8 5 顧みる母の眼色を、僕はよく解した。母は鈴江君を嫌ひでは無い 「では愼太郎に野田を名乘らせますのでございますか」 が、好きでもない。はき / \ した性質と大様な性質と自づから合は と言葉がやゝあらたまる。 「其れは如何でも宜いが、兎に角乃公の跡を立て乂貰いたいのじぬのである。母は伯父夫婦の厚意を嬉しく思はぬでは無いが、其一 子を十が十まで伯父の恩惠の下に置くのを好まぬのである。 ゃ。喃お實」 「愼どんの所存は如何かな」と僕に注ゐだ伯父の眼は餘程怒を帶び 顧みられて、伯母も口を開き「愼さんも菊池家の一粒種だから、 たの をか 養子と云ふも異しい話だが、喃お節さん、野田家も一人、菊池家もて居た。突然「丈夫自から立って事を爲す可し、他人を恃むなか びら いましめことば れ」と云ふ駒井先生の戒の言が僕の頭腦に閃めき出づると、結む 一人、氣も心も知れぬあかの他人を養子に貰ったり、嫁にとったり するよりも、兩家一つになった方が雙方の利益ではあるまいか。幸で居たロはおのづからほどけて、「私は伯父さんは大好き、伯母さ さ心 んも大好き、鈴江君も大好きですが、此家をつぐのは大嫌です」と ひ鈴江も愼さんとは大仲好ではあるし・ーー」 云ふ様な意咊を吾れ知らずさら / \ と言ってしまった。 僕の耳が紅くなる程、母の顔はます / \ 白ふなった。 「其はもう愼太郎の様な者を此家の跡つぎと仰有るのは、面目な譯 でございますが」と母の言葉は鐵を截る樣に一句々々齒の間から漏 共後修辭學の講義を聞ゐて、同じ事を云ふにも詞の轉倒で餘程聽 れ始めた「誠に面目な譯で、また是れまで何につけにつけ一ト方 あすこいゝ あたりまへ おうけ ならぬ御世話になって居るのですから直ぐ御請をするのが當然でご者の感が異なるもの、例せば「君の彼點は好が此點は惡い」と云ふ ちすらこれ ざいますが、兎に角菊池の家の血脉は此兒一人に繋がって居ます譯よりも、「彼點は惡いが、此點は實に宜い」と云ふと、同じ意味を きは むかふ あんな で、御存じ通り先代は彼様になってしまいますし、臨終の際にも此聞く先方でも餘程其感に相違があると云ふことを知ったが、小供の 皃丈は是非立派な男にして、菊池の家を再興さして呉れる様に、其中と云ふものは唯共しきの分別も無く、ついさら / \ と思ふ事を言 様しみん、言ひ遺しました位で」と母はほろりと落涙した。が、直ってのけて、伯父の顏を見るよりはっと思った。 已に母の不承知に出會って、焦躁して堪らぬ所へ、顔が眞向正面 ぐ取り直し、 これ 「其様な譯で斯兒には是非菊池の名跡をつがせ、掘立小屋でも吾家つくりもかざりも無い拒絶を受けて、伯父の怒は終に破裂した。 おまへたちおれ と云ふものを興さしたいと思って居ますので」 「卿等は乃公を誰と思ふか。腐っても野田大作ちゃ。女子供と思ふ おだやか 「其れなら兎に角愼どんが此家を相續して、ゆく / 、子供に菊池家て、穩和に相談すると、つきあがって、『家をつぐのは嫌』た何の 口から云ふ ? 四年も五年も恩になって居ながらーーー」 をつがす様にしたら、別にさはりもあるまいじゃないか」 母は氣味惡い微笑した。 母は少し默って居たが、 「御恩にはなって居りますし、また御恩になって居ることはよく存 「でも子供の中の仲好と云ふものは、分からぬもので、今共と取り おきく 極めて置きました處で二人が大きくなったらまた如何氣がかはらぬじて居ります。愼太郞も成人なったら屹と御恩報じをしなければな とも申されませんし、また愼太郞が如何なりますか、十年もたってりません。またわたくしも自身丈は御恩報じをする様に / 、と心が 見なければ分りませんから・ーー其とも本人の所存は如何でござりまけて居ますので」 此五年間母が野田家の爲に盡した所は實に夥しいもので、其は伯 すか」 こらら じぶん こ、
思出の記 7 5 く、また政治家なるものは果して何ものであるかを知った譯でも無 、駒井先生の感化を受けて、唯政治家となって天下の爲に盡さう と云ふ空漠たる考をもって居たので、國家に盡すには政治家になる べし、政治家になるには政治學を修むべしと云ふ様な極大ざっはな 見當であった。 同じ大ざっぱでも年齡は年齡だけ、們父は僕よりや又精密に考へ たのであらふ、暫し沈吟して居たが、やがて僕の顔と母の顏を等分 に見やりて、 「乃公は其様思ふが、北海道の農學校に入っちゃ如何かい」 前掛に手をふき / 、伯母が人って來るを、伯父は待兼ね顔に、 すぐ なあしつ 過る夏の事であった、札幌農學校の卒業生とか學生とか云ふ男が 「喃お實、愼どんが修業に出たいと云ふがの」 伯父を訪ふて、頻りに高談雄辯したことがある。伯父は餘程其話が 「愼さんが、修業に、」と伯母は僕等母子の顏を眺めた。大一郞君 だしぬけこん 身にしみた容子であった。が、突然に斯様な事を言はれて、僕はぐの死去後は、伯母も餘程氣弱に、涙脆くなった。儺が上京するのを っと詰まったのである。 また死に又でも行くかの様に思ひ做した容子であった。 「農學校は嫌かの。嫌なことはあるまい。政治家、政治家と云ふ 伯父は頓着なく、 かっ が、其様誰も彼も政治家になると日本は饑へる。其れよりも農學士 「共について、喃お實、彼一件の相談を持ち出して見やうと思ふ いくら になって、殖産興業でも行ると、幾何日本の利益になるか知れん。 が」 かたち 如何でも日本は農業國じやからの。農學校に入るが可、農學校が 「左様でございますね」と伯母は母の顏を眺めた。伯父は少し容を あらためて、 調子に乘って伯父は農業立國論を滔々と述べて、畢竟日本の農業「お節さんも、愼どんも、一とっ聞いて貰はうと思ふのは、乃公が もくろみ を振起するは僕菊池愼太郞の責任であるかの如く説き立てた。併し斯様云ふ目論見を立てたがな。吾家も大一郞が死んで見ると、あと ながら僕はわざ / \ 北海道まで出かけて、百姓の先生にならなくては鈴江一人で、是非養子と云ふ處だが、其養子と云ふやつが、中々 ずんと もと云ふ考が如何しても除かない。窃と母の顔を見ると、母も寸斗考〈ものでな。それで乃公が思ふには、誰彼と云はうより愼どんは すゝまぬ容子。名譽心の熾な母は、到底共一子を農業専門の一學乃公もお實も十二から世話をしてよく氣質人物を知って居る、云は 士にするを甘んじ得ぬのである。 ば實子も同然ちやから、ーーー其様すると、ゆく / \ は鈴江をつけて すっかり 話は暫し途切れた。 家屋敷悉皆愼どんに讓って、共れこそ他人雜らず水人らずで、乃公 伯父はや乂久しく考へて居たが、 等も大安心じやからな。お節さんも、愼どんも、如何思ふかの」 み、たぶ 「いや其について此間からお節さん ( 僕の母の名 ) に話したいと思 僕の胸は頻りにどきっき、耳朶がほてって來た。母は宛ながら待 ふくまでん って居た事があるが、幸い愼どんも來たしーー・鈴江、鈴江」 って居た伏魔殿の開かれた様に、覺悟はしながら少し色を變へて居 呼ぶ聲の下に、何時來て居たのであらう ? 鈴江君の白い顏が襖たが、やゝあって、咳拂ひし、 そっ ろ」 の蔭からあらはれた。 「鈴江、母さんは」 「臺所でしゃう」 おまへす : しあつら 「母さんに一寸來いと其様云へ。それから卿は少時彼方へ行って居 母の顏色は少し變った。 おっか あのこと さう
多くは似寄った屋敷小路を彼方此方尋ねて居ると、今夕飯を終へたには僕の手紙が挿してある。奇麗に片づいて、古疊に塵一つ落ちて とをくらゐをのこ むかう のであらふ十歳位の男兒が犬を連れて向側の家から駈け出して來居ない。 をんな ねつばんのみこ 種々母の消息を聞きながら、婢がすゝむる熱飯を嚥込み、寒いか た。呼かけて、「菊池」と云ふ婦人の住む家を問ふたれば、 あかけっとう ひっかっ ら見苦くもとかけて呉た古い赤毛布を頭から引被いで、僕は伯父の 「菊池 ? 家の姉樣の先生の家 ? 、直ぐ其處のね、竹のある家」 はたして と二三軒先きを指した。其處に車を下りて見ると、果然門札に母居村に向った。 うすあかり の手跡で小さく「菊池愼太郎」と書いてあるのが、黄昏の薄明に讀 伯父の棲む山下村は城下から四里、昔西山塾に居た頃一二回兎狩 をんな まれた。騷立っ胸を押へて、音なへば、一フンプを持って三十許の婢に行ったことがある。車は無くも、幸い十七日位の月が霜の如く冴 びたすら があらはれ、 へて居るので、僕は影と唯二人、凍てた道を足駄踏鳴らして、只管 どなたさま 「誰氏様 ? 」と云ながらしげ / \ 僕の顔を眺めた。 急いだ。道は畑中を穿って、一里に一村、二里に一落、人通りも絶 おっかさん えて淋しいことだ。三里許行くと、忽ち野川の滸に出た。川の向ふ 「阿母は ? ー そむ 「ま、如何致しましゃう、若旦那様でーー道理でまあよく御肯まし には、月に背ゐた一帶の山黒ふ橫はって居る。此れからは一本道、 かはともづた さかのぼ 川堤傅いに溯ると、山は去第に寄って來て、川はくの字に曲り、 道は橋を渡って一寸した丘を上って居る。此橋を渡る時、夜をこめ 僕は奧の方を覗き込みながら「阿母は ? 」 どうそ あなた て城下に裏白賣に行く馬子に逢って、伯父の家を聞くと、「先生様」 「さ、何卒奧ヘーーーお袋様は、郞君、昨日野田様の方へーー」 かやぶき 「野田へーー・左様。何如様な容態かしらん」 の宅は向山下の高みで、茅葺の家と敎へて呉れた。 「何やらまた御惡い御様子で」と婢は火鉢をあせりながら「都合 馬子に別れて、うす闇い石だらけの坂を上り、丘を向ふへ下る によったら二三日歸られんかも知れぬ、と、郞君、其様仰有いまし と、ち山下村である。月影流るゝ川を中に、此方に人家が六七 十、彼方にも五六十、此方は山蔭で眞闇だが、向ふ山下は一帶に月 ひっそり 「左様か。其れちゃ直ぐ行かう」と僕は膝を立て直した。 光を浴びて家も木も石も寂然と眠って居る。大方最早夜の十二時過 おくたびれ 「ま、郎君、御草臥でございましゃうにーーー・其れでは一寸御饌をさ ぎでもあらふ、燈の影もなく、人聲一つ聞へぬ。唯何處か遠方の一 からうす し上げますから」 軒家に大が吠へて居る。姿は見へぬが、唐碓の時を隔てて軋々と唸 あたり そのあひ 婢は立って行った。茶を飮みながら、四邊を見ると、此處は六疊る音が聞へる。其間には、月を碎ゐて流るゝ川瀬の音のさあ / «- と まだつな の室、一間の床に、一間の押入、床には病莟の水仙を生けて、掛地松風を鳴らす様に聞へるばかり。夢中の景を見る様な。 むつな、つ むかう の梅月は見覺へある一軸、僕が六七歳の頃樂書した不思議の鳥がま 不圖己にかへって、僕は川に下り、飛石傅いに彼岸へ渡った。馬 のだ梅の枝にとまって居る。此は祖先傅來の物とやら、僕も樂書の咎子が敎へた通り、坂路を上って、似た様な茅葺を夫れか此れかと覗 ひっそり によって小半日庫の中に閉籠められた程のもの、破産の時にも此丈ゐて見、耳を傾けて見たが、寂然して此れぞと思ふ家も無い。起き は殘してあった。片隅には小形の机、一隅には裁縫用の大きな箆て居る家は無いか、何處ぞたゝき起して尋ねゃうか、と思ひ / \ 右 こやしつぼ こみち 3 板、切り張りした障子のはづれから、次の四疊の絹機 ( 織りかけた の方の徑に入って、肥壺の側へ來ると、月の光では無く黄色の光が イ 1 上に風呂敷を覆うてあった ) が顏を出し、柱にかけた手細工の妝差何處からかちらと漏れて來た。ふりかへって見れば、僕が立って居 さわだ とこ い にとり ど
わづ むぎばた あま 纔かに靑める麥圃を辿りて四ッ手網の數五つ六つ、近きは大きく、 ちさ ちゃう な石 あゝ若し吾カ能くせば、余は遍ねく此三の進物を全國の村落に 遠きは雛の帳よりも小く、川の形に屈曲して、悠々として日光に掛贈らむものを。 = 一個とは、良醫、良敎師、而して良牧師。 0 0 0 0 0 0 0 0 かる。宛ながら畫ける様なり。忽ち網の一は音なく落ち、網の二は 良好なる小學校、良好なる會堂、良好なる診察所、此三は健全な 落ち、彼や此やかはるみ、伏しまた起きて、景印ち活く。 る村を造る三要素。而して健全なる村は、健全なる國を造るの大基 このは けやき 伊豆の落日逗子の三方を繞る山を紫に染め、木葉落ち盡したる欅本。 のらち の村を珊瑚の森に化し、麥圃の綠を黄に、畦路を歸る野老の顔を あか けんにやうくはさき あまり多く果實をつくるの枝は折る。富めるのみなる其國は亡ぶ 鬼よりも赭く、肩上の鍬尖を金に閃めかし、眼の向ふ所皆赫としてるなり。國民をして天を仰がしめよ。 燃〈むとす。此時御最期川の水十倍の明を加〈、水に臨む四ッ手 田家の煙のいぶせき藁屋より出で然も天に上るを見すや。 網、箇々火の如く赤し。魚驚いて其下を過ぎらず。影鮮やかに水底 に落つればなり。 じんむじ しようせ . いえう / 、 已にして日全く落ち、祁武寺の鐘聲杏々としてタを告ぐれば、殘 し度 寫生帖 たそがれゆふけぶり 照の色と光とソロモンの榮華よりも疾くみ、黄昏はタ煙斜めなる 山本の村より湧きて、半時にして地は茫々たり。缺月空にあり。御 ひとすぢ 最期川一條タ闇を縫ふて白し。 昔畫家あり。一畫を描きぬ。他の畫家は更に富且診なる色料を 晩寒を忍びて、川邊に立てば、玉の如き月、水にあり。闇に隱れ 有ち、更に目ざましき畫をかきぬ。然るに此畫家は雎一色を以 いな て有りとも見へぬ四ッ手網の、影鮮やかに其ほとりに臥して、鯔な て書き、晝には不思議なる紅輝ありき。他の畫家來りて問ふ のが すく 「卿何處より其色を得來れる乎」と。彼は唯微笑し、頭を垂れて どの過ぎてか水搖々と動く毎に、網は跳りて、逃るゝ月を掬はむと するに似たり。 畫きぬ。晝はます / 、紅になり、畫家は愈白ふなれり。終に或 日畫家は畫前に死しぬ。彼を葬らんとて、衣を解きけるに、彼 が左胸にふるき疵あるを見出でぬ。而して人は猶謂〈り「彼は 田家の煙 何處より彼色を得來りしぞ」と。程經て畫家は忘られぬ。然も きょ 畫は限りなく活きぬ。 余は煙を愛す。田家の煙を愛す。高きに踞して、遠村近落の烟 オリーヴ、シ、ライネル女史著「畫家の祕訣」を節譯す の、相呼び相應じっ \ 悠々として天に上り行くを見る毎に、心乃 生ち樂む。 しせい 人 然れども、市井の濁波今や滔々として村落に及び、田家淳槌の風 しやしいうだ 然 自 欽第に地を掃はむとし、賭博、淫風、奢侈、遊惰、爭利のバチル、 きょ ス殆んど戸毎に侵入せんとするを思、ば、寧ろ一炬其家と共人と焚 % き盡くすの優れるなきかを疑ふ。 3 否、寧ろ敎へて而して之を化せんのみ。 けふり めい 哀音 諸君は曾て靜なる夜に門づけの三味の音に耳傾けしことありや。 もろ なんだ 余は生來情に脆き方にはあらざれども、未だ曾て涙なしに彼の哀音 を聞く能はざるなり。 かど
386 わのり らんとする革命は唯一、改革は雎一のみ。共はすべての強大國ればひらりと飛び乘り一一三遍輪乘をかけて飛下り、いざとすゝむる あふみ 家のみならず、あらゆる種類の國家の破滅ーーー印ち人間的權力に、翁はやをら長靴の片足鐙にかくると見れば已に鞍にあり。後程 こみち の服從より人間の解脱する事是也っ と頷きっ又鞭を鳴らして西へ靑葉の徑に隱れぬ。 一昨は水泳し、今は馬に乘る、死期近しと自ら云ふ翁の猶斯く 健なるは喜ばしきものから、先刻の一言にタ立雲の如湧き起りし 心中の暗鬼 むほんしん みなぎ 眞黑き謀叛心、猜疑心、不快の念むら / \ と漲りて抑ふ可からず。 しを / ー、 午餐後、翁は鞭を手にして悄然と余のはなれに人り來り、今日はトルストイもまだ斯る愚癡をこぼす乎、苦しき辯解の底に僞善は潜 思ふ様に仕事が出來ざりき、今より馬に乘り、それより又水沿に行まざる乎、百姓の眞似は道樂にて貴族の趣味は本色ならざる乎。 ルストイとてもとより撞著の中に住む人の子、個人性の強き丈癖も かんとす、君も家の者に道を聞きて四時に來られよ、となり余は ちと まったき 多かるべく、完全を求め難きは無論の事ながら、些芝居が過ぎはせ 馬上の翁を見むと、うちつれ行く。はなれを南に距る百歩にして、 また靑屋根白壁一一階建の大なる長方形の家あり、目下レオ君の家族ざるか、斯は眉に唾つけ吾眼を見開く用意肝要なるべしと屹となり 此處に逗留す。先日汽車の窓より望みたるは此家なるべし。此處をしが、此は眞の人情知らず、翁は國を隔て血を隔てし新知の友に向 過ぎて打開きたる所あり。丘の端に粗造なる厩立ち、老いたると若ひて衷心の苦惱を漏らせしなり。それと思ひ返せど、何となく面白 まぐさ からず。厩のあたりは秣散亂して、彼方には堆肥の小屋あり、此方 きと家の男等一一三人翁の乘馬を用意しつゝあり。直ぐ向ふにヤスナ ヤ・ポリヤナの貧しき村を見る。君は余の家族の意見を知るならむには露西亞特有の不細工なる乘用農用の馬車の種類を盡して並べた わか 。老婆の水汲むを一釣瓶余に汲ませよと立寄る井戸は深くして、 と云ひし翁の顔はや暗かりき。翁が共所有地を擧げて村民に頒た んとし、夫人及び子等は之に反對して、翁は禁治産の姿となり、今は釣瓶は唯一のばけつ、齒止ある車の取手を廻はしつつり上ぐる悠 ゐさふらふ 敬愛さるゝ食客として其家にある事は、もとより余の聞知せる所な長なるもの、上がる水は泥水ならねど淸冷の二字はゆるし難し。臺 り。翁は更に語をつぎて曰く「眞のクリスチャンたる者は決してわ所には此水を日々樽詰にして馬車にて運ぶなり。折からア孃の自轉 らの が財産を有っ可からず、余が近頃の著書は一切收人を受けず、唯余車を疾風の如く走らし來りしが、彼體格にてよくも車の潰れぬこと ドラマすへん が曾て書きし劇數篇あり、興行毎に興行主は脚本料を拂ふ、余が受よと思はれたり。 ポルしット 取らざれば女舞の料にせむと云ふ、猶外に諸方の友人の時々余に金 を贍り呉るゝあり」と。余はこ、に翁の蟇ロの出所を知りぬ。翁は ヴロンカの水 ( 二たび ) また辯ずるが如く訴ふるが如く言をつゞけて曰く、余の所論と余の 兎に角水浴に行かむ、家の人に道間ふまでもなしと、怪しき空に 境遇と一致し得ざるため余はしば / \ 非難せらる、然れど非難さる ひとり たばさ るもクリスチャンの當然也。折から村の上の空靑々と霽れたるに鼠傘手挾みつ、獨家の正門より出で、ヤスナヤ・ポリヤナの村より下 いろ りて上る道を辿る。雨ほと / 、と落ちては止み、日きら / 、と照り 色の雲むら / と渦まきて共縁銀白に樺に白銅色に美しく彩どられ をくさあか たるを、翁は見とれて「あ、、美はし」と呟きぬ。栗毛の太く逞してはくもる、眼ざむるばかり綠なる小草に赭き牛黒き牛の悠々と食 ひきいた 、翁が先日蟇 きに鞍置きて、男の牽出せしものゝ、張りきって容易に人を寄せざみ居るも畫なるべし。先刻の事何くれと思ひ惱みつゝ おく げだっ うまや すこやか ひとつるべ つみごえ
毎に此處等 0 家の周圍は一面の海になる。別莊から浪に追」出され居ると、彼方では物置が倒れて半腐した萱 0 狼藉とした 0 を掻き退 て、紫 0 袷を着たて某の少」孃様が下男の背に 0 かまりながら、遠け、また彼方では家を素裸にして頭から行水を遣はして居る。別莊 方から此慘憺たる光景を見て居る。 の崖崩れて、家の半ば空に浮むで居るのも見 ( る。鉾屋の爼板大 立って見て居る中に、日が暮れた、と思ふ間もなく、また書に逆 の切石の砂に埋れて居るのを掘り出して數〈て居る石工もある。生 戻りした樣に、赫と明るくな「た。夥し」タ燒だ。所謂「戦餘落日簀の籠を流して、一一十兩損したと血眼にな「て舟を出す爺もある。 黄」とは此事であらふ、滿天滿地眞黄色に燒けて來た。獨り海のみ何處の家では、四斗俵がころ / 、波に轉ばされて、誰の家は海から 紫瀾洶湧、鞳として荒れ騷」で居る。タ燒 0 空に際立 0 水餘 0 破一丁もある 0 に、ぐるりと波に打まわされて、誰は道具を悉皆濕ら 屋の眞黑」 0 を前にし、今引」て行 0 た波の殘溜 0 黄なるを踏んして、誰は何したと云ふ。何處を向」ても、共話ばかりで、人の顏 で、此景に對した余は、一種鬼氣の森然として身にしむを覺〈たのを見ては、 こざ であった。 「大きい暴風雨でムいましたよ、マア」 夜に人ると、風いよ / \ 止むで、「木枯らしの果はありけり海の と云はぬ者はない。 たうたう あれ 音」、餘怒を帶ぶる海の音獨りとして星光に鳴りどよむで居る。 つひ 家主の話では、十四年ぶりの荒ださうだ。 戦は最早終った。海は終に敗れて退いたのである。併し家々末だ戸 前の堡障を徹せず、尚警戒を解かず、富士見橋の袂には、篝火が夜 秋漸く深し 一夜燃へて居た。 のぢ ( 四 ) 野路行けば、粟の收納の盛りにて、稻の收納もにつ / 、始まり ぬ。 そはゆき いやしげ 翌八日の朝、早く起きて見ると、人を馬鹿にした様な上天氣だ。 蕎麥雪の如く、甘藷の畑は彌繁りに繁れり。百舌鳴く村に、紅 昨日の戦場を見舞ふと、實にひどい。自分も隨分激戦をした積であなる黄なる星の如く柿の實の照れるを見よ。 ひがんばな ったが、銓所に比べるとまだ樂であったと見へる。 けうキ、よ 彼岸花、螢草、野菊、蓼、小さき粟の如き稻の如き黍の如き鳥麥 吾僑居の前から一丁あまりの間は、道路は消滅して、昔の濱にな の如き八千草に鳴く蟲の音を踏み分け行けば、蛙飛び、螽斯飛び、 0 って居る。彼處の別莊は礎石を浪にとられて床下の砂を抉られて、 稀には蟹がさ / 、と隱れ行く べたりと前 ( のめって居、此方の貸家は半分空に乘り出して、今に す、きかるかや 生も顛覆しそうだ。大木の根が章魚の足の如くに長々と洗い出されて 山路行けば、薄苅萱の吾衣にか又れるも、あはれなり。 居ると、道の切石は遠く畑の中にころむで居る。鳴鶴が岬の下の新 山も秋や長深ふなりぬ。何の樹殊に色づき、何の葉殊に落ち始め 築地の石垣は、五六十間が程めちゃ / 、に崩れ石原になってしまっ しと云ふにあらねど、林漸く疎に、山骨やゝ寒く、葉聲次第に乾 た。川口は無暗に淺くなって、洲が一夜に場所を變 ( て居る。 き、樹々日々透明ならむとするを覺ふ。默然として歩めば、小鳥の 更に葉山の方に行「て見ると、道 0 眞中には引揚げられた舟がづ石を落せしか、栗 0 實の自からはぢけて落ちしか、ころ , \ がさと らり行手を塞いで、此方では大勢かゝって、傾いた家をこね起して 一聲木の間に物の落つる音して、あとはこっきり靜かになりぬ。 ぐるり どだい しりそ
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 う 0 0 0 0 0 0 0 0 藉あり、生命あり。コロオの如きは實に帝王も享くる能はざるの幸 一千八百三十三年コロオは初めて一賞牌を得、十三年の後フォン 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 テンプルウ林中の景色を描いて名譽勳章を得、九年の後一等賞牌をを有するものなりき。 0 0 0 0 0 0 0 0 得、更らに十二年の後一一等賞牌と共に更に高等なる名譽勳章を得た 彼は自然の兒なり。鯛幹居強にして、終生病を知らず。性情和平 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。年又年美術家批評家がコロオを賞賛するの聲は高うなりぬ。然にして又快活、彼の身邊には常に淸風吹けり。彼は苦むで。ハンを得 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 わづら るに及ばず、更に一係累の彼の心を擾はすなかりき。彼は時あって れども世間はコロオてふ畫家の存在することすら知らざりき。彼が 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 父すらも其子の技倆を知らざりき。彼が父の恩惠に由て千五百法の か失望せりーーー誰か失望せざらむ。時あってかサロンに出品したる 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ( ) 0 0 0 0 0 0 吾畫の人目につかぬ片隅に掛けられたるを見ては心を痛め、時あっ 年金を倍し與へられし時は、彼は已に五十歳なりき。彼の畫の初め 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 て賣れし時は彼は已に六十歳なりき。彼が畫初めて賣れ、買主之をてか盲評者の惡口を聞いて眼底に涙ありき。然れども是れ一霎時の あ、 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 浮雲、一たび書架に向へば消へて跡もなかりき。曾て歎じて曰く、 持ち去るや、コロオ嘆息して曰く、吁吾書幅の蒐集は今日迄も全か 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 りしに、今や其一を缺ぐに到りぬと。此後彼が晝の次第に賣るゝに若し繪畫は愚か事と云はゞ、誠に愉快なる愚か事と云はざる可から 及で、彼は猶其戲れならざるを信じ得ず。曾て一萬法の價を附し置ず、余が容貌を見よ、健康を見よ、不幸なる人々の容貌にあらはる る辛勞野む悔恨の跡何れにあるや、斯くも平和と滿足健康までも齎 きし書の賣れたりと聞きし時、コロオは誤って一箇の零字を落した 0 0 るものと思ひて、更にサロンの幹事にあらためて其價を書き送り らすの技術をば、奈何んぞ愛せざるを得んやと。畫はコロオの初 0 0 0 0 すべ 0 0 0 0 き。一千八百五十八年彼が畫三十八枚を賣りて二千八百四十六弗を戀、コロオの妻、コロオの食、コロオの渾てなりき。彼は世の愛を 得し時、彼は其友の戲談ならむと思ひたり。幸にしてコロオ長命な求むるに心なかりしも、然れども彼を識るは彼を愛する所以なり りしが爲め、彼は生きて其書の價二十倍するを見るに及びぬ。曾てき。彼が年きや、畫家の集會は彼を得て歡を添 ( ぬ。彼が年老ふ 0 0 るや、巴里の畫家を擧げて彼を稱するに爺々コロオを以てし、彼が 彼が七百法に賣りし繪、後には一萬二千法に賣る又に到りぬ。世は 0 0 0 0 おそ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 彼を識る晩かりしも終に彼を識れり。彼は半生畫に熱中して世間の如く敬愛せられたる者なかりき。彼が在る所、熱心なる美術學生等 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 はえ 0 0 0 0 0 0 0 毀譽に無頓着なりしも、阯間は彼の白髮に榮の冠を被せたり。コロ は先を爭ふて其膝下近く寄りこぞりつ \ 愛慕と歎美を以て白髮の 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 彼が唇より出づる一語々々を吸收せり。窮困の畫家には金を與へ、 オ欣然として日く、是れ吾の變れるにあらず、吾主義の一定不變な 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 後進の亠円年には懇切の助言を與へ、彼は年配に於ても、德望に於て るが終に勝利を獲たるなりと。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 も、眞に佛國美術家の爺々なりき。 ( 四 ) コロオ甚だ書を讀まず、其交游は彼と共に佛國繪書刷新の功勞を 、ダ . ウビニー等を初め美術家の範圍の外に 畫家をして高潔ならしめよ。彼をして六塵の欲に誘はれず、超然分っルウソウ、ミルレー メラングイリス 出でざりき。三たび伊太利に遊び、一たび瑞西より荷蘭英國に遊び 以として専心一意共向ふ所に向はしめよ。彼が心をして娟嫉不平より し外は、多くは、ヰル、ド、アヴレーの林邊に住み、また巴里にも 然自由ならしめ、彼をして世間の好惡に淡からしめ、單へに美と眞と たしな 0 0 0 0 0 0 に走らしめよ。人間淸の多半は實に彼が有ならん。一架の畫布は畫室を有せり。彼れ尤も音樂を嗜み、巧みに歌ひ、而して天然を説 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 っ 0 0 0 0 0 0 0 6 彼が帝國なり、一尺の畫毫は彼が王笏なり。彼は竭きざる自然の泉くに到っては、語々皆詩なりき。彼が老骨嵯材、白髮赭顔、細眼巨 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 を汲むで、自から服し、人に服せしむ。箇中に無限の快樂あり、慰ロ、皺多き面に髯なく、段だら染の木綿の寢帽を被り、寬博を着 ひと
稻さんとお美枝さんと敬二の妨と三人女學校に居た頃の事を話しれたれ、新政府に時めく薩長土肥の出でこそなけれ、人々の奪敬も て、わたしはお美枝さんよりお勝さんが好きと、ぶつきら棒のお稻淺からぬ名士の山下さんを、時代さんは一心にかしづいて、二十一 ちんば あね の年壽代さんを生むだ。壽代さんが生れた岦年山下さんは跛になっ さんは敬二の婉の名を云った。 た。時代さんはますます實意を見せて、寢起きも不自由の夫によく ( 五 ) 山下家 仕へた。總領のお稻さんが又雄さんに嫁いで、家督ときまった壽代 ひさよ ゃうしし お稻さん壽代さんの實父山下勝馬さんは、今年六十歳、兩眼盲ひさんが十四の年、山下家では養嗣子にするつもりで會津の士人の家 かはらまち 脚痿えた不自由な體を河原町の暗い奧の間に寢たり起きたりして、 から秋月降四郞と云ふ十八になる靑年を迎へた。靑年は協志社に寄 しゃうざん 名士と呼ばれて居た。會津の藩士、佐久間象山の砲術の門人、大砲宿して、時々山下家に寢泊りした。時代さんはまだ三十五で、山下 きんけっ はまぐり 頭取となって元治元年七月長州兵が禁闕に迫ったのを、蛤御門に打 さんは最早六十が近かった。時代さんはわたしが十七の年生むた子 破った當年の勇士。慶應の末年眼病で失明し、維新の際は一方會藩に當ると云って、養子の隆四郎さんを可愛がった。其内時代さんは ・ヘんそ の士を論し一方朝廷に會藩の爲辯疏せんとして、薩兵に捕へられ、 病氣になった。ドクトル・。ヘリ ーの來診を受けたら、思ひがけなく 姙娠であった。一旦歸りかけたペリーさんは、中途で引かへして來 一時人獄の身となったが、獄中意見書を草して岩倉具視に識られ、 おとうさん 又雄さんの阿父の沼南先生が參與の職で退朝の途を寺町で刺客の難て、上り框から聲高に、おめでたう、最早五月です、と云った。聲 に果敢なくなった明治二年に、新政府に找擢されて京都府の顧問に が山下さんの耳に人って、山下さんは覺えがない、と言ひ出した。 なった。明治八年には新歸朝の飯島先生と意氣投合して共に協志瓧山下家は大騷ぎになった。飯島家と能勢家は其處分に苦心した。相 なぎなた を起し、脇差をさしたり、薙刀を提げたり、女人除の活躍した會津手は直ぐ養子の靑年と知れた。時代さんは最初養子をって中々自 ゅふすゞみ 落城に「明日よりはいづくの誰か眺むらん馴れし御城にのこる月白しなかった。鴨のタ涼にうたゝ寢して、見も知らぬ男に犯された 影」と云ふ歌を城壁に題して烈婦の名をとった妹のお多惠さんを先と云った。其ロ實が立たなくなると、今度は非を養子に投げかけ 生に妻あはせ、其後は京都府會議長として、府知事の顧間、當代のた。最後に自身養子を誘惑した一切の始末を自白して、涙と共に ちなう ゆるし ゆる 山本勘助と云はれて、智嚢の名が高かった。最早其頃は山下さんの宥免を乞ふた。永年の介抱をしみみ、嬉しく思った山下さんは、宥 懇望、飯島先生夫妻の肝煎で、名家の子と名家の女の間に婚約はして間はぬ心であったが、飯島のお多惠さんと伊豫から駈けつけた ・ハイプルクラス 定って居て、敬二はまだ協志瓧の聖書級に居た又雄さんが諸友を催お稻さんとで否應なしに時代さんを追出してしまった。時代さんは たび 目 ほして山下家に話聞きに往く毎に皆にからかはれて居た事を覺えて離別となって山下家を去った。養子は協志瓧を退學して鄕里に歸っ の 色 居る。お稻さんの實母は、其時最早居なかった。起居に不自由な山た。離別ときまると、時代さんは自分のものはもとより壽代さんの かなたらひ 下さんの介抱は、壽代さんの生母時代さんがして居た。時代さんは衣服まで目ぼしいものは皆持て出た。金盥、洗濯盥の様なものまで こび い もと鴨東に撥をとって媚を賣って居た女の一人であった。幕末から持て出て往った。此騷ぎは敬二がまだ伊豫に居たつい昨年末の事 明治にかけて、政治運動の中心であった京都に續出した悲劇喜劇で、彼は京都から又雄さんの手紙が來ると、お稻さんが眼色を變へ から おに、地方出の名士に絡むで京美人はさまみ、の色彩を添へた。其あて汽船に乘った事を覺えて居る。又雄さんは來るに及ばぬと云って あわ 2 る者は、契った男の立身につれて眼ざましい光を放った。眼こそ潰やったお稻さんが遽てて上京したので、ひどく腹を立てたと後に聞 あふとうばち ちぎ ときょ たちゐ
かなでこ まなこくぼ 其に引かへ、二男の猛は、額凸くして眼凹み、一文字に結ぶ唇鐡梃口惜しく吾兄諸共覺に武者振っけば、側に立って見てありし猛は突 然組み伏せられし茂が頭を蹴りぬ。組んづ、ほぐれつ、泣きわめき もこち明け難き力あり。智慧の塊、意地の化物、睨めば穿ち、笑 ( きい はか のあとは双方に立分れて、覺が「やアい、茂と菊ちゃんは夫婦だっ ば冰り、少なく言ひて、多く謀りぬ。趣味はまさしく父の正統をひ まげ さけ いて、四書五經に育ち、果は馬具にも西洋を忌めば、髷もつい先年て、やアい .. と叫ぶに、躍起となりて「宜ってことよ、妾は茂さん まで頭にのりて居たりき。季弟の茂はまた之に引易へて、早くも學のお嫁になるのよ、あなた見たいな馬鹿は厭だってことよ」とお菊 けなげの、し 問のすゝめ自由の理さては東京の新聞に眼を曝らして、自由の權利は健氣に罵りかへしつ。其頃のお煙草盆は何時か銀杏返しにかはり の民權のと言ひ罵り、征韓論民撰議院論非大久保政府論など未だ乳て、匂ひこぼる、白菊の花の姿を、上田の三兄弟はとりえ \ に戀ひ いもと とな しが、中にも兄に親しき茂は妹にも近く、其兄逝きて茂が足やゝ遠 臭き口に唱へて中津あたりの諸老先生を驚かし、果ては增田宗太郎 まい なきあに と云ふ男を無二の師友と仰ぎて、年も行かぬに憂國三味、とゞのつくなりての後も嫁は猶亡兄の友を思へるなり。猛はいよ / 、茂を嫉 やから まりは去る四月一通の置手紙して增田を大將に血氣の輩と南洲の軍みぬ。 くら にうばうあら 惡くみ、嫉くみて、然も隱忍容易に鋒鉑を露はさゞりける猛は、 に馳せ加はりぬ。されば兄弟三人、尤もよく食ふは覺、謀るは猛、 よろづ くわんじ 熱するは茂にて、空氣と水と火とは名をば、覺、猛、茂とかへてこ此春茂が萬のものを技すてゝ南洲の軍に走れるに會ひて、莞爾とし あら て笑みぬ。待っ可きものは機會、馬鹿々々しきは飛むで火に入る茂 こに上田の家に顯はれたりき。 なにか くちさか 母は云ふまでもなく、父すらも冷刻なる猛を恐れ憚りて、自由民が身の上、何角とロ賢しくは云ひ居りたれど、父上も母君も御覽ぜ らんしんぞくし そはう 権の説に醉へる家産を治めざる疎放極まる季子の茂を愛しぬ。嘗てよ、親を棄て、家を棄てゝ首尾よく亂臣賊子となりたるは沙汰の限 ゃうし ふらちもの されき′ー、 りの不埓者、此上は九分九厘まで戦場の骨とならずば刑場の露と消 中津の左る歴々の家より茂を養嗣に貰ひしに、上田の家にては一議 すでなきもの もの にも及ばず斷はりしより、偖は上田の家も行く / 、は茂の有にならゆ可き茂を何時まで惜しと思ひ玉ふぞ、彼は已に亡者、勘當されし のろま しあはせ ざるまでも少なくも二分せられて、兩親は茂に倚るならむとは、何不孝者、兄は彼通りの鈍物、此猛が斯くてあるを上田の家の幸運と しゅ にく 思ひて此れよりは此猛を柱とも杖とも主とも君とも思ひ玉へ、と云 人も信じたりき。猛は深く茂を惡みぬ。 むかしそうしゃうや 上田の家より約一里ばかりにして、以前惣庄屋をも務めし園部とはぬばかりに猛は猛然と鋒鉈を露はし來りて、冷鐵の手に悉く家 すねんぜん そののち 云ふは、上田の縁っゞき、主人は二人の子女を殘して數年前に死去柄を握りつ。最初は一度二度戦場より吾子の便もありけるが、其後 ぜま あといり し、後夫の子一人あり。茂が大の親友なりし長子は二年前にりは便のはったり已むで、薩軍の勢日々に蹙るを聞くに、茂が無事に しろやま むすめ 歸り來可き望も漸く細く、去月城山沒落の報を聞きては、父は素よ て、女お菊は今年十六になりぬ。其お菊が未だ八歳の昔なりしが、 あき り母までも今は世に無き者と詮らめし様子に、猛は安堵の眉を舒べ 秋老けて山の椎の實風なきに落ちてこぼる、頃、上田の三兄弟は園 つ。がっかり弱れる父母を思ふさまに説きつけて、戦爭も濟み世の 部の家に招かれて、裏の小山に椎拾の遊をなしけるに、拾ひ終りて ひそ ふくろいとすく 第ぶれば茂が嚢最少なきを氣にして、お菊は窃かに吾嚢のを移す中無事になりたれば、今迄延ばしゝ家督相續の披露を促がし、更に お菊の縁談をも始めしなりき。其家督相續の披露は愈明後日と事定 を、其と氣づきし兄の覺「やアい、茂の馬鹿やアい、女に加勢して にく まり、其縁談も漸く歩を進むる今日十月の十日と云ふに、忌める嫉 貰ふ馬鹿やアい」と叫ぶに、滿面朱を注ぎたる茂は突然兄に組みか だいりきもの かりしに、七つ違の大力者に一も二もなく組み敷かれしを、お菊はめる死せしと思へる茂は突然として歸り來れるなり。 こは しひ さて たか すゑ はゞか へい まうねん めをと あたし にく
の場合は、札幌農學校から農科大學に獸醫學の研究をとげ、園藝牧 『思出の記』の特色は、菊亭香水の鬲飆世路日記』の系統をひいて、 2 明治の立志小説の一典型として完成したということである。それは畜の業務に從う。明治前期に札幌農學校にいだいた理念は、蘆花の トルストオイ主義を孕みながら、そこに理想的な農業の多角經營を 立身物語とも考えられぬことはないけれども、尋常普通の意味での 「立身出世」小説ではない。石川啄木流にいえば、明治の靑年の自表現しているかに、考えられる。このことは、極めて平凡な炭燒の 覺が父兄の手によって造り出された明治の新瓧會のために有用な人新五が立身出世して炭鑛主となり、一代で産をなし、愼太郞の庇護 物になるという「立身出世」の枠を破って、自己自身の人間の完成者であった横濱の豪商中川の養子となる經緯についてもみられる。 のために自己主張に生きる大志をいだいた人物になるという歴史的ここには尋常の立身出世物語があるといえるが、蘆花は後日譚にお 過程を現している。だから、菊池愼太郞は、十一歳で父の破産と窮いて勞働問題・瓧會間題の解決を托した理想的炭鑛國を描きこまな 死に遭い、勝氣な母に祖先の墓前で懷劍を擬して發奮を促され、家ければいられない、ある意味で、淸磨の農園も、新五の炭鑛も、作者 の描く通俗的な大團圓を意味するユトオピア的構圖にほかならない 名の爲に立身の志をもつ。「坊ちゃん、エライ人に御なんなさい」 と中村新五から勵まされたにせよ、それはもはや國家有用な人物たけれども、その經過において兄蘇峰に對して激しく異をたてる伺執 らんとするのではなく、「自力を以て自家の運命を造る」不逞なる的な理想主義が宿っていると考えるべきである。やがて五年後にヤ スナヤ・ポリヤナに老トルストオイを訪ねて歸ると、明治四十年二 志を立てることである。そのいわゆる西山塾における「勤儉力行」 の旗幟、育英學舍における「自由の大旆」、關西學院における耶蘇月、千歳村粕谷に半農生活をいとなむ蘆花の大いなる夢想が緖口を 敎の精神という遍歴は、繻敎的精を内藏しながら、自由主義を生みせていたわけである。 きることであり、そこに傅道師への沒頭もあれば、また菅先生に敎『思出の記』は、菊池愼太郎の立志小説として、その核心に主人公 えられて、「一管の筆に百年の説敎が出來る」文學者としての「自の精禪形成史が据っており、これが敢て自傅體をもちいた根據であ 己の立場」の發見もあり、東京大學に入って英文學を學び、文筆生ろう。この意味からすれば、敎養小説ということができる。主人公 が明治元年の出生から明治二十四年に大學を卒えて、松村敏子と結 活に赴くことである。だから、東京大學を卒えながら、藩閥政府の 官僚學者となる尋常の出世を斥け、また財閥の婿となって、その庇婚するまでの半生記である。それは『自然と人生』以來の自然と人 護をうけることを嫌い、「無位の諫官、無官の彈正、説敎家ならぬ生との契點におかれた一人の人間の自我の覺醒にはじまり、自主獨 説敎家、敎育家ならぬ敎育家、進歩軍の別働隊」として、在野の自立の精をもって人間的自由を自覺し、さまざまな近代的思想の洗 由思想家への道を選ぶのである。ここにはたしかに明治前期の精禮をうけながら、キリスト敎的精訷に促されて、一度は傅道師の道 へ、さらに「自己の立場」を悟って、啓蒙的評論家または自由思想 の典型の一つがあるといえる。 この意味で、菊池愼太郞の西山塾の友人で、後に彼の從妹野田鈴家へと、自己の人間内容の充實にむかってすむ。そこに富と名と 江を妻にし、彼もその妹の松村敏子を妻にする、つまり後の義兄松戀との試煉も加わるのである。ここには明治前期の精紳の内的閲歴 村淸磨にも、蘆花の理想は托され、別の明治精の典型がみとめられがあるし、蘆花の精の自由を實現する激しい氣餽がある。 る。淸磨は野田大作 ( モデルは伯父矢島源助 ) の理想とした札幌農學『思出の記』につゞいて書かれる『黑潮』第一篇 ( 明治一二六・ 校をへて殖産興業を農業の振起にもとめる道をすゝんでいる。淸磨費出版 ) は、『思出の記』の主人公菊池愼太郞のいわゆる「封建の末