昭和三十五年岡山民藝館にて由起しげ子ス料理を御馳走になり、由起さ ・一 , 、 , 、、・んの手にあるフラレ = 文法の本過日は折角おいで下さいましたのに約束があって外出し失禮いた しました。其後如何お過しでございますか、折にふれ御兄様のお噂 を見せていただき、 「フ一フンス語文法を勉強されるをし誠に淋しく存じます。 のですか」 さてあなたはこの冬休み御歸國なさいますか、もし東京においで と虫の聲のようなかすかな聲なのでしたら、私共の家へお出下さいませんでせうか、伊原も正月 ~ でぶざまな問いを發したあと、は旅行に出ますし、私も近頃疲勞が激しいのに少しも休養出來まぜ 、 ( 鬆忘れかかったから、もう一度やんので、或は少々の時日だけ近く ( でも參り度く思ひます、それで りなおすのよ、という由起さん時折はあなたと女中逹だけにおなりになる日もあるかも知れません の返事に溜息をつき、そのあと明和館という映晝館で「巴里祭」をが、さう澤山は留守を致さぬつもりで居ります。何のおもてなしも 出來ませんが子供逹もよろこびますし伊原がおねがひしてはと申し この映畫館は路地にあったように記憶している。何を考えているますから、お伺ひ致します。おやすみはいっからでせうか。 か分らぬ、表現不足の田舍者の少年は、さぞ扱いにくかったのではまづは右御伺ひまで 七日 あるまいか。 私は「夫人」というものを、その家庭の中で見て、一種のおそれ 伊原内 を抱いた。才色兼備の「夫人」が家庭の中にいる姿には、何か恐ろ昭和十一年十一一月七日の日 しいものがある。 付になっている。私はこの手 もう一度は、武者小路さんの奧さんと由起さんと上野へ帝展を見紙をずっとあとになって、つ に行った。どこかで一緒に食事を御馳走になった。今考えるとなぜまり高等學校の冬休みが終っ 私がお件をすることになったのかさつばり分らないのだが、これもてから受取ったのではなかっ たかと思う。伊原邸の留守番 私にとっては、何かしら生涯に二度とない華やかな思出だ。 當時には數限りない思出があるが、それを割愛するとして、私がに出かけた記憶がないから。 華やかだと思った思出のような生活は、由起さんとしてはあるいは私は小説という程のことも ないつまらぬ小品を二、三、 氣に入らなかったのかもしれない。 二、三年して兄の勇が亡くなった。そのあと私は伊原邸を訪ねた學校の雜誌に書くと、由起さ、 " ( と見えて、先日書類を整理していたら、美しい筆で書かれた由起さんに送ったようだ。もちろ ) んの御手紙が見つかった。かくべっ由起さんに迷惑はかからぬと思ん、由起さんが將來小説を書 かれるようになるとは、夢に うので、ここに寫させて貰うことにした。 昭和三十九年奈良藥師寺にて右から 由起しげ子武谷三男 7
深い息を吸いこんでそれを吐き出しながら、 て、部屋はまもなく一番はずれの一人部屋にかわることが出來た。 8 跖「空氣がいいわね」 はずれの廊下の行きどまりに外へ開いた扉があり、そのそとは生い と云った。そして、こんないい空氣のところへ來ただけでもすば茂った夏草がすさまじいかんじでからみあい、すぐそのさきから地 らしいことだから、早く病氣をなおさなければ、というようなあり 面が崖のように落ちていっているらしい。というのはすべての地面 きたりのことをくりかえすばかりだった。逸子は、ウン、ウンとう がすすきや萩や葉っつじゃ雜草の下にかくれていてその中から松の なずいているが、それは素直というより何となく苦勞足らずのかん林が一本一本の幹をつったてているがよくは見きわめられないの じで、私にははがゆくさえ思われた。しかし、そう云う言葉を云っ だ。私はこんな開放的で無防備な一人部屋に女の子が一人で住むこ ていれば、私はいくらかでも氣がすむので、二人の腕を組んだ丘のとに小さな不安を抱かずにはいられなかったがまさかその林を兇悪 散歩はかなりたのしかった。 犯人の潜伏地になりはしないかと豫測するのもあまり飛躍したこと 私の訪ねる時間は午後であり、醫師と面會出來るのは午前に限らのように思えたので、保健室に通じる呼鈴がたしかなことや、ヴェ れていたので、治病の方針をきくことができたのは節夫だった。彼一フンダで雜談している患者たちの「外部から侵入した前例は開所以 はある日、ほっとした顔つきで、もしかしたら手術はしないで治せ來一ペんもないそうです」という證言で、なっとくすることにし こ 0 るかもしれない、という醫師の言葉を持ち歸ってきて家中のものを よろこばせた。 しかし、このとき、私が知ったことは、逸子が意外に誰とでも簡 あすき 「そうよ、 小さな小豆粒ぐらいの空洞ですのも、きっと塞がるにき單に友だちになること、また彼女に退院するとき部屋を明けわたし まってるわ : : : 」 てくれた杉夫くらいの亠円年と、手紙のやりとりをしていることであ と私は力をこめて云った。そして、どうかして切らないですますった。むろん、逸子はそんなことは萬事あけっぴろげで、もらった 試みをしようという療養所の好意をあたたかいものに受取った。私手紙の内容も、おそらく逸子には理解出來ないかと思われるほどむ はこれから毎日、逸子を訪ねられない日にはきっと手紙か端書を書つかしい理論物理の外國の學者の著書の名前などが書いてある、ど くことにしよう、そして逸子をカづけてやるのだと思い立ち、一寸ちらかと云えば固いものなのだ。 した日記と、療養心得のようなものを書いて速逹で送った。節夫と 「逸子には上等すぎてよくわからない。この人ったら、お母ちゃま 杉夫は、また、逸子のところへ行ってやるのを當然の義務のように と討論してみたいって云ってたわ」 心得ているらしく家にあり合わすめぼしい食物を物色しては病人の 「そう、すごい人ね」 ところへひんばんに運んで行く。 「ものすごい勉強家よ、お母ちゃまなんか負けるかもしれない : しかし、そのうちわかったことは、逸子がひどい不眠に襲われて 「それはそうよ」 いるということであった。しらべてみると、彼女の部屋は病棟が中 もともと、私がそんなものを齧るのは、たまたまよく會う人たち 央廊下から翼をのばすつけ根のところにあって配膳室、食堂、電話の中にその方の偉い人があるからの話で、私自身がつうというわけ など安靜時間にくいこむ騷音にみちみちていることがわかった。 ではないから、私はあっさりかぶとをぬいだ。しかし私は、いっか 逸子の希望と、もう友逹になった何人かの患者仲間の好意によっ 一寸、部屋のことで話しをした杉夫ぐらいの靑年と、逸子が交際し
みんな口をぬぐって、めいめいの生活の中に根深くはまりこんでし 「ほんとに、兄の方ったら、何ひとっ不自由ないのに : : : 」 6 まったが、世良としてはふつきれぬものが殘っている。娘の時は兄 「たしか、一生力になってやるとか、云ってらしったように覺えて のためにと養父母に説得されて、無我夢中で今の夫に嫁いだが、十るけど : : : 」 何年間、世間を見、子供も多ぜい生んで生活苦にまみれてみると、 「そうよ。でも、もう忘れてるんでしよ。それに、貴和子さんがい 何だかみんながよってたかって、身よりたよりのない自分をいいよ いうちの出なもんだから、どうしても兄だって、出來るだけのこと うにしたとしか思えない。 をしてごきげんとらなきゃならないのよ : : : 」 世良は、今の生活には、べつに不滿は持っていなかった。そんな 世良は、兄よめの話になると、いくぶん兄の立場に同情的な云い ものを持ったって何の足しにもならぬ、と現實に眼を向けるような方をした。 習慣を身につけていた。しかし、それでも、人に話したら氣も睛れ そういう、複雜で、やりきれない話をきくために、私は、彼女の るだろうと思うようなことはたくさんあったのだ。 茶の間へ足を向けるわけではないが、じつはその頃、私と彫刻家の 世良は、私を心待ちしていてあたりに人がいないと、そんな話あいだにも一寸したトラブルがおきていたので、そんな屈托をまぎ を、私相手にするようになった。それによると、世良は、妹尾の父らすには、やはり不幸な話のある場所が心地よく思われたのだろ が、關西の會瓧に勤めていたころ、病氣になって入院した時、つき そった看護婦に生ませた本當の娘なのだ。しかし、その生みの母 は、まもなく亡くなったので、世良はほかへ入籍してあった。それ そんな意味から云えば、私のもう一人の友逹の峯涼子の家の方 を、子供をもらう話が出たとき、妻の身内から男子をつれてこさせは、きれいごとにみちていた。涼子の家を訪ねることは、夫も賛成 るついでに、ごまかしてもう一人もらったというわけなのだ。 なので、私は場合によってはそっちへも行った。ここにはその頃 「養母は、ずっとあとになって勘づいたらしいのよ、あるいは、誰は、不仕合せなどはなさそうだった。 かからきいたのかもしれないけど : : 。だから、父が先年亡くなっ 同じ建築業者の家と云っても、ここは大手の會瓧の瓧長だったか た時も、とても氣持の惡いことがあったのよ。私のところへも電報ら高輪の廣い敷地に大きな邸宅を構えて住んでいた。まず表門の鐵 は來ることは來たけど、行ってみたら、もうお葬式もすんでたし、 扉の前でベルを押し、書生に迎え人れられて、玄關を入ると、そこ 金庫の中の遺言从は兄夫婦と母でかくしてしまったらしいの。遺一言 の廣間で私は私自身の夫の彫刻を見なければならなかったが、その 妝を公開しないなんてひどいって云ったけど、兄は僕に宛てたもの奧の家間に私の目的物はあった。スタンウェイのグフンドピアノ もりはな だから見せる必要はないって、どうしても見せてくれなかったわ。 カ弾く人もなく背中に盛花をのせてうずくまっているのだ。 本當にそうなら、上書だけでも見せられんことはないじゃないの」 長は、特別に人を招待した日でもないかぎり必ず不在だったか 世良は口惜しそうに涙ぐんで、そんなことまで話した。しかし、 ら、私は氣兼ねなく、それをらすことが出來た。 生まれながらに背負っていたマイナスの位置づけは、どこまでも彼 「ほんとうに、いつでもいらっしってよ。でなきや、せつかくのピ 女には不利で、親類のなかに一人も味方になってくれるものもな アノが可哀そうですもの」 く、歸ってきたのだ。 凉子は、出がいいだけに、おっとりと、品よく私をもてなしてく
に、姉にも淸谷の父にも全く知らされていない理由をかぶせると んだ。風祭の云い分では、もはや獨立出來るだけの職業敎育もさせ たことだからというし、要するに愛情も誠意もないわけなんだ。大は、何という殘酷なことであろう。さわ子は絶望に似た憤懣に慄え た。それこそは疑おうと思えば何人をも疑うことの出來る問題では 平さんはあとで愛情のないものはどうすることも出來ない、という ないか。どんな聖女にも、その疑惑はかけようとすればかけること わけで、僕にはどうすることも出來ません、と云っていたよー 「じや大平さんは蕗子を風祭の子だとは信じていらっしやるんですの出來る性質のものではないか。人の世には辯解が可能なことと不 ね」 可能なことがある。それは信じられるか、信じられないかの二つし かないのだ。さわ子は、增子、自分、國四郎の間にこのように重大 「子供だと信じているさ、だが風祭がそう云うものは仕方がない : な絶望が、突如として大平や風祭との會見という比較にならない一 片の機會によって持ちこまれたことに更に深い絶望を感じてしまっ 「じや風祭がそう云うのですね」 「いや姉さんがそうだと云いはしないが、大體そういうものだといた。國四郎はさきほどからもう話すことは話してしまったというよ うにカンバスの釘をうちはじめていたが、その作業を終ると晝架の うのさ」 下に、それをたてかけ、さわ子の方は見ないで。ハレットの古い繪具 「それで風祭はすむのでしようか」 「だから大平さんは云うんだ、自分の子に對して愛情の持てないを削りはじめた。じっと立ったまま、こびりついた白や赤の繪具の 男、知らない顔をして捨てておく男というのは、人格として致命的とびちるのを見ていたさわ子は、もう何も云わないでアトリエを出 なマイナスだと。しかしそれは他人にはどうすることも出來ない。 て行った。 そうじゃないか。嫌いなものを好きにするというわけにはいかない 翌朝、さわ子は大平を電話口に呼び出すと、蕗子に一度お會いに よ」 なって頂けないでしようか、と賴んでみた。勿論、先日大平の方か 國四郞はまるで風祭か大平の代辯人のようにそう云った。 ら蕗子にも會ってやろうと云ってくれたことを、たよりにしていた じっと考えてみると、大平はやはり蕗子や自分の云ったことを眞のであった。それに、彼女は大平が風祭にだけ會って何かの結論に 實だと承知している上で、風祭がしらを切ることを承認したにちが逹したことは片手落ちだと思った。こうしたかかわり合いになって いない、とさわ子にははっきり判って來た。それにしても大平の扱しまったのだからもはや大平の心に蕗子という人間が存在すること いはとも角も彼の處世にもとづいているとして、國四郎の態度はは抹殺することの出來ないものになっている筈であろう。大平の眼 へいり 何ということであろう。二十年の增子に對する信賴と交情を弊履の で蕗子を看て、あの喘いでいる、發育のおくれた佝僂の肉體と精 い 笑 ようにすて去って、增子の貞操に不名譽な言葉が吐かれているときの妝態をよくわかってもらい度い、彼女は確に歪められたものを持 の に、一言の辯護もしようとせずに聞き流していたのであろうか。さってはいるが、蕗子をみる人は必ずそれが數々の大人たちの悪意の わ子は熱を持った様な頭の中に、姉の離婚前後の慘めな一々の場面投影によって、まるで拳鬪家の耳や鼻が潰れたまま固まってゆくよ の繪を一枚一枚拾い上げてはつなぎ合わせてみた。姉の離婚の理由うにこしらえられたものだと看拔くにちがいない。譬えまるつきり カおかたち 四を裏づけるためにそこまで決定的な口實が用意されていたとは誰が惡い印象を與えるとしても、あの風祭にそっくりな顔容と表情の變 3 想像し得たであろうか。風祭でのあれほど悲慘な結婚生活のあと 化をみれば、これらの不幸の責任がどこにあるかということも歴然
99 詩と小説のあひだ を回復させるがいい。 なら、あっさり筆を折るがよい。わたしが見たいと思ふのは、一册 それにはまづ、心境小説が現在あやまって占有してゐる城を詩に の本が、一つのアヴァンチュルの説話が、それ自身、その作者にと 明けわたして、本來の領域へ、ひろびろと自己を解きはなっことっても最も大切なアヴァンチュルであることを感じさせるやうな、 アクサン だ。この爽やかな轉換の動きがなくては、詩の蘇生はあり得ず、 そのやうな氣合である。眞の作品は、人間に關したものでも、個人 説の健やかな誕生もあり得ない。 に關したものでもない。それは、人間の個人的な表白なのだ、とい ふにある。 シャルドンヌは、『隣人愛』の第五章で、珍しく小説論をやって これで、正しい意味における小説と通俗小説的なるものの間に一 ゐる。時代の底を見えがくれに綿々たる流れを絶やさぬフランス心應の線が引かれたわけであるが、次には前者を心境小説的なるもの さを 理小説の傳統に、深く棹さしてゐるこの作家の言葉には、さすがに からはっきり區別するために、この「個人的」といふことのディア 人を傾聽させるしっとりとした落着きがある。一種の私小説論の極 。ハゾンが擴げ充たされることになる。そのため彼は、『戦爭と平和』 致とも言へるであらうが、それよりも寧ろ良識の行きわたった人間の作者を引合ひに出す。彼はこのロシャ作家を、小説家のなかで最 論の一つの存り方として面白いから、そのあらましを記して置くこ も偉大な人と呼んで、ーーー彼の作品をとほして、人は彼の生活や彼 とにする。 の思想上の出來事を、跡づけることができる。しかも彼は、ほかの そな シャルドンヌは小説を二つに分ける。一つは、「荒唐無稽な、拙誰にもまして、めいめいの個性と言葉とを具へた様々の人物を、創 劣な、繪そらごとばかり書いてある説話」で、この奇妙なジャンル りだす能力があった。自分の作品の中に沒入することが深ければ深 の作者は、大向ふの註文に應じて製作する。もう一つは、「ラファ いほど、そして、自分の財産を殘らずそこに賭ければ賭けるほど、 イエット夫人このかた、或る種の作家がこの夫人の先蹤に力を得て作者は自分と違った、めいめい勝手な生活を營んでゐる人々に、出 語って來た一種の物語」であって、それは「自分といふものに近々會ふものである。われわれは人生において、完全に己れ自らである と觸れてゐるもの、敢て小説とは銘うたれてゐなかったもの」なの ことは決してなく、他人との關係が後天的に添はってゐるものだ。 である。この二つをならべくらべて、彼はつぎのやうな斷案をくだ 作者よりも眞實な人間が、その作物の中に現はれるのだ。 : : : 眞に す。ーーー今日、世人の記憶にとどまってゐるのは、この種の物語だ己れ自身たることは、印ち他人を發見することにほかならない、と アマチュア けである。愛好家たちは知らず識らず、ジャンルといふものの眞の主張するのである。 おもふに私であるのは、ポヴァリ 1 夫人だけではない。 原理を發見したのだ。湮減せずに殘った數すくない小説のうちに、 われわれの愛するものは、一人の人間のすがたなのである、と。 某月某日 この「一人の人間のすがた」といふことを、一そう明かにするた め彼は、自分と非常によく似通った道を歩いてゐる文友マルセル・ 人は人との反映のなかに息づき、交流のなかに生きる。人間生活 アルランの言葉を援用する。それはすこぶる氣餽のするどいもの とは、隣人のうちに光と智慧を攝取し消化する營みにほかならな で、そのおほよその意味は、 作者がその作品を、自分の生活の い。そして小説とは、私小説とは、そのやうな音幅をもった本當の 一部を以て作ったのでないなら、自分の情熱を語ってゐるのでない人間に寄せられた「至高の愛」の表白、「至高の信賴」のすがたな
と敎えこまれたせいか、もう母親を必要としていないような外見が と、靑木先生は何とも云えぬ嬉しそうな顔をしてさわ子を眺めた。 增子にはいちばんやりきれないことだったにちがいない。私たちは それから靑木先生は不憫で奇怪な蕗子の境遇の變遷をこと細かに かげに控えていて蕗子が必要になった時きっと力になってやりまし述べていった。それは常識を超えた出來ごとの連續ではあったが、 よう。さわ子はそう云った。早晩そんな日が來ることは祖父の年齡さわ子には唐突でない、そこにそのようなことが起り得ただろうと と蕗子が結婚出來難い痼疾の持主だという點でなんとなく豫感せら 思われる潜在したり豫感とつながるものがあり、ただよくもそのよ れるのだった。 うな最惡の結果となったということで籘倒せられ完全な敗北を感じ 「いっか戸籍謄本ででも氣づいてさがしてくるかも知れないわね。 た。それは風祭一族に對する敗北ではない。蕗子をめぐるものたち もし母親があるってことを知れば」 の互に押し流して行った暗い運命へのとりかえしのつかない足跡を そんなことを話し合いながら二人はヒマ一フャ杉の枝が深くたれこ見る敗北感であった。 めたコンクリート の長い塀にそって歩いて行った。 「蕗子さんはいま廬布の洋裁屋さんの内弟子にはいって女中さんの これがそれまでに蕗子を見た最後であった。 仕事をしたりミシンかけをしていらっしゃいますが、なにしろお體 が、あんなふうなのでずいぶんお苦しいようです。それに一切外部 との連絡を許されない有様ですのでーーこ ぞうきん 靑木梅子先生は色白の優しい細面に髮を目立たぬ束髮風に結い、 暗い椦手もとの床を這って雜巾を絞ったりすすり泣いたりしてい 後れ毛がほんの少し額にかかっているのが親しい感じを與えてい る佝僂の姿が眼に泛んだ。 た。もんべというものがぼつぼつ見えかけた頃で、裁縫女學校の先「生活費は風祭さんから出ないのでしようか」 生という職業がそれに率先することを要請するであろう、黑の上下 風祭蕗子はもはや風祭蕗子ではなく富山蕗子だと靑木先生は云っ のそういう服裝をしていたが、もの腰が、帶も袂もある身のこなし た。富山にやられるいきさつは嫌惡を催させる動機と手段によって なのがふしぎであった。うすら寒い二月の職員室に、ローソクのよ いた。祖父と二人暮しの世間から隔離された精溿と肉體の發育不全 うな炭火が二三本殘っている大きな火鉢をはさんで、さわ子はそう がそのことを易々と成就させる準備となっていた。祖父はもう八十 いう靑木先生と對坐した。 歳をすぎ、それまで蕗子をかばい育てて來たけれど、體力が衰える 靑木先生は初對面のさわ子を前にして、どこから話を切り出して につれ、三上瀧子、岡崎かよ子とそれらの大きい息子娘たちの益よ いいか分らないように兩手を膝の上に重ねて暫らく面を伏せていた盛んになる實力に壓されて行った。風祭すら歸朝するといつのまに い 笑が、蕗子が最近監禁同様の身の上になり、なんとか救い出す方法はか姉たちと同じ考えになり蕗子を見すててよりつかなくなってしま ないものかと大阪の御生母様の方にお手紙を出したのですが、東京 っていた。いつのまにそんな相談が成りたっていたか分らなかった の妹に相談してくれという御返事でしたので大變唐突ながらお手紙 警 が、蕗子が女學校を出て川端の家政專修科を卒業したしばらく後の をさしあげたのです、と話し出した。そして氣の毒そうに蕗子の佝ある夜、祖父と蕗子が眠ってしまってから、玄關に三上の長男で大 僂のことを云い出そうとしたので、そのことならもう知っている學の工科に通っている息子が訪ねて來て、二階で老人としばらく話 し、二三度蕗子を見に中目黑に行ったことがあるとさわ子が話すしていたが蕗子が呼び上げられた。三上の息子が半紙を縱に四つに
つまず した顔をこわばらせて歩いて來たが、さわ子に氣づいたとたん蹉きひどい言葉を蕗子が、岡崎や安西へ云いかえし吐きつけるかわり そうに立ちどまって、さわ子が近づくのを待った。そして「こっち に、何の抵抗もしないさわ子にむかってぶつつけているのだとしか の方が安全なんです」と云って踵をかえしていま來た方をまっすぐ思えなくなって來た。さわ子は考えようによっては、それをぶつつ 安西への露路をそのまま通り過ぎて、多分おとといかけたと思われけて差支えのない見當に位置している。そこに蕗子は突撃路を見出 る公衆電話のある邊りまで導いて行った。「汗かいたから流してく したように憎悪と不平不滿の全部を集中して詰め寄ってくるのにち るって出て來たんですよ。ねえ、汗ぐらい流してもいいでしよう がいない。この傷ましい肉體のなかには、蒸溜されたりクリスタリ 蕗子は慍ったような自嘲するような口調でそう云ってさわ子を見上ゼされて殘された露骨な保身の本能だけがあるのではないだろう げた。さわ子はどこかに掛けて話したいと思い、線路の向い側に昔 か。さわ子は蕗子の岡崎に向って憤る言葉の片鱗に、風祭一族の處 さんごう 風の玉すだれをかけて灯をつけている小店がみつかったのでそこへ世の巧妙さ逞しさに對する鬚仰が根強い痕跡をもっていることを見 しよう 入っていった。蕗子は過勞と迫害から、蒼い疲れた顔をし兩肱を床のがすことは出來なかった。蕗子はそこから脱落し除外された身の たと 机についてべったりそこに腰かけていた。さわ子は植田からの報告不運をかこっているのだ。蕗子ももし佝僂でなかったら、譬えわけ でその後の樣子をきき知ったことを話してさぞっらいでしようと云 へだてはされたとしても、もっとその分け前にあずかることが出來 った。そしてもうこうなっては仕方がないから、體一つで移動證明たのだろう。苛酷なものに對する抵抗をこのひとは身に備えてい もなにも後でとればいいから、いっかの家に行ってしまったらどう る。蕗子は逞ましい。ただ風祭一族がはるかに蕗子より逞ましかっ でしようと云った。蕗子は一箸つけたところ天をまた小鉢の中にも たのだ。それらの同じ種族の中で、不具という、致命的な條件がこ どすようにして、その上にじっと目を据えて、「ええ」と浮かないんなにまで悲慘な滅亡を強いられているのだ。蕗子は更に、一言も 返事をしていたが、はっきりと、 そうは云わないにも拘らず、佝僂の體質が生母の側にあったり、生 「でも、ミシンがなくちゃ話になりませんわ、それに荷もつも運び母が不適格な女だったために自分の地位が不利になったという三上 出さなくちゃ」 や岡崎の日頃の言葉を幾分信じているらしく母及び叔母に對する疑 と云った。なにか難詰するような語調が感じとられた。そして續惑や蔑視をそういう感情の昻まった時の言葉の間にかくすことが出 のエースの いて蕗子はまた岡崎や安西の云ったこと、したことを昻奮して話し來なかった。蕗子はまるで何か壓倒的に強力なスペード 出した。それは何かの計畫をたてたり相談をするよりまず胸にわだ ようなものが現われて風祭一族の彼女のなかに尾を曳いている權カ うつぶん いかまっている鬱憤を何ものかにぶちつけずにはいられない衝動がさへの魅力を一掃してくれないのを怒っているようだった。さわ子は のせることのようだった。「いくら私だってたまったもんじゃありま世の中の憐れまれ氣の毒がられる痛々しいもののなかにも、複雜な 總せん」とか「いったいどうしてくれるんです」と云うような荒い語位置と性質とがあることをしみじみと感じた。 さわ子は蕗子に向って明日の日から十分な生活の保證をしてあげ 警調で喋る蕗子を、さわ子ははらはらして、もう少し小さい聲で、と られると言うことははばかられた。ただ、あなたがもし田舍へでも たしなめるのだが、まるで煮えたぎっている藥鑵に一寸水をさした ようにその時だけは低くなるのだがすぐわきたってしまうのをどうやってしまわれたらどうすることも出來なくなります。話はあとで 3 することも出來なかった。きいているうちにさわ子は、それらの手つけることにしてともかく逃れ出たらどうでしよう、と勸めてみる
養母よりもその養父から可愛がられていると云ったが、じぶんの出 2 門は窮屈な感じで、娘心にも不適に思えたし、男と單獨に話をす 生については知らされてない様子だった。 るのは非常にはしたないことという敎育がしみこんでいたから、結 「何だか〈んなの。養母は可愛がってくれてるようだけどしんにこ局機會はなかったのだ。だが、そのうちに、いかにも手堅いかんじ わいところがあるわ。お人形だって、私に買ってはくれても飾って の、どっちかと云えば武骨で野暮な彫刻家が現れ、是が非でもとい おくだけで決して持たせてはくれないの」 うことになったので、私はその人と結婚することにした。私はせい それは私にも思い當るふしがあった。 一ばいの思考をめぐらしたのだ。 私と世良は、その校庭の芝生で、ときどき會って、もっと何でも まもなく私はその人といっしょに外國に留學し、子供をもうけ、 ない話をして遊ぶこともあったが、科がちがうと寮もちがうので、 歸國した。むろん、ピアノの勉強をするのが目的だったが、私には そのうち次第に間遠になっていった。私は、自分の勉強に夢中にな技巧的にうまく行かぬものがあってそれを突破出來なかった。 り、友逹もその方角に氣の合う人が出來てきたのだ。 私の手は小兒の大きさで廣い音域、つまりオクターヴの中に二つ 世良は、兄の結婚が無事にすみ、東京のどこかに家を持ってしま も三つもの音を人れて彈くだけの力がないのだ。 ったあと、輻島へ歸って行った。 それに私はもともと人前で演奏するのが好きでないから職業意識 私は、そのまま二三年東京にとどまっていたが、その頃になっても稀薄だった。だから、赤ん坊のことが忙しかったり、可愛かった 母はまた姉の時と同樣何でもかでも結婚させようと、休暇で歸る度 りすると、いくらでもそのことにはまりこんでいられた。赤ん坊は に首に繩をつけるようにしてお見合をさせねばおかなかった。父の彫刻家にも私にも似ていなかった。 方は、私のことを「生まれそこない」と嘆聲を發しながらも内心味 日本へ歸った翌年、また男の子が生まれた。私は一日中、ほとん 方になっていて、もすこしものになるまで修業をつづけさせてくれど小さなものどもを身邊にまといっかせて暮した。 そうだった。しかし、それもそのうちだんだん怪しくなっていった 夫は東京の南郊に新しい家を建て、私たちはそこで新歸朝者の生 のは、私の方がどうなれば「もの」になるのか、見當が立たないか活をはじめた。二人とも鄕里が關西なので、身内とのつきあいも一 らた。これが本當の音樂學校〈入っていたのなら、まだしも音樂敎年に二度か三度で、私たちの客間や食堂は友人や仕事關係の來訪者 師の免从でもとれるのだが、今の妝態ではどこまで行っても素人藝を迎えることでいそがしかった。ただし、その人たちは殆んどと云 の域を脱しそうもないと思われたのだ。 ってよいほど、彫刻家である夫への訪問者で、私の友逹は、二人か 私は、父までが母の云い分に荷擔しそうな氣配を嗅ぎつけた時か 三人、あるかなしかという淋しさだった。音樂學校時代の友逹は奇 ら焦躁をかんじ出した。私は姉の結婚も兄の結婚もひどく不幸なば妙に仲のよかった二人ともイタリヤ人と結婚して日本にはいなくな かりか紋切型な氣がして、そんなめには會いたくないと眞劍に考えっていたし、大阪の女學校の友逹は、羽振りのよい建築業者に嫁い だ峯涼子が、偶然夫の作品をある大きな建造物に使う話でその主人 しかしまた、そうだからと云って、結婚の相手を自分で探すよう といっしょにやってきたことから、復活したのが、ただ一人といっ なことも出來なかった。ビアノの師匠の家には詩人や俳機や名門の てもよいくらいだった。峯涼子はもとは貧乏な男爵の娘だが美しい 子弟なども出入していたが、詩人は生白く、俳優は浮氣つにく、名のでそういうお金持にもらわれたという噂は、いっともなく私は知
載ってゐる。短篇といっても、百ページ近いのもある。今でもおぼはない。一フディゲやワイルドの影響はすでにはっきりと認められる えてゐるが、『世々に殘さん』とか『苧 ~ 兎と瑪耶』などといふ作品 し、もし假にそれがないとしたら、現代のわが國の文學ずきな少年 は、なかなかのカ作であった。ぼくは讀みだして、とたんに芥日 として、それこそ不自然きはまることと言はなければならない。そ 之介の再來だと思った。 れは次第にはっきりと、この靑年の文學的思考の骨髓を形成しつつ もっともこの印象は、すぐ訂正せざるを得なかった。藍より出であった。美が美學を得たのである。 て藍より靑いといふだけではなく、明らかに異質のものがあったか 太平洋戦爭たけなはの頃、彼の好尚はいちじるしく室町時代に傾 らである。龍之介の王朝物は、どうかすると苦勞の跡ばかり目につ いた形跡がある。老いたる義政をめぐって美貌の能若衆と美しい巫 いて、しつくりついて行けない場合が多い。擬古文といふものは難女とが演じる死のドラマ『中世』は、終戦の年に書かれてゐる。暗 くわいれい かしいものだ。江戸中期に出た一代の才女、荒木田麗女の才筆をも鬱と瑰麗の綾織り。その能樂趣味はワイルドの美學で昇華されてゐ ってしても、その王朝に取材した歴史物語には、措辭上の狂ひが少て、おそらく亠円年三島の完成を示す一道標である。それに二年ほど なくないさうだ。もちろん『花ざかりの森』の諸篇は、擬古文で綴先だって、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の拔萃』 げたい られてゐるわけではない。王朝の文體を現代に生かしたものであといふ恐ろしく長い外題の作品がある。これも室町幻想である。そ のなかで、殺人者は書いてゐる。 る。しかしその和文脈はみごとに生きてゐたのみならず、詩情また それに件なって香り高かった。ぼくは舌をまいた。この早熟な少年「殺人といふことが私の成長なのである。殺すことが私の發見なの のうちに、わが貴族文藝の正統な傳承者を見る思ひがしたからであ である。忘れられてゐた生に近づく手だて。私は夢みる、大きな混 る。 沌のなかで殺人はどんなに美しいか。殺人者は造物主の裏、その偉 ぼくは何も回想にふけってゐるのではない。だいいち貴族文學の大は共通、その歡喜と憂偐は共通である。」 しん 傅統などと言ったら、今の世で笑ひださぬのは恐らくイギリス人ぐ この語は箴をなした。三島由紀夫は終戦とともに、非情な「殺人 らゐなものだらう。それは百も承知である。ぼくの言ひたいのは、 者」として登場したからである。もっともこの正體を世間が認識す 若い三島由紀夫がすでに王朝文學の情念と文辭とを、みごとにマス るまでには ' 相當の時日を必要とした。人々ははじめ彼のうちに、 ターしてゐたことである。つまり彼の出發點は、わが王朝文學にあ季節はづれの蕩兒だけを見た。おそろしく氣前のいい才能の濫費者 を見た。しかもその年齡は不詳であった。 った。近ごろ ( いや、だいぶ前からかもしれない ) の文學靑年が、 せいぜい明治末期の自然主義か、もっとくだって志賀文學か、ある ひは葛西善藏か、ぐっと新しいところでは飜譯工場で大量生産され 夫 紀るアメリカものか、まあそんなところを出發點としてゐるのに比べ だが果して三島由紀夫には年齡がないのだらうか。斷じてさうで 島て、これは恐ろしく特異なことである。三島由紀夫が特異兒童と呼はない。戰爭はたしかに、彼の美學の急速な確立をうながした。そ ばれる原因の一半は、たしかにそこにも潜んでゐる。特異兒童とは の意味で彼は明らかに戦爭の兒であった。のみならず戦爭は、それ まで樹皮に蔽はれて見えなかった彼の年輪を、その幹に一痛打を與 お要するに、年輪が不詳だといふことである。 とはいへ勿論、その時代の彼が日本古典一邊倒だったと言ふので へることによって露はにした。その意味で、彼もやはり戰爭の「直
と云って、江藤が内側からその扉を開けてくれた。外から歸ってそれを注いで、なほ言葉を續けた。「婦人服のデザインの勉強と稱 來たばかりなのか、上衣を脱いで、ネクタイを解かうとしてゐると して、次ぎ次ぎに女史たちが日本からやって來る。あれが女の化け ころだった。白い細い線が、眞中に一本這入った黑に近い綠色のネものの代表でね、男ときたら、これが敗戦國の姿でせうが、留學生 クタイが、半ば解かれて、灰色の毛絲のジャケツの胸に垂れてゐた。 にしても、大學を出たての外交官にしても、右も左もーー・政治の話 「暫らくでした。夜で失禮だとは思ったんですが、ちょっとお禮を ぢゃあないですよ、右も左も、南も北も、分らない連中です。げい 云ひに來ただけなんで、すぐに失禮します。」 じゅっ家たちにいたるまで、皆ひどいヒステリイでね、二人顔を合 何時ものやうに、白い髮をきちんと分けた江藤の整った顔を見なせさへすれば、仲間の惡ロの云ひ合ひです。氣狂ひにもいろいろあ ってね、外國へ來ただけで、急に自分が、えらくでもなったやうな がら、私はさう云った。江藤のこの髮の白さは、年齡からのもので はない。歳は私より、せいぜい二つか三つしか上ではないが、髮は錯覺を起してね、日本人など相手にせずと云ふ手合ひがゐるんで 殆んど眞白と云ってもよいほどでーーーその髮を江藤は、何時も手入す。少しばかり言葉の喋れる新聞社の特派員や、外交官のうちに、 そんな風なのがゐて : れよく分けてゐた。 「いや、いいんですよ。それより宿は、氣に入りましたか。僕はあ 私は江藤の机の正面の壁に、もう茶色に枯れた。ハルムの小さな枝 びやう そこの女主人と喧嘩をして飛び出したんで、あまりよい印象はない が一つ、鋲で止めてあるのを眼にとめた。實はそれが、。ハルムの枝 であるとは思ひもっかず、最初は枯れた草花かしらと思ってゐた。 んですがね。」 私は何時もと異ふ江藤眞介の、さうした毒づくやうな言葉を聞いて 江藤はネクタイを取って、灰色の軟らかさうな、部屋着にしてゐ ゐるのがつらかったから、不意ではあったが、 る上着に、手を通した。そして私に椅子を勸めた。椅子の脇の机に 「ありゃあ、いったい何です ? 」 は、讀みかけの新刊の戲曲のページが開いてあった。 と質問をさし挾んだ。 「 : : : 宿に歸ってみたところで、この。ハリでは、別に誰が待ってゐ この枯れた。ハルムの枝が、はからずも江藤眞介に、次のやうな跡 ると云ふこともないでせう。」江藤は第一二者のことでも云ふやうに 云って、ははははと、空虚に響く、笑ひ方をした。「それとも誰か切れ跡切れの物語を、私に話させるきっかけになったし、また私が が待ってゐますかね。まあ、今晩はゆっくりしていらっしゃい。世雲に描いて眺めてゐるやうなシモン・チュディンの思出を、告白め かして物語る結果をも生んだ。チンザノのせゐではない。その夜一 の中には莫迦な奴がゐるもんでね、酒を少しも飲まない僕のところ とげとげ 人 時過ぎに、私が江藤の部屋を出るまで、例へ江藤がどのやうな棘々 へ、チンザノをとどけてくるんですよ。田舍者にもほどがあるが、 る しい言葉を吐いてゐたとしても、また私がどれほど訷をおそれぬ氣 齪それでも飮んでいって下さいな。。ハリにゐる日本人なんて、皆頭が、 齦少しどうかしてゐますね。女はどれもこれも、氣ばかり強い化けも持にひたってゐたとしたところで、二人のゐたその部屋を滿してゐ 時 たものは、非常に宗敎的なものだった、と云へるだらう。口から出 のだし、男は經衰弱からの氣狂ひです。例外なしに皆さうだ。」 同 る言葉や思想が、どうだったところで、二人の上にのしかかってゐ 江藤は喋りながら、チンザノの瓶を小脇に抱へ込むやうにして、 たものは、たしかに奇妙な宗敎的な雰圍氣だった。 その栓を拔いた。 1 その。ハルムの枝は、復活祭の前の日曜日に、江藤の女友逹が、こ 「 : : : うまいかどうか、知りませんよ。」机の隅に置いたコップに、