31 林 蛭に、身體中の血を吸いとられて行くのを、みすみすそのままにし よしよし。まあ、次の話を聞け。 ておかねばならぬ時の氣持を想像して見るがいい」 「林檎で鮭を釣る。何んて面白い商賣じゃないか」 男は、回想的な顔をして、腕の皮膚をぐいっとつまみあげて見せ それから男は、そう言葉を績けると、林檎の皮をべっと海の上に たが、 はき出して、じろりと沖の方を睨んだのだ。視線を追うと、さっき 「ところがその時」 の黄色いスクーナーの上に、じっと瞳が止まっている。 と、すぐ言葉を續けて、右手の林檎をぐいっとっき出した。 おや ? 「此奴だ ! 」 「どうしたい、君 ? 」 と言うわけは、船底に壞血病が襲い始めたその時、船長が、 「解らんか ? 彼奴だよ」 甲板のどこからか、林檎の樽を持ち出して來たのだった。林檎と鮭「え ? 」 とをとり換えろと言うのだ。陸で買えば、せいぜい十錢位の林檎一 「彼奴がさ」男は手をあげてスクーナーを指した。「彼奴がまた、 っと、人間の背の高さもある、投げ賣りにしても二圓五十錢にはな 沿海州行きの鮭取り人夫を募集してやがるのさ」 る鮭とをとり換えろと言うのだ ! 「ほう」僕は思わず眼を見はった。「それで ? 」 「口惜しかったろ。 せめて林檎一つに鮭一匹なら、まあ我慢も 「もう一度乘りこんで林檎を食わせて貰おうと思っているんだ」 出來ようものを、一つに三匹だ ! しかもその鮭の一つ一つは、一 「そうしてまた、すっからかんになろうと言うのかね」 カ月にあまる難行苦行の賜物ではなかったか。口惜しい。だが食わ 「違う。五年前の俺じゃあるまいし。赤兒でも三年たてば三つにな なきや壞血病だ。命がない。みすみす船主のからくりだと知りなが る。俺だって近頃は少しは眼も見えるようになったさ。何しろ對手 ら、身を切られるような思いで、船底の人夫三十八人、皆鮭をやつは船長と運轉手と監督、合せたところで高が五六人。こっちは、尠 ぬか て林檎を貰った。でも、林檎を、皮から心まで、かす一つ殘さず食 くとも三十人の荒くれ男。野菜がなくなったと吐しあがったら、三 う時は、命の泉のようなうまさだった」 十人が力を合せて、林檎をふんだくってしまう。そうすりや、働い 男は手の掌の林檎をもう一度ころころさせる。 ただけの鮭はそっくりこっちのものだし壞血病の心配もない。こん もくあみ 「そうしたわけで、小樽へ歸りついた時はもとの杢阿彌のすっから な簡單な算術を知らなかった昔の俺が不思議な位さ。どうだ ! 」 かんさ。だが、林檎のおかげで、生命だけは助かった、と言う話さ 「うまい ! 」僕は思わず手をたたいた。「その手だ ! 」 ね」 「ふん」ところが男は、ちょっと不機嫌そうな顏をすると、僕の顔 こう言いきると、彼はその林檎を、兩手の指でパンと上手に二つをろりと見た。「おい、隱すねえ。隱さなけりゃならぬような奴 に割って、がくりと噛りついたのだった。 だったら、こんな話はしない筈だぜ」 どうだい、面白かったかい ? 今度は僕が君に問おう。 「手前逹も、その手をやっているのではねえか ! 」 え ? つまらない ? よくある手だ。船主、工場主、商人、株 と、彼は突然右手をのばし、僕の外套の襟をぐいとめくって、上 屋、銀行家ーーその他資本家一般の常套手段だと言うのかい ? 衣の胸の日本勞働組合評議會の會員章を、とんと突いた。同時に左
まった時には、靑木という男が非常に人をくったえらい男だと思っ とさ、やいて、亠円木は淸の傍を通りこし、五六歩向うの方へ行っ 8 幻て怖れを抱いたくらいである。その時の同じ人間だと思えぬようてしやがむと、鑢の音を立て始めた。 に、かれは明らかに淸に向って氣持の上で助けを求めていた。淸は 靑木の性格の反面にこのような弱さのあるのに心をおどろかせなが ら、いくらか相手をなぐさめるつもりで、自分の境遇を簡單に話し 「點檢終りましたア」 てみた。 と淸はどなった。車庫の中である。黄色くぬった一輛の全鋼車 「そんなわけでね、わしの村の者は今みんな團結して、その山岡とに十五六人の靑服の靑年たちがのり組んでいる。運轉手室のドアは いう地主と爭議しとんで。もし、そのために、田地をとり上げられあけ放たれ、幾人もの運轉手見習がそこにたかっていた。後部の車 うちもん たら、わしの家の者は、わしがみな養うてやらんならん。そうなっ 掌室のあたりにも五六人ーーーそこには車掌見習が集っている。 たら、どないもこないも、ならんので : : : 」 そこにつっ立って何か説明していた勝部は蓮轉手室の方から淸の ひどく田舍辯になって、淸はおとなしく笑った。靑木は淸の話を合圖をきくと、窓から首を出して、 きいて、前よりも一層不機嫌な表情になった。 「い長かあ ? 」 「本傭になって、本當に働くようになったら、給料を上げてもらう とどなった。車庫には二三人の車庫係がさっきからわきへのい ように勝部さんなどにみんなでたのんだらええな」 て、車の動き出すのを待っている。その中の一人が勝部の方へうな と淸は相手の急に不機嫌になったのが、何か自分のせいのようなずいた。 氣がして、それを申譯するような調子でいった。 「うん : : : 」 と勝部は首をひっこめて車掌たちのいる方へどなった。最初の試 といった靑木の橫顔は痩せて、つき出た頬骨のあたりが遠くから 運轉に選ばれた車掌の宮本は、周圍にいる仲間たちに、はにかんで 流れてくる暗い光りにぎらイ、と脂を浮べていた。 みせ、宮本の顏を眺めている監督の菊川に「い又ですか」ときい ドアエンジンスイッチ 「それよりも、君なんかよく默って働くねえ。このレールみがきに て、菊川が別に何とも答えない間に、戸閉裝置の押釦を平手で叩い や、會瓧は別に一圓ずつの手當を出してもい乂んだよ。こんな : : : 」 た。その瞬間に廻轉瓣が動いて七キロ平方ミリの壓縮空氣が右側シ 靑木は手にしていた鑢でがんど、とサードレールの端を叩いた。 リンダーに進入するとシューという音とともに、今まで開いていた かれは毎日のこのモグ一フの仕事に飽きて、不平を胸いつばいにため 前部と中央のドアーがしまった。今叩いた押釦に並んでいるもう一 ているのだ。 つの押釦を叩くと宮本自身の立っている後部のドアが同じような音 「おうい : : : 早くせえよ」 を立て、しまる。すると前部の蓮轉手室内の運轉手のハナの先きに ・ハイロットラン・フ と、向うの方でうごめいている連中が、こちらの二人の休憩んである小さな通報燈が靑になる。通報燈が靑にならなければ、モー いるのをみてどなった。 ターの電氣が通じないのである。 それをしおに二人は會話をやめ、別々になって仕事を始めた。 模範的な蓮轉手というわけで、最初の試運轉に選ばれた淸は機械 「い乂かげんにやっとこうぜ」 の主要部分の點檢をすましてそれを後部にいる勝部の方へどなって ホールスチールカー
け付けておいた〇〇工場を私は引受け、やっと分會が出來る様に成められて來た。私は再び電車通に出た。其の時トラックが走って來 り、初めての集會の歸りだった。私は吉村の連絡を付けた佐藤よりた。私は死にもの狂でトラックに飛付いた。トフックはそんな事を は、淸水の方が年は若いが見込があるらしい、今後はあれを、みつ知らずに走って行った。中島は私を追かけ様とはせずどう仕様かと ちり訓練してやろう等と考え乍ら、プフプフと柳島の電車通りを歩まごまごしているらしかったが、前の交番の方へ引返して走り出し いていた。押上の停留場近く來た時、どうも、私の直ぐ後をおかした。ト一フックの行手には交番があった。中島はもう電話を掛けたか な奴が來る様な氣がしたので、振返って見た。すると中島の奴、今も知れぬ。私はどうしたら良いかと思っている内にとっさに考付い にも手を出し相なかっこうをしていた。私はドキンとしたが、直ぐてわっとド鳴った。運轉手は驚いて急停車をした。共の時私は手を 逃げ出した。中島の奴は泥棒泥棒とどなり乍ら追掛けて來た。私は離して何喰わぬ顏をして歩み初めた。運轉手は私の顏を見て何だお こんな所で捕まってなるものかと、小路から小路を一生懸命に逃げ どかしやがって、と云う顏をして又走って行った。私はス。ハイの手 あいくち たが彌次馬の爲めに逃げ道がふさがれた。私は匕首を出して逃げ道からはのがれたが、泥だらけの身體では目に付くし又、もう手がま を切り開こうとあせったが、使った事の無い匕首は却って自分の手わっているかも知れないと思ったので圓タクを呼止めた。運轉手の にきずを負って捕まって終った。私は彌次馬の爲めに雨後の泥道に奴一寸ためらっていたが、私はかはわず乘り込んで、深川方面へ走 倒されてさんざん蹴ったり、踏まれたり、 叩かれたりして、身體中らせた。圓タクから降りてもどうしたら良いかわからなかった。其 泥まみれにされた。それから捕繩をかけられて交番に引張り込まれの時プタ箱で、コソ泥が空家に寢たと云う話を思出した。私はよし た。交番では裸にされ猿股迄取って調べられた。私の持っていた書今夜は空家で寢る事に仕様と思って空家を探した。空家で寢るとし 類は中島の奴一通り調べてから、又元の泥風呂敷に包んだ。私は捕ても身體が泥まみれでは、明日困ると思って身體を洗う事が先決問 まったのが殘念で殘念でじりじりした。私はどうしても何とかして題だった。それで水道の在る空家を見付る事にした。空家は澤山あ ったが戸じまりのしてあるのが多かった。時々は中に這入れたが水 逃げてやろうと思い捕繩を取ってくれと云った。然し直ぐは取って くれなかった。私は捕まって終えば卑怯な事はしないから、と、云道はなかった。又在っても水はなかった。此れには私も閉ロした。 うと、此奴油斷出來ないからなあ、と云いながら捕繩を取った。私家々はもうすっかり戸を閉めて街は暗かった。私はうすら寒さを感 はしめたと思った。中島は外に出て圓タクを呼び止めた。私は、よ じながら時計を見ると、一時眞近だった。私はまごまごしていて巡 し乘る時に逃げてやろうと、思ったが、巡査の奴二人も付いて居る査に見付かっては、いけないと思って服の洗たくは明日何とかする として、今度見付かった空家で寢る事に決めた。次の空家は運良く ので駄目だった。圓タクには巡査も乘った。私は此れは手早くやら ねば駄目だと思って、奴等がまだ落付かない内に、走り出すのを待も水道の水が出た。借手が付いたのか新らしい疊や、建具も二三付 て し って、身體とも圓タクのドアにどっとぶつつけた。ドアは美事に開いていた。私は水を出しばなしにして先ず頭を洗いそれから服やず に き私は外に投げ出されてコロコロと四五回轉がった。尻のあたりをぼんを洗った。シャツもどうやら泥が相當付いているらしいが寒い 打ったと見えて、直ぐには起てなかった。圓タクは五六間先で止まので上着だけにしておいた。階下で寢て人目に付いてはいけないと 思った。私は音の仕無い様に一一階へ行って見た。二階も疊が這人っ 礙った。私はやっと起き上がりビッコを引き引き小路に逃げ込んだ。 巡査と中島は呼子を隝らしながら追かけて來た。私はだんだん追っ ていた。疊屋はまだ仕事に來ると見えて、疊臺や表の付かない床が
5 7 春枝は枕の下に敷いていた二三枚の自分の寫眞を取出して飽かず れよりかこの儘でい乂から死んでしまいたい。死んだ方がましだ。 ねえ母ちゃん、死んでしまいたいわ。私を家〈連れて行って頂戴。」眺め入った。つつましやかに膝の上で組んだ兩の手や、手提げをさ 春枝は駄々子のように叫んだかと思うと顔を蒲團の中に埋めて泣げたなごやかな丸味のある左手を、彼女は一枚一枚何か新らしい不 思議なものでも發見した時のようにじっと見詰めた。 き出した。泣きながら「早く死んでしまいたい」を繰返すのだっ 「私だって早く歸りたいわ。こんな病院なんか全く癪だわ。いくら た。するとお島は途方にくれて、向うへ向き直りながら窓からぼん やりと往來を眺めた。丁度ロ爭いをした後の親子のように、二人は私が健康保險に這入ってる女工だからって、あんまり不親切過ぎる じゃないの。あの院長の物言う時の態度を母ちゃんはどう思って ? お互に背中合せとなって長い間泣き續けた。 お役目で仕方なしにやっているような風だわ。」 「母ちゃん。」 「仕方がないよ。一文もこっちから出ている譯じゃないんだから 暫らくしてから春枝が聲をかけた。母親の窶れた顔がこちらを向 くと、春枝は急に我にかえって、慌てて涙の眼を押隱した。そして 「だってかねて私逹は健康保險の掛金を毎月とられていたじゃない 打って變った睛々しい顏付で話しかけた。 おかみ の。政府だってお金を出してるって言う話だわ。立派に藥代を拂っ 「ねえ母ちゃん。私今朝それは面白い夢を見たのよ。どんな夢と思 ている病人と同じじゃないか。それにこんな狹苦しい物置なんぞへ って ? 」 押込んでしまって : : : 。早く私歸りたいわ。」 「さあ、どんな夢だろうかね。」 「甚吉もそんなことを言ってたが、長いものには捲かれろ , ーーで仕 お島はもう安心してにこノ、しながら春枝の枕元へにじり寄っ 方がないよ。早くよくなってさえくれ乂ばね。」 「手の指が生えて來た夢なの。知らない間に手のひらが出來て一本「 : : : でも私がよくなって家〈歸ったらそれから先きをどう暮して 一本指が立派に出來てるのよ。物を損むことも出來るし、拳を握る行くだろう。私は不具者だわ。」 「そんなことをお前、今考えなくたってい乂よ。兄さんも居るんだ ことも出來るし、まあ嬉しい癒ったんだわ、自分が手を怪我してい から。」 たことなんか嘘だったのかも知れないわ。まあ嬉しいと思っている 「遊んで食って行ける身分じゃなし、自然考えるようになるわ。一 と、どうでしよう。夢じゃないの。私がっかりしちゃったわ。」 本腕だって何だっていゝから、私は自分に出來るだけのことをし 「まあ : でも見そうな夢だね。」 「なくなった手がまた木の芽のように出て來るなんてことはない筈て、一心に働いて行くわ。いっか、ほら、兄さんが話したことがあ るでしよう。お友逹と淺草で酒を飲んで、ひどく醉って夜遲く歸っ なのに、いつの間にか指が生えて來る夢ばかりなの。」 「何と言っても仕方がないんだからね。一日も早くこの病院から出た晩、觀音様の裏邊りで一人のお婆さんに面白いところがあると言 の って引っ張られて行った、あの魔窟の話よ、床にもぐっている女の つられるようにならなければ : : : 。」 「でもこの寫眞を見ると不思議なものね。どの寫眞もなくなった左蒲團をめくったら、兩腕ともない素裸の女が笑顔で客を迎えたとい う話 : : : 。たしか紡績にいる時手をとられたと言ってたわね。そん の手がはっきり寫っているじゃないの。何の考えもなく無雜作にと な姿になっては全くそうするより仕方がないわ。私だっていざとな ったつもりだけれど。」 た。 やっ
第にとらえてにらみすえながら、 いた印刷物らしいものを手にとり上げて 6 「そして諸君はあしたから正式に全部蓮輪課長たるわたくしの部下 「宣誓書に署名拇印をしてもらいたい。別に血書をするには及ば となってもらう。勿論瓧長、専務に對する忠順を誓ってもらわなけん」 ればならん、それはしかし、直接、蓮輸課長に對する宣誓によって 最後の言葉をこ又でできるだけ巧みに效果的にのべようとして、 表明してもらう。い、ですか : : : わたくしは、こ又で改めてわが社 かれは一段と聲をあげて叫ぶようにいうと、壇から下りた。 の人となった五十人の諸君に要求します。諸君はわたくしの完全な 間髮を容れずーーーといったような身のこなしで、すぐに勝部が自 る手足である。一心同體となって會瓧のために働く。もし少しでも席に突立って詰るような聲で、 このことに不服のある人は、今すぐこ乂から出て行ってもらいた 「安藤新次 ! 」 とよんだ。よばれた安藤はびくッとなったらしく、みなの中から い。出て行きたい人はありませんか ? 遠慮なく。どうぞ ! 」 川岸は兩股をひろげ、机の上に兩手をついて、胸をのり出すよう とび上るように立って「はツ」と十分にさっきからの威嚇のきいた にして、まるで負けるものか、と虚勢をはっていどみか又るよう 間のぬけた聲で返辭した。 「前へ出ろ」 に、みなを見渡した。かれの頬はむしろ蒼ざめてみえたがその眼 は、酒にでも醉った様に紅潮していた。 と勝部は高い聲で叱りつけた。がたびしと、壇の前の設けられた 卒業生たちはこの不思議な攻撃をうけて、しいんとなって咳一つ 小さな机の前まですすみ出た安藤はいっか驛員組と毆りあった元氣 するものもなかった。淸はきちんとボタンをかけた靑服の中でぶるはどこにもなくおどノ、として、机の上の宣誓書に向って、そこに 備えつけの毛筆をとり上げた。 ぶると體がふるえるのを覺えた。前の人の背にかくれて、そっとぬ すみみると、體をうしろにそらしてこの場の樣子にちっと氣をと 「左の親指で拇印をおすんだ」 られていないことをわざとらしく證明するつもりのように天川がそ と勝部が普段の聲になって注意した。 つぼをむいて腕ぐみしているのがみえた。 名前を書いて拇印をすませた紙片れを安藤は自然とうや / 、し 式場正面にか乂っている丸い大時計の秒音が妙にハッキリきこえく、 奴れいのような態度で正面の壇へ持って行った。そこにはだれ てきた。 もいなかった。勝部はそれとみて自席にかえっている川岸に「何を 「たれも不服はないようだ ! 」 ポヤノ \ しているんだ」といわんばかりの眼配せをした。川岸はあ と川岸は突いていた兩手をはなして、俄かにゆとりのある態度にわて、自席を離れ壇上に上って立った。安藤はやっと安心したよう なった。そして、すでに待ちかまえていたといわんばかりの、うつ に紙片れを兩手にさ、げて、課長に渡した。川岸の方でも勿體ぶつ て變った高飛車な語調になって、 て、さも聖なものの如く兩手をさし出してそれを受け取った。 「では、全部みんなを、わたくしの忠實な部下として、絶對的に信 そのま又緊張してかれは壇上に立っていた。 認することにする。いゝかね、そこで諸君の方でも一人一人こゝへ みんな順々に名をよばれて前へ出て行った。「宣誓式」はすぐに 出て、この : : : 」 みなに異様な硬直したような氣持をよびおこした。淸は唇をかみな と川岸は壇へ上る最初に、フクサの中からとり出して机の上にお がら、おどイ、と胸をはずませて自分の順番のくるのを待ってい
4 7 すりこぎ 女の手は、摺古木のように段々短かくなって行った。そして今日ま 「うとど、するだけでちっとも眠れないの。」 た三度目の手術をすべく醫師の宣告を受けたのである。 春枝は乾いた唇を動かして力なく言った。風呂敷包みで背負える だけ持って來た毛布や蒲團や必要な道具類を、お島はその枕元で解「私もう死んじゃった方がい又わ。じり / 、に切り刻んで行って一 いていた。彼女は娘のこの聲を聞くといくらか明るい氣持になっ體どこまで切取って行こうってんだろう。こんな腕なんかちっとも た。割合にしつかりしていると思うと安心した。まめ / 、しく馴れ欲しくはないから、一層のこと腕のつけ根からもぎ取って貰った方 た手つきで働いてくれる看護婦に手傅って、疊を拭いたり窓の硝子がよかったんだわ。」 「お前、そんな自棄を言うもんじゃないよ。少しでも殘して置こ 戸を磨いたりして部屋を掃除した。 十時頃昨日の若い醫師が一人の看護婦を連れて繃帶を取替えにやう、助けたいと思えばこそ先生だって苦心していらっしやるんじゃ って來た。春枝は顏を外向けた儘痛がって子供のようにヒー / 、泣ないか。それがまた人情というものだからね。」 「一寸か二寸、腕が長く殘ったからと言って何になるの ? 何かに き續けた。そして一人の看護婦は患者の手をしつかり押えていた。 お島はおず / 、繃帶の解けて行くのを見ていた。春枝の痛がる聲役立っことがあって ? え ? こんな丸太のような腕はもう私には は彼女の心臓を突き刺した。そして血に滲み通ったガーゼが取除けいらないのよ。だから先生にもそう言って頂戴 ! 」 春枝はかん高い聲でヒステリックに叫んだ。母親の優しい慰めの られると、お島は中から覗き出た指のない化物のような脹れ上った 言葉も無駄だった。入院以來どうかすると、ヒステリー様の發作が 手を見てびつくりした。 「まあ : : : 。」 彼女に起ることを感じて内々心配していたお島は、またかと思って 口を噤んだ。 彼女はそれつきり見る勇氣が出なかった。これは大變だと思っ た。傷はそう大して心配する程でもないとのことであったのに、眼「え ? 母ちゃん、そう言って頂戴よ。何度も何度も切り直して、 きっとあの人逹は丸太ん棒と間違っているんだわ。この上私を苦し のあたりに見た手には全く慄え上ってしまった。 めないように、一層のことつけ根から挽切って貰うようにそう言っ 「その場限りのいい加減なことを言って欺しやがった。」 お島は心の中で呟いた。そしてこんな不具にしてしまった主人をて頂戴 ! 」 「ああ、言って上げるとも。いくらなんでもあんまり度々だから どうしてくれようかと思った。驚きと悲しみとのために顏中が熱く ほてって、彼女は娘の消え入るような呻きを聞きながら、窓から外ね。でも今度だけはおとなしく我慢してね : : : 。」 お島はむずかる子供をあやすように言った。逆上して來そうな春 を見下していた。荷馬車やトラックが忙しそうに往ったり來たりし しす 枝の氣持を極力鎭めさせるため、彼女ははら / 、しながら言うべき た。その度毎に木造の病室ががた / 、震えた。 言葉に迷うのだった。春枝が度々の手術を嫌う氣持には十分同情出 「とう / \ 不具者になってしまった。」 來るが、醫師だけを唯一の賴りにして任せ切っている彼女にとって 四 は、唯醫師の命ずるところに從うより外なかった。 「いつだっておとなしく我慢しているじゃないの ? 私はもう手術 約二週間ばかりの間に春枝は二度までもコロロホルムを嗅がせら れて疾患部の手術を受けた。その度毎に少しずっ切斷されて行く彼なんかいやだわ。あんな氣味の惡い魔睡藥を嗅ぐのはいやだわ。そ ひっき
とうきびかゆ かわらけ よう と、思ったが、扨てどうもすることが出來ない。言葉の解女がマントウやら葱やら唐黍の粥のようなものを土器のような容れ しき しょげき らない支那人を眺めて、つくづく悄氣切ったものだ。腹の空いた眞ものに盛って、五分板の上に膳立てをしていた。そして頻りに俺を 似をして、膝をたいてみせたりすぼめてみせたりすると、支那人睨みつけた。 つらっき は手を叩いて笑った。 苦カ頭は、鼻もヒッカケない面付で俺を冷たく無視した。苦カ達 ひとかけ 氣がつくと、空地の向うに五六人の苦力がエンコして何か喰ってがさんざ朝飯を食い始めたが、誰も俺にマントウの一片らも突き出 いた。俺は立ちあがって、そこに行った。辮髮をトグロのように卷そうとしなかった。俺は喰えというまで手を出すまいと覺悟した。 た不潔な野郎が、大きなマントウを頬張っているのだ。つい俺もそ 皆がシャベルやツルをもって稼ぎに出だしたので、俺も一本擔い で後に續いた。誰も何んとも言わなかった。 の旨そうに喰っている様子に唾が出て、默って黄色ぽいマントウに 汚たない布片をもたげて手を出した。すると前にいた苦力が、獰猛 仕事は道路のネボリであった。俺はシャッ一枚になってスコを振 にえ な獸の吼るような叫び聲を出して俺の手を拂い退けた。 った。腹が減って眼が眩みそうであったが、一日の我慢だと思って そうやられると、俺も無理に手を出しかねた。默って佇んだ。苦ャケに精を出した。苦カ逹は俺の仕事に驚いた。まさか日本人に土 カ逹は俺の顔を睨めつけて、何かべチャクチャと聶き合った。 方という稼業はあるまいと思ったに違いない。支那に來ている日本 やがて彼等は食器を片附けて、小屋のような房子に引きあげた。 人は皆偉そうぶって、苦力を足で蹴飛ばしている譯だから。苦カ頭 俺もその後について行った。彼等と一絡に働こうと思ったのだ。俺が晝ごろ見廻りに來たが、その時も俺に見向きもしなかった。アバ が入ると、暗い土間のところでアバタ面の一際獰猛な苦カ頭が、 タ面を虎のようにひんむいて、苦カどもを罵っていた。 ーー何んだ ! 何者だーーーというように眼をむいて叫んだ。俺はび 晝飯の時、苦力のひとりが俺にマントウと茶椀に一杯の鹽辛い漬 つくりして、一足二足あとへすさったが、また考え直してにやにや物を食えと云って突き出した。いくら腹が減っていても、・ハラバ一フ 笑いかけて圖太く土間に進んだ。俺はスコップで穴を掘る眞似をし した味氣のないマントウは食えなかった。鹽辛い漬物を腹一杯に食 て、働かして貰い度いものだという意味を通じた。が、苦カ頭は俺って、水ばかり呑んだ。 の肩を損かんで、外を指さした。出て行けというのだ。しかし俺は 仕事を終った時は石に疲れた。轉げそうな體をようやく小屋に 出て行くところはない。かぶりを振ってそこの隅にヘタバリ付い運んだ。 た。 苦カたちは、用意の出來ていた食物を、前の空地に運んで貪りつ 苦カ頭は仕方がないとでも云うような顏で、自分の腰掛に腰を据いた。一日十五六時間も働いて、日の長いのに三度の飯は腹が減る えて薄暗いラ ) 一プの灯で、プリキの杯で酒を嘗めはじめた。他の苦 のは無理もなかった。俺は腹が減り切っていたが、マントウには手 カ逹が、俺を不思議そうに寢床の中から凝視めた。 が出なかった、熱い湯を呑んで、大根の生まを噛じった。そして房 あくる朝、鷄に棚の上から糞をヒッかけられて眼を覺ました。苦子に入った。土間の人口の古い机に倚って、酒を呑んでいた苦カ頭 カ頭が、棒切れで豚のように寢込んでいる苦カどもを突き起して廻が俺をみて、はじめてにつこりとアバタ面を崩して笑った。そして あくび った。あちらこちらで大きな欠伸がして、どやどやと皆起き出た。 プリキの盃を俺に突きつけた。俺は盃をとるかわりに腕を掴んで、 大將 ! 俺を働かしてくれるか有難いーーーと叫んだ。苦カ頭 苦カ頭の女房らしいビンツケで髮を固めているような、不格好な ねぎ むさに
2 すると、向うの懷中電燈は闇の中に三尺位の明るい空間を作りなた。整を斷っと、今度は逆に、そこにお互いのいることがよけいに 2 がらそろ / \ とこちらへ戻ってきた。間近になるとその乏しい光りはっきりと感じられた。 でこちらの人間の顔がてらし出された。 「地下六十尺っちゅうと、物妻く暗いね」 いっかあとから人瓧してきた驛員逹と毆りあいをしたことのある と山路がいった。 禪野だった。かれは運轉手にも車掌にも失格して喧嘩をした驛員た 「レールを傅うて行こう。サードレ 1 ルに氣をつけろ」 ちの仲間人りをして別に不平もなさそうに働いていた。大きな平っ 「うん」 たい訷野の顏が、山路の電燈にてらし出された。 お互いに聲が邪魔になるように低くさゝゃいた。二人はそろ / \ 「なア、おい、いゝかげんにしようや。こんな = : = お前、夜警を人と前たか後だかわからないま又に、とにかく足を蓮んで行った。 にいいつけておいて、隧道の中の灯を消してしまうという手がある 「何も夜警なんかさせんかって、こうして電氣さえ消しとけば、こ もんか・ : うう寒む」 んな隧道の中へ、だれがはいるもんか : : : 」 「膝がよごれてるね、どうしたの ? 」 と神野の聲がした。二人は手を組み合せていてはお互いに歩けな と辰一は野のズボンの膝を電燈でてらした。膝を照らすとお互いので、前後になってレールを足でさぐって歩いていた。お互いの いの顔がみえなくなる。 距離をはかるために聲をかけあう必要のあることがおのずからわか 「轉けたんじゃ。油と防腐間のどろノ \ の中で足をすべらしたんってきた。 しまっ 「會社が電氣を消すのは電氣代の節約からだろう。一キロ二錢五厘 「何か拭くものないのか ? 」 ぐらいで買ってる電氣が、そんなに惜しいのかしらん」 「それより、早く外へ出よう。寒くてかなわん」 「どえらい根性じやけんー と訷野は心細げな聲でいった。 と野は丸出しの田舍辯だった。 「あとへ引返すより、もうすぐ淺草じやけん : : : 」 「わしらに夜警さすのは線路とか、電線を盜まれやせんかっちゅう 一一人はお互いの腕につかまり合って枕木の上を前へ前へと手さぐ 心配からだけど、だれが盜みにくるもんか」 りに歩いて行った。すると辰一のつけたりけしたりしていた豆電燈「わしらを夜ねさせないで使っても、金はかゝらんけんな」 がどうしたのかともらなくなった。二人は腕をつかみ合いながらど 「こっちも、その氣で我身をかばわなけりややり切れんさ」 こにいるのかわからなくなってしまった。 といった紳野の聲ががん / \ と壁にひゞいた。 「わあ : : : 」 その時、前方でピカピカと二條の光りが迸った。非常に強烈な光 といったような感動した時に發する聲を神野が發した。 りにみえた。 「つかんのか ? 」 こちらの話し聲がさっきから聞えていたとみえて、 「つかん、もう電池が切れたらしいけん」 「だれだッ ! 」 二人は、そのま、絶望の囚になったことを意識し合うように、ロ という怒鳴りがした。 をきくのをはたとやめた。何の物音もなく、又何も見えぬ世界だっ 「こらッ ! 」 とりこ
8 どん 午砲が鳴り、晝飯を仕舞うとお島はまた出かけた。手術は午後一 た。室の三方を摺り硝子で張りつめられた手術室はこの病院の他の 時から始まることになっているのだ。 建物とは全く獨立したもので、まともに太陽の光を受けた同じ硝子 と、の 病院ではもうすっかり仕度が調っていた。お島が春枝の箱を訪れ張りの屋根からは、遮られた日光が程よく射し込んで春枝を素睛ら ると、間もなく一人の看護婦が時間の來たことを知らせに來た。すしく明るい愉快な氣持にした。それは彼女が病室として換氣や通風 ると春枝は直ぐ寢床の上に起上った。 孔の、本來あるべき衞生的設備さえない狹苦しい箱の中で、終日を 「ねえ母ちゃん、私明後日退院するんだってねえ ? 」 過しているからに違いない。けれどもお島にはこれと全く違った感 春枝は母親の顔を見るとだしぬけにこう言った。手術後の經過に情を起させた。先ず部屋の中央に据えられた防水布張りの黒い手術 影響するようだったらーー・・・・とそのことばかりを氣にして退院のこと臺が何よりも彼女には恐ろしいものに思われた。あの上に横ったが を春枝の耳には人れない決心でいたお島は、こう訊かれると一寸び最後、殺すも生かすも一切の鍵が醫師の手に握られているのだ。お つくりした。 島にはこの冷い無氣味な存在に對して毎度恐怖なしにこれを見るこ 「 : : : お前誰から聞いたの ? 」 とは出來なかった。それが今も扉を排して最初にその黑い骨組や、 「兄さんが來たのよ。何もかも聞いたわ。」 それを取卷く金屬製の外科用器具類が眼に映じた瞬間、臆病な彼女 おもがゆ 「そうかい、此處へ來たの ? も少し猶豫して貰いたいって兄さんがは自身メスを突き刺されるような不快な面痒さに心のすくむのを覺 保險署へ行ったけれどね。どうしてもいけないそうだから・ ・。」えたのであった。 「却ってその方がいゝわ。早く家へ歸りたいんですもの。」 「ではどうぞ 「しかしお前、家にいてはこんなにみっちり養生することは出來な 一人の看護婦がこう言いながら早速促すように手術臺の方を指さ いよ。ぜめて今一週間でもと思っているけどね。」 した。湯氣を立てゝ煮たぎっている消毒器のじい / \ 言う音も、コ 二人の親子は箱から出て行った。春枝の傷ついた方の手は袂の中ンクリートの床の上を歩く看護婦逹の下駄の音も、一切は何物をも に隱れていた。彼女の腕がもう半分きりよりないことは、肩のそげ亂すことのない靜かな室内の空氣の中に、恐ろしく底深い響きを立 工合やだらりとぶら下った殘りの腕が、歩くごとに袂の中に動いて てた。そして部屋中に漂うている生温い瓦斯の匂いが一層彼女を不 いるのでもよく分った。それは何となしに間の拔けた歩き方でもあ安にした。 った。嘗ては如何にも娘らしく丸々ともり上っていた兩の肩も、痩 春枝は看護婦に助けられながら默って手術臺の上に横わった。何 せて味氣なくひょろ / \ していた。髮の毛も艷がなかった。そして の不安も恐怖も抱いていなさそうな春枝の容子はいくらかお島の氣 箔押しをさせてはその早さとヤレを作らないことに於て、工場中隨持を明るくした。そしてやがて白い手術衣の袖を肘の上までまくり 一と言われていた右の手は、今その相棒たる左の手を失って空しく 上げたこの家の院長增田博士が、若い一人の醫師を連れてやって來 母親の手に握られているのである。 ると、彼女は一禮しただけでいつものように三階の箱の中へ歸って 「千代ちゃんが明日からキャフメル工場へ行くんだってね ? あの休んだ。彼女はそこで、一切が終って死人のように擔架で邇ばれて 子もとう / \ 學校を卒業することも出來なかったんだわ。」 來るまでの約三十分ばかりを、身を切らるるような戦きに驅り立て 手術室の扉を押しながら春枝が言った。お島は看護婦逹へ會釋し られながら待った。ようやく一人前の女になろうとしている娘を、
に至るまで一人で處理して行った。唯一の財産である向山の山畑に 廻っていたのだった。 植木は地主にと 0 て大切な財産だ 0 た。中に一株が米一石にも相は、芋やズイキや大豆やネギを、代るえ \ 育てて行った。洪水のた めに荒れ果てて他人の顧みない川原の荒地を、それこそ原始的な鍬 當するものもあった。父はそれをよく知っていた。だから今、その 大事な財産を守った父が、そのためにひどい病氣になったと知った一挺で丹念に打ち拓き、綿や菜種を栽培した。早春、薪を切る時に なら、必す相當の手當をしてくれるものと信じていたらしい。だは他人に雇われて山〈行き、賃銀として幾把かの薪を貰って冬に備 が、何時の時代にも地主や資本家と云うものは、打算に生きる動物えた。そして夜は他人の綿を繰り、絲を紡ぎ、機を織った。 父が疼痛に呻いている枕元、土の上に僅かに藁と莚を敷いた家畜 であった。彼は、父が病に伏して働けなくなり、最早や無料勞働を 小屋のような家のなかで、細々とした行燈の光を賴りに母の夜の勞 提供することが出來なくなったと知るや、見舞の代りに、完全に父 働が進められて行った。或る時には絲車を廻してプンププンプと絲 を突ばなして了ったのだった。 以來、數年間父は動けなかった。動けるようになってからも、決を紡いだ。そんな時には、私はよく二番目の姉と綿の棒をこしらえ る仕事に從事した。黑い丸い竹箸に種をぬいた繰り綿を卷きつけ して人並の勞働に從事することが出來なかった。温泉も近くにあっ て、一升桝を伏ぜたその底の上で二三度ぐる / \ と押さえて轉す たが、そこ〈行く餘裕などのある筈もなかった。僅かに芋粥をす又 と、綿は箸を心に五寸ほどの棒になった。箸を扱いて母に渡すと、 って家の一隅に横わり、隣村の漢方醫に敎えられた野生のマッフジ を煎じて呑むだけが精一ばいの手當てだった。父は非常に怒りつぼ母は片っ端からそれを絲に紡いで行った。プ , プププと云う車の 音に交って母の千篇一律の唄聲が續いた。 くなり、地主の「温情」に關する信仰を完全に失ってしまった。 父はこれらの事を、時々私に語って聞かせた。勿論幼い私には、 あわてしゃんすな 家の暮しや、洪水の事や、地主の暴慢振りを根本的に理解する事は まだ夜が明けぬ : 出來なかったが、只、自分の家が非常に貧乏であり、母一人が働い てみんなを育てているのだと云う事や、この貧乏や苦しみや父の病 めぐら また或る時には、母は機の上にあった。今頃あんな手織機なん 氣が、あの窪地にある白壁の塀を廻したお寺のように廣くて大きい 地主のためにもたらされたものだと云うことを、それでもおぼろげて、どんな片田舍〈行っても見當らぬであろう。長く機に張った經 絲を交互に上下さすのは、足でふまえた二本の簡單な桿であった。 に知るようになって行った。 緯絲を通し、それで密度を調節するのは筬でなく、杼であった。大 貧窮のド底にある私の家の一切の生活は、文字通り母一人の痩きな鰹節のような杼の中に緯絲の管が仕掛けてあった。一遍一遍杼 腕で切り盛りされていた。實際母が人一倍健康で勤勉で、書は野山を左右に拔き出すことによって緯絲を通し、その都度一つ「トンと に牛のように働」たからだを、夜は、當時雎一の手工業であ 0 た綿密度を叩」て杼は母の手で運動を繰返した。そ 0 運動から起る淋し 繰り、絲紡ぎ、手機織りに他家の仕事までをやらなかったなら、私いリズムは、今も尚私の耳の中にある。 母が機に上っている時には、私逹の仕事は綿繰りだった。一尺四 共はとうの昔に餓死してしまって居ただろう。 だが、母は健康で勤勉だった。 = 葮足らずの小作は、一一毛作の麥方位の厚い木の盤に、一一本の角棒を立てそれによ「て綿を繰り込む おさ