源助 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

22 イ 「おお、いうともい ! 」 から南海岸の卸 6 浦へ通うダラダフ坂と、北岸の、波止場を中心に 高橋はかねて期していたように見えた。太田屋の怒號を前にしひろがった村の方角へ下りる坂道とが左右にわかれ、曖味な十字路 て、おちつきはらった、しかし鋧い聲で云い始めた。 を形成していた。どの方角からきた者もそこの雜木林で一服する習 「この家はこりやア何んじゃ ! これが太田屋の源助の家かいな。 慣と、それにふさわしい地勢とが自然に峠と云う名稱を生み出した しびといいわけ ものであった。峠の頂上にたっと、島をかこむ海の大半が一眸にし ふん、死人に辯解みたようなこというて、それがどうなるんじゃい ! 太田屋の身代は源助あっての身代じやろが、せめて家らしい家を建て眺められる : ・ 半歳前に源助は、この第の上にみすぼらしい奇妙な形の家を建て ってやったとて、何んで罰が當るもんか ! 」 たのであった。 「じやけに俺ア何度も何度も、源に : : : 」 それは背の高い、一室ぎりのいわば望樓のような家であった。幾 太田屋は人々の腕を振きって相手に飛びかかろうと身悶えした。 本かの丸太を地上に打込み、その上に床板を張り、梯子段を登って それを周圍の者が抱きとめていた。 わきま 室にはいるように作られてある。そればかりでなく、室の南北に窓 「高橋 ! われは場所柄ちゅうものを辨えんのか」 をあけ、雨戸を用いずに硝子張にした事が村人を驚かせた。 島司の名村はそう叫んで、傅欽郞の頬を激しく打った。 「源助は、峠の上に、燈明臺を建てる氣かも知れんぞいな : : : 」 うかうかせると俺らどうなるか知れやせん 「皆な氣いつけろよ ! 住み馴れた太田屋の借家から僅かな家財道具を蓮びこみ、源助が ぞ。源助がよい見本よ」 高橋は名村に打たれながらも、平然としてそういうと、席を蹴っ峠の家に移った夜、その望樓のような家の窓をもれて、洋燈の光が 一筋の帶のように射すのが見えた。 て出ていった。 しかしこの望樓式の掘立小屋が、源助の餘生を送るべき最後の住 鎭まってきた殺氣の中で、洋燈の焔が油煙をたててゆれていた。 居だということが知れわたった時、太田屋に對する非難の聲が初め 「みな坐っておくれい」 てわき起って來たのだ。そしてこれは、島の事實上の主權者である 太田屋は、自分から先にどっかと坐り、そして呻くような聲で、 太田屋に對する最初の非難でもあった。太田屋の源助か、源助の太 「俺ア今夜は何もいわん : : : 」 : とそういわれて來た源助の生涯を傾けての忠勤に對し 田屋か・ と呟いた。 て、それはあまりに貧しい家だったからである。 人々の心持は、しかしこの意外な出來事によって完全に亂されて 或朝、第の上の望樓からは、どこの島方でも魚群の見えたときに いた。高橋傳次郎の技げた石は池の中心に落ちていた。人々は瞬 間、臨終の源助を忘れ、この峠の上に源助が奇妙な家を建てた當時吹き鳴らす法螺員の音が聽えてきた。そして太田屋の家の屋根で打 振られる赤い旗を見た村人は、その時になって漸く源助の意を悟っ のことを新しく蘇がえらせた。 たのであった。 沖に出るのをやめた源助は、その南北に窓を持っ望樓のような家 峠 : : : そう島の人間は呼び慣わしている。 スロー・フ 東海岸「地藏山」の急斜面を一直線に滑って來る道と、西海岸にいて、朝にタに海を眺めていたのだ。海の上では千里眼じゃ そう云われた細い三角眼をすえて、沖を通る魚群を一匹も見逃すま 「榎山」の山肌を段畑にそうて起伏して來る道とがまじわり、そこ 嶽らがい

2. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

いとしていたのだ。 えすれば、安心したように源助はびったりと吹きやめた。 「源爺は偉い男じゃのう」 「やい、仙に代って誰か屋根に這い上れい ! 」 「そうともいな : ・・ : 」 太田屋は叫んだ。竹と云う倔強なのが仙に代った。そして勢よく 法螺の音が、島の靜寂を破って響いて來ると、太田屋では若者を旗を振りはじめた。 屋根に登らせてそれに答える一方、網が擔ぎ出され、波止場は船出 法螺の音は、しかし、それでもやまなかった。 のさけびで充滿した。源助の隱退を知ってひそかに喜んでいた附近「 : の島の網船も、これでは手が出せなかった。灣内の隅々には、依 太田屋はじっと耳を澄すようにしていた。すると太田屋には、思 然としてのの大漁旗が勝誇ったようにひるがえりつづけた。 いなしか貝の音が、次第に低くそしてだんだん哀しい音色に變って 源助は時おり、杖を「」て峠から村〈下りて來た。痩せた源助來るようにおもわれた。仙に代「た竹も同じように疲れてきた。 は、けれど幸輻そうにみえた。村人はいっか太田屋に對する非難を 「誰か峠まで走って來い」 きれいに忘れた。源助自身が幸輻そうな姿をしているのに、自分ら 太田屋の聲に應じて が太田屋を罵る必要はどこにもないと氣がついたからである。そし 「よし來た ! 」 て、それは全くその通りであった。 新というのが船から石垣に飛びうつり、太田屋の横をすり抜けて そして今日という日が來たのである。 一散に走り出した。 この七八日、漁のなかった太田屋では、源助の吹き鳴らす法螺の 波止場の石垣の上には忽ち人が群れ集った。そして太田屋を取卷 音に躍り上った。 き、同じように不安の色をうかべて、峠の方角の空を仰いでいた。 「大漁じゃ、大漁じゃ ! 」 法螺貝の音が、にぶい餘韻の底に奇妙な哀調を帶びはじめたのは、 「不漁の後は大漁が定じゃ ! 」 新の姿が船靈明神の森のうしろから、峠へかかる急坂にひょっくり 若者たちにまじ 0 て太田屋も昻奮して」た。波止場の石垣の上に現われる頃であ 0 た。人《は間もなく同じ急坂の濯木の間を、鞠の 突立って、鉢卷の額に汗をおぼえつつ太田屋は、船の者を叱咤してように駈け下りて來る若者の姿を認めた。 いた。 ろくろ 太田屋は波止場の石垣から船靈明の石段下まで走り出て、新を 「網の尻は轆轤に結ぶんじゃ ! 」 抱めとめ、 いかり 「手の空いた奴ア碇を引揚げろい ! 」 「どうした ! 」 望「えい、舳を突張らんかア ! 」 新は激しく呼吸をきらせながら、 怒號の隙に太田屋は、ふと何氣なく、自分の家の屋根を仰いだ。 「源爺が、倒れて、血を吐いとる : ・ : ・」 源助の法螺に答えるために旗を振っている若者の脚が疲れきってよ そう答えて尻餅ついた。 ろよろしているのを彼は認めた。 太田屋を先頭に十人あまりがせいせい呼吸を切らせて峠を登り、 お「源の奴、旗が見えんのかいな」 源助の小屋にはいっていった時、源助は北側の窓下に仰向きに倒 今朝のような事は一度もなか「た。曇天の黄昏でも、二三振りされ、それでもまだ法螺貝を低くかなしく吹きならして」た。人《は

3. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

「恥は、知ってのような崖っ鼻じやけに、海からの運搬は出來「解らいでか : : : 」 名村にもわかる氣がした。 んのよ。な、そいで越しに工事の材料を運ぶに決ったが、石材じ 「ほんまにわかるのか ? 」 や木材じゃちゅうて大きな荷を搬ぶのじやけい、源助の家が邪に 念をおすように、かさねてそういった太田屋の語氣に、名村は微 なるのよ」 な冷笑を感じた。 一フンプのない縁端に初夜の闇がただよい、味氣ない文色のなか 「その源助とわしとは餓鬼の時分からの友逹でよ、しかもあいつが で、太田屋は一塊の肉のように身動きしないでいる。名村は當惑し た表情をうかべて、庭の、水のかれた泉水のあたりに視線を向けて死んだのは、名村よう ! お前は笑うか知れんけいど太田屋のため に死んだのぞよ」 いた。 太田屋はかすれた聲に激しい熱情をこめていいつづけるのだ。 「濟まんが、ランプをともしておくれい」 「わしア近頃になって、それがハッキリとわかって來たんじゃ。 やがて太田屋はそういった。名村は救われたようにたち上って太 後はつづけての不漁じゃった。源助は、おのれが沖に な ! あの前 , 田屋のうしろに吊ってある一フンプを點した。 出られんだけに、それが苦になった。苦になったあげく海一杯に魚 太田屋は俯向いて、名村の座に戻るのを待っていたが、 が押し寄せて來たらとそればかり思い詰めて、それで氣がふれたの 「今の話じゃが」と、靜かにいった。 ぞよ。源助は力いつばい法螺を吹き鳴らいて、わしを喜ばせたかっ 「ふん」名村はそれを低い聲でうけた。 たのぞよ : : : わしアその心根をおもうと泣けてくるんじゃ。わしア 「わしア不承知じゃぞ。わしアこの頃、善太や淸吉の戻って來るま ひとりでここに坐っとってもな、源助があの峠の家におって、朝に でのあいだ、峠へ行てあの家でひとり暮そうかと考えとったのじゃ。 というのも、名村よう ! わしア源助のことを憶わぬ日はないのタに海を眺めとる姿が心に浮ぶんじゃ。そうしてよ、いまにも法螺 まめ 貝の音がきこえてくるような氣がするんじゃ。あの家が跡形なく取 よ。源が健在で生きとってくれたらとおもわぬ日はないのよ : : : 」 壞されては、わしア何一つない人間になるのぞよ : : : 」 「解っとるともいな。お前の心持はわしはようく知っとる」 冷たい風のようなものを感じて、名村は、一フン。フの光の屆かぬく 名村のいうのを遮って太田屋は、 らい庭の隅へ顏を向けた。 「まア聽いとくれい ! 」 一一人は言葉をとぎらせて、長いこと縁に坐っていた。空に月の昇 そういった。ふっと名村の心に觸れて來るものがあった。で、名 ってくる氣はいが漂い、夜空を流れる雲がみえた。 村はロをつぐんだ。 「役人衆へはわしがなんとか話してみるとしようよ、じやけにお前 樓「わしは毎日こうやって坐ったぎりで、漁師は漁師なりに考えとる も安心して、養生しなんせ」 んじゃ。考えとるとな、無學文盲なわしではあるが、そうじゃった ゅ ち 名村が縁を下りて庭に立ったとき、 と思い當って來たのよ : : : 他でもないが、源助は太田屋のために頑 様みたような人間じゃったばかりでのうて、この島のためにも紳様「たのむぞ、そうしておくれい : 太田屋は低く云って頭を下げた。 同然の人間じゃったのよ。名村よう ! お前には解るかの、そこの 1 ところがよ ? 」

4. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

のは太田屋であった。酒亂と好色と、時に貪慾そのもののような太 一人もたなんだ。あけてもくれても、網のことばっかり海のことば ちょうビん 田屋の、逞しい胸や肉塊のような顔から悵然とした寂しみが漂い出つかり、太田屋のことばっかり思うて : : : おもうて : : : 」 ている。共に辛酸を嘗めてきた女房の通夜の晩に、桑畑の闇に醉っ 肉にうずもれた太田屋の兩眼からとめ度のない涙があふれ出てい はな て娘をおいかけた太田屋だ。彼の今夜のように弱々しく沈んだ姿をた。人々は俯向いてみな洟をすすった。 まだ誰も見た者はなかった。 「源助よう ! われア情無い死ざまをしてくれるのう : : : 」 たすさ 太田屋は顔中を皺にしていいつづけた。 太田屋の胸には、源助と手を携えて乘っ切ってきた荒い風浪の幾 星霜が、今宵、源助の死を眼前にしてまざまざと描き出されるよう 「氣が狂うて死ぬとは何事じゃい : : : 早よう死んで極樂へ行てく であった。さびれきった太田屋の身代を今日在るまでに建て直してれ ! われの、そのような顔みとるのが俺ア辛らいんじゃ。われの きた長い辛苦が、深い實感で回顧され、そこに太田屋は、名沖師源葬式は、太田屋の身代のある限りで豪勢にだいてやるぞよう : : : お 助の姿をひしひしと思い泛べているのだ。 おともい ! この島初っての葬式でよ、大きな大きな石の墓を建つ それは空と海を相手の一篇の苦鬪史であるといえたし、暴風雨とてやるともいな : : : 」 しけを相手の血みどろな生活記録でもあった。幾度かの暴風雨に船 言い終ると太田屋は、源助の枕元に身を伏せて、化石したように ひはい は倅かれ、網は破られ、船具一切を流失し、そのたびに疲憊のどんうごかなくなってしまった。人々は、太田屋自身が源助と同じよう 底から這い起きてきた太田屋であった。長期の不漁に際會するごと に狂うのではないかとおもい、うすら寒い不安を感じた。 に、家倉を抵當に辛うじて沒落を免れてきた太田屋でもある。その 沖で鸛が鴉のように啼くのがきこえた。感激の後の疲勞が、人々 太田屋を今日の全盛においた者は誰であったか ? 云うまでもなをまた唖のように沈默させた。と、見えた時、 いいわけ 、太田屋一家の必死な奮鬪にも據った。しかし沖師として瀬田野「辯解は置きなんせい ! 」 鏡い聲で、この重苦しい沈默を破った者があった。はっきり敵意 源助がのの網にいなかったら : : : 太田屋はそうおもい、太田屋今日 のこもったその聲が室中の人間をぎよっとふりかえらせた。そして の繁榮の蔭にうずもれて死んでゆく源助が狂おしいまでに不憫にお もわれた。 人々はそこに、皮肉に笑っている魚仲買人の高橋傅次郞を發見した。 いうまでもなく太田屋は、身を起して傳次郎を睨むようにしてい 太田屋は逞しい腕をくみ、じっと俯向いていたが、やがて激しいたが、 言葉が彼の厚ぼったい唇を衝いて出た。 「俺アわけがあっていうのじゃ」 相手の再び憎々しげに言う言葉の終らぬまえに太田屋のたくまし 「俺ア源助が不憫で不憫でならんのじゃ」 人々の動搖する中で、太田屋の潮がれた聲がだんだんと歔欷を帶い腕が飛んだ。支える者がいて拳は屆かなかったが、それで一座は ゅ ち びはじめた。 總立ちになった。義眼の村強ひとりが、臨終の源助を庇うように、 「きいとくれい ! 此奴アな、太田屋のために女房ももたず働いて人々の尻を兩手で押しのけていた。 「いうてみい ! 」 幻くれたんじゃ。金をくれてやろう云うてもいらんいいよった。家を いろ 太田屋は蒼ざめて聲を震わせた。 建ってやろう云うても、要らん云いよった。酒も飮まなんだ、情婦 かもめ いれめ

5. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

イ 22 月、「幼き合唱」を「中央公論」に、「樹のな い村」を「改造」に發表。宮本百合子より批 木村良夫年譜 判あり。十月、『淸水燒風景』 ( 綿・踊る・幼き合 唱・樹のない村、五編收録 ) を改造瓧刊、初版はす ぐ發禁、十二月、改訂版を刊行したが數百カ 經歴その他さだかならず。 明治三十一一年 ( 一八九九 ) 十月十五日、石川所の伏字。昭和八年、一月から二月にかけ 昭和五年 ( 一九三〇 ) 、十月、「嵐に抗して」縣能美郡國府村 ( 現在の辰ロ町 ) 字和氣リ一一一九て、「綿」の姉妹篇、未完の作「恐慌以後」 を「ナップ」 ( 一卷ニ號 ) に發表 ( 掘田昇一の「機械」 番地にて出生。本名、谷口善太郎。別に加賀を「プロレタリア文學」に發表 ( のち、前半を完 成して、『源三』に收めた「道を求めて」となる ) 、また、 と同時掲載 ) 。當時、木村は、勞働運動の地下活耿一一の。ヘンネームも用いる。父、谷口八右衞 動を行ないつつ、この作品を「ナップ」に投門、母、ふさの次男。家は、小作農。大正三「勞働者・源三」 ( 第一部 ) を「改造」に、四 稿した、といわれている。昭和七年三月、作年、和氣小學校高等科卒。大正九年、四月、月、その第一一部を「城砦」として「改造」に 家同盟出版部から刊行された『年刊日本プロ上京。大正十年、京都に移住し、淸水燒職人發表。四月、「熊」を「文藝春秋」、八月、 レタリア創作集』に收録、戦後、三一書房版として數年間働く。大正十一年、舊總同盟に「船の中で」を「文化集團」、九月、「逃げる」 の『日本プロレタリア文學大系』第五卷、新加盟、京都陶磁器工組合、京都合同勞働組合を「改造」に發表。十月、第一一創作集『源 日本出版版の『日本プロレタリア小説集』などを創立、また、日本共産黨に入黨。大正三』 ( 逃げる・船の中で・源三・道を求めて・熊・小品六 に再收録された。 編收録 ) を改造社刊。べンネーム「須井一」 十三年 ( 一九二四 ) 、三月、山本宣治らと京 紅野敏郞作製都勞働學校を創設、その主事となり、講師との代理者となってくれた某氏、黨シン。ハ事件 して敎えた。大正十四年、四月、總同盟分裂で逮捕、作家活動をやめるという誓約のもと 後、渡邊政之輔、野坂參三、國領伍一郞らとに釋放。昭和九年、十二月、公判、執行猶豫 日本勞働組合評議會を創立、中央常任委員と刑となる。十月、べンネームを加賀耿一一と改 なる。この年、德野そのと結婚。河上肇を知め、「工場へ」を「改造」に發表、黨の承認の る。昭和一一一年三月、三・一五事件で逮捕、獄もとに作家生活に専念する。五月、加賀耿一一 中肺患で危篤、年末、出獄、以後五年あまり創作集『血の鶴嘴』 ( 血の鶴嘴・お千代・再生記、 病床。この病臥中に、須井一の名で小説を書三編收録 ) を文學案内瓧刊。昭和十二年、人民 きはじめる。昭和六年、七月、最初の作品、戦線運動で再檢擧、拷問によって人同様と 「三・一五事件挿話」 ( 特別讀物 ) を「戦旗」 ( 六、なる。年末、釋放、執筆禁止。昭和十三年、 七合併 ) 、八月から九月にかけて「綿」を「ナ映畫監督衣笠貞之助を知り、新日本映畫研究 ツ・フ」に發表。この年、『日本勞働組合評議所を創設、松竹下鵯撮映所に關係、しかし特 會史』上・下、京都共生閣刊。昭和七年、十高に目をつけられ、松竹からも首になる。黨 須井一年譜

6. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

先ず源助の唇から流れだしている血の色をみて心をつめたくした。 6 た「源 ! われアどうしたというんじゃ」 太田屋は源助を抱き起して、子供が玩具を離さぬように、しつか りと握りしめている法螺の貝をもぎ取った。 源助はすでに、自分を抱き起してくれた者が誰であるかも解らぬ 黑髮島の南端を迂廻して、油のように凪いだ海を、西へ舳を向け らしかった。濁った視線を宙に漂わせ、唇をおののかせて、蜘蛛のようとしていた因の船は、俗稱鯛ノ磯という暗礁の北寄りを早瀬の さわら 集でも拂うような手つきをしていたが、 瀬戸へおちてゆく鰆の大群を發見した。 「魚が : : : 魚が : : : 海一杯に、おそろしい面しやがって、わんわと 「鰆じゃ」 押し寄せて來る : : : 」 「鰆じゃ」 そう叫び出して、太田屋の手から法螺の貝を奪いかえそうとし始「鰆じゃ」 めた。 舳が早瀬の方角に向きかわる間ももどかしがるように若者たちは たと こどり それは重苦しい、陰慘な、譬えようもなく暗い一日であった。望勇み立った。それより先に幾艘かの小船は、魚群を瀬戸の落ロの手 樓のようなこの硝子張の室の中で、幻の恐怖に襲われて狂い廻る老前で喰いとめるために、大船の船腹からはなれて矢のように散っ 人を、人々はただ茫然と眺めているきりであった。三度目の吐血のた。その後から網を積んだ大船が、舳を揃えてゆうゆうと滑り出し 後で源助がぐったり動かなくなる頃、梅雨季の味氣ない闇が空の外た。 こち つんぼ に忍び寄ってきた。夜が來て、生温い東風が雨を誘うと、霧のよう 鰆は聾だとされていて、それゆえ掛聲が許されていた。この二十 な糠雨が飄々と飛びはじめた。 日あまりの不漁に元氣をなくしていた若者たちは、船脚の加わるに それは又、この島創って曾てなかったような異常な夜であるとい つれて堰をきったように聲を湧きたたせた。見るみる黑髮の西岸を えた。 とおりすぎた。 「源爺が死んたとよ」 「おお ! 死んだかいな : : : 」 えっサッサッサッ サッサッサ : 源助の死が傅えられると、村人はみな起きでて、一軒の家から一 ちょうちん えっサッサッサッ 人すつの人間が、提燈をともして峠へと集ってきた。風と霧とを袖 サッサッサ にかばいながら列をつくって、坂道を登って來る提燈が曉の闇の中 で狐火のように明滅した。 源助の家の窓下は無數の提燈にうずめられ、眞晝のようにあかる 親船の櫓の上に仁王立ちとなっている太田屋は、數日來のうつう く輝いた。菩提寺から信が來ると間もなく、鉦の音が哀しい餘韻をつした感情があと形もなく消え、いっか若者たちの健康な昻奮に卷 震わせて窓からもれてきた。提燈を提げた人々はいっせいに地にう きこまれている自分を發見した。源助の死後、自分から櫓に立って 干きよう ずくまり、僭の誦經に和する聲がわき上って來た。 以來、不蓮つづきの後の今日である。潮の色のまっ蒼に變るまでに 沖に漁火も見えぬような闇をそめて、風と霧の飄々と飛ぶ六月の 夜の白みわたるまで、峠の上は提燈の光がゆらゆらしていた。 せき へさき

7. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

「あい、あの、わかっとるがやとこ。そいで、どうか勘辨して田圃 足の湯を沸していた母は、この樣子を見て心配相に訊いた。 8 の事も一つ : 〃「どんな手紙やい ? 何か昨日のこッても」 「田圃の事か。そりやア必要なかろんが。立派な息子やさけ田圃な 「おう、昨日のこっちゃ。 ・ : おっ母ア坂村の我鬼、昨日の事を根 んかせんでもよかろ」 ・ : む、村から追い出すつもり に持って、田圃返せちゅうて來た。 「そう云わんと、この通りや、のう : : : 」 母は女中逹の下駄の並んだタタキの上へ膝をついて、土下座する : そりやアあんまりな : : : 」 「何て云う ? 田圃を返せ ? 「どうか今度のところは勘辨して、もとも 「そんな無茶な事アあるもんように頭を下げた。 と、母も蒼白に變じて叫んだ。 と通り田圃を作らしてくさっし、賴むわの。これ源、お前も突立っ けえ。そりやアあんまりな仕打や ! 」 とらんと、吉松どんに詫れ。地主どんに詫まって貰え」 そして母は私に食ってかゝった。 私は涙が出て來た。吉松の懷中電燈に照らし出された母の土下座 「 : : : お前もまたあんまり向う見ずや。どんだけ腹ン中に思うとっ 姿ーーおゝ、これは屈辱以外の何者でもない ! たかて、若い者が、地主どんに何でもかんでも生意氣云うさけや。 「おっ母ア、何度云うてもだちやかん。田圃はこっちゃのもんや。 : あゝ、あ、こン年ンなって何ちゅうことになるがやい。行って ロアそっちゃのもんや。お前もえゝ息子もって仕合せやわい。 詫って來い ! 詫って來い ! 」 私はそう云われると、自分自身にそう云う氣持が動いていただけなア源、にさわったら、首でもくれ ! 」 吉松はそう云うと、そのま奧へ這入って了った。母は眞暗のタ に、堪らなかった。 にえかえ タキの上で、しく / 、泣き聲を擧げている。私は煮返る思いだっ 「おっ母ア、堪忍してくれ、何とかうまく行くように賴んで見る」 た。 私は腑甲斐なくも、もうへな / \ だった。 「おっ母ア、歸ろ ! 」 其の夜、私は母に連れられて坂村の邸へ出かけて行った。行って ごうはら 闇の中に暫く立ちつくした後、私は母に云った。 詫びるのは流石に業腹だったが、母の姿を見ると強いことも云えな 「もう歸ろう。相手は鬼ゃ。諦めた方がえゝ」 かった。泣きたい氣持ちだった。 だが、地主はてんで相手にしなかった。勝手口から聲をかける 闇に聲がない。歔欷の音ばかりだ。 と、闇の中へ初めに女中が出て來、欽ぎに懷中電燈を持った吉松が 「な、おっ母ア、諦めさっせ。 出て來て突放した。 暫くすると、吉松がまた出て來た。 「や、何か用やったか、おっ母ア : : : 」 「何や、まだ居たんか。歸ってくれ。誰も居らんとこに居って貰う 「あい、地主どんにも吉松どんにも詫びんならん思うて。 と物騷や」 太こうてもまだ子供のこっちゃ、昨日の事は勘辨して : : : 」 あがかまち 皆まで云わせず、吉松は上り框に突立ったまゝ手を振った。 と、私は思わす叫んだ。 「おっ母ア、何かお前感違しとるがン無えけ。昨日の事て、昨日の 何かと思うとるか ! 」 事何とも云うとらんそ」 ぎま : 育 ~ カ : 「物騷た何や ! 物騷た髯盜人か ぬすと

8. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

戦後になって早いころ、金逹壽が〈朝鮓の人〉という日本語にはが、この稿の筆をすすめながら、平野謙のそのことばがたえす私の こころにかかっていた。平野謙とか、小田切秀雄とか、この稿の執 げしい怒りを語ったのを印象ぶかく私はおぼえている。アメリカ 人、ロシア人、イギリス人というのが一般のつかいかただろう。そ筆者として最適任のひとは他にも多くいるだろう。その意味で私は れならばなぜ、おなじように朝鮮人と言わぬのか。〈の〉という助その役柄にもっともふさわぬ、その實力をそなえぬものにほかなら ぬことをつくづく感じた。それならばはじめから仕事そのものをひ 詞を挿人するニュアンスには、植民地支配時代の意識が尾をひいて きうけなければよいではないかという反省が當然來るわけである いる、というのが金逹壽の意見で、私はほとんど感動してきいた。 が、そこが解説者根性とでもいうふうなもので、依賴をうけたとき もちろん、木村良夫や金史良やが、その時代にそのことばをつかっ ているのを、そういう戦後のことば感覺でかんがえるのは、また別には、まだ時間があるから、よし、ひとっそれまでに大勉強をして の誤りにおちいるわけであるが、二十餘年經った現在でも、〈朝鮮取り組もうというふ、つな氣持になんとなくなるのである。そこが知 の人〉どころか、〈鮮人〉などというどすぐろい用語が、文學作品識の薄いところだ、と自覺しているからいよいよそうなる。ところ のなかにまでまだ殘っているのに私は絶望的なおどろきを感するこ がいざとなるといたずらに机邊に書物を積みあげたり、古本屋歩き とがある。 をするだけで日がせまってしまうということになるのである。それ にしても、どうみても〈適當な資格をもつものではない〉私が、な 須井一の「綿」を、私たちは單行本になってはじめてよんだ。私 たちはそのころ田舍の高等學校の生徒であった。友だちのひとりがぜ解説者としてえらばれたのかということについて、たとえば前掲 私の下宿にあらわれて、〈白い飯のぬく飯ぞい〉ということばをさの『現代文學の發見・革命と轉向』に平野謙の附した解説や、その かんに連發した。それいらい私はあの少年ことばを、そういうふう他ここ三、四年くらいの間にその他のひとも發表したあれこれの文 におぼえこんでしまっていた。こんどよみかえしてみると、〈白い章などもつなげて多少のことを思わぬではないが、言わずもがなと いうほどのことになるかもしれぬ。解説というよりは感想めいた文 飯の燒く飯やじ〉となっているのにおどろいた。そういう感想など もさそわれるほど、記憶に殘る作品である。あの友だちも、いまは章に終ったことについて、前記したような、いくつかの編集の不手 どこか大きな鑛山會瓧の目立った役職にいるはずである。 ぎわとあわせて讀者と編集責任者とに寬恕を乞いたい。 ここでも他の作品に言及しえないで殘るものがあるが、終りに解 設者としての私の感想をひとこと記しておくことを許してもらいた 解平野謙は、『昭和文學入門』 ( 河出新書版 ) 第二部の冒頭を、〈日本 作のプロレタリア文學史を論ずるのに、私は適當な資格をもつもので はない。〉と書きはじめている。その書の後半をしめる、創見に充 循ちて敎えられるところの多い「プロレタリア文學史論」のマク一フに ふられたことばを額面どおりにうけとるほど私もお人好しではない

9. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

「フ、ン、何とでも云うとれ」 吉と云うのは伯父の長男で、妻子も居るもう四十餘りの壯年で 吉松は冷笑した。 ある。五人組と云うのは、部落を五つに區分してその各ょに一人宛 と、それまで土下座して泣いていた母はこの市笑に突然立ち上っ 選定されている代表者のことで、部落の出來事は、先ずこの人々に た。そして叫んだ。 卞することになっていた。 「そうけえの、物騷なら歸りますわに。どゝ、泥坊はどっちややー 「そいから : : : 」 女子供や思ってあんまりじゃ。理窟に負けたが腹立ったら、もっと と、伯父は圍爐裏から起ち上って續けた。 「源、お前は家イ 學問さっせえ ! 」 行ってお母アにそう云え。事情が事 靑やさけ、在所の人は見殺しに 坂村は金持だったが、學間の無い事が評判だった。最後に立腹しせん、心配せんかてえゝてそう云え。 ・ : 俺もこいから親しい連中 た母はそれを罵倒したのだ。 のとこへ廻って來る。我鬼が ! 在所皆んなと、如何に地主でも百 「フ、ン、何とでも云うとれ、引かれ者の小唄て云うてな」 萬長者でも、喧嘩は出來るけえ ! 」 吉松はまた鼻で笑った。 そう云って、七十を過ぎても元氣な伯父は、煙草入れを腰にプチ 斯うして母も、遂に地主の暴虐に立腹してしまった。だが、道々 込むと、野良着のまゝ外へ出て行った。兼吉兄も、 イにカ 「お前もちったア云い過ぎやったけんど、坂村も坂村や。他人にも 「なアおっ母ア、心配すンな。何でもして養うてやるわに。なア 云えんほどの大の糞の阿呆たれや。まン、五人組や區長に相談して、 に、在所にばっかりに陽が照るがンねえ。一層の事、都會〈出て旗何とかうまくやって見る。在所を仕舞うて都會〈出るんはそいから を擧げよツかいの」 のこっちゃ」 と慰めても、母は昻奮と絶望に喪心したようになっていた。 と云って出て行った。 明る朝、私は銅山を休んで本家の伯父に相談に行った。一部始終 離れの間に子供逹の世話をしている嫁さんは、 を聞き終った伯父は、何時もの分別臭さに似ず、これには流石に激「地主どん、理窟に負けたのが、よっぽど業腹やったンやなア」 いちる 烈に貭慨した。 と笑った。私も何かしらまだ前途に一縷の光を期待出來るように どくしよかたきう 「そうかい、よしッ ! そんな醜惡な敵打ちすんなら、こっちも默感じて、一寸輕い氣持ちになった。何と云っても「土」を失って村 っとれん。ポンプの金の事ア、何もお前一人が責任負わんなんこた をはなれることは、百姓にとって何よりも恥しく辛い事であった。 アねえがや。意見述べ云うたから述べたんや。そして、みんなが賛 だが「在所」の人は起たなかった。 成したからお前の意見通り決まったんや。それが惡かりやア、在所 伯父が意氣込んで、住宅や田圃を駈け廻って「親しい人々」に訴 の者ア皆惡い。在所の人のためにしてやったことがこんなことにな えて歩くと、人々は斯う云った。 るなら、 ・ : よし、斯うなりやア、在所の人に集って貰おう ! そ 「そりやア氣の毒な。けんど、俺らがぐと、俺らまでに當りが來 れからのこっちゃ。おい、蒹吉、お前も今日ア田圃休め、そして區るさけな。どんなもんやろ」 よりあい 長と五人組〈行って、この事話して寄合賴んで來い。畜生、女子供 五人組を廻った兼吉はこんな返事を聞いて來た。 の家や思うて、餘り馬鹿にしてけつかる ! 」 「ふーん、坂村どんもまた豪え大人氣ない敵打ちしたもんやな。け

10. 日本現代文學全集・講談社版 69 プロレタリア文學集

このことは、他のあらゆる藝術家、技術家についても同様に適用 それはこれ等大衆の感情と思想と意志を結合し、それを高めなけ イすることができる。それは一見、このこととはさほどに關係なきかればならない。」 ( 「レーニンの思い出」ーーーク一フフ・ツェトキン ) の如くに思われる演劇における、ささやかなエキストラの一人につ 右の内その第一二については、我々はここであらためて問題の復習 いても、例外をゆるさない。日本プロレタリア劇場同盟の運動方針 を要しないであろう。プロレタリア藝術家、技術家が「不斷に階級 は、その「任務遂行のための基準」の項においても、正しくも次の的な藝術を生産し、これを眞に廣汎な勞働者、農民、被壓迫民衆の 如くに規定している。 ものたらしむる」ためには、彼の階級的戦士としての生活態度と、 「根本條件は、何よりも先ず吾々の生活を勞働者農民の生活の中而して、その怠ることなき技術の彫琢、練磨を、無條件的に必要と に、共鬪爭の中に置くことでなければならない。吾々の全活動の源しなければならないのである。 泉は、吾々の生活のかかる再組織の中に見出されるであろう。」 ( 一 次に「持込み」の方面である。「持込み」の機關、方法は藝術團 九二九年二月 ) 體それ自體のものにのみ賴るべきではなく、また賴ることは明に正 次に重要なことは、技術の問題である。いうまでもなく、イデオしくない。それはあらゆる可能な手段方法 , ーー殊に勞働者、農民に ロギーだけで藝術は生産されるものではない。イデオロギーのみのより接近し、また接近し得るそれをーー利用し、活用しなければな らぬ。 藝術なるものはあり得ない。プロレタリア藝術が、その課せられた たゆ 目的、使命をより效果的に果して行くためには、技術に對する、撓 タトえば、文學についていうなら、文學は從來、主として藝術團 みなき研究と練磨が不可避的に必要であることは、これまた言を俟體自體の發表機關を通じて、持込まれて來た。そのことは勿論誤り つまでもないであろう。 ではなく、こうした機關はそれはそれとして多々益よ發展、成長せ 日本プロレタリア作家同盟の「一般的な活動方針」の中には、「作 しめて行かなければならないことは勿論である。「戦旗」の讀者が、 品活動の大衆化」そのための「題材の多樣性」と「技術の練磨の必三萬より五萬、十萬と勞働者農民の間に增大して行くことは望まし 要」が強調されている。 ( 一九二九年二月 ) また日本プロレタリア劇いかぎりであり、是非增大せしめて行かなければならぬ。それと同 場同盟の蓮動方針の中には、演劇活動が、「常に勞働者農民を眼前時に、。フロレタリア文學が、印ち我々の詩や小説や民謠や童話や に置きつつ」行わなければならないこと ( 一九二九年二月 ) を力説し が、「無産者新聞」や「勞働農民新聞」を始め、その他あらゆる勞 ている。 働者、農民のための、また勞働者農民の言論機關 ( 勞働組合、農民 レーニンはプロレタリア藝術はどんなものでなければならない組合、その他の大衆團體の機關誌、工場、農村の新聞等々 ) を通じ か、という問題を提起し、それにたいして、の如き極めて簡單明て彼等の間に持ち込まれて行くことを、絶對に必要とするのであ 白な斷定を與えている。 る。 「藝術は民衆に屬しているのだ。それはその最も深い根を、廣汎な 而してこのことは、單に文筆的刊行物の場合にのみ限らないのは 勤勞大衆の眞中に下さなければならない。 言を俟たない。否寧ろ、文筆的刊行物以外の場面において、我々 それはこれ等の大衆によって理解され、愛されなければならな は、一層そのことの重要性を切實、明白に見出さないではいられな い。 いのである。