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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

15 恢復期 るあの温泉町。私の病身も半年ものあひだ養ってくれたあの温泉かされてゐるのに過ぎない。そして多分そのためなのたらう、書面 町。そこではすべてが色彩を息づいてゐたのに、この爽やかな高原に纎く搖れうごくものの影が多くなってゐるのは。 では私は何の色彩も感じない。此處は何といふ透明な感じだらう。 私は自分が盲目になったのを感じ、耳が急に鋧くされたのを感じ 山の雲と海の雲とは同じではない。海の雲には線がなくて色彩だ る。すべては流れてゐる。私はその流れる響を聞く。彼處の綠いろけである。山の雲は先づ何よりも先に線で描かれなければならぬ。 の海の代りに此處には靑々と流れる山脈がある。家々の傾斜した屋そしてこの後者は私が今まで知らなかったものた。 根から屋根へと風が流れてゐる。動物が、樹立が流れてゐる。空氣 までもが薄亠円く流れてゐる。 八月十六日 此處に來てからはじめて父の畫室へはいってみた。父の畫室は離 午後の數時間はその暑氣で私を樂しませる。私は暑氣なしには生 きて行けないのを感じる。暑さの中では私は物象があまり速く流れれのやうになってゐるガ一フンとした明るい部屋だ。熱海で試みられ るのを感じない。豐かな色彩感がふたたび私に還って來る。 た數枚の畫がまだ完成されないままで入口の隅に置いてある。それ らの色彩畫にくらべると父が今描いてゐるのは何といふ違ひ方だら う ! 大きな畫布の上には入りまじった線だけがはっきりと見え る。色彩はその奥につつましく流されてゐるだけだ。私はおどろ 八月十三日 とが 。線とは何であらう。高原に來て線を感じたのが私だけでないと この數日のあひだ私は全く自分の耳に蓋をして暮した。尖った聽 覺のためまた熱が上りはしまいかと怖くなったのである。百合さんいふのはどうした事だらう。 もすっかり心配してわざわざ父に賴んで東京のお醫者さまに電話を 掛けたほどだった。お醫者さまの言葉では私の健康の爲には温泉地 よりも高原の方がずっと適してゐるのださうである。私にしてもこ 八月十八日 の數日の妝態が不自然な禪經の尖りゃうのせゐだといふ事はおぼろ 私の大好きな繪、ロートの『濱邊』を久し振りでしみじみと眺め る。氣がついたこと、 げながら氣がついてゐる。風物のあんまり急すぎた變化が私の心を 線は色彩の境目ではない。それは色彩の おびえさせたのだ。熱は出なかった。そして晝間の數時間私はひど基調なのだ。この土地の色の無い透明な空氣が私にそれを覺らせ る。 く幸輻である。 八月十四日 八月十九日 いや、すべてはさう激しく流れてはゐない。ただ、淡い色彩のゆ 高原に移ってから一ペんも手にしなかった『アングル』を讀む。 ゑに凝固した感じが少いだけだ。畫布の上には薄っすらと繪具が溶私の指は自然とデッサンの章をひらいた。實を言ふと今まで私には トワー

2. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

プイ 4 食卓の用意を終った信子が、金盥に水をとってくれる。彼は泥で と、編物をしてゐる信子に話し掛けた。信子は編目を數へてゐる 汚れた手を洗って、テープルについても、まだ大とふざけたための ところだった。彼女は返事をする代りに、ロの中で數を數へなが 汗を、しとしとと皮膚に感じてゐた。すると、犬と遊んでゐたこと ら、編みかけの細い毛糸のスウェーターに眼を置いたまゝ頷いて見 が、なんとも羞かしくなって、彼は少年のやうに上氣した頬を、皿せた。數へ終ると、微笑を唇に湛へて、 の上に俯向ける。 「え ? 」 彼はこの得體の知れぬ羞恥を、多分自分のだらしない生活から來「鞠で、おれをからかってゐるんだよ。」 るものだらうと田 5 った。 「一緒に遊んでおあげになったら。一匹になったんで、きっと淋し 食事のあと、暫らくの間、搖椅子に掛けて體をゆすりながら、彼いのよ。」 はまだ經驗のない勤め人の生活を空想してみた。そして煙草をうま 「ーーー馬鹿 ! 」 さうに喫った。ドンは縁側の側で、この怠惰な主人を眺めてゐた。 それから、大小屋の奧から鞠を咬へて來て、彼に見せびらかすかの その夜、信子は遲くまで彼と話をしたがった。彼は古雜誌を讀ん ゃうにした。それは、ちゃうど幼兒が大人に向って、「ばア」と云 でゐるやうに見せかけて、なぜドンがつまらぬ人間の智慧の分け前 ひかけるのに似てゐる。 を持つやうになったかを考へてゐた。 彼は鞠を咬へて來た大を見て大變に驚いた。かうした智慧は人間 信子は、初めのうちは、彼の注意をひかうと思って、床の中で小 のものであって、決して大のものではないと思ってゐたからだ。大さい聲で歌を歌ったり、彼の耳をそっと引っ張ったり、腕を延ばし の行動は、人間の感情なり意志の反射であって、大から人間にしか て彼の手の雜誌をゆすったりするのであったが、仕舞には、足を蒲 けるなどとは思ひもよらぬことであった。 團のなかでばたばたさせて、 例へば愛情にしても、信子の愛情は、彼を起さぬゃうにそっと寢「お兄さんをあてにして、のらくら遊んでないで、古本屋でも始め 室を出ることゝか、大と遊んだ手を洗ふやうにと金盥に水を取るこ るといんだわ。 え ? さうぢゃあない ? ーー何時まで待っ となどで表現される。この愛情の表現のうちには、廻りくどい理性たって、職にありつくわけでもないんだから。」 が、下手な細工ものゝゃうな裝飾を施してゐるではないか。ところ それから彼女は寢臺から起き上って、向ふむきに寢てゐる彼のと が、大の愛情は、與へられた愛情をそのまゝ送り返す種類のもの ころへ廻って來て、うゐうゐと彼の肩をゆすぶった。 だ。與へられたよりも餘分の愛情を、ずるく誇張して示さうともし 「返事ぐらゐしたっていぢゃあないの。」 なければ、又、人間を失望させたり、裏切ることもないものだ。 「あゝ、おれも古本屋を始めようかと思ってゐたよ。」 彼が大との愛情の交換を、この上もなく樂しみにしてゐる自分に 彼はさう云って、蒲團を出ると、信子の呼吸が部屋いつばいに擴 氣附いた時、食事の時の得體の知れぬ羞かしさが、再び彼を襲って ってゐる寢室を出て、そのまゝ玄關の戸を開けかけた。信子は追ひ 來た。今度は、その羞恥がひどく嫌ゃな氣持を、彼に味はせるので るやうに駈けて來て、 あった。そこで、 「どこへいくの、今頃。寢衣でも着替へたらーー。」 「ドンの奴、鞠を咬へて來て、おれをからかふつもりなんだね」 彼は何時もの例で、散歩に出るつもりでゐた。しかし、もう外な くは

3. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

2 イ 8 りしてゐたのである。 を調べさせられたことがある。また母が夜明しで計算をした、自動 二階の座敷は、殆んど父一人で使ってゐて、一日に一度、挨拶に車商會の目論み書を見たこともある。數字がてんで間違ってゐた。 ゆく時ぐらゐしか、私は見たことがなかったが、或る日、新聞紙に母は小さなそろばんを机に置いて、驗算をしながら、 幾組みにも分けた灰色の火山灰が、座敷の片側を取り卷いてゐた。 「だから眠い時は、駄目ですって云ったのにね」 火山灰で、なにをしようと云ふのか、各地のものを取り寄せ、それ と父を非難するやうに呟いた。 を分析してみようと云ふのだった。 この三笠自動車商會が發足したのは、多分父が、逗子へ轉地する さうした雲をむやうな話の相棒は、いつも父の義弟になる國文直前になってでだっただらう。 法學者の松川の叔父で、自動製本機を考案して、試作品を作ってみ 「三井、三菱、三越、三笠。」 たり、自動車の車輪につける泥除けの特許を取ったりしてゐた。 今で云ふキャッチ・フレーズを、誰かが考へた。そんなことの得 しるしばんてん まだその頃、どの新聞瓧でも手掛けてゐなかった年鑑の發行は、 意な靑年が、父のそばに、なん人かゐた。キュウ。ヒーに印半纒を着 豫約募集を相當大袈裟にやってみたが、僅かに百部内外の申込みせて、襟に電話番號を白く拔いた厚紙のくり拔き人形も、宣傅用に で、中止したさうである。 作られた。また疊みやうによって、そのキュウピーの着てゐる印半 父が逗子に轉地したのは、私が大學病院から退院して、夏、原口町と、そっくりになる手拭も出來て來た。當時の紙幤の最高額は、 さんに連れられて、妹や弟たちと大洗の海岸にいった間のことだっ百圓札だったと思ふが、一見それよりも、もっと念入りな印刷で、 た。私が病院から出て來た頃は、邦文タイプライターの考案に熱中圖柄に自動車のタイヤを使った壹萬圓札だったか、百萬圓札だった してゐた。すでに賣り出されてゐたタイプ一フィターが、參考品とし か、そんなものも、宣傅に作った。よくある手だが、その印刷が巧 て、父の部屋に備へてあった。そのタイプライターでは、活字の數妙で、裏面には毛筆の書體で、これを贋紙幤として使用すると、例 が、あまりに多過ぎて不便だから、字母を最少限度にとどめ、機械へ惡意のないいたづらであっても、重く罰せられるだらうから、十 の部分も、可能な限り携帶用の歐文タイプライターに近づけようと分に注意して頂き度いと、書き添へる凝りゃうだった。 いふ、計畫だった。 なにごとも、綿密に檢討してとりかかる方だが、それ以上に、か その一方、父は末の妹の連合である、嘗て足尾銅山にゐたエ學士うしたことに、必要以上のエネルギーを費す道樂氣が、父らしかっ の石黑の叔父に、高級車の自動車商會をやらせることにしてゐた。 その叔父に適當な仕事がなかったからでもあるが、父の豫想による 私は數へ年四つの時、九段下からその頃小石川柳町にあった母の と、なん年か後の東京は、自動車で氾濫するだらうと云ふ目算なの里へ、ひとりで電車でゆかされたことがある。私があまりうるさ である。自動車商會の經營も、それに歩調を合せ、鼠算で車の臺數 く、母の里へ遊びにゆきたがるので、ひとりでゆけるなら、いって が增えると云ふわけだった。 もよいと父が云った。 本鄕の病院に這入る前だったらう。私は原口さんと二人で、九段 電車に乘せるまでは、女中がついてゆき、先方の停留所には、誰 下から、天現寺橋の先の下澁谷の家まで歩いていった。行きに、何かが迎へに出てゐる打合せだった。父が電話口に立って、その話を 臺自動車とすれ違ふか、歸りに何臺の自動車とすれ違ったか、それしてゐるのを、私は下に立って、不安な思ひで聞いてゐた。 」 0

4. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

ざいます。松王さまは小半時ほど、燒跡の檢分などをお手俾ひ下さ やがてタ暮の涼氣にふと氣がっきますと、はやあたりは薄暗くな いましたが、もはや大事もあるまいとの事で、間もなく引揚げてお ってをります。風は先刻よりは餘程ないで來た樣子ながら、まだひ いでになりました。 ようひょうと中空に鳴ってをります。倒れるときお庭石にで打ち その未の刻もおつつけ終る頃でございましたらうか。わたくしど つけたものか、腦天がづきりづきりと痛んでをります。わたくしは ほしひ もは、兼ねて用意の糒などで腹をこしらへ、お文庫の殘った上はそ その谷間をやうやう這ひ上りますと、ああ今おもひ出しても總身が の壁にせめて小屋なりと差掛け、警固いたさねばなりませんので、 粟だっことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍册 寄り寄りその手筈を調 ( てをりました所、表の御門から雜兵およそ卷の或ひは引きちぎれ、或ひは綴りをはなれた大小の白い紙片が、 三四十人ばかり、どっとばかり押し入って參ったのでございます。 折りからの薄闇のなかに數しれず怪しげに立ち迷ってゐるではござ その暫く前に二三人の足輕らしい者が、お庭先へ入っては參りまし いませんか。そこここに散亂したお文櫃の中から、白蛇のやうにう たが、靑侍の制止におとなしく引き退りましたので、そのまま氣にねり出てゐる經卷の類ひも見えます。それもやがて吹き卷く風にち も留めずにゐたのでございます。その同勢三四十人の形の妻まじさ ぎられて、行方も知らず鼠色の中空へ立ち昇って參ります。寢殿の と申したら、悪鬼羅刹とはこのことでございませうか、裸身の上に お燒跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げてゐるのは、その すねあて 申譯ばかりの胴丸、臑當を着けた者は半數もありますことか、そのあたり〈飛び散った書册が新たな薪となったものでもございませ 餘の者は思ひ思ひの半裸のすがた、拔身の大刀を肩にした數人の者う。燃えながらに宙〈吹き上げられて、お築地の彼方 ( 舞ってゆく を先登に、あとは一抱 ( もあらうかと思はれるばかりの檜の丸太を 紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この 四五人して舁いで參る者もあり、空手で踊りつつ來る者もあり、あ世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろの妖しい地獄繪卷か っと申す暇もなくわたくしどもは、お文倉との間を隔てられてしま ら、いつまでもじいっと瞳を放てずにゐたのでございます。口をし ったのでございます。刀の鞘を拂って走せ向った血氣の靑侍二三名いことながら今かうしてお話し申しても、ロ不調法のわたくしに は、忽ちその大丸太の一薙ぎに遇ひ、腦漿散亂して仆れ伏します。 は、あの怖ろしさ、あの不氣味さの萬分の一もお傳 ( することが出 その間にもはや別の丸太を引っ背負って、南面の大扉にえいおうの來ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に燒きついてをります。い 掛聲も猛に打ち當ってをる者もございます。これは到底ちからで齒いえ、一生涯この眼から消え失せる期のあらうことではございます 向っても甲斐はあるまい、この倉の中味を説き聽かせ、宥めて歸すまい。 ほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れ ゃうやくに氣をとり直してお文倉に入ってみますと、さしもうづ てお築山のほとりにをりました大將株とも見える髯男の傍〈歩み寄高く積まれてありましたお文櫃は、いづく ( 持ち去ったものやら、 宿 りますと、ロを開く間もあらばこそ忽ちばらばらと駈け寄った數人そこの隅かしこの隅に少しづつ小さな山を黑ずませてゐるだけでご のの者に輕々と擔ぎ上げられ、そのまま築山の谷 ( 投げ込まれたなざいます。靑侍どもはみな逃亡いたして姿を見せません。顫 ( なが り、氣を失ってしまったのでございます。足が地を離れます瞬間 らも居殘ってをりました仕丁兩三名を勵ましつつ、お倉の中を檢分 3 に、何者かが顔をすり寄せたのでございませう、むかっくやうな酒にかかりますと、そこの山の隈かしこの山の陰から、ちょろちょろ 3 氣が鼻をついたのを覺えてゐるだけでございます。 と小鼠のやうに逃げ走る人影がちらっきます。難民の小倅どもがま かっ だいじ

5. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

も、父の寢床がふかふかして上等なのでよくもぐりこんだことを憶たかが想像された。萬延元年という歴史の中にほうむり去られたよ えている。極く最近でも私たちが行って泊めてもらうときは綺麗なうな昔に生れ、文久、元治、慶應、明治、大正、昭和と八十六年を 。これが、祖母經て來た父の生涯は、丁度日本の國の消長に似ていた。父もまた明 やわらかい客蒲團にねかしてもらっていたのに や母が重態であったときに必ず土地で一番という名醫を迎え、看護治時代をそのように生きた人であった。私たちは小さい頃、明治何 えんび」く 婦をつけ、出來るだけ快適な寢具を拵えさせ、數々のぜい澤な食料年かの萬國博覽會の時に父が着たという奇術師の着そうな燕尾服を を惜しまなかったあの寬容な、父の最期の寢床であってよいのだろつづらの中からひつばり出して代りばんこにひっかぶって笑い轉げ たものだった。 うか。私は昔、家の病人の枕もとに置いてあった珍しい果物や香り 「お父さんは若い頃はなかなかハイカ一フだったもんだよ」 いいウェーファースや、乾葡萄や小岩井のバタなどを思い出した。 と、亡くなった兄は私たちに敎えてくれた。父は輻岡縣の政治結 勿論いまは昔と同じではない。けれどもこれではあまりにひどすぎ る。ここにはどんな心盡しもない。父は眠りがとぎれたのか身動き社の出身で、同志の人たちと東京へ出たのだったが、後には實業界 に入り、そのころ日本に來ていたファープル・プランドというスイ をして目をひらいた。そして不安そうに仰向きのまま部屋のなかを り 4 っギ、 ス人と一しょに仕事をしていた。父はその控え目で律義な性質から 見まわした。 政治もきらい、金もうけも下手であったが、數多くのすぐれて美し 「お父さん、安藝子です」 い友情に惠まれた。しかし考えてみれば八十六年という年月は友人 私は出來るだけ元氣でやさしい聲を出して呼びかけた。 と一しょにたのしむには長すぎる時間であった。父の兄は八十七歳 「安藝子が東京から參りましたよ」 で前々年に亡くなっていたし、親しい人々も先日私に速逹を送って 姉も側から言葉をそえた。 くれた新川五郞左衞門氏より外の人は皆死に絶えてしまっていた。 「おう。安藝子か」 父は大きく眼をみはり頭の中で何か考えをまとめようとするよう父はみんなに親切を贈物としておくりつづけ、そしてただひとりと り殘されてしまったのだった。近親や友人たちからとり殘されたば にしばらく私をみつめていたが、 かりではない。平和な、物資の尋常な國の从態からさえも、おき去 「大變じゃったろう」 りにされてしまったのであった。私はごわごわの蒲團や貧しい枕邊 と云った。 を眺めて、子として恥を感じ、また憤りを覺えた。そして何もかも 「お父さん、お苦しいですね」 私はまた父を蒲團の上からさするようにして云った。すると父はもう遲いと思った。 父は心もち頭をもち上げ、手を伸ばして何かをつかもうとした。 急におなかのへった赤ん坊のように甘えた哀しそうな表情になっ 「なんですか。お父さんなんですか」 て、 私は慌ててたずねた。 「苦しい」 「葉書、義郞の葉書。たしか十日入營と書いてあったな」 と云った。これまでどんな時にも、こんなに父が無氣力に救助を 父は姉にたずねた。姉は丸盆の上の時計の下の葉書をとりあげ 求める様子をしたのを見たことがなかった私には、こんな状態にな 3 るまでの半年あまりの父の孤獨な生活がどんなに無理なものであった。そしてその三四行の文句をあらためて讀みかえして、

6. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

篇には、堀辰雄と共通の或る雰圍氣が色濃く漂っていることも否定 しがたい。しかし、そうした表面的な雰圍氣の相似にもかかわら ず、二人の資質は實はまったく異なっていた。「堀辰雄への手紙ー のなかで、禪西淸は、かって二人のあいだにあると思った「類似の 感じ」は、「どうやら錯覺であったらしい」と告白している。 「君をフロ 1 ラ型とするなら、僕などはさしづめ動物型ででもあら うか。いやそれどころか、大きに半獸型ですらあるかも知れない のだが、冗談はさておいて、君の世界が生命の息づく空間であるや 佐々木基一 うに、僕のが僕なりに生命の流れる時間であったことは、ひとまづ 西淸 まあ對照的には認められるやうに思ふ。このやうにお互ひどうし別 の秩序の棲み手であることには僕も前から氣づいてゐたのだが、し 禪西淸はフ一フンス文學およびロシア文學の飜譯者として、數々の かもそれでゐて、何かお互ひのあひだにある消しがたい類似の感 名譯をのこしている。また、外國文學ばかりでなく、日本の古典に じ、いはば二つの秩序のあひだの一種の接觸感を、なんだか否むこ ついても造詣の深い敎養人である。 創作としては、戦爭中に刊行された短篇集「垂水」と、戰後に出とができず、そのため僕は時折りひどく迷はされて來たものだっ た。しだいに霧がはれて、お互ひが身を託してゐる秩序の違ひが、 た「灰色の眼の女」および「少年」と、三つの作品集しかないが、 それらはいずれも、纎細な詩心と、深い敎養と審美眼とを備え、そやや的確に指呼できるやうな氣持のする今日になってみれば、そん の上さらに冷徹な人生批評家でもあったこの人らしい獨特な性格をな感じがどうやら錯覺であったらしいことが、殆ど斷定できるやう に思ふ。手みじかに言ってしまへば、僕はフォーナ界にあって生命 もっ作品である。すぐれた美の鑑賞者であったが、禪西淸の生涯か けた念願は、おそらく鑑賞者であるよりもむしろ美の創造者でありの靜態を愛し、君はフロー一フ界に棲んで却って生命の動態にひかれ ただけのことではなかったか。さうした禀質上の差違が、別々の秩 たい、ということだったにちがいない。およそ文學に志すものなら、 誰でも同じ願いをもつにちがいないが、禪西淸の場合には、その敎序の棲み手どうしを逆に近づけてゐたのではなかったか。」 これはまことに的確な自己批評であって、たしかに、禪西淸の作 養と鑑賞眼がひときわ高かっただけに、自分のいだく文學の理想 と、その理想を實現することの困難さに板ばさみになった内心の葛品は「フォーナ界にあって生命の靜態を愛、するひとの手になるも 藤は、ひと一倍はげしいものだったにちがいない。この作家の創作のとの印象を強く燒きつける。つまり、云い直せば、フォーナ界に 棲む作者の全容は作品のなかに表出されないで、ただ「靜態を愛」 解の量の乏しさは、そこからきているように思われる。 品 禪西淸と堀辰雄との交友はよく知られている。舊制第一高等學校する側面だけが、ほとんど禁欲的なまでの抑制をもって表出されて いると感じないわけにいかないのである。たとえば「恢復期」や の寮生活にはじまる二人の交友は、堀辰雄の死まで、長くかっ深く 續いたのである。「堀辰雄〈の手紙」が、數多くの堀辰雄論中出色「垂水」といった短篇を、堀辰雄の同じ題名をもつ「恢復期」や 4 のエッセイたるゆえんもそこにある。また「垂水」に收められた短「かげろふの日記」とくらべてみると、紳西淸の作品にはどこか膜 作ロ明解説

7. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

くれ給 ( 。違犯者は二十圓の罰金になってをる。今後は注意をし いわ、あんなお豆腐屋からもう買はないから」 て、危險がないやうにし給〈。報告によると、ドン號はシヱパート と、呟きながら、普段の數倍の親切さで、ハンカチや靴下を揃へ 種に似た猛大だとのことだから」 と、彼に申し渡した。彼は獵大といふ言葉が氣に入ったので、歩 郊外電車を一驛乘って、そこから又少し歩いて、古ぼけた木造の x 署 ~ ゆくと、金網の向ふの一段高くなった所で、多くの巡査が事きながら時々微笑を浮べて歸って來た。 信子は五圓の治療代を豆腐屋の惡計だと考へて、不平を云った 務を取ってゐた。金網の前の粗末なべンチには、數人の男女が用件 ドンを鎖でつなぐことには非常に賛成して、さうすれば秋には のすむのを待ってゐた。彼も呼び出しの紙片を一人の巡査に渡してが、 見事な花壇が出來るだらうと喜んだ。 べンチに並んだ。 翌日からドンは鎖につながれて、終日きゃんきゃんと鳴いてゐ 巡査らは。ヘンを動かしたり、印を押したり、手帳を繰ったりし て、自分々々の机に積まれた紙片を整理していった。その仕事がどた。彼は窓から首を出して、ロ笛を吹いては大を宥めた。三日も四 ういふ種類のものにしても、このやうに事務的に仕事が處理されて日もそれが續いた。獸醫はなかなか來なかった。 やがて信子の發案で、ドンは庭の隅につくられた金網張りの柵の ゆくさまを見てゐると、のんべんだらりと暮してゐる彼は、次第に 中へ移された。獸醫はドンが狂大でないことを證明したけれど、そ 極く少しづっ赤面していった。 の後ずっと彼が散歩に連れてゆく以外は、その柵の中に入れて置く 呼び出しはやはりドンについてゞあった。一人の巡査が金網の小 習慣になった。 さい口の所へ彼を呼んで、 柵の中に入れられてから、ドンは氣ばかり荒くなって、人が來る 「今日、あなたの飼犬ドン號が、人を噛んださうであるが、調べに 依ると、狂大病豫防注射は咋年の暮に受けてをる。しかし、注射が度に猛烈に吠えた。夏が近づいて、強い太陽がギラギラすると、い っそう大の經は興奮した。氣は荒れても、前肢は依然として曲っ されてゐるからと云って、狂大でないとは斷言出來ない。噛まれた てゐるし、腰もまだしつかりしてゐないので、ドンは、吠えて金網 男は治療だけで、狂大病の注射は高價だから止めたさうだが、考へ にぶつかりながら、自分のカでよろよろとよろけた。 ゃうによると、狂大病にかゝって死ぬかも知れぬ危險を冒してゐる 雨漏りがしたので大工が來てゐる時であった。女相撲のやうに體 わけだ。そこで、傷だけの治療代としては高いけれど、注射を五本 の大きな大工の女房も來てゐた。大工らは三時のお茶を喫んでゐ うつ代金の半額、即ち五圓だけをもらひたいと云ってをる。明日の 語仕事もあることだからと云ふのだが、それだけ拂ってやってくれ給た。その時、トフックが家の前を、地響をさせて通ったので、ドン は金網に吠えかゝって、よろけて倒れた。大工らはそれを見て笑っ と、判りやすく説明した。彼が同意をすると、いづれその男が交た。 その笑ひ聲が、今夜は映畫でも見にゆかうかと、二階でぼんやり 番の巡査と同道であなたの家へ行くだらうと云った。それから、今 や 考へてゐた彼の耳に響いた。へへへへと汚く聞える大工の女房の笑 度は少し聲を硬くして、 礙「數日間のうちに、署の方からは獸醫がいって、改めて狂大かどうひ聲が消えると、同じ聲が、 「かう閉込めつばなしぢゃあ、大もたまらないね。ねえ、安さん、 かの檢査をすることになってをるが、それまで鎖につないで置いて なだ

8. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

ヌと、それに私の三人で、麻雀をすることになって、人數がひとり てよこしてゐた。禪戸に住んでゐた彼女たちは、家がすぐ近かった し、家族同士が非常に親密だった。日本を去っていったのも、殆ん足りぬので、近くに住んでゐるジャンヌを呼びにやったことがあっ ど同じ頃で、母國のスヰスに歸ったシモン・チュディンは、歸ったた。しかしその歳頃の五つ六つの年齡の差は、あまりに違ひ過ぎ て、遊び相手にすることが出來なかった。 年の夏を、プルタイニュにあるジャンヌたちの田舍の家で過した。 その時のジャンヌは、まるまると肥った少女だった。顔は ? も そのことも、シモンは私に手紙で知らせて來たし、そのジャンヌの 田舍の家で寫した寫眞もーー・その寫眞は今度の戰爭の爆撃で、私のう覺えてゐない。私はそのマドモワゼル・レイを待ってゐること シモンはそに、不安を感じた。あれから二十五六年になる。三十六七になって 家と私の總べての持物と一緒に燒けてしまったが、 れを手紙に入れて送って來てくれたので、私は石塀で取り圍まれたゐるのマドモワゼル・ジャンヌ・レイ。その婦人像は、到底、私 に想像出來る筈のものでなかった。 ジャンヌの田舍の家を知ってゐた。 はやあし 速足で歩く背の高い女が、這入って來た。圓型の廣間を拔け、私 そのマドモワゼル・ジャンヌ・レイが、。ハリの博物館に勤めて の前を通って、事務室へ姿を消した。今の女は ? いやジャンヌで ゐることを、偶然、私は一絡にフ一フンスに來た友人から聞いた。 はないと思った。女が事務所へ姿を消して、暫らく時が過ぎた。私 私は博物館へ、ジャンヌ・レイを訪ねていった。最初の時は、 留守だった。二度目は、宿から電話をした。ジャンヌ・レイは、私の判斷はあやしくなった。私は椅子を立って、その事務室の方へ歩 きかけた。その時先ほどの女が、また姿を見せた。そしてそこから の名を覺えてゐた。その日の午後の時間を約束して、博物館へ、 私はそのマドモワゼル・レイに逢ふために出掛けていった。 二階に通じる階段を、先ほどの速足で、登っていった。私は少しあ ひさし まだ。ハリに來たばかりの頃で、ーー凱旋門近くのホテルにゐた時わてて、その階段の下にゐる庇のついた帽子を被った男に、 「あの人は、マドモワゼル・レイですか」 だった。その日は、六月の終り頃の莫迦に暑い日だった。街路樹は 思ひ切り枝をのばし、博物館に向って廣場を渡ってゆく私の眼 と訊いた。 に、エッフェル塔の先が光って見えた。 やはり私の最初の判斷が正しかった。彼女はジャンヌ・レイでは マドモワゼル・レイはまだ來てゐなかった。博物館の建物は這入なかった。 ジャンヌ・レイは、それからなほ暫らくして、私の眼の前に現は ったすぐが、圓型の廣間になってゐた。廣間から石の段を二三段上 きんびやうぶ った左手に、日本の金屏風を背にして、椅子が二つ三つ置いてあつれた。私の想像したやうな、小柄な背丈。私の想像したやうな 人て、そこで人を待っことが出來るやうになってゐた。 c.D 博物館に或ひは想像したやうに思へる黑い小さい帽子を被り、灰色のスウッ は、印度や、印度シナや、シナなど、東洋の各地からの出土品や美を着て、それから、これは私が思ってもみなかった少し餘計過ぎる 生 に術品が數多く陳列してある。日本のものもあるにはあるが、數も少荷物を抱へて、彼女は私の前に現はれた。彼女は昨日別れたばかり 、蒐集の規模も小さい。 の知合ひのやうに、私を認めたし、私も一瞬で、彼女がマドモワゼ ル・ジャンヌ・レイであると判斷した。 私はそこの椅子に掛けて、ジャンヌ・レイの來るのを待ってゐ た。私の知ってゐる彼女は、十一二であったらうか。シモンより五 1 っ六つ歳下だった。シモンと、シモンより一つ歳上の姉のマドレー かぶ

9. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

ということだった。 「ええ、なるべくー・・ー」 上海に着いて市中を通り拔け、黄浦江岸にある和平ホテルに入る 「いったい、なんで、それを是非とも持って行かなきゃならない までの間、私は三十數年前に一一度、いずれも一二泊の短時間ながら 「それが、粟の研究をしていらっしやる方なんです。それに昔から立寄ったことのあるこの都市を、これまでとは異った眼で見まわし ていた。そして市街の大部分に昔の面影があるのに登場人物と演技 中國の粟がどこの粟よりもおいしいと思ってる方だもんで : 私はしどろもどろになって答えた。こんな問答は、何遍となく繰種目がまったく變ってしまったのに云い知れぬ感慨を抱いた。私の り返された。私があまりがんこでその上、ひどく追求されると泣き三十數年前の上海の思い出は、ただの好奇心にみちた遊覽客のもの っ面にもなりかねないので、粟袋はとうとう氏のトランクにおさでしかなかったのだ。私は虹ロ公園にある魯迅紀念館や魯迅が胸を められ、廣州へ飛行機で直送されることになった。幸い日本からの病んで潜んでいた露地奥の家を訪れ、彼が同志と共に、どんなに今 土産物を詰めて來たのが空になっていたのだ。それをきくと私はほ日の中國への道をひらくため骨身を削る苦節の日を送っていたかを っとし、まだ北京に用事のある氏と別れ、他の人人と上海へ發っ知り、その年代が、丁度自分が、心ない遊覽客として來た頃と近い て 0 のに今さらながら心を寒くした。私の眼の底にあるその頃のこの都 しかし二度目の北京滯在中も、見物や劇などの他に、招宴や送市は、ター・ハンを卷いたインド人の巡査が交通整理をしていたり、 イギリス租界やフ一フンス租界が、住心地よい邸をつらねて、中國の 別の宴、放送など、なかなか忙しく、こういう粟の話は、その合間 合間に一寸ずつ起きただけで、全體としてはそれほど大問題という人人を疎外し壓迫していた。私が泊めてもらった日本人實業家の宏 わけでもなかった。上海へ行けば行ったで、私たちはまた、この都壯な邸宅も、やはりその階級に屬していた。ただ、そこの主人夫妻 が中國を好いていたのでべつに不平等は感じず、むしろこの國の昔 市での日日に、すっかりはまりこんでしまうのである。 北京のお別れでは涙が頬にこぼれた。私は謝氷心さんのほか、男の書畫や遺跡に傾倒するのを見せられたくらいだったのは、まだし の作家の名前は、ほんの數人だけ、それもおぼろげにやっとおぼえものことであった。 しかし、その頃の私が、ただ美しいものや、きわめて皮相な善意 ただけであったが、その率直で毅然とした態度や篤い自然に備わっ あいせき に滿足し、それ以上には何ごとも深く考えようとしなかったのをも た友情に別れ難い愛惜を覺えた。シートベルトなしの飛行機もすっ かげろう う一度ここに來てはっきり知らされ、自分の靑春が陽炎にも似てい かりおなじみになり、何の不安も感じないばかりか、アラビアンナ たと思わずにいられなかった。 イトのように魔法の絨毯に乘って北京の空をふわっと飛んでゆく心 上海は、さすがに貿易港としての性格もあるのか、これまで見て 地さえするのだった。いまだかって一度も落事故を起したことが のないという話も、人人の、およそ飛行機旅行という概念と矛盾する來た古都とちがい、どこかに西歐的な匂いが漂っていた。ホテルの メニ = ウも洋食があるし、ショウウインドウの品品も、豪華で色彩 中證言によって私は信用するようになった。私逹はいつも豫定通りの に富み、おいしいケーキをたべさせる店もあった。また、ここでは 日に目的地まで行きついているが、他の訪中作家の誰彼は、長沙と & か武漢とか、思っていない中繼地で、三日でも四日でもお天氣待ち歡迎の集いに美しい女優さんが二人も出席し、宴の夜は情感にみち ていた。その一人に、ふとしたことから、私は市場を見たいと云っ をしたというのだ。營利會社でないから、無理はしないんですよ、

10. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

2 5 ました。 「おや、君は見なかったの ? 」と博士は、ちょっと哀れむやうに供 を見て、「あの大きな曾堂の立ってゐた丘の上に、數こそ少いがあ んなにはっきり見えてゐたぢゃないか。窪地のあたりにも五六本は ・ : あれ あったはずだ、その君のいふ有りようはずのない樹がわ。 を見なかったのは惜しいなあ。僕はもうあの幹の色を見ただけで、 今日のアル。ハジン行きは滿足だ。 : : : 十二分に滿足だ。」 博士はさう言って口をつぐみました。僕もそのまま深い沈默に落 名月や門にさしくる潮がしら。 ちました。その沈默のなかで僕は、つい先刻あの時疇の鐘の音とと 九月も終りに近い或る高原の、小さなホテルのホール。月はやが もに忽然と出現してあんなにも僕を感動させた莊嚴な光景に、或る て中天にかからうとしてゐるが、ガラスばりのホールの内部が明る 變化の生じてゆくのを感じてゐました。あたかもそれは、何ものか 見えざる手があって、ひそかな修正の筆を畫面に加〈はじめたやういので、庭前は闇に沒してゐる。まだ宵のロで、さっきどこかで掛 でありました。しかしもうこれは、くだくだしく申しあげるまでの時計が一つ鳴ったところ。たぶん七時半だったらう。 ホールの中に、數人の男女のかげが見える。立ったり腰かけた ・ : 博士は今朝はやく發って行きました。 ことはありますまい。 僕は驛まで見送って行きましたが、驛頭にもプラットフォームにり、さまざまなポーズだが、舞踏會がひらかれてゐるわけではな い。腰かけてゐる連中は、あるひは脚を組み、あるひは腕を組ん も、班氏の姿はたうとう見えませんでした。 ( 昭和二十二年七月「文藝春秋」 ) で、ひそひそ話をしてゐる。立ってゐる迚中は、ガラ - スごしに外を のぞいたり、せかせか歩き廻ったりしてゐる。庭いちめんの虫の 聲。 やがて、庭前左手の闇のなかから、ひょろ長い男のかげが二つ、 ふらりふらりと現はれる。兩人とも言ひ合せたやうに、片手に大型 のスーツケース、殘る手に、これまた大ぶりなポストンバッグをさ げてゐる。先に立つのは白髪あたまの醫者。あとに從ふのは中年 の、頭の禿げあがった大學敎授である。ふらふら足もとの定まらな いのは、兩手の荷物が重いせゐらしい。足どりにあはせて、先頭の 醫者が狂言『月見座頭』をうなりだす。いきむやうな嗄れ聲。 こうたう 「これは下京に住まゐ致す勾當でござる。今宵は月見ぢやとあっ て、いづれも寄り合うて慰ませらるるが、それがしは盲目のことな : とかく、我らごとき亠偵 れば、月を見て慰まうやうもござらぬ。 月見座頭 しらか