伯父 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

から僕が本箱の中から不用の書籍を一二册と、並びに僕が書いたも今は棚一ばいに綠の葉をのべ、淡綠の珠玉をつるし、薄紫の影を滿 のを和尚様や皆の者に見せたいと彼が云ふので寫物の損を一二枚地に落して居る。扇形滿月形の花壇には、伯母が東京から種子を持 遣ると、新五はます / 、大慶で、其れから僕が新五を引張って一寸って來た西洋草花が、紅、紫、碧、黄さまえ、の濃やかな色を夏日 西山先生に面會さすと、新五が大慶は最早絶頂に逹して、何度もの光に曝らして、終日蜂を招いて居ると、屋敷の隅の肥料小屋に 何度も「坊ちゃまを御願申します」と繰り返 ( した。西山先生は滅は、タ顔糸瓜鳥瓜苦瓜飄が無暗に這ひかゝって、其邊りには伯父が 多に人を容さない方であったが、新五に對しては別に嘲弄の鋒も 自慢の西洋水瓜や西洋南瓜がごろ / 、葉がくれに轉がって、粗硬な こいっ 出さず、機嫌よく面會して、「宜、宜、此坊主は乃公が可愛がって葉の中に嫩らかな心を包むで野菜の中の武藏坊慶と一寸洒落た甘 鍛ってやる、安心さっしゃい」と頷かれたので、新五はほく / 、喜藍はべたりと坐り、觀兵式でもあるまいに玉蜀黍は紅絹の飾の總 んで、あとでも「先生はヱライ、先生はヱライ」と獨言して居た。 をふりたて長列を正して立って居る。山羊と豚の繁殖は思はしくな 子供の悲しさには、故鄕の芳ちゃんや勝助等にも「宜敷」の外遣かったが、牛は更に一頭殖〈て、日々家族の用に餘る程の乳がとれ る土産もないので、業は「宜敷」を澤山新五に背負はして、別れるので、伯母は頻りに牛酷の製法を研究して居るが、未だ寸斗好結 た。新五は歸ったが、其人の噂は楊梅の核と共に塾に殘って、「菊果を奏しない。家禽類は、洋禽も和鷄もよく育って、朝々鈴江君が 池の叔父御々々々」と諢名をつけて、僕を嘲った。其を西山先生が餌を遣ると夥しい鬨の聲をあげながら眞黒にたかって來る。卵はも 聞いて、或時 あれ とより、親島もしば / \ 伯父の胃の腑をしたが、あまり消費が劇 「貴公逹は彼をたゞの田舍者と思ふかい、今に見さっし」 しいので、伯母は憲法を立てゝ、特別の客來若は式日を除くの外、 と云はれたこともあった。 月に一鷄を超ゅ可からずと云ふことに定めたので、伯父は少し弱っ もうなっこ こしたこやしつを 併し此れは話が逆戻り、あらためて前卷のつゞきを話さう。 て居た。僕が歸った頃は、最早夏蠶も濟むで、蠶糞は肥料壺に、桑 がらは束ねて薪小屋に、種紙は風通しの宜い座敷の天井に吊られ ひねもすざぐり て、新築の蠶室の方には終日坐繰の音が響いて居た。鈴江君も折か 西山塾が閉ちた後は、しばらく伯父の家に歸って居ました。在塾らの休業に、面白半分坐繰の前に坐って、節だらけの糸をひいて、 の間も、二月に一度位は、洗濯物など抱 ( て歸っては、伯母が得意其でも今日は一升五合ひいたなどと威張て居た。茶は未だ找培の日 の甘藷團子汁や五目飯の馳走になったが、併し多くは其日返りで、 が淺いので、大した事もないが、併し澁紙張りの大きな茶壺の二つ 殊に西山塾では今の樣に夏休冬休と云ふものもなかったので、伯父も座敷に鋼〈てあった。要するに、創業後僅々一一年の經營として の家にゆっくりするのは、今度が初と云っても宜い位であった。 は、何も可なりに整って居たのである。 未だ男の二三人は始終來て、共處の石垣を直したり、此處の白田を 母が來たのは、伯父伯母の爲めに、確かに一大利瓮であった。元 出拓いたりして居るが、併し伯父の屋敷も餘程整って來た。一秒時の來は僕等母子の爲めに呼むだのであらふが、結果は野田家の瓮にな をと けいりん 油斷なく進む自然物の成長は思ひの外に早いもので、僕等母子が一 やっとう ったのである。伯父は中々企業心に富むで、よく經綸を立てる、ま 昨年初めて此家に來た頃、纔栽〈てあった菓樹も最早ぼっ / \ 實をオ幺。幺。 ( つる たは こ其坙翁を實行しゃうと云ふ勇氣もあったが、併し例の粗大な氣質 そのうへ 結び、其頃未だ棚もかけず蔓は無慘に苅って束ねてあった葡萄も、 で、いざ實際の施設となると、違算だらけ、加之事業家の第一資格 ひら

2. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

どろばう さいしれう 儀仗兵祭粢料の榮典は無くも其愛する妻子に護せられて、村人の飾を置いて歸ったり、車夫を裸にして茶代を拂はせたり、盜賊を叱っ 6 1 らず作らぬ同情に圍まれて、和やかに瞑したのを、伯父の記臆に件て酒を飲まして歸したり、奇人傅の材料は伯父の生涯に滿ちて居 ふ遣憾の中の慰としなければならぬ。 た。伯父は屋敷を手離すを餘程殘念に思ったと見〈て、買主が定 正月の三日と云ふに、伯父は川向ふの淸泉寺と云ふ寺の樫木の下って、明日はいよ / \ 引拂と云ふ日は、何の監督もせず、唯屋敷中 あちこち あの かきのきもゝのま に葬られた。墓は大一郞君の墓に並むで居る。大一郎君の墓は彼屋を彼方此方ぶらっゐて、柿樹桃木を撫ては「よく生れよ」など云っ 敷を賣拂ふ時、此處まではるみ、移したので、旧父は常に「乃公が て居たそうな。僕は耳にとめて此話を聽ゐた。 死んだら大一郞が傍に埋めるが宜い、決して坊主なぞ呼ぶな、立派 伯父の逝去について、今後の處置を協議の結果、鈴江君は矢張上 いろノ、 な石塔を建つな」と云って居たそうである。葬式は至て質素であっ 京して勉學をつゞけることになり、伯母は種々片付欽第城下に引出 へきち た。伯父が異常の人物で敵の多かった爲、一は場所の僻地であったて母と同居することに決した。其と聞知ってか、村の者共が頻りに 爲、會葬者は親戚の者一一三人 ( 笠松後家も三次郎君も來なかった ) 伯母を引とめて、決して御不自由はさせませぬ、何卒何時までも此 ひとしに 伯父の舊友總代が一人 ( 西山先生は他縣に逗留中であった ) 信父の 村に御在なされて、と歎くに、伯母の袂はまた一入濕ったのであっ もとの居村の者が三四人、あとは皆村の者。村の者の厚意は實に尋た。 とにり はか准 常では無く、棺舁ぎ、墓穴掘り、臺所の手傅、人數が多くてま・こっ 伯父の一七日が濟むと、僕は母と一先づ山下村を引揚げた。 く位であった。此村はもと旧父の祖父なる人が、郡代を勤めて居た 時の管下で、水源に杉山をしたて、寺子屋を設けて算筆を奬勵し、 くろびろうどを 心學道話の様なものを聞かして村の風儀を正すなど、色々德政も多 母は蝙蝠傘を杖いて黑天鵞絨絡の下駄、僂は桃色になった赤毛布 かったので、村人も今に到る迄野田家に一方ならぬ厚意を有って居を頸に卷いて薩摩下駄を踏み鳴らし、打件れて山下村を出で、歸途 るのであった。 についた。此十日ばかりは、伯父の事で殆んど夜の目もあはず、人 葬式濟むで二三日は、其れこそ眞の大風の吹いた後の様に、僕等の出入の多くて、母と差向ひに話す機會もなかったので、此日は途 おやこ びれう 母子が居なければ、伯母も鈴江君も恐らく悲寥に堪へかねたであらすがら問ひっ答へつ、語りつ聽きつ、四里の道をゆるど、話しなが このどき ふ。夜は殊に寂しく、彼奥の六疊に火鉢を圍むで、つい四五日前ま ら歩いた。霜枯れ時の田舍道を面白いものとは、斯時知った。 ゐはい では此處に臥して居、今は白木の位牌になって立上る線香の煙越し 僕は手紙に書き漏した出奔以來の遭遇を話せば、母は僕が出奔後 に僕等を眺めて居る亡き人の上を物語った。伯父は逸事の多い人、 伯父の怒の甚しく其爲伯父の家を引拂って別居するに到った事、伯 さかなうり 分けて僕が出奔後の三年間は、奇行も多かった。不圖途上に魚賣人母が中に立って苦心した次第、今年伯父の家の破産の時母が伯父に に會って、一の海を買ひ占めて、往來の者に配ったり、山の蕨知らさず奔走心配した事、今は獨居が却って都合好く春夏の養蠶、 しるべ にうがちゃう を馬に三駄も負せて知人の許へ贈ったり、或時はまた奉加帳を腰に秋冬の機織、餘暇は近所良家の子女に裁縫習字など敎へてつましく 下げ白馬に乘って知己親類の家を乘廻って ( 大久保彦左の様に ) 死すれば活計に事を缺かず、猶供が將來の爲め一絲一毛も積むで居る んだ後の香奠はつまらぬ、生きて居る内に貰って置かうと己が石塔事、已に舊冬も左る有志の人々が女子英語學會と云ふものを設くる らなぎ 料の寄進につかせたり、無一文で鰻屋に上って一圓のかたに其白馬につゐて是非其監督をして呉れと賴むで來て居るが此は伯母に讓ら かっ あの おた ( 十六 ) かう・もりつ

3. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

もくねん 父も知って居る。知って居る程伯父はいよ / \ 怒り出した。 默然として居る母と、氣を揉む伯母に別れて、伯父の家を出て、 ちっと 「默れ。些少ばかり加勢をしたと云ふて、御恩にはなって居らんと半町ばかり行くと、後に拍手の音が聞〈た。顧みれば、伯母であ 云ふロぶりは , ーー不埓千萬な」と俍父は吾怒の惰力に驅られて、今る。小手招ぎするので、小戻りすると、伯母は道の側に僕をひきの もやくや は火の如くなった。沸 ( かへる胸の憤擱を何處から漏らす由もなくけて、小聲に、 あんた 伯父は髯の間に埋もれたロを頻りに顫して居たが、突然襖障子もび 「愼さん。伯父さんでもわたしでも、眞實卿を大一郞の様に思ふの ちりと震ふ大音聲をあげて、 だから、伯父さんが剃癪を起しなすったと云って、決して氣にかけ 「出て行け」 なさんな。卿の遊學の事も伯父さんは望むで居なさる位だから、何 と叫むだ。 れ其内に相談をきめましよう、決して短氣を出しなさんな。宜ね、 母は微笑した。眼中の閃きを見なければ、伯父の大音を琴か笛の分かったね」 音と聞て樂むのではあるまいかと思はれるほど落ついて微笑した。 と云って、俍母は僕の帶のゆるむだのを手ばしこく結むで呉れた。 なんどき 「御邪魔になりますなら何時でも出てまいりますが」 僕は唯々として別れた。 「不埓ーーー」と身を震はして、立ち上る伯父よりさきに伯母は突と ( 二十三 ) 身を起して中に入った。 あなたさうもぎだう 「良人、其様沒義道にーーー」 唯々として別れたが、僕の胸中は宛ながら亂廱の如くであった。 「何が沒義道 ? 」と仁王の如く突立った伯父の怒氣滿々たる眼はか 伯父、伯母、母、鈴江君、野田家、菊池家、相續、養子、札幌農 きよりかゝって旧母を睨む。 どうそ 學校、上京、「出て行け」、「恩になって居ながら」、「短氣を起しな 「何卒御勘辨ーーお節さんも少し言葉が過ぎはせんか。ーーー此様なさんな」、など云ふさま , ~ 、の言が一時に腦中に揉み合ひ、もつれ 事は考 ( た上にも考なければねあなた、此談は今日は此まゝ預っ 合ひ、腹も立てば、嬉しくもあり、口惜しくもあり、馬鹿らしくも て、まあ篤斗分別した上で、またあらためて相談する事にいたしたあり、失望もし、何が何やら一切分からぬ。足は伯父の家より學校 こしらんさうやヘむぐら ら如何でございましゃう」 へ通ふ往還を歩みながら、心はまるで胡思亂想の八重葎を分くる有 と伯母は一方の手に良人を控〈、一方の眼に妹を制し、しきりに様。 ことば 氣を揉む。伯父は默って立って居たが、突と座敷を出て行った。 びっそり 兎に角僕は今生涯の一轉角に立って居る。伯父の言に從って唯と あとは寂然。伯母は大息ついて「お節さん、わたしが惡かった、 云へば其で濟む。何事も圓滑に行く。併しながら其様なれば、「菊 此間から内相談をして見やう ( 、と思って居ながら、つい默って居池、愼太郞は最早世に存しない。「菊池」が存せぬと云ふは、「男」 の たものだからーーー斯様な事は今日が今日と直ぐきめてしまはれるこ が立たぬと云ふ意咊ではあるまいか。其様な感じがしたればこそ ちっと 出とでは無し、またゆっくり話もして見ねば、愼さんも今日は一トま 尤も些少は恥かしさも加はって居たろうが 伯父の前で否と づ學校に歸ってね、 また其内あらためて何かの相談をすること云って、伯父を怒らしたのである。其れなれば、前言を守って何處 いや あのやう 9 にしましゃうーー待ちなさい、其袂の綻び様」 何處までも否と云ひ通さうか。伯父は、現に彼様に怒った。今後と 5 と伯母は手づから綻を縫って呉れた。 ても同様であらふ。また萬々一伯父も旧母も怒らぬにした處で、先 1 三い しゃうがい いや はい

4. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

3 5 の傾く原と云ふが、野田家は萬々歳で幾久しく御祝ひ申すと云ふ意 あの 、知事が飛んで來て「野田君、野田君」と掣すると、旧父はいよ 味の文句が書いてあった。彼三次郞君が、十七歳の大童、襯衣一枚いよ烈火の如く怒って、 ゃうす えこひいき の跣足で、泣く / 、家に歸って行った光景を想ふと、可笑しくもあ 「貴様までが依怙贔負するか」 よこすつう り、また氣の毒にも思はれて、僕は三次郞君に對して別に憎みも怨 と罵りざまに知事の横素頬をいやと云ふ程鐵拳にはり飛ばし、果 みもしなかった。併し此事あって、伯父の僕に對する愛の昔にかはては總立の騷となって、やっとおさまったのは一時間も後であった らぬことを知ったのは、あまり不愉快ではなかった。 あき そうな。知事は怜悧な男で、大人になって伯父の亂暴を大目に見て 僕は實に大一郞君の . 死去が伯父のにあけた其缺陷を滿すことは置くことになったが、件の議員が伯父の嫌ふ程頗る腹黒い男で、到 出來ない。鈴江君でも出來ない。併しながら大一郎君を除いては、 頭告訴したのであった。幸い伯父の友人や駒井先生逹までが非常周 鈴江君についで尤も愛せらる、者は僕であった。而して逝く者の終旋し、其れから僕の母が伯母と同道して彼議員の細君に談ずるや に還り難く、哀のや、沈むにつれて、僕は伯父の僕に野する愛のら、大骨折ってやっと伯父には内々で件の議員に詫从を入れる事に 日に , 彌増すを覺 ( たのである。僕が頻りに本を讀むで居る傍をなって、告訴を取り下げて貰ひ、僕は車を連れて伯父を迎 ( に行っ 通っては、 た。後で聞けば、伯父は未決檻に居た一週の間、最初は火の出る様 「愼どん、勉強が過ぎるぞ。 死んで學問が役に立つか。さあ、 に怒って居たが、二日目位から草臥れたのかぐっすり寢てばかり居 運動 / 、」 て、醒れば昔し薩軍の本營に囚はれて白刃の間に鰻飯を注文した格 と旧父が僕を引立て & は、散歩に行く其容子を知らぬ人が見た で、鰻の鮓のと頻りに取り寄せて居たそうだ。 ら、親子と見たかも知れぬ。 いちしる 伯父は罰金輕禁錮を覺悟して居たので、其ま又裁判にもかゝら 伯父が僕を愛するの著しふなるにつれて、母の顏は次第に曇「ず、靑天白日の身となったのを不思議に思ひ、何か其處に魂膽があ て來た。 るやうに疑ふ容子であった。家に歸って伯母や母の顏を見ると、 おまへ 「卿、黑木に會ったかい」 い、え 「否」と伯母は答へる 十六年の秋期が始まって、程なく僕は、一の不快な報に接した。 「まさか詫从は出さなかったろうな」 こういん 誰か思ひかけやうぞ、野田們父の拘引されたと云ふ凶報を聞ゐたの 「否、其様な事はございません」と母が立派に云ひ切った。 うさん ひとりご である。 伯父は胡亂そうに伯母や母の顔を見て居たが、やがて獨語っ様に、 驚ゐて伯父の家に歸って見ると、仔細は直ぐ知れた。伯父は此頃「彼意地惡がよく告訴を取り下げた」 はじめみなさん の までも引っゞいて縣會議員をして居たが、議員の中にかね , ~ \ 伯父 「其には知事さん初諸君が色々骨を折って下すったのでございま 出の嫌って居る黑木と云ふ男があって、先日の事知事議員一座の宴會す」伯母は語を挿む。 に何かの間題について激論の結果、伯父は怒に得堪〈ず、縣知事初 くだん 「知事が如何した ? 」伯父はすぐカンが昻ぶる。 め公衆列座の前で件の議員に飛びかゝって、蹴倒し、呆氣にとられ 「斯様でございます、知事さんが告訴の事を聞きますとね、彼者を ひどく て諸人が眼をって居る間に、伯父は件の男を蹈みにちり、撲ぐ 呼びつけて、非常叱ったそうでございます、野田先生から撲たれた せい

5. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

思出の記 に會ったことはないが、其寫眞 ( 洋服を着て英雄乎としてうつって べし、輕蔑の意を明々に發表す可しと云ふが、僕等の不文律であっ て、苟くも此律に違ふ者は蒲團蒸より猶ひどい「婦女子の腐れ」の居た ) や其手紙 ( 伯父の子だけに細節に拘はらぬのであらふ、無學 した 嘲を受けるので、西山塾生中には隨分心に母を戀い姉妹を懷しむの僕が見ても誤字だらけであった ) を見ては、東京ーーー彼東京に勉 者があっても其を表するのを憚って、時たま道に姉妹に逢っても知強して居る彼が羨ましくて堪らず、竊と手紙を書いて、薫陶を希 かたしけな おっかさん よそ ふの交誼を辱ふしたいのと知って居る限りの鹿爪らしい文字を並 らぬ顏で外を向き、家に歸って阿母が「まあ、其綻は ! 」と針もっ ゐなかもの べたが、大一郞君は田舍兒何をか知らんと思ったのか、如何だか、 て引とめるのを振りきって逃げて歸ると云ふ有様。だから僕なども、 ちょっと あが 些も返第を呉れなかった。僕は不平で堪らなかった。 二年前田舍から出て來た時は女禪の如くに崇めた鈴江君に對して いさ、 母が伯母を扶ける程では無いが、僕も聊か伯父の助になった。伯 も、わざと脾睨の態度をとって居た。併し今度伯父の家に歸って、 さう′、、 父は流石に地方の名望家だけ、一昨年來縣會議員に撰擧せられて、 朝夕一所に居て見ると、其様々々睥睨ばかりしては居られず、つい 仲好になってしまった。其さら / \ として、男の様に、妙に鷹揚な所時々縣令 ( 米だ知事とは云はなかった ) と喧嘩しながら、未だ其職 に居たので、隨分文筆の要も多かった。伯父は兎角不精であった が、僕の氣に入ったのです。鈴江君も鈍才ではなかった。併し僕に なかんづく は一籌も二籌も輸して居た、ーーと其様鈴江君は思ったと見 ( て、僕が、就中筆の方は極々の不精で、手頃の者が來ると直ぐ引捉へて手 が大嫌ひの算術の難題を持かけては弱らせたが、併し其代はり僕は紙を書かしたり、帳面をつけさすのが癖で、凡そ伯父を識って居る いちどにど 日本支那の歴史や別けて三國志の講話に大氣焔を吐いて、鈴江君を程の若者に、曾て一回二回伯父の臨時祕書官を命ぜられた經驗がな おとうさん い者は恐らく一人も無い位。鈴江君も思ふに乃父の手紙で餘程手習 煙に捲いてやった。僕は鈴江君と少なくも一の趣味を同ふして居た くだもの 其は菓實の趣味です。如何も艶消な話だが、僕は或時鈴江君とをしたであらふ。僕も此度伯父の家に歸ったについては、印刻御用 ちょいと 梨子の喰比をして、僕が十三に、鈴江君が十二喰って、僕は母から召があって、「愼どん、御苦勞だが、一寸此返事を書いて呉れ」。此 くわんし がロ切りで、其れから毎日日にち「愼どん、一寸此を寫して呉れ」 鈴江君は伯母から大きに叱られたこともあった。 ( 尤も伯父は莞爾 「此を讀むで呉れ、愼どん」 : : : 愼どんも中々忙しい。併し僕もま として笑って居た ) 。前にも言った通り、伯父の屋敷も大分落つい たわ、 て、菓樹も漸々實を結むで、一歳柿などは已に枝も撓に實って居んざら嫌な事でもなし、伯父から賴まれるのが何だか大人になった る。鈴江君は好娘であったが、唯一ついけない癖は、枝上の菓實を様で、唯々と云はるま又に要を逹すと、伯父は喜んで、鈴江君と どっち こ、ろ 一口噛むで熟否を嘗むることであった。時たま庭園を歩いて見る何方が實子かと云ふ位に僕を可愛がって呉れた。 ちゃうど 新任祕書官の室は、大臣室の直ぐ隣の長四疊。間は懊で仕切っ と、恰子供の背丈のとゞく位の下枝の梨や柿の實におりノ、前齒 せんかん て、他の二方は椽、椽外は竹林で、千竿の綠竹猗々として戦いで居 の痕形が殘って居て、はあ野田令孃先刻屋敷廻りをせられたな、 いっ る。午後の日盛りになると、僕は毎も籐椅子を此椽に持出して、伯 と直ぐ知られるのであった。 いびき ふたっ 鈴江君の令兄大一郞氏は、前に云った通り僕に一一歳上で叔母 ( 伯父が雷の如き鼾を聞きながら、滿身に竹影を浴び、踵で板椽を蹴り 父の妹 ) の監督の下に、東京の某學校に勉強して居た。しば / \ 歸蹴り、好きな本だの東京の新聞だの讀むで居た。 流石に地方の名望家と云ひ、客好きの們父の事で、隨分來客の數 7 省したいと云ふ手紙が來て、伯母も頻に顏を見たがって居たが、伯 3 父は卒業の上で無くば歸省はならぬと毎も叱って遣った。僕は從兄も種類も多かった。伯父の居間兼客間は直ぐ隣だから、其話聲は嫌 けむ へいげい したえ いっ そっ そよ

6. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

をき さす なきがら うと唸って、一つ咳嗽が聞 ( た。僕が伯母の後に跟いて、奧の間に手を盡した。時々其骨太の體を摩りながら已に亡骸の様な寢顔を眺 入った。行燈の光で見ると、此處も六疊位で、其眞中に、枕を高くめては、寤めたらば一言たりとも未來の安心を説かうと思っても、 して、仰向けに寢て居るのは伯父である。ふっと僕の顔を見て、 寤めて子供の様な莞爾々々を見てはまた思ひ斷へ、唯安らかに此大 「広 ? 大一郎 ! 如何して來た ? 」 なる、不幸なる靈を迎へ玉へと祈った。 うつむ わきむ 僕はぐっと詰まった。伯母は俯き、母は側向ゐた。鈴江君が、 大晦日の午後は殊に機嫌よく、冬ながら日影の暖かなるに、障子 おとうさん おほだこ こ、ろみ 「阿爺、愼太郎さんですよ」 開かせて村の者共が大紙鳶の試揚をするのを、莞爾々々眺めて居た と云ふと伯父はいよノ \ 怪訝の顔「愼太郎々々々」と云って居た が、其夕方から次第に昏睡の从態に陷って、午後の容態の良好のに つかびうちっ 欺かれて城下に歸った醫師が追かけ使者と打伴れてまだ返へらぬ其 「ホウ、愼どんかい、愼どんかい。何處へ今まで行っとった ? 此内、丁度夜十二時と云ふに、伯父はぼっかりと眼を見開き、 處へ來い、 「國會が開けたか、どれーーー」と云ふを末期の一句、かなはぬ體を ゐざりよ たす 出さうとした手はカなくばたりと落ちた。僕は膝行寄って、其手半分起しかけた。驚ゐて扶くとすれば、忽ち大木の倒る又様に體は を握り、 ばたりと僕の腕に倒れて、最早父の大なる靈魂は此世には在なか 「伯父様」 った。 と云った切り ( 會ったら彼樣云はう斯樣言はうと途すがら思った ことは何處へやら ) 頬骨高ふ、眼は惘々として、然も莞爾よよ子供 の様に笑ふ旧父の顏を見つめて、聲を呑むだ。 旅に病みておきなが夢は枯野を駈け廻り、孤村に死して伯父の魂 くら 伯父は大晦日の夜まで永ら〈た。其間、燈火の明るく闇くなる樣は其の多くの事を企て一の事をも成し遂げぬ世をば遺憾の眼に顴 に、知覺がつくかとすれば、忽ち失せ、「愼どんど、」と呼ぶかとみたであらふ。思〈ば伯父の一生は、彼ア・マゾンの河に生ふてふ鬼 ばす いたづ 思ふと、「大一郎よよ、、」と呼び、村の蠶種を上州から取り寄せね蓮の葉は徒らに大きくて、此と云ふ花もなく實をも結ばず、例〈ば ひとりご つばさいた ばならぬと獨語っこともあり、またもとの屋敷に居る積りで「豚小 翅傷めし大鷲の志はやれど身從はず、鳶鳥にさへ笑はれて、世を いきどほ はらわた 屋を取りはらって蜜蜂飼はう」なぞ云ふこともあり、伏見鳥羽を云憤り、身を悶〈、吾と吾腸を食ひやぶって斃れしこと、思〈ば ふかと思へば、「西鄕未だ止めんか」と歎じ、實にさまみ、であっ 哀しく、而して其の産を破って孤村に病みながら、猶朦朧とした腦 たが、併し始終莞爾々々して居た。唯待ち兼ねて、飯を呼ぶ時のみ中にも國家を思ふ暮年の壯心、國の前途を氣遣ふ末期の一句にも櫪 らうき は、駄々を捏ねる子供の様であったが、伯母と母は頻りに珍味をエ に伏す老驥千里の志あらはれて、愈よ哀しく、伯父の死顏を眺めて の夫しては、機嫌をとり、食事は伯父の手がかなわぬので、鈴江君が死別の悲にはあらぬ涙の湧き出づるを僕は抑〈難たのである。 思いつも箸をとってす乂めた。 ( 僕が先月送った牛肉の罐詰の伯父に あゝ伯父は逝ゐた。十二から十六の年まで子の如くに供を可愛が むくい 喜ばれたことを聞くにつけても、今度あまり急いで何もかも忘れた って呉れた伯父は、まだ何の報復をする間もなく、一時の誤解に生 ゆきちがひ せめ のを殘念に思った ) 。僕も晝夜伯父の傍を去らず、寢かへりに抱か じた行違をまだ十分に直す間もなく、永久不歸の人となった。切て さす わが か〈、手足を麾り、伯父は知らずも、せめて吾心やりに十分看護の其息ある内に歸って、末期の床に侍したのを、吾思ひやりに、假令 うん ド一う ( 十五 ) まつご たふ かね

7. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

8 4 と僕を引張って、屋敷まはりに出かけたが、何を見るでもなく、 年伯父伯母が歸國する時東京に殘して來たので、今年の夏は五年ぶ もくねん 默然として行く。僕も何と云って宜いやら知らず、默然として旧父 りに歸省する筈で、つい四五日前も大一郞君の手紙が來て、二週間 すると歸省の途に上る、鈴江にも澤山土産を持って來る、愼太郞君のあとに跟いて居た。 にも宜敷などと今から思へば暇乞の、何時になく行き渡った愛嬌を 其れから十日ばかりたっと、東京から細かに事の次第を報じた手 かへり ふりまいてあった。伯父も祕藏息子の歸を期して、近來何時も上機紙と、遺髮、寫眞などが屆ゐて、また一家の涙を添へた。病氣柄骨 嫌であった。伯母の如きは、大一郎が歸る、歸ると、逢ふ人毎に吹を送ることも出來なかったので、遺髮だけ葬った。墓地は屋敷の最 ちゃう 聴して、浴衣を縫って置くやら、部屋までもキチンと整理して、大高處で、僕が此家に初めて來た日鈴江君と共に腰かけて東京の話や 一郞は小麥團子が好きであったと今は十八の靑年をまだ十一二の子大一郎君の話をした其大石から程遠からぬ場所だ。共處に二本の櫻 つきこまか 供の様に思ふてわざ / \ 搗が細い様にと一里も其上も離れた水車へ と梅に護せられて、生前には終に見るに及ばなかった其屋敷を、大 たび 粉を挽かせにやって居た。鈴江君の如きは、顔見る毎に「兄さんが 一郎君の墓は見張り顔に立って居る。伯父も時々行っては墓邊の草 歸る、兄さんが歸る、大きくなって來なさるでしゃうねェ」と、其をむしり、伯母も屡々隱れて泣きに行った。鈴江君が朝々行って 様云ふ自身も僕より却って大きい位だのに、兄をまだ子供と思っては、園の花野の花となく立つるので、墓は宛ながら花に埋れて居 はた こ 0 居るかして、屋敷内で一番甘い桃を「此れは兄さんの」と人を側へ これから も寄せなかった。僕も今年は大一郎君に初對面をして、東京の話も 此後旧母は何時でも僕の顏を見さへすればほろ / \ 涙をこぼす。 聞かふ、學問の程も覗はう、と樂しむで居たのに、僅かに寫眞で顔僕は伯母に濟まぬ様な心地がして、伯母の顔を見るのがつらく、其 へた を識ったばかり、ものも言はずに此ま乂幽明を隔てしまふとは、 家に行っても旧母の眼を避ける様に / \ して居た。 何たる果敢ない事であらふ。伯父は頻りに咳拂ひをして居たが、 しつ。、う 「虎列拉位で死ぬる、意氣地のないやつだ。お實、最早大概に詮め るが宜いぞ」 實に其年の夏休程打濕った休暇は無かった。伯父は鬱々として、 伯母は涙を拭ひ、拭ひして、 ともすれば失望の化物の剃殯を相手嫌はずふりまはす。伯母は素よ あれ いつもさええ、 「はい、いくら泣いても、彼が生き復へるちゃなし、最早詮らめま り、大様の鈴江君、さては平生冴々とした吾最愛の母までが、浮か あれ おと す、詮らめます。東京を立っ時、彼が叔母さんに、手をひかれて、 ぬ顔で居れば、冴へたものは柱時計の響ばかり。斯陰氣に搗て加 はとば めさき 横濱の、あの埠頭に立って居たのが、まだ眼前にちらついてーー毎へて、僕は實に結構な件侶を得たのである。待ち設けた大一郞君 このとも 年歸りたい、歸りたいと云ふのを、延ばし延し、てさあ歸ると云ふは、永遠不歸の客となって、來て欲しくもない斯件侶が來ると云ふ 際にーー不孝者が」と伯母はまた泣き出した。母も慰めかねて、共も、何かの約束事であらふ。 さしうつむ ともらひ に差俯いてしまふ。鈴江君もしく / 泣き出す。伯父は 大一郞君の葬式には、流石に平生疎遠にして居た親類も少なから しろあはた 「馬鹿が」 ず集まった。其中に髮は切って、滿面に白痘痕を帶びた、四十位の あて あれ と何を當ともなく罵って、 大の女の、辯舌逹者に周旋するを、誰ぞと母に問ふたれば、彼は笠 「愼どん、屋敷まはりでもしゃう」 松後家と云って、伯父の從弟に當る人の寡婦だと云ふ。成程笠松後 きは じぶん あき みづぐるま ふい おほゃう ( 十三 ) いとこ やすみ ふだん この

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6 3 あなたじぶん あの いろ / 、 と怒ると、伯母は「如何して良人、自己の子供を育つるのでも思ふ たる彼忍耐執着の力を缺いで居たので、種々有益な經綸を立てる あかご が、直ぐに惓む、行はれぬと腹を立てる。實に公共心のあった人様には行きません。孩兒相手の心持で無くては。田舍者は叱ると呆 で、他人の事は寧ろ自己が事よりも世話する方であるのに、此粗大れるばかりですから」と慰めて居た。 ふたう ふ亡ん 實に旧母の着實なる思慮と母の富贍なる經綸不撓の氣力と、左右 と短氣の爲めに却て往々吾人望を殺ぐ様になって了ふこともある。 たす 凡そ日本の改良は先づ有志家其人の居村から始めねばならぬと云ふより伯父を扶くるにあらざれば、野田家は頗る危かったかも知れ ぬ。母の働と云ふものは、非常であった。養蠶製茶の時節に偶塾 のが伯父の素論で、戸長初め村の重立た者を呼び寄せてはしば / \ いちどにど から歸って見ると、母は筒袖の着物を着て、大勢の男女を使い廻し 説得して居た。併し改良が一回二回の説論でおいそれと出來るもの よっにど なんた て、眞黒になって働いて居た。雇人も伯母よりは餘程母を恐れたそ なら、何もわざ / \ 志士の涙を搾ったり、殉道者の血を流したり、 へきえき さう する迄もあるまいが、左様行かぬが世の中。伯父は誰から聞いたのうだ。尤も母が氣力の熾なので、流石の伯父も辟易して、時々衝突 もあったが、併し伯母は勿論、伯父も母の盡力の如何に野田家に必 か、泰西諸國と並び立つには是非日本の人種改良をせねばならぬ、 人種改良は先づ食物改良から始めて大に肉食を奬勵せねばならぬと要であるかを認めて居たのである。 くわい 云って 隗は勿論此點にかけては今更あらためて云ふまでもない 率先者。ーー村中に是非鷄豚を飼はせやうとかゝって、自身世話して 鈴江君は僕と同年の早生れで、恰も十四。僕等が故鄕から出て來 洋鷄の種を取り寄せ、自家の卵まで孵へさして、重なる家に雛っ子 かしら てんしんまげ もういてふがヘ た頃、其頭にのって居た天溿髷は、最早銀杏返しになって、背丈は を二三羽づゝ配ったが、一平が家のは猫めがとる、二作が宅では下 ぶちころ おっこ 小柄の僕より却って大きい位。何時か田舍言葉を覺へて、「兄さん 水に陷ちて死ぬ、三右衞門が豚は畑を荒らしたと云って打殺して食 ぬえご ふ、いや最早散々の成績。それから甘藍を植へさせると云って、わは來年戻って來なはるのですよ」なんて鵺語を使って居たが、共れ たまな でも流石に水道の水で磨いた名殘はあって、何處か垢ぬけがして居 ざノ、甘藍栽培法を平假名に書き直さし、其を活版に刷って戸毎に あくをく たち すこし 種と共に配ったが、種は多分鳥の餌になり、「栽培法」は恐らく小 。超然として些も物事に齷齪せぬ悠々とした質で、大竹を割った もっと 供の鼻ふき紙になってしまった。世話好きの伯父は之にも懲りず、 様な娘、伯母や母は今些女らしく細かに氣がついて欲しそうであっ たが、伯父は大氣に入りであった。 今日の世の中子供は素より大人と雖ども無敎育では行かぬと云っ はうろく いきものいら たのしみ て、わざ / \ 先生を雇って、村に夜學校の様なものを興したが、 蛇を五分切にし、蛙を炮烙の刑に處し、總て生物を窘むるが樂 父が恐さに初めの間こそ其處の太郞作此處の茂平次も頭かくど、孫の年配から云っても、無暗に威張って強がれば其で男が立っ様に思 が讀さしの小學讀本を廣げたが、頓て一人減り二人減って、間もなふ士族根性から云っても、其頃の僕等は婦人を輕蔑してーー若くは 、先生は弟子が來ぬので敎へられぬと訴へた。伯父もあまりの事輕蔑する様な風をして居た。強い、素朴剛なと云はるゝが第一の名 をんな かりそめ に、非常に立腹して、村の者を呼び寄せて散々叱り飛ばしたが、併譽で、「婦女子の腐れ」と云はるゝ程恥辱はなかったので、荷にも ものい し立腹は改革の好手段にあらずで、村の者は大恐人りに恐入ったは「弱い」ものゝ代表者たる婦女子と對等に言ふは士君子の恥辱かな ものい 宜かったが、恐入りーーー泣寢入りで、伯父が折角の經綸も水泡に歸んぞの様に心得て居た。で、婦人に對しては言はざるをよしとす。 か 2 けい して了った。伯父は時々晩餐の食卓に其事を持出して、「馬朧共が」已むを得ず言ふ時は成る可く簡勁に言ふべし、肩を怒らし肱を張る そ キャベーチ さかん

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思出の記 7 5 く、また政治家なるものは果して何ものであるかを知った譯でも無 、駒井先生の感化を受けて、唯政治家となって天下の爲に盡さう と云ふ空漠たる考をもって居たので、國家に盡すには政治家になる べし、政治家になるには政治學を修むべしと云ふ様な極大ざっはな 見當であった。 同じ大ざっぱでも年齡は年齡だけ、們父は僕よりや又精密に考へ たのであらふ、暫し沈吟して居たが、やがて僕の顔と母の顏を等分 に見やりて、 「乃公は其様思ふが、北海道の農學校に入っちゃ如何かい」 前掛に手をふき / 、伯母が人って來るを、伯父は待兼ね顔に、 すぐ なあしつ 過る夏の事であった、札幌農學校の卒業生とか學生とか云ふ男が 「喃お實、愼どんが修業に出たいと云ふがの」 伯父を訪ふて、頻りに高談雄辯したことがある。伯父は餘程其話が 「愼さんが、修業に、」と伯母は僕等母子の顏を眺めた。大一郞君 だしぬけこん 身にしみた容子であった。が、突然に斯様な事を言はれて、僕はぐの死去後は、伯母も餘程氣弱に、涙脆くなった。儺が上京するのを っと詰まったのである。 また死に又でも行くかの様に思ひ做した容子であった。 「農學校は嫌かの。嫌なことはあるまい。政治家、政治家と云ふ 伯父は頓着なく、 かっ が、其様誰も彼も政治家になると日本は饑へる。其れよりも農學士 「共について、喃お實、彼一件の相談を持ち出して見やうと思ふ いくら になって、殖産興業でも行ると、幾何日本の利益になるか知れん。 が」 かたち 如何でも日本は農業國じやからの。農學校に入るが可、農學校が 「左様でございますね」と伯母は母の顏を眺めた。伯父は少し容を あらためて、 調子に乘って伯父は農業立國論を滔々と述べて、畢竟日本の農業「お節さんも、愼どんも、一とっ聞いて貰はうと思ふのは、乃公が もくろみ を振起するは僕菊池愼太郞の責任であるかの如く説き立てた。併し斯様云ふ目論見を立てたがな。吾家も大一郞が死んで見ると、あと ながら僕はわざ / \ 北海道まで出かけて、百姓の先生にならなくては鈴江一人で、是非養子と云ふ處だが、其養子と云ふやつが、中々 ずんと もと云ふ考が如何しても除かない。窃と母の顔を見ると、母も寸斗考〈ものでな。それで乃公が思ふには、誰彼と云はうより愼どんは すゝまぬ容子。名譽心の熾な母は、到底共一子を農業専門の一學乃公もお實も十二から世話をしてよく氣質人物を知って居る、云は 士にするを甘んじ得ぬのである。 ば實子も同然ちやから、ーーー其様すると、ゆく / \ は鈴江をつけて すっかり 話は暫し途切れた。 家屋敷悉皆愼どんに讓って、共れこそ他人雜らず水人らずで、乃公 伯父はや乂久しく考へて居たが、 等も大安心じやからな。お節さんも、愼どんも、如何思ふかの」 み、たぶ 「いや其について此間からお節さん ( 僕の母の名 ) に話したいと思 僕の胸は頻りにどきっき、耳朶がほてって來た。母は宛ながら待 ふくまでん って居た事があるが、幸い愼どんも來たしーー・鈴江、鈴江」 って居た伏魔殿の開かれた様に、覺悟はしながら少し色を變へて居 呼ぶ聲の下に、何時來て居たのであらう ? 鈴江君の白い顏が襖たが、やゝあって、咳拂ひし、 そっ ろ」 の蔭からあらはれた。 「鈴江、母さんは」 「臺所でしゃう」 おまへす : しあつら 「母さんに一寸來いと其様云へ。それから卿は少時彼方へ行って居 母の顏色は少し變った。 おっか あのこと さう

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かのらヾい 奕と大酒っ乂しむべき事、一、人間の爲た事は人間に出來る事、此寸しかねて居ると、彼爺は一向頓着なく、 8 わろ しんだいかぎり 加を毎日讀んでは腹におさめたお蔭でな、兎に角、新五と云ふ和郎は 「飛むだ事でございました、身代限なさらんでも、如何か仕様があ ちっと らっしやりそうなものに、御氣の毒な」 謔は云はん、盜賊はせん男と云ふ事が些は知られてな、まあ借錢も 僕は驚ゐた。 なし、此大きな鼻も無事 ( 右隣の客が笑った ) 、其れから愼ちゃま くだ ーー若旦那、喜んで下はれ、新五も此頃は一通り手紙も書きます まああらまし な、東京の新聞も瓧説論説が先大半分かる様になってな ( 彼詩の碁 の歌の豚の云ふやつは分かりもせねば大嫌ちゃがな ) 辛抱ちゃ、辛 驚いて、様子を間へば、偖は未だ御存知無いかと彼爺は小聲に左 抱ちゃ、愼ちゃま、世の中は氣根くらべぢや、面白いな」 の顛末を物語った。 愉快な男ではある、何だか先月來の事で少しくづをれかけた僕の 野田伯父の奇行は久しく縣下の評判になって居たが、此一兩年は 氣分を太皷た、く様にた乂き立てた。僕は妻籠の消息を間ふた。彼殊に甚しかったそうな。中にも、今春村に立派な小學校を新築す は其方面の戦に暇無しで、僕の母の方へも ( 遠方ではあり ) 最早何 ると云ふので、 ( まだ外に橋梁のかけかへなど、材木入用の事もあ とんと 年と云ふ程無沙汰をして居る位で、妻籠の方も頓斗出たきりだが、 るので ) 官林の無代價同様の拂下を願ひ出たが、官が黒木某と云 風の使に聞けば、菊池の分家堅吾叔父の家では、長女のお藤が養 0 て先年或事件で伯父に撲たれたと云ふ歴史「きの男で、中埓明 おれ 子を置きざりにしてのつべりした小學敎員と驅落し、性の知れぬ女 かぬを、伯父は腹を立て乂、未だ正式の手續も終へぬに、己が許す こをどり を叔父が妾にして大分家内が亂れて居るそうな。 と村の者を指圖してどし / 、伐らせた。黑木某は天の與へと雀躍し あたま てんまう 「否、愼ちゃま、天網ばり / \ 漏らして疎ならず、正直が頭に宿て、忽ち官林盜伐の騷ぎを惹起す。伯父が拘引される。事重大にな るで、今に彼家は丸潰れになりますぢゃ。愼ちゃまや、お輻老様は りかけたのを、伯母や親戚の婦人 ( 蓋し僕の母であらふ ) や二三の さん 今一息の御辛抱ちやでな。お袋様は御逹者ちやろか。野田様でもお老友が骨折って知事を説き、外ならぬ公共の裨益を慮る爲めの過失 あらた 變りはなかぢやろな」 だからと云ふ事になって、免許の日附を更めて、何千圓とかで其伐 僕は母が近頃は野田家に居ぬ事、野田家では別に變りもあるまい りかけた部分を拂ひ下げることになった。併し何處にも「無いもの と思ふ事を話した。 は金」で、其中幾分は村の出金や殘の材木抵當で融通がついたが、 新五が聲の大きいので、否でも耳に人る話を、隣に居た六十が 二千圓ばかりは如何しても伯父が引受けねばならぬ事になり、家屋 ぢゞい 田舍者らしい爺が聞くともなく聞ゐて居たが、此時一寸辭儀して、 敷殘らず賣拂ってしまった。偖學校は建ったが、伯父の生計が立た あなたがた おしるべ 「失禮ながら貴君方は野田様の御知己でございますか , ぬ。因で俍父夫婦は四里程田舍の山里に、小さな茅舍を求めて、今 どなた 僕は親戚と答へて、誰氏と問ふた。彼は野田伯父の隣村の隱居は其處に暮らして居るそうな。 やす で、此年會瓧の競爭で舟賃が非常に廉いのを幸ひ、伊勢參宮から本「如何も飛むだ事で、皆御氣の毒に思って居ます。はい。でも人間 願寺參詣を兼ねて上る途中と云ふ事を話し、 の慾は恐ろしいものでな、野田様の御親戚ーーエ、と、左様よよ 「野田様も御氣の毒な事で . と挨拶した。僕は其後久敷野田家〈無笠松様、共笠松の後家さんが、何か少しばかり貸金があったのを、 沙汰をした上に、母から何とも云って來ないので、此挨拶の返事一 あらう事か、血の出る様な屋敷代の殘りがあった内から、到頭搾っ ぬすと ( 十 ) さて のこり