407 年譜 の景勝を探っている。 に伊香保から松島にかけて族行した。五ー 明治三十四年 ( 一九 0 一 ) 三十四歳 六月、「那威の詩人」 ( 一一回連載 ) を「國民之 三十三歳 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 友」に、六月、「山と海」 ( うち「山と朝夕」の 一月、「除夜物語」を「國民新聞」に發表。 一部を後「香山の朝」と改題 ) を、八月、「野三月、小説「灰燼」を「國民新聞」に發表。十月、島崎藤村らの來訪を受け、文學觀の の花」 ( 未完 ) を「國民之友」に發表。この この頃から、兄猪一郞に對する反抗的態度相違を痛感する。同月、「零落」を「新聲 頃、逗子柳屋に避暑中の輻家安子から大山が次第に顯在化し、兄の眼にも明らかに映特別號秋風琴」に、十一月、「天長節 , を 信子の哀話を聞き、「不如歸」の構想を得ずるようになった。三ー翌年三月、長篇「國民新聞」に發表。同月、宮島・京都・ る。九月、翻案「まがつみ」 ( 五回連載、未「おもひ出の記」を「國民新聞」に連載奈良に旅行。十二月、夙に基督敎靑年會か ( 明三四・五『思出の記』と改題して民友瓧より 完 ) を「國民新聞」に發表。この年發表の ら依賴されていた『ゴルドン將軍傅』を日 文章の多くは後『外交奇譚』『自然と人生』刊行 ) 、明治前半期における理想的人間像を本學生及基督敎靑年會同盟叢書の一册とし 「探偵異聞』等に收められた。十月、これ描き、高山樗牛から < 光明小説 > と評されて警醒瓧より刊行。民友瓧以外の出版社か た。八月、これまで數年の間に書きためた までに書いたヨーロッパ朝廷の祕密を素材 ら刊行した最初の單行書であった。 * 美的生活論、ニーチェ主義流行。 とする翻案をまとめて『外交奇譚』と題 小品を集めた『自然と人生』を民友瓧より し、民友瓧より刊行。同月、小説「みだれ刊行、自然詩人の名を不動のものにした。 三十五歳 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 蘆」 ( 十九回連載、未完 ) を「國民新聞」にまた再版以後は印税契約を結び、それを契 發表。更に十一ー翌年五月、長篇小説第一機として漸く經濟的な自立を得、原稿生活一ー六月、長篇「黒潮」を「國民新聞」に 作「不如歸」を「國民新聞」に連載 ( 明一一一に入った。十月、逗子を引拂って東京市外連載 ( 明三六・二刊 ) 。兄猪一郞から題材を得 三・一民友社刊 ) 、物語作家としての文名を原宿に移轉。同月、「閑言」を「小天地」 たものと言われる。三月、「慈悲心鳥」を にわかに高めることになった。 に發表。民友瓧以外の雜誌に發表した最初「文藝界」に、八月、「休暇日記」三回連載 ) 、 のものである。同月、國民新聞瓧の委囑を「睡餘録」 ( 三回連載 ) を「國民新聞」に發 明治三十一一年 ( 一八九九 ) 三十一一歳 受けて信州に遊び、「遊信雜記」を得て、表。同月、隨筆集『靑蘆集』を民友瓧より 一月から十二月まで、克明な自然欟察のノ十一月、「余が最初の燕尾服」 ( 四回連載 ) 刊行。更に九月、眞正面から文學を論じた ートを書く。後「湘南雜筆」と題して『自とともに「國民新聞」に發表。同月、これ評論「何故に余は小説を書くや」三回迚載 ) 然と人生』に收められたのがこれである。 まで書きためた探偵物をまとめ『探偵異を「國民新聞」に發表。これは直ちに中島 一月、「田家の煙」「大海の出日」「田舍雜聞』と題して民友社より刊行したが、意に孤島の反駁 ( 「柳絮録 ( 遊戯文學の辯 ) 」、明三五 景」「四ッ手網」「相摸灘の水蒸氣」「富士滿たぬため匿名とし、印税も受けなかっ ・九「讀賣新聞」 ) を受けたが、それに對す の倒影」を「國民新聞」に發表。これらはた。 る反批判は遂に發表されなかった。同月、 * 家庭小説漸く盛行。寫生文出現。 いずれも後『自然と人生』に收められた。 「ヨセミテ谿谷の記」 ( 九回連載 ) 、「汽車の雜 この年も一一度にわたって旅行を試み、各地 感」 ( 二回連載 ) を「國民新聞」に發表。後
一一月物語」 ( 未完 ) を「國民新聞 , に連載。 ようになった。同月、吾妻山爆發に際して 川町の兩親の家で結婚。しかしこの結婚は * 敎育勅語發布。 現地に出張し、「急行探險」 ( 三回連載 ) を以後數年間種々の軋轢を生じる原因ともな * 新島襄死去。 「國民新聞」に寄せる。七月、歴史之った。その間の事情は『冨士』に詳しい。七 明治二十四年 ( 一八九一 ) 片影』 ( 編著 ) を民友瓧より刊行。うち「セ月、赤坂氷川町の勝海舟邸内の貸家を借り 二十四歳 リダン將軍普佛戦爭手記」は人見一太郞受けて住む。六ー八月、「砂上の文字」 0 = 一月、「幽靈姥」 0 一回連載、未完 ) を「國民浴浦 ) 筆、「世界 0 末日」は丁吉次筆と」わ回連載 ) を「家庭雜誌」に、九月夢物 新聞」に發表。四ー五月、「ト ~ = トイ伯れる。同月、隨想「百合 0 花」を、七ー八語」 ( 四回連載 ) を「國民新聞 , に、「遠征」 の飲酒喫烟論」 ( 三回連載 ) を「國民之友」 月、「小説の小説」を、九ー十月、「末期のを「家庭雜誌秋期附録」にそれぞれ發表。 に發表。夏、はじめて富士山に登る。この 言」、を十一月、「碓氷の紅葉」 ( 後「兩毛の秋」 この頃から從來の方式を改め、民友瓧から 年、キリ = ト敎信仰冷却し、聖書からも祈と改題 ) を「國民新聞」に發表。このうち一頁當たり五十錢の稿料を受けるようにな 疇からも欽第に離れるようになった。 「小説の小説」は「物語の物語」と改題しった。 * 沒理想論爭起こる。 て「末期の言」とともに『第四國民小説』 * 日淸戦爭始まる。 ( 明二七・四刊 ) に再録された。十一月、碓 明治一一十五年 ( 一八九一 l) 二十五歳 明治二十八年 ( 一八九五 ) 氷・妙義に遊ぶ。この頃から東京周邊の景 この頃、京都時代の悲戀の體驗を綴った勝を訪ねる旅行が繁くなった。 一月、妻愛子の兩親チフスによって死去。 「春夢の記」をひそかに執筆。専ら「戦爭 * 人生相渉論爭起こる。 西下した愛子も感染して熊本病院に人院し と平和」「ウイルヘルム・マイステル」等 * 山本久榮死去。 たため、急遽熊本に赴いて看護し、四月ま に英譯本で親しむ。五月、「夏の夜話」を、 で滯在する。五月、「思ひ出るま又」を 明治二十七年 ( 一八九四 ) 二十七歳 八月、翻案「夏の夜かたり」を「國民新 「國民新聞」に發表。この頃腸カタルにか 聞」に發表。「夏の夜かたり」は『第三國一月、新生涯に入る決意をもって精細な日 かって休瓧し、志賀重昻の「日本風景論」 民小説』 ( 明一一六・六刊 ) に再録された。十記を書き始める。同月、芝櫻田町に下宿。 を讀んだりした。八月、ゴ ーゴリの「タ一フ 一月、『グラッドストーン傳』を民友社よ一 1 三月、翻案「不思議の家」 ( 六回連載 ) ス・プリバ」の翻案「老武者」を「國民新 り刊行。三番目の單行書である。秋、東京 を「國民新聞文藝附録」に發表。後『第五聞」に連載。同月、「夏」 ( 後「數鹿流ケ瀧」 譜女子高等師範學校在學中の原田愛子との間國民小説』 ( 明二八・一一刊 ) に再録した。 と改題 ) を「家庭雜誌夏期附録」に、九月、 に縁談が起こった。 四ー六月「柳の家」 ( 四回連載 ) を「國民新「恐ろしき一夜」を「家庭雜誌」に、十月、 年 明治二十六年 ( 一八九三 ) 一一十六歳 聞日曜附録」に發表。四月、父一敬より財喜劇「花あらそひ」 0 一回連載 ) を「國民新 産の分與を受け、五月、熊本縣菊池郡隈府聞日曜附録」に、十二月、「冬の郊外」を 五月、「アンナ・カレニナ」英譯本購入の ( 現在、池市 ) の原田彌平次の次女愛子 ( 當「國民新聞」に發表。これらのうち「夏」 ため横濱に赴き、漸くト ~ ストイに親しむ時日本橋區有馬尋常高等小學校訓導 ) と赤坂氷は後『第五國民小説』 ( 明一一八・一一刊 ) に、
406 二ーカ立年一一月、「雲がくれ」を「國民新闕」 「花あらそひ」は『第六國民小説』 ( 明二九・的自然感情が次第に文章に定着し始めた。 一一刊 ) に、「恐ろしき一夜 , は『第七國民 * 松隈内閣組織され、松方正義首相、大隈重信に連載。 外相となる。 * 日本主義提唱。他方、社會主義・瓧會小説も 小詭』 ( 明一一九・四刊 ) に、また「老武者」 論ぜられる。 は『第八國民小説』 ( 明二九・七刊 ) にそれ 三十歳 明治三十年 ( 一八九七 ) ぞれ再録された。しかしこの頃までの作品 三十一歳 明治三十一年 ( 一八九八 ) 一月、相州逗子の柳屋に居を移す。同月、 はまだほとんど習作の域を出なかった。 一月から、後『自然と人生』に收録された * 日淸戦爭終結。三國干渉。 短篇「漁師の娘」を「家庭雜誌新年附録 . * 観念小説・深刻小説流行。 に發表。四月、『トルストイ』を民友瓧十「寫生帖」の斷續的な發表が始まった。同 一一文豪第十卷として民友瓧より刊行。日本月、「湘南歳除」「晝」 ( 二回連載 ) 、「百合の 一一十九歳 明治一一十九年 ( 一八九六 ) における最初のすぐれたトルストイ紹介文花」 ( 七回連載 ) 、「此頃の富士の曙」を「國 一月、「去年今年」「眞なる詩、自然なる獻である。六月、兄猪一郞、松方首相の招民新聞」に發表。なかでも「此頃の富士の 電によって歸國、内務省勅任參事官に任ぜ曙」は國木田獨歩らの賞讃を受け、自然詩 歌」を「國民新聞」に發表。この頃から、 られる。八ー九月、「夏の月」 ( 二回連載 ) 人の聲望を得るとともに、自己の文學の方 和田英作について洋晝を習い始めている。 四ー五月、「姑の話」三回連載 ) を「家庭を「家庭雜誌」に、九月、「集鴨奇談」「身向についてある種の自覺を促す原因にもな 雜誌」に、四ー五月、「百物語」を「國民中の蟲」 ( 後「うらおもて」と改題 ) を「國民った。一一月、「梅花に對して」 ( 三回迚載 ) 新聞」にそれぞれ發表。五月、兄猪一郞、新聞」に發表。同月、「無聲詩人 ( 畫家コを、三月、「逸題」 ( 二回連載、後二篇に分か 政治視察のため深井英五とともに歐米旅行口オごを「國民之友 . に寄せたが、手違いちそれぞれ「兄弟」「國家と個人」と改題 ) 「昨 に出發し、歸途トルストイを訪問する。同によって六號活字で組まれたため憤り、後夜の夢」「可憐兒」を「國民新聞」に、「閑 『自然と人生』を編むに當たってその末尾窓讀餘」 ( 未完 ) を「國民之友」に發表。同 月、「寫生」を「國民新聞日曜文學」に、 六ー八月、ステプニャックの「一虚無主義に置いて恥辱の記念とした。十月、「秋の月、これまでの舊稿を整理して最初の文藝 作品集『靑山白雲』を民友瓧より刊行した 者の經歴」の翻案「捨つる命」 ( 未完 ) を山っと」 ( 四回連載 ) および翻案「白絲」 ( 六 「國民新聞」にそれぞれ發表。この頃、回連載 ) を「國民新聞」に、十一月、「トルが、ほとんど反響らしい反響がなかった。 四月、「家庭雜誌」にこれまで掲載して來 經衰弱氣味でほとんど出瓧せず、伊豆・房ストイ傅補遺」を「國民之友」に、十一ー 州に靜養を重ねて漸く健康を回復した。十十二月、「トルストイ家の家庭敎育」 ( 二回た泰西婦人の小俾をまとめて髜名婦鑑』 を民友瓧より刊行。しかし自身の筆になっ 一月、利根川下流一帶を探勝して「刀彌河連載 ) を「家庭雜誌」に、十一ー翌年三月、 上の一晝夜」「水國の秋」 ( 後合わせて「水國義兄山川淸房をモデルとした小説「河島大たのは全二十二章のうち十七章だけであっ 尉」 ( 三回迚載、未完 ) を「國民之友」にそた。同月、「蕪村句集」を携えて水鄕一帶 の秋」と改題 ) の一一篇を得、前者は十一月、 後者は十一一月の「國民新聞」に發表。このれぞれ發表。十二月、松隈内閣瓦解し、兄に遊んだ。五月、翻譯「輻兒傳」 ( 末完 ) を 頃から、後『自然と人生』に結品する汎神猪一郞も内務省勅任參事官を辭任した。十「家庭雜誌」に發表。同月、妻愛子ととも
者には、當時のいわゆる社會主義的關心の後「不如歸」は諸外國語に翩譯され、世界上州安中敎會の牧師柏木義圓より受洗。四 8 和實質が窺われる。この頃、「黑潮」續篇構的に流布することになった。 月、單身西遊の途にのぼり、聖地。ハレスチ * 日露戦爭始まる。 ナを經てャスナヤ・ポリヤナにトルストイ 想に苦慮し、材料蒐集を企てている。十二 * 瓧會主義文學漸く擡頭。 月、「霜枯日記」 ( 五回連載 ) を「國民新聞」 を訪ね、シベリア經由で八月歸國。直ちに に發表、無斷で字句を削除されたため憤激 靑山高樹町に居を定めた。この旅行の委細 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 三十八歳 し、それを機に民友瓧と關係を絶っことを は『順禮紀行』に詳しい。九月、「。ハレス 決意して「告別の辭」を書いたが、兄猪一 一ー三月、九州を旅行し、熊本に滯在。三タイン光記」を「新人」に、十一月、談 郞に説 / 得されて火中に投じた。同月、大阪月、竹崎順子の死を契機として心的變化を話筆記「書かざる所以」を「文章世界」に で高田實一派が「不如歸」を脚色上演、以生じ、親族と融和する感情起こる。また八發表。十二月、「勝利の悲哀」と題して第 後數多い「不如歸」劇化の先鞭をつけた。 月、富士に登り、頂上で人事不省に陷った一高等學校で講演。同月、『順禮紀行』を ことから再生の自己を發見、それとともに警醒瓧より刊行。また、月刊パンフレット 三十六歳 明治三十六年 ( 一九〇一一 I) 新しい懊惱苦悶を感じる。十一月、雜誌「黒潮」を發行して創刊號に「月刊『黑潮』 一月、千圓餘の資金をもって自宅に黑潮瓧「新紀元」の創刊に當たって客員となり、 とは何ぞや」ほか五篇の文章を掲載。この を設立し、二月、黒潮第一篇』を自費創刊號に『黒潮』第一一篇を掲載する につきて」頃から蘆花の雅號を全く廢止し、以後本名 出版して、卷頭に兄猪一郞に對する告別のを寄せ、欽いで十二月、「黑潮第一一篇」曰を名乘った。 * 自然主義の聲漸く起こる。 辭を掲げ、警醒瓧より發賣。當然大きな世の一、二を發表したが、結局未完のままに 評を呼んだが、多くは蘆花に味方するもの終わった。同月、兄猪一郞と和解し、生活 明治四十年 ( 一九〇七 ) 四十歳 であった。四月、『寄生木』の主人公小笠刷新のため菜食生活を始めるとともに、感 原善平の最初の訪問を受け、以後その死に想録や日記類をすべて燒却して原宿を引拂一月、「閑窓雜筆」ほか一一篇を「黑潮」 い、逗子に赴いた。 至るまで密接な交渉を持っことになった。 第二號に掲載。二月、東京府下北多摩郡千 八月、北海道に旅行。 * 日露講和條約調印。講和論を主張した國民新歳村字粕谷 ( 現在、東京都世田谷區粕谷町 ) 聞瓧が暴徒に襲撃される。 * 社會主義者およびキリスト敎徒の兩面から非 を永住の地と定めて移住。直ちに園藝農具 戰論起こる。 一式を買い求める。以後、いわゆる美的百 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 三十九歳 姓としての餘裕ある生活が始まった。四 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 三十七歳 一月、「余が犯せる殺人罪ーを「早稻田文月、父一敬受洗。 この年も各地に辰行した。十二月、卷頭に學」に發表。同月、伊香保に赴いて三月ま 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 四十一歳 自筆の序文「翻刻英文不如歸の卷首に」をで滯在。その間、トルストイ訪間を意圖し 付した『 Nami ・ ko 』が Herbert B. Turner て書を送ったりした。一一月、「榛名山上よ四月、田山花袋・小栗風葉粡『二十八人 年 Co., および有樂瓧より刊行される。以りーを「新紀元」に發表。三月、妻愛子、集』 ( 新潮瓧刊 ) に「國木田哲夫兄に與へて
僕の近況を報ずる書」を掲載。八月、「國 * トルストイ死去。 録『み乂ずのたはこと』を新橋堂・服部書 木田君の『我』」を「趣味」に發表。九月、 店・警醒瓧より刊行、大いに世評を呼ん 明治四十四年 ( 一九一一 ) 四十四歳 小笠原善平自殺の報に接し、自責の念を覺 だ。六月、小説「十年ー ( 十一回連載、未完 ) える。同月、兄猪一郞の末女鶴子を養子と一月、大逆事件判決、直ちに死刑執行の報を「國民新聞」に發表し始めたが繼續する する。十月、「また筆を執らば」を「早稻に衝撃を受け、時の首相桂太郎に建白書をことが出來ず、「小説『十年』につき ( 作 田文學」に發表。 送り、續いて「天皇陛下に願ひ奉る」を書者の辭 ) 」を同紙に公表して中絶する。同月、 * 國木田獨歩死去。 いて助命を歎願する。次いで二月、「謀叛『 Natu 「 e and Man 』 ( 英譯自然と人生 ) 弘 * 。ハンの會設立。頽震的思想みなぎる。 論」と題して第一高等學校で講演し、再び學館より刊行。九月、妻愛子らとともに九 大逆事件に言及。同月、「何故に余は小説 ・南滿洲・朝鮮・裏日本を振行し、十一 明治四十一一年 ( 一九〇九 ) 四十二歳 家と成りし乎」を「靑年」に、「かあやん」月歸宅。この間の經過は『死の蔭に』に詳 一一月、小笠原善平の鄕里岩手縣下閉伊郡山を「新女界」に發表。四月、自宅に建築中しい。 ロ村に赴き、善平の姉俊子を同行して歸京。 の書院落成。同月、「井手んロ」を「國民 大正三年 ( 一九一四 ) 四十七歳 十月、隨想「七一雜報」を『回顧一一十年』雜誌」に發表。 ( 警醒瓧刊 ) に寄せる。十二月、小笠原善平 五月、結婚記念第一一十一回を期して精細な 明治四十五 日記を書き始め、その死まで繼續した。同 の殘したノートをもとにして長篇『寄生大正元年 ( 一九一一 l) 四十五歳 木』を執筆、警醒瓧より刊行。 月、養女鶴子を兄猪一郎にかえす。同月、 * 耽美的傾向あらわれる。 八月、「。ハレスチナの回顧」を「新人」に、 父一敬死去。しかしその葬儀に出席せず、 * 日糖事件に横井 ( 伊勢 ) 時雄連坐し、下獄す九月、談話筆記「將軍の死は批評以上也」 それを機に面會文通を謝絶して親戚とも遠 る。 ( 三回連載 ) を「二六新報」に發表。 ざかった。七月、それまで同居していた小 * 明治天皇崩御。大正と改元。乃木希典夫妻殉笠原善平の姉妹を歸郷させ、同時に善平に 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 四十三歳 對する責任感からも解放される。十二月、 自らの過去の淸算の第一彈としてかっての 六月、「中央公論」が德冨蘆花論を特集。大正一一年 ( 一九一 四十六歳 九月、再度北海道に旅行。十一月、母久子 戀愛に取材した長篇『黑い眼と茶色の目』 譜や妻愛子らとともに京都・奈良方面に遊二月、第三次桂内閣打倒・憲政擁護運動の を新橋堂より刊行、それまでの妻愛子との ぶ。この二度の旅行の委細は『みずのた 餘波を蒙って國民新聞瓧が暴徒の襲撃を受葛藤に終止符を打つ。 年はこと』に詳しい。 けたのに義憤を感じ、同瓧の再生を助ける * 第一次世界大戦が起こり、日本も參戦。 * いわゆる大逆事件起こる。 ため兄猪一郞との交渉を復活するとともに 9 大正四年 ( 一九一五 ) 四十八歳 0 * 日韓併合條約調印。 同月、「小説『十年』の豫告」を「國民新 * 理想主義的傾向あらわれる。 聞」に發表。三月、六年間の田園生活の記 六月、大病後の妻愛子を件って伊香保に赴
日本現代文學全集 德冨蘆花集 17 編集 整郎夫謙吉 光健 村野本 伊龜中平山 昭和 41 年 1 月 10 日印刷 昭和 41 年 1 月 19 日發行 定價 500 圓 ◎ KODANSHA 1966 とみ ろ 著者 德 蘆 イ匕 發行者 野間 印刷者 北島 織 衞 株式會瓧講談社 發行所 東京都文京區音羽町 3 ~ 19 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 振替東京 3 9 3 0 印 刷 大日本印刷株式會社 寫 眞 製 株式會社興陽社 版 印 刷 製 本 大製株式會社 函 株式會社岡山紙器所 製 株式會瓧第一紙藝社 背 皮 小林榮商事株式會瓧 表紙クロス 日本クロス工業株式會社 ロ繪用紙 日本加工製紙株式會社 本文用紙 本州製紙株式會社 函貼用紙 安倍川工業株式會社 見返し用紙 三菱製紙株式會社 扉用紙 崎製紙株式會れ 落丁本・亂丁本はお取りかえいたします。
イ 04 た大江義塾に入る。 一月、兄猪一郞「將來之日本」を刊行し、 を回覽雜誌「文海思藻」に發表。 世に認められる。六月、再び京都に出て伊 * 政敎瓧結成、離誌「日本人」創刊。國粹主義 明治十六年 ( 一八八三 ) 十六歳 擡頭。 勢時雄方に寄寓。九月、同志瓧三年級に再 この頃、矢野龍溪の「經國美談」、宮崎夢人學し、寄宿舍生活に人る。この頃、山本 明治二十一一年 ( 一八八九 ) 二十二歳 柳の「佛蘭西革命記自由の凱歌」や淨瑠璃覺馬の娘久榮 ( 新島襄の義姪 ) を知り、戀愛 本等を耽讀。この年、父一敬、兄猪一郞にに陷った。十二月、兄猪一郞、大江義塾を五月、熊本英學校を辭して上京、民友社に 家督を讓る。 閉鎖し一家をあげて上京。 人る。民友瓧では校正係を勤める傍ら各種 * 政治小説盛行。 * 矢島揖子、基督敎婦人矯風會を創立。 記事の翻譯に從事した。九月、『如温・武 リチャ ードコプデン 雷土』を、十二月、『理査土・格武電』を 明治十七年 ( 一八八四 ) 十七歳 明治二十年 ( 一八八七 ) 民友社より刊行。これらの史傳が最初の單 一月、兄猪一郎「明治一一十三年後の政治家二月、兄猪一郞、民友瓧を設立し、雜誌行書であった。なお、七月以降、數年にわ の資格を論ず」を私刊。十二月、兄猪一郞「國民之友」を創刊。五月、「孤墳之タ」をたって「國民之友」の六號雜録を數多く執 「自由、道德、及儒教主義」を刊行。この「同志瓧文學雜誌」に發表、同志社内に文筆したらしいが、その大半は自發的でなく 年、母久子受洗し、その影響でキリスト敎名を知られる。この頃、演説に熱中し、ま受身で書いた文章であった。 信仰に接近する。 * 欽定憲法發布。 た和歌も始めた。夏、暑中休暇を利用して * 自由黨解黨。 始めて上京、靈南坂の兩親の家に滯在。久 明治二十三年 ( 一八九〇 ) 二十三歳 榮との關係を家族に知られて説論され、煩 明治十八年 ( 一八八五 ) 十八歳 悶する。その苦い經驗もあって二葉亭四迷二月、兄猪一郞によって平民主義を標榜す 三月、熊本一二年坂のメソジスト敎會で牧師の「浮雲」に感激、共感を覺えた。九月、 る「國民新聞」が創刊されるとともに同瓧 飛鳥賢郞より受洗、直ちに今治敎會に赴久榮との夫婦約束を破り訣別する意を認めに入り、外國電報の翻譯や海外事情の紹介 き、傳道に明け暮れる。傍ら地元の要望にた書を送る。十二月、戀愛の破綻を直接の等に從事。四月、「モルトケ將軍」を、六 より英語敎師を勤めた。六月、兄猪一郎契機とする精的・經濟的な行詰りを打開月、翻案「石美人」を、七ー八月、羅 ムレット 「第十九世紀日本の靑年及其敎育」を刊行、するため、數通の遺書を殘して京都を去り武烈號」を、八月、「水鄕の夢」 ( 未完 ) を 翌々年「新日本の靑年」と改題して再刊。 鹿兒島に走る。 「國民新聞」に發表。このうち「石美人」 七月、祖父太善次美信死去。この年から蘆 「羅武烈號」は『第一一國民小説』 ( 明二四・一 明治二十一年 ( 一八八八 ) 二十一歳 花逸生の號を用い始めた。 〇刊 ) に再録、また「水鄕の夢」は幸田露 * 矢島直方死去。 二月、叔父德永昌龍に迎えられて鹿兒島か件を模倣したものという。九ー十月、「露 ら熊本に歸り、熊本英學校 ( 海老名彈正校長 ) 國文學の泰斗トルストイ」 ( 三回連載 ) を 明治十九年 ( 一八八六 ) 十九歳 敎師となる。この年、「はわき溜」「有禮意」「國民之友」雜録欄に發表。十月、翻案「十 ジョンゾ
410 き、七月歸京。この頃から、新聞・雜誌お大正八年 ( 一九一九 ) 五十一一歳 大正十一年 ( 一九一三 ) 五十五歳 よび單行書に各種德冨蘆花論があらわれ始 一月、夫妻して第二のアダム・イプを自覺一月、談話筆記「自己改造の宣言ーーー隱栖 めた。 * トルストイ熱盛ん。 し、自ら新紀元第一年を宣言して世界一周十六年の殼を破る誓ひ . を「讀賣新 の途にのぼり、翌年三月歸國。自らを日聞」に發表。一ー三月、妻愛子を件って九 大正五年 ( 一九一六 ) 四十九歳 子・日女と呼んだ。二月、母久子死去の報 ・朝鮓に旅行し、歸途山本久榮の墓を弔 この頃、いわゆる美的百姓の域を越えて田をインド洋上で受取る。この旅行の間、感った。三月、序文「吾妻よ、愛子よ、を付 想を十篇ほど、各種新聞に寄稿している。 して『黒い眼と茶色の目』縮刷版を輻永書 園生活に一層親しむべく努力した。 * 論壇・詩壇にデモク一フシーの傾向起こる。 五月、『堰水先生追憶記』 ( 井上善吉刊 ) に店より刊行。五月、「自然から見た伊太利 「井上堰水先生ーを發表。 と日本」を「日本内海 , に發表。十月、久 大正六年 ( 一九一七 ) 五十歳 * ヴェルサイユ講和條約調印。 しぶりに矢島楫子を訪ね、懴悔を勸告す 一月、「粕谷にて」を「早稻田文學」に發 大正九年 ( 一九二〇 ) 五十三歳 表。二月、來日中の小レオ・トルストイを 大正十一一年 ( 一九二三 ) 五十六歳 自宅に招く。三月、『死の蔭に』を大江書三月、歸國して直ちに妻愛子とともに『日 房より刊行。四月、伊香保に遊び、四十日本からへ日本へ』の執筆を開始した。九月、四月、『竹崎順子』を輻永書店より刊行。 『み曳ずのたはこと』『黑い眼と茶色の目』同月、妻愛子とともに伊香保に赴く。 間滯在する。七月、九十九里濱に赴き一カ * 關東大震災。その影響によって階級文藝一時 の版權を新橋堂より輻永書店に移す。 月逗留。この頃から德冨蘆花美辭名句集・ 的に屏息。 * 國際聯盟成立。 警句集の類が多く世にあらわれ始めた。 * 最初のメーデーが行われる。 * ロシア十月革命。 大正十三年 ( 一九二四 ) 五十七歳 * 民衆藝術論起こる。 大正十年 ( 一九一一一 ) 五十四歳 一月、以後すべての執筆を遺言と定める。 大正七年 ( 一九一八 ) 五十一歳 三月、『日本から日本へ』 ( 東の卷・西の卷一一同月、『冨士』第一卷を起稿。折からアメ リカの排日案に憤り、六月、「平和と私」 一一月、自宅を恒春園と名付ける。四月、再卷 ) を妻愛子との合著として金尾文淵堂よ り刊行。同月、伊豆長岡・興津・京都・大を「朝日新聞」に、七月、「日米問題の解 生の自己を公けに宣言した『新春』を輻永 阪・吉野に旅行。次いで四月、伊香保に赴決について」を「文化生活の基礎」にそれ 書店より刊行。五月、銀婚式を祝う。五ー ぞれ發表するとともに、九月、内村鑑三と 七月、岡山・瀬戸内海・愛媛地方を旅行。 協力して『太平洋を中にして』を編纂し、 * 勞働文學・勞働文學論盛ん。「種蒔く人」創 * シベリア出兵宣言。第一次世界大戦終結。 刊。 文化生活研究會より刊行。十月、「難波大 * デモク一フシー思想盛んに行われる。 助の處分に就いて」「天皇陛下に願ひ奉る」
- ルて久平よ ) ら、よらクっ のにたさに」をの・ ) 9 しな久 ) 、ザの外 、をーてとーなのもたノ しのケ ) 活 , こ ( , てリを ? こゑう , 、 ) ( 0 っ % ) を第し簽ラ 4 小わイ。を 一タををらんーの をルく、 ) 」善 ? き阜且な 々第てーーん阜のーしソ々簧 今明治三十三年八月民友社刊 个明治三十三年蘆花宛の島崎藤村の手紙 ( 「自然と人生」讀後感 ) 富健次郎著 自然 = を 分明治三十四年五月民友社刊 ←明治三十四年一月蘆花夫妻 小 東京民友載發兌
と云ふ始末。終には其方は中止として、專らカを數學の方に用ゐ あののら 8 た。宗教論も彼後は一寸泣寢人りの姿となった。志津牧師から貰っ またいでんさんじゃう た新約聖書はテープルの抽斗に人れて居るが、馬太傳山上の説敎を 道太郞君が出發すると程なく待ち焦れた志津牧師の手紙が來た。 讀むだ支で、此も一時中止とした。打明けた所が、宗敎よりも學間 そのご わな、 が僕には急務に思はれて、今から學校に入らふと云ふ急がしい體に顫く手に封を披いて見れば、確たる事は其期に及むで見ねば分から あ・ ~ しんりつめい 安心立命所かと云ふ様な淺薄な俗な幼稚な考が僕の心を支配して居ぬが、入學試驗が無難に通りさ ( すれば、一人位は如何とか都合が つくであらふと云ふ事で、而して人學試驗は十日から始まり、學業 たのだ。 併しながら人品の説敎はロ舌の説敎よりも雄辯で、心靈の耳は肉は十五日から始まる筈になって居るから、一刻も早く出發するが宜 の耳よりもいものである。人の心の田地に落ちた種は早かれ晩いと云ふ意味を書いて、關西學院の幹事井原と云ふ人と敎師淸水と てんしょ 云ふ人に宛てた都合二通の添書を封人してあった。 かれ決して生へずには居らぬ。庭を歩いて、此れは不審議、此處に 志津牧師の厚意で、兎に角其方の道は開けた。雎試驗ーー此が如 梅の木が生へた、値へもせぬに、と驚くだけが愚な話、風が吹いた そもそ か、鳥が落したか、抑も内の腕白が投げたのか、何時の間にかころ何であらふか。無事に通れば可、通らなければ更に困難から困難に たね むだ核に土がかぶって、何もないノ \ と踏む下にちゃんと未來の梅移る樣なもの。併しながら今は如何か斯様かと躊躇する場合で無 の大木は出來て居るのである。松山の會堂でちらと射した光は、消い。背水の陣と出かけなくてはならぬ。 たくはヘ 僕は早速出發の準備にか又った。貯金通帳を廣げて見れば、貯 へた / 、と思ひの外、數學に汗を流し夜學に欠伸を噛みくだく忙し あた、 い中にも何處やらに温まりを殘して居たのであらふ。而して道太郎の金は十三圓となにがしになって居る。此は僕の額の汗を絞ったも 言其人の如きは、實に僕の爲めに不言の傳道者となったのだ。其潔の、之を出すのは實につらいが、併し旅費と其れから入校ーーー若し 白な心、沈着な氣質、眞摯の情、要するに其一見人を射るの異彩な試驗が通るとすればーーの費用は此れから支辨せねばならぬ。母に は試驗が濟むだ所で何も報ずることにした。共れは、愛する母に旅 きにもせよ久ふしていよ / \ 愛す可く敬す可き人品は、ヘろ / \ 傅 おもんばか 道師の億言萬語にましてーーー僕は其と自覺しなかったがーー、僕の心費萬端の心配をかけるのもつらし、萬一試驗が面白くない時を慮 ったのである。 耳に耶蘇敎證據論を吹込むだ。 併しながら此處に僕は道太郞君の如何に僕の事を思って呉れるか 九月の初旬道太郞君は東上の道についた。其前々夜は、夜の白む いりまめ を知るの機會に遭遇した。兼頭氏を訪ふて、嘸驚くであらふと思ひ まで供の二階で焙豆を噛りながら、さまみ、の事を語り明し ( 僕は ことづて 松村の事を道太郞君に話し、色々の言傳をした、松村には去年の暮ながら、出發の事を相談ーー實は報告するーーと、承知して居たと がうなづ はとは おとづれ と云ふも鳥滸がましいが、所謂送別の馳 から一度も音信をしなかった ) 出立の其日は、埠頭まで送って、手云ひ貌に頷ゐて、送別 を分った。埠頭に立って道太郞君を載せた汽船の煙を殘して出で行走をして、其れから熨斗つけた一封を出した。厚意は左る事なが みおく ら、謂はれ無い餞別を受くるのは・ーーと例の我慢が出か。、ったが、 くのを目送って、僕は思はず涙にくれた。彼俗歌にも云ふ「殘る 煙」が實に恨めしく思はれた。思へば、涙は戀の花にのみ宿る露で不圖見れば、其一封の片隅に道太郎君の名が書ゐてある。あ、僕如 いさぎよ あらふか。僕は知らぬ、僕は唯何故か涙の禁じ難かったのである何に己を潔ふするに餘力を殘さぬとは云へ、斯くも自分の事を思 おそ 知己の涙とでも云ふのであらふ。 ひら