りよがりというべきだろう。 瓧會主義的建設の : : : 進行ということが、「瓧會主義的眞實」なる ものの本質的モメントをなしている、と考えることができよう。こ 四 れによって貫通されない眞實は「瓧會主義的眞實」ではない。それ さて、以上を前提として、瓧會主義的リアリズムをみる。 どころか、それは一般に虚僞でさえある。ルナチャルスキーの次ぎ 社會主義的リアリズムは、すでに述べたように、非常に廣汎な包のような言葉がそれを物語っている。「家が建てられるところを想 括的意味をふくまされている。しかしそれはけっして無制限の廣ろ像せよ、それが建てられるであろうときーーそれは莊嚴な宮殿であ さではない。そこにわれわれはいくつかの重要な規定を見出すこと るだろう。しかしそれはまだできあがっていない。そして諸君はそ ができる。それらの規定は、説く人によって ( たとえばキルポーチれをそのままに描いてこういう。これが諸君の社會主義だ , ー・だが ン・ルナチャルスキ 1 、一フージン ) それぞれの言葉をもってかたら屋根がないじゃないか。諸君はもちろんリアリストだろう 諸君 れるが、えがくべき對象もしくは目標についていえば、現實についは眞實をかたっている。しかしこの眞實は實際には虚僞であること ての、まさにそれであって、それ以外ではないところの「瓧會主義がすぐわかる。瓧會主義的眞實をかたりうるのは、どんな家が建て 的眞實」をえがくということではなかろうか。たしかにそれは、プられるか、いかにそれが建てられているかを理解し、また家には屋 ルジョア的眞實でもなければ、漠然たる意味の生活的眞實でもなく 根がつくられるはずだということを理解する者のみだ。發展を理解 まさに「瓧會主義的眞實」なのである。このことは一フージンが、 しえない人間はけっして眞實をみないだろう。なぜなら、眞實はい 「瓧會主義的眞實とはいかなるものか」という質間を發し、また「わまの姿に似ていないからだ。それは一所にじっとしてはいない。眞 れわれの瓧會主義的眞實と、べリ = キー、チ = ルヌイシ = フ = キ實は飛ぶ。眞實は發展だ。眞實は葛藤だ。眞實は闘爭だ。眞實 ドゾロリ = ポフの眞實、ゴーゴリの眞實、・ハルザックおよびス それは明日の日である。したがってまさにそういうふうにそれをみ タンダールの眞實との間に、いかなる相違が存在するか」という問 なければならないのだ。・、 かそういうふうにそれをみえない人間は、 題を解こうとしていることによってもあきらかだ。 プルジョア・リアリストでありそしてそれ故に 。へシミストであ では、いうところの「社會主義的眞實」とはなにか。これについり、 憂鬱家であり、しばしば騙りであり、贋造者であり、いすれに て い ては、はっきりした説明を見出すことが困難だ。それは非常にしばしても、意識的なまたは無意識的な反革命家であり、阻害者であ っ に しば、眞實のえがき方の問題と、相交錯して述べられている。が、 る」 キルポーチンの次ぎのような言葉から推して、その大體の意味は汲 ソヴ = ートの作家・批評家が、眞實の本質的モメントを以上のよ ア みとれるように思う。たとえば、「その肯定的なモメントにおける、 うに理解し、それを「社會主義的眞實」と呼ぶだけの理由は、充分 的 その發展の勝利的な傾向をもてる本質的な歴史的内容における、生すぎるほどあるように思う。その理由、その根據というのは、現在 定 否 活の豐富さと多様さとの眞實な正しい描寫」あるいは「その一切の のンヴェート的現實だ。ソヴェート同盟においては、彼等がつねに プ一フ = と「イナ = とをもてる、その困難と勝利とをもてる、困難に誇示するように、巨大なテムボをもって、國全體が前進蓮動の眞只 もかかわらず x の妨害、抵抗に打ち勝ちつつある : ・ ・ : 原理中にある。中世紀的状態の後進國から、一足とびに現代世界の最先 をもてる、本質的な歴史的プロセスを要求すること」・ つまり、國になりつつある。政治・經濟・文化等々、およそ瓧會のあらゆる
してそれをいろいろな方面から試みることによって、プロレタリア 眞實をえがけ、それは、まあなんと、古くさい常識であるか、と 2 田文學再建運動の方向は、次第に具體的な明確さを獲得してゆくであ いう奴があるかも知れぬ。が、それこそはまさにシニズムというも ろう。 のだ。古來の大文學はすべて、この平凡な、常識的な「眞實をえが その一つの試問として、私はここで、いわゆる否定的リアリズム く」ことのために、生死してきたのではなかったか。 の問題をとりあげてみたい。てっとりばやく結論をさきにいえば、 ところで、眞實といっても、さまざまである。それはけっして一 いささか異説めくかも知れぬが、否定的リアリズムは、再生プロレ様ではない。けっして無規定ではない。プルジョア的眞實もあれ タリア文學の一つの方向として、有意義でもありまた認められるべば、瓧會主義的眞實もある。漠然たる意味の生活的眞實や人間的眞 きだ、といいたいのである。 實というものもある。それからまた、眞實に對する考え方について 私はこの問題を、瓧會主義的リアリズムとの對比において論じるみても、藝術的眞實というものは、當の作家をはなれては存在しえ ことにしよう。まず最初に、幾分脱線する嫌いがあるかも知れぬない、というふうな考え方もある。眞實というもののこのような差 が、前置きとして、瓧會主義的リアリズム説を生んだ理論的前提に 違から、リアリズムの多種多様の性格が生じてくる。特定のリアリ ついて、私の理解するところを一言述べさせて欲しい。 ズムには、特定の眞實が對應する。眞實というものをつねに目標と しながらもこの眞實がその度毎に更新されてゆくところに、リアリ ズムの、一般には文學の、歴史的發展があるのだ。 瓧會主義的リアリズム提唱の意義を、文學理論の面について考察 さらに、われわれは、特定の眞實には、特定の現實が對應するこ するならば、それは、マルクス主義文學論における、舊來のイデオとをも、わすれるべきではない。認識の歴史的限界が、現實の歴史 ロギー萬能説、もしくはイデオロギー偏重説の終極的な淸算であ的限界に逹しない場合はいくらもある。凡庸な作家において殊にそ る、と私は解する。瓧會主義的リアリズムの方法にしたがって書けれがはなはだしい。しかしどんなにすぐれた作家であっても、彼が ということはなにを意味するかといえば、それは眞實をえがけとい および得る文學的認識の範圍は、現實の歴史的發展、限界を超える うことだと、グロンスキーはいっている。またキルポーチンは、社ことはできぬ。一九世紀初頭のスタンダールやバルザックにとっ 會主義的リアリズムのスローガンのもっとも簡單な眞意は、藝術家て、現實についてのプルジョア的眞實をかたることはできるが、現 から眞實を、藝術における生活のただしい描寫を、要求することの實についての就會主義的眞實をかたることはできないだろう。 なかにふくまれるといい、あるいは、現實の眞實の描寫の問題は、 瓧會主義的リアリストといえども、このような限界からけっして 文學にとっての、藝術にとっての生死の問題であるともいってい自由ではありえぬ。なるほど階級の情勢が當面の問題になっている る。ただグロンスキ 1 やキルポーチンにとどまらず、ソヴェート作 ソヴェ 1 ト同盟においては、認識の階級的限界というものはなくな 家・批評家の任意のたれかれが、一様に、このような點からものるかも知れぬが、その歴史的限界はこれからさき何年經ってもなく をいっている。プロレタリア文學論は、ながい間、イデオロギーのなる時はないし、また現實の歴史的發展が終止する時もないのであ 世界を彷徨したのち、いまやようやくその呪縛からのがれて、文學る。過去のリアリズムの限界だけを論じて、瓧會主義的リアリズム の本來の故鄕へもどった、と確言して差支えないだろう。 にはなんらの限界もないように考えるならば、それはあまりにも獨
領域が、無限の上昇線をたどっている。向上、進歩、發展前進、隆であり、僞瞞であり、死の反動である。古いものは、ますます古 4 盛、ーーなんといってもいい。要するにソヴェート同盟においてく、 醜く、ほろびるものは、ますます腐り、朽ちてゆくが、新しい は、現實そのものが、おそろしくボジティヴなのだ。誰の眼にもあもの、生まれゆくものは、まだ社會の河床に沈んでいる。 きらかなくらいポジティヴなのだ。 AJ : はどうした、プロレタリアートや農民の : この、眼にみえるということ、理窟や期待や見透しではなくて、 憤慨する人があるかも知れぬ。もちろんそれはある。そしてそれこ その姿が實際眼の前にあるということ、それが作家にとってこの上そ日本的現實における唯一のポジティヴな存在だ。だがそれはまだ なく重要である。作家は何者にもまして、抽象的眞理を信じない。 瓧會の前面に大きくあらわれたとはいえぬ。しかもそれはこの數年 その意味で、作家は非常に頑固であり融通がきかない。 間に、何回にもわたって、手痛い敗北を被ったのではなかったか。 ところが、ソヴェート的現實における瓧會主義的建設の : : : 進行 私はここでなにも政治論や瓧會情勢の分析をやるつもりはない は、もはやお伽噺や空約束ではなくて、明白な生活的事實である。 し、またそんなことは私のよくするところではない。私はただ、日 もはやソヴェート生活のあらゆる隅々にあらわれているのだろう。 本的現實においては、ネガティヴなものが、ポジティヴなものに比 たとえ否定的モメントが處々にあったって、肯定的モメントの比でして、あまりに大きく強いこと、だからネガティヴなものは、けっ はないだろう。グロンスキーは、いかなる眞實をえがくべきか、と して輕視できないということをいえば足りるのだ。したがって私の いう問いに答えて「もっともありふれた事實」をだといっている意圖が日本的現實におけるポジティヴなものの無視にあるのでない が、彼が「瓧會主義的眞實」を「もっともありふれた事實」といっ ことももちろんだ。 たところに、ソヴェート的現實の性格的な風貌があらわれていない ところで、もしも現實そのものがネガティヴなものであるとした だろうか。 ら、そのとき、作家がポジティヴな眞實についてかたることは、非 現實そのものが瓧會主義的であるときに、作家は社會主義的眞實常に困難だといわなければならぬ。作家は、すでに述べたように、 についてかたることができる。現實そのものがポジティヴなとき理や、豫想だけで物を書くことはできぬ。明日はこうなろうとい に、作家はポジティヴな眞實についてかたることができる。かく くら考えたって、こうなるべきものを現在自分の眼でみなかった て、社會主義的リアリズムは、ポジティヴな肯定的な、能動的なリ ら、それについてかたることはできぬ。たとえかたることができた アリズムである。 にしたって、これまでの安直プロレタリア小説の領域を、どれだけ でられるか疑問だ。 五 このことはさらに、現在のプロレタリア作家の階級的出身を考慮 ところが、われわれの場合においてはどうか。ソヴェート の現實に入れるとき、なお一層、シリアスな性質を帶びてくる。現在のプ と比較するさえ・ハカゲているだろう。 : ・なんてことがない ロレタリア作家の大部分は、インテリゲントの出身であり、そうで のはいうまでもないことだが、一般にポジティヴなものがあまりにないものでも、すでに前からインテリゲント化した人たちだ。そし すくなく、ネガティヴなものがあまりに多いことはたしかだ。支配て今後ともこの事情がさほど變ろうとは考えられぬ。時たま勞働者 的なのは、 、頽であり、不健全であり、醜悪層や農民層からすぐれた作家があらわれようとも、殘りの大部分は
た。そしてそのときから眞のレアリストたりうるものは、ただ現實容してこそ望ましいのだ。したがって「格鬪におけるプロレタリア をその全體性において、その發展のうちにおいて見るところのプロ のみが對象たりうる」という見解は我々の陣營内においてすみやか に淸算されなければならない。 レタリア作家のみとなったのである。 以上我々はプロレタリア・レアリズムがプルジョア・レアリズム プロレタリア作家は何よりもまず明確なる階級的麒念を獲得しな ければならない。明確なる階級的念を獲得することはひっきよう といかに異るかを見た。しからばプロレタリア作家は過去のレアリ 戰鬪的プロレタリアートの立場にたっことである。「ワップ」 ( ソ同ズムから何を繼承するか ? 我々はまず過去のレアリズムからその 盟プロレタリア作家同盟 ) の有名な言葉をもっていうならば、彼は現實にたいする客觀的態度を繼承する。ここで客麒的態度というの 。フロレタリア前衞の「眼をもって」この世界を見、それを描かなけはけっして現實ーーー生活にたいする無差別的・冷淡的態度をいうの ればならない。プロレタリア作家はこの觀點を獲得し、それを強調ではない。それはまた超階級的たらんとする態度をいうのでもな することによってのみ眞のレアリストたりうる。なんとなれば現在い。それは現實を現實として、なんら主副的構成なしに主觀的粉飾 において、この世界を眞實に、その全體性において、その發展のうなしに描こうとする態度をいうのである。そしてこの態度こそは過 プ・ロレタリ ちにおいて見うるものは、戰鬪的プロレタリアート 去のわが國のプロレタリア文學の多くのものに缺けていたところで ア前衞をおいてほかにないのだから。 あり、そしてそのゆえにいま我々がとくに強調しなければならない この戦闘的プロレタリアートの觀點はまたプロレタリア作家の作 ところであるのだ。これまでのわが國のプロレタリア文學を見る に、我々はしばしば、そこに描かれた現實が作者の主観によってゆ 品の主題を決定するであろう。彼はこの現實のうちからプロレタリ アートの解放にとって、無用なるもの、偶然なるものを取りさり、 がめられ、粉飾されているのを見る。しかしかくのごときはただに レアリストの態度でないばかりでなく、一般に優れたる藝術家の態 それに必要なるもの必然なるものを取りあげる。かくてあたかもプ ルジョア・レアリストの作品の主要なる主題が人間の生物的慾望で度ではない。我々にとって重要なのは、現實を我々の主觀によっ あったように、また小プルジョア・レアリストのそれが社會的正て、ゆがめたり粉飾したりすることではなくして、我々の主観 義・博愛などであったように、プロレタリア作家の主要なる主題プロレタリアートの階級的主観ーーーに相應するものを現實のうちに は、プロレタリアートの階級期爭となるであろう。 かくしてのみ初めて我々は我々の文學 發見することにあるのだ しかしながらプロレタリア作家はけっして、戦闘的プロレタリア をして眞實にプロレタリアートの階級闘爭に役だたせうる。 ートのみをその題材とするのではない、彼は勞働者を描くととも すなわち、第一に、プロレタリア前衞の「眼をもって」世界を見 に、農民をも、小市民をも、兵士をも、資本家をもーーおよそプロ ること、第二に、嚴正なるレアリストの態度をもって描くこと レタリアートの解放になんらかの關係を有するありとあらゆるもの これがプロレタリア・レアリズムへの唯一の道である。 ( 昭和三年五月 ) を描く。ただその場合彼は、その階級的點からーーー現在における 唯一の客觀的襯點からーーそれを描くのである。問題は作家の観點 、ーー題材 にあるので、かならずしもその題材にあるのではない。 は、この観點の許すかぎりにおいて、現代生活のあらゆる方面を包
やはりインテリゲントによって占められるだろうと思う。彼等は瓧とえば、ゴーゴリをとってみたらーー・はっきりしたことは、まだ私 會におけるポジティヴな存在から遠くはなれている。彼等が直接そにはわからぬ。 のなかへ入ってゆくのだったら別だが、そうでないかぎり、ポジ それからまた一フージンは、べリンスキーやチルヌイシェフスキ ティヴな存在について知ることは、困難だとしなければならぬ。 ーやドプロリ = ポフの名前をあげて、次ぎのようなことをいってい この困難を乘り超えて、日本的現實におけるポジティヴな存在に る。「べリンスキーもチェルヌイシェフスキーもドプロリ = ポフも ついての、たかい藝術的眞實をかたることのできる作家が、いまど 一切の徹底性をもって、藝術における生活の完全な全面的な反映の れだけいるかは疑問だが、もしもそういう作家が出現したら、 ( そ ために鬪爭することはできなかった。その政治的見解および哲學的 れはけっして不可能ではないし、またそれを目ざすことは必要なの見解において空想的瓧會主義の代表者であったところから ( 彼等の だが ) 私はその作家に對して最大の敬意を拂うだろう。文句なしに各よが個別的には政治的および哲學的見解をそれぞれ異にしていた 頭をさげるだろう。 のではあるが ) 物質的現實の眞實の發展過程に依據した積極的な綱 しかしそのことのために、私は現實についてのネガティヴな眞實領をもっていなかったところから、彼等は客觀的には否定的リアリ をかたる作家を輕視したくない。現實そのものが堪えがたいまでに ズムのために、社會的發展の推進力 ・ : を示すのではなくて、 ネガティヴであるとき、そのただれた上皮をひんむくことは、ポジ生活の暗黑面を曝露するところのリアリズムのために、生活現象を ティヴな眞實をかたることにくらべてけっして劣るものではないと綜合し典型化するだけで、その發展の自然的なもの、一つの特定の 考える。それ故、私は、再生プロレタリア文學の一つの方向とし階級ではなくて、全人民の利害の見地から生活を反映するところの て、ポジティヴなリアリズム ( わが國においても、それを社會主義 リアリズムのために、闘爭したのである。」 的リアリズムと呼んでいいのか、あるいは別の名前で呼んだ方がい さらに、ゴーゴリの名前をあげて 「まだ靑年の時代に彼を圍 によう いのか、私にはわからぬが ) とともに、否定的リアリズムが考えら 繞する貴族的環境のなかで、ゴーゴリはあきらかに貴族階級のさし れるべきではないかというのである。 せまれる減亡を感じた。そして自己の階級を救おうとするはかない 空想に身を燃やした。典型的な欟念論者であったところから、ロシ て アの資本主義發逹の一切の合法則性を理解しえないで、ゴーゴリは っ に ソヴ = ート的現實の照明のもとでは、否定的リアリズムは灰色の貴族階級の地位は道德的詭敎によって、暗黒面の曝露によって、そ ム ものであるらしい。 ズ れについての警告によって救うことができると考えている。彼はフ ア ルナチャルスキーは、一概にこれを、現實からの反動的離脱とし レスターコフ、マニーロフ、およびノズドリョフを描出して、さな 的 て排撃している。だが、 0 「ンチシズムにも、反動的なものと、そがらこういっているかのようだ。まさに彼等こそは貴族階級の咎ん 定 うでないものとがあると同様に、否定的リアリズムにも、反動的なであり、この階級をほろぼすところの人々である。彼等とたたか ものと、そうでないものとがないであろうか。資本主義的現實のもえ、 0 ンスタン・ジャグ 0 の例にならえ ! 」 とにおいては、 : ロマンチシズムの問題は、否定的リアリズムの 以上ラージンがいっていることのなかには、否定的リアリズムの 3 問題と同一の基礎において考えられはしないかと思うのだが , ・・ーた特色があざやかに示されている。が、その批判はかならずしも適切
6 ではないようだ。彼等を否定的リアリストたらしめたものは、彼等 3 の政治的見解や哲學的見解ではなくて、ニコ一フィ的現實そのものだ ろうと思う。ソヴェート的現實のもとでこそ、否定的リアリズムは 灰色であるだろうが、ニコフィ的現實のもとではけっして灰色では ありえなかったであろう。たとえ彼等が、空想的瓧會主義者でも、 念論者でもなくて、科學的就會主義者であり、辯證法的唯物論者 であったにしても、また物質的現實の眞實の發展過程に依據した積 極的な綱領をもち、資本主義發逹の一切の合法則性を理解しえたに しても、當時において、彼等がどれだけポジティヴな眞實をえがき えたであろうか。たとえ瓧會的發展の推進力や、その發展の自然的 なもの、合法則的なものを示さなかったにしても、ゴ 1 ゴリの「死 せる農奴、は、サルトウイコフの「縣物語」は、ニコライ的現實に ついての、たかい眞實をえがいていないであろうか。 私はゴーゴリ時代のロシアと現代の日本とがおなじだとはいわ ぬ。だが私は、否定的リアリズムは、現在において有意義であり、 文藝學の對象は云うまでもなく文藝である。尤も從來の日本語の 認められる必要がある、更生プロレタリア文學のなかに、公然たる 市民權を要求し得る根據がある、というのである。「主題の積極性」習慣によると、文藝は又史學とも呼ばれている。文學という言葉は 通俗語として、又文壇的方言として、特別なニ = アンスを有って來 時代にうばわれたところのその市民權を。 ている。單に文藝全般を意味する場合ばかりではなくて、却って小 そしてまた實際にも、すでに武田麟太郎その他の諸君において、 説とか詩とかいう特定の文藝のジャンルを意味したり、又はそうで 否定的リアリズムへの方向はあらわれはじめているのだ。 なくて、一つの作家的乃至人間的態度を意味したりもしているので ( 昭和九年四月「文學評論」特輯號 ) ある。丁度詩という言葉が文藝の一つのジャンルを意味すると同時 に、文藝全體に亙る一つのエスプリを指す場合があるように、文學 という言葉も亦、往々にして藝術の一領域ばかりでなくて文藝創作 の静を指すようだ。そしてこの文藝的精が、日本の瓧會の與え られた文化事情の下では、特に「小説」 ( 實は小説ロマンという よりも「短篇小説」・エルツェールンク・ノヴェル「中篇小説」 なのだが ) 又は精々「詩」ポエムというジャンルとなって發現す る處から、小説や詩というジャンルがち文學だというような潜在 戸坂 認識論としての文藝學
「えつ。もう燒いちゃったんか」 葬儀屋が來たり、坊さんが來たり、お經が上げられたりしている 8 驚きと落膽との混った聲が、悲痛な調子をこめて兄の口からほと % うちに夜になった。だが、兄は歸って來ない。そして、内うちだけ でしたお通夜は兄のいないことで一倍寂しさをふかめた。次の日もばしる。 「うむ、みんな、兄ちゃんの歸るの、待ってたんだけど、もう、先 次の夜も、やはり、歸って來ない。みんなは兄を待ちあぐみぬいて へ行っちゃったよ」 いるくせに、誰も兄の名を口にしない。そして、とうとう三日目の びつぎ 「がっかりしたな。おれはね。母さんのひどく惡いってこと、今、 朝になって、母の柩は、降り出した雨の中を火葬場へ運ばれて行っ た。朗は三ちゃんのお母さんといっしょに、留守番をいいつけられ知ったんだよ。今、出される時に。だから、まだ間に合うとばかし 思っていたのに。何だ。畜生 ! 」 て家に殘った。 上りがまちへうずくまって、さらに左の足袋を脱ぎにかかった兄 十時頃でもあったろうか。玄關の格子の開く音がしたので、直ぐ 様、朗は迎えに出た。みんなが歸って來たのだと思ったからだ。との眼に、見る見る涙がさっと湧いた。涙はさらに眼頭に溢れ、小鼻 ころがどうだろう、そこには思いがけなく兄が立っているではないを傳って疊へ落ちる。兄はそれを人に見せまいとして、わざと低く こうもりがさ がすり か。紺飛白の着物の居を雨に濡らして、雫の垂れる蝙蝠傘のやり場頭を下げる。そして、水をふくんで吸いつく足袋をやっと脱ぐと、 に一寸惑いながら、ペちゃんこにへった下駄の先に、ぬかるみの泥懷から手拭を出してごしごしと足を拭いた。時どき、それを内所で 眼にも當てながら。 : ・兄の手足が霜燒けで眞赤にふくれ上ってい をアンコのようにくつつけて立っている。 さらにもっと驚いたことは、いつだったか、出しぬけに飛び込んるのと、脱ぎ棄てられた足袋の底が、白い腹を返しているのが、そ で來て兄の部屋を引っ掻き廻した奴と同じような警察の男が三人まの時、痛いほどはっきり朗の眼に沁みた。 警察の男たちを玄關に殘して、兄はやがて奧に入ると、折柄、エ でも、兄の後についてどやどやと入り込んで來たことである。その こう、もめ - がさ 人たちは蝙蝠傘を杖について、家の中をじろじろとのぞいたり、互プロンで手を拭きながら臺所から出て來た三ちゃんのお母さんに、 に頭をくつつけ合って、何かひそひそ話したりしている。 先ずていねいに挨拶をして、さらに床の間の前へ坐った。床の間に 「ぬかるみへ入っちゃって、下駄が低いもんだから、まいっちゃっは新たに引き伸ばしをされた母の寫眞が、額に入れて飾ってある。 兄はきちんと膝に手を置いてしばらく寫眞に見人っていたが、だん た」 だん、頭を垂れ眼を瞑って長い間動かなかった。兄の眼から涙はも 兄はこういうと、戸障子が開け放されて、廊下から奥まで見える う乾いている。 家の中と、自分の前にぼんやり立っている弟の顔とを、不思議そう に見くらべながら、上りがまちへ足をかけて、汚れた足袋を脱ぎに 氣がつくと、久し振りに見る兄の橫顏が、何とまあ好くも母に似 かかった。 ていることか。高い鼻。ひろい額。引いたような太い眉。心持っき 出た顎。唇から覗く大きな齒。それが以前家にいた時にくらべて、 「兄ちゃん、雜巾持って來てやろうか」 ぐっと靑白く痩せたせいか、一ばいはっきり似て來たのだ。朗は兄 「いいよ。足は汚れちゃいないんだから。それよか、みんなどうし が母の寫眞に見入っている間、母に似て來た兄の顔を思わずしげし たい」 げと眺める。すると兄の歸って來た歡びが、始めてはっきり心の奥 「今、火葬場へ行ってるよ」 つぶ
我は我々の見地からゆるされる限りにおいて過去のあらゆる藝術的 衆的繪入雜誌の創刊に向ってあらゆる努力をなさなければならな 形式と様式とを利用しているし、また利用しなければならない。そい。 なにわふし れが必要な場合には浪花節や都々逸や、或いはまた封建的な大衆文 プロレタリア藝術運動の指導機關にはのものが載せられる。 學ですらの形式をも利用しなければならない。だがそこから直ちに 一、プロレタリア藝術作品 。フロレタリア藝術の形式が生れると考えるならば愚の到りである。 二、プロレタリア及びプルジョア作品の批評 もっと 尢も我々はこの領域においてもこれら封建的・プルジョア的形式 三、プロレタリア藝術蓮動の理論及びその實踐的指示 を、徐々にプロレタリア的形式に變えて行かなければならない。そ 四、マルクス主義藝術理論の研究 ( プルジョア藝術理論の批判を も含む ) れは我々がプロレタリア藝術確立の闘爭の上においてかち得た成果 をこの領域に應用することによってなし得る。また一方において、 五、過去の藝術史の研究 この領域は我々の藝術が眞に大衆的たり得るための一つの重要な試 これに反して大衆的アジ・プロの雜誌には、寫眞・漫晝・ポスタ 煉所でもある。だから我々は大衆の直接的アジ・プロの爲の藝術的 ・繪人物語・讀物及び大衆的な小説・詩等々が掲載される。 形式が來るべきプロレタリア藝術の一要素たり得ないとはいわな そしてこの二つのものが確立した時にのみ、初めて我々の藝術運 動は眞に新しい段階にその第一歩を踏み出したといい得るのであ ゆえん 我々が前にこの二つは全然區別して考えられないといった所以はる。 ( 同じことはわが劇場・美術展・音樂會、等々にもいい得るが、 とどま ここに存する。しかし、だからといってこの二つの運動を現在にお ここでそれに停り得ないのは殘念である。 ) いて無批判的に混同してしまうことは、それは決して我々の藝術運 以上に私が主張したことは、藝術蓮動の古い殼に閉じこもろうと 動を最も有效に展開してゆく所以ではない。 するものにとっては、一つの突飛なる飛躍のように思われるかも知 同じことはまた我々の機關誌「戦旗」についていい得る。我々はれない。しかしこれらのすべては、建設期にあるソヴェート連邦に 今まで機關誌「戦旗」を、「大衆化」せんとし、それを廣くエ場・ ついては既にいわないとしても、變革前期にあるドイツ、フフン 農村の廣汎な幾百萬の未組織大衆の中に「持込」まんとして、失敗ス、イギリス等の先進國においては既に部分的には實行されている した。失敗は當然である。我々が誤っていたのだ。我々は過去にお ことであって、決して突飛なことでも新しいことでもない、という いて「戦旗」は同時に藝術邇動の指導機關であり、また廣汎なる大ことを附加えて置きたい。 ( 昭和三年八月 ) 緊衆のアジ。プロの機關であり得ると考えていた。 ( 例えばそこには 大衆的な讀物と並んでむずかしい藝術上の論文が掲載された。 ) そ れは間違いである。我々は今、この藝術蓮動の指導機關と大衆のア 術ジ・プロの機關とを斷然區別しなければならない。 このことから生れて來る實踐的結論は何か ? それは極めて簡單 四である。我々は一方において藝術運動の眞の指導機關の確立を期す 3 ると共に、他方において廣くエ場・職場・農村等に持込み得べき大
プロレタリア文學集目次 卷頭寫眞 前田河廣一郞 三等船客 : 林房雄 林檎・ 里村欣三 苦カ頭の表情 : 藤森成吉 散彈・ 土堤の大會・ 立野信之 友 : 山内謙吾 三つの棺 : 山本勝治 十姉妹・ 岩藤雪夫 ガトフ・フセグダア : : 吉
朗が荒あらしくその手を押しのけた時には、帽子はすでにもぎ取 「共産黨の弟なら、共産黨にきまってるじゃないか。馬鹿野郎」 られて、後には刈ったばかりのいが栗頭が、日を浴びてうす靑く光 瞬間、朗は言葉が咽喉に詰った。だが、たちまち怒がそれを突き っている。 破った。 すいか 「やあ。眞田の頭、赤いと思ったら、眞靑だよ。西瓜みたいに眞亠円 「僕の兄ちゃん、共産黨なもんかい。ちゃんと帝大へ行ってるんだ だよ」 「西瓜だから、中の方が赤いんだよ」 「嘘をつけ。隱したってみんな知ってるぞ」 「そうなんだよ。西瓜頭の赤頭リ 「隱すもんかい。じゃ、誰がそういった。いって見ろ」 「昨日、警察の人が僕ん家へ來てそういったよ。眞田の兄貴は共産「やあい。西瓜頭」 黨で、刑務所へおつぼり込まれているんだって : : 」 三人が組み合せた肩をほどいて、體を左右にくねらせながら、 「嘘だい。供の兄ちゃん、刑務所なんかにいやしないよ。大きなお 又、大袈裟に笑った頃には、朗の帽子は向うのぬかるみへ投げ込ま 邸で勉強してるんだよ」 「アハッハッ、。 おかしいなあ。刑務所がお邸だとさ。アハッハッれていた。 朗は口惜しさで頭の中がいつばいである。自分の事も口惜しかっ た。だが、それよりも、兄の事がさらに幾倍も口惜しかった。世の 腰巾着の白井が靑っ鼻をすすり上げて、大業に笑って見せると、 中で誰よりも一ばんすきな兄、始終、勉強していた兄、よく學校の 吉川も直ぐさまそれに合槌を打つ。 「全くハッハッハだ。ねえ君。眞田の奴、よっぽど馬鹿だよ。自分できた兄、そして、兄弟思いで親思いで、いつもみんなにやさしい の兄貴が暗い所へ入れられてくさいおまんま喰べさせられているこ兄。その大切な兄を、こんなろくでなしの金持の子供に、とやかく いわれるのが口惜しかった。その又ろくでなしの腰巾着に馬鹿にさ となんか知らないんだよ。アハッハッハ」 くらびる だが、それに對して、期の怒にふるえる脣が、言葉を出せずにれるのが口惜しかった。 帽子が投げ飛ばされたのを知った時、朗はもう我慢が出來なくな いる間に、こんどは、又、松本がのしかかるようにどなった。 「校長先生がそういったよ。眞田の兄さん赤いんだから、眞田と遊った。そして、怒と口惜しさとで顔をいつばいにふくらませて、松 本眼がけて飛びかかった。取っ組み合いが始った。白井と吉川は直 んじゃいけないって。うつかり遊ぶと赤くなるって」 ぐ松本に加勢する。白井は後から朗の服の襟を引っ張り、吉川は横 「君、眞田の何處が赤いんだい」 ロ から腕を押える。互にぶつ。蹴る。ねじる。からみつく。四人は顏 腰巾着の一人がきいた。 を眞赤にし、獸のように呻きながら、往來一ばい埃を立ててぐるぐ 入「頭が赤いんだとさ」 る廻る。朗はとうとう砂利の上へ押し倒された。 生「そうかい。こいつの頭、赤いんかい」 「ざま見やがれ。弱虫」 こういうが早いか、吉川の腕が伸びて、朗の帽子を鷲づかみにし 9 こ。 「口惜しかったら、かかって來い」 2 「いくらでも、のしてやるからー 「こん畜生。何、しやがるんた」