思想が底流となって漲り、眼を驚 萬古意、遠自荒烟落日之中來」の句が閃く途端、三四羽の鳥が唖々 てったう かす雄大跌宕の産物も此底流の湧き上る結果に歸す可きもの頗る多 と鳴き連れて、一瞬の影を牛が淵の水に曳きっゝ、遙かにニコラ一イ 塔の方へ飛んだ。殆んど其瞬間に、僕は一の決心をなしたのであきを見て、いよノ、、信仰の事の輕忽に附す可からざるを思ったので り′ ) 1 か・つを一・こノ る。實に世の變遷は、今水に映った飛鳥の影の、在るかと思へば已ある。僕は「信仰なき學問は住々にして人を驕傲狂、若くは憂鬱狂 たんきよくしてしづのあさきをうたがふ に導き易き」ものなるを思ひ、「潭淸疑水淺」如くに、宗 に無いもの、維新を距る僅か二十餘年の今日此頃でさへ、幕府の代 敎の直覺が授くる眞理は住々平凡に見へ、學者の高談微妙の論も住 は最早雲霞と隔って居るに、今の若者の子や孫曾孫の時代となった 往人を五里霧中に見すてる事あるを思って、想界の迷室を辿るにも ら、如何であらふ。米だ其記臆の較新なる今、故老の存する今、記 録物件の多き今、而して其物の實形實質を見るに尤も都合よき距離手に此一條のおだまきを離すまいと決心したのである。而して僕は を隔つる今は、ち畫布の上にしつかと描き留め置く好時機である此點に於て倔強の味方を故鄕の母に見出した。 こ、・ろみ 是非と思った時には成らず、忘れた頃におのづから成る。「時」 まいか。まさに其時機である。僕は試に之を描いて見やう。而し おへ て僕は之を描くに、正史の體を用ゐず、史的小説の體によって ( 僕は従來呑氣な然し記臆の好い仕事師だ。先年の失敗以來、傅道は暫 は其頃課餘の閑暇にスコットの歴史小説を讀むで居た ) 此封建日本らく思ひ絶って居た今日此頃、母が心を信仰に傾けたと云ふ報を聞 びら くのは、實に意外であった。 の活寫眞を傅へて見たい。事實を擧げ、時處人を考證し、微を拆 あのころ き、細を敍づる歴史は他に書く人もあらふ、僕は歴史以外の嘱史を 前回の末に述べた彼頃の事であった、母はや、久しく眼病 ( 仕事 記 に夜深かした故であらふ ) に惱むで、徒然のあまり來る人毎につら の書ゐて見やう、封建日本の眞面目眞精訷を活寫して見やう、部ち一 出 まへては色々物の本、新聞離誌、など讀むで貰った。其と聞ゐて僕 部の新日本外史を書ゐて見やうと思った。思へば日本外史の著者が 其不朽の著作の第一稿を終ふる年配に、僕はぼっ / 此様な妄想をは新版の小説數種を送ったが、其も母は忽ちで聞ゐて飽きてしま またはなはだし 起したのである。才と庸との別も亦甚矣であるが、其かはり僕は百い、何か珍らしいもの / \ と求めて居たそうな。恰其時お冬君、 1 ( 僕は書き漏らしたが、此夏伯母から其管理する女學舍の英語女敎 歳の壽を保って氣長にやって見やう。 このころ ( 四 ) れいしゃう
382 に入る。壁には古今の銃、獵銃を數多立てかけたり。中には父翁の かうかさす 高加索にありし時、持ちたるもあり。アンドレー君の示せるは友人 一日のタ 某の撮影せる奉天戰のしかも白兵戦の慘憺見るに忍びざる寫眞なり ことえ . 、 ムうじゅ き。君は奉天にありしも、某將軍の從卒なりし故血を流す機會には 晩餐の席は、例に仍って楓樹の下。主翁を初め人數盡く揃ひて、 ィリア君と他に一人の年若き僕と、白手套フロックコートにて給仕會はざりしが、戦爭は實に恐るべきものと語りぬ。楓樹の下に歸り けんたん て君と語る。余日く、君は何故に戦爭に出でしゃ。君の日く、國家 す。翁の健啖も近來は著しく減じぬ。菜食者の爲にスープも肉菜一一 の危急を座視する能はざりしが故也、素より余は父を敬愛す、父は 通りに拵へあり。他には飮料としてクワス、胡瓜サラダ、全熟の 卵、アイスクリーム等あり。菜食者は翁と余のみ。レオ君曰く、余萬國を通じての人也、然れども人各々思ふ所あり、余は露西亞人 等も久しく菜食なりしが今は肉食となれり。マリア子は日く、自身也、露西亞の爲には血を流さゞるを得ずと。「戦爭と平和」の一ニコ ラス・ロスタウはアンドレー君に其型を見出す可し。余は此單純に は病身の爲に近來肉を食ふ。余日く、余は菜食をはじめて七ヶ月の して飾らざる愛國者を愛するを禁じ得ざりき。同時に吾膝下より出 新參也。翁の日く、自分は菜食者たることこゝに二十八年也と。 晩餐後は各自に散じ、レオ君は醫師と母屋の直ぐ下なるコオトに征する共兒に強壓を加へざりし父翁の心を一たびは測りかね、二た しゃうやう てテニスをなす。余は園林を祥す。菩提樹や、樺や、槲や、シイびは成程と頷きぬ。 やがてレオ君と余のはなれに語る。君は乃父の才を傅へしと稱せ ダルや、木は茂るに任せ、美しき花咲くも咲かぬも草は生ふに任せ たり。家近き一隅に櫻桃、ラスペリーなど多く栽培せる所あり。粗られて小詭、論文、劇などの著作あり。曾て「ノブエ・ヴレミヤ」 たうなす らうぜを - むろ 造の温室ありて、熱帶植物少々置き、温床ありて胡瓜蕃茄など狼藉に寄稿し、今自家の新聞を起すの計晝あり、且目下の露西亞に關す コメデー す。やがて日は暮れぬ。茶の鐘鳴りて、母屋の方は笑聲賑やかなる一篇の喜劇を起草中なりと語りぬ。君日く、日本の戦を起せしこ り。面白き話もあ .. る・ヘしと思へど、あまりに疲れたれば、室に退そ心得ね、日本人も來りて滿洲に露西亞人と共に耕したらばよきに あらずやと。又曰く、自分ももとは近衞の士官なりき、父の敎を奉 き、蠣燭消してャスナヤ・ポリヤナの初夜の夢に入りぬ。 じて斷じて劍を棄てたれば、官憲も詮方なく病氣と取っくろひて職 げんくん を免じ呉れたり。余間ふ、嚴君を如何に見らるゝゃ。レオ君日く、 二子の父翁觀 父の議論は理想に騁せて實際に適せず、父も今はやさしくなりたれ 七月一日。朝起數枚のハンケチと下襦袢を洗濯して、朝日の窓にども昔は極めて主我的の人なりき、父の議論は獨身者にして唱ふべ ふうか けみ 乾し終り、例の楓下の食卓に出れば、一人の若紳士あり、新聞を閲し、妻あり子あり瓧會の一員たる者は自づから異ならざるを得す、 すゐでん 父は常に説くのみにて何も實行せず、余が妻の父、瑞典に有名なる す。此は昨夜歸り來れるレオ君の弟アンドレー君なり。前頭禿げた ドクトル某 ( 名を忘れたり ) を君も聞知するならん、余が舅の如き れども當年一一十九とか。志願兵として日露戦爭に出でたるは君也。 從來常に父母の許にあり、母氏を助けて家事を經紀し居る由。君のは何の吹聽もせざれど續々基督敎徒として現實の善行をなしつゝあ きうし りと。余日く、然らば君は昔は父君に引かれ、今は舅氏に引かれ、 夫人はチェルトコッフ氏の女にて、子供を連れて今英國にありと云 いざな ふ。見す可きものありと誘はるゝまゝに、母屋の二階下なる君の室斯遠求二心力によりて廻轉し玉ふか。レオ君苦笑して日く、然り けいき かしは ぶんち だいふ しつか
何處の砂漠にも多少の綠地はあるもので、他鄕の樣な故鄕にあっ知れぬ、東京から全國巡回して來た今の視學官昔は何と云ったか其 先生 ( 僕等が何如様にエライ人と思ったらふ ! 增見先生如何様に て寂しい僕等を慰むるものは、實に此數人であったのである。 震へたろう ! ) から譽められたことも覺へて居る。兎に角第一には まづ かねもち 素封家の子、第二には先才童と云ふので、學校では威張ったもので 小學校には相變はらず通って居た。僕の家から六七町田の中にちあった。 まあ ひとりた 所で一家破産する。父が死ぬ。其等の結果は直ちに學校に於ける よこりんと一個立った茅葺のが其れで、田舍の事だから先寺小屋に 些毛のはえた位のもの。文庫硯に、其でも流石石盤丈はあって、夏僕の位置にあらはれた。今迄「愼さま」とか「坊ちゃん」とか云っ さかりあさてならひ た裏の太五作の小猴子までが「愼公」とか菊池とか呼棄にする。金 めした の盛は朝手習と云って暗い内に燭をつけて手習をする、冬は各自 に火鉢を持って行く、と云ふ有様。都遠い片田舍、殊に摺鉢の底の滿家の子供は急に身の丈が高くなったかの様に僕を眼下に見て、遊 どっち 仲間にも入れて呉れぬ。「愼ちゃんは何故彼様な小さな家に越した はらわた こども 様な所で、何方へ出るにも坂ばかり、文明開化も此處へ來るには、 草鞋がけで汗だらけにならふと云ふので、貧乏人が呼ぶ醫者では無の ? 」と米だ無邪氣な幼童が言ふすら已に腸にしむのに「無情な いが中々一寸來て呉れぬ。東京の新聞紙と申すものが天にも地にも連中は何かにつけて僕を揶揄し、侮蔑し嘲弄して其れで自身がエ一フ 唯った一枚來るばかり、其を町での識者と云はる乂 = 一四十人が戸毎クなった様に思って居る。大將好きの僕、大將であった僕、如何し に讀み廻はすので、最後の讀者が日本の出來事を知る頃は、最早其ても此境遇を甘受することが出來ぬ。最早學校には行かぬと云ひ出 事のあった以來地球が五六十遍も寢返〈りうって、氣の早い佛蘭西した。母が斷じて許さない、何は何でも、學問は決して已めさせぬ と云ふ。母も流石に僕の胸中を酌むで、今は昔に引か〈て苦しい中 はぢ などでは革命の五六遍もして内閣が十遍も變って居らふと云ふ位。 から學校用の諸道具に決して不自由させず、恥辱を感じさすまい、 だから、瓧會の風潮を感ずる經は極めて鈍なものであるが、併し 明治も米だ十歳にならぬ其頃の改革又改革經驗又經驗片時も固定し卑屈にさせまい、と思ったのであらふ、衣類までも昔に優るとも劣 た精のなかったことは、今思ふても分かる。最初は學校も上下らぬ様に木綿着物の小ざっぱりとしたものを着せて、朝々手づから 各々十級に分れて居たのが、後には六級になり、最後には上中下級きりつと帶をしめて呉れて、本を背負はせて、門口まで送って、僕 の影が學校の門を入るまでは立って見て居る。餘儀なく僕も行く。 に分れ、同じ試驗を何度もして、同じ様な卒業證書を何枚も貰った たのしみ 行くが、學校は最早昔の様に樂の場所でない、寧ろ囚徒が工場に ことを覺へて居る。單語篇地理初歩から讀み初めて、讀本も年に一一 出る格で行くのである。面白味がない、從って張りがない、從って つみ 三度は變るので或貧乏人は到底本が買へぬと云ふて退學したことが すさ なま ある。僕は算術と習字が大嫌ひで、歴史と作文と地理と惡戲が大好懶ける、從って荒む。才童の評判は未だ莟のま乂に已に虫がついて 見えた。 きだった。算術の勝負や淸書の點取ではや又もすると敗北するが、 此小天地での上流瓧會の子供が、一格下に僕を見るのが、如何に 出共でも級の第一を占めて居た。今から思ふと敎員先生 ( 實に好人物 ひとり うそ も癪に障って、さればとて孤獨は別して子供に辛いので、僕は何時 で、近眼で、煙草好きで、僕を非常に可愛がって、而して誤謬ばか いさぎよ り敎ふる先生だった。其金科玉條は寛の一字で、名は增見先生と云しか昔共に伍するを屑しとせなかった其下流の仲間入をした。最 ったようだ ) 少し手加減をしたかも知れぬ、尤も少しは出來たかも初は厭々ながら、後は化せらるゝともなく化せられて、言葉遣ひも ( 五 ) てんで どんな
さと 促、裁判、差押のやり通しで、隨分怨を受けて居ることも少なからて呉れ、給料はやれぬが、衣食の費は引受ける、と云ふ意味を論し 0 かへり 7 ず。或時夜中催促に行った歸途を、待伏せして大の男が二三人うつ こたた てかゝったが、此方は武藝の逹者。金火箸ほどのステッキで右往左 僕はつくえ、思案した。金は無し、體は弱って居るし、今日此處 かすりで それに 往にうち散らし、自分は微傷も負はなかった。其れからは絶へて闇を飛び出した所で、また難儀をするばかり、加之兎に角救護の恩も しばらくこ、 うちの話も無いが、主人はひどく用心して、夜中出あるく時は必ずあるし、今暫時此家にとゞまって、蕕駒井先生にも手紙で相談し、 おほきだち 枇杞の大木刀をついて出るのであった。右の通りで、近在では鬼の共上の分別にしゃう。東京遊學に出かけた者が、四國にきれ込む はや 様に言ひ囃す者もあるが、實際は其様な恐ろしい人では無く、癖さ で、金貸の小信になるも、實に意外心外な話だが、途中に行倒るゝ まだまし へ飮み込むで居れば、つきあい易く、今の老婆なども現に長らく勤よりも猶優かも知れぬ。 そまっ 斯樣思案を定めたので、 めて居る。併し物を疎末にするのが虫より嫌ひで、ながしもとの米 一粒、庭に落ちた紙の一片でも、顏をしかむること夥しく、鬼の旦 「共れちゃ當分御厄介になります」 けら / 、おやち 那一名を吝嗇爺と村人は云ふそうな。老婆の如きは、よく此所を呑 と答へて、僕は其日から「鬼の旦那」の帳つけになった。 おにき かっふしひとへぎ み込むで、主人の物を大事と鰹節の一片も無駄にせぬので、大に主 あ乂さきには伯父の祕書官になり、今はまた金貸の祕書官にな 人の信用を博して、留守も安心して托されると云ふ位。鰹節と云へ る。祕書官、祕書官、僕は到底祕書官であらふか。 ば、先年二度目の細君ーー一度目の細君は如何なったか、老婆も知 らぬーーー・を離縁したのも、鰹節のかき様が大ざっはであったので、 みくだりはん 此様な女は行く / 、家を亡ぼす、と云ふ處から三行半となった譯そ 人の身の上程分からぬものは無い。十日前の九州育英學舍の書 うな。何時も「小事が大事、小事が大事」が口癖で、閑暇な時寢酒生、十日後は忽ち四國の片隅の金貸の小信になると云ふは、小説に のあがりには其の昔貧乏士族の三男に生れてさまみ、の難辛苦を しても第分唐突な話だが、僕は今共運命に會ったのである。 した事から、陸軍に出ても他の士官は豪遊濫費半文の錢も殘さぬ所 僕の職掌は實に雜多なものであった。朝起きる。雨戸を開ける。 あま つら、 か、負債をこしらへるに引易へ、自分は身の皮剥ぐ様にして金を剩水を汲む。庭を掃く。箒の柄が氷柱の如くたくて、手拭を卷ゐて し、他の迚中は職を罷めては途方に暮る乂者もあるに、自分は其金掃いたこともあった。飯は三度ながら粥だ。朝飯が濟むと、小さな そろにんはし を土臺として今は此近在に「旦那々々」と立てらるゝ身になったこ机にかゝって、帳面をつける、主人を相手に十六盤を彈く、質を置 とを自慢するのが常である。 きに來る者があれば質札を書く、小使になって役場に行くこともあ あらまし あの 以上は僕が寢て居る間に老婆から聞ゐた大略で、未だ十分面會もれば、主人のお件で督促にも出かける。彼晩僕を負った治左が家に せぬ内に、主人の身分性癖の次第は粗腹に落ちたのであった。 も二三度行った。治左が家は米だ宜いが、他の見知らぬ家に行っ がほ 元日には努めて起き、初めてゆるりと主人に面會して、救護の恩 て、「此兒は誰だ ? 鬼の旦那の二代目じゃないか」と云ひ貌にち ふるかはらけく のどか を謝した。主人も今日は何時に無く長閑に屠蘇を古土盃に酌みなが ろど、睨まれる時のきまり惡るさ。見へすゐた貧乏な家に、主人の はた ら、細かに僕の身分、此四國に渡って來た仔細、目的を質し、算筆件して行って、例の急がず騒がずゆるめず縱たすじわり / 、主人が てだすけ が出來るや否を問ひ、共では當分此處に居て、少し事務の手助をし督促する聲に、瘠せこけた男女の額から汗眼からは涙のほろノこ っと これ ( 九 )