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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

日本現代文學全集 91 西淸・丸岡明・山起しげ子集 編集 伊藤 龜井勝一郎 中村光 平野 山本健 整 夫 ロ 神西 丸岡 昭和 41 年 10 月 10 日印刷 ◎ KODANSEIA 1966 定價 600 圓 昭和 41 年 10 月 19 日發行 きよし あきら 明 著 發 印 發 行 刷 者 者 者 由起しげ子 野間省 北島織衞 印 寫 版 製 製 背 眞 印 刷 製 本 函 皮 行所株式會社講談社 東京都文京區音羽町 3 ~ 19 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 振替東京 3 9 3 0 表紙クロス ロ繪用紙 本文用紙 函貼用紙 見返し用紙 扉用紙 大日本印刷株式會社 株式會社興陽社 大製株式會社 株式會社岡山紙器所 株式會社第一紙藝瓧 小林榮商事株式會瓧 日本クロス工業株式會社 日本加工製紙株式會瓧 神崎製紙株式會社 三菱製紙株式曾就 安倍川工業株式會瓧 本州製紙株式會社 落丁本・亂丁本はお取りかえいたします。

2. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

→昭和四年頃 パリ時代右 か、らー ) げ「十 長男通夫 夫伊原宇三 ↑昭和二十四年 芥川賞受賞の ↑昭和三十五年東京 原宿山田耕筰宅に て右山田耕筰と ←昭和三十九年三月北京の許廣平 ( 魯迅未 亡人 ) 女史邸にて右から許廣平夫人 しげ子金幕箴謝冰心 一を・ - , をす確を - ・、第を ( 第第・第を第ー・既 ー - ; 第画をーのーを ↑昭和三十七年一月山の上ポテルにて女 流文學者會前列右から橫山美智子畔 柳二美大田洋子有吉佐和子圓地文子 保高みさ子後列右から佐多稻子芝木 好子池田みち子城夏子廣池秋子 上喜久子小山いと子しげ子壺井榮

3. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

日ホ袋學ま ・ : 寺田透 飾西淸詩集・ 報 ・井伏二 丸岡君の釣 : 堀多惠子 祁西さんと丸岡さん・ 島信夫 由超さんのこと : 月 題字・谷崎潤一郞 稿や日記を讀みか ( す日々を持ち、一體俺はあの頃と比べてどれだ け成長してゐるのかと思ひ思ひしたものです。考 ( にしろ、歌にし ろ、歌の姿に象どられてゐる感情にしろ、言はれてゐるものの範圍 では、僕は中學生のころからちっとも進歩してゐない、と思ったも 寺田 のです。もし成長なり進歩があるとすれば、同じ考 ( 、同じ歌が、 紳西さんには輻永武彦さんの編んだ詩集一卷があります。一周忌少しひろが 0 た知識や體驗に支 ( られ、前より確信をも 0 て言はれ の來ないうちに輻永さんが紳西さんの殘した自選詩集決定稿百一 = 十たといふところにあるだけだ、と思ったものです。 三篇のうちから佳篇五十一一篇をさらに選りぬ」て作 0 たものと」ふさう」ふ風に自分の若年時の作品を値踏みする人間は、。ー、僕は 幸か不幸か、といふよりむしろ幸ひに、それらのノート類を全部空 詩集です。 それらの 制作年代からいふと、その不明なものは除き、一九一八年から一襲のために燒かれ何一 0 殘さない身になりましたが、 九三四年、作者 = 一十一歳の年までにわたってゐます。一番早い一九作品の束を一括火に投ずるか、ひ 一八年のものは、作者が東京府立四中の = 一年生のときの作品だと言そかに後世がそれらに眼を通し、 適當に選び適當に捨てて、自分の ひます。 全集の一卷に收録してくれること かういふ詩集のでき方を聞いただけで、禪西さんといふひとが、 自分の生み出し書きつけた言葉に對して、普通でない態度をとってを期待し、そっくり手つけずに、 物陰にしまっておくのではないで ゐたひとだといふことが分るやうな氣がします。 誰が一體自選作品集をつくるとき、十四五歳のときの作品を選りせうか。 といふ言ひ方で、僕は、誰も最近子供と大人は別のものだと 出し、淸書する氣になるでせう。 自分のそんな若年時の作品に價値をみとめるものはゐな」と」ふこ」ふ人間觀を確立したのはジ ~ い とを言ひたいのではありません。僕自身、一九四五年の空襲に先立ン・ジャック・ルソーだといふ意見昭和三 + 二年八月神西淸著 「散文の運命」講談瓧刊 って、虫が知らせたのでもあるかのやうに、自分の中學生時代の歌を讀みましたが、その當否はとも 禪西淸詩集 目次 1 9 6 6 ・ 10 講談社 東京都文京區 音羽町 3 の 19 1

4. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

が亡くなったことはもう知っていて鄭重なくやみを述べてから、私 十二月に入ってとうとう、姉の病院の會計を預ってくれている學 6 が寒天の話をするのをニコニコしながら聞いていた。そして「奧さ生から上京するという知らせを受け取った。手紙で打ち合わせたり んのような方が商賣をなさろうというのは、小さい子供が溝のふち している餘裕がないほど枯渇して來た療養資金について、膝詰談判 を歩いているようで危なくて見ていられないーということを、せい にやってくるものに相違なかった。 一ばい言葉に氣をつけるようにして言った。そして私も上海から引 いよいよ、義兄の唯一の遺品である本に手をつけなければならぬ 揚げて來たばかりで、これからもう一度昔の商賣を盛り上げようと場合であった。義兄の本は戦災で燒いた殘りが六百册ばかり東京の しているところで、様子も分らず微力ではあるが、出來るだけおカ武石の會瓧の倉庫に箱詰になって殘っていたが、これを賣って金に になりましようと云ってくれた。そしてコーヒーを大口に引き出せかえるなどということは誰一人考えて見るものもないくらいだっ さば るかもしれないからそれを賣り捌くことと、特殊なライタアを作る た。それは義兄の生前の意志としては本は一めにして鄕里仙臺の 人を知っているというので、それを賣ることを考えてくれた。私は學校か然るべき施設に寄贈して後人の利用にゆだねたい、というこ この人の大阪の人らしい具體的な厚意の示し方を心強くまた氣持ち とが姉の執拗なほどの度々の言明によって關係者は周知していた よく思った。 し、故人の生涯がひたすら本の間に埋めつくされたことを知るもの 一方義兄の死によって急にその生涯が省みられ、色々な方面から には、これは全く正當なことに思われたからであった。 追悼金が集められ、相當の金額に逹した。それは何カ月かの入院生 しかし今はこの本のことを考えるより外に何を考えることも出來 活を支えることが出來る筈であった。私はいくらか重荷を減ずるこ なかった。その形勢を察したように、姉からは本だけは賣ってくれ とが出來たが、それと同時に、そういう、人の憐みによって與えら るな、それ位なら施療病院へ入れてくれというような葉書が着いて れた寄附金のような性質の金錢に賴らなければならないことが私の いた。私は姉のわからなさに吐息をついた。まだとるべき手段が殘 心を暗くしていた。何とかして他人の負擔によらないでゆきたい、 されているのに、姉を見棄てることが出來ないのは知れ切ってい という氣持と、その金がなくならないうちに後の方法を考えなけれた。義兄が若し地下に口をきくことが出來たら、それでも本を賣る ばならぬという氣持が入り混って私をせき立てたが、東京へ歸れば なと云うであろうか。あの他人に迷惑をかけることの嫌いな義兄が 歸るで、私自身の生活の建て直しが大變で、その方に追われてしま そんなことを云う筈はなかった。 うのだった。河邊興次が考えてくれた二つの方法もやりはじめてみ それにしても本を賣るにもどうしたらいいのか分らないので、私 ると結局私の手に負えるものでないことが分り、私は賴まれた童話はやつばり公子と利一に相談した。しかし本の種目をきいて、二人 の原稿を細々と書いたり、オフンダの童話を譯して本に出すことを とも薄笑いした。海上保險と云われてもどんなことなのか見當さえ 利一に賴んだりしていた。しかしそんなことでは刻々と水位を増すっかない彼等は、ただその耳遠さに呆れたという顔つきであった。 ような物價の昻騰の中に小さい子供たちと三人が生きつづけること どこか大學にでも買ってもらうより仕方がないが、大學には金がな すら難しかった。物を賣って得た金で凌げる日數が、流れに足をさいから駄目だろう、というくらいの智惠しか出ないのだった。それ おどろ らわれるような速さなのに駭くばかりだった。姉の方のことは氣に から仕方なく、上京中の河邊興次に相談に行った。すると彼はさす かかるばかりで日が經って行った。 がに實務家らしい無造作さで < 新聞に適當な賣込み先を紹介させま

5. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

姉母明 幸と四 子み十 祖父頃 爲右 さ義 ? ↑昭和四十一年八月東京世田谷の 自宅前にて由起しげ子 →大正十二年頃

6. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

云ってすましていた隣席の客は素早く降りてしまった。プラット か、と思い、心のなかでとるべき處置をさぐりながら窓の外を眺め 4 フォームは一ばいの人で、ことに中央驛員室のまわりは何かの手が た。汽車が東京へ歸るということに定められたのにまだ西へ向って かりを得ようとする人々でぎっしり取りかこまれ近づくことも出來 走りつづけていることが望みのない努力をしているようで悲しかっ た。みんなそれぞれに眉をくもらせ思案顔になった。隣席の男の人ない。私はようやく引摺りおろした荷物を柱の傍において誰か相談 は濱松で降りて樣子を見ると云った。私は父のところ〈行きたいと出來る人でもいないかとあたりを見廻したが、女の旅客は一人も見 思った。しかし、それから無事に行きつけるかしら、このさき大變當らなかった。驛員が「四時に名古屋行が發車する見込みです。名 な災厄が待ちうけているのではないかしら、もしかしたら死ぬよう古屋から先は不通です」と云って歩いて來た。「東京 ( 歸られる方 なこともあるかもしれない、と考えた。それからまた、私がこのまはもう二十分で發車します」と云いながら私をみとめると近づい ま歸らないことによって異った運命を負うてゆく東京の家のこともて、東京 ( お歸りなさい、と勸めてくれた。そして私の間いに答え おじいちゃまのところ ( 行ってあげて下さい、とて明朝八時發でまた今朝の汽車が東京驛を出るでしよう、と云った。 思ってみた。 云って、あの人たちは、私を出發させてくれたのだった。その心づ私は考えたあげく、今夜は濱松の宿に泊って明日の同じ汽車に乘り くしゃあと押しに對しても、私は行かなければならない。父はきっ繼ぐことにしようと決心した。名古屋まで行ったとしてももう夜で と私を待ってーーー驅けつけてくれると信じて待っているのに違いな宿屋をさがすこともむずかしいし、空襲の危險もずっと多いことだ から、と思って驛の外へ出るために橋を渡ることにした。私は重い い。父はいままで、ずいぶん重い病氣のときでも唯の一度も見舞い に來るようにと云ってよこしたことはなかった。三四年前の脯炎の荷物を三歩五歩と運んでやっと階段の途中まで昇った。寒さを覺悟 ときも姉と私とは後で知って恨みごとを云ったほどだった。その父して厚いオーヴァを着こんでいたので汗ばんでしまった。みんなど がこんどは親友の新川氏に訴えて、看病のために來てほしいと招きの人も頭の中が混亂しているふうで、どこを見ているのか何を考え の速達をよこしているのだった。縁家先に氣をかねて一度の無理もているのかわからない様子で階段を昇ったり降りたりしている。 かたぎ 「持ったげましよう」 云わなかった昔氣質の父のこの手紙は、八十六年の長い生涯の果に あかだすき そのとき二人づれの、頭を丸刈りにして赤襷をかけた靑年が私の とっておきのただ一通であった。恰度その時がこんな困難な旅行と ぶつつかっているのである。父はきっと私が、お父さま、參りまし荷物に目をつけて聲をかけてくれた。 「昇るんですか、降りるんですかー たよ、と云ってはいってゆくのを待っている。もし私が行かないと 「昇ります。そして、外へ出たいと思っています」 したら、それはどんなにしても行かれないことがあるのだと、少し ゆる 「とにかく改札を出ましよう。僕らも出ますから」 の疑いもない信賴をもって納得され、心から宥されることにちがい 一一人はらくらくと私の荷物を持って昇り出した。一人は色の黑い ない。そんな父を私はがっかりさせたくないと思った。それにして 痩せて引きしまった店員風の靑年で鼠色のジャン。ハーを着ていた。 も汽車は、線路は、もう不可能になったのではないだろうか。 午後一一時、汽車はやっと濱松〈着いた。外交官たちのためには何も一人は會社員のようで色も白く黒いオーヴァを着ていた。二人と も身輕でくったくのなさそうな様子をしていた。 か特別の便宜が計られることになったらしい。私が重いスーツケー 「どちらまでいらっしやるのですか」 スとポストン・ハッグを持ち惱んでいる間に、これ以上混みませんと

7. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

勤めた。 戰死した暮に結婚して、叔父の會瓧に勤めるため、名古屋へいっ 眞珠灣奇襲攻撃の放送があって、對米戰爭になる一ヶ月ほど前 に、女房は、鎌倉のサナトリュムに人院した。下の弟は、その攻撃 母が、下の妹やその子供と、伊豆の伊東へ疎開したのは、日本が の二日後に、應召で入隊した。 降伏する前年の暮、ぎりぎりに押し迫ってからだった。疎開列車は 多人數の見送りが禁止になり、こっそりと出てゆく弟を、母と私 非常な混みやうで、それに荷物もいろいろあって、妹は赤子を一時 とが、澁谷の輜重隊まで送っていった。 私たちの手に殘していった。空襲の度に、その妹の赤子を、一番に 私が壕へ抱いてゆくのだが、どの程度に貴重に扱ふものか、その判 Ⅲ 斷がっかなくて、閉ロした。實際の父親なり、母親には、こんな當 その弟は、入隊後一年あまりして、北シナの蘆龍縣常各莊と云ふ惑は分らぬだらう。 ところで、討伐に出て、手榴彈の破片を頸に受けて戰死した。 母は伊東で、松根掘りの作業に、隣組から驅り出されたりして、 私は朝鮮へゆく作家仲間に加はり、いった先で話をつけて、北シ 苦勞してゐるやうだった。その代りに、東京が容襲の時など、々 ナへ廻るつもりでゐたのである。戦死の公報は、その旅行より先に に來る米軍の爆撃機の唸りを、湯に漬って聞いてゐるなどと、便り 私の手もとに來た。 をして來た。まづまづ結構なことだと、私は思った。伊東が、敵の 弟は出征してから、和歌をつくるやうになって、母宛の端書に、 上陸地點になりさうだと云って來ると、上の妹が疎開してゐる松本 阿倍仲廱呂みたいな歌を書いて遣してゐた。 へ、東京を通らずに、移動してゆくやうに勸めた。やっと松本へ着 私の朝鮮ゆきは、弟の遺骨を門司まで迎へにゆくやうな、結果に くと、松本は松本で、疎開騷ぎのただなかだと云ふ。 なった。一旦慶州までいって、電報で呼び戻され、遺骨を門司で迎 東京はもうあちらこちら、燒野原に變ってゐた。謠本出版の仕事 へると、それを東京から來た上の弟に託し、再び朝鮮へ渡っていっ は、同種の出版社四瓧が統合して、ひとっビルにゐた。そのビルも た。釜山から新義州へ直行して、別れた仲間と落合ひ、その宿か隣まで燒け、窓ガ一フスの燒け落ちた跡に、板を當てて、しのいでゐ ら、鴨綠江を越えた向ふの滿洲國の安東へ電話をして、安東縣の警た。人も老人ばかり、四、五人だった。 察署長官をしてゐる、嘗て弟の家庭敎師だった田所さんに逢ひにい 私の家が燒けたのは、最後の東京の空襲の時だった。前々日の空 った。 襲で、家を失った河上徹太郞さんが、晩飯に來ると云ふことになっ 「惜しいことをしたな」 てゐた。黑い遮光幕で覆った電燈の下の食卓に、飲まずにあった配 と田所さんは云った。 給のビ 1 ル二本立てて待ってゐた。 影 安東で一泊して、金モールのついた警察署長官の服を着た田所さ すると空襲警報が念り出した。何時もと様子が異ってゐた。明か な んと、早朝、道で別れたのが、田所さんの見納めだった。敗戦後の に私たちの家の地域が、爆撃の目標になってゐるやうだった。 どさくさの時、殺されたのである。 私たちの家の前は、家屋疎開で、明治宮の表參道と同じ道幅 の、帯のやうな廣い空間になってゐた。 鎌倉のサナトリュムに這入った女房は、その後、そこを退院し、 2 千葉の佐貫に轉地などして、家へ戻って來た。上の弟は、下の弟が だが、空襲の火の怖ろしさは、妝況第で、想像外の場面に變化 しらよう

8. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

←大正七年頃父櫨 ←大正十三年頃母てい ↑昭和四十一年八月東京下落合の自宅に て丸岡明 ←大正三年頃右から妹皐月弟 あや みや : 大二明妹京妹文

9. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

を移動していった。ゆくあとを追ふやうにして、その驛と街が空襲 女房の姉夫婦は、夫が建築家で、三人の女の子を手もとに置き、 末の男の子一人だけ、埼玉へ疎開させてゐた。私の女房の兄は、同で燒け、片山津の鐵道寮に泊ったのが、最後だった。明日ゆく筈の 志社を出てから、築地小劇場の演出部に這入り、後に左傾して檢擧金澤が、その夜の空襲で燒けたのである。ついでに、松本の在へ母 されなどしてゐたが、その頃は、贅澤な英文のグラフ雜誌を作る奇を訪ねてゆき、信濃追分では堀辰雄に逢ひ、追分でやはり療養生活 をしてゐる女房の弟も見舞ふつもりだったのだが、その機會が、豫 妙な性格の出版瓧にゐた。他にもう一家族、義姉の家近くにゐて、 やはり燒け出された娘一人の理髮屋夫婦が、そのス。ヘイン風の家に定より早くなった。 ゐた。 松本の在にゐる母は、二人の妹と妹たちの四人の小さい女の子と あてが 朝早くだった。義姉が、私たち夫婦に宛はれた この家の若夫一絡に、八疊ひと間に寢起きをしてゐた。下が薪置き場になった離 婦の寢室だった洋間に飛び込んで來て、 れの中二階だが、もう座敷そのものがかしぎ、縁側に食器類を並 べ、そこが炊事場代りに使はれてゐた。 「お母さまがいらしたわよ。さ、早く、起きて頂戴。重いリュッ ク・サックをしよってね。」 私はその座敷で、脚のゲートルを解き、浴衣に着替へて、何ヶ月 鏡を張った圓るテープルを中に挾んで、私たちはまだべッドにゐ振りかで、死んだやうに深く眠った。 た。突嗟に私は、危險だから、東京へは來ぬゃうに云ってあったこ その母の疎開先から信濃追分に廻って、寢た切りの義弟に逢ひ、 とを思ひ出した。 その翌日は堀さんを訪ねていった。廣島に原子爆彈が落下されたの さつまがすり 母は私の薩摩絣をモン。へになほし、手製の小型のリュック・サッ を知ったのは、その午後遲く、追分から輕井澤へゆき、輕井澤の夏 クに、米や野菜を詰めるだけ詰めてやって來たのである。別に鷄卵場だけの家で、母たちが冬を過ごせるものかどうか、その相談に、 のポール箱を提げてゐた。 中學時代の友人を訪ねた偶然からだった。 その友人は、疎開生活の傍ら、短波の受信機をつくって、それを ひと晩泊めて、翌日には新宿驛まで見送っていったが、伊東から 移った先の松本も、いよいよ近く空襲があるさうだと云ふ噂だと聞軍隊に納めるアル・ハイトをしてゐた。「今日は奇妙な放送をしてゐ るよ」と、その友人が云った。 くと、も一度、松本の在へ、移って貰ふやうに、母に勸めた。 東京では、米軍が外房州の海岸から上陸するといふデマが飛んで 友人の家に泊めて貰ふことにして、夕食後、短波のレシヴァーを なまり ゐた。海岸の蛸壺陣地で、いよいよ殺されることになるかと、私は耳に當て、聯合國側の放送を聞いたのである。賑やかな音樂と、訛 の強い日本語が、勝ち誇った嘲笑のやうに、耳に聞えた : 自分の哀れな最期を想像した。 戰爭はその放送を聞いた日から、十日たたずに終ったわけだが、 八月に這入って、新潟管區の鐵道の各驛を廻るやうに依賴され、 私は甲府を廻って、新潟から裏日本 ( いった。餘ほどの事情がないその十日たらずの一日一日が、戦爭はもうこれ以上續けても駄目だ と思ってゐるだけに、東京へ戻って來てからの私は、全くの臆病者 限り、燒野原の東京から外に出る許可が、もう得られぬ時であっ た。驛を廻って、空襲の際、職場を放棄しないやうに話して歩くわだった。 戰爭が終っても、すぐには母を、東京へ呼ぶわけにはゆかなかっ 礙けだが、それも程度問題で、惡くすると、生命の危險があると、私 2 は自分の體驗をもとにして話し、貨車に乘り繼いだりして、裏日本た。事情があって、下の妹とその子供を母と一緒にひき取らねばな

10. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

を見せていた世良のことは、最初の泣きはらした顔といっしょに、 た。しかし、世良は云った。 いつまでも私の心に刻みこまれて消えなかった。 「私が兩親にここへ來たいと賴んだんだけど、べつに英語が習いた 私たちは、その翌年、學校を卒業し、しばらくのあいだ別れ別れかったというわけじゃなかったの。兄のお嫁さんが、他から來るこ になった。 とになったのよ。私はあのこと、話してしまったわ。父も母も私に 彼女は故鄕へ歸り、私は父母を相手の奮鬪の末、東京の音樂學校は同情してくれたけど、兄は浦賀の世話で三山物産に就職したし、 へ人った。奮鬪といっても大したことではないが、つまりは姉のよお嫁さんも英國から歸ったばかしの三山系のお驤さんが來ることに なったから、あきらめなさい、って云われたの。それは兄はとても うに着物や裝身具を欲しがらないことが效を奏したのだ。 私は、その時もう嫁いでいた姉が、娘の時から結婚まで、どんな立派に見えるし、私じゃ氣の毒だと、じぶんでも思うわ : : : 」 のらそい にお金がかかったかを薄々知っていた。後添である母は、姉には氣「でも、お兄さんは、それでいいの ? 」 と私はおどろいてたずねた。 兼もあったし、家もその頃はあたり近所がぜいたくな場所に住んで いたから、出入りの京呉服も斷り切ず、相當の身なりをさせてい 「堪忍してほしい。その代り僕は一生お前の力になってやるって、 あやまってるの」 たのだ。母は内心それを厄介に思っていたにちがいなかった。 世良は、その英國歸りの娘の水際立った美しさに壓倒され、彼女 だから私は、みんなが薄氣味わるく思うほど、そういうものには 自身も、兄にその人が似つかわしいと思ったような口ぶりだった。 關心を斷ったのだ。 「けったいな子や、變りもんや」 「私にはやつばり、子供の時からいっしょに育ったせいか、本當の と云いながらも、そういう傾向は兩親の氣をやすめた。次第にそ兄さんていう氣持が強く殘っていて、複雜なの。つらいようでもあ れが、音樂の修業という、もっと面倒なことに結實してゆくのを彼るし、兄さんがよくなればいいな、とも考えるわ。こんなおかしな らは氣づかず、氣づいたときは、もうとめようもなくなっていたの氣持、自分でもわからない。何だかあんなことも夢だったみたいに 」 0 思える時があるくらい : : 。私は小さな時から兄をとっても奪敬し ていたのよ。だから、それはそれでもう、私ひとりの思い出として むろん、私は音樂が好きだったのだが、それと同時に家を出るこ とが何よりの願いでもあった。 葬ってしまおうかと思って : : : 」 しかし、私が東京へ出るきっかけをつくってくれたピアノの師匠 私は、築山のふもとの芝生に坐り、黄色いつつじの花の蔭で、そ は、國立音樂學校への反逆者で、私にも、あんなくだらんコチコチんな世良の話を、不思議な氣持できき入っていた。すべては、まだ の官僚的な學校へは入るなと吹きこんだので、私もその氣になり、 よく理解されぬことであったが、そんな祕密というものを背負っ はげ ご私立の塾みたいな學校に入って、ピアノだけをその人について勵んて、一生暮す世良への疑間が、中でもいちばん大きく心に殘った。 め だのだった。 世良の上京は、その兄の結婚話で何かと事多い家から避難さすた 私が、世良とまた毎日のように會えることになったのは、彼女がめの措置であるにすぎなかった。彼女の養父は、もとはやはり浦賀 の息のかかった關西の會社で相當の地位にいたが躰を悪くして故鄕 礙その私塾的音樂學校の英語専科に入學してきたからである。 3 私たちは、築山のある學校の庭で偶然のようにお互いを見つけへ歸り、今は地主として不自由のない生活を送っていた。世良は、