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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

あの頃を回想してゐる『二三の追憶』といふ文章にぶつかり、ちょ てあるあの古ぼけた寄宿舍で、數學の時間をさぼって一緒にポール 投げなんかしてゐた頃から、よく知ってゐるやうな氣がするし、他っと懷舊の念をさそはれたからの事だった。君はそのなかで石川光 けいがい 人の眼にもまづそんな風に映るらしいのだが、例へば人なかでそん春先生や岩元先生のことを追憶してゐる。そして岩元先生の謦咳に こそ接しなかったが、石川先生なら僕も理科の生徒の端くれとして な話の出た折など、本當にさうかなと内々反省してみると、それが どうやらーーどころか大いに怪しいのである。思へばわれわれの友 ( この端くれといふのは單なる修辭に非ず ) 、あのお講義の飄々とし て洒脱な名調子は未だに耳の底にのこってゐる。その調子は、特に 逹づきあひも四分の一世紀になる。大して短い期間ではない。その 間ぢゅう友情が絶えず同じ温度と濃度を保ったとしたら、それこそ植物の生殖のくだりになると格別の熱と美しさを加へたやうであ る。そこが御専門だったのだらう。僕は御丁寧にも表裏二回にわた 單調きはまる話だらうし、事實われわれはそれほど世の中に退屈も してゐなかった。時々もしくは頻繁に、われわれの友情は居眠りをつて伺った關係もあって、世代交番なんていふ妙な字づらが、黑川 してゐた。やがて何かの事件にこづかれて、はっと目を覺ますため敎授の微分方程式などと一緖くたに今なほ時たま夢のなかに現はれ て、うなされることがあるほどだ。そんな僕にとって、君がその文 に。だから、もしわれわれの友情の歴史を年表に仕立ててみたら、 ひどく穴だらけなものになるだらう。ただし居眠りといふ天然の更章のなかで、「今でも古本漁りなどしてゐて、ときをりスト一フスプ 新作用のおかげで、それが大して褪色も變色もせずに來たことは幸ルガアの植物學の本などが目につくと何か異様な戦慄を覺える」と ひであった。いったい僕は友情といふものを、輕蔑といふ甚だ殘酷書いてゐるのが、人一倍なっかしかったわけだ。しかしそれにせ ふるひ な篩にかけて、そこに僅かに殘ったぎりぎりの信賴感のうへに憩ふよ、この「異様な戦慄」といふのは、この際にとってちょっと君ら しくもなく手もとの狂った、いはばそれこそ「異様」な言ひ廻しぢ 心だと考へてゐる。ロシュフーコーは、「友情が變りやすいのは、 ゃあるまいかね。僕にはそれが、うつかり君の奧で眠り込んでゐた 魂の中身を知ることが困難で、精の中身の方が知り易いからだ」 と言ってゐるが、僕のいふ輕蔑とはさしづめこの精禪の認識に、信君のフローラ型作家たる本能が、とっぜん例へばそのストラスプル 賴はすなはち魂の認識に、それぞれ該當するものだらう。もっともガアといふ字並びの刺戟をうけて目をさまし、急に識閾の上へ浮び 魂は少し物々しすぎて困るから、何ならこれを趣味といふ言葉に置あがらうとする際に發せられた、反射的な叫びのやうに思はれる。 それは何も戦慄などといふ言葉でなくてもいい。もっと無意味な、 きかへてもいい。「われわれは説をそしられる場合より、趣味をそ しられる時の方が、自負心を傷つけられる」と、同じロシフ 1 コ何なら單に一つの「 ! 」で代用しちまってもいいくらゐの、覺醒期 にあるノスタルジアのあの漠然たる應答にほかならないのだ。 ーは言ってゐる。その趣味である。まあそんなエ合にして、お互ひ 自分がフロー一フ型の作家だといふことに、君はよほど前から氣づ つまり僕は君の趣味を信じ、 手の傷つけられざる自負心の上に、 〈君は僕の惡趣味を信じ ( けだしそれは單なる符號の相違にすぎないてゐる。今彼の本にも收めてある『フローラとフォーナ』といふ 一文は、その意味で記念すべき文章だ。そのなかで君は、べケット い ) 、その上にわれわれの友情は安んじて坐って、ときどき居眠り だのクルチウスだのの説を引用しながらプルーストが植物型の作家 をして來たわけである。 の寄宿舍時代の思ひ出からとんだ友情論になってしまったが、それであることを證明し、それから色んな花やその匂ひやで文章をいっ といふのも實は今度でた『繪はがき』をめくってゆくうちに、君がばいにした擧句、「僕なんかも flora 組かも知れない」と、さりげ フローラ

2. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

たづ 記帳と、紙幤。要するに贋きりすとの、全財産が這人づてゐた。 男は贋きりすとに、健康のことを質ねた。如何にも病人らしく見 6 島はその頃、もうズックのカ・ハンをさげて出歩いてはゐなかった えるが、何處か惡いのではないかと云ふのである。そのロぶりは、 し、だぶだぶな兵隊靴など履いてゐなかったが、贋きりすとには、 自分は榮養滿點で仕事をもりもりやってゐるが、仕事がまた馬鹿馬 ズックのカ・ハンと、だぶだぶな兵隊靴が似合ふやうに思はれた。 鹿しく順調で、金が餘って仕方がないんだと云はぬばかりであっ ・ : 贋きりすとは日に二度、外食券食堂で食事をする。朝はどう た。この。ハリサイびとは、戦爭中、石炭統制會瓧にゐて羽振りをき せ、十時頃まで寢てゐる習慣だから、間借りをしてゐる家でつくっ かせてゐたが、戰後もやはりその方の關係にゐて、外見はともか てくれる味噌汁だけで、すませてゐる。新聞は讀む氣がしないか 、懷具合は却って前よりい又ゃうだった。 ら、たまに手に取った時に、大見出しを見るぐらゐのものだった。 贋きりすとは、男と一緖にビールを飲んだ。何ごとにつけても、 或る日贋きりすとは、外食券食堂の壁に、肯像寫眞が貼ってある 自慢をしたくてならぬ人間にとっては、だぶだぶな兵隊靴を履き、 くび のに眼を止めた。ナチ・ドイツでは、ヒットラアの寫眞を飾り、ム國民服の肩からズックのカ・ハンをさげ、痩せた細い頸を前へ突き出 ッソリーニのイタリーでは、街角や煙草屋のショウ・ウヰンドウにすやうにして、ビールのコップを片手に持った贋きりすとの様子 まで、ムッソリーニの肯像寫眞が懸けてあったさうである。ソヴィ が、飮む相手に、如何にも恰好のものだった。。ハリサイびとは、ビ ェットでは、スターリンの大きな寫眞を。それから敗戰後の東京の ールを一杯、ぐうっとひと息で飲んで、顔をぎゅっと歪めると、既 街に、いち早くやたらに出來た中華料理店の壁には、申し合せたやに饒舌に自慢話を始めてゐた。某驛前に、頭のつるりと禿げた手相 うに、必ず、勳章を胸一ばいにつけた蒋介石の寫眞が、額に人れて見がゐる。自分は未だ嘗て、掌など人に見せたためしはないが、昨 掲げてあった。 夜は又馬鹿に醉ってゐたので、ふと手相を見て貰ふ氣持になった。 贋きりすとは、外食券食堂の壁に貼ってあるひどく粗末な肯像寫するとどうだ。日本は今後まだまだ大變なことになる。各國との講 眞を、初めは戰後の民主主義國日本の指導者の一人であらうかと考和は何時になるか分らない、それもさう簡單にはゆきさうにない。 へたが、それにしては、その寫眞の顔に、いささか註のつけ加へてそれぞれの國に、それぞれの利害があって、日本はその講和會議を しらがまし あか あるのが不思議であった。頭髮は白毛混りの五分刈り。左頬には赤きっかけに、大した苦勞をすることになる。あなたは理財の人で、 あさ 痣のやうなしみがあると書いてあった。 人の頭に立つ人だ。風雲の中にあって、ますますあなたの運は強 贋きりすとはそれから暫らくした或る日の夕方、・ハリサイびとの い。默ってゐても、他人があなたに幸蓮を運んで來る。今年から 一人である知人に逢った。その男は、絶えずせかせかしてゐて、時三年又は五年後に、日本は被告の立場に立って、講和會議にひき出 ぜうぜっ けもの 時眼を固くつむるやうにして、顔をぎゅっと歪めては、饒舌に喋り されると思はれるが、それからが、あなたの本當の運です。獸で云 まくる癖があった。男は贋きりすとに出逢ふと、 ふと、今のあなたは、失禮だがまだ山大だ。ところがあなたは、や 「やあ、暫らくだった。どうオ、ビ 1 ル。ビールを一緒に飲まう。 がて獅子になる運を持ってゐる。手相にちゃんと、それが出てゐ る : おごってあげるよ」 と云った。 贋きりすとには、さうした。ハリサイびとの自慢話が少しも興味を 二人は裏通りにある喫茶店とも飲み屋ともっかぬ店へいった。 起させないので、言葉を挾んで、例の外食券食堂の壁に貼ってあっ

3. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

界載爭などがあって、世の中の總べてが變ってしまったやうに見え椅子に掛けて、ぼんやりとしてゐるやうな時もあった。前二回の短 ること。しかし折角、ヨーロツ・ハに來たことなので、再び來る機會かい・ハリ滯在の時は、カフェの椅子にゐる時も、必ず誰れか友達が があるかどうか分らないから、あなたにも、そしてあなたの子供さゐた。・ハリに來て知合った日本人の畫家たちとも、よく一絡になっ んたちにも、是非一度逢ひ度く思ってゐることなどを、その手紙にたし、昔の學校友達と、偶然に・ハリで顔を合はせて、その友達が連 書いた。特にシモンにと書く勇氣はなかったが、昔のつき合ひ方かれてゐた若い少しア・ハッシュなフランス人の女友達と一絡になっ ら云ふと、私はシモンの友逹であって、その姉の友逹でも、その弟て、酒を飲み歩いたり、支那料理店へ食事をしにいったりした。 しかし今は、私ひとりであった。見物をして歩くには、一人の方 の友逹でもなかったから、子供さんたちに逢ひ度いと云ふ私の申し こころ が勝手で便利だったし、煩はされたくない氣持もあった。 出を斷るやうなら、それはシモンに、私を逢はせぬための母親の心 私はコメディ・フランセーズ前の廣場のカフェの椅子にゐた。シ 清りと考へてよいと思った。さうした場合があり得ることは、私も テ工の裁判所の中にあるサン・シャベルへは、もう二度も出掛けて 十二分に承知してゐた。 マダム・チュディンは、ジュネ 1 プから少し先のヌウシャアテルゆきながら、何時も時間外で、鐵柵の扉が閉ってゐた。シテ工から に住んでゐる。私の航空便は、その翌日か、翌々日には、もうマダボン・ヌフを渡り、ル 1 プルの中庭を突っ切って、このコメディ・ フ一フンセーズ前の廣場まで來ると、もうくたくただった。 ム・チュディンの手にとどいてゐる筈だった。 ドル アメリカ弗の族行者小切手を、オペフの近くで、フ一ノンス紙幤に だがその返事は、一週間を過ぎても、十日たっても來なかった。 交換するつもりだったが、もうその族行案内所までゆく元氣がなか 私は自分のその突然の手紙が、歳を取ったマダム・チュディンを、 った。カフェの前のこの廣場の夕刻時は、。ハリぢゅうで、一番自動 苦しめてゐるのではないかと思ひ始めた。 母親のマダム・チュディンが、その一家族のうちでは、ひょっと車の込み合ふ場所と云ってもよいだらう。あらゆる方角から流れ込 んで來る自動車やバスが、渦になり、交通巡査は規則違反の自動車 すると、昔の私の一番の身方だったかも分らない。シモンは私に、 少女らしい愛情を持ってはゐたが、それは私を理解してゐたからでを追ひかけては、いちいちそれに、注意を與へねばならぬ始末だっ た。今後、自動車の數が少くなるわけはないし、石の建物で圍まれ はなかっただらう。私を幾分なりとも理解してくれてゐたのは、そ た廣場を、これ以上どうにも出來さうに見えないから、この混亂 の母親に違ひなかった。私とシモンとの自由な交際が許されてゐた は、この廣場の絶望的な宿命のやうに見えるのだった。 のも、云はばその母親の保證によるものだった。 人 ルノワールが好んで描いたあの柔和な眼の輝きは、もうパリには 私は毎日相變らず歩き廻って、時刻時になると、その場で眼につ る いたレストランに這入っていって、食事をした。或る時は、ポーイないだらうと、私は疲れて椅子にかけて、コーヒーを喫みながら、 生 と、、 頭がテープルの傍 ( 、料理臺を蓮んで來て、アルコ 1 ルの火の點つぼんやりそんなことを考〈てゐた。その時、ふと私の眼の前の込み 合って動けなくなった自動車の窓に、その柔和な潤んだやうな眼の 時た臺に置いた銀の盆から、料理を皿に移してくれる贅澤なレストラ ンに這入っていったり、また或る時は、驛の切符賣場の近くのホッ輝きを發見した。大がーーそれは白い毛の長いボラ - ネシャだった が、自動車の後の座席にひとり坐って、窓ガ一フスの奧から、私の方 5 ト・ドッグ屋で、立ったまま。ハンを齧った。 1 私は體が疲れてゐた。ほとほと、歩くのが嫌になって、カフェのを眺めてゐた。その大の眼が、ルノワールの好んで描いた人物たち

4. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

んは既に大學の法科に通ってゐたから、寮では一應の先輩格で、寮使はれた。 私が肋膜炎だと分ったのは、祖母の死んだ、その下澁谷の家に來 生とは別の小部屋が、私たちにあてがはれた。だが、この若者ばか りの寮の雰圍氣は、絶えず激しい潮が渦を卷いてゐるやうで、決してゐて、息をする度に背中が痛いと云ひ出したからだった。下澁谷 て私たちをそっとして置いてはくれなかった。遠泳のあった夜などの家から、母に連れられて、直接、本鄕の大學病院 ( ゆき、その場 で入院することが決った。 は、若者たちが酒を飲み、寮の建物全體が、嵐の時のやうに搖れる 病室へ案内されて、その部屋から、看護婦が出ていってしまふ 騒ぎだった。 と、私は母の顔を見るのが、恥づかしかった。その時、低空を飛ぶ 翌年の二度目の入院は、肋膜炎のためだった。その年は、私にと って、いろいろな出來事が起きた。正月の休みには、名古屋の第八飛行機の爆音が、激しく窓ガラスをふるはせた。私は窓に馳け寄っ 高等學校の生徒になった、もと下澁谷の祖母の家にゐた叔父と、原ていって、暫らく空を覗き込むやうな振りをしてゐた。 三輪病院へ這入った時も、大學病院に這入ってからも、少くも一 口さんとに連れられて、初めて關西へ旅行をした。どこで乘り替へ たか、吉野 ( ゆく汽車には、まだ電燈がなく、低い天井から一フンプ度ぐらゐは、父も見舞に來てくれてゐるだらう。しかしその記憶は がさがってゐた。大阪の親戚の家で這入った五右衞門風呂も、私に全くない。母は來る度に、本を買って來てくれたやうである。 その母も、さう度々は來なかった。大學病院へは、殆んど來なか は初めてだった。 下澁谷にゐた祖母は、その年の春に、死んでゐる。私を特に贔屓ったと云ってもいい。しかしそれを不服にも、淋しくも思はなかっ た。さう仕付けられてゐたのである。 にしてくれた祖母だったが、祖母が死んだからといって、特別に悲 三輪病院へは、將來有望だといふ幕下の松ヶ島と云ふ相撲取が、 しくはなかった。それよりも氣味の惡い思ひがした。 祖母の最後は、肺を病んでゐた。新年の挨拶に連れてゆかれた時々見舞に來た。國技館の本場所中だったからのやうである。大學 時、祖母は自分の寢てゐる部屋〈私たちを這入らせず、襖を開け放病院〈は、同じ校内のことで、大學生になった加見山ムッシウ した隣の座敷に、私は上の妹と並んで坐って、お辭儀をした。祖母が、よく來てくれた。敎室までの時間を、時計で計って、そのぎり は床に起きて、遠くから蜜柑を、轉がして遣し、それを私と妹が競ぎりまでゐて貰った。「小さい叔母、は、その頃、竹早町の府立の 爭で取るやうに云った。しかし祖母が、私の方へ、取りやすく轉が女學校に通ってゐて、毎日のやうに寄ってくれた。 大學病院の病棟の近くには、實驗用に飼はれてゐるモルモットや して遣すのが見え透いてゐて、嫌だった。 兎や大がゐるらしかった。叔母はその話をしたり、草原のクロー・ハ 死んだ祖母の顔は、見ずにすんだ。死人の顔を初めて見たのは、 1 の白い花で、腕輪を編んでくれたり、土曜日の午後は、ずっと本 母方の祖父が死んだ時だったが、私を非常に可愛がってくれてゐた 影 その祖父の死顔からも、ただ氣味の悪い、嫌な印象しか受けなかつを讀んでくれたりした。女學校の三年生にしかなってゐなかった な かた。だから祖母の顔を見せぬがいいと云った父の言葉は、ほっと溜が、母代りのやうなものだった。 父はその暫らく前から、小學校の國定敎科書に準じた色刷りの贅 息が出るほど、私を安心させた。 もくろ 7 澤な副讀本の發行を目論んで、美術學校の晝學生に、その下繪をか 父が祖母のために、增築を急いでゐた廊下續きの二間の離れは、 4 2 かせてゐた。袴をひくく穿いた長髮の學生が、二人も三人も、出入 つひに間に合はず、やっと葬儀の時に、その未完成の新しい座敷が

5. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

笑顔はさきの緊張のあとのせいか相手をホッとさせ、恩惠を感じさ さわ子が風祭と對決するに當って大平に相談したいと思ったのは せるほどの價値をもっていた。それは返す刀で更に一太刀浴びせる彼の處世人としての練達と法律家としての知識經驗によって適當な という早業を思い出させるのだった。さわ子は名總監と謳われる彼指小を與えられたいと思ったからで、彼の官職が持っ權力とは無關 が部下を勞わっていることを認めはしたが、その愛情が彼の通じて係なことであった。しかし彼がつい先ほどまでのように前總監とし いる兵法の奥義から發しているらしいことも直感された。 て閑地にある間ならともかく、再び現職にのぼっているのであれば 國四郞にとって大平德壽の知遇は幸輻であった。彼は心醉し滿足權力につき纒うものは否み難く彼の身邊をとり卷いていたし、顯職 していたがその滿足を彼は何故かさわ子に隱そうとした。さわ子が にある彼の緊忙を想えば遠慮しなければならないことのようにも思 いつでも權力や金力を嫌悪すると國四郞は簡單に思いこんでいたかわれた。さわ子はそのことを國四郞に相談した。國四郎もやはり、 らである。しかしさわ子は權力や金カそのものを嫌ったわけではなそのような瑣事で大平を煩わすことを怖れたが、ただ相談だけで具 くて、それが納得出來ぬ使われ方をされる場合だけがいやなのだっ體的な迷惑をかけないならばということで、そのことを許した。 た。けれどもそのような細かい吟味をする彼女の心を理解しようと さわ子は七月の睛れた日曜日の朝十時頃、前の晩電話で約束した はしないで、むしろ國四郞は簡單に自分の氣もちを隱そうとする方通り、杉並にある大平德壽の私邸を訪ねた。彼の家はかなめや檜葉 の垣根の續く邸町の奥深く位置していた。 を擇ぶのが常だった。だから賓客を迎える時の禮遇を、奪敬や愛情 によってさせようとしないで、そうすることが我々の爲に必要だと ベルを押すと二三十秒たってコトッと忍びやかに下駄に足をおと しようけい 説明し頭ごなしに強制しようとするのだった。それは捷徑で效果的す音が聞えて、さわ子の見つめている栗色の重い扉がそっとあけら でまちがいなかった。しかし、さわ子は自分なりの敬愛を大平德壽れ、女中が鄭重に膝まで手を下げて一禮してから彼女を薄暗い玄關 に對して持っていたにも拘らず、それよりも性急で嚴格な國四郎の に導き入れた。女中は後を閉めて奥へ去ってしまった。次に夫人が 指令に從って家を淸掃したり茶菓や果實を調えるのだが、そうなる現われて彼女を客間へ案内し、一通りの時候の挨拶や、ねぎらいの のっと ともはや淸潔法の點檢をうけたり、最典型的な禮法に則らねばなら言葉をかけてくれた。それは世の婦人逹に絶えず無言の訓戒を示し つづけねばならないという重責のために、あらゆる好奇心や飛躍の ないような窮屈さで右往左往するのだった。大平德壽が通過する玄 せいひっ 關、應接室、廊下、食堂等は、ただ通過するというだけのために日 危險思想から遮斷されたものものしい靜謐さであった。まもなく、 常そこに置かれている品々が取り除かれ、何者の住居とも知れない 「よう。さあどうぞどうぞ」 性格へと變貌した。子供の輪投げの輪、クレイヨンの箱、マフラ と尻上りに機嫌のよい聲がきこえて、もう外出の禮裝に身仕度し い ア、麥藁帽子、それらのものをみんなさわ子は欽の間に子供と一緒た大平がはいって來た。そして部屋の入口にいたさわ子を中央に近 の にほうりこみ鍵をかけた。やがて大平が到着する。さわ子逹は威儀い椅子に案内するような格好でずかずかと小卓子をはさんで向い合 った上手の位置にすすんだ。白い大理石の暖燻の上に金細工の置時 を整えて彼を迎え、着席するのを待って間髮を容れず番茶、菓子と 玉露とを恐る恐る運び出すのだが、さわ子は部屋の入口で比べてみ計や小さいプロンズの彫刻が飾られ、その向うの大きい硝子箱の中 ようかん て、羊羮の切り方がまっすぐに切れている方を國四郎の前におく程には、極樂鳥が懸崖のような尾翅をいつばいに擴げている。そのあ 3 であった。 たりに一組の客を迎える立派な椅子と卓がおかれ、その次にもう一

6. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

ると寂しそうな頬でうっすらと笑って、「もう昨日、布團の中にミ うに抱いてさわ子は家に歸りついた。 シンやこわれものを入れて出してしまったんですよ」と云い、「昨 客間に誰かがいる氣配だったが、さわ子は動悸が激しくてもうそ 夜はお隣りの借り布團で寢たもんで背中がずきんずきん痛むんでれ以上は堪えきれず、そっと隣室へ忍びこむとそのまま仆れるよう す。大丈夫でしようかね、そんな雪の深いところへ行って。でも、 に片隅の壞れたソオフアに身を沈め、意識を失ったように何分間か しかたがありませんわね。何とかなりますわね。汽車も大變でしょをじっと息づいていなければならなかったーー。突如その時、一連 うね」と矢つぎばやに話しかけるのだった。まるで誰も訊ねてくれの、團魂が飛翔するに似た力強い笑聲が客間との境の壁を通り拔け ないことをみんな一どきに訊ねられたり勞わられたりしたがってい て、さわ子の眼前の空間に投げこまれて來た。二度、三度、それは こだま るようにそれは面をそむけたくなるようないたましい表情であっ谺のような國四郞の笑い聲を從えて響いてくるのだった。笑いの主 た。「お母さんも是非一度會っておきたいって、月末迄に出ていらはまさしく警視總監大平德壽にちがいない。大平だ、誰がほかにあ っしやるようなお手紙でしたけれどー「月末、ああそれでは間にあのような笑い聲を持っているだろう。彼女は熱に溶けてしまいそう むろ いません。雪が深くならないまにキャベツも白菜も買いこんで室へな力をあつめて、眼の前を過ぎてゆくその笑いをまるで形あるもの しまうんだそうでいまでもおそいくらいですもの。私出來ればまたのように眺め入った。間歇的に噴出する蒸氣に似た壓力と密度と光 その頃戻って來ますわ」蕗子の眼に夢を追うような翳が一寸泛んだ澤をもった笑い、彼はいったい何を笑っているのだろう。話聲は壁 けれど、もはやそれを追いつづけるためには心の傷は深くなりすぎ面を濾過するだけの音量をもっていなかった。さわ子の心にかって ひつばく ていたし、妝況も逼迫しているようだった。さわ子は持って來た布總監室や、料亭や、アトリエや、立ち去る前の玄關や、その他さま 地を蕗子の包みの中に入れてやろうとしたが、指の先まで熱い流れざまの場合の彼の笑いのすべてが鮓やかに甦って來た。何が彼を笑 が走るようで慄えてどうしても固い結び目がほどけなかった。鼓動わせたのだろう。何も彼を笑わせはしなかったのだ。ただ彼が必要 が激しく胸苦しかったので、せめて安西の主人が歸って來るまでと に應じて笑っただけだったのだ。自からの肯定し、或は否定するこ 思ったけれど蕗子が千切って渡すノートの端に書いた疎開先の所書とを相手にも同感させるために、命令に反駁の餘地を與えないため わか きを帶の間にはさんで訣れて歸った。蕗子が「きよなら、叔母さま に、安堵や信賴感を與えるために、他人の氣もちを爽快にさせるた も御元氣で」と伏せた睫毛のたよりなげな面ざしが心に殘り、歸 りめに、いつも彼は率先して笑ってみせたのだった。それは自信と成 つくまでさわ子の心は重かった。・、 ノリからはじめて中目黑の家へ訪算に充ちていた。或る時は無邪氣だとさえ思われる程に。そしてそ い ねていった時までの他愛ない『姪』〈の懷かしみ、鼠みた女學生れはいつも權力の背景を背負っていた。立派な、任意の時間繼續し の 時代から安西の家で會うまでの暗い翳を件った心づかい、それから突如停止し得る笑いであった。ほんとうに、こんなにまで十分に一 總後の、愛しようと思いながら、手をとって胸の中にひき入れてやる人の人間の閲歴と人格が籠められた笑いをきくことは珍らしいこと ことの出來なかった蕗子の性格に對する反撥や嫌惡や、それにうち 警 だ、とさわ子は感嘆に怖れをさえまじえて消え去ってゆく笑の彈道 勝とうとした努力の苦しさ。たとえ蕗子のすべてが缺點をもって覆をみつめていた。しかし、この笑いは人の世の恥辱や破綻や生々し 2 われたとしても儼然として、彼女こそ愛情によって償われなければ い生活の焦躁をどの様に處理し終えた人の笑いであろう。彼がその 3 ならないのだと心の奧底で叫び、喚いていた聲、その鬱積を鉛のよ 思考の途上で中絶し、遮斷し、切り捨てた間題の彼方にこそ天眞の

7. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

作品について , を「日本讀書新聞 , に發表 っている。 角川書店に勸告した。『恢復期』を角川書 した。この年、敎育出版瓧の『小學校唱歌』 店から出版した。「白樺のある風景」を「文 昭和二十四年 ( 一九四九 ) 四十七歳 のために作詩をした。新劇を正しく育てる 藝春秋」に、「ロザムンデ舞曲」を「群像」 一月、『月が消えた話』を小山書店から刊目的で作られた「雲の會」の會員となり、 にそれぞれ書いた。八月、鎌倉夏期大學に 出講し、つづいて佐藤正彰らと弘前方面に行した。二月、レス「ーフの『邪戀』を養岸田國士・輻田恆存らとその仕事に努め 德瓧から出した。三月、トウルゲーネフのた。 講演旅行に出掛けた。九月、鎌倉アカデミ * 朝鮮動亂がおこった。レッド。ハ 1 ジがはじま アに出講した。『詩と小説のあいだ』を白『あひびき』を世界文學瓧から出版。四月、 った。 日書院から刊行した。「遁走變奏曲」を「文「跫音」 ( 「灰色の眼の女」第三部 ) を「個性」 に、五月、「批評の頽度ー病床の友への手 學會議」に發表した。十一月、「母の秋ー 昭和二十六年 ( 一九五一 ) 四十九歳 紙ー」を「文學界。に發表した。七月、 を「フェミナ」に書いた。 「日本詩歌の諸問題」と題する座談會 ( 釋一月、「石川淳とヴァレリイ」を「文學界」 * 總選擧で社會黨が第一黨になった。 迢空・日夏耿之介、三好逹治と出席 ) が「表に發表した。二月、レスコーフの『眞珠の 昭和二十三年 ( 一九四八 ) 四十六歳 現」に載った。十一月、「悲劇としての首飾り』を岩波文庫の一册として出版し 『アンナ・カレー = ナ』」を河出書房の『世た。三月、演出者である久保田万太郞の希 一月、「春泥」を「新文學」に發表した。 望で譯したチェーホフの「ヴーニヤ伯父さ 一一月、「斜陽の問題」を「新潮」に書いた。界文學全集』月報に發表した。十二月、 ん」が、三越新劇祭の幕びらきに文學座に 四月、『プーシキン短篇集』を角川書店か「國語の改革」を「群像」に載せた。 よって上演された。四月、ドストエフスキ ら、プーシキン『莊園物語』を世界文學社 * 三鷹、松川兩事件があいついでおこった。 1 の『虐げられた人々』上 ( 中澤美彦と共 からそれぞれ出版した。「博物館で」を「婦 昭和二十五年 ( 一九五〇 ) 四十八歳 譯、下は五月刊 ) を角川文庫の一册として出 人朝日」に書いた。五月、「船首像」 ( 「灰 一月、「ハビアン説法」を「朝日評論」にした。五月、「新劇の分れ道」を「群像」 色の眼の女」第二部 ) を「思索」に、六月、 「鸚鵡」を「新文學」にそれそれ發表した。發表した。三月、編集をし「編者のことに發表し、ツルゲーネフの『けむり』を角 川文庫の一册として出版した。六月、「ツ 十二月、プ 1 シキンの『侠盜記』を世界文ば」を附した『北原白秋詩集』が新潮瓧か ルゲ 1 ネ〔フと女性」を「文學界ーに書い 學瓧から出版した。編著『新文學講座第一一一ら出版された。八月、堀辰雄の病妝が悪化 譜卷技術編』 ( 「描寫に 0 」て」執筆 ) が新潮瓧し追分に行 0 た。九月、シ ~ ~ ドヌのた。「解説」を附した『堀辰雄集』が新潮 年 から出た。この年、雜誌「批評」の同人に『 0 ネスク』を新潮瓧から出した。十月、社から出た。シャルドンヌ『愛をめぐる隨 「月見座頭」を「別册文藝春秋 . に發表し想』を新潮瓧より、『ロシャ戀愛小説』を なった。また吉田健一らと「あるびよん・ た。十一月、おのれ・ど・ばるざっくの羽田書店よりそれぞれ出版した。八・九月、 くらぶ」 ( 英國紳士のつき合いをする會 ) の創 『おどけ草紙 ( こんと・どらていく抄 ) 』を「小説月評」を梅崎春生・本多秋五とし、「文 四立に努力した。 * 太宰治が自殺した。戦後文學の檢討がはじま穗高書房から出版した。十五日、「堀辰雄の學界 . に載った。十一月、自宅の近くに書

8. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

岡英治に紹介される。この編集者八木岡英總監の笑ひ」「脱走」「本の話」・あとがきを收録 ) 「ろまんす屋大繁昌」を「小説新潮」に、 「手袋」を「文藝」に發表。三月、二十三 治との出會いが、小説家由起しげ子誕生のを文藝春秋瓧より刊行。 年に書いた小説の第一作「告別」を改めて 機縁となった。 ( 「私を發見し、小説を書くこ 昭和二十五年 ( 一九五〇 ) 四十九歳 とを勸め、今日まで指導して下さったのは八木 「文學界」に發表。四月、「今日は留守で 岡氏であって、そのことがなければ、私はおそ 一月、「ある月夜の散歩」を「文藝春秋」す」を「オール讀物」に、五月、「焚火」 らく小説は書いていなかったにちがひない。」 に、「良人」を「文藝讀物ーに、二月、「厄を「別册文藝春秋二十一號」に發表。『警 ^ 『本の話』あとがきより〉 ) 介な女」を「人間」に發表。三月、「赤い視總監の笑ひ・本の・話』 ( 角川文庫 ) を角川 部屋」を「文學界」に發表し、「警視總監書店より刊行。六月、「落第」を「改造」 一方、チェーホフの短篇を愛讀する。 の笑ひ」を『創作代表選集』 ( 日本文藝家協會に、七月、「見合い心得」を「小説新潮」 四十七蔵 昭和一一十三年 ( 一九四八 ) 編 ) に收録。童話集『春を告げる花』を時に、八月、「無名醫」を「新潮」に、九月、 「小杖家の流儀」を「文學界」に、「翳」を この年、坂口安吾を四回ほど訪れる。十一一事通信瓧より刊行。四月、『厄介な女』 月、八木岡英治の勸めで小説の第一作「告 ( 「ある月夜の散歩」「厄介な女」「良人」「警視總「小詭公園」に、十一月、「湖」を「群像」 別」を書きあげる。宇野浩二に推奬された監の笑ひ」「脱走」・あとがきを收録 ) を同じくに、「薔薇」を「新女苑」に、十二月、「人 が、この作品でデヴュウするのはまずいと時事通信瓧より刊行。六月、「休息御隨意」物鑑定」を「小説新潮」に、「指環の話」 を「別册文藝春秋」一一十五號に發表。 を「文藝春秋・夏の增刊讀本」に、八月、 いうことで發表をひかえる。 「誤差」を「中央公論」に、「リヴェ一フの 昭和一一十七年 ( 一九五一 l) 五十一歳 昭和二十四年 ( 一九四九 ) 四十八歳 雪」を「小説公園」に發表。十一月、「國 一月、「アプの出入りする家」を「小説公 義兄が死去し、殘された病身の姉のために籍」を「新潮」に、「解水期」を「文學界」 奔走するが、この間の事情を綴った第二作に、「雪とポインセチア」を「讀賣評論」園」に發表。二月、『コクリコ夫人』を早 川書房より刊行。三月、「彼女の獨立戦爭」 「本の話」が、三月、八木岡英治編集の「作に發表。十二月、「抵抗なき演奏ーラザー 品」第三集に載る。この時から、「伊原しげル・レヴィについてー」 ( ※樂評 ) を「文學界」を「小説朝日 , に、「ある貞節」を「別册 文藝春秋」二十七號に發表。七月、「さび 子」をやめ、「由起しげ子」 ( 由起は、姉幸子に載せる。 この年、「北風の笛」 ( ※童話 ) が朝日放送しい航海」を「小説公園」に、九月、「空 の「ゆき」の音からとったもの ) というべンネ 譜 年 しさに於て」を「文學界」に發表。 1 ムを用いた。六月、「脱走」を「文學界」より連續放送される。 子 げ に發表。七月、「本の話」が小谷剛の「確 し 昭和二十八年 ( 一九五三 ) 五十二蔵 昭和二十六年 ( 一九五一 ) 五十歳 起 證」とともに復活第一回芥川賞 ( 昭和二十 由 一月、「霰」を「文學界」に、「大事な人」 四年上半期 ) を授與される。九月、「本の話」一月、「コクリコ夫人」を「女性改造」 ( 一 を「文藝春秋」に、「警視總監の笑ひ」を月から十二月まで連載 ) に發表、「野性の母」を「小説公園」に、二月、「タすげ」を「群 4 「文學界」に發表。十月、『本の話』 ( 「警視 ( ※隨筆 ) を「文藝春秋ーに載せる。一一月、像」に發表。六月、「淀殿」を「婦人公論」 ゆきこ

9. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

2 プ乖水 ういふお心掛けになられたら ? 出すなら、彼自身ですら自己嫌悪に陷らずには居られまいと思はれ 「ま、至様のおロのお惡いこと。いつの間にそんなことお覺え遊ば る。彼はその欲望を逹する手段として、手文庫の祕事を利用しよう して ? 」夫人は若ゃいだ笑聲を立ててふとロ籠ったが、それなり歌とさへした。けれどその時には、恐らく父の死の前後に燒却された ふやうに言ひ棄てた、「あのひとはお爺さん、けれど私は若者 ! 」 のでもあらうか、例の手紙はどこにも發見されなかった。 をさ 一瞬、稚なさが不自然に搖れたやうであった。それも直ぐ、これ かうして、喬彦の戀は滿たされないままに殘った。暗い炎は殆ど といふあらはれもなしに消えた。 消え失せたもののやうに見えた。それがいま數年を隔てて、李子が やがて夫人が至にお湯をすすめて、再び月見草の丘をのぼって行垂水に移って互ひの生活が間近になるにつれ、ふたたび穗をもたげ ったあとでも、至は大分長いあひだ籐椅子を動かなかった。彼にはたのであった。喬彦が李子の美をふたたび發見することになったの この夕暮ほど、夫人の姿が近しく思はれたことがなかった。彼は夫は、曾根至の瞳をとほしてである。彼は李子を直接に見るときに 人の祕密に、遂に一足を近づいたのを感じた。しかしこのやうな心は、憎惡と蔑みをしか感じなかった。けれど至の眼の奧に、日毎に の距離の變化はごく陰微なものであったので、李子に覺られるわけ色を變 ( ながら昻まってゆく感情のほのめきを見てとる時、喬彦の がなかった。不思議な眼の敏さで、それを間もなく見破ったのは、 心を激しい嫉妬がさいなむのであった。そして彼の嫉妬は、眠りか 却って須磨寺にゐる厚母喬彦であった。とはいへ、彼の持っこのやけた昔の戀を不思議な形に變へて呼びさました。 うな眼光は、よし妹への肉身の愛の深さのなす作用を考へに人れる 夏山に蝉の音の滿ちるころ、廠子の新しい衣裳の柄選みの相談役 にせよ、餘りに敏すぎはしまいか。 に、李子は須磨寺の家に招かれた。歸りは夜になって、喬彦が送っ 確かに、喬彦の心がそれほどに敏い嗅覺を具〈てゐたのは、嫉妬て來た。鐵道線路を越して坂道を垂水の別莊に近づいたとき、喬彦 のさせる業にほかならなかった。彼の貴族の子としての早熟さは、 はふと傍の松原のなかへ躍るやうに踏込んだ。止ってはまた二三間 まだ中學の生徒だった頃に早くも、父旧爵の手文庫の底から、家系ほど粗々しく走った。その思ひがけぬ動作に、李子は立ちどまって に關する一つの祕事を探り出させてゐた。それは一通の古びた手紙闇をすかした。餘程遠くへ行ったらうと思った彼の姿は、そのあた であったが、それに據ると、自分より二歳の年長でしかない叔母のりひとしほ闇の色濃く見える老樹の幹に靠れて、思ひがけぬ近さに 李子は、實は叔母でも何でもないのであった。それのみか、古手紙あった。 から朧ろに察せられる所によれば、彼女の出生は祖父の不圖した不 「どうなすって、喬さん」李子の聲に心やすい哀願がにじんだ、 行跡にさへ、少くも直接には依るものでなく、全く縁もゆかりもな「大でもゐて ? 」 いや い京都の或る賤しい陶物師の娘でしかなかった。それが父伯爵の實「いや、何でもない。ちょっと思ひ出したことが : ・ : ・」はげしく、 おび 妹として登籍された事 靑に至っては、稚い喬彦の理解の外にあっ制するやうに彼が答 ( た。彼もまた、何かに怯えてゐるやうであっ た。とまれ、美しい叔母は赤の他人であった ! しかも賤しい家のた。 ほめき 出ではないか。この無邪氣な忿懣が、やがて成長して危險な年齡を 喬彦は燐寸をすった。赤い火光が、彼の秀でた鼻のあたりをくっ 迎へた喬彦の心のなかで、或る卑しい欲望に變形して行ったのは言 きりと隈どった。火は投げ棄てられてからも、暫くは蘗の中で燃え ふまでもない。その日ごろ彼が李子に注いでゐた眸を、もし今思ひ て、やがて盡きた。風がわたって、五色山の底しれぬ松籟が四圍を

10. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

には、重くよどみこんだ闇の集としてしか殘ってゐない。その闇のしろ、定住地の觀があった。いちど少年は、臺所の擘にはりついて なかに、まるで幽靈のやうに透きとほって、若い母の細っそりしたゐた蜘蛛に驚いて、あやふく卒倒しかけたことがある。八本の脚を ぶざまに擴げた大きさは、たしかに一尺五六寸はあったらう。 白い顏が、うかんだり消えたりする。おそらくその背中には、幼い その湯殿や臺所と正反對の西側は、おそろしく暗い板廊下になっ 彼が背負はれてゐたのだらう。 この袋町の家の、ただ闇ひと色の記憶にくらべれば、臺北の家はてゐた。暗いのは、窓がまるでないからである。その廊下のどこか に恐らく二疊ぐらゐの仕切りでもあったのだらう、そこに女中が寢 いくら暗いといっても、まだまだずっと明暗の變化がある。玄關の 右手に、北向きの六疊間があって、竹格子のはまったその窓のとこ起きしてゐた。これは不氣味なくらゐ不潔な女であった。この不潔 ささ だといふ意味は、絶えずすえたやうな髮油の臭氣を發散してゐた ろに、少年の机が置いてあった。これが少年の小やかな王領であっ り、どす赤いネルの腰のものをべらべらさせてゐたり、飯櫃の中に た。そこで彼が何をしてゐたか、その記憶はふしぎなほど薄れてし まってゐる。勉強のきらひだった少年は、母のわざときつくした眼赤ちやけた髮の毛を一二本かならず忍びこませておいたり、ひまさ におびえて、しぶしぶ半時間ほど、大きな整で讀本をよんだかも知へあれば、人さし指で奧齒をせせくったり、まあそんな類ひのこと だけを指すのではなくて、道德的にも病理學的にも不潔だったとい れない。それが濟むと、猿蟹合戦といった類ひの小さな繪本の毒々 しい色刷に、幼い空想をおぼらしてゐたかも知れない。それともたふ意味である。彼女は夜になるとよく、何かの用事にかこつけて、 だぼんやり引っくり返って、天井板を眺めながら、頭のどこかに微大柄な浴衣を拔き衣紋にし、白粉を平べったい顏に塗り立てて外出 いぶか した。少年は無論、その目的を訝しむほどの世間知の持ち合せはな かな頭痛を感じてゐただけのことかも知れない。 母の居間でもあるこの六疊間につづいて、南に面した八疊の座敷かったが、一種の本能によって、嗅ぎ當てるべきものだけは嗅ぎ営 があり、その縁さきの軒に、よく龍眼肉や・ハナナの束が、まるで風ててゐたのである。その上になほ、母は彼女の盜癖にも手を燒いて 鈴のやうに吊してあった。その龍眼肉の食べすぎから、少年が疫痢ゐた。はじめ細ごました物の紛失するうちはよかったが、やがて母 のやうな症状をおこし、一週間ほど生死の境をさまよったのは、恐 の愛用してゐる裁物鋏が見えなくなるに及んで、母の探索の手はっ ひに彼女の行李にまで伸びた。急に用事を言ひつけて表へ出し、行 らくこの家に移って間もなくのことだったらしい。 父は、この八疊間の障子ぎはに小さな机を置いて、その前に端坐李の中を點檢したのである。はたして鋏は發見された。なほほかに し、役所から持って歸った書類を調べたり、墨をすったりしてゐ思ひがけない不快ないし不潔な發見物が澤山あった。勿論そんなこ とは、母が少年に話してきかせたわけではない。また少年がその場 た。これもその後姿だけが、少年の印象に殘ってゐる。 に立會ったわけでもない。主として母が父に訴へる言葉から、少年 祖母の部屋は、縁側から右へ鈎の手に庭へつき出した離れであっ 年 , 」。祖母はもうその頃は寢ついたきりだったらしく、少年は時たま は推察したのである。 そのうちに少年は、この女中にたいして大失敗を演じた。小學校 その部屋へ呼ばれて行くのを、ひどく億劫に思ったことを覺えてゐ の子供がどこでも大抵、面白半分にロにする公然たる或る隱語があ 縁側の左手には、湯殿や臺所があって、そこは南方の特産物である。少年はある時ふと氣まぐれに、その言葉の上に彼女の名を冠 7 る巨大な蜘蛛や、おびただしい家守などの出沒する場所、ーーいやむし、述語に或る物量形容詞を用ひて、四・四・五の音律から成る囃 はや