といふ纓言は、如何にその搾取がひどく、苛虐を極めたかを證左し た。供にとって日本の音樂は、龍宮から歸った浦島の故翹の如く、 6 てゐる。しかし一方から欟察すれば、代官といふ職業も可哀さうで すべてに於て物珍しい好奇と鄕愁の對象である。それは近頃になっ て初めて知った藝者の美しい姿と共に、僕の限りなきエキゾチズムある。彼等は今の税務署の役人みたいに、一錢でも多く、出來るだ け税をしぼらなければ、政務不行屆として、たちまち懲戒免職され の對象であり、キューリオスの異にみちた世界である。 てしまふ。と言って政府の命令通り、あまりひどくすると人民の怨 嗟を買ひ、遂には百姓一揆などが起って來る。さうなると德川政府 は、人民の怨嗟をなだめ、併せて政府の公明正大を示す爲に、いは 我が故鄕を語る ゆる喧嘩兩成敗の法規に照らして、代官に切腹を命ずるのである。 何れにしても代官はやり切れない。國定忠治がもし敎育のある男だ ったら、代官なんて相手にしないで、直接德川政府に對し謀叛した 上州と言へば、人々が直ぐ長脇差を聯想するほど、私の故鄕は、 昔から仁義侠客の徒が橫行してゐた。これには社會上の人事的理由らう。その深い思慮分別がなく、目前の事に激して衝動的に行爲す もあるし、風上上の自然的な原因もある。 るのが、侠客の悲しいところであり、併せてまた上州人の氣質的な 缺點でもある。 人事上の理由としては、上州が幕府の直轄地であった爲である。 德川幕府の政策は、日本全國に緻密な警察網を張り廻らして、膝 懲川幕府は、日本全國の各地に諸大名を封じたけれども、上州だけ は直地として、その直の官吏である代官を派遣した。ところで下の關東をその警察本部にした。いはゆる「關八州の役人衆」がこ 代官と人民との關係は、殿様と人民との關係とちがってゐた。一國れであって、朱房の十手を閃かした捕手共が、上州地方を中心に横 の君主である殿様にとって、人民はその所有物の一部であるし、且行した。この江戸時代の警察官といふ奴が、實に人格の下劣な奴 で、代官に劣らず人民を苦しめた。國定忠治等の侠客たちは、一方 っ先祖以來の主從關係があるしするので、自然に相互の間に人情的 で代官に反抗しながら、同時にその手先である捕手等と戰った。捕 の親愛が結ばれてる。然るに代官と人民との間には、何等さうした 温情關係がなく、單に搾取者と被搾取者との冷酷な政治關係にしか手や同心衆に對する忠治の憎惡は、動物的に烈しく、生理的・ハッ 過ぎないのである。しかも幕府當局は、代官に命じて壓制苛虐の税ショネートのものであった。 上州といふ所は、荒寥とした平野の中に展開されてる。空にはい 金を人民から取り立てたので、衆怨の集まるところは、常に至ると ころに、國定忠治のやうな叛逆兒を生んだのである。國定忠治が代っも烈風が吹きすさび、地上には佗しい砂埃が立ち迷ってゐる。人 官を殺したのは、人民の輿論を復讐したやうなものであった。この民は苛視のためにひどく疲弊し、農家は貧窮の底に喘いで、田の畔 點で上州の侠客は、江戸の男伊逹とちがふのである。江戸の侠客と土もかさかさに乾いてゐる。これは全く「荒寥地方」のイメージで いふのは、大名や資本家を後楯にし、町人プチプル階級の自家警察ある。 その上にまた上州には、地方的の傳統文化といふものが少しもな として、暴力團的横暴な武士階級に當ったのである。 じゅ 代官といふ言葉は、昔の上州地方の人々、特に農民にとって、呪かった。越後とか、金澤とか、尾張とか、紀州とかいふ所には、皆 詛のかたまりのやうなものであった。「泣く兒と代官には勝てない」 昔からの殿様が居り、人民と共に協力して、夫々傅統的な地方文化
しかし事實はさうでな 錯誤させられる。 ゃうに錯誤する。 レオナルド・ダ・ヴィンチ靈感にうたれた僧侶が、高い敎壇の い。あの帽子の汚點やステッキの泥やは、その實既に出來あがって ゐる命題 ( 直感的把握 ) の中に含まれてゐる賓辭にすぎない、彼は上から火のやうに燃えあがって叫んだ。そして聽衆は彼等の感動の ていきふ 最高潮に於て、一様に涕泣し、絶叫し、萎縮し、殆んど昏倒するま 單にそれを抽象し演繹するのみである。されば弟たちょ。ホームズ に就いて誤解するな。すべての探偵術はかくの如きものだ。それはでになってしまった。この異常なる、恐ろしく高壓した空氣の中 氣がする」の蟲の知らで、レオナルドは唯一人冷靜として立ってゐた。見れば彼の手にし 全く純一な直感である。あの「何となく せであり、氣分として感じられるこつである。およそどんな理窟もてゐる書从の中には、狂氣した獸のやうに、世にも醜い表情をした 僧侶の顏だの、興奮した人々の情熱に歪んだ奇怪な相貌などが、皮 どんな推理もそこに有り得ない。それらの分析的能力は別である。 然りそれは探偵術と別である。そしてげにそれはまた藝術と藝術理肉で辛辣なカリカチールで描かれて居た。 おお、レオナルド・ダ・ヴィンチ ! げに彼こそは、その群集の 論との別である。 中に於ての唯一人の醒めたる人であった。當時、伊太利中世紀末の 對色と混色そこには一つの別莊がある。靑々とした湖水に近人心を支配してゐた二つの大きな時流的感情ーーカトリック敎の妄 く、また新綠の山の中腹に、夢のやうな白堊の別莊がある。そして想的神祕思想と、錬金術の夢遊病的祕思想ーー。はダ・ヴィンチに まで甚だ笑止なる心像にすぎなかった。彼の見るところによれば、 みよ、そこにはまた一つの別な別莊がある。閑靜な田舍の徑路に、 し、をりど 前者は愚劣な迷信であって後者は通俗の詐欺にすぎなかった。そし または溪谷に望む幽地に隱見して、風雅な枝折戸を閉ざした別莊、 て兩者共に無自覺な俗衆を狂熱させ、卑俗な時流的陶醉をあたへる いかにも「自然そのもの」の粗野な情景にふさはしい・別莊がある。 さて我等はそれらの別莊から、明らかに二つの別な感情を味はふこ低級センチメンタリズムにすぎなかった。さればダ・ヴィンチが一 人狂熱せる群集の座を離れて、冷やかに會堂の柱にもたれて居たと とができるであらう。かの「靑色の自然」に對して「白色の家屋」 き、彼の心はどんなに群集 ( の苦々しい憎惡を感じたであらう。私 を反映させる西洋人の感情と、「落葉色の自然」に對して同じく 「落葉色の家屋」を造り、沈鬱した田舍の氣分の中で同じく沈鬱しは明らかにレオナルドの表情を讀むことができる。それは輕蔑と退 た閑靜な氣分を愛づる日本人の感情とを。げに前者の趣味は自然を屈との搖動する、世にも寂しい孤獨者の顏ではなかったか。彼自身 の偉大な藝術、あの「モナ・リザ , の顔に見る祕的な寂しい微笑 逆に反映することによって、自然と人生の對色を夢むのであり、後 それは人間の靈魂の底知れない孤獨の悲哀を語ってゐるーーで 者の趣味は自然に融合し混色することによって、自然への完全な隷 情屬を願ふのである。されば前者の配色では、人間的色調を強烈にすはなかったか。 きることによって、いよいよ自然との調和を鮓明にするに反し、後者 新の意匠では、人間的色調を稀薄にすることによって、いよいよ對象數學數學は最高の美である。 との融合を完全にすることができるであらう。げにさうした後者の 感情には、自然に絶對的服從のしをらしさ。ーー消えも入らばやの風文獻學者風な生活黴の生えた、または新しい、それら多くの書 2 物や文獻に興味をもっ所の入々は、そして彼自身には、別に之れと 情ーーーがある。 かび
幕府によって、全く反對のものに人れ換へられた。それは魄を汚辱の戰鬪に適しなかった。それが彼等を集團させ、章魚のやうにねば され、穢らはしく冒漬された武士道だった。そしてしかも、それが りついた、柔軟強靱の軍隊を組織させた。もっと勇敢な民族等は、 今日の或る爲政者や國粹主義者等から、日本武士道の名によって、 個々に離れて戦線に立ち、散兵陣形によって戰爭した。アッシリア 奬勵されてるものなのである。 の兵士たちは小さい堅い甲蟲のやうに見えた。それはどんな敵軍の 中へでも、火取蟲のやうに跳び込んで來た。。ヘルシャの軍隊は戰車 等持院を訪ひて足利幕府の哲學は、奪氏以來老莊の虚無主義で をかこんで、楯をがちゃがちゃと烈しく鳴らした。その戰車の輪に むさほ 一貫した。それは取るものにすべてを取らせ、貪るものをして貪ら は鎌があり、蟷螂のやうに敵を薙ぎ倒した。 せ、政府の權力の分母價を、ゼロにまで消滅することであった。そ 古代の重甲兵はタンクのやうに、重さ十貫目もある鎧を着てゐ してこの「無用の用」から、逆にまた一切を掌握し、十三代もの長た。どんな槍や刀でさへも、彼等を殺すことは不可能だった。しか い間政權した。奪氏は哲學者であった。そして代々の將軍は詩人でしながらタンク自身が、その重甲の中で窒息し、熱氣に蒸されて死 あり、風流人であり、インテリゲンチアであった。彼等は政治的に ぬのであった。印度では象除を先陣に出し、野獸の傷ついた狂暴か は無能者だった。そして何時も、暗い茶座敷の中で冥想し、能や書ら、戰爭を非理性的な幻想に混亂させた。マケド = アの軍隊は除列 畫やの風流にのみ耽ってゐた。「すべての王者は、華麗と力の宮 を組み、先列の楯の上から、後列が槍を出して突撃した。その槍は 殿に住む。余は世界を巡遊して、始めて王者の藝術する住宅を見 非常に長く、敵の武器が屆かぬ前に、勝利を決定してしまふのだっ た。」と、金閣寺の庭を見て一外人が嘆息した。足利代々將軍の生た。 活はど、人間として情趣が深く、幽玄な哲理を感じさせるものはな かくの如く、古代から人間は戦爭して來た。夢魔のやうに、狂氣 いうすゐ い。それらの床しい人々は、今でも尚あの天井の低い、暗く幽邃なのやうに、動物のやうに戦って來た。彼等は様々の武器を有し、種 等持院の一間の中で、抹茶の匂ひを嗅ぎながら生活して居る。一九種の工夫された方略で戦って來た。だがそれらの戦術の上位に於 一〇年頃まで、案内の小坊主はかう言って居た。「初代尊氏公を始て、さらにまた一つの、不思議な共通した戦術があった。それはメ めとし、十三代公様、何れも佛敎に歸依厚く、風流濶逹の方々であタフィジカルな戦術であり、常識を超越して、本能の神經だけが知 られました。御參拜がすみましたら、別間でお茶を立ててさしあげ り得るところの、或る種の精錯亂的な原理である。我々はそれを ます。」 知ってる。だが動物の舌が言へないやうに、永久に言ふことが出來 ないのである。 歴史の嘆息人生は短く、註釋は長し ! 歴史はかく嘆息する。 の 歴史の生理學人が歴史に興味を持って米た時は、老齡が忍び込 絶 戰術の祚祕古代エジプトの軍除は、百人宛を百列として、一萬んで來たことを語るのである。一個人についてもさうであるし、文 人方陣の密集大部除を構成して居た。それは人間の城砦であり、巨化の時代的風潮についてもさうである。 大な象のやうに蓮動して、到るところ地上に敵を踏みにじった。け 2 だしエジプト人は扁平足で、一體に筋骨が軟弱であり、個人として鏡の映像道懲律の掲げるものは、常に自然性の禁止であり、缺 たうらう
れぬ醜態の過去に對して、我等の良心は顔を背け、熱病のやうな苦 8 うで、いっかは樂しい幻想の、氣分の、情調の、夢の深い、一括し 患を感ぜずに居られない。そんな厭はしい過去の心像を眺めることて言 ( ば詩的な美感の中に溶け込んでしまふ。所が之れに反して、 は、鏡の中から自我の肯像を追ひ出し、どこかの人目に觸れない、 雲行きの穩やかでない、曇天の重苦しい空の下では、どんな想も たと ( ば宇宙のどこかに在るかも知れない「隱されたる時間」の第いらいらして一切が厭はしい實感の憂苦に感じられる。それでこそ 三次空 ( 消抹させようとする努力のやうで、この上もなくいらだた人生に於ける秋の頃ーー・そこでは思想が圓熟し、空は高く睛れて感 しい惱みを感じさせる。それ故過去の追憶は、それが好い部分であ情は靜かに流動してゐるーーその秋の頃にこそ、我等の過去は收護 るにせよ、惡い部分であるにせよ、何れにせよ、我等の今日の生活され、すべての生涯が善美に肯定されるのである。そしてあの暑苦 へうべう に憂愁の黑い影を縹渺させるであらう。とはいへこの兩月論法は、 しい人生の夏、落付きのない靑春の焦躁と、烈日の熱に喘ぐ情慾の すべての論客がよく知ってゐる「ジレンマ破り」の方式によって、 夏ーーに於ておほむねの過去が否定され、追懷は息苦しい悔恨とな また容易く破ることができるかも知れぬ。さういふ側の説を立てる るであらう。されば我等の注意は、ひとへに今日の空模様をつつし 人は言ふであらう。過去の追憶は、それが「好ましい方」の部分にむこと、惡しき空模様の下では夢々追懷の古い戸棚を開けないやう 於ても、また「好ましくない方」の部分に於ても、共に現在の自分に心せよ。諸君が若し現在を愉快に、できるだけ苦痛なく過したい にとって樂しい者でなければならぬ。何故といふに、若しそれが と願ふならば。 「好ましくない方」の再現であったにせよ、既に時のたった記憶は 程のよいぽかしを以て我等の眺望に距離をあたへる。 げに記憶思想と肉情だれも自分の「思ひ」を聞いてくれる人がなく、ま としての苦痛は既に實際の苦痛ではなく、却って何等かの甘味のあたこっちから話しかけるほどの人も居ない時。つまり人が孤獨でゐ る情想でさへもある。ー・ , ・我等はその離れた遠方の距離から眺めるて感情のはけ口を失ってゐる時、我等は思想の過剩に苦しんでく 故に、どんな醜惡な厭はしい過去の景色でさ ( も、今の自分にはむる。あの配偶者をもたない獨身者が、いつも肉慾の過剩に惱んでゐ るやうに。 しろ却って懷かしみある幻想として、詩味に盟かな藝術的の氣分に 於てすら照することができるであらう。況んやそれがさうでな く、他の「好ましい方」の追懷であったならば、もっと一層容易智慧の明暗我等の自ら經驗する所によれば、日常生活に於て役 に、一層醉心地のいい追憶氣分に浸ることができるであらう。だか 立っ所の我等の經中幅 が、そ 印ち醫者の言ふ健全な經 ら追懷の抽出しは、どの部分をあけて見ても樂しいものである。どの作動を障害され、何等かの病的な變調を起した時に於て、不思議 この部分にも、我等の美しい情絡の夢が縹渺して居ると。 にも藝術上の天才的叡智が世界を白晝のやうに照らし出して來る。 そこで結論は、この二つの同じ論法によった正反對の議論の中、 思ふにベルグソンの説く如く、我等の通例常態に於ける經系統 その何れが正しいかといふ判斷であるが、この點に關して言へば、 は、全く現實世界の功利に關した實生活にのみ役立つ者であって、 我等は「自我の日和」を見るより仕方がないであらう。だれも知る 非實用的な眞や美の照には役に立たない者、その方面の智慧に至 通り、雲行きの靜かな隱やかな日や、涼しい爽やかな微風が流れて っては、之れと全然本質を別にした或る他の特殊な經が關與して ゐるやうな日には、我等のすべての追懷は、あの靑空に浮ぶ雲のや居るにちがひない。されば何等かの故障によって、前者がその不斷
2 のマンジ、ーの映畫を見る毎に、「通人の悲哀」といふことを痛感ある。 かって自分は、雜誌「四季」に書いた或る短文中で、佛蘭西語の 3 する。通人の悲哀とは、何もかも知り盡し、趣味があまりに洗練さ れ、知性があまりに明徹にすぎることで、人生への希望と興味を失サンチマンと言ふ言葉は、日本の古語の「あはれ」に相當すると敍 べたが、まことに佛蘭西映畫を見て感ずるものは、日本語の「あは ひ、不斷のアンニ、イに惱まされてる地獄人の悲哀である。そして れ」と言ふ語が情操するところの、或る一種の意味深き哀傷感であ この「通人の悲哀」こそ、すべての佛蘭西映畫に通じてゐるモチー フである。爛熟すぎることによって、文化は人間の野性を奪ひ、生る。映畫ばかりではなく、他の多くの文藝、特に就中抒情詩のエス 。フリとして、佛蘭西人は昔からこのサンチマンを重視してゐる。だ きるための強い鬪志と、生活者としてのエネルギーを消耗させる。 佛蘭西映畫を見て、日本の平安朝時代を聯想するのは、その兩方のが佛蘭西人の言ふサンチマンは、日本語の感傷ーーそれは知性の缺 文化の素質が、この點で共通してゐるからである。勿論當時の日本如した少女文學を聯想させるーーとは、全然内容のちがった別物で ある。そしておそらくはまた、英語にも獨逸語にも、これに適應す の文化は、一部の殿上貴族人に専有された文化であって、近代歐洲 る外國語は無いであらう。外國語のセンチメンタルといふ言葉は、 の文化の如く、デモクフティックに普遍されてるものではなかっ た。しかしその一部の貴族人等は、文化の殆んど爛熟し切った絶頂すべて情熱的なものや、。ハッショネートの精紳を意味してゐる。だ の世界に住み、知性と趣味性の最高な敎養から、人生への希望と興が佛蘭西の詩人等が言ふサンチマンは、むしろその反對のものであ 味を喪失し、生活意欲の熱情を消耗して、不斷のアンニ、イに惱まって、靜かに物佗しく、アポロ的典雅の知性と趣味性の敎養を要素 してゐるところの、一種のインテリジェンスの哀愁感を意味するの されてた。 ( もっともこの點から言へば、江戸時代の日本人も同じ であった。その點で日本の江戸文化が、現代の佛蘭西文化と共通すである。そこでこの佛蘭西語に適應する言葉は、世界を尋ね探し る所が多いのは、長く巴里に滯留してゐた日本人が、歸朝してからて、おそらく日本語の「あはれ」より外にないであらう。 佛蘭西映畫を見て感するものは、實にこの同じサンチマンの「あ 殆んど皆江戸趣味者になることの事實が實證してゐる。しかし江戸 文化には、眞の知識階級的インテリジェンスが無かったので、本質はれ」である。そしてこの「あはれ」は、サマンや、ヴェルレーヌ や、ポードレエルやの、すべての佛蘭西の抒情詩からも感じられ 的にはやはり平安朝時代の方が、現代佛蘭西に近いのである。 ) 獨逸映畫の情操には、イデアに對するロマンチックな憧憬や、人る。それは獨逸的な感傷とは正反對に、魂の沈靜した、佗しく果敢 生に於ける悲壯な英雄詩的な爭鬪や、ハイネ的な感傷性に富んだ抒なげな哀愁感であり、我が平安朝時代の昔の詩人が、佛敎の影響の リック 情詩やが主潮してゐる。だが佛蘭西映畫の情操には、そんなロマン下に情操した、かの「物のあはれ」の詩情と極めて酷似したもので チシズムが全くなく、あくまで自然主義的なレアリズムが主潮してある。「物のあはれ」の本質については、佐藤春夫君が既によく行 ゐる。そしてもちろん、悲壯精艸の英雄詩もなく、ハイネ的センチき屆いた論文で解説されてる如く、知性と趣味性の最高な敎養に立 メンタリズムの抒情詩もない。佛蘭西映畫のエスプリは、純粹に主った。ヘーソスであり、一切の感傷を排するところのリリシズム、一 知主義的、散文精的のものである。だがそれにもかかはらず、全切の内容を否定するところの文主義である。そしてこれがまた、 卷を通じて何かの或る「うら悲しきもの」が流れてゐる。その「う最近佛蘭西の詩壇で呼ばれてゐる「純粹詩」の精とも符節するの だ。平安朝時代の和歌、例へば古今集や新古今集などが、その本質 ら悲しきもの」の本體は何だらうか。此處に我等の間題が殘るので ェビック
を建設してゐた。然るに代官政治の上州には、さうした文化を創造中にさへ、多分にこの浪漫的精があるのも、まことに偶然でない する根據がなかった。上州人は、「殿様」といふ言葉を知らないやといふ感じがする。 うに、「城下町」といふ言葉を知らず、風流とか雅趣とかいふ、文 高山彦九郎といふ人が居た。幕末に皇室の袤微を憂へ、京都五條 ア ) - っし」・つ 化情操そのものを知らないのである。そこには荒寥とした自然があ橋の上に坐って、日々に皇居へ向って叩頭しつつ、言然と涙を流し 、長脇差をさした無賴の徒が、殺伐野人の歌を唄って、飢ゑた狠てゐた。時人は彼を狂人と呼んだ。しかし彦九郞の爲しことは、 のやうに徘徊してゐた。 大義名分の正義が度れて、不義邪惡の橫行するのを怒ったのであ 統文化のない上州には、また宗敎の傅統信仰が殆んどなかつる。彼はアイデアリストであり、ロマンチストであり、そして愛す た。私が他國へ行って驚くのは、どこの町々にも、立派な寺院や佛べき純情家だった。しかしながら彼には、吉田松陰のやうな大思想 閣がたくさんあり、町全體のつくる空氣が、それの香爐や、線香もなく、高杉晋作のやうな大野心もなかった。彼は全く單純な人物 いう 4—ん や、梵鐘や、佛敎傳説の繪卷物やで、幽邃に暗く濕った影をもって であり、純一の感情でのみ行動した。彼もまた國定忠治と共に、衝 ゐることである。つまり、「城下町」といふ言葉は、さうした宗教動的テロリストとしての上州人を代表する。 、傳説的の信仰とからみ合って、幽邃に構成された町の雰圍氣を かうした上州人の宿命は、先天的に「犧牲者」といふ言葉でつく 言ふのである。然るに城下町のない上州には、佛敎の傳統的な信仰 されてゐる。國定忠治の一生もさうであったし、高山彦九郞の行動 がなく、寺院といふものが極めてすくない。 もさうであった。いつも必ず、上州人は敗北者に極ってゐる。成功 本質的に言って、上州人は皆無宗敎である。しかしその爲、明治 したのは、新田義貞でなくして ( 四字缺除 ) であり、高山彦九郞でな 以來上州には新しい宗敎が盛んに榮えた。キリスト敎も、天理敎も、 くして高杉晋作の一派であった。日露戦爭の時、高崎十五聯隊の兵 大本敎も、上州で最も多くの信者を得た。特にキリスト敎は最も榮士たちは、旅順攻撃の先頭に立ち、敵の機關銃によって全滅され えた。明治宗敎界の偉人であり、靈界の義人と呼ばれた二人の人、 た。何かの民衆騷議が起る毎に、いちばん先に立って石を投げ、後 ち新島襄と内村鑑三の兩氏も、また實に上州の出身であった。 で處罰される馬鹿な彌次馬も、同じくまた上州人である。 上州人がキリスト敎に接近するのは、過去に佛敎の傳統を持たな 上州人は簡單である。その上に純情家で人が好く、何の深い計畫 かった爲であるが、一つにはまた上州人そのものが、氣質的にキリ も術策もない。彼等はドン・キホーテのやうに、いつも眞っしぐら スト敎的、プロテスタント的であるからである。上州といふ所は、 に突撃して行く。そして打たれ、傷つき、最初の犧牲者となって敗 その自然が遠望的に廣くひらけて、浪漫的な鄕愁を帶びてゐるやう 北する。上州人の一生は、いささかューモラスでもあるし悲壯でも に、人間もまたロマンチックで、未知の世界や理想やヘの、強い憧ある。だから上州には、古來一人の英雄らしい英雄も出てゐない。 憬を情操してゐる。その上にも反抗的であり、正義を追ふ念が強い德川家康とか、太閤秀吉とか、源賴朝とか、少し下った所で伊逹政 ので、プロテスタント的の耶蘇敎精溿が、おのづから新島先生や内宗とか、上杉謙信などといふ人々は、何れも權謀術策に富んだ政治 隨 村先生を生んだのである。そして明治文壇の若々しい浪漫派文學家であり、仲々もって一筋繩ではいけない古狸の曲者だった。單純 で人が好く、純情一途の。ハッションで行動する上州人は、江戸ッ子 が、實にまたこの人々のキリスト敎精禪から胚胎した。この意味に 3 於て上州は、日本浪漫派文學の發足した水源地であった。私自身のと同じく、到底英雄になる柄の人物ではない。古來歴史上の英雄 想
それ故もし許され得べくば、私の思想にまで、自ら散文詩と名づけたい のである。その名辭ほど、自分の氣分にびったりと適合するものはない。 けれどもそこには、一つの内氣な遠慮がある。實際今日の詩壇で言はれて ゐる散文詩とは、私の此所に書くやうなものでなく、もっとずっと暗示的 で、節律の高い、つまり言へば敍情詩のいくぶんひき延ばされたやうなも のを意味してゐる。だからこの意味での散文詩と言ひ得べく、私の表現は あまりに説明的で、且っ非節律的でありすぎる。況んやまた集中には全く 純粹の評論と目すべきものすら混じてゐる。 ( 集中◎印を附したものは純 粹の評論であって、他の作と少しく氣分を異にする。それは別著「詩の原 理』から取った者であるから、この書物の統一的氣分と調和しないのであ るし ) そこで私は、あへて散文詩の名稱を遠慮してしまった。そして結局 この書銘「情調哲學」を選定 最後にーーあまり好ましくはなかったが したわけである。哲學といふ言葉の中に響く、理窟ばった感じが少し厭や であるが、それでもあの「論文」や「評論」や「隨筆」や「感想」やに比 して、遙かにそれは私の氣分に近い。閉ち私の思想の風光を、ある程度ま で實景に近く打ち出して居る。 季節遲れの由來この書物の中で、特に自然主義の藝術論に關する部分 は、今から數年前、尚且つ自然主義の常識美學が聲高く絶叫されてゐた 頃、私の押へきれない「時流への叛逆心」によって書かれたものである。 だから既に敵の影が薄くなってしまった今日では、もはやよほどにまで對 手のない喧嘩であって、公表の興味と刺激とを失ってゐる。明白に言へ ば、私は出版の季節を失ったのである。しかしこの季節遲れの思想も、ま た別の新しい精に於て、新しい敵への義憤として爆發されるであらう。 そしてその「新しい敵」といふのは、實に今日の時流をつくる幸餾論やレ アリズムの思想であり、尚且つ自然主義末派の精から胚胎された一切の 現實的安易思想である。されば私をして、今日尚徹底的にまで「種の起 欲原」を評價せしめよ。その美學とその人生欟のすべてを含めて。 し 第一放射線 新常識美學の由來この書物を一名「詩の原理への人門」と呼ぶ。それは 書中に自著『詩の原理』中の重要なる論文ーー「主観と客刪」「藝術の二 % 大系統」「敍情詩の本流はどこにあるか」「色情は藝術であり得るか」等讀者、の挨拶麗はしい朝の門口に於て、諸君にまで挨拶する所 2 を納めたばかりでなく、他にも藝術原論の根本問題に就いて隨所に意の隣人。「お早う。好い天氣ですな今日は。」といふにこやかな顔 見を述べてゐるからである。すくなくともこの點に關していへば、この書 物の内容は純然たる藝術哲學の根本問題 ( 幻ち詩の原理への人門 ) であ る。とはいへ勿論、この書物は體系ある思辨哲學ではない、それは直感に 訴へる常識美學である。特に就中、過去のまた現在の文壇に流行する、 「沒常識な常識美學」に贈るべき、一つの好適な常識美學である。 書物の讀み方この書物は、いつでも讀者の手に觸れた所を開き、隨意 に眼の觸れた所から讀んでもらひたい。かくの如き書物にあっては、系統 立った通讀ーーー最初の第一項から始めて最終の項にまで順々に讀んでくる 仕方ーーは全く禁物である。げにこれは「通讀」さるべきものでない。こ れらの書物は、よき讀者にまで常に「飜讀」さるべきである。讀者は散歩 の道すがら、また公園のべンチの上で、または海岸の砂の上で、どこで も諸君の手に觸れた。ヘージをひらき、さてまたすぐに卷を閉ぢて懷に人れ るべきである。なぜならばそこには靑空があり、囀づる小鳥があり、そし てそこにこそ、私の思想の「最も悅ばしき解説」が知覺されるからだ。っ まりいへば著者は、自然のかぐはしい風光の中でのみ、ある未可知な「な にごと」かを讀者に語らうとするのである。 生活の二分野から「詩人としての私」は、既に幾篇かの敍情詩によっ て公表された。「思想家としての私」は、この書物によって始めて世に出 るのである。さればこの書物を始めて讀んだ人々は、思想家としての私 が、いかに詩人としての私とちがって居るか。言ひ代へれば、未だ敍情詩 によって發表されなかった、私の他の半面に於ける生活と、その著しい特 異性とを發見するであらう。けだし私の信條として、敍情詩に於ける理論 的情操を許さないーーーそれは詩の質的値を低下されるからーーところか ら、詩によっては未だ言ひ得なかった多くの情操を、ここに明白に書き得 たのである。
それは例 ( ば、水の一杯充ちた袋に、大きな穴をあけたやうなもの 谷崎潤一翩氏は上方地唄を愛好され、その小説『蓼喰ふ蟲』や であ 0 た。一旦その味が解「た後は、全部がす「かり一時に解「て『春琴抄』なども、上方地唄の音樂的、チーフで一貫して居るが、 しまった。西洋音樂を聽く時には、徐《に努力して理解を先に進めあの盲人がメクラ聲で唄ふ地唄のペーソスこそ、世にも哀切なリリ て行った。だが日本音樂の場合には、何の勉強も努力もなしに、その ックの一つであらう。谷崎氏の近作小説は、この地唄のリリシズム 人口の一端から、ずっと奥底の祕密までが、一度に本能的に解ってと引き離して考〈られない。 しまった。「本能的に解る」といふ言葉が、日本人の日本音樂を聽 西洋音樂と日本音樂と、何れが藝術的に高級であるかといふやう く場合に、最も適切な表現だといふことを、此頃にな「て初めて知な間ひは、僕等のやうなア「チ、アには答〈られない。しかしただ った。 一つ、僕が確信を以て斷言し得ることは器樂において西洋音樂が遙 それでも矢張、初めの中は長唄しか解らなか 0 た。長唄は洋樂器かにまさり、聲樂において日本が進歩して居ることである。あの雄 でもよく奏されるし、淸元や常磐津などに比して、特殊な花街的江大莊嚴の西洋管絃樂に比する時、日本の三味線などは一片の貧弱な 戸趣味がすくなく、洋樂に近い純粹の唄ひ物で、その上に樂趣が比葦にすぎない。しかし聲樂の方で考 ( れば、日本必ずしも西洋に劣 較的明るい健康性を持って居るので、僕などにはいちばん解りよか って居ない。日本の整樂には、一つの片々たる小唄や俚謠の節廻し ったのである。 にさへ、到底五線紙に寫譜できないやうな、無數の複雜な陰影と餘 だが近頃になっては、淸元や新内などの方に、却ってずっと妙味情とがある。特に例〈ば新内や淸元のキキド「 0 ( 情痴的ク一フイ「 の深」情緖的の藝術魅力を感じて居る。特に新内節の。 ( ーソ = は特 , ク = のアリア ) にあ 0 ては、肉盤そのものの中に綿 ~ たる情痴の 別である。あの肉體の疲勞を思はすやうなデカダンス。人生から一 怨恨や、魂を蕩かすェロチックの媚態をこめて表現するので、樂 切の希望と勇氣とを消耗して、身も心も偏〈にただ情痴の破滅に任 としての陰影的微妙を極めたものである。 せたやうなあの音樂は、おそらく世界に於て最も抒情詩的な哀感と これを歌劇等で唄ふ西洋の音樂が、單にソステスートとかコンモ ニヒリスチックの深刻美を持った藝術だらう。 トとかいふ表情の譜に合はせて機械的に唄ふに比し、その藝術的複 江戸音樂の特色は、す・〈て皆「情痴の美」に盡されるやうに思は雜性の程度は比にならな」。特に西洋音樂のソプラノの如きは、 れる。西洋音樂には「戀愛」があって「情痴」がない。情痴のペー 和聲學上の數理から作った不自然至極の機械的聲樂であって、純正 ソスを奏するものは、日本の江戸音樂とハワイアンのジャズミ = の意味では音樂と言〈ないやうなものである。先年三浦環女史がラ ジックだけである。兩者の音樂は肉體的の點でよく似て居る。しか ジオで唄ったソプ一フノを聽き、僕は思はず耳を蓋って恐れてしまっ 想し三味線音樂にまさる情痴美は世界にない。 た。大劇場の屋根も震動するやうな超人的大聲で、喉も裂けるやう 琴、尺八、謠曲、琵琶、義太夫、浪花節、小唄等の、江戸音樂以なキイキイ聲で唄ひ叫んだ。あれで嗇樂情緖の微妙な陰影が出るわ 隨外に屬するものも、たいてい皆此頃では好きになった。昔は輕蔑し けがない。しかもそれが世界的名人なのである。これを松永和風の 切 0 てた浪花節なども、今ではさう惡」も 0 とは思はな」。浪花節長唄や、延壽太夫 0 淸一兀と比被して見給〈。聲樂として 0 日本音樂 の旋律には、日本音樂の最も本然的な原始音階が遺傅されてる。こ が、數世紀も遠く進歩してゐることを知るであらう。 れが一般日本人の大衆に悅ばれるのは當然である。 とにかく僕は、年四十歳を越えて初めて三味線音樂の妙味を知っ
この幽靈のやうにさびしい影だ 貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けて 憂鬱な風景 硝子のびかびかするかなしい野外で しまった ああここにはもはや友たちもない戀もなどれも靑ざめた紙のしやつ。ほをかぶり ぞろぞろと蛇の卵のやうにつながってくる猫のやうに憂鬱な景色である い さびしい風船はまっすぐに昇ってゆき さびしい囚人の群ではないか。 渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる りんねるを着た人物がちらちらと居るでは その草の根はけむりのなかに白くかすんで ないか。 あ、 ) だ 春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。 もうとっくにながい間 おぼろにみえる沖の方から だれもこんな波止場を思ってみやしない。 船人はふしぎな航海の歌をうたって拍子つめたく靑ざめた顔のう ( に さうして荷揚げ機械のばうぜんとしてゐる け高くにほふ優美の月をうかべてゐます も高く楫の音がきこえてくる。 海角から 月のはづかしい面影 あやしくもここの磯邊にむらがって むらむらとうづ高くもりあがりまた影のやさしい言葉であなたの死骸に話しかける。いろいろさまざまな生物意識が消えて行っ ああ露しげく ゃうに這ひまはる それは雲のやうなひとつの心像さびしいしっとりとぬれた猫柳夜風のなかに動いそのう ( 帆船には綿が積まれて やどかり それが沖の方でむくむくと考へこんでゐる てゐます。 寄生蟹の幽靈ですよ。 ではないか。 ここをさまよひきたりて なさけ なんと言ひやうもない うれしい情のかずかずを歌ひっくす かなしい囚人 そは人の知らないさびしい情慾さうして身の毛もよだちぞっとするやうな思ひ出 ばかりだ。 情慾です。 かれらは靑ざめたしやつぼをかぶり しつぼ ああ神よもうとりかへすすべもない うすぐらい尻尾の先を曳きずって歩きまはながれるごとき涙にぬれ さうしてこんなむしばんだ回想からいっ る 私はくちびるに血潮をぬる も幼な兒のやうに泣いて居よう。 そしてみよそいつの陰鬱なしゃべるが泥ああなにといふ戀しさなるぞ この靑ざめた死靈にすがりつきてもてあそ 土を掘るではないか。 野鼠 ああ草の根株は掘っくりかへされ どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐ夜風にふかれ 猫柳のかげを暗くさまよふよそは墓場のどこに私らの幸幅があるのだらう る。 泥土の砂を掘れば掘るほど やさしい歌ごゑです。 なんといふ退屈な人生たらう 悲しみはいよいよふかく湧いてくるではな ふしぎな葬式のやうに列をつくって大き いか。 な建物の影へ出這入りする。 むし
8 4 高原の草に坐って あなたはなにを眺めてゐるのか あなたの思ひは風にながれ はるかの市街は空にうかべる ああぼくのみひとり焦躁して この靑靑とした草原の上 かなしい願望に身をもだえる。 あかるい屏風のかげにすわって あなたのしづ . かな寢息をきく。 香爐のかなしいけむりのやうに そこはかとたちまよふ 女性のやさしい匂ひをかんずる。 かみの毛ながきあなたのそばに 睡魔のしぜんな言葉をきく あなたはふかい眠りにおち わたしはあなたの夢をかんがふ このふしぎなる情緒 影なきふかい想ひはどこへ行くのか。 薄暮のほの白いうれひのやうに はるかに幽かな湖水をながめ はるばるさみしい麓をたどって 見しらぬ遠見の山の峠に あなたはひとり道にまよふ道にまよふ。 春宵 嫋めかしくも媚ある風情を しっとりとした濡袢につつむ からた くびれたごむの跳ねかへす若い肉體を こんなに近く抱いてるうれしさ あなたの胸は鼓動にたかまり その手足は肌にふれ ほのかにつめたくやさしい感觸の匂ひを ったふ。 ああこの溶けてゆく春夜の灯かげに 厚くしっとりと化粧されたる ひとつの白い額をみる ちひさな可愛いくちびるをみる まぼろしの夢に浮んだ顔をながめる。 春夜のただよふ靄の中で わたしはあなたの思ひをかぐ あなたの思ひは愛にめざめて ばっちりとひらいた黒い瞳は ああなににあこがれもとめて あなたはいづこへ行かうとするか いづこへいづこへ行かうとするか あなたの感傷は夢に饐えて 白菊の花のくさったやうに ほのかに神祕なにほひをたたふ。 ( とりとめもない夢の氣分とその抒情 ) ひとみ 夢におどろき みしらぬ歡樂をあやしむやうだ。 しづかな情緒のながれを通って ふたりの心にしみゆくもの ああこのやすらかなやすらかな のそみ すべてを愛に希望にまかせた心はどうだ。 らいふ 人生の春のまたたく灯かげに たま からた 嫋めかしくも媚ある肉體を こんなに近く抱いてるうれしさ をとめ 處女のやはらかな肌のにほひは 花園にそよげるばらのやうで 情愁のなやましい性のきざしは 櫻のはなの疾いたやうだ。 ◎◎◎◎◎◎◎◎◎ 通行する軍の印象 この重量のある機械は 地面をどっしりと壓へつける 地面は強く踏みつけられ 反動し 濛濛とする埃をたてる。 この日中を通ってゐる 巨重の逞ましい機械をみよ 黝鐵の油ぎった いうてつ 軍隊