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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

をんなあご わがよ ませんよ」と氣の利いた婢に顋で追はせ、「未來」の徽章を眞に こちら 最早二月を出ないのである。併しながら吾生の春は何時、吾芽の吐 帶びた弊衣破帽の人逹は、一丁も此方から飛むで出て迎 ( 、思ふ存 くは何れの日であらふか。其は恐らく五年、十年、一一十年、汗血を 分優待して可愛がってやらふ、なぞと途方も無い空想に耽りよよっ揮ひ盡して長《しい冬と鬮った後の事であらふ。 い目睡むだが、今朝朝飯が濟むと、早速勘定を拂って、宿を飛び出 した。實は蟇ロの底をはたいて、茶代に呉れた上で、亭主を呼びつ ほんがうゆしまてんじんらやう けて昨夜來の不埓を叱りつけ、「御氣の毒様 , の百遍も云はして、 僕は本鄕湯島天町一丁目の松谷と云ふ下宿屋に一先づ落つい 恐れ人らしてやらふかとは、思「たが、一錢は百圓にも値る目下のた。一は先年友人の松村が寄寓して居た縁故もあり、一は僕が上京 場合、見榮所でないと眼をつぶって、耳を塞いで、逃げる様に宿をの目的に兎も角も近い方角を擡むだのである。 出たのである。 僕が上京の目的は、帝國大學であった。吾足關西學院の鬥を一歩 足の塵をはら 0 て新橋を渡り、音に聞く銀座の通に出ると、思っ、踏み出した時は、最早文科大學に心は飛むで居た。否、若し僕の枕 た程立派では無いが、流石朝から人の往來の繁く、立並ぶ店の賑合を仔細に糺したならば、吾夢の赤門を潜 0 たのは、恐らく一朝夕の かん も成程日本一の都一の街丈あって珍らしく、儺は彼方見、此方見、 事であるまいと思ふ。新五の攻撃、菅先生の勸誘、は無くとも、僕 おり / 、人に行當らふとしては危く身をかはしながら、ぶら / 、歩が傅道師たるの決心は早夏の頃から秋立「て居た。唯一縷の瘠我慢 ゐた。日報瓧の前まで來ると、また其建物の宏壯に一驚を喫し、彼あって僕を關西學院に、學修行の決心に、傅道師の目的に繋いで 名筆を輻地君は此二階で揮「たのかと見あげ見おろし、しばらく片居たもの、、吾心の輕氣球は次第に昇り 0 めて、彼方の空に輝やく 寄 0 て眺めて居た。往來の路人は「くねんと柳の下に佇む一寒書生別世界が近く見ふるほど、吾を此世界に繋ぐ糸はいよ / \ 伸びてい を何と思「て ( 若くは思はずに ) 見たのであらふか。僕が心の中のよ / 、細く、風の一吹、刃の一觸を待 0 の有様であ 0 た。菅先生の 獨語はまさに左の如くであった。 おまへ 一件は、恰も僕の爲めに快刀の一揮となったのである。若し一面の 「東京、東京、卿は此菊池愼太郞君の來遊を一向知らず貌に、せつ かうじん 照魔鏡をとって、僕の心の前に押立てたならば、菅先生間題に關す せと生活の戦鰰をや 0 て居るな。行人、行人、卿等は僕の顔を見てるあらふる憤激失望の其奧には、微笑する或もの、面影が映 0 たか も何も知らず、袖ふり合ふても氣もとめず、押のけ , 往來して居も知れぬ。併し僕は其と知らず、若くは知るを欲せず、何處、、、、ま るな。今に見玉〈、菊池愼太郎と云ふ名が揚り、今卿等が讀むで居でも菅先生に對する同情より宣敎師輩の狹隘なる感情の犧牲とな 0 る其新聞 ( 日報瓧の掲示新聞の前に人が三四人立讀して居た ) に、 てーー云はゞ基督敎の公義を維持せんとして斃れた一種の殉道者、 今此處に立「て居る此靑年の名があらはれ、卿等も菊池君だ、愼太諸同輩の身替りとして、昻然と關西學院を出たのであ 0 た。僕が去 0 郎氏だと道をよけて通し、足を 0 まだて、見る時が來るかも知れ 0 たのでは無く、關西學院が僕を追ひ出した。僕は當初の目的を維 ひるがヘ ぬ。喃、柳、其樣ぢゃないか」 思 持する筈であったのを、事情が僕に迫って決心を飜させたのだ。 と僕は撫づる様に柳の幹をたゝいた。時は今冬の最中、柳の葉は卩 皀ち僕は是非なく關西學院を出で、是非なく傅道師たる可き目的を 落ち盡して、幹は眞黑に、何處に春が籠って居るとも見〈ぬ。併し中止し、是非なく帝國大學を指して來たのである。 ぶんち 春は來る。必ず來る。春が來て死んだ様な柳が綠に息ふきか〈すも 大學の事は關西學院に居た頃から薄々聞知して居たが、下宿に落

2. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

は子供の笑整が聞へて居た。 兼頭君の紹介が濟むと、牧師はさら / 、と隔て無い調子で色々の 事を尋ね、まだ長く宇和島に居る積りか、何處かの學校〈行く心算 兎に角松山行は僕にとって今の境涯を脱して進歩の道にる其 は無いかと間うた。僕は無論東京 ( 行く積りですが、併しー , , ・とロ緒を與〈たのであった。而して僕に劣らず其事を喜むで、賛成し 籠る。兼頭君が口を添〈て、僕が今夜學會を敎 ( て學資を作るに骨て呉れたのは、道太郎君である。「吾輩は其れで重荷を卸した様な 折って居る事を話し、僕が如何しても他人の厄介になるを好まぬと 心地がする」としば / 、、言った。 云ふ事まで語って、「吾輩も其れで無いと一臂の力を致すのですが」 大兼頭氏にも、毎夜やって來る學生にも、無論其事は默って居る はき と毎常其胸中に住來して居ることを思はず漏らした。牧師はぢっと はた が、母には未だ明瞭とは分からぬが、都合によりては近々に關西學 考へて居たが、礑と膝をうって、 院に人ることになるかも知れぬと云ふ事を報じ、其學校の程度、學 「是非今すぐ東京で無くも宜でしゃう普通學なれば何處でや 0 た資の都合も略説明して置いた。折か ( して母から返事が來た。其は って同じですからね、關西學院に入っては如何ですか、彼處なれ入學の蓮びになるのを喜むだ手紙で、いよ / 、其事となれば、衣類 初め入用の物もあるであらふから、如何ともして送ることにすると と其學校では、英語は餘程進歩して居り、且っ貧生には例 ( ば鐘云ふ意であった。併し學校が學校だけに、僕が耶蘇教信者になりは つき、門番、敎場の掃除などをして學資を得る方法もあると云ふ事すまいかと餘程心配した容子があって、卿も已に十七の若者となっ を話した。僕の心大に動いた。併し音に聞く關西學院は、宗敎學校たれば、事毎に母が干渉する譯では無いが、最初の志を喪はぬ様 であれば、師範學校の卒業生が敎を執るの義務ある様に、卒業後に、一時の都合や當座の感情の爲めに魔道に蹈み込まぬ樣に隨分と 傅道師になる義務は無いかと尋ねると、牧師は笑って、其處には別注意をして呉れ、と云ふ意味がくりか〈し / 、書いてあった。 かの に神學科と云ふものがあって傳道師牧師を養成するが、普通科には 愈彼學僕のロがあるか無しかは、兎に角松山の志津牧師から返 其様な事は無い、無紳論者も新分居ると答 ( た。僕の心ますノ動事の手紙が來なくては分からぬ、また其返事は九月に人らなければ いた。目指す所は東京だが神戸まで行けば已に半途、此四國に愚圖來ぬ ( 關西學院の秋期は九月中旬に始まるので ) 筈であるが、併し ついて居るより其方が餘程得策ではあるまいか。 つまり 共まで安閑として居るべきで無いので、僕は入校の準備を夜學を敎 結局、牧師は僕の爲めに例の學僕の地位のあきがあるや否やを學〈る片手間にやり始めた。規則書を見ると、普通科が五年、自分の 校に問ひあはして呉れることにまとまった。其夜は別に宗敎上の話學力を計るに少なくも一一一年には入れる、唯怪しいのは會話、更に怪 もせず、唯牧師が探し出して呉れた關西學院の古い規則書と、新し しいのは數學だ。幸ひ道太郎君が、餘程其方には心得があるので、 の い新約聖書を貰って、其宅を辭し、而して其翌日僕等は蜂谷老人や僕の爲めに數學敎師となって呉れ、僕は毎日毎日トド ( , タアの代 " 頭君の許嫁 ( 女は大阪 0 畆花女學校と云ふに九月から入學する數に幾升の油汗を流したかも知れぬ。會話に到ては、道太郎君もあ ことになったそうだ ) や弟の腕白君に別を告げて三津から船で宇和まり長じて居ないので、此れから少しなりとも會話の舌を自由にす 3 島に歸った。 8 る爲め二人の間は決して邦語を用ふ可からずと云ふ規定を設けたに も拘はらず、二言目にはもどかしがって直ぐ持前の國なまりを出す

3. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

ひいきめ に其話の模様も聞き、 ( 贔負目かは知らないが、年こそ若けれ、駒し頭はます / \ 重い。 」さて 井先生に及ぶ者は一人も所謂名士の中に無い、と僕は思った ) ちょ 偖待ちに待った試驗の日は來た。僕は起上るとふら / 、とするの とりで い / 、先生が文筆の勞を手傅ひ、民間黨が放っ彈丸の政府の壘に見を、何有と刎ね起き、顏を洗ふ間も倒れそうなのをやっと我慢し 事破裂するを見てはおのづから喝采禁ずる能はざるのであったが、 て、形ばかりの朝飯の卓に向ったが、素より一粒も咽を通らぬ。不 併し例の熱中病にも罹らず、壯士となって外務大臣の門に押かくる圖駒井先生は僕の顏を見て、 の擧動にも出でなかったのは、僕も亦別に戦ふ可き一大敵を有した 「菊池君、非常に顏が赤い、熱があるのちゃないか」と云ひ / 、、僕 いしゃ からである。此敵と戰ふ爲めに、僕は關西學院を出奔して、背水の の手を握って、「火の様な手をしとるぢゃないか。醫師に見せたま 陣を布き、此敵に勝たんが爲めに僕は新聞配逹ともなって苦勞した のである。ち僕は目前に迫った大學入學試間に、是非共吾學んだ 併し僕は自ら笑して、先生に謝し、垢つかぬ木綿縞の單衣に同 やっと 關西學院の名譽ともなる可き好良の成績を以て及第しなければなら宿の書生から借た袴を辛つけて、玄關の方へ出やうとすると、また たれかれ ぬ、と思ひ込むで居たのである。上野戦爭の砲聲を聞きながら洋書ふら / 、と倒れかゝった。同宿の甲乙が驚いて立ち寄る、駒井先生 を講じた輻澤先生を學ぶでは無いが、僕もまた政府包圍攻県の本陣も聞きつけて、立ち出で、 に居ながらせっせと試驗の準備を整へて居た。 「本當に菊池君、押しちゃいかん。試驗はまた出來るちゃないか 關西學院の遠藤から手紙が來て、愈よ卒業式が濟むだ事、都合に 其れとも是非今日出るなら、一寸醫師に見せて行きたまへ , よっては秋になって上京する事を報じ、「唯殘念なるは尊兄が此内 と書生を呼むで、師を迎へにやられるのを、僕は遽て又押と にあらざることに候、同級の者皆之を惜む」と書ゐてあった。併しめ、 ( 師にとめられるのを恐れて ) 車を呼んで貰った。如何して はや はうたん ながら逸りに逸った供の心には、さまでの感を與へなかったのであもとまらぬと見て、先生は自ら寶丹を取り出して來て、一杯の水と ぎゃうさん よろづ る。仰山な話だが、萬の恥辱を雪ぐのも、萬の辛抱に酬ふのも、僕共に與へられた。押しいたゞいて師の惠を口に啣み、無理に嚥みこ 自家の面目を保つのも、母の心を慰むるのも、此一戦に打勝つにあみ、ふら / 、するのを、齒を喰ひしばって、 り、と其様思ひ込むで居た。 「では一寸ーーー」 めさを一まっくら 先生に一禮して、車に乘らうとすると忽ち眼前が眞闇になって、 月は九に人って、僕は出來得る限りの準備は已に整へ、首尾よく しるべ 入學を許された日には正副保證人は駒井先生の知邊の誰々と云ふこばったり玄關に倒れる。 とまで定めて、文科大學長宛の人學願書を出し、人學受驗料五圓を 大學會計課に納めて、愈よ其日を待って居た。月の初から少し感冒 まはり のの氣味で、兎角頭が重く、此二三日は飯も箸をつけたばかり、其癖 山の周圍に人垣作って、必す通る道筋に手練の射手數多伏せ置い ても、獸は往々逃げるもの。九分九厘まで人力で押つめても、殘一 思茶ばかり飮むで居たので、駒井先生は書生に命じて、鷄を買はせ、元 氣づけだと云って馳走されたが、其れすら嬉しく思ふ程には咽に人厘は如何あっても儘にならぬが、所謂天であらふ。 らず、吾ながらあまり腑甲斐ない様で、時々井戸側に出で又は素裸 大學に人る筈の僕は大學病院に入る身となった。病は重症の腸 つるべ らぶす すこふ 1 になって、釣瓶七八はいもかぶりなどして、元氣をつけて居た。併窒扶斯、無理押して居た丈頗る惡性のものであった。 ( 九 ) だい あわ

4. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

の氣焔を吐く一一大煙筒。關西學院では學生の手になった一二雜 れちど で、俗派は庶子だ。而して上級になる程信仰が一致して、 ( 印ち信 ( 無論筆寫の ) があって、月に一回位新聞雜誌閲覽室に出るのであ徒の數が殖〈て ) 行くので、此縱斷線は垂直線よりも、寧ろ對角線 ったが、演説に比すれば微々たるものである。金曜の朝飯後、食堂と云ったが適當であらふ。 まかなひ げきふん みだ の外の板壁 ( 此板壁は學校の掲示場で、賄退治の檄文、書籍賣却 ゅうべ 新人の學生は末だ物馴れず、故參の學生は大人ぶって妄りに動か の廣告、昨夜ダアヰンの進化論を先生に聞ゐて今日堂々と駁論をすぬ。其間に介立する僕等の階級は蓋し尤も活動する階級で、而して る一夜學士の講演の引札、十傑技票結果の披露、共冷評など、凡百恐らく尢も各種の人物に富むで居た。 けんやうしゃ の公掲文字は此處に張られる ) を見ると、曰く、蓋世會、興風會、曰く 赤澤、ち俗派の豪傑組を代表する男。曾て玄洋瓧に居たそう 何會、何會の名を以て「鳴呼東洋文明の開拓者は誰ぞ」の、「涙を揮な。倔強の壯士、肩を掉って歩くのと、破靴と、政論とで名高い て吾滿天下の同胞に訴ふ」のと驚く可き演題を辯士の名と共に掲げ「政治家」。敎課書よりは新聞を讀むで、此學校は時事に冷澹 ( 此丈 てある。期に及むで竊と其場を覗いて見ると、テープルに一フンプが は僕も同感 ) だと、居常貭慨して居た。 一つ置いてあって、廣い敎場に聽衆が無慮十數名、此はと一驚を喫 俗派の才子組を我級に代表するは馬場。頭は丁寧に分け、。ヘアス するが、其僅少な聽衆に對して滔々と演説する辯士の熱心と雄辯に石驗を使い、出るには玉虫の様に光る着物を着て、机の抽斗の奧に はまた再驚を喫するのである。金曜の夜、庭に立ってちいと聞ゐて は梅暦をかくし、誰にでも調子を合はして、實はうまい飯くい道ば 居ると、彼處では「諸君よ」、此處では「ノオ / \ ヒャ , ( 、」盛な かり考へ、また時々は鼻で信者を笑って世間知らずの時勢おくれと ものだ。 云って居た。 ものい だきめう 西山塾、育英學舍、其生徒は重に士族の一階級、範圍はたかゞ一 ひきか 要がなければ三日も言はず、湯には一月も入らず、五年の間抱茗 縣内に限られて居たに引易〈、關西學院は兎に角關左に雄視して居荷の紋付の眞岡木綿の羽織一枚で通し、先生も知らず書物にも無い る私學校だけ引力の及ぶ所も廣く、種々雜多の分子を包含して居新發明の方式で幾何の難間題を釋く「思想家」遠藤は、非俗派の豪 た。「おますさかい」の京男、「ばってんくさい」の九州男、「しやが傑 ( 外面から云って ) 組の尤物である。 ばい云ふな、しばくぞ」と罵る四國者、中國、關東 ( 關東は少數で 學間は出來ぬが、ロがうまく、如才が無く、親睦會の幹事、先生 あったが ) 士農工商の子弟が其れ \ の國風、族風、職風、家風、 や他の級 ( わたりをつける時の交渉委員、「交際家」の川田。左る 自個の風を持ち寄って、基督敎の精劔を含むだ敎育を受くるので、 町家の息子とか、十錢の貸金を毎日友人に督促って、五厘の燒芋の かくしぐひ 宛ながら芋の子洗ふ樣にごっちやごちゃと賑やかで面白い。 隱喰して、他人が菓子買 ( ば眞先に飛むで來る佐藤。何處の惡婆に 學校を横斷するのが學級の區別で、縱斷するのが精神的區別であ舌剪れたか、舌切雀の舌足らぬ言様しながら、莞爾しながら、詐の つひ る。縱斷的には、關西學院は凡そ二派に別れた。俗派 ( 印世間派 ) 名人、借倒しの大統領、「來る、來る」と云って居る爲替は終に來 出非俗派 ( または信徒派 ) 印是である。而して之を細別すれば、兩派ず、「返〈す、返〈す」と云ふ借金は決して返 ( さぬ男、何時か食 おのノ、豪傑組、才子組、尋常組、の三つに別れる、俗派は非俗派堂の眞中に推參な穢多に踏み込まれて雪駄代の二十錢を大音に強評 を呼ぶに、迂濶、無氣力、などの語を以てし、非俗派はまた俗派を まれながら、直ぐ其翌日から平氣に水 ~ 果子屋小間物屋を荒らしてあ 氣の毒な者視して居る。學校の性質から云 ( ば、無論非俗派は實子るく「樂天的 . の深水。幾何學の表紙に「腦充血釀造之活機」と書

5. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

せた事などは、項目だけでも擧げて置かなくてはならぬ。翌日新五僕は新五が爲めに萬歳を唱 ( 、ア一ドリウ、カアネギーの事を引い が案内で、詳しく見物した炭礦の模様、探掘から貯藏門司若松 ( 運て、新五が億萬の富を積むで、億萬の功德を散ぜむことを希望し、 搬 0 手續まで、複雜にして然も整然たる機關の運轉、斯等は確かにまた新五が望により彼平民倶樂部で坑夫に演説する時も、新五を活 非常の興味を與 ( たのであるが、併し坑夫飯場の淸潔にして風日のきた模範にして勤儉力行す可き事、人は職業よりも而上にわが心が あたりよく建て、あった事、夜學校の設ある事、説敎場にもなればけを据〈て居らねばならぬ事を反覆詭明したのであった。 軍談講釋幻燈會などの寄席にもなる板葺の一大平屋 ( 平民倶樂部と しつべいさうしゃう 新五が家に逗留の二日三夜の間、色々眼を喜ばし心を慰むる事少 か云た ) が建てられてあ「た事、疾病創傷 0 爲め小さ」ながら信賴なからずあ 0 た中に、嬉しか 0 たのは、彼曾根君が昔し石川島の押 す・〈き病院の設がある事、中村貯蓄銀行と云ふものがあ 0 て役夫の丁で會 0 た時に比すると全く別人の如くな 0 て、新五が大事の裨將 貯金を奬勵し利子は無論、半季ど、の利 ( 0 を貯金の高に應じて配當となり、已に妻子を持ち、一家を構 ( て、非常に勉勵して居ること する仕組にな「て居る事、八時間勞働日曜安息をや「て居る事、保であ 0 た。悲喜相半ばしたのは、一一十何年ぶりに分家の叔母と從妹 險及恩給扶助の役夫の爲めに十分安心の道を開いてある事、五人組のお芳に會 0 たのである。此は新五が計らひで、僕等が着する日を の制を設けて一種の自治機關が出來て居る事、斯等は更に一層の興計 0 て、輻岡なる彼等を招」たのであ 0 た。從妹は僂よりも一歳下 味を喚び起した。斯等の中には、僕が勸めて行はしたものも少なか わりあい だが、打見には三十四五、四十近くも見ふる程にふけて、二十年前 らぬので、其結果の比較的に良好なのを見るは、非常の愉快であ 0 妻籠の茶小屋で別れた時の面影は、唯凛よしい眉と、澄むだ眼に殘 たのである。併しながら畢竟機關制度は死物、活殺は人にありで、 るばかり、久しぶりに會って嬉しいのか、恥かしいのか、悲しいの 渾て斯等の機關を活かして行く新五が器量は大したものと云はなけか、よくは顏も得あげなか 0 た。叔母は猶更骨と皮ばかりの様にや ればならぬ。實に馬士から身を起して獨カ此位置に逹した新五の成 0 れて、頻りに其長女のお藤が十何年前に出奔して以來、生きたと 功は、目ざまし」も 0 である。併しながら僕が殊に喜むだ 0 は、新も死んだとも便りがな」のを苦にして、死ぬる前に一度如何様にや 五が規模の廣大にして、自から利して併せて人を利するの主義をと つれて乞食になった顔でも宜から一目見たい、などと云ふ様な事ば り、坑夫に對するも勞働者對資本主の關係では無くて寧ろ親子の關 かりこぼして居た。後で聽けば、從妹の良人の光永中尉と云ふ人は 係をとって居ることである。實に九州北部の炭礦業者の中にも、資 朴訥一圖の軍人氣質、働がないかはりに、叔母にも從妹にも隨分よ 力に於ては遙かに新五の上に立「者も少なからずであるが、眞にくする方であるが、家計はあまり豐かでなく、其に姉 0 置き去り 「親方」 0 名稱にる者は恐らく新五を其一位に推さなくてはなら 0 男兒まで預 0 て居る 0 で、從妹 0 心づかひは中《一通な」そう 1 一一ⅱ ぬ。勞働時間を短縮したり、休暇を與〈たり、役夫の爲めに自腹をな。成程何も不如意な事は、男の僕が眼にも見 ( 、隨分質素に / 、 0 切 0 て種 ~ 0 設備をしたり、一見不利の位置に立ちながら、慾 0 外として居ますけども、吾家 0 子女の着物が奇麗で、奢「た様で、彼 思 には親子も知らぬ他の同業者と角逐して、毫も後れを取らず、じり 方に濟まない様な氣がしました、と吾妻は後で僕にゃいた。唯喜 じり押しに進むで行くのは、無論新五の技倆だが、また其間に微妙ぶ可きは、從妹が連れて居た熊彦と云ふ當年七歳の兒、從妹其ま、 のの消息がなうては叶はぬのである。實に「無」袖は振るに振られの眼ざし、 0 かりと、故叔父の強情な所も見貸梶さ ( よく取 0 た こど、 2 ず」、僕等書生が百年の空論も富豪は一朝にして實行し得るもの、 ら隨分家を興して行きそうな怜悧な童であった。まさか廣大無邊の

6. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

とむら った。金曜日毎に「ス・ヘンサー氏哲學講義並駁論」の廣告を掲げ墳墓上の感」と題しては木戸公を弔ふ感傷的の演説をやったり、果 んけんたりかうじゃうのつきせざいむなしくがび て、林田先生に就て呑むだばかりの哲學を直ぐ吐いて居た敬二が ては句調の好い爲に「嬋娟江上月、千載空蛾眉」と唐詩を題 となり 隣室の寮長町尾さんが、獨笑生と名のって、食堂前の掲示場に張札にして廣告の張紙を賑はしたりした。學課が樂なので、彼は圖書室 カらスタンリー して、協志瓧の十傑投票を募ったら、其結果思想家の一人に柊さ の "Through the Dark Continent" の大册を借り おどろき ん、勉強家にこれも敬二が同級で凡そ其手に飜す敎科書の頁にはたりして、同級の年少に驚駭の眼を橙らせた。あるタ鴨河の消の散 あま 芥子粒程の不明も剩さぬ猫の眼をした大迫君、而して學才家には人歩に、敬二は宗さんと會津の人で昔少壯政治家の一人として兄の家 學して唯二ヶ月の敬二が思ひがけなく當選した。敬二も流石に片腹塾を來訪したこともある今協志瓧の下級に雌伏して居る天髯の可 すこふ 痛かった。此投票ー は頗る無理で、狡猾では西の大關と云ふので兒さんから、一年級のある幼生が會話の敎場でカーデーさんから撲 West lake と目された自慰をやるとか云ふ蒼白い顔の鐃い目をした たれたとか突かれたとか要するに侮辱を受けたと云ふ事を聞いた。 四年生の美山さんが、笑生の名を以て投票募集廣告の側に張紙し カーデーさんの顰め猿の顔を思ふと、敬二の血は勃然と煮え立っ て、いっそ十傑皆町尾琴次郞とすればい又などと冷罵した。然し此 た。彼は歸るといきなり檄を傅へて同級を敎場に集め、一場の演説 いたづら をして學生の面目の爲外人の節制の爲決して不問に措かれぬと煽動 如何はしい投票の結果で、敬二の名は徒に響き、敬二の室に喜び を述・ヘに來る同級生すらあった。敬二は氣分をよくして、規則正し した。一年級の級務係の林田さんが、其事件に諭澹であったと聞 となり い生活をした。時間をきちんときめて、隣室の同級島村君の持て居きかじって居たので、性格なら姿貌ならポストの様な冷靜な哲學者 ゆみはりづき る弓張月を覗いて居ても、そろ / 、接近して來た年下の片山君など は、自ら多感多情を衒ふ靑年煽動家の爲に Senseless being と罵倒 にア一フビャンナイトの The Sleeper Awakened を話して息もっか された。兎に角事實を調査することになって、柊さんと共に同級で せす喜ばして居ても、時間が鳴ればきつばりとやめてテープルに向も伯父さん株の世馴れた稻川さんが、人學早々英語にかけて圖拔け ふた。伊豫の書店に少し許りの負債があったのを、敬二は鄕里から た秀才と其評判は最早薄々敬二等の耳に人って居た淺井敬吾と云ふ かはせ もらふ四圓五十錢の學費の中から、爲替で返濟した。 少年を引張って來て聞きたゞした。結局此問題も大した火事にはな 敬二は淸々しい氣分になって、何事にも積極的態度をとった。彼 らなかったが、病納まらぬは敬二が胸であった。此度の様な事があ むな つま、 のロは常に空しかったが、彼は元氣一ばいであった。其頃はまだ るから、如何にかして置かねばならぬと彼は思ふた。彼は狐に誑れ 協志社に機關雜誌の樣なものはなかったが、ある級で手寫した雜誌た様な變な顔をして居る同級を雨中に相國寺の門の蔭に引張り、雨 をこさ〈て圖書室の新聞雜誌臺に出して置くことがあった。敬二の傘を門柱に立てかけ、足駄の齒を鴫らしながら協志瓧の爲に三年生 から出すべき種々の建議案の主意を説明した。其中には協志瓧學生 茶級から柊さんの主筆で「無名雜誌」と云ふ月に一回の雜誌を出すこ AJ とになった。敬二は早速其第一號から祝辭を寄せた。金曜土曜の夜の自治の爲協志議會を興す事、協志瓧の機關雜誌を起す事、諮問 眼 ししゅんけんたい 會を設け學科の選其他學生の痛痒に關する事柄に就て諮詢獻替の ~ は、其處此處の空いた敎場に傍聽人の少い各級の雄辯會があった。 敬二の級のは興風會と云った。敬二は兄の家塾や伊豫の似而非傳道機關となす事などもあった。柊さんと敬二が建議書の起草委員に選 ふる ゅゑん 生活で大分振ひ馴れた舌を揮って、「東洋文明の進歩せざる所以」 2 まれて、柊さんが大體右の主意に基いて起草した。建議案は其筋に り′ノト一・つ 2 と云ふ素睛しい題を掲げては序論ばかりの大演説をやったり、「孤差出されて、含み置くと云ふ挨拶をうけた。敬二の活動は多少龍頭 たった おをこ ひるがヘ クラス クラスオフィサア かたち 、なごり

7. 日本現代文學全集・講談社版 17 德冨蘆花集

たというので、卑しい人物のように非難されている。だが、そうい一八 ) 二月十一日、紀元節の夜明けであった。健次郞は、五十一歳、 あいは、四十五歳であった。健次郞は、『新春』をかいていた。こ う人物のほうが反って強い感化を與えることもある。 私は、しかし、別の點に興味を覺える。メンジスト派といい、會の本の冒頭には、「イザャ書」五十三章と、「ヨハネ傳」十一章二十 衆派といい、輻音主義の立場からみれば、宗敎としての骨格が弱五節が掲げられている。前者は、キリストの出現を豫言している。 いのち よみがヘり い。カルヴァン主義は、カトリックの對抗改革の反撃にきたえられ後者は、「我は復生なり、生命なり。我を信ずる者は、死ぬるとも ているから、戦う敎會を築きあげている。政治思想にも影響を與え生くべし。」という言葉を記している。前者に關していえば、蘆花 た。の意志に反する國家權カ〈の服從拒否から、人民の主權を土は、晩年この言葉を深く信じていたという。キリスト再臨の豫言と 臺とする民主主義にまで據り所を與えた。德冨蘆花が交渉をもったして受け取っていたらしい。後者に關していえば、『日本から日本 「世の罪を負ふ / 紳 キリスト敎は、禪學をもたぬキリスト敎であったといっても、決しへ』の卷頭に掲げた一一一〕葉と呼應している。 の小羊を見よ」 て誇張ではない。 『日本から日本〈』第十篇『英吉利』の「倫敦日記」大正九年 ( 一九一一德冨蘆花の宗敎的妄想を云云することは、容易だが、それだけで は餘り意味がない。妄想の發生した原因を探りだすことが大切だと 0 ) 一月十三日で、蘆花はこんなことを書き留めている。 「基督再臨問題につい思う。 て、内さん〔内村鑑三〕その外的原因として強調したいのは、蘆花が交渉をもったキリス は文義通りの信者であト敎に、學らしい紳學が缺けていたことである。だから、キリス ト再臨説などを抵抗なしに信じる結果になった。蘆花は、第二のキ る。田君は違ふ。私は、 再臨の基督はもっと人間リストになった點で、嘲笑されているが、それよりも再臨説そのも 、世俗的であらねばなのを、内側からも外側からも批判しなければならぬ。 ( 交評論家 ) らぬと云ふ。」 再臨のキリストは、德 冨健次郎である。かれは、 妻あいとともに、第二の アダム、エバであり、日 子、日女である。オリエ ントの禪々にふさわし 、男女一對である。ア ダムとエバの自覺にめざ めたのは、大正七年 ( 一九 明治三十九年エジプトにて蘆花夫妻 7

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ぶしゃう それに 不精で規律が大嫌ひ、加之例の性癖の兎角常格とはづれる事が多い にせよ二階もあり、四方窓だから明るいことは眩しい位、其上運動 0 イので、自然黨中からも敬遠主義で待たるゝ傾向があって、云はゞ一場たる庭もあり、黒塗りの門もあり、大きな鬥札もあり、イフフも の遊星に過ぎなかったのである。併し靑年子弟を敎育し我黨の相續立って居て、兎に角學校の體裁を帶びて居る。郊外の畑の眞中に突 ひゅう / 、 者を作る可き機關學校を設くるの必要は、伯父も他の諸人と一同に立って居るのだから、北風が飄々障子を鳴らす頃の寒さと、其れか しつくひ 感じて居た。 ら麥浪菜花の眞中に二階立の瓦屋の漆喰が白く日に光って白いフフ うご 若し搖籃を搖かす者はち天下を搖かすならば、學校を握る者は フが翩々と東風に翻って居る所は一寸好い景色であった代りに、生 にしゃう しもごえ ふんぶん 瓧會の牛耳を握るのである。帝國大學が如何に明治政府の堡障とな温い風が四方から吹いて來て尾籠ながら糞汁肥料の臭が芬々と面々 くさ、 ふいをう り、三田塾が如何に一布衣翁の感化を日本に普及したかは、今更言 の書窓に御見舞申す時の臭と云ったら、今思ひ出しても窒息する程 さしお 新しく云ふ迄も無いが、大袈裟な話は差措いた處で、實際機關學校であるが、併し此は贅澤千萬な話で、西山塾での様に夏は睡い目を かため の必要をば伯父の連中も夙に認めて居たのであった。中西西山先生寧り冬は赤ぎれだらけになって自身飯を焚く必要もなく、一目眇の まかなひ も系統を云へば無論此黨に屬す可きであるが、先生は到底融化し難賄男が居て三度々々ちゃんと暖かい飯を食はして呉れるのを思へ いっしょ いや い個性を具へて、一人なら任せろ、一同には否と云ふ質であるか ば、實に其ればかりでも大したものだ。假令其飯は、往々にして糠 このたび そのかみ ら、以前の西山塾も畢竟西山先生の塾たるに止まった次第、此回機臭く、其汁にはよく炭屑砂利藁ぎれなんど推參な汁の實が飛び込む もうまる いは 關學校創立の相談があった時にも、西山先生は、吾輩は最早全然の癖があるにもせよ、感涙を流す可きであるのだ。況んや彼恐る可き 百姓だ、敎育の學校のと云ふ事は眞平御免蒙る、諸君やるならやり 西山先生が、僕等書生を宛ながら若黨小廝かなんぞの樣に、それ庭 玉へ、開校式に甘藷の一俵も寄附しゃう、とすげなく謝絶せられた 掃け、やれ水汲めと追ひ使はれた事を思へば、今は朝起きる、蒲團 きへん さうだ。併しながら同志間の話は次第に熟して、敷地が手に入る、 をた長む、顔を洗ふ、儿邊を掃く、ばかりであとは勉強の仕放題で なにがし 某の山持が材木を寄附する、伺が濟む、困難であった英語敎師ある。また況んや西山塾では、先生と云っても唯った二人、學科は もエ部大學に居たとか云ふ男が手に入る、終に明治十四年の十月、 漢籍の一方に限って居たに引易へて、育英學舍には大先生から中先 恰も國會開設の大詔が出て五日目と云ふに、私立育英學舍のフ一フフ生小先生まで數へて都合先生が十三人、實に最初は學生よりも先生 ひるがヘ よっにど は郊外の風に翩った。 の數が餘程多かった位で、中には正五位を有って居らる又先生もあ やり 因で、伯父の祕書官も願に依って本官を免ぜられて、またノ寄 り、また寶藏院流のの逹人 ( 尤も其先生は學校では鑓を敎へるの 宿舍の飯食ふ身となったのである。 では無く文章軌範を講じて居た ) もあり、學科も漢文國文譯書、數 あま 學は珠算筆算、剩っさへ英語科まで備はって、此にはもとエ部大學 なんばんげきぜっ の退學生某と云ふ至て温順な先生が、頻りに汗をたらして南蠻鴃舌 すべるりんぐ 西山塾を去って、私立育英學舍に移った僕は、兎も角も幽谷を出の徒に綴書と云ふ讀本と申す驚く可き困難の書を敎へて居た。所 たち で乂喬木に移ったのであらふ。一寸其建物を云っても、西山塾は間 が世は意外千萬なもので、一ト月經三月過ぐる程に、大なる希望を こそ廣けれ畢竟ふるい百姓家を引直したものに過ぎない、其に引替以て始まった育英學舍も、機關の運轉に面白からぬ所あるを露呈す たとへ むかし へて育英學舍なるものは粗末ながらも新築の校舍、假令天井はない るに立到った。古から船頭多ければ舟山に上ると云ひ、ヂスレリー つまり れ′かゞな ) たら こちかぜ さ びろう こもの まぶ

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6 8 い、話す方だ ) であったが、意外な事もあればあるもので、會話の やがたっ 試驗場に出て待って居ると、頓て闥を排して入って來た試驗係の西 あっち びつくりこっち 洋人と、顏見合はして愕然、此方が「あゝ」と云へば、彼方も「お 四ヶ月過ぎた。 そち ゆかた 宇和島の汽船の甲板で吾白浴衣の袂をそよがした涼しいタ風は今お」と呼び、試驗は共方のけで先づ握手する始末。此れは別人なら あの ろくかふおろし ず、曾て宇和島警察署で僕が不十分の通辯をした彼米人ヰルキー 六甲颪の骨身に浸む時候となった。僕は吾三疊の室の西窓に倚り、 このたび 入り日を追ふて飛び行く鳥のむれを目送って向見ずに故鄕を飛び出プ一フォン氏であった。小説の様な奇遇だ。其れから今般此校に入學 した去年の今頃を想って居た。窓の下は一面の枯芝生に砂利道が縱する樣になった次第を、先方は間ふ、此方は答〈る、やゝ暫くして 横について居て、二十四五から十五六迄の靑年が、今しがた食堂を試驗にかゝったが、僕は意外の奇遇に力を得て大に放膽的英語をふ り廻はした。無論沙汰の限りの成績であったが、プラオン氏は破格 出て、處にぞろ / 、、此處にがや / \ 賑やかな群を作って居る。 セヴンマアク しかのみならす いくっ の七點を惠み、加之入學の上は一週二回宅に夜話しに來ない 共向ふには長方形の二階造りの窓の何箇も明いた建物がいちまつに つひ か、共様すれば英語の進歩に餘程效力があるであらふと云ふ話をし 並むで居る。此處は何處 ? 無論關西學院の寄宿舍だ。僕は終に關 た。實に非常の厚意で、僕は心から感激したのであった。 西學院の生徒ーー第三年期生となったのである。 そくしう きもっふ 兎に角試驗は濟む。月謝束修を納めて、供は第三年級に編入され 四ヶ月前宇和島から來て、初めて此處を覗いた時は膽を潰した。 かもんのかみ まや やまのて ( 田舍者ではあった哩 ) 。紳戸を少し山手に離れて、六甲摩耶の諸山た。其れと同時に幹事の斡旋で、敎場の掃部頭に任ぜられた。ち いちど おもちゃ うしろ を背後にいたゞき、淡路島を右手に見て、玩弄の舟を浮べた盆の様敎場の内二室丈、朝夕一回づゝ掃除する役を命ぜられたのである。 をつつわん 併し共月給の四圓なるものは、月末にあらざれば人らぬので、朿修 な攝津灣を一目に眺むる其位置すら已に過ぎたものと思はるゝに、 敎場、寄宿舍、食堂、禮拜堂と幾練となく建て離して、此が學校と月謝書籍及組末千萬の古テープル古椅子フンプなどの雜用品は、す このたび ちと いっせい べて兼頭君の餞別にか乂る金圓の中から支辨せられた。實に此回の は些勿體ない位。 ( 其後一生が京都の同志就と云ふ學校は此處より も立派で、東京の大學はまた同志就より十倍立派だ、と云って聞か事は、もとを云へば道太郎君初め諸氏の盡力によるので、僕は人學 濟むと先づ母に報じ、次ぎに道太郞君及志津牧師、頭氏、さては した時は、僕の膽はまたど、潰れた。あゝ潰れ易い膽ではあった 西内氏におの / 、禮从を出したのであった。 哩 ) 。此様な所で學問をする學生は皆學者、敎師はすべて大學者、 ゐなかもの 校長は聖人であらふ、僕の様な田舍漢は都の手ぶりとか足ぶりとか あらかし とてもを、び ひえ も知らぬ身なれば、到底驥尾にも稗にもすがれぬだらう、と豫め お度かたふ 四ヶ月經てば、學校の様子も大略腑に落ちて、僕も先づ關西學院 落膽したのであった。 すま 幸ひ志津牧師の懇切なる紹介状があった爲、幹事も淸水とか云ふ生となり了したのであった。 ひきか まだ 西山塾、育英學舍の其に引易へて、學科は整頓して居る、敎員は 敎師も細かに世話をして呉れ、其れから羅生門より尚恐かった試驗 あの あせしめきかい の難關も、一つ過ぎ、二つ通り、僕の汗搾器械と稱して居た彼代數完備して居る、敎場が立派で、生活便が比較的に備はって、要する に雲泥の相違である。而して西山塾が勤儉力行を旗幟とし、育英學 も兎や角邇り、平均して七分と云ふ出來は、吾れながら出來したと たいはい 云って宜かも知れぬ。唯心痛して居たのは、英語 ( 讀む方では無舍が自由の大旆をかゝげた如くに、此學校は耶蘇敎を精として居

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プ 28 つまび くば新聞配逹は馴れさへすれば案外樂なもの、其には少し心あたり つくと直ぐ入學試驗、受驗料、保證人等入學の手續を詳らかに糺し た。入學試驗は九月初旬に行ふとの事で、試驗課目は打見た所左程もあればと、座をすべり出た主人はやがて其日の暮方にまた「御 これとて 恐る又にも及ばぬ、唯理科數學だけが少し骨折と思はれたが、是迚免」と人って來て、其知人の知人に此頃新に發行した平民新聞の庶 務係があって、其人の話では配逹を一人瓧では求めて居るそうで日 も今から六ヶ月間勉強したらば滅多に後れを取る氣遣はあるまい。 給は二十五錢、一つためしにやって御覽になってはと話した。 唯困難は兎に角九月まで自から支ふるの計を定めなければならぬの はうくわんげきたくじ 何かありそうなものとは思ったが、抱關撃柝辭す可からざる今の である。 とりめ あま 僕の懷中には、剩す所僅かに二圓なにがし、素より一ヶ月分の下場合、車は收人が多くても到底體がっゞかず、同じ配逹なら牛乳よ りも寧ろ頭腦の飮物を配逹するが宜からふ、其にしても平民新聞と 宿料に足らぬ位。愈々大學に入った上は兎も角も、關西學院を出奔 云ふは如何様な新聞かと、一枚取寄せて見れば、昔育英學舍に居た した、東京に來た、金送り玉はれ、とは如何あっても母に云ひたく なし。新五に云ったら一も二もなく出來もしゃうが、其もあまり意頃爭ふて讀むだ「自由之燈」の成人した様なもの、瓧説は誰の筆か 氣地が無い。東京に百萬の人はあっても、僕の知人は殆んど皆無と知らぬが、佛蘭西學者の香味を帯びて光焔人に迫るの概ありとも云 ふ可く、此れなれば配逹して歩いても先々可なりと思案を定め、印 云って宜い位。勿論菅先生は來て居られる、關西學院の遠藤 ( 僕が 荷物の送り方を托して置いた男 ) に尋ねてやったら先生の宿所も分ち新七君を保證人に立って貰ひ、其知人の知人とか云ふ赤木某の世 からうが、今の場合先生に顔を合はすは、男兒として妙に面白くな話で、僕はいよ / 、平民新聞の配逹人を拜命した。 い感もある。鈴江君なぞの女連 ( 僕が斯く速やかに來ゃうとは夢に も思はぬであらう ) は無論話にならぬ。斯様な時に、亡なった兼頭 やげんぼり 一月の卅日に僕は藥研堀の平民新聞瓧に初めて出勤して、其日は 君や、札幌に居る松村が居たら、カになって呉れるのだが、今は愚 かうぢまち 痴を並べる暇は無い。僕は下宿の主人を呼むで、事情を打明け、澤故參の者に跟いて、僕が配逹區域と定まった麹町一圓の得意の家を さまた ひる 山の報酬は望まぬが、日間の勉強を礙げず夜だけ稼ぐ道はあるまい彼是と敎へて貰ひ、其次の夜も案内に跟いてまはり、二月一日から あうしうなまり か、と相談に及むだ。主人は新七とか云って、奧州訛の極篤實らし愈一本立の配逹人となった。 かばん い五十餘の男。 新聞を滿挿したロ廣のズックの革嚢を右の肩からつり、餘れる新 かんはん 仔細に聞き終って、「成程御尤の次第、私も此様な稼業を致して聞を左の小脇にか、へ、右手に「平民新聞瓧」の印提燈を提げて、 おっきあひ 居ますれば、書生の御方々とは大分御交際も致しますし、及ばずな左の掌に配逹名簿を繰りよ、、歩く僕の容態を、故鄕の母上に見せた がらお世話申して、今では立派な御方になって、まだ時々は『おら何と思はれたであらふ ? 關西學院の學友が見たら何と評したで とろばう い、新七君』なんて仰有って下さる方もございます、何でも御辛抱あらふ ? 人は寢靜まって、盜賊と、夜行巡査と、夜稼の車夫と、 わづ うどん が肝腎でございます」と前置して、色々話す所によれば、冊田本鄕おでん大鍋やき饂飩の類のみ纔かに眼さめて居る夜の東京の面影 まだ あたりは夜學の敎師なぞは生徒の數より尚多い位、また然る可き家を、僕は日間の東京よりもさきに識った。其も霞うっとりと大路の 柳をこめて月影おぼろの春の夜か、八百八街の空に銀河流る、夏の の書生のロなぞも中々今日明日と云っては無し、夜の稼業では、活 くるまひき 版職工は修練がいるし、牛乳配逹か、少し骨折でも車挽か、さもな夜か、せめて月影霜の如く萬家の甍に落つる秋の夜ならばまだし をとこ たゞ しるべ いらか しる・ヘ