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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

しよかっ そのまゝになってゐると云った。轢いた電車は、昨夜の十一時三十の机の上にあったと云ふ。所轄警察署が、それを保管するために持 4 分に、この驛を發車した三鷹ゆきの終電だから、時刻は三十分三十っていったが、そのうちのととに宛てたものは、ちゃうどそこ 秒か、三十一分頃だらうと云ふのである。 へ來合せた新聞記者が拔きとって、二人に渡してくれたさうだ。遺 修平は驛を出て、敎へられた道筋を歩いていった。その途中に、 書には、たゞ別れの挨拶があるだけだった。その素ばしつこい新聞 葬儀屋があり、眞新しい、だが板の厚くない寢棺が、少しばかり店 記者は、島の屍體の内ポケットから手帳と一緒に出て來た一枚の女 先から首を出して、その店の床に置いてあった。島のためかどうか性の寫眞を、持ち歸っていったさうだ。 は分らないが、運び出されるばかりの棺を眼にしたことが、間にあ もも、それをひどく憤慨してゐた。修平は嘗て、手帳の間に めまひ ってよかったと云ふ氣持と、いきなりぐらぐらっと體のゆれる眩暈挾んであった島の死んだ細君の寫眞を見せて貰ったことがある。 とを感じさせた。 「これ、誰だと思ひますか。」 細い路地を曲ると、踏切があった。踏切を渡ると、線路の土手に 何の話の關連もなく、いきなり小型の寫眞を渡されたのである。 沿った眞直ぐな道へ、坂を下ってゆくやうになってゐる。前方の土その寫眞は、。ハフピン紙で覆って、裏でそれを糊づけにしてあっ 手下に、四五人、人が立ってゐて、そのうちの一人が手を擧げて合 た。若くて、淸潔で、健康さうな和服の婦人だった。結婚前の寫眞 圖をした。 だと島が云った。 < ととがそこにゐた。他に保線工夫と巡査がゐる。保線工夫と 「和服の奧さんの寫眞ちゃあなかったかい ? 」 巡査は、昨夜から一人づっ交替で立番をしてくれたさうで、まだ火 ぼんやりとした氣持で、土手の中ほどの草叢に立って、遠くから たきび の燃えてゐる焚火の跡が、土手の草叢にあった。は島の下宿先の砂煙をあげてゆるゆるとやって來る、赤い瓧旗を立てた何處かの新 主人に起されて、朝六時から、こ乂にゐると云った。島のポケット 聞瓧の自動車に眼をやりながら、修平はにさう訊いた。 に名刺があって、住所がすぐに分ったのだ。はからの知らせ 「さうかな。洋服を着て立ってゐる寫眞だったやうに思ふがな。」 で、駈けつけて來て、修平や他の思ひ當る先へ電話をしたのであ 島の細君の寫眞は、半身像のものだったから、由良康子の寫眞だ ったかも分らない。修平はだが默ってゐた。頭がぼんやりして、何 むしろ 島の體は、筵で覆はれて、土手の上の線路の脇に置かれてあつも考へる氣がしなかったからである。 た。風で筵が飛ばぬゃうに、石が幾つか、おもし代りに乘せてあっ その時土手の上を、ポインターの雜種と思はれる大が、鼻を下に た。上り下りの電車は、線路が眞直ぐなためだらう、急速度でそのして、島の屍體が覆ってある筵の方へ近づいて來た。それを見ると 脇を走ってゐた。土手の下から、それを見上げると、車輪がかあっ 若い保線工夫は、土手を駈け登っていって、石を拾って大に投げ と唸って廻轉してゐる赤茶色の電車の腹の下が、まる見えだった。 た。昨夜から、何匹來たか分りゃあしないと云ふのである。 れいきうしゃ 修平はその電車の腹の下に、島三郞のあの澄んだ冷たい眼が、貼り 靈柩車は十二時を過ぎて、やっと來た。眞新しいので、却ってま とげとげ ついてゐると思った。 だ何處も此處も棘々してゐるやうに見える、輕くて細長い棺が、土 屍體はこの場所から、直接火葬場へ運ばれてゆく手筈になってゐ手の上に運ばれて來た。やと一緒に、修平も土手の上に登って た。やが、その手配をしたのである。遺書は十七通、島の下宿いった。

2. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

ジャンヌ・レイは、私が戻って來た時、パリにゐなかった。父たち 私たちはまたしても、昔の禪戸の話をした。マドモワゼル・レイ 2 プルウ 1 がゐるプルタイニュへ、・ハカンスを過しにいってゐた。私は。ハリには、ゴロワーズの靑を喫ひながら、いよいよ日本を去る時に、父親 二週間ほど滯在して、今度はロンドンへ出掛けていったが、ゆき違たちと旅行をした紀州の月夜の海岸が、雪景色そっくりに、眞白に ひにマドモワゼル・レイが・ハリに歸って來て、ロンドンの私の宿へ輝いてゐた有様を、今も眼に浮べると物語った。彼女は、シモンの 手紙をよこして、シモンの寫眞をプルタイニュの家で見附けたか寫眞を、私に見せる約束を忘れてはゐなかった。 ひきだし 机の抽斗から、數枚の小型の寫眞を取り出して、 ら、今度パリに戻ったら、是非それを見に遊びに來るやうにと云っ て來た。 「この中に、シモンの寫眞がある筈ですよ」 と、それを私にさし出した。 ロンドンから戻って來た私の一番の目的は、その寫眞を、ジャン ヌ・レイの家へ見にゆくことだった。 プルタイニュで撮った父親や兄たちの寫眞が多かった。彼女たち 彼女の家は、ルウ博士通りの。ハストウ研究所の手前にあった。私の石造りの二階建てのプルタイニュの家は、シモンがかって送って はロンドンから戻って來た翌日、博物館へ立ち寄ったが、彼女が來た寫眞で、私も知ってゐた。シモンが、姉や弟たちと、ひと夏を 來てゐなかったので、その足で彼女の家へ訪ねていった。ベルを押このマドモワゼル・レイの田舍の家で過し、ふた家族の子供たち すと、彼女の兄の長男で、ベルギーにゐるその兄から預かってゐる が、この家のひとつひとつの窓から、體をのり出した寫眞だった。 中學生が、戸口に顔を見せた。彼女は家にもゐなかった。 もう記憶も、うすれてゐるが、シモンは鍔の廣い白い帽子を被 マドモワゼル・レイに招かれて、改めてその家を訪ねたのは、時 一番左手の二階の窓に、腰を掛けてゐた。まだ小さかったマド 時小雨の降る日曜のことだった。夜の食事にと云ふことだったが、 モワゼル・レイも、その中にゐた筈である : 先約があったので、晝にして貰った。 マドモワゼル・レイは、私の見てゆく寫眞を、脇から説明して、 彼女は甥の中學生を預かり、印度から最近。ハリに戻って來たばか それは自分の父だとか、兄だとか、それはこの間留守をした時に、 りの婦人に、ア。ハート が見附かるまで部屋一つを貸しーーーさうしたあなたに挨拶をした甥だなどと云った。 環境のなかで生活してゐた。 女の子が一人膝に寄り添ってゐる帽子を深く被った女の寫眞が出 二階の居間には、仕事机や、ガ一フス張りの飾り胡があって、その て來た。私はそれがシモンであるとすぐに分った。暫らく默って、 飾り棚に、日本から持って歸ったさまざまの小さな玩具が並んでゐぢいっとそれを見てゐた。 ひなた た。京人形や、フランス式の軍服を着た明治初期の日本の軍人や 光線の強い陽向で撮った寫眞のために、帽子の蔭になった顔半分 ら、他に、屋臺のすし屋やら、八百屋の店先やら、茶店などの細工が、暗くて、はっきり分らなかった。背景の鐵柵には、男の子がも 物ーー・日本を遠く離れてゐるここでは、なほのこと日本の生活の總 一人、柵に手をやって立ってゐる。柵の向うは、茂みのやうな様子 べてが、如何にも纎細な經で支へられてゐるやうに見える、さう だった。 したこまごまとした品々だった。部屋の隅には、扇面を貼りまぜた 「分りますか ? シモンですよ」 一一枚折りの屏風があり、天井の電燈は、柄を切り落した開いた雨傘 とマドモワゼル・レイが云った。 で、光線の直射を遮ぎるやうに工夫がしてあった。 きへ

3. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

196 の眼にそっくりだった。 してゐやしない。これぢゃあ逢ひ度くても、逢ひにゆけやしないで 私は無性に肚が立った。そんな風に、大の眼を見る自分に、肚がせう。だから僕は、今度こっちへ來てから、この二人に一二度は逢 立つのであらうか。 ったかな、そんなものです。」 その夜私は、ソルポンヌ大學近くの裏通りのホテルにゐる江藤眞 或る時江藤眞介は、私にさう話したが、逢ひ度くてもと云ふの 介を訪ねていった。幸ひ彼は部屋にゐた。 は、ただ言葉の調子として云っただけで、毛頭逢ひにゆくやうな氣 持のないことは、すぐに私にも分った。藤田氏や荻須氏のさうした 噂は、誰もが耳にしてゐることで、こと新しいことではない。私は 江藤眞介は私が。ハリに來て知合った幾人かの日本人のうちの一人住む宿を、。ハリ滯在毎に變へてゐたので、アヴニュ・オシュの日本 だった。 大使館へ、日本からの便りを受取りに、時々出掛けてゆかねばなら 東京を發っ時に、江藤宛の紹介从を私にくれた友人は、この人はなかった。その度に私は、江藤眞介宛の郵便物が何通も、もうよほ 少し變ってゐて、氣に人ったとなると、とことんまで世話をみてく ど前から束ねられたままになって、大使館に置いてあるのを眼に止 れると思ふが、氣に喰はないとなると、てんで相手にしてくれない めた。私は江藤のために、それを受け取って來たりした。 かも知れないが、その點は承知しておいて下さいよと云った。出發 江藤眞介は新聞瓧の特派員として、大戦中もパリに滯在してゐ 眞際の非常にごたごたしてゐる時のことだったので、私はその言葉た。ドイツ軍が、。ハリを占領してゐた當時のことである。だが私 に、大して注意を拂はなかった。。ハリに來て、江藤を知るやうになは、そのことについて、別に江藤に、何も質ねてみたわけではな ってから、その友人の言葉を思出したやうな具合だった。 い。漠然とそのことを知ってゐただけで、江藤も當時のことを特に 江藤眞介は美術評論家として、日本のジャアナリズムに名が通っ話さうとはしなかった。その夜の私の訪問も、今度のモンマルドル てゐる。しかし時々、日本の新聞や美術雜誌に、寄稿をするだけ近くのホテルを紹介して貰った禮を述べるのが目的で、他には何の で、。ハリ滯在の生活がなり立っ道理はない : 用件もなかった。在留の日本人たちと交際をしない江藤眞介の身の 江藤と私との交際は、事務的と云ってもよいほど、淡々としたも處し方も、私には分るので、寧ろ通り一ペんの挨拶の方が、却って のだった。紹介妝を書いてくれた友人が、注意をしてくれたやうな江藤の氣持を亂さぬだらうと思ってゐた。ところがその夜は、異例 事態は、私との場合には起きなかった。しかし江藤は、。ハリに滯在の結果になった。私も多少どうかしてゐたのだらうが、それより江 する殆んど總べての日本人とっき合ってゐなかった。殆んどと云ふ藤が、普段の江藤と異ってゐた。何時もは或る限度以上に、決して のは、それほど深く私が江藤を知らないから、さう云ふまでで、ひ足を踏み出すことのないこの孤獨な紳士が、その夜は最初から、針 よっとすると唯一人の友人も、日本人のうちにはないのかも知れぬ。 を含んだ言葉を吐いた。しかもその針は、話題の對象になる總べて 「 : : : 藤田嗣治氏はね、をかしな愛妻家になっちまって、奧さんが に毒づいてゐるやうに見えて、實は江藤眞介自身の胸を、ぐざぐざ 外へ出たがらないので、一緒に家の中に引籠って、テレビジョンばと突き刺す類のものであった。 かり見てゐるんですよ。荻須高德氏は、イギリスとスヰスに。ハトロ ドアをノックすると、 ンがゐてね、時々呼ばれてゆくらしいんで、ちっとも。ハリにぢっと 「アンドレ」

4. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

たづ 記帳と、紙幤。要するに贋きりすとの、全財産が這人づてゐた。 男は贋きりすとに、健康のことを質ねた。如何にも病人らしく見 6 島はその頃、もうズックのカ・ハンをさげて出歩いてはゐなかった えるが、何處か惡いのではないかと云ふのである。そのロぶりは、 し、だぶだぶな兵隊靴など履いてゐなかったが、贋きりすとには、 自分は榮養滿點で仕事をもりもりやってゐるが、仕事がまた馬鹿馬 ズックのカ・ハンと、だぶだぶな兵隊靴が似合ふやうに思はれた。 鹿しく順調で、金が餘って仕方がないんだと云はぬばかりであっ ・ : 贋きりすとは日に二度、外食券食堂で食事をする。朝はどう た。この。ハリサイびとは、戦爭中、石炭統制會瓧にゐて羽振りをき せ、十時頃まで寢てゐる習慣だから、間借りをしてゐる家でつくっ かせてゐたが、戰後もやはりその方の關係にゐて、外見はともか てくれる味噌汁だけで、すませてゐる。新聞は讀む氣がしないか 、懷具合は却って前よりい又ゃうだった。 ら、たまに手に取った時に、大見出しを見るぐらゐのものだった。 贋きりすとは、男と一緖にビールを飲んだ。何ごとにつけても、 或る日贋きりすとは、外食券食堂の壁に、肯像寫眞が貼ってある 自慢をしたくてならぬ人間にとっては、だぶだぶな兵隊靴を履き、 くび のに眼を止めた。ナチ・ドイツでは、ヒットラアの寫眞を飾り、ム國民服の肩からズックのカ・ハンをさげ、痩せた細い頸を前へ突き出 ッソリーニのイタリーでは、街角や煙草屋のショウ・ウヰンドウにすやうにして、ビールのコップを片手に持った贋きりすとの様子 まで、ムッソリーニの肯像寫眞が懸けてあったさうである。ソヴィ が、飮む相手に、如何にも恰好のものだった。。ハリサイびとは、ビ ェットでは、スターリンの大きな寫眞を。それから敗戰後の東京の ールを一杯、ぐうっとひと息で飲んで、顔をぎゅっと歪めると、既 街に、いち早くやたらに出來た中華料理店の壁には、申し合せたやに饒舌に自慢話を始めてゐた。某驛前に、頭のつるりと禿げた手相 うに、必ず、勳章を胸一ばいにつけた蒋介石の寫眞が、額に人れて見がゐる。自分は未だ嘗て、掌など人に見せたためしはないが、昨 掲げてあった。 夜は又馬鹿に醉ってゐたので、ふと手相を見て貰ふ氣持になった。 贋きりすとは、外食券食堂の壁に貼ってあるひどく粗末な肯像寫するとどうだ。日本は今後まだまだ大變なことになる。各國との講 眞を、初めは戰後の民主主義國日本の指導者の一人であらうかと考和は何時になるか分らない、それもさう簡單にはゆきさうにない。 へたが、それにしては、その寫眞の顔に、いささか註のつけ加へてそれぞれの國に、それぞれの利害があって、日本はその講和會議を しらがまし あか あるのが不思議であった。頭髮は白毛混りの五分刈り。左頬には赤きっかけに、大した苦勞をすることになる。あなたは理財の人で、 あさ 痣のやうなしみがあると書いてあった。 人の頭に立つ人だ。風雲の中にあって、ますますあなたの運は強 贋きりすとはそれから暫らくした或る日の夕方、・ハリサイびとの い。默ってゐても、他人があなたに幸蓮を運んで來る。今年から 一人である知人に逢った。その男は、絶えずせかせかしてゐて、時三年又は五年後に、日本は被告の立場に立って、講和會議にひき出 ぜうぜっ けもの 時眼を固くつむるやうにして、顔をぎゅっと歪めては、饒舌に喋り されると思はれるが、それからが、あなたの本當の運です。獸で云 まくる癖があった。男は贋きりすとに出逢ふと、 ふと、今のあなたは、失禮だがまだ山大だ。ところがあなたは、や 「やあ、暫らくだった。どうオ、ビ 1 ル。ビールを一緒に飲まう。 がて獅子になる運を持ってゐる。手相にちゃんと、それが出てゐ る : おごってあげるよ」 と云った。 贋きりすとには、さうした。ハリサイびとの自慢話が少しも興味を 二人は裏通りにある喫茶店とも飲み屋ともっかぬ店へいった。 起させないので、言葉を挾んで、例の外食券食堂の壁に貼ってあっ

5. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

家のなかには見られなかった。多くの抑壓にるのは、隱者的反逆者的、アウト・ロー的なれば「あなたは正しい。しかし、私も間違っ 耐えて、頭を下げて暮してきた、或いはその日本的作家の感覺ではなく、健全で上昇的なているのではない。 そういう自己と、それをまず否定してみる 抑壓を撥ねのけることで昻然として孤獨に耐市民的感覺なのである。 えて來た、作者たちの心情は、もっと複雜にこれは日本の近代の文學の歴史のなかで第二の自己との對立、という或る人々にとっ ねじまがって、猜疑心も深く、中には「人間は、實に稀なことである。彼女は純眞に、市ては ( 特に近代日本の作家たちの多くにとっ の眞の幸輻」の存在そのものさえ信じない、民瓧會の生んだ諸よの價値を信じている。たては ) 本質的に文學的である、心の働きが、 とえば、學問、たとえば藝術、たとえば正彼女の初期の作品のなかには微弱だった。 冷笑的な作家たちもいるのである。 それは彼女が殆んど、題材を自身の個人生 このような近代市民意識の作家が形成され義、たとえば人道、たとえば幸輻。 るについては、彼女自身の作家になるまでの彼女の小説を讀む時、日本の近代作家たち活の、それも極めて密接な利害關係を持つ、 經歴が、大きく作用していることと思われる。は、多くの不幸な反瓧會的非瓧會的な經驗の一族の家庭生活に求めていたこととも關係が 彼女は大部分の近代の作家がそうであったなかで、いかにそうした諸よの文化的價値にあるだろう。人は直接の利害關係のなかで ようには、靑年時代に文學に眼覺め、そのま對して純眞さを失っているかを、改めて思いは、ひとつの限定された立場を取ることを餘 ま作家生活に入って行ったのではなかった。知らされるのである。そして屡よそうした純儀なくされることは、當然であるから。 しかし、彼女は第に題材を擴げて行っ 彼女は富裕な家庭に育ち、畫家と結婚し眞さの喪失の原因には、一種の精訷の弱さが て、ヨーロッパ〈行き、。ハリーに住んで一流働いている、と云うことを反省させられるこた。それとともに、彼女の立場はより廣い一 般的な、そして柔軟性のあるものになって行 のピアニストについて勉強した。そうして歸とにもなる。 國後も、東京の上層の住宅地に住んで、子供但し、そうした人類文明を支えている諸よった。しかも、彼女の武器である獨特の純眞 を育てる、普通の家庭の主婦の生活をした。の價値に對する否定というものにも、それなさは、全く失われないで。 彼女が小説を書き出したのは、四十歳を過りの理由はあるので、近代日本文學の多くのそれは『女中ッ子』とか『赤坂の姉妹』と 門 部分を支配している、文明に對するシニカルか云うような、客觀的な物語のなかに、充分 ぎて、離婚してからだった。 子 げ 彼女は「作家」となる以前に、と云うこと ( 冷笑的 ) な態度にも、その奥には無數のきびに證明されている。 し は單に小説を書くことを職業とする前に、としい體驗的知惠が隱されているので、そうし 云うだけでなく、作家としての意識を持つ前た知惠から見ると、由起しげ子の初期の作品 明 岡 に、上級中流階級の主婦としての長い生活をは、過度の純眞さのあまり、現實を眺める眼 丸 が、一面的に過ぎ、育ちのいい豐かな家庭の 送ったと云うことになる。 そして恐らく、人は四十歳を過ぎてから、主婦の正義感に滿ちた意見に耳を傾けている それ以前の生活感覺を全て捨て切ると云うこ時、私たちが思わず心のなかに呟きたくなる ような、もどかしさがなくもなかった。その % とは減多にあるものではない。 彼女の初期の小説のなかに現に支配してい呟きというのは、フ一フンス人の云い方を借り

6. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

しゅうえん をあけて聲をかけるとゴトリゴトリと階段ににぶい物音がしていたいた。終焉が近いと思われた頃から祖父は三上の家に隔離され少女 が、ヒョイと蕗子の顔がのぞいた。 一人目黒の家に殘されていたが祖父が死んだことも知らされなかっ 「叔母さまでしよう」 た。或る日岡崎の伯母がやって來ておじいさんに會わせてあげるか ら身のまわりのものを持っておいでというので三上の家につれてゆ 疊に片手をついてひっそりと云った。とびついてくるような娘ら おこ しい生々とした蕗子を考えていたわけではなかったが、慍ったよう かれた。三上の家についてみると線香の匂いが漂い、祖父は北枕に な、蒼い、思ったより大人びた尖った感じの顔と軅を見るとさわ子ねかされていた。あまりのことに蕗子は薄暗い納戸のような部屋の は何か閊えたような感じになってしまった。それから蕗子は二階に中に小さい風呂敷包みに顔を伏せていつまでも泣いていた。何も知 案内する時も座につかせながらも、ちらっちらっとさわ子を眺めらず赤い服を着てきたことも哀しかった。すると懊があいて寫眞で た。新しく出現した叔母は彼女の期待にこたえ得るかという焦慮を見覺えのある父が立ってじっと蕗子を見おろしていた。彼はしばら く蕗子を觀察していた。ほんのすこし憐れむような顔をし、「おじ 含んだ測定と、彼女のそれまでに與えられた人物鑑定の全能力をこ めて部斷しようとするその一べつは、初對面の挨拶に先だってもは いさんがいなくなって寂しいだろう」と云うと懊をしめてどこかへ や何かの印象をさわ子に與えずにおかなかった。 行ってしまった。それから伯母たちは蕗子に、「お前と私逹とは血 「蕗ちゃん、叔母さんはじめてでしよう。でも叔母さんは蕗ちゃん縁はない。ただおじいさんのお情けで今日まで育てて來たのだ。今 はじめてじゃないのよ」 後は伯母とは呼ばないように。また友や先生とのおっきあいは許 されない。自分勝手に出て行ったり、まちがっても警察へなど出よ と云うと、意外にも蕗子はさわ子が中目黑に訪ねて行った時のこ とを知っていて、あれは女學校一年の頃で、あなたは水色の着物をうもんなら自分の恥をさらすことになるのだから氣をつけるがい 召していたでしよう。私はお母さんだと思っていました、と答えい」と云い渡し、財布の中身を調べ、家の錠前をとり上げてしまっ た。あとの二度は知らないと云い割烹の時間のことも全然記憶がな・た。葬式がすむと集鴨の岡崎の家へ連れてゆかれ、それからこの洋 いと云うのだった。お母さまはどんな方でしよう、と蕗子は少し心裁店へ監視つきで住み込まされたというのだった。 を浮き浮きさせるような調子で間いかけて來た。大變きれいなひと さわ子は風祭一族が、病身で不具の蕗子を幽閉同樣にこの家に預 なんですってね、と二枚の寫眞をとり出して、これお母さまとちがけ世間からも自分らの周邊からも隱しおおそうとしていることの次 いますか、とさわ子の前にさし出した。さわ子が裁ちもの板の上に第がよくのみこめて來た。その計畫の中には蕗子が病氣で斃れると いと おいて見ると一枚は增子のにちがいなかったが、もう一枚は日本髪いうことも敢えて厭わない冷酷な底意が感じとられ、さわ子は暗然 笑 に結った藝者らしい女が庭さきに立っている素人寫眞で全然似もっとした。それにまた、この家の女主人がそこまでのいきさつは知ら の 總かない寫眞だった。そのことを云うと蕗子は氣まり悪そうに、違うないにしろ一役買って蕗子をおびやかし、能力以上の勞働を強制し ばかば ひとの寫眞をお母さんのだと思って大切に持っていたなんて莫迦莫て利得を得ようとしている心根のあさましさや虫のよさは許してお 。それにしても晝すぎから二三時間もひき續 迦しいわと、それを傍へうっちゃって更めて增子の寫眞に見入っけることではない いて、頭の芯に記録されねばならなかったこれら數々の奇怪な身の 確た。それから蕗子は聞けば聞くほど不思議な身の上をことこまかに 3 もの語りはじめた。祖父が亡くなったときの話は最も奇怪を極めて上話はさわ子をひどく混亂させ疲勞させてしまった。恰もはりめぐ つか

7. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

だが、そこにゐる二人の子供はーーーと私は思った。 一緖だった。マドモワゼル・レイの甥は、ゐなかった。印度歸りの 「女の子は、今のシモンの夫の子です。男の子は、その友逵でせ婦人は、寒くて仕方がないと云って、毛皮の外套にくるまってゐ う。シモンはこの女の子を、可愛がって、世話をみてゐたんです。 た。マドモワゼル・レイは、食事の給仕をしながら、私との共通の この寫眞は : : : 」と笑って、「 : : : もう十五年も前のものです。こ友逹にシモンと云ふスヰス人の女性がゐることを、その印度歸りの の女の子が大きくなって、父親に、シモンとの結婚を勸めたので婦人に説明した。そして少女の頃のそのシモンの肩に重く垂れてゐ す。三年前に、シモンは四十を過ぎて、初めて結婚しました。」 た金色の髮の毛が、どんなに美しかったかを話して聞かせるのだっ 私は頷きながら、なほ寫眞を凝視めてゐた。そこにゐる女性は、 た。しかし私は、その話題へ這入ってゆかうとしなかった。 つば 顔が鍔の蔭になってゐて分らないが、私とは見ず知らずの女のやう シモンの寫眞を見る前よりも、今は彼女が、私からずっと遠く離 だった。そしてその膝に手をやってゐる女の子は、この女の魂の底れた存在としか思へなくなってゐたから。 までを知り盡して、それを操ったおそろしい存在のやうに見え始め こ 0 「シモンのあの肩に垂れてゐた綺麗な金色の髮の毛を覺えてゐるで 私は自分の心の裡に、どうにも拭ひ切れぬべたべたとした甘さ せう。」ジャンヌ・レイは、私の顏に眼を置いて云った。「あの髪が、へばりついてゐるのを知ってゐた。それは私の生涯の果てま を、シモンは短く切ってしまひましたよ。」 で、拭はれずに、ついてゐさうに思へた。私にとっては、それをは 寫眞の女が、かってのシモンに似てゐないのは、その短くした髮がし取ることが、生涯の努力になるだらう。その甘さのうちに、昔 の毛のせゐかも知れなかった。それにしても、何處かでシモンに巡 のシモンの面影がある : ・ り逢ふことがあるとしても、これでは到底私に、シモンだと分らう シモンの母親であるマダム・チ二アインに手紙を書いて、シモン 筈はない。 の住所を訊くことは、その私の心から、まづ最初のうす皮を剥ぐ手 「これは何處で撮った寫眞でせう ? 」 續のやうに思はれた。 私は思ってゐることと、全く別の質問をした。 一一十數年も音信を斷ってゐた老婦人に手紙を書いて、今は他家に 「ルクサンプルグです : : : 。」 嫁いでゐる娘の住所を質ねることは、あまりに得手勝手な振舞ひだ 晝食のテープルに着いてからも、私の知ってゐるルクサンプルグ らう。老婦人は、なぜ私が音信を斷つやうになったかを知ってゐる 公園が、絶えず私の眼に映った。若い男女の大學生たちが、晝休みかも知れない。 のひと時を過しに來てゐた。噴水を圍んだ廣場の椅子に、その大學 生 手紙を書くとしても、まづなんと書き出したものか、最初の言葉 に、私は迷った。 生たちがひと塊りになって、或る者は讀書をし、或る者はビールの 時瓶を持って、それを男女の仲間でラッパ飮みにしてゐた。留學に來 私の部屋は、ホテルの三階だった。窓は細い表通りに面してゐ てゐる學生たちが多いらしく、スペイン人らしいのや、北歐生れとた。通りのあまり遠くないところに、ダンス・ホールがあって、夜 思へる娘などが、その中にゐた。 の一時過ぎに、ほんのいっ時だが、自動車のエンジンを入れる騷音 1 晝食のテープルは、同宿者である印度から歸ったばかりの婦人とやら、男女の呼び合ふ聲などが、やかましかった。

8. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

ひをしたことがあったと、その時、ジャンス・レイはふと思出した 「シモンの住所を知ってゐますか。」 ゃうに云った。その綴りの間違ひは、他愛のないものだったが、そ 私は暫らくためらった後に云った。並木のある道を前にして、私 の場では、ロにするのも恥しいらしく、紙にその文字を書いて、後とジャンヌ・レイとが、殆んど肩を觸れ合ふやうにして椅子に掛け で宿で辭引を引くやうにと云った。 てゐるすぐ脇には、テープルに飮みかけのべリエを置いて、共産黨 ジャンス・レイが私に逢った瞬間から、私に示した親しさは、シ系の夕刊新聞に讀みふけってゐる初老の男がゐた。 モンに宛てた私の手紙を、殆んど見せて貰ってゐたからに違ひない 「ジ = ネープの郊外だった筈です。歸ってから調べてみたら分るで シモンもジャ と氣がついた。しかし私が書いた最後の手紙は、 せう。きっと探して置きます。」 ンヌ・レイに見せはしなかっただらう。 もし日本文字で書くの 私たちは椅子を立った。マドモワゼル・レイは、博物館のある だったら、例〈無分別な靑年期の私でも、到底書かなかったに違ひイエネ廣場にひき返し、そこから地下鐡で歸ると云った。私も廣場 ない求愛のものだったから : ・ から、バスに乘ることにして歩き出した。子供の頃のジャンヌ・レイ よこ 豫期したやうに、シモンはその手紙に返事を遣さなかった。無分を知ってゐるためだらうが、私には彼女が、少しも遠慮のいらない、 別なその手紙は、彼女を傷つける激しい言葉で綴られてゐた。それ極く親しい者のやうに思 ( てくるのだった。云ひそびれてゐたシモ たづ ぎり私はシモンに手紙を書かなかった。 ンの寫眞のことも、持ってゐるかどうか、別れ際に質ねてみた。古 地球の裏側に去っていったこの少女との手紙のやり取りに苛立っ い寫眞でいいなら、確かにある筈だから、それも探して置かうと云っ て、絶交从を投げ與へたも同様だった。私はもううろ覺えのその手 た。マドモワゼル・レイはその時、私をからかふやうに眼で笑った。 紙を思出しながら、もしシモンを私が訪ねたら、彼女は私を不愉快 ジャンヌ・レイに別れると、私はバスの停留所へひき返したが、 に思ふだらうかと、マドモワゼル・レイに質間した。私の最後の手心が異様に彈んでゐた。宿に歸ってみたところで、別にすることも 紙は知らなくても、なぜ手紙のゆき來が絶えたかは、承知してゐるないと思ひっくと、その氣持を鎭めるために、通りをシャン・ゼリゼ ゃうに思へたから : の方へ歩き出した。夏の。ハリは、何時までも暮れようとしなかった。 「きっと彼女はよろこぶでせう。」ジャンス・レイは、言葉を強め ジャンヌ・レイからは、その翌々日、手紙が來た。シモンの住所 て云った。「私もあなたが熱情を持ち續けてゐることを敬しますが見當らないことと、それから寫眞は、確かにある筈なのに、これ もまだ見つからないが、シモンたちの母親であるマダム・チュディ 人 る 私は、シモンの住所を知り度く思った。またもし彼女の寫眞を、 ンのヌウシャアテルの住まひだけは分ったからと、その番地を知ら 生 ジャンヌ・レイが持ってゐるのだったら、それを見せて貰ひ度いもせて來た。そしてマダム・チ = ディンに手紙を書けば、彼女はシモ に のだと思ふのだった。 代 ンの住所を知らせてくれるだらうと、書き添へてあった。 私の知ってゐるシモンは、少女期の姿のまま、少しも成長をして その後私は、約一ヶ月北歐にゐた。スカンジナビヤの三國を、知 ゐなかったから : ・ 合ひになったアメリカ人の運轉する自動車で廻って、夏を過し、コ 9 べンハーゲンを經て、ドイツのハンプルグまでその自動車旅行を績 1 け、ハンプルグから飛行機で、・ハリに戻って來た。マドモワゼル・ 4

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99 詩と小説のあひだ を回復させるがいい。 なら、あっさり筆を折るがよい。わたしが見たいと思ふのは、一册 それにはまづ、心境小説が現在あやまって占有してゐる城を詩に の本が、一つのアヴァンチュルの説話が、それ自身、その作者にと 明けわたして、本來の領域へ、ひろびろと自己を解きはなっことっても最も大切なアヴァンチュルであることを感じさせるやうな、 アクサン だ。この爽やかな轉換の動きがなくては、詩の蘇生はあり得ず、 そのやうな氣合である。眞の作品は、人間に關したものでも、個人 説の健やかな誕生もあり得ない。 に關したものでもない。それは、人間の個人的な表白なのだ、とい ふにある。 シャルドンヌは、『隣人愛』の第五章で、珍しく小説論をやって これで、正しい意味における小説と通俗小説的なるものの間に一 ゐる。時代の底を見えがくれに綿々たる流れを絶やさぬフランス心應の線が引かれたわけであるが、次には前者を心境小説的なるもの さを 理小説の傳統に、深く棹さしてゐるこの作家の言葉には、さすがに からはっきり區別するために、この「個人的」といふことのディア 人を傾聽させるしっとりとした落着きがある。一種の私小説論の極 。ハゾンが擴げ充たされることになる。そのため彼は、『戦爭と平和』 致とも言へるであらうが、それよりも寧ろ良識の行きわたった人間の作者を引合ひに出す。彼はこのロシャ作家を、小説家のなかで最 論の一つの存り方として面白いから、そのあらましを記して置くこ も偉大な人と呼んで、ーーー彼の作品をとほして、人は彼の生活や彼 とにする。 の思想上の出來事を、跡づけることができる。しかも彼は、ほかの そな シャルドンヌは小説を二つに分ける。一つは、「荒唐無稽な、拙誰にもまして、めいめいの個性と言葉とを具へた様々の人物を、創 劣な、繪そらごとばかり書いてある説話」で、この奇妙なジャンル りだす能力があった。自分の作品の中に沒入することが深ければ深 の作者は、大向ふの註文に應じて製作する。もう一つは、「ラファ いほど、そして、自分の財産を殘らずそこに賭ければ賭けるほど、 イエット夫人このかた、或る種の作家がこの夫人の先蹤に力を得て作者は自分と違った、めいめい勝手な生活を營んでゐる人々に、出 語って來た一種の物語」であって、それは「自分といふものに近々會ふものである。われわれは人生において、完全に己れ自らである と觸れてゐるもの、敢て小説とは銘うたれてゐなかったもの」なの ことは決してなく、他人との關係が後天的に添はってゐるものだ。 である。この二つをならべくらべて、彼はつぎのやうな斷案をくだ 作者よりも眞實な人間が、その作物の中に現はれるのだ。 : : : 眞に す。ーーー今日、世人の記憶にとどまってゐるのは、この種の物語だ己れ自身たることは、印ち他人を發見することにほかならない、と アマチュア けである。愛好家たちは知らず識らず、ジャンルといふものの眞の主張するのである。 おもふに私であるのは、ポヴァリ 1 夫人だけではない。 原理を發見したのだ。湮減せずに殘った數すくない小説のうちに、 われわれの愛するものは、一人の人間のすがたなのである、と。 某月某日 この「一人の人間のすがた」といふことを、一そう明かにするた め彼は、自分と非常によく似通った道を歩いてゐる文友マルセル・ 人は人との反映のなかに息づき、交流のなかに生きる。人間生活 アルランの言葉を援用する。それはすこぶる氣餽のするどいもの とは、隣人のうちに光と智慧を攝取し消化する營みにほかならな で、そのおほよその意味は、 作者がその作品を、自分の生活の い。そして小説とは、私小説とは、そのやうな音幅をもった本當の 一部を以て作ったのでないなら、自分の情熱を語ってゐるのでない人間に寄せられた「至高の愛」の表白、「至高の信賴」のすがたな

10. 日本現代文學全集・講談社版 91 神西淸 丸岡明 由起しげ子集

神西淸集目次 卷頭寫眞 恢復期・ 垂水 : 雪の宿り 白樺のある風景・ 月見座頭 : 國語の行手 : 詩と小説のあひだ : 散文の運命 堀辰雄への手紙・ 三島由紀夫 : チェーホフ試論 「品説・ 西淸入門 : 參考文獻 : : ・佐々木基一四一三 : 中村眞一郎四一九 : 四四五