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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集
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1. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

く押し通してゐる。マルキストのやうな獨斷家では、これが一層露と共に永遠である。 0 幻骨であり、それほど賢明に知ってることを、故意の蒙昧で頭ばりな がら、ドグマの太々しい強辯で押し切ってゐる。日本の明治維新に詩人の思想獨斷的でさへもないところの、詩人の思想が何にな 於て、時代の先頭に立った志士たちも、實は攘夷の不可能を知ってるか ? ゐながら、故意にしらばっくれて主張してゐた。 涌例、多くの聰明な思想家等は、どこかに一つの間のぬけた、馬趣味趣味は情熱の組放を和らげ、欲情の野性に美の快い調和を 鹿のやうな顏付をしてゐるのである。 あたへる。それ故に文學では、趣味が必要なのである。 美美はその肉體を所有しない。それ故にこそ、すべての美しい文學的黨人藝術に於て、作品とイズムとは別である。例へば私 ものーー音樂や、詩や、風景やーー・・は、戀愛と同じゃうに悲しいのは、文學理論としてのマルキシズムに賛成しない。しかしながら私 である。美は、所有なき肉體への鄕愁である。 は、さうした抽象的理論の故に、藝術品としてのプロ文學を、一概 に否定すべき理由を知らない。藝術は藝術として、常に議論の外に 新しさの古典新しさは、美に對するニヒリスティックの砲撃で獨立し、別の鑑賞の批判に堺するからだ。 ある。しかしながら新しさもまた、それ自身の要塞を建設する。藝 同様にまた思想に於ても、結論とプロセスとは別物である。例へ 術に於て、それが實戦とちがふところは、破壞と建設とを同時に行ば私は、トルストイの人生論や藝術論に賛成しない。しかもまた私 ひ、一方で砲撃しながら、同時にまた美を建設して居るのである。 は、彼のエッセイに深い興味と牽引とを感じて居る。思想の價値は それ故にまた、すべての新しさはク一フシシズムである。 結論でなく、そこに至るまでの論理、方式、證、及び個人として の苦惱や生活にあるからである。 アナ 1 キズム政治運動としてのアナ 1 キズムは、今日既に過去 かくの如く私は、すべての文學的イズムを否定しつつ、同時にま のものになってしまった。もっと適確に説明すれば、彼等は過去に たすべての文學作品を肯定して來た。「否定」と「肯定」とは、私 その〇〇裝置の前衞的任務を果してしまった。もしくはずっと遠い の藝術觀に於て矛盾でなく、まさしく對立するところの者であっ 未來の方へ、彼等の幻影するユ ートピアの鍵を預けてしまった。政た。そしてこの場合の「私」は、藝術家一般の代名詞でさへあるだ 治アナ 1 キズムは解消された。しかしながらアナーキズムそのものらう。すべての文學者や藝術家は、その人の個性や生活を愛する故 の精ーーーすべての人は、普遍的に例外なく自由であり、他によっ に、その人の作品や思想を愛するので、抽象上に思索されたイズム て何物にも支配されない、獨立人でなければならない。人間の正義や主義の結論から、黨派としての概念人を愛するのではない。藝術 は、すべてに於て惡の本源と戰ふこと、復讐が果されるまで戦ふこ家の交際に於ける善き仲間は、政治家に於ける黨人の結束とはちが との盟約。 は太初より一貫して、多くの文學藝術の根本精訷に って居る。政治家にあっては、一つの主義主張を同じくするといふ 流れて居る。それは今日の問題であり、未來にもまた、不易に人類ことだけが、同志の結束する鎖になってる。その氣質や性格を全く の呼びかける間題であるだらう。アナーキズムの宿題こそは、藝術異にし、思想の立脚する根據に於てさへも、全く氷炭相容れない個

2. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

彼自らその同じ悅びや、同じ悲しみや、同じ情調やを同感し得 は、その場合として、何を言はうとするのであるか。そもそも彼の 幻意志するところは、ただそれだけのつまらぬ事實。夜があけて朝が た時ーー始めてそれが生命ある者として律動する。換言すれば我等 くる、そして今日の日和は見られる通りの晴天であるといふ、この のすべての表現はーーーー敍情詩であっても、小説であっても、また評 それが讀者にとっての「記 お互にわかりきった平凡無意味なる事實。ただそれだけのくだらぬ論であっても、哲學であっても、 事實を報告するにすぎないのであらうか。若し我等の會話が、すべ述」でなく「説明」でなく、むしろ情感的に魅惑のある「詩」とし てさういふ意味で互に交換されるならば、人生に於ての表現ーー・隣て讀まれた時、その時始めて完全に目的を果したのである。 が、いかに煩はしく、おほむね退屈にして されば讀者よ。いかにして私の欲情が諸君にまで挨拶されて行く 人から隣人への挨拶 迷惑千萬な仕事にすぎないであらうぞ。とはいへ然し、我等のどん か。この靈魂があの靈魂ーーーあれらのおびただしい靈魂ーーにまで な表現もさういふ報告的な意志によって語られない。我等の門口に乘り移って行くか。けだし、私の語り得る主旨は別にある。それは 立って朝の挨拶をする隣人は、實際に何を告げようと欲してゐるの 書物の表面にない。それは隱されたる思想の帷幕の陰影にある。げ か。彼の正に言はうとする所は、實にあの「輝かしい朝の感情」で にただ少數の意地あしき瞳孔ーーー書物の表面を見ないで書物の隱さ はないか。そんなにもじめじめした梅雨の後で、そして今朝の麗はれたる裏面をのぞかうとするやうな、皮肉な意地あしき欲情によっ だけが、よくその祕密を捉へるであらう。ここ て燃えてる瞳孔 しい太陽の輝いてゐる空の下で、我等の生活にまで復活してくる一 に諸君の意地あしき「理智」が、むしろ私の逆説に於てさへ抗辯さ つの湧然たる力、この悅びにあふれた情緒、この睛々とした朝の氣 分、正に彼の言はうとして居るものは、すべてさういった感情の告れんことを。そこにはかの逆説的な賞讃者ーーあらゆる賞讃の辭を 白に外ならない。 0 一 ( is fine to-day! 並べながら、内實では反對に侮辱の舌を出してゐる賞讃者。卲ち彼 の感情の反對を、彼の思想に於て諷刺して居るところの賢い人々。 されば我等の言葉は、すべて我等の感情によってのみ、氣分によ ( 序言その一 ) すらあるからである。 ってのみ、情慾によってのみ語られる。げに「思想そのもの」は、 我等の表現における符號にすぎないであらう。何故といって我等の 隣人にまで傳へようとする者は、言葉が意味する概念の思想「今日新しき欲情人々は新しい欲情を求めて居る。かって何物かが、 は晴大である」といふ事柄でなくして、實はその内面における意そこに有るべくして有ることのなかったやうな、さういふ新しい欲 向、正にその表白をよぎなくされてゐる情意の律動的な躍動にある 情にかわいてゐる。それらの欲情は、我等の果敢ない幻想に於てす からである。我等の願ふ所は、今朝のこの笑ましげな氣分をいかにら、尚どんなに輝かしい書景を展開するであらう。されば米來は かに來るべき未來はーーー我等にとっての怪奇な假象でなく、 もして隣人にまで會得させ、共に共に幸幅の情感を享樂しようとい ふにある。そもそもそこに語られてある事實の如きは深く間ふべきむしろあまり立體的の實有である如く感じられる。この實有なる、 仔細でない。それはただの符號である。よって以てこの感情を傅へしかし空想のできない時の運動は、さまざまの建築の様式に於て、 るための符號、感情から感情への無線電信に於ける符號にすぎないまたその意匠に於て、近く設計される萬國博覽會のやうに、世界の のだ。故に思想といふ電信の暗號は之れを受信者の言葉にまで、そ人心の目新しい興味となるであらう。けれどもその時がくるまで、 の情意生活にまで飜譯して、明らかに節奏を經に感觸し得た時我等は感情の「最も輝かしい部分」を祕密にしておきたいと思ふ。

3. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

327 詩 人がすくなく、詩人その人が時代的に散文化して居ると共に、詩そ 心理を分析して、無機的に敍述するのであるから、眞の生きた人間 のものが次第に韻律性を失喪して、不純に散文化して居る有様であ 心理の、呼吸する實相を表現することが不可能である。これをその 如實の實相で表現し得るものは、その言葉に心臟の鼓動する呼吸る。特に日本の自由詩といふ文學の如きは、ポエジイとしての形態 からも内容からも、殆んど全く散文と選ぶところのないものであ ( 印ち律 ) を傅へ、氣分や感情やのセンチメントを、そのまま言 り、極言すれば「散文の一種屬」にすぎないのである。 葉に寫眞して表現する文學、ち抒情詩より外にないのである。故 かうした時代ーー詩の失喪した時代ー・ーは、かって昔の日本にも に詩といふ文學は、この意味に於て最もレアリスチックの文學であ る。詩に比すれば、小説のレアリティ 1 の如きは、虚妄の生命なき實在した。印ち德川の江戸末期がさうであった。江戸德川政府は、 影にすぎない。 朱子學の儒敎によって國民精を統一し、すべての浪漫精訷や詩的 今日、散文精と散文文化が、すべての韻文學を壓殺して居る時エスプリを禁壓した爲、國民の精訷が卑屈に散文化し、全く高邁な 代に於て、獨り尚抒情詩だけが殘って居るのは、それが詩の中での詩的精紳を無くしてしまった。勿論その當時に於ても、詩 ( 韻文 ) といふ形態上の文學は有ったけれども、それは、地ロ、狂歌、ー 核心な詩であり、上述のやうな特殊の武器を持ってるからである。 未來、散文が如何に長足の進歩をした所で、それが散文である限 柳、雜俳のやうなもので、昔の奈良朝にあったやうな、眞の純眞な り、到底この詩の表現的領域を犯すことはできないだらう。「すべ抒情精といふものは、全く時代の文化から失はれて居た。江戸時 ての詩は亡びた。だが人間が呼吸する限り、律そのものは亡びな代に於ける唯一の藝術詩は俳句であったが、それも芭蕉以後はその い。」と、ヴァレリイが或る場所で言ってゐる。詩が韻律を有する詩精紳を失喪して、概ね地ロ、狂句のやうなもの、ちいはゆる月 以上、その生命は永遠である。 並俳句に低落して居た。芭蕉以後の江戸文化は、全くプロゼックに 卑俗化して、完全にポエジイを失って居たのであった。 現代の日本が、丁度またかうした時代である。江戸時代のそれと 近代詩の中に、多分の散文精が人り込んで居るといふことは、 はちがった、或る別の會的事情によって、今日の多くの民衆は希 否定しがたい事實である。人はいかにしても、その生活して居る環望を失ひ、生活の意義を失喪し、全くプロゼックに卑俗化してしま 境から孤立し得ない。今日のプロゼックな散文時代に、プロゼック って居る。現代にあっては、殆んど純潔の詩精が失はれて居るの な文化環境に住んでる僕等は、いかに自ら努めて拒絶しても、必然である。そこで或る人々は、今日がもはや抒情詩の時代でないこ 川柳や狂歌の如き、諷刺詩の時代であることを説き、眞の詩精 に避けがたく散文化せざるを得ないのである。もし極言的な見方を すれば、今日の「詩人」といふ人々は、多少皆例外なく「散文人」 への告別をさへ宣告して居る。そして或る他の人々は、詩の散文 であるとさへ言へるのである。眞の純粹の韻文人といふものは、お化を強調し、詩精祁をプロゼックに低落させることを以て、逆に時 そらく今の瓧會に一人も居ないであらう。すべては皆、この時代の代の新しいポエジイの如く考へて居る。しかしながら眞の詩人は、 プロゼックな瓧會的環境に侵害されてゐる。 かうした時代に於てさへも、頑として一切に抵抗し、詩の純潔を守 この一つの事實は、獨り僕等の日本に限らず、世界的に共通してらうと欲するのである。もちろん、人はその環境から孤立し得な ゐる現象である。外國の詩壇を見ても、もはや背のやうな純粹の詩い。今日の詩人が、この時代に生活してゐる以上、多少とも散文精

4. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

言ふ人」たちに讀んでもらふ目的で書いた。自 私はかなしむ 戀びとよ 2 3 由詩人としての我々の立場が、之れによって幾私は眺める 戀びとよ。 分でも一般の理解を得ば本望である。 そこに苦しげなるひとつの感情 病みてひろがる風景の憂鬱を 寢臺を求む 幻の寢臺 ああさめざめたる部屋の网からっかれ て床をさまよふ蠅の幽靈 どこに私たちの悲しい寢臺があるか ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ。 ふつくりとした寢臺の白いふとんの中に 薄暮の部屋 うづくまる手足があるか 戀びとよ 私たち男はいつも悲しい心でゐる つかれた心は夜をよく眠る 私の部屋のまくらべに坐るをとめよ 私たちは寢臺をもたない 私はよく眠る お前はそこになにを見るのか けれどもすべての娘たちは寢臺をもっ ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だわたしについてなにを見るのか すべての娘たちは猿に似たちひさな手足 をもっ なにものかそこをしづかに動いてゐる夢この私のやつれたからだ思想の過去に殘 の中なるちのみ兒 した影を見てゐるのか さうして白い大きな寢臺の中で小鳥のやう 寒さにかじかまる蠅のなきごゑ 戀びとよ にうづくまる ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ。 すえた菊のにほひを嗅ぐゃうに すべての娘たちは寢臺の中でたのしげな 私は嗅ぐお前のあやしい情熱をその靑 すすりなきをする 私はかなしむこの白っにけた室内の光線 ざめた信仰を ああなんといふしあはせの奴らだ を よし二人からだをひとつにし この娘たちのやうに 私はさびしむこのカのない生命の韻動を。このあたたかみあるものの上にしもお前 私たちもあたたかい寢臺をもとめて の白い手をあてて手をあてて。 私たちもさめざめとすすりなきがしてみた 戀びとよ お前はそこに坐ってゐる私の寢臺のまく 戀びとよ みよすべての美しい寢臺の中で娘たち らべに この閑寂な室内の光線はうす紅く の胸は互にやさしく抱きあふ 戀びとよお前はそこに坐ってゐる。 、いし J 、いし J そこにもまたカのない蠅のうたごゑ お前のほっそりした頸すち ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ。 手と手と お前のながくのばした髮の毛 戀びとよ 足と足と ねえやさしい戀びとよ わたしのいぢらしい心臓はお前の手や胸からだとからだとを紐にてむすびつけよ 私のみじめな邇命をさすっておくれ にかじかまる子供のやうだ 、むし」、いし J よる

5. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

〈」移ってしまったのである。そして ? そして宗教の倫理學とはの全體の世界のことがわかってくるであらう。たと ( ば歌道の奧義 何であるか。言ふ迄もない、それはあの俗惡な功利主義ーー・最大多を極めれば、宗敎や道德の眞意も自然と了解ができるであらうし、 劍術の極意に人れば、それ自らまた爾餘の眞如が明白になるであら 數の最大幸輻を至善とする他愛的幸輻論。ーーではないか。俗悪なる 宗教 ! 我等は之れを「功利主義の浪漫主義」と呼ぶ。然り、それう。けれどもそれは、ただその一つの見方に於てだけである。歌人 は宗敎ばかりでない。浪漫主義の藝術で墮落したものは、すべて皆としての、劍術使ひとしての、その「彼自身の窓」から眺めた方角 一斜線をひいた特殊の透景にすぎな に於てのーーー於てだけの この同じ「倫理學の谷底」へ落下する。願はくは藝術をして宗教で い。どんな眞實の全景も、決してそこから展望されはしない。され あらしめるな。 ばあの經濟學の大家たちは、いかに偏陜にして危險なる唯物主義の 浪漫美感の本質「遠いもの」は、すべて我等の浪漫美感を刺激哲學をふり廻すことよ。そしてまたあの宗敎家らの悟りすました萬 法一如と、藝術家らの趣味敎育萬能説とが、いかに入文の正統なる する。たとへば無限の宇宙に輝いてゐる星のやうな ( 空間の例 ) 。 または遠い遠い昔の追憶をたどるやうな ( 時間の例 ) 。そしてかく發育を危害することよ。 の如きは、實に「情緖そのもの」の本質である。さればみよ、かの 第四放射線 浪漫主義の人々が、いかに彼等の「遠方に居る人々」のみを愛して 居るか。その實際の隣人に就いて顧みることなく、遙かに遠い隣人 歌劇の幕が正にあがらうとして、海潮のやう の隣人である未知の貧しき人々や、更にまたそれよりも一層遠い人豫感としての思想 な管絃樂の響きが場内に湧きあがるとき、または艶めかしい逢引き 類一般や民衆一般やに就いてのみ、いかに彼等の切實な愛を感じて ゐることか。とはい ( 何人も彼等をとがめるな。藝術は實踐の道懲の夜に、樹影に近づく戀人の足音をきいたとき、いつも我等の心の でない。藝術は美の意識である。そして美とはー・ - ・ー浪漫主義の美と底には、あれらの樂しくいそいそとした、胸のときめくやうな豫感 は 印ちかくの如きものに外ならぬ。それはすべての「遠いもを味はふ。けれどもそれの最もなっかしい經驗は、正に生れようと する我等自身の思想の前に、いつも交響の序樂を奏するところの、 の」「理想的なもの」にあこがれる。そしてすべての「近いもの」 一種のしきりにいそいそとした豫感である。それは暗示的に縹渺と 「現實的なもの」に顔を背ける。 した氣分であって、霧のかかった景色のやうに、情調の影深くたち せいひっ こめた間から、森や、木立や、原や、牧場や、野道やのほのかな個 情調の本質「情調」は一つの靜謐な情績である。そんなにも高 熱したり、感激したり、涕泣したりすることのない、一つの靜寂個の幻影と、一つの朧げな全景とを感じさせる。比喩を釋いてい〈 な、冥想的な、繪畫的の情絡。それはすべての客描寫の藝術に見ば、未だ系統ある個々の理論が抽象されない前の、一つの漠然たる が、夢のやうにはっきりと るところの、あれらの熱の低い、けれども智慧に於てすぐれてゐ思想ーーーといふよりも實は氣分情調 感じられる。されば我等はその夢のさめない内に、そのいそいそと る、一つの月光のやうな情緖、アポロのやうな情絡である。 した「思想の前奏」の終らぬ内に、早く早く我等の自然を描かうち 窓からの景一つのことに深く突き人って認識すれば、廣く他ゃないか。なぜといって我等の風景の眺望から、朝の情趣ある霧が

6. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

の整までが、どんなに身に沁みて情趣深く眺められたことであらうれば今日に於て、かの俗臭芬々たる高利貸の輩が、いかに奪大らし ぞ。げに彼等にまで、復讐は一つの望ましき「醉ひ」であり、自然 く彼の「人間らしさ」を誇り歩くことぞ。その美麗な自動車に、妾 や生活やに風趣をそへる、とりわけ優雅な趣味でさへもあった。 宅に、詐欺に、奸計に、破廉恥に、そして一切の人間的な劣情にさ へも得意らしく。ああ我等はその臭氣に耐へない、その人間的な俗 宗教の病鬱的妄想西洋中世紀の宗敎書の、殆んどす・ヘてに見る臭に耐へない。されば今日我等をして、もはやこの上人間的なもの ところのあの怪奇で陰鬱な氣味の惡さは、それ自ら當時の耶蘇敎のを讃美せしめる勿れ。 病鬱的妄想ーー不自然な禁慾や、經病的な良心や、祁罰に對する 暗い恐怖や、すべてに於て陰鬱な僧院生活に幽閉された精の病鬱嘔吐すべき思想「すべての人類は平等なり」といふ思想ほど、 的妄想ーーを象徴してゐる。それは我らにまで、あの東洋流の奇異それほど私を胸あしくするものはない。あれらの醜劣極まる、恥知 な怪物を聯想させる佛敎の偶像と同じく、何ら悅ばしき、有りがた らずの、鼻もちのならない破廉恥漢と私とが、そして私の崇拜する き、歸依の對象とはならないで、むしろ宗敎の壁に映るあの薄暗いあの高潔な人物とが、すべて皆平等のーーー人間であらうとは。そし 厭ゃな影ーーー無智の訷經をおびやかす迷信的罪惡観ーーに對する根てそれ故にまた、彼等を平等に愛さなければならないとは。おお私 本の嫌厭を感じさせる。 をしてあまりに腹立たしくさせるな。 みみず 怠惰への辯明蚯引 虫は絶えず土壤を食ってゐる。彼の生活は勤勉日本の自然派文學天性極めて現實的で、そしてまた極めて樂天 である。けれども鰐魚は稀れにしか餌食を捕へない。多くの長い日的な人間がここに居たとしたら、彼等にまでどんな人生觀が選定さ の間、彼は怠惰に眠ってゐる。この二種の動物は、食滋上の榮養をれるであらうか。考へるまでもなく、彼等の採るべき哲學は徹底自 別にするからである。 然主義ーーーあの老子流の樂天的自然主義。ーーであらう。されば殆ん どすべての日本人は、古來皆傳統的の徹底自然主義者であった。み 宗教のトリッグ暴風雨や、電光や、雷鳴や、洪水やで、まづ散よいかに彼等が自然を愛する といふよりも自然に同化する 散に牧場の羊をおびやかしておいて、さてその後でこそ、慈愛にみところの民族であるか。そして自然を征服するところの文化的民衆 ちた隱やかの春の光を照らすであらう。ーーすべての宗敎の奸計がで有り得ないか。更に見よかの徹底自然主義の倫理學ーー現實を樂 これである。 しむ、分に安んずる が、いかに古くから日本人の傅統的精の 中に流れて居たか。・ けに彼等は一切の文化的欲望を罪惡として眺め 欲もはやこの上人間的な者を讃美するな人間的といふことは、か るほど、それほど自然主義の倫理學に惑溺した自然民族である。否 し ってにあっては非常に恥づべきこと、卑しむべきことであった。 事實を言へば彼等自身の天性が、それ自ら偶然に自然主義の思想を 然るに今日では、おおいかにそれが一つの自慢すべき美德でさへも表現してゐるのである。 あるか。げに我等は釋迦に向ってさへ、彼があまりに聖人的であら されば日本の文壇に於て、およそ自然主義の文學ほど國民性に根 2 んよりは、むしろ人間的であり得ることを注文するではないか。さづいて繁茂したものはなかった。しかもそれが徹底自然主義の文學 ふんぶん

7. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

2 じつに、じつに、あはれふかげに視え。 地面の底のくらやみに、 さみしい病人の顏があらはれ。 草の莖 冬のさむさに、 ほそき毛をもてつつまれし、 草の莖をみよや、 あをらみ莖はさみしげなれども、 いちめんにうすき毛をもてつつまれし、 草の莖をみよゃ。 雪もよひする空のかなたに、 草の莖はもえいづる。 竹 ますぐなるもの地面に生え、 するどき亠円きもの地面に生え、 凍れる冬をつらぬきて、 そのみどり葉光る朝の空路に、 なみだたれ、 なみだをたれ、 いまはや懺悔をはれる肩の上より、 けぶれる竹の根はひろごり、 するどき靑きもの地面に生え。 竹 光る地面に竹が生え、 青竹が生え、 地下には竹の根が生え、 根がしだいにほそらみ、 根の先より纖毛が生え、 かすかにけぶる纖毛が生え、 かすかにふるえ。 かたき地面に竹が生え、 地上にするどく竹が生え、 まっしぐらに竹が生え、 凍れる節節りんりんと、 靑空のもとに竹が生え、 竹、竹、竹が生え。 みよすべての罪はしるされたり、 されどすべては我にあらざりき、 まことにわれに現はれしは、 かげなき靑き炎の幻影のみ、 雪の上に消えさる哀傷の幽電のみ、 ああかかる日のぜっなる懺悔をも何かせむ、 すべては靑きほのほの幻影のみ。 すえたる菊 その菊は醋え、 その菊はいたみしたたる、 あはれあれ霜つきはじめ、 わがぶらちなの手はしなへ、 するどく指をとがらして、 菊をつまむとねがふより、 その菊をばつむことなかれとて、 かがやく天の一方に、 菊は病み、 饐えたる菊はいたみたる。 林あり、 沼あり、 蒼天あり、 ひとの手にはおもみを感じ しづかに純金の龜ねむる、 この光る、 寂しき自然のいたみにたへ、 ひとの心靈にまさぐりしづむ、 龜は蒼天のふかみにしづむ。 あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす、 をゆびに紅をさしぐみて、 ふくめる琴をかきならす、 ああかき鳴らすひとづま琴の音にもつれ ぶき、 こころ

8. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

藝術と假面藝術もまた能と同じく、種々の變貌する假面ーー道公式を計算しつつ、一方であの祕的なモナ・リザの微笑を描い 化や、恚怒や、平靜や、樂しさやの假面ーーを持ってる。だがそのた。丁度その數學的公式から、彼の前祕的な藝術が生れた如く、弟 下にある肉の顔は、不變の悲哀を表情してゐる、ただ一つの物でし子の人々の眼に、二重に不思議に思はれたのである。同じゃうにま かない。 た、詩人と科學者を兼ねてたポーは、その異常な靈感の飛躍によっ て、あの快奇な幻想詩「大鴉」を書いて居ながら、一方では自らそ 忘却への熱意すべての天質的な藝術家等は、崖をすべり落ちるれを分析して、詩想や詩形の構成に關するところの、科學的公式の 人の恐怖を知ってる。いちばん恐ろしいことは、始めの一歩の踏み原理を書いこる。あたかも彼の詩が、その科學的、數學的法則によ 出しが、無限の加速度を加へて行き、自分の意志のカでもって、自って構成され、美が概念の抽象から、歸納的に作りあげられたかの 分を止めることが出來ないのである。ああ、この仕事が私を殺す如く、自分で論證して居るのである。それからしてポーは、自分を と、ドストエフスキイが呻吟した。私はもう、決してこの上考へま手品師の如く、魔法使ひの如く思はせ、二重の奇蹟的驚異によっ いと誓ったと、狂氣に近いニイチェが自分に言った。 て、讀者を幻惑させることに興味を持った。 そこで或る臆病な天才や、健康に注意する人々やは、最初のす・ヘ り出しを恐れるために、崖のある道を避けて通り、しばしば故意珊瑚を見てすべての傑れた詩や文章やは、極めて自然的に書き に、藝術を忘却することに熱意する。 流してあり、一見しては容易に解らない仕組の中に、崩律の複雜し た美的構成や、修辭の微妙な對比法則やを隱して居る。それによっ ポーの詭計どんな藝術も、それの構成について分析すれば、何て彼等は、既に内容が廢ってしまひ、思想が亡びてしまった後世に 等かの美學的公式が發見される。けれどもその公式から、逆に藝術 さへも、骨格の形式によって美を保存し、永く古典として殘るので を創作することは不可能である。實際にまた藝術家等は、だれしもある。 美學や詩學の規範によって、一つの創作もしては居ないし、かりに 出來るものとも信じて居ない。しかしながら或る藝術家等は、一方文明開化の圖明治初年の畫家が描いた、あの「文明開化之圖」 で詩人や畫家であると共に、一方ではこれに兩立して、しばしば分から、もっとずっと近い時代を考へ、そのエキゾチックの景色の中 析的な頭腦を持った科學者でもある。そこでこれ等の藝術家等は、 に、我々の文學や文壇やをイメージするのは、一つの樂しみ多い追 一方の藝術家であるところの自分を、一方の科學者であるところの憶である。例〈ば「浪漫主義之圖」では、金色夜叉のお宮と貫一 自分によって、自ら論證しようと試みる。特に或る多くの天才等が、相乘りの人力車に乘って、ユ ゴーやゲーテを論じて居る。 は、自分の創作が無根據であり、偶然のインスピレ 1 ションによる「自然主義之圖」では、秋整や花袋の小説家等が、和服に深ゴムの の まさ ことを恥辱と考〈、自らその作品の根據に對して、歸納的の證明を靴を履き、山高帽子を被って古風な踊りををどって居る。それは正 絶 あた ( ようとする熱意を持ってる。それからして、例〈ばレオナルしく、日本の盆踊りのやうに見えるけれど、畫家の意志では、歐洲 ・ダ・ヴィンチ ( 彼は美術家としての天才であり、同時にまた純十九世紀のダンスであり、文明開化を表象して居る。そして尚、今 8 2 粹の科學者だった。 ) は、常に物差と定規をたづさへ、美の數學的 日「現代之圖」に於てさへ、我々の所謂新しい文學者等が、舶來の

9. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

沸點への自覺人はその全身を以て、充分に怒るべき時期を知ら 6 % ねばならぬ。 藝術に就いて ことぶを、 老 R き支那人の思想では、老 Rau がその壽によって祝さ新世紀の初めに古典主義は中風症だった。浪漫主義は癲だっ た。自然主義は多血症であり、デカダン主義は經袞弱だった。文 れた、自然への回歸と考へられてる。杖を突いてる白髮の老人は、 彼等の美術に於てさへも、常に「祁聖なもの」を意味してゐる。そ學はこれらの流行から脱却した時、初めて健全である。といふグー さと むかう ルモンの感想 ( 堀ロ大學譯 ) は、我々の日本の文壇では、正しくの れは松竹梅などの自然と共に、永遠の宇宙の中で、無何有の鄕に遊 ゃうに言ひ換へられる。 ぶところの、やむべき仙と考へられてる。 ( 支那人の人生觀は、 古典主義はどこにも無かった。浪漫主義はニキビ亠円年の乳臭い感 老子によって表象された、あの自然主義の本源思想と結びつき、道 敎から敎育されてゐるのである。 ) 傷だった。自然主義は老耄者の退屈な居眠りだった。デカダン主義 昔の日本の文學者等は、たいてい支那の思想を學んで居た。それは享樂家の荷酒だった。文學はこれらの稚態から脱する時、初め からして彼等は、一種の奪老主義者となり、未だ年の若い俳人や詩て眞に文學である。 人ですらが、好んで老人のやうな服裝をし、枯淡の生活様式を理念 に掲げて、彼自身を老人化すべく、自ら誇張して努めて居た。反對文學的蟲介類 ( 干潮の前に泳いでるもの ) その本質に哲學を持たな にこれが西洋では、永遠にいつまでも、白髮の靑年として生活すべ い文學者等は、感覺の皮膚によってのみ、時代の空氣を呼吸して居 、すべての文學者が勉めて居た。西洋の意味する Old は、支那る。彼等は脊髓のない生物であり、毛細血管の末梢から、手探りの の Rau ( 老 ) とちがって居り、どこにも祝輻された意味がなく、人おぼっかない觸手を出して、時流の變轉を泳いで居る。彼等は走馬 燈中の人物であり、時代の浪が引いたあとでは、乾池に干からびた 生の情熱から見離された、單なる死灰を意味するからだ。 蟲介みたいに、跡方もなく滅びてしまふ。 寒烈に耐へて今日の如き、時代の最も惡しき天候の日に於て も、一つの高邁な精紳すら、決して凍死してはならないのだ。却っ古いことの正義人が生活熱情や、イデアや、憧憬や、ヒュ ニテイや、夢見る強い衝動やを持ってることで、もし時代的に「古 てその雪空から、皮膚の抵抗を強くし、筋肉を丈夫にすることがで きるだらう。 い」と言はれるならば ? 古いことはいかに正義なるかな ! 或る浮薄なる近頃の雎物主義者や、新時代主義者に向って言 傾斜に立ちて落して行くものの悲劇は、自ら邇命について知ふのである。 らず、落ちることの加速度に勇氣を感じ、暗黒の深い谷間に向っ ートピアを見ることであ藝術には上逵がないすべての技術は、練習によって上逹する。 て、不幸な、美しい、錯覺した幻燈のユ ところで練習とは、筋肉または思惟の法則が、腦髓の中に溝をつく る。ああ今 ! 彼等にしてその危險を知ったならば ! ることである。例へば熟練した。ヒアニストは、一つの鍵監を叩いた てんかん

10. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

人でさへが、單に結論としての政見を一にするといふことから、常誹謗者に答へて私の思想に於て、その結論だけを直截に述べれ に同志として握手して居る。政治家の場合にあっては、否定と肯定ば、人々は私を獨斷家と言ふ。そこで論證を詳しく書けば、人々は との矛盾がなく、敵と味方との關係がはっきりして居る。 私を常識家だと言ふ。ソクラテスが始めて口を開いた時、人々は彼 藝術家の良心は、かうした「黨人の良心」とちがふのである。眞を奇説家だと言った。だが後にその眞意が解った時、人々は彼を常 の純粹な藝術家等は、いかなる絶對の敵をも持たず、いかなる絶對識家だと言った。科學の不思議な發明を見て、法のやうに驚嘆し の味方をも持たないといふこと。彼が常にただ一個の單位であり、 た未開人が、原理の説明をきいて失望し、科學を輕蔑したといふ話 獨立人であるといふことにのみ良心を持つ。或る政治家的の文學がある。それを理解した後で見れば、眞理はすべて平凡であり、だ 者、印ち「文學的黨人」と呼ばれるものは、彼等の畠ちがひの良心れも知ってる常識にすぎないのである。 によって、文學を害毒して居るのである。 單純な人間單純な人間といふものは存在しない。すべての生き てる人間は、ひとしく皆複雜である。單純と言はれるものは、自他 の性格や事情について、知覺批判するところの、智慧の反省を缺い てゐるのである。單純とは、その人の性格について言ふのではな く、無智 ( 智能の缺乏 ) について言はれるのである。 美とその樂器すべて天質的な藝術家等は、避けがたくみな逃避 的な傾向を持ってゐる。なぜと言って彼等は、忍びがたい環境や運 命から、精紳の美しい諧音が磨り滅らされ、苦痛によって心のハー モニイ ( 美は常に諧音である ) を無くしたところの、世俗の有りふ れた苦勞人化ナることを恐れるから。火事や暴動の起きてる時に、 彼の大切な樂器を抱へて、おどおどと逃げ廻ってる音樂家を、だれ がそもそも臆病者と言ふだらうか。藝術家が逃避的であるといはれ ることは、誹謗でなくして賞頌である。 の 不易流行變化するものは趣味性のみ。詩それ自體の本質は永久 絶 に不易である。趣味性の變化を見ることから、詩の本質する精紳を の誤る勿れ。 2