又雄 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

場の流しで哺乳瓶を濯いで居たおくら婆さんが、「敬さん、壽代が讀んで聞かせたりして、最早誰でも知らん者はない : : : そりゃあ 8 たが山下に往って下はるてち云ふなら、山下では結構です。然しあ 5 よろしく申しましたよ」 無論例の嘘だ。然し敬二は其言葉の中に、どれ程祕密を知って居あたの爲によくない」 又雄さんは敬二に最後の決心を促して去った。 るかを讀まうとしたが、成功しなかった。お美枝さん夫婦が出迎に 敬二は又雄さんの親切を疑はなかった。然し直ぐ其勸告に從ふこ 來て居たので、敬二は新橋で又雄さん一行と別れて歸った。 とは如何しても出來なかった。彼は能勢家にも往かず、又雄さんに 敬二は此日から刻々不安な時を送った。又雄さんから漏るゝ前 ばう いとこ に、此方から父兄に白妝して置く、一番公明正大で安全な仕方だ手紙も出さなかった。恰ど敬二は甥と、同年配の從弟を連れて、房 さう しうた 州保田に海水浴に往くことになって居た。敬二は又雄さんには左右 が、敬二には如何しても其勇氣がなかった。敬二はぐづノ、と日を わた の返事をせずして、房州に往ってしまはうと思ふた。然し房州行前 渉った。 にしかた くっぬぎ 能勢家が着いて三日目の午後、敬二が外から歸って來ると、沓脱に是非能勢家に挨拶に行けと父に云はれて、敬二は澁々本鄕の西片 とあ まち に表附が二足並んで、客間に人聲がする。敬二は直ぐ又雄さんと知町に往った。分かりにくい十番地を探して歩いて居ると、唯有る巷 よろこび てつくは って、胸は早鐘を撞きはじめた。敬二は玄關外に立ったり、父の六路の曲り角でばったり又雄さんに出會した。又雄さんは歡喜の色を わアし 疊に入ったり、 立ったり坐たり始終耳を客間に傾けた。今一人は江見せて、「あ、敬さん、俺に要があって來なはったか」と云ふた。 い、え わか 己敬二は差俯いて「否」と答へた。又雄さんは失望の色を見せて、 見さんである。親類同志の壯い二人の牧師は、更に五つも年下の言 者と、協志瓧時代に復った様に快活に話して居る。ははゝと上ず「それぢや」と往って了ふた。敬二は江見さんと同居の能勢家をや った輕い調子の又雄さんの笑聲、蒸汽機關の煙突から噴き出す様なっと探し當てて、叔母さんに挨拶して直ぐ歸った。 明日は房州へ出立と云ふ日の午後、外から歸って見ると、敬二の 沸々と云ふ江見さんの腹から出る笑聲、いひゝゝと皮肉な兄の笑 聲、入り亂れて世にも憂なげに興じて居る。敬二は羨ましく腹立た座ときめた父の居間の東の小窓の下の机に封筒もない手紙がのって ひら 居る。又雄さんの手跡だ。びくりとして、披いて見ると、烈しく敬 しくなって、門を出てぶら / 、あるいた。 だじゃく すはやたけ 二の懦弱を責めて、最後の決心を促した手紙だ。敬二は冷やりし 最早歸った時分と思ふ頃、敬二は戻って來た。驚破、身長の高い た。此様な手紙を開封でよこして : : : 屹度見られたに違ひない。 二人の人影 ! 杉籬に傍ふて來るのは、又雄さんと江見さんだっ 其夜敬二が父母の蚊期に寢て居ると、一間隔てて次の六疊に寢て た。最早躱るゝことが出來ぬ。默って辭儀をすると、二人も會釋し 居る兄が敬二に聲をかけた。 て過ぎた。れたかと思ふたら、 ぬし 「今日能勢が卿に非常に怒った手紙をやったが、あら何かい」 「敬さん、一寸」 のつびき 敬二は退引ならぬ場合に置かれた。然し彼は眞直に事實を白妝す と又雄さんが呼びとめた。敬二は是非なく又雄さんに面ふて歸っ る勇氣がなかった。 , 彼は死んだお稻さんに一人の妹がある事を語り て往った。江見さんは往って了ふた。 うそ はじめた。其妹は一寸才女であることを云ひ添へた。敬二自身去年 「敬さん、あゝたまた詐を云ひなはったな」 の夏能勢家で甲斐々々しく働いたので、山下の婆さんはじめ一同の 又雄さんの聲が低かっただけ、敬二はひやりとした。 「民朋瓧の名義で手紙をやったりして、壽代は大得意で皆に手紙を信用を博した事を話した。敬二を養子にもらひたい、と云ふ議があ むか

2. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

とろ わた ふたんをんしゃ 。火も鎔かす能はず水も溺らす能はざる紳の前に聖別されたる は、平常の温藉に似もやらず、大聲疾呼、ロから火が出さうな勢で あった。焦々した頭の情態は、大勢の中に隱れて聞く敬二にも手に 我等の愛を」 斯様な句があった。 取る様に鮮やかに讀まれた。例にない其激昻の原因を知って居る敬 二は、偏に高壇から叱らるゝ様に感じた。「活であります乎。バ 敬二は一氣に書いた。然し直ぐには送らなかった。敬二は一咋年 じゃうぎ イロンは活でありました。幾人の情婦をつくる程に活渡でありま來三年越彼を弟の如く愛してくれた又雄さんの情誼を無視すること まっかう は出來なかった。壽代さん其人に對する疑惧も蘇った。翌日のタ、 した」と疊みかけた又雄さんの聲は、眞額から敬二の頭に落ちた。 ふり 例によって紫のを連ねて女學校からも來て居るからには、壽代さ次平さんが旨を受けて返事の催促に來た。振子は到頭又雄さんの方 うご んもあの中に居るであらうが、何と思ふて聞いて居るであらうか、 に搖いた。敬二は壽代さんに書いた手紙を裂いて、又雄さんに無條 と思ひっゝ近眼の敬二は左側の色ある席を眺めた。敬二は又雄さん件の降參状を書いた。書いて居ると、次第に其方の熱が加はり、感 に多分の氣の毒と、幾分の濟まぬ感をもって、禮拜堂を出た。 情を犧牲にする自己を不爛がりつ又自然悲壯の情調になって、ザギ ヘンリー マアチンなど獻身的異國宣敎師の面影も眼の前に閃 然し敬二は今更如何ともすることが出來なかった。其まに二三 めぐみ 日打過ぎた。三日目に南禪寺以來初めて會ふ次平さんが一通の手紙き、「未ダ小生ノ爲ニ殘サレタル恩寵ノ座アル乎、身刀鋸ニ死シ我 えき ハ蠻人ノ役タルモ厭ハザルナリ」などと書いた。此手紙が往くと、 を持て來た。又雄さんの手紙であった。 直ぐ平さんが半紙に鉛筆で走り書きした又雄さんの手紙を持て來 一修學未ダ半ニモ到一フズ、一女子ト輕々シク契約シタル事。 一妙齡ノ女子フ誘フテ野外ニ於テ密會シタル事。 Dear Bro. 一松崎次平ハ道德上君ニ託セラレタル靑年ナリ、然ルフ使役シテ ひっきゃう つまづき I am perfectly satisfied with your answer. May 女學校ニ往來セシメ、畢竟爲ニ信仰上ノ躓トナリタル事。 AlmightY strengthen 0 will and help ou in 0 ミ 右三ケ條、君ハ如何ニ思惟スルカ。兄弟トシテ余ハ之ヲ問フ。兄 decision 弟トシテ答辯ア一フムコトヲ望ム。 又雄 月日 而して土曜日には馳走に來いとあった。此は叔母さんの病氣も大 分快くなったので、お稻さんの病死、叔母さんの發病以來、種々能 敬二君 若將來成業ノ後尚其感情ニ變リナク・ハ別間題タルモ、今日ノ所爲勢家の爲に骨折った人々を慰勞の宴であった。敬二は土曜日に荒 けんてい 口に往き、それから江見、富岡、留田、町田共他數名と四條の健亭 目ノ如キハ全然論外ナリ。 で生れて初めて西洋料理の馳走になった。次平さんも來て、一種の 絶敬二は複雜な感を以て此一書を三讀した。松崎の事に關しては、 だんま と大様な又雄さんは何も知らぬ。然し此は又雄さんに言ふべき限でなとぼけた輕口を云って人を笑はせたりした。敬二が默り込んで居る ので、又雄さんは慰め貌にしば / 、敬二に話しかけた。 いいと思ふた。尚々書は敬二を憤激せしめた。敬二は又雄さんに答ふ 敬二は共後間もなく荒紳ロで、おくらさんの立合の下に、壽代さ る前に、先づ壽代さんに一書を書いた。 7 「御身は此尚々書を見玉ひしゃ。又雄氏は小生と御身の間を以んと手を切った。敬二は壽代さんの手紙を返へした。壽代さんは敬 4 ほっさみな 2 て、雎一時に燃えて消ゅ可き淺薄なる感情の發作と看做せるな二の手紙と半身の寫眞を返へした。壽代さんは絶交までしなくて ひとへ たんに いっ がほ

3. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

はげ じ、劇しい鄕黨迫害の中に火の様な信仰を輝かした靑年殉道者の一 の「トメ」と差向ひにぼかんと取殘された敬二が、直ぐ來いとムふ 6 8 人として、ローマンチックな色彩に彩られた又雄さんの名が敬二の叔母さんの手紙を受取ったのは、それから十日も後の事だった。尤 な、やっ 耳に初めて響いたのは、敬二がまだ七八歳の頃であった。十一二歳も能勢家が京都に越すについては、敬二も九月から協志瓧に入學の の敬二は、帝國大學の前身開成學校から京都協志社英學校に轉じ別相談がかねて又雄さんとの間に成立って居たのである。敬二は一年 ・ハイプルクラス 格聖書級の二三を下らぬ秀才として校長飯島先生から殆んど下へはと四月の甘く苦いさまん \ の憶出をあとに、汽船に乘って大阪を經 たった 置かぬ待遇を受けて居た又雄さんを見た。それから唯七年、敬二の て京都に往った。敬二が數へ年十九の六月下旬である。 たけ ひうちただ うひけんざん ル ~ 、とし 身長が一尺餘伸びる間に、又雄さんは燧灘の波ひた / と寄する豫 京都は敬二に初見參の土地ではなかった。西鄕戦爭の翌年、彼は 州の濱邊に、數百の信者を作り、大きな會堂を建て、其敎會の評判兄に連れられて京都に上り、十一の夏から十三の夏まで英語と耶酥 は遠く海外に騁せ亞米利加から祝意を表してわざ , ・ v-- 音の好い大き敎を協志瓧に學んだ。其頃は兄弟の姉のお勝も、お稻さんや又雄さ くろじゅす な鐘を贈って來た程の成績を擧げたのである。十八の春、又雄さんんの妹のお美枝さんと、協志瓧の女學校に居て、黑繻子の襟のかゝ に連れられ、鄕里の熊本から伊豫に往って、日曜の朝夕、水曜金曜った着物を着て、銀杏返しに結って、英書の風呂敷包を抱へて男校 の夜毎に、其好い鐘の音を敬二は聽いた。 へ受業に通って居た。敬二は滿二年の京都生活に關する多くの記憶 愛の使徒ヨハネの敎名を名のる又雄さんは、弟の如く敬二を可愛を新鮓に有って居た。其中心には、幼い敬二が狹い眼界で仰ぎ見る そのはじめ たかね がった。可愛がられると直ぐ本性の吾儘を出す敬二の癖で、當初一 高峰の中の最高峰と何時しか見馴れた協志瓧瓧長飯島先生の雄々し こもの こい 緖に歩くにも並んでは歩けず小嘱かなんぞの様に跟いて歩いて「卑い濃眉の下に金輪際動かぬ泰山の力と共に、底ひなき大悲の淵を湛 しか 屈な」と又雄さんに嗔られた敬二も、半歳たゝぬ間に最早又雄さん へた一双の黑い眼があった。 をあまり恐ろしい者には思はなくなって了ふた。而うして好い鐘の 京都に着くと、敬二は寺町の飯島先生の門に車を下りて、チョコ 音も、やゝともすれば敬二の胸に響かなくなって往った。會堂には レート色に塗った格子戸をあけて、昔ながらの狹い玄關の銅を﨩 じだらく 往かずに、自墮落仲間の靑年と一斤五錢の牛肉を食うて女の話をし らした。出て來た女中に、敬二は名を云って、能勢家へ行く路筋を たりして過す日すらあった。結局其年の暮には、自分の着物を質に 尋ねた。折ふし午餐中であった先生が聞きつけて玄關に出て來て、 入れ、それを旅費にして、又雄さんの世話して居る書生の一人を無敬二がよく覺えて居る彼の黑い眼で大きくなったと云った様に敬二 ねん・ころ 斷で九州に下して了ふた。其失策の反動として、敬二の信仰はまた を見下ろし見上げ、上って食事を共にしないかと懇に云ったが、 くるまや 燃え立って來た。 敬二がたって辭退するので、門前に待って居る車夫を呼んで、先生 敬二の信仰復興後間もなく、又雄さんは傅道事業に新發展を試むは丁寧に路筋を敎へてくれた。 ぜんなんぜんによ 可く、袂にすがる善男善女をあとに、七年經營の伊豫を去って、所 ひとり おこり (ll) 茶色の目 屬敎派の策源地たる京都に先づ單身で出て往った。其内を煩った あわ をんなカじゅ と云ふ電報が來たので、細君のお稻さんが遽てて老婢の加壽を連れ 又雄さんは、飯島先生の宅から五六丁北へ往って、東櫻町と云ふ くげこうち て上った。程經て敬二の叔母さんと、叔母さんの義妨に當るおいよ公卿小路の貧乏公卿の古集を借りて居た。協志瓧の學年試驗が濟む 婆さんが、三歳になるお節ちゃんを連れて上った。大きな家に飼大だばかりのところで、學科に敎鞭を執って居た又雄さんは、早速 みつつ ベル いてふ

4. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

2 た。又雄さんは飯島先生の注意で、當分先生の宅に起臥すことにな又雄さんが、沼南先生の御子息と云ふことが、何時までも忘られな むすめ かった。又雄さん美枝さんと昔から吾子吾女を呼び捨てにしたこと 幻った。弔儀客、見舞客、手傅ひの人々、伊豫の敎會から總代で來て 勝手の大火鉢を圍んで小聲に能勢家の善後策、又雄さんの後妻の事はなかった。っとめて母の位置には立ちながら、自然に卑下して、 など心配し合ふて居た老練な町田さん、耶蘇と同じ商賣の大工でや甥の敬二まで吾血筋の者と自分同様っとめて卑下さす様に敬二には 受取られた。これが敬二に氣障であった。聽かぬ氣の母によく肖た かましゃの長谷さんなども、それみ、歸って往って、あとは内輪の きやまち 小人數になった。木屋町時代にった様な氣になって、敬二は氷嚢敬二の兄が、昔から年下で居て又雄さんをやゝもすれば馬鹿にして りらぎ を換へる、湯たんぼを入れる、叔母さんの手足を摩る、かあやんが居たに引易へ、律義な父の血を多分に受けた敬二は、又雄さんに對 して僞ならぬ尊敬を有って居た。然し叔母さんの小心翼々は、却 便器を持て來る時叔母さんを抱き起す、時には藥取りにも走った。 て敬二を反撥させた。彼は叔母さんを煙たがり、從って能勢家にも お稻さんの葬式に、門口に出て、しょぼ / \ した眼をして、灰色の おとう 自然遠のく様になって來た。・父は父、自分は自分と云ふ氣に敬二は 長い髯の顋をしやくって、柩に禮して居た飯島先生の阿爺さんが、 三日も經たぬに亡くなって、其偉大な息子の學校の禮拜堂で葬式が知らず知らずなって居た。然し母と血を分けた叔母さんが、全然敬 二を牽かぬわけには往かぬ。敬二は今叔母さんが自力盡きて自然の あったが、敬二は其れにも缺席して叔母さんの病床につき切った。 敬二は昔から此陰氣な切髪の叔母さんを好いては居なかった。子捕房になったのを好い機會ででもある様に、身を人れて介抱した。 ちすぢ ちうぶう 叔母さんの病氣は、過度の疲勞から血統にある中瘋を發したので 供の時から體が弱くて、兩親に心配をかけるを苦にして、十三四か ら氣分が惡い時はわざと厚化粧して親の目を備ました程怜悧な娘あった。幸に病氣は重い方ではなかった。左の半身がや、不隨にな は、二十三で年齡の二十五六、親子程も違ふ名高い沼南先生の夫人ったが、數月の靜養で多分起居に不自由はなくなるであらう、とド うはごと になって、同居して居る寡婦の嫂親子やら、六年も前から居る妾同クトル・ペリーは云って居た。其當座棔々と死んだ様に寢て、譫言 然の加壽やらの中で、先生やら親やら主君やら分らぬ良人に事へばかり云って居た叔母さんも、日が立っと少しははっきりして來 ものい もちまへこ・こゑ て、固有の低聲を尚低くしてきれみ、に言ふ様になった。叔母さん て、多少の皮肉は含まれても兎に角其良人から「おちせは君子だ」 はお稻さんの産前に見た自身の夢の話をした。叔母さんが夢に自分 と云はれる程周到に努めぬいた叔母さん、其良人には非命の死をさ しろむく の着料に白無垢を縫ひ上げて居ると、お稻さんが來て着て見て、こ れ、又雄さんの耶蘇敎信仰では鄕黨非難の中心にされて、すんでの を、つさを、 くるしみ 事に懷劍の切尖に俯伏すまでの苦をした叔母さんが、昔から年のれは丁度私に合ひますから私のにしませう、と云って着て了ふた、 う ? 、 いかぬ敬二に陰氣に窮屈に思はれたのは無理もなかった。敬二は此と云ふのである。敬二は現にまさる夢の世界の測られぬ深さを一目 叔母さんの自己を忘れた振舞を唯一度も見た事が無かった。物靜覗かせられたやうな氣がした。贍にな話をする時は、叔母さんもま っヾき だはっきりして居るが、時々は前後の接續もない片言の様な口をき に、控へ目に、深いのが叔母さんの癖であった。伊豫に來て能 むね いて、敬二の心を痛くした。 勢家の厄介になって以來、敬二はます / 、叔母さんを好かなかっ 飯島家に寢起きして、風呂が沸いても、一番に入れらる、やうな た。叔母さんは敬二の輕卒を苦にして、考が足らぬとしば / 、敬二 懇到な待遇を受けて居る又雄さんは、瘠せてます / 、面長になった を叱った。又雄さん其人は弟の如く敬二を待つに、叔母さんは敬二 やもめすがた の事で始終吾子の又雄さんに氣がねした。叔母さんは吾腹を痛めた丈の高い姿を荒訷ロの家に見せて、病牀の母を看たり、お節ちゃ うつぶ おきふ いつはり きざ

5. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

さんの聲と搦むで聞こえた。 出した様に溜息をつく松風に和して、何處ともなく春蠅の鳴く音が 6 其聲がやむと、ステッキを持った又雄さんはつか 7 く、と入って來 2 聞こえた。二人は少し門の方へ下りて見、また山門に歸って見た。 かさ て、逃げもやらず立て居る敬一一を岌にかゝった眼鏡越しに睨みつ 來ない。松の影が大分長くなって來た。最早駄目だ、と敬二は思ふ た。途端に一輛の車が此方へ近づいて來るのが見えた。茶代を次平け、悲痛な調子で、 「敬さん、あゝたなんちう不都合な : : : 」 さんに賴んで、敬二は立上った。小坂の下に車が止った。紫の袴が こなた 「プロミスを破るつもりで : ・・ : 」 下り立っと、空色の洋傘がばっと開いて、壽代さんは此方へ上って 「プロミスを破る ? さう云ふ相談なら、家内でも出來るぢゃあり 來た。敬二は壽代さんと目禮を交はし、默って打連れて山門の少し こん ませんか。此様な所に若い娘を誘ひ出して、人に何と云はれたって 上から南手の天授庵に人った。敬二は納所に墓參の挨拶をして、 こなひだエンゲージ いしだ、み 門を人り、石甃を歩いて、庭に面する庵の木階に腰かけた。壽代さ言ひ譯がありますか。此間も約婚の事は聞いたが、やめなはったて んも五尺ばかり離れて腰かけた。次平さんは角の方から一寸顏を出ちいふから安心しとったら : : : 今日も南禪寺に往ったてち云ふか ら、若かすると思ふち來て見ると、此だ , ーー壽代も不埓だが、敬さ したが、敬二が睨むだので頭を引込めた。 あれほど 彼程熱心した會見に、敬二は別に話す事を有たなかった。二人はんあゝたは實にーーー次平さん」 すわりまなこ 並んで腰かけながら、庭ばかり見て、顔を見合はすこともしなかっ 又雄さんは、据眼で足下の砂を見て居る次平さんに向いて、 うゑきや 「あゝたにア實に面目もありまッせん。然し斯う云ふ事があるけン た。言葉は途切れがちであった。敬二は廣くもあらぬ庭に、駝師 せんざい ひくつ、じむら 基督敎が必要です」 が剪栽の手を盡した矮い躑躅の叢に火の様に燃ゆる花を見ながら、 くすぐ あたりの邪魔があるから二人の胸に祕めて何も他日を待っことにし 敬二は一寸可笑しい樣な擽ったい氣もちになったが、默って俯い ようと云ふ意を述べた。而して文筆は矢張自分の事業で、將來はあて居た。 おとうさん 又雄さんは戞々ステッキを突きながら、阿父やお稻さんの眠って る形の日本史を書いて見たい、ととりとめもない前途の空望を語っ た。壽代さんは紫の袴の裾から踏み反らした靴の尖を揃へて、甃石居る墓の方へ大胯に往って了ふた。 はうきめ しら十・かうもり 「そっだけン俺が云ふたらうが」 の間の箒目の美しく流れた白砂に洋傘の尖で字を書きながら、「わ 次平さんがきほひか又るを、 たしは其様な方が」と末を濁した。途切れがちな二人の話は、更に 「詮方がなかたい」 幾度となく隅の方から顏を出す次平さんに妨げられた。次平さんの と敬二は打消した。 五分苅頭が柱の蔭から出る毎に、焦々した敬二は大きな眼に角を立 てて睨むだ。 禪寺の庭はたそがれた。又雄さんは何時までたっても出て來な い。敬二は次平さんと天授庵を出た。 庭の日影は漸次に高く退いて、鴉の聲が耳につき出した。 たちまち 突如次平さんの聲が低く叫んだ。 ( 一 l) 伏流 「敬さア早よーー・又雄さん ! 」 突と立上るなり、壽代さんは脱兎の如く小門の方に出て往った。 翌日の日曜に禮拜堂に出て見ると、詭敎者は又雄さんであった。 むつ 小門のロで、勃然とした又雄さんの詰り整と、早口に辯解する壽代疵持っ足の敬二は、會衆の中に小さくなって居た。又雄さんの説敎 っ かた しかた から

6. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

ば隙を窺ふては出して讀んだ。狹くるしい父母の居間では、ゆっく に論文を書いたり、京橋の基督敎書店の階下を借りて居た民朋社の り手紙も書けぬ。敬二は岩佐の妨の家に往って、掃出窓のついた奧 發送部に往って、人民之友發送の包紙を手傅って廣告の赤い紙を表 にして岩佐さんに不注意を哂はれたり、兄に連れられて銀座の夜店の四疊半に人り、第二回の手紙を書いた。卷紙に一交ばかりも書い を覗いたり、父の件して甥と女中を連れて布の縁日に七草の鉢をて居ると、突然、 おくび 「大脣長い手紙を書くね」 買ったりした。彼は京都の事を噎にも出さなかった。 うしろ 敬二は然し一日も壽代さんを忘れなかった。着いた日の夜、父母 と云ふ聲が背にした。敬二はふりかへって姉を見、少し顔を赧く あんどん が蚊衂に人ったあとで、敬二は老人が例としてつけて置く行燈の火した。妨はさして氣もっかぬ容子で、押人から浴衣を出して往って を掻き立てて、六疊の隅で蚊に喰はれながら壽代さんに手紙を書い了ふた。 ある日、本鄕から江見のお美枝さんが來た。江見牧師は飯島先生 なはた あんなか 車ヲ停メテ昔ヲ鈴鹿ノ關ニ弔ヒ、舷ニ立ッテ月フ遠州ノ洋ニ眺の鄕里上州安中で久しく働いて居たが、近來東京に出て上流の傳道 メ、今日正午過ギ恙ナク父母ノ許ニ到着致候 にぼっ / \ 手腕を見せ、敬二の兄の爲に東都文壇に東道の勞をとっ と書きはじめて、「吁何ノ日カ御身ト手フ携へテ再ビ此游ヲナス た名高い經濟記者なども、其信徒の中に數へられて居た。お美枝さ ヲ得ムヤ」と書き、長々と書いて、 んの用事は、又雄さん一家が明日横濱に着くが、江見家に差支があ 君ガ至親ノ夫 るから、敬二に濱まで迎ひに往ってくれと云ふのであった。敬二は 吾ガ最愛ノ妻 ぎよっとした。又雄さんの上京は、敬二が京都の行跡の暴露を意味 たとへ と止めた。敬二は其處にあり合はせた天地を紅くして上に「人民する。最後の契約を例令又雄さんが確と知らぬまでも、從前の事實 之友」下に「民朋瓧」と白くぬいた封筒に人れて表書きをした。翌が父兄の耳に人らずに濟まされることは望み難い事である。敬二は 朝起きると直ぐ切手を二枚張って投函した。 又雄さんの事を成る可く打消し打消しして、忘る、様に努めて居 一週間目になっかしい手跡の厚い手紙が敬二の手に渡された。敬 た。明日横濱着の報は、近雷の如く敬二の耳に落ちた。 はしけ 二は其れを懷にして門を出で、杉籬の蔭に往って披いた。 敬二は横濱に往った。艀に乘って、神戸から來た本船に上ると、 しろけっ : 民朋瓧の手紙來れりと渡され、第きて手に取り候へば御手跡下等室の入口で又雄さんは汽船間屋の若者に差圖をして居た。白毛 : 父は民朋瓧より何の要事なりやと問ひ候間、民朋秕にはあら布を敷いた下の棚に坐って莞爾々々して居る叔母さんや、お節ちゃ で敬二様よりと申し候處、父は笑を含み、御無事に御着きありしん、おいよ婆さん、かあやんが歡んで敬二を迎へた。黑田のおくら の 色 や、皆樣御變りもなきやと : さんも赤坊を抱いて居た。神戸まで長加部君が見送りに來たさうで 茶 あの後、黑田の叔母は、妾の顏見るたび色々の事を尋ね、何角とある。敬二は叔母さんを扶けて艀に下りた。埠頭から皆車に乘り、 はまぐり すきや い つり出さんと致し候へども、其手は桑名の燒蛤、決して申さず敬二は又雄さんと歩いた。透綾の羽織、白足袋に表附の又雄さん ものい は、疵持っ足の敬二が色々と言ひかくるによくも返事はせず、伏目 勝にむつり顔で歩いて居る。敬二は薄氣味惡くなって、默った。 立長々と書いて、「敬二様 From your dear 」ととめてあった。 2 敬二はざっと眼を通した手紙を、また讀み返へし、其日はしばし汽船宿に着いて、皆二階に休むだ。敬二が一寸下に下りると、洗面 なにか

7. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

205 黒い眼と茶色の目 吾妻よ。 二十一年前結婚の折おまへに贈らねばならなかったのを、わ しが不徹底の含羞から今日まで出しおくれたのが此書だ。 わしはおまへに此生でめぐり合ふ前に、おまへを尋ねてさん ざ盲動をした。 此もおまへと思ひ違へた空しい影にうろた〈て流した血と涙 と汗の痕だ。 わし逹は最早此様なものも昔語になし得る幸輻な身の上だ。 形に添ふ可き影ならば、此書をおまへでなくて誰に贈らうぞ。 此は當然おまへのものだ。 わしにとって「過去」の象徴であったなっかしい 父上が天に歸った一九一四年の秋十一月十八日 太古天の浮橋を罩めた様な雲霧混沌として天地を包む朝 伊香保千明仁泉亭の新三階に於て 著者 黒い眼と茶色の目 ( 一 ) 黒い眼 くびきわれ 其軛を自己は振り棄てた耶蘇教に事新しく敬二が凝り出してそろ なまっちろ そろ自我を見せかけて來た上に、危險年齡の生白い顔をしていつま ふたおやそば きざ あによめ でも兩親の傍にくつついて居るのが氣障だったか、嫂が來てから かたき といふものは兄が敬二を眼の敵にして、少し氣に人らぬ事があれば 直ぐ撲つ、踏む、蹴る、散々な目にあはして早く出て往けがしに扱 ふを、二年前に六十二で隱居した父が見かねて、母と相談して、敬 二を其從兄に當る耶蘇敎の牧師に托した。傳道志願の名義であった かんけっしつ が、其實敬二は間歇質の凝り性から此一兩年燃ゆるが如き信仰上の 熱心を有って居たに關せず、必ずしも直接傳道師になる心はなかっ ふたおや た。兩親の方では一日も早く兄弟を引離して自他の苦艱をくつろげ わかほ たい心、敬二も己が面が不幸にして血を分けた人々の苦痛の因とな むしろ って居る目下の境涯から兎も角も脱るゝ嬉しさに、父母の家寧兄の 家をいそ / 、と出て往ったのである。 從兄の又雄さんは三十下で最早牧師として目ざましい成功をして おかあさん おとうさん 居た。又雄さんの阿母は敬二が母の妹であったが、阿父は敬二の りちぎ 父の爲には二人とない恩師であった。敬二の父は其律義な性質か いんせき かりそめ ら、姻戚關係になっても苟にも師弟の禮を亂さず、師の亡き後迄 も遺族に對するに殆んど主家に對する禮を以てした。父の血を受け 父の敬を見馴れた敬二は、學問修養の上からも處世上の地位から われ とをあまり も別世界に住んで居る様な、己より年齡の十餘も多い又雄さんを、 いとこ たゞの從兄とは思ひ得なかった。敬二の眼から見る又雄さんの頭上 には、「過去」の輝きがあった。鄕里の洋學校で逸早く耶蘇敎を信 いとこ いとこ 其一京都

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「些も分らんことはないわ。丁と分かってるわ」 「そりやいくまい。早よう東京に歸るがえ。敬さん、またそろそ こなひだ 「でも」 ろ始めたンぢゃありませんか。此間も河原町に書を返しに往きなは おとっさんに 「あんた氣が小さいわ。分かってると云ふのに」 ったって。あ乂たは阿爺に肯て正直だけん顔に直ぐ出る = : ・・人間は 壽代さんもや長焦っいて來た。 パッシ「ンの爲にリーズンを蹂躙される様ぢゃいかん。 リースンを うちか 「そんなら可いけれども、何だか當にならん」 以て。 ( ッシ , ンに打克つでなけりやいかん。わアし共も遠からず東 いちんち 「些も當にならんことはないわ」 京に往くけつどん、あゝたは一日も早よ東京に歸った方がえゝ。旅 敬二はぢ 0 と向ふの墓に腰かけて居る壽代さんを見た。十四で浮費は送「て來たらう」 名を流して、此樣な密會にも敬二が知らぬ經驗を有って居るらしい 共旅費は最早つかっていくらも殘って居ません、と敬二は白妝が 此十七 0 娘を、敬二は恐怖 0 まじる好奇心を以て眺めた。茶色 0 眼出來なか 0 た。兎も角も虎〔を逍る、思で後園を出た。 を伏せて、何かを待っかの様に下向いて居る壽代さんの傘の柄を 又雄さんは傅道の都合上近々家をまとめて東京に引移ることにな 持 0 た嫩さうな手は直ぐ敬 = 0 前 = あ「た。然し敬一一は其手を握「一」居た。叔母さんも罅 0 入 0 た體ながら、長途 0 航海」も差支な い程になって居た。敬二の東京行がきまると、おくら婆さんはしき 二人 0 間には此約束を祕密 = する事、寫眞を交換する事、機會をりに愛想をはじめ、到頭敬一一と相乘車で四條に往 0 て、敬一一 0 爲に 待 0 て敬二の父母にも打明ける事、其他とりとめのな」ことを言ひ茶黐白縮の單衣地を見立てくれた。 あって立上り、墓場の日蔭から通りの夕日に出た。 敬二は背水の陣を敷いて協志瓧に歸った。彼は放費の不足を補ふ 二人は寺の門の前で目禮して別れた。 途を案じた。ポストの前でひょくり會ふた顔は彼に案外速な解決を 敬二は手答 0 な」も 0 を押した様な呆氣な」物足らぬ感じ學校與〈た。それは兄 0 家塾 0 閉鎖と共」、京都に來て豫備校 = 人 0 た 敬二の同姓武作と云ふ始終喫驚した坊ちゃんの顏をした靑年であっ た。同姓の名に對して、武作君はあまり心易くもない敬二に快く五 圓の金を立替へてくれた。 あくる朝一日が高くなってまだ片貝君の室に寢て居ると、又雄さ 旅費は出來た。次は旅程だ。其頃はまだ東海道に汽車はなかっ んの命で長加部君が敬二を呼びに來た。敬二はぎよっとした。長加 た。戸から汽船にしようか、とも思ふたが、經費の都合上四日市 0 部君はちょ 0 と敬 = 0 顏を見ミ直ぐ」 0 も 0 伏目 = な 0 一」、眼 0 ま車「往き、それから汽船と云ふ 0 と = した。車は今出川門 0 直 茶下の紅い隆く秀でた頬骨を動かして、薄笑をしつ又、要するに心配 ぐ傍に居る倔強の車夫を四日市まで一圓五十錢で雇ふた。 する程の事でもあるまい、と云ふ意をほのめかした。 七月二日の早朝、敬二は泣顏した片貝君や、伯父さんによろしく 黒敬二はびく / 、もので荒神口に往った。又雄さんは敬一一を後園に と云ふ武作君に別れて、協志瓧の門から車に乘った。荷物は柳行李 連れ出し、夏休を如何するかときいた。敬二は京都に居殘らうかと を一つ蹴込にのせた。荒溿口に往くと、叔母さんは一人先きに往っ 思、旨を答〈た。又雄さんは眼鏡越し = 、敬 = 0 顔を見下しな〈ら = 了、 0 〈《涙を浮・〈た。又雄さんが、色都合もある〈らと辯解 してくれた。敬二はおくら婆さんの世話で、仕立下ろしの白縮の單 びつくり

9. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

た。西洋人が英語でするのかと思ふたら、協志社出の敎授で一方腫幾干もなかった。課外の時間は、相國寺前の通りを中に東西と分れた れぼったく一方は小さい片ちんばの眼をした矢部さんが、邦語で二協志瓧東部の人り口に近い十一の敬二が一フールニングさんから片一一一口 三の試問をして、ある箇所の譯讀をさした。矢部さんは、敬二が前の日本語で四音書を授けられた、もと三十番と云ってた小さな建 はぐきあら 二年の協志瓧生活中一年後れて入學した人で、敬二からヰルソンの物で、近眼鏡をかけて赤い齦を露はし駈足でもして來たあとの様に さしむかひ 第一讀本を敎はったこともあるさうで、試驗をする時冷汗が流れた 息せき物言ふ同級の高田節之助さん逹と差向に勉強して過した。敬 つまづ と人に話したさうな。敬二は少しもそれとは知らず、一寸した躓き 二はまだ協志就の客分の様な氣がした。彼が通學をはじめて間もな これら はあったが兎に角成績表に十點の記人を受けて、歸ってお稻さんにく、 本屋町に虎列刺が發生して、能勢家は交通遮斷の繩張内になっ めのたま 見せると、お稻さんはぎよろり眼球を動かして「えらいツ」と笑っ た。敬二が表に出て見て居る内に、巡査や白い消毒服の醫員が人夫 た。お稻さんは敬二が試驗を氣にして、其二三日前も「敬さんが試驗を指揮して、つい鼻の先に繩を張らせた。丁度其時高瀬川の小橋を の間を出されて、いつまでも默って居なさるから、はらはら思ふて居渡って此方へ來かゝった壽代さんが、敬二と目を見合はすと一寸肩 ると、やがてゆる / 、ロを開いて立派に答へなすったンで、ほっと をすぼめて、 こは 息をついた夢を見た」なンか云って居た。米國史は、面識りの沈田 「お、恐、繩を張らはる」 しりあひ 先生がさっさと十點を呉れて出て往った。代數は、これも識合の佐 と言って、其まゝ目禮もせず歸って了った。敬二はいやな氣もち 藤先生がにこ ~ く、しながら九點をくれた。會話は、女學校に新婚の がした。翌朝は裏の板塀を乘越えて學校に往った。 女敎師と棲んで居る顰め猿の顔をしたカーデーさんにアップルトン 其繩張りがとれる頃、又雄さんは六十餘日の長旅から歸って來 かう・こ の第三讀本を讀まされ、ロ數多くて要領を得ない問答をして、無理た。敬二の協志粃人學について、又雄さんから父に談じて、向後月 にとは云はぬが二年に入ったら如何かと勸められ、では三年に人っ月四圓五十錢宛鄕里から送って呉れることになった。又雄さんが歸 て二年の會話の傍聽に來ましようと云って出た。馬鹿にして居た文ったので、敬二は明日からでも寄宿の積りで居たが、何時までたっ いつもいらノ、 章軌範は、英語全盛の學校に孤立して居常焦々して居る漢學者谷本ても何の沙汰もないので、たまりかねて申出たら、寄宿よりも通學 先生の宅に往って、八字髯を生やした訷經質の蒼い顔の先生から、 にした方がよかろ、と又雄さんは同意してくれないのであった。敬 かんたいし くわもくにおうするときひとにあたふるしょ しかた 韓退之の應科目時與人書を讀まされ、音が違ふの、講義が不二は腹を立てたが、詮方がないので、一切無言のストライキをはじ しょげ 親切のと散々脂をとられ、七點をもらった。いさゝか悄氣た敬二をめた。毎日澁い顔をして、默って起き、默って戸を開け、默って食 から 目 の お稻さんが慰めて、漢學の先生は點が鹹いで有名な人で、谷本さん事し、默って通學し、默って歸り、通學以來幾分加減された掃除も ものい 色 の七點は他の十點に當るって、壽代が云って居ましたと云ふた。 すべて無言の中にして、問はるゝ外は決して言はずに居た。一週間 茶 入學試驗も濟んだので、敬二はお稻さんから月謝をもらひ、必要ばかりもストライキがっゞくと、又雄さんも到頭根負けして、寄宿 い の敎科書は其處此處から借りてもらって、新學期の開始と共に協志を許した。敬二は早速粗造な古テープルを買ひ、椅子とランプは木 黒 瓧に通學をはじめた。最初から寄宿に入りたかったが、又雄さんが屋町で親しむだのを借り、鄕里を出て以來伊豫から京都と持ち廻っ 〃歸るまで兎に角通學と云ふことにした。かあやんに握り飯をこさへた古い中形の柳行李に、着類と、其ある部分は書人れで眞赤になっ きやまち しゃうこくじ どしぎ 2 てもらって、毎朝木屋町から相國寺前に通った。協志瓧に通學生はて居るちぎれた表紙を手細工に羽織の同士切れと黒い木綿絲で綴っ しか おく いくら このかた

10. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

ゐをく なんた で師の命日には遺墨の前に涙を垂れて居た。師が京都の寺町通りでた。而して其あとには屹度、敬さんの様だ、と嘆息した。お稻さん たふ 刺客の刃に斃れた其日、二百里を隔てた鄕里で、敬二の父は師に群は妹の吾儘をにや / \ 笑って聞いて居た。自家では誰でも其様たと がる刺客を父自身ばった / と片端から斬り倒す夢を見た。總じて思ひながら、敬二は蔭で含笑むで居た。 たち 己を後に、人の爲に、と云ふのが祖先傅來敬二が家の家風であっ お稻さんは大まかな男の様な性質の人であった。會津の女だけに おうやう た。敬二の父も母も財には淸く利に疎い人々であったので、父が地中々剛情で、隨分吾儘でもあった。貴公子らしい鷹揚な點はあって 方での顯官になって門戸が廣くなると共に、出るものは人るものよ も、性來氣が弱くて細氣のつく又雄さんは、却て女の様であった。 り多く、父が官を辭し敬二が人心つく頃は、父母の當惑顏を見るこ其様な話を好く信者仲間の若い者でも、あの事だっていつもお稻さ とが一再ならすあった。敬二が父母の家を出て又雄さんの肚話になんから催促するのだ、と笑って居た。謹深い悧巧な叔母さんは、 よめ る時、父は恆の心を失はぬ事、耶蘇敎に熱心のあまり他敎を誹議し 如に對する苦情を容子にも見せなかったが、家族の中でのお稻さん たりせぬ事と二ケ條の訓誡と共に、月々五ト錢の小使錢を呉るゝ事の評判は好くなかった。ロの惡いおいよ婆さんは、「結婚する爲に を宣言した。伊豫に來ると間もなく、英語の初歩を敎へて月々二三 お情で卒業させてもらうたてちいふもン」だの、「京都に來ると二 あひのり 圓の收人が出來ることになったので、敬二は例の無分別から直ぐ鄕人乘の車があるけン直ぐ夫婦合乘で出かくる」だの、とさまみ、に 里に月々五十錢の送金を辭した。其後は一時自炊をして見たり、食毒づいた。敬二が物心づいてから、能勢家に行くたびに、二人の女 ちやせん 道樂をはじめたり、經濟が自然に亂れて、伊豫を去る時は信者仲間 隱居を見た。若い方は、まだ黒い髮を茶筅に結ふて、沈んだ顏をし の菓子屋や書店に多少の借金が殘って居た。京都に來ては、敬二はて居た。年上の方は、白くなりかけたのを總髮にして、淸げな然し 一文の錢もなかった。彼はかあやんから一錢二錢の湯錢を借りた聞かぬ氣らしい顔をして居た。若い方は敬二の叔母で、年上の方は おとうさん り、きまりの惡い顔をしながらお稻さんに筆代の三錢五錢を貰った叔母の義婉おいよ婆さんであった。又雄さんの名高い阿父赤井沼南 りした。敬二は伊豫生活の一年四ヶ月の大半をなまけたが、終半歳先生の實兄の細君で、義弟がまだ部屋住の頃は、禁酒仰付けられた みキ一レ一くり が程は信仰復興して熱心に亠円年傅道者の責任を盡したので、京都へ義弟の爲に窃と棚の酒德利に酒を滿たして置くなどの粹をやっ だうじま みやうせきっ たより 出立の際は信徒の靑年會から餞別に堂島を一足もらった。敬二は生 た人である。夫の歿後は義弟に家の名跡は嗣がれる、賴に思ふた二 おもて 來表のついた下駄を穿いたことがなかった。穿くにもきまりが惡人の實子は洋行までして歸って來る間もなく相ついで歿したので、 く、持て餘して居ると、かあやんが好い事を案じついて、又雄さん能勢家で大切にされながら味氣ない日を送って居た。實家の當代は、 のの穿きふるしと取換へてくれた。其はきふるしも暫の間に禿びてし又雄さんの同窓、今九州の北邊に牧師として相應の成功を收めて居 さつま たは 茶まったので、盆にはお稻さんが珍らしく氣を利かして摩下駄を一 る那波さんが其れであった。斯様な蓮命の下に居るおいよ婆さん 靴足買ってくれた。何を云はれても惡い顔をせず、氣輕に立働くのは、不滿を見出しがちであった。中には上地隨一の富豪も數 ( る數 ~ で、敬二の評判は好かった。親類らしい顔もせず、若いには感心百の信者に擁せられた魚どころの四國での能勢家の生計は、何かに びさよ ゆたか な、と山下のお婆さんもよく譽めイ、した。壽代がな、今日もな、 つけて豐富なものであった。京都の生活はさうは住かなかった。土 疳を起してな、御飯におしたちをぶつかけてな、茶碗をな、」っ地の風に從ふ朝のお粥が三食に渉る時もあった。白河寄りの百姓が しょんべんなす て、と山下のお婆さんが息をつき , ・お稻さんに訴ふることもあっ 「小便と茄子取換へましょまいかア」と呼んで來ると、かあやんが いましめ こづかひぜに そっ こまを つ、しみ