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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集
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1. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

ありノ、 と云ふ。懊を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髮のあり 8 が薄らいで、花も白澄んだけれども、未だ歴々と瞳に映る。 し邊、宙に殘って、消えずに俤に立つ。 枕に手を支き、むつくり起きると、恰も其の花環の下、襖の合せ 主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、兩手を廻して、緊乎と 目の處に、殘燈の隈かと見えて、薄紫に疊を染めて、例の菫色の手 後腦を抱いた。目は ( ッキリと崢いて、失せやらぬ其の幻を視めて巾が、寂然として落ちたのに心着いた。 居た。時過ぎる、時過ぎる、共の時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の ラム・フ 薰は扨は共からと、見るど、、心ゆくばかりに思ふと、萌黄に敷 ひとむれ 處の、洋燈を消したのが知れて、しつこは、しつこは、と小兒に云 いた疊の上に、一簇の菫が険競ったやうに成って、朦朧とした花環 ふのが聞えたが、やがて靜まって、時過ぎた。 ありあけ の中に、就中輪の大きい、目に立っ花の花片が、ひら / ・、と動くや 早瀬は起上って、棚の殘燈を取って、縁〈出た。次の書齋を拔け否や、立處に羽にかはって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、其 ると又北向きの縁で、其の突當りに、便所があるのだが、夫人が寢の同一處にちらノ、する。 たから、大廻りに玄關へ出て、鞠子の婢の寢た裙を通って、板戸を ひらき 早瀬は、甘い、香しい、暖かな、とろりとした、春の野に横はる 開けて、臺所の片隅の扉から出て、小用を逹して、手を洗って、手心地で、枕を逆に、掻卷の上〈寢卷の腹ん這に成って、蒲團の裙に 拭を持っと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に觸っ乘出しながら、頬杖を支いて、恍惚した从に共の菫を見てゐる内、 て、ほんのり白粉の香がする。 上にたゝずむ蝶々と齊しく、花の匂が懷しくなったと見える。 徐ら、手を伸して紫の影を引くと、手巾は其のま又手に取れた。 十九 ・ : が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。 寢室〈戻って、何か思切ったやうな意氣込で、早瀬は勢よく枕し 不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽の如く手巾を搖動か て目を閉ぢたが、枕許の香は、包を開けても見ず、手拭の移香でもすと、一寸ばかり襖が , : ・・開・・ : ・・い。 : ・・た。 まほろしひとすち ない。活々した、何の花か、其薫の影はないが、透通って、きらき 只見ると、手巾の片端に、紅の幻影が一條、柔かに結ばれて、夫 ら、露を搖って、幽な波を描いて戀を囁くかと思はれる一種微妙な人の閨に、する / \ と繋って居たのであった。 匂が有って、掻卷の袖を辿って來て、和かに面を撫でる。 菫がいて蝶の舞ふ、人の世の春の恁る折から、こんな處には、 共を掻拂ふ如く、目の上を兩手で無慚に引擦ると、ものの香は何時でも此の一條が落ちて居る、名づけて縁の絲と云ふ。禁斷の智 と枕に遁げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、 慧の果實と齊しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者はの兒 又 : ・有りもしない風を傅って、引返して、今度は輕く胸に乘る。 あふり となるし、取って繋ぐものは惡魔の眷屬となり、畜生の淺猿しさと 寢返りを打てば、袖の煽にふっと拂はれて、やがて次の間と隔てなる。是を夢みれば蝶となり、慕〈ば花となり、解けば美しき霞と の、懊の際に籠った氣勢、原の花片に香が戻って、匂は一處に集っ成り、結べば恐しき蛇と成る。 たか、薫が一汐高く成った。 如何に、此時。 くちなは 快い、然りながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寢られぬ目を開け 隔ての懊が、より多く開いた。見る / 、朱き蛇は、共の燃ゆる ると、先刻 ( お体みなさい。 ) を云った時、菅子が其處〈長襦袢の色に黄金の鱗の絞を立てて、菫の花を掻潜った尾に、主税の手首を 模樣を殘した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色卷きながら、頭に婦人の乳の下を紅見せて物んで居た。 ねま かいはら ゆす みひら しつか りん あさま

2. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

だんまり まなじりき みは 「飛んだ事をおっしやりませ、田舍でも、これでも、長年々期を入やう、眦も屹と成ったれば、女房は氣を打たれ、默然で唯目を はり る。 れました杉山流のものでござりす。鰯踏に鍼をお打たせになりま しても、決して間違ひのあるやうなものではござりませぬ。」と呆「さあ按摩さん。」 れたやうに、按摩の剥く目は蒼かりけり。 「えゝ、」 なんどき 「うまい、まづいを言ふのぢゃない。何時の幾日にも何時にも、洒「女房さん酌いどくれよ ! 」 「はあ、」と酌をする手が些と震へた。 落にもな、生れてから未だ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。」 「まあ、あんなにあんた、こがれなさった癖に。」 此の茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であ った。 「そりや、張って / \ 仕様がないから、目にちらっくほど待ったが うひぎん ね、いざ : : : と成ると初産です、灸の皮切も同じ事さ。何うにも勝 がた / \ と身震ひしたが、面は幸に紅潮して、 はらわた うはさ 「あゝ、腸へ沁透る ! 」 手が分らない。痛いんだか、痒いんだか、風説に因ると擽ったいと おふくろ 「何か其の、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。」 ね。多分私も擽ったからうと思ふ。 : : : 處が生憎、母親が操正し まをとこ と、これもおどっく。 く、是でも密夫の兒ちゃないさうで、其の擽ったがりゃう此の上な こさ し。 「先づ、」 : あれ、あんなあの、握飯を拵へるやうな手附をされる、と と突張った手をぐたりと緩めて、 其の手で揉まれるかと思ったばかりで、最う堪らなく擽ったい。何 うも、あ長、こりや不可え。」 「生命に別條は無さゝうだ、しかし、しかし應へる。」 かいすく とがつくり俯向いたのが、ふら / 、した。 と脇腹へ兩肱を、しつかりついて、掻竦むやうに背筋を捻る。 「はゝゝはゝ、これは何うも。」と按摩は手持不沙汰な風。 「月は寒し、炎のやうな其の指が、火水と成って骨に響く。胸は冷 女房更めて顔を覗いて、 い、耳は熱い。肉は燃える、血は冷える。あっ、」と言って、兩手 「何んと、まあ、可愛らしい。」 を落した。 くちばしたこ 「同じ事を、可哀相だ、と言ってくんねえ。・ : : 然うかと言って、 吃驚して按摩が手を引く、其の嘴や鮹に似たり。 あにい 恁う張っちゃ、身も皮も石に成って固りさうな、背が詰って胸は裂 兄哥は、確乎起直って、 ける : : : 揉んで貰はなくては遣切れない。遣れ、構はない。」 「いや、手をやすめず遣ってくれ、あはれと思って靜に : : : よしん と激しい聲して、片膝を屹と立て、 ば徐と揉まれた處で、私は五體が碎ける思ひだ。 共の思ひをするのが可厭さに、種々に惱んだんだが、避ければ摺 「殺す氣で蒐れ。此方は覺悟だ、さあ。ときに女房さん、袖摺り合 ふのも他生の縁ッさ。旅空掛けて恁うしたお世話を受けるのも前の着く、過ぎれば引張る、逃げれば追ふ。形が無ければ聲がする・ 行 世の何かだらう、何んだか、おなごりが惜いんです。掴殺されりやピイピイ笛は攻太鼓だ。恁う犇々と寄着かれちゃ、弱いものには我 共切だ、最一つ憚りだがついでおくれ、別れの杯に成らうも知れ慢が出來ない。淵に臨んで、崕の上に瞰下ろして踏留まる膽玉のな いっそ いものは、一層の思ひ、眞逆に飛込み寸す。破れかぶれよ、按摩さ ん。」 いとこはとこ 3 と雫を切って、ついと出すと、他愛なさも餘りな、目の色の變りん、從兄弟再從兄弟か、伯父甥か、親類なら、さあ、敵を取れ。私 かゝ いくか せなか そっ しつかり み

3. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

で無理に握って貰ひ、つか / 、と行くと、妻じい蟲の唸、軈て取っ引の膝でずって、あとさがりに玄關から土間へ、草鞋を穿いて又地 0 たす に手をついて、欽男坊の生命の扶かりまするやうに、ねえど、、と て返した左の手に熊蜂が七ッ八ツ、羽ばたきをするのがある。脚を いうて山へ歸った。 振ふのがある。中には掴んだ指の股へ這出して居るのがあった。 さあ、那の禪様の手が障れば鐵砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣の 其でもなか / 、捗らず、七日も經ったので、後に殘って附添って 居た兄者人が、丁度刈入で、此節は手が八本も欲しいほど忙しい、 ゃうに評判が八方へ。 其頃からいっとなく感得したものと見えて、仔細あって、那の白お天氣模樣も雨のやう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがへの 痴に身を任せて山に籠ってからは變不思議、年を經るに從うて禪ない、稻が腐っては、餓死でござりまする、總領の私は、一番の働 ことわり 通自在ちゃ、はじめは體を押つけたのが、足ばかりとなり、手さき手、かうしては居られませぬから、と辭をいって、やれ泣くでね となり、果は間を隔て長居ても、道を迷うた旅人は孃様が思ふまえぞ、としんみり子供にいひ聞かせて病人を置いて行った。 ま、はツといふ呼吸で變ずるわ。 後には子供一人、共時が、戸長様の帳面前年紀六つ。 ひとつやぐるり と親仁が其時物語って、御坊は、孤家の周圍で、猿を見たらう、 何を間違へたか屆が五年遲うして本當は十一、それでも奥山で育 蟇を見たらう、蝙蝠を見たであらう、兎も蛇も皆壤様に谷川の水をつたから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生れで聞分があるか っゅ ら、三ッづ又あひかはらず鷄卵を吸はせられる汁も、今に療治の時 浴びせられて畜生にされたる輩 ! まつは 殘らず血になって出ることゝ推量して、べそを掻いても、兄者が泣 あはれ其時那の婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、 くなといはしったと、耐へて居た心の内。 蝙蝠に吸はれたのも、夜中に魑魅魍魎に魘はれたのも、思ひ出し 娘の情で、内と一所に膳を並べて食事をさせると、澤庵の切をく て、私は犇々と胸に當った。 はヘて、隅の方へ引込むいちらしさ。 なほ親仁のいふやう。 彌よ明日が手術といふ夜は、皆寢靜まってから、しくイ、蚊のや 今の白痴も、件の評判の高かった頃、醫者の内へ來た病人、其頃 は未だ子供、朴訥な父親が附添ひ、髮の長い、兄哥がおぶって山かうに泣いて居るのを、手水に起きた娘が見つけて、あまり不使さに 抱いて寢てやった。 ら出て來た。脚に難澁な腫物があった、其の療治を賴んだので。 さて療治となると、例の如く娘が背後から抱いて居たから脂汗を 固より一室を借受けて、逗留をして居ったが、かほどの惱は大事 おろ ぢや、血も大分に出さねばならぬ、殊に子供、手を下すには體に精流しながら切れものが入るのを、感心にぢっと耐へたのに、何處を 分をつけてからと、先づ一日に三ッづ長鷄卵を飮まして、氣休めに切違へたか、それから流れ出した血が留まらず、見るノ、内に色が 變って、危くなった。 膏藥を貼って置く。 醫者が蒼くなって、いだが、禪の扶けか漸う生命は取留まり、 其の膏藥を剥がすにも親や兄、又傍のものが手を懸けると、堅く かたは 三日ばかりで血も留まったが、到頭腰が找けた。固より不具。 なって硬ばったのが、めり / \ と肉にくッついて取れる、ひい / ( 、 キ、り ' な、、す - も 之が引摺って、足を見ながら情なさうな顔をする、蟋蟀が挈がれ と泣くのちゃが、娘が手をかけてやれば默って耐へた。 た脚を口に銜へて泣くのを見るやう、目もあてられたものではない 9 一體は醫者殿、手のつけやうがなくって身の袞をいひ立てに一日 すこしれ 延ばしにしたのちゃが、三日經っと、兄を殘して、克明な父親は股 しまひには泣出すと、外聞もあり、少焦で、醫者は可恐しい顏を たまご おそ おにごと いよい

4. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

でせう。え、坊ちゃん。」 6 3 「立派で可いんだ。刀さげて、立派で可いんだ。」 「うそをおっしゃい。綺麗だから可いんですわ。」 「いゝえ。」 「だって、それではお能の裝東しないで居る時はお氣にや人りませ なり んか。今なんざ、あんな、しだらない裝をして居たちゃありません そこな われは考へぬ。いかに答へて可からむ。言ひ損はば笑はるべし。 きれい 「やつばり可いんでせう。ね、それ御覽なさい。美女だからだよ。 坊ちゃんは小親さんに惚れたのね。」 どっ 皆哄と笑ふ。 「惚れやしない、惚れるもんか。」 「だってお氣に人ったんでせう。佳い人だと思ふんでせう。」 「あ。」 また聲をあげて笑ひしが、 「ちゃあ惚れたもおんなじだわ。」 頭巾着て肩掛引絡へる小親が立姿、月下に斜なり。横向きて目迎 「あら / 、、惚れたの、をかしいなあ。」 へたれば衝と寄りぬ。立並べば手を取りて、 しのぶ手を拍きて遁げながら言ふ。 「寒いこと、此處へ。」 どっ とて、左の袖下掻開きて、右手を添へて引入れし、肩掛のひだし 哄と笑ひて、左右より立懸り、小稻と師子と手を組みつ下よ り掬ひて、足をからみて、われをば宙に舁いて乘せつ。手の空いた と / 、と重たくわが肩に懸りたり。冷たき帯よ。其肩のあたりに熱 あとささ ねりいだ るが後前に、「て」「り」「は」の提灯ふりかざし、假花道より練出したる頬を撫でて、時計の鎖輝きぬ。 して、 「向うなの、貢さんの家は。」 ( お手々の手車に誰様乘せた。 ) 衣ずれの音立てて、手をあげてぞ指さし間ひたる。霞ヶ峰の半腹 ひと、もと ( 若いお師匠様の婿様乘せた。 ) に薄き煙めぐりたり。頂の松一本、濃く黒き影あざやかに、左に傾 ( 二階棧敷の坊ちゃん乘せた。 ) きて枝垂れたり。頂の兀げたるあたり、 土の色も白く見ゅ。雜木あ ふたまち と口々に唱ひつれて舞臺を横ぎり、花道にさしかゝる。ものうける處だんだらに隈をなして、山の腰遠く瓦屋根の上にて隱れ、二町 れば下せとて、上にてあせるを許さばこそ。小稻はわが顔を仰向き越えて、流の音もす。 こなた 見て、 東より西の此方に、二ならび兩側の家軒暗く、ト / さき月に霜凍て しろがね 「坊ちゃんも何ぞお唄ひなさい。然うすると下してあげます。」 て、冷たき銀敷き詰めたらむ、踏心地堅く、細く長き此の小路の さん 止むなく聲あげてうたひたり。 いちゃ ( 一夜源の助がまけたに借りた、 ) ( 負けたかりたはいくらほど借りた。 ) ( 金子が三兩に小袖が七ツ、 ) ( 七ッ七ツは十四ちゃあないか。 しのぶは聲を合せてうたひぬ。 だてしゃ ( 下谷一番伊逹者でござる。 ) ( 五兩で帶を買うて三兩で絎けて、 ) た、ふさ ( 絎目々々に七房さげて。 ) た、ず 木戸の外には小親・ハヤわれを待ちて、月を仰ぎて彳みたり。 夜の辻 かね ショォルひきまと

5. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

プ 01 湯島詣 ぞっ さっき るやうにいったが、ぶるノ \ 震へる、額には筋が通った。 らといふのに顛倒して忘れて居た、先刻を思出すと、悚として、ば たりと箱を落して立ち、何を憚るともなく、浮足で、密と寄って、 「手も足もばら / 、よ、酷いッたら、酷いことよ。さあ、誰だか、 しよっちゅう いえ 蒲團を上げて見ると何にもない。思切って、白い手を冷い小さな閨いってお了ひ、否、聞かしておくれ。蔭になり日向になり、初終庇 の中に差入れると、丹精をして着せて置く、筒袖の着物に襦袢、縮って遣る姐さんだ、お聞かせなね、え乂 ! 畜生言はないかい。」 「痛い、痛い、姐さん。」とペそを掻いてたのがわっと泣出した。 緬の書生帶まで引くるめて、圓げてあった。蝶吉は、呼吸を詰め て、唾を呑み、座に直って、引寄せて、熟と見て蒼くなった。涙を はら′ ( 、と落して、震ひ着いて、 灰紳樂 はたかみ 「坊や、」とばかり、あはれな裸身を抱へ上げようとして、其の乳 のあたりを手に取ると、首が拔けて、手足がばら / —。胴中の丸い 四十八 ものばかり蝶吉の手に殘ったので、 「厭 ! 」と聲を上げざまに、蛇を掴んだと思って、どんと投げる 「ま、ま、お前さん何でございます、手荒なことを。」と婆は居合 と、空を切って、姿見に映って落ちた。 腰に伸上って、袂を取って分けようとするのを、身悶して振拂ひ、 「あれえ。」 振向いて屹と見て、 どっ わたい 下階では哄と笑ふ聲、圓輔は屹と見得をして、 「お婆さん、お前にも私は怨があってよ、可い加減なことをいって さす たぶらか なか 「今のは確に、」 誑してさ、お肚が痛むか擦らうなんぞッて言っておくれだから、 かはっき 「叱 ! 」と押へて源次はしてやったといふ顏色。 深切な人だと思ったわ、悔しいぢゃあないかね。畜生、放せ、何を 「雲井の印紙を引剥がして、張り付けて、墨で消印を押したお手際するのよう。」 なんざあ、」 「おや、恐い、恐いこッた。へん、」と太々しい。血眼でもう武者 あっけ 「甚麼もんだい。」 振附さうだから、飽氣に取られて居た圓輔が割って入った。 「いや、御馳走樣でございますよ。」 「扨てはや、」 「口惜しい ! 」と泣く聲が細く耳を貫いて響いたが。 「えゝ、手前逹の手を觸る體ちゃあないんだい、御亭主が着いてる のだいこ よ、野幇間め、」と平手で横顏をびたりと當てる。 下じめの端を兩手でぎり / 、と〆めながら、蹌踉いて二階を下り て來た、蝶吉の血相は變って居る。 天窓を抱へて、 びつくり 「豪い、」と吃驚。 顔も蒼白く、目が逆釣り、ロ許も上に反ったやうに齒を噛んで、 驚いて見る下地ッ子の小さな手を碎けよと撼んでぐッと引着けた。 「亭主持が妻じいや、向から切られた癖に、何だ、取揚婆のさかさ 「あれ、姐さん。」 まめ、」まさかに恁うとは思ひ懸けず、いやがらせをやって、嬲っ わたい はらい亡 「さあ、言っとくれ、言っとくれ、承知しなくッてよ、私の、私の て奢らせた上、笑ひ着けて、下駄の肚癒をして、それから、仲直り あんな 人形を那麼にしたなあ誰だ。いえ、知らないッたって不可いの、 をして、一寸惡黨な處を見せて、其處等で思ひ着かれようといふ際 那麼にお前さんにも賴んで置くものを、 ・ : 」と力を籠めておさ〈限のない大慾張、源次は源だけの考で、既に今夜印半纒で、いな どんな ひつべ よろめ はひかぐら

6. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

恁りし時醫學士は、誓ふが如く、深重嚴肅なる音調もて、 と夫人は絶人る呼吸にて、腰元を呼び給〈ば、慌てゝ看護婦を遮 「夫人、責任を負って手術します。」 りて、 時に高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにて 「まあ、一寸待って下さい。夫人、何うぞ、御勘忍遊ばして。」と ありしなり。 優しき腰元はおろ / \ 聲。 「何うぞ。」と一言答〈たる、夫人が蒼白なる兩の頬に刷けるが如 夫人の面は蒼然として、 き紅を潮しつ。ぢっと高峰を見詰めたるまゝ、胸に臨める鋧刀にも 「何うしても肯きませんか。それちや全快っても死んでしまひま 眼を塞がむとはなさざりき。 びやくえ す。可いから此儘で手術をなさいと申すのに。」 唯見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染む と眞白く細き手を動かし、辛うじて衣紋を少し寬げつ乂、玉の如 るとともに、夫人の顔は舊の如く、いと蒼白くなりけるが、果せる き胸部を顯し、 「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、大丈夫かな自若として、足の指をも動かさざりき。 ことのこ乂に及べるまで、醫學士の擧動脱兎の如く禪速にして聊 たよ。切っても可い。」 か間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同は素より彼の醫博士に到る 決然として言放てる、辭色ともに動かすべからず。さすが高位の で、言を挾むべき寸隙とてもなかりしなるが、こゝに於てか、わ そがひ 御身とて、威嚴あたりを拂ふにぞ、滿堂齊しく聲を呑み、高き咳 をも漏らさずして、寂然たりし其瞬間、先刻より些との身動きたもな、くあり、面を蔽ふあり、背向になるあり、或は首を低る、あ り、予の如き、我を忘れて、殆ど心臟まで寒くなりぬ。 せで、死灰の如く、見えたる高峰、輕く身を起して椅子を離れ、 三秒にして渠が手術は、ハヤ其佳境に進みつゝ、刀骨に逹すと 「看護婦、刀を。」 一同齎しく愕覺しき時、 「えゝ。」と看護婦の一人は、目を崢りて猴豫〈り。 みまも 「あ。」と深刻なる聲を絞りて、二十日以來寢返りさ〈も得せずと はねお 然として、醫學士の面を瞻る時、他の一人の看護婦は少しく震〈な 聞きたる、夫人は俄然器械の如く其半身を跳起きっゝ、刀取れる高 がら、消毒したる刀を取りてこれを高峰に渡したり。 醫學士は取ると其ま、、靴音輕く歩を移して衝と手術臺に近接せ峰が右手の腕に兩手を確と取縋りぬ。 「痛みますか。」 「否、貴下だから、貴下たから。」 看護婦はおど / \ しながら、 恁言懸けて伯爵夫人は、がつくりと仰向きっゝ、凄冷極り無き最 まなこ 「先生このまゝでいゝですか。」 後の眼に、國手をちっと瞻りて、 「あ、可いだらう。」 「でも、貴下は、貴下は、私を知りますまい ! 」 宝「ちゃあ、お押へ申しませう。」 科 謂ふ時晩し、高峰が手にせる刀に片手を添〈て、乳の下深く掻切 醫學士は一寸手を擧げて、輕く押留め、 りぬ。醫學士は眞蒼になりて戰きっゝ、 「なに、それにも及ぶまい。」 「忘れません。」 謂ふ時疾く其手は既に病者の胸を掻開けたり。夫人は兩手を肩に 7 其聲、其呼吸、其姿、其聲、其呼吸、其姿。伯爵夫人は嬉しげ 組みて身動きだもせず。 メス ためら くつろ メス

7. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

「えゝ、え乂。」 「恩に被せるんぢゃありません。爪紅と云って、貴娘、紅をさした 6 幻ゃうな美い手の先を臺なしになさるから、だから云ふんです。矢張「ほ長ゝ、翌日又日曜ね、貴郎の許へ遊びに行ってよ。」 私が居た時分のやうに、お玄關の書生さんにしてお貰ひなさいよ。 水に映った主税の色は、颯と薄墨の暗くなった。あはれ、仔細あ あ、、是は、」 って、飯田町の家は最う無かったのである。 かたほゑ と片頬笑みして、 「入らっしゃいましとも。」 「餘り上等な墨ではありませんな。」 と勢込むで、思人った語氣で答へた。 「可いわ ! どうせ安いんだわ。最う私がするから可くってよ。」 「あの、庭の白百合は最う険いたの、」 「手が墨だらけになりますと云ふのに。貴娘そんな邪險な事を云っ みがはり て、私の手がお身代に立って居る處ぢゃありませんか。」 「此の間行った時、未だ莟が堅かったから、早く険くやうに、おま 「それでもね、恁うやってお召物を持って居る手も、隨分、隨分じなひに、私、フッ , ・ , 、とふくらまして來たけれど、」 をな しめぎ ( と力を入れて、微笑んで、 ) 迷惑してよ。」 と云ふロ許こそふくらなりけれ。主税の背は、搾木にかけて細っ 「相變らずだ。 ( と獨言のやうに云って、 ) ですが、何ですね、近頃たのである。 は、大層御勉強でございますね。」 ト見て、お妙が言はうとする時、からりと開いた格子の音、玄關 「何うしてね ? 主税さん。」 の書生がぬっと出た。心づけても言ふことを肯かぬ、羽織の紐を結 ある 「だって、明後日お持ちなさらうと云ふ繪を、最う今日から御手廻ばずに長くさげて、大跨に歩行いて來て、 しぢゃありませんか。」 「早瀬さん、先生が、」 あした 「翌日は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」 二階の廊下は目の上の、先生は最う御存じ。 「あ長日曜ですね。」 「は、唯今、」 と雫を拂った、硯は顔も映りさう。熟と見て振仰いで、 と姿は見えぬ、二階へ返事をするやうにして、硯を手に据ゑ、急 「其の、衣兜にあります、其の半紙を取って下さい。」 いで立っと、上衣を開いて、背後へ廻って、足駄穿いたが對丈に、 「主税さん。」 肩を抱くやうに着せかける。 「はあ、」 「やあ、是は、是は何うも。」 わた、 「ほ又ほゝ、」と唯笑ふ。 と骨も碎くる背に被いで、戰くばかり身を揉むと、 「何が、可笑しいんです。え、顔に墨が刎ねましたか。」 「意地が惡いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」 「否、ほゝほ乂。」 と身動きに眉を顰めてーーー・長屋の窓からお饒舌りの媽々の顏が出 「何ですてば、」 て居るのも、路地ロの野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念さ 「あのね、」 うに其羽織の紐をくる / \ と廻すのもーー一向氣にもかけず、平氣 「はあ。」 で着せて、襟を壓へて、爪立って、 「もしかすると・ : ・ : 」 「厭な、どうして、こんなに雲脂が生きて ? 」 つまべに っゐたけ

8. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

ことぢ 丸帶に金泥でするど、と引いた琴の絃、添へた模様の琴柱の一枚「アハ、、」と愈嬉しがる。 8 ふつ 御機嫌を見計らって、 が、膨くりと乳房を包んだ胸を壓へて、時計の金鎖を留めて居る。 いゼ 「さあ、お來なさい、お來なさい。」 羽織の薄い小豆色の縮緬に : : : 一寸分りかねたが : : : 五ッ紋、小刀 貴婦人の底意なく頷いたのを見て、小さな靴を思ふ様上下に刎ね 持つ手の動くに連れて、指環の球の、幾つか連ってキラ / 、人の眼 て、外國人の前へ行くと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否 を射るのは、水晶の珠數を爪繰るに似て、非ず、浮世は今を盛の もぎ あでやかをんなやくしゃ や、によいと手を伸ばして、小兒を抱へて、スポンと床から捩取っ 色。艶麗な女俳優が、子役を連れて居るやうな。年齡は、然れば、 其の兒の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でたやうに、目よりも高く差上げて、覺束ない口で、 はたち 「萬歳ーー・」 も二十でも差支へはない。 そおもて ポオイが愛想に、ハタ / \ と手を叩いた。客は時に食堂に、此の 婦人は、頻りに、その獨語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表 の、色の淺黒い、眉のや、迫った男の、少々しい口許と、心の透通一組ばかりであった。 まなざし るやうな眼光を見て、ともすれば我を忘れるばかりに成るので、 兒は手が空いたが、最う腹は出來たり、退屈らしく皿の中へ、指で くるど、と環を描いた。其も、詰らなさうに、圓い目で、貴婦人の 「今のは獨逸人でございますか。」 そなた たが ぐわいかく 顔を視めて、同一ゃうに共方を向いたが、一向珍らしくない日本の 外客の、食堂を出たあとで、貴婦人は靑年に尋ねたのである。會 イングリッシュ あにい 兄より、是は外國の小父さんの方が面白いから、あどけなく見人っ話の英語でないのを、既に承知して居たので、其の方の素養のあ ることが知れる。 て傾く。 靑年は椅子をぐるりと廻して、 其の、不思議さうに瞳をくる / \ と遣った様子は、餘程可愛くっ て、隅の窓を三角に取って彳んだポオイさへ、莞爾した程であるか 「僕も然うかと思ひましたが、違ひます、伊太利人ださうです。」 「はあ、伊太利の、商人ですか。」 ら、當の外國人は髯をもじゃ / \ と破顔して、丁ど食後の林檎を剥 かみなりぼし きかけて居た處、小刀を目八分に取って、皮をひょいと雷干に、 「否、何うも學者のやうです。しかし此方が學者でありませんか くだもの 菓物を差上げて何かロ早に云ふと、靑年が振返って、身を捻ちざま ら、科學上の談話は出來まぜんでしたが、様子が、何だか理學者ら しうございます。」 に、直ぐ近かった、小兒の乘つかった椅子へ手をかけて、 ことば 「理學者、然うでございますか。」 「坊ちゃん、入らっしゃい。好いものを上げますとさ。」と其の言 を通じたが、無理な乘出しゃうをして逆に向いたから、つかまった 小兒の肩に手を懸けて、 ちと これち 腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横に成ると、共「此の父親も、些ばかり其の端くれを、致しますのでございます を嬉しさうに、臆面なく、 「アハアハ、」と小兒が笑ふ。 扨は理學士か何ぞである。 ものずき 靑年は、好事にも、故と自分の腰をずらして、今度は危氣なしに 貴婦人は恁う云った時、や、得意氣に見えた。 兩手をかけて、搖籠のやうにぐら / \ と遣ると、 「嘸おもしろい、お話しがございましたでせうね。」 ひとっ よ。」

9. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

308 に、あの、眞個に三味線は出來ませんもの、姉さん、」 と言が途絶えた。 ふたり よそ お三重は、而して、更めて二箇の老人に手を支いた。 「今しがたも、な、他家のお座敷、隅の方に坐って居ました。不斷 「藝者でお呼び遊ばした、と思ひますと : : : お役に立たず、極りが ではない、兵隊さんの送別會、大陽氣に騷ぐのに、藝のないものは きもの : 私一人惡うどざいまして、お銚子を持ちますにも手が震へてなりません。 置かん、衣服を脱いで踊るんなら可、可厭なら下げると : 下婢をお傍へお置き遊ばしたとお思ひなさいまして、お休みになり 歸されて、主人の家へ戻りますと、直ぐに酷いめに逢ひました、 ますまでお使ひなすって下さいまし。お背中を敲きませう、な、何 え。 三味線も彈けず、踊りも出來ぬ、座敷で衣物が脱げないなら、内うぞな、お肩を揉まして下さいまし。其なら一生懸命に屹と精を出 で脱げ、引剥ぐと、な、帶も何も取られた上、臺所で突伏せられします。」 みつゆび と惜氣もなく、前髮を疊につくまで平伏した。三指づきの折りか て、引窓を故と開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、柄 がみが、こんな中でも、打上る。 杓で水を立續けて乳へも胸へもかけられましたの。 本を開いて、道中の繪をじろ / と默って見て居た捻平が、重く 此方から、あの、お座敷を掛けて下さいますと、何うでせう、炬 燵で温めた襦袢を着せて、東京のお客ぢやさうなと、な、取って置るしい口を開けて、 きの着物を出して、能う勤めて歸れや言うて、御主人が手で、駒下「子孫末代よい意見ちゃ、旅で藝者を呼ぶなぞは、なう、お互に以 後謹まう : : : 」と火箸に手を置く。 駄まで出すんです。 まともりんぶうば 5 かせうろう 所在なさ長うに半眼で、正面に臨風榜可小樓を仰ぎながら、程を 勤めるたって、何うしませう : : : 踊は立って歩行くことも出來ま せんし、三味線は、其が姉さん、手を當てれば誰にだって、音のせ忘れた卷莨、此時、ロ許へ火を吸って、慌て長灰へ抛って、彌次郎 ぬ事はないけれど、彈いて聞かせとおっしやるもの、どうして私唄兵衞は一つ咽せた。 : 追って祝儀はする。此處でと思ふが、其 「えゝ、いや、女中、 へます。 不具でもないに情ない。調子が自分で出來ません。何を何うしの娘が氣が詰らうから、何處か小座敷〈休まして皆で饂飩でも食べ て、お座敷へ置いて頂けようと思ひますと、氣が怯けて氣が怯けてくれ。私が驕る。で、何か面白い話をして遊ばして、軈て可い時 ちょこ て、ロも滿足利けませんから、何が氣に入らないで、失禮な顔をす分に歸すが可い。」と、冷くなった猪口を取って、寂しさうに衝と 飮んだ。 ると、お思ひ遊ばすのも無理はない、なあ。 女中は、これよりさき、支いて突立った其の三味線を、次の室の 此のお家へは、お臺所で、洗ひ物のお手傅をいたします。姉さ 暗い方へ密と押遣って、がつくりと筋が萎えた風に、折重なるまで ん、え、姉さん。」 だんま さす と袖を擦って、一生懸命、うるんだ目許を見得もなく、仰向けに摺寄りながら、默然りで、燈の影に水の如く打搖ぐ、お三重の背中 成って女中の顏。 : : : 色が見るど、柔いで、突いて立った三味線のを擦って居た。 さをたわ 「島屋の亭が、そんな酷い事をしをるかえ。可いわ、内の御隱居に 棹も撓みさうに成った、と見ると、二人の客へ、向直った、ふつく おさ 然う言うて、沙汰をして上げよう。心安う思うておいで、眞個にま りとある綾の帯の結目で、尚ほ其の女中の袂を壓へて。 わざ いや おさん ひれふ

10. 日本現代文學全集・講談社版12 泉鏡花集

85 湯島詣 ねまき いって突轉がした町の奴等。 の色を浮べたので、梓は思はず寢衣の襟を正して起きた。 内で藝事をせたげるのも、皆手前逹が甘やかされて、可愛がられ とんと打入れる發奮をくッて、腰も据らず、仰向に引くりかへる ことがある、え又だらしがない、尻から燒火箸を刺通して、疊の縁て、風にもあてず育てられた、其ほどの果報にも飽き足らす、にき に突立て、遣らう、轉ばない呪禁にと、陰ではロ汚く詈られて、歸びの出る時分には其の親に泣を見せて、金をんで、女をもてあそ びに來せるためだ。蹴飛ばして遣らう、おのれ、見返して清らう、 ると耳を引張って掌で横すつぼう。襟首を取って伏せて、長煙管で だま 背を擲はすといふ仕置。唯其の粗忽があった時ばかりではなく、着おのれ誑して遣らう、嬲って遣らう、死ぬゃうな目にあはして遣ら う。泡を吹かせずに置くものかと、それからは氣に張が出て、稽古 物を疊んで背筋を曲げたと言っては折檻、踊がまづいといっては打 たれて、體に生疵の絶間もないのに、寒さは骨を通すやうなあけ方事も自分で進み、人には負けぬ氣で苦勞も氣にせず、十七の年紀ま までも追廻されて、二人が歸ると、着物から三味線、下駄のあと始で遣り通したが、堅い莟も花になって、もうあと〈、自分を姉さん ちやや といって册くのが出來て、秋の仁和賀にも引を取らず、座敷へ出て 末、夜が明けると帳面をさげて、靑樓を廻らぜられるので、寢る間 も押されぬ一本、地は淸元で、振は花柳の免許を取り、生疵で鍛〈 もんく といってもおち / 、ない。 上げて、藝にかけたら何でもよし、客を殺す言句まで習ひ上げた蝶 吉だ、さあ來いー 花も見、月も見る癖に、活きた女を慰まうとする畜生等、目にも 晝は晝で、笛やら、太鼓やら、踊の稽古、手習も一日置で、ほっ のを見せて遣らう、簪の先が尖ってるから、憎まれて怨まれて、殺 といふ間もなかったのである。 されさうになったらば、對手の目球を突潰して、體だけ逃げれば可 うろ覺えに實の母親は知って居たけれども、年紀も分らねば所も りうびせいがんくわえん いと、柳眉星眼火欲の唇。滿腔の不平を湛 ( て、却って嫣然として 知らず、泣けば舌の尖を捻ちられるから、ほろノ、涙を流して 天の一方を睨むやうになり得ると、這は如何に、薄汚い、耳の遠 は、といった、蝶吉は其時、崩折れて涙を拂った。 い、目の赤い、繿縷を纒った婆さんが杖に縋って、よぼノ、と尋ね 土手など通ると、餘所の兒が母親に手を曳かれて行くのを見た り、面白さうに遊んで居るのを見る度に、同じ人間が何故だらうて來て、生の母親が大病である、今生で唯た一目、名殘が惜みたい あるとき と、思はぬ時といってはない。一時も、田圃のちょろ / \ 水で、五といふ口上。 うらやま 夢にも逢ひたい母様と、取詰めて手も足も震ふ身を、其の婆さん 六人、目高を掬って居るのを見ると、可羨しさが耐へられないか きしゃちゃう あとさき と別仕立の乘合腕車。小石川指ヶ谷町の貧乏長屋〈駈着けて、我に ら、前後も辨へず、裾を引上げて、袂を結へて、私も遊ばして下さ ーいた も非ず縋りついた。母様、峰 ( 幼名 ) か、と嬉しさのあまり、呼吸 いな、といって流に入った。ゃい、資婦め、お玉杓子め、汚らはし い ! と二三人、手と足を取って仰向けに引くりか〈したので、泥の下で聲も出た。母親は其日絶えなむとする玉の緖を蝶吉の手に繋 いぎなり ぎ留められて、一度は目を開いたが。 水を飲んで眞蒼になって歸ると、何條之を許すべき、突然細紐でぐ 一目見廻した様子でも、醫師はいふまでもないこと、風藥の手當 る / 、卷、濡しよびれたま乂高い押入の中に突込まれた。半日と其 も出來ないと見て取って、何は措いて、蝶吉は一先づ大坂家に歸っ 夜の夜中一一時頃まで、死んだものゝゃうになってる中に、私ばか よー一は】り て、後の年期も少いので、上借をして貢いだけれども、半日もまゝ り、情ないものを、辛いものを、慰めてこそくれずとも、賣婦だと はすみ おっかさん こんじゃうたっ