6 % 愛の記念として Never-more! 愛の永遠に變らない約東として、婦人を愛するには中世紀の騎士のやうに、婦人を全くの音樂的 幻想として、近づくことのできない、また近づいてはならないもの 指輪などを交換するのは、意味の深い習慣である。言ふ迄もなく、 愛はぢきに變ってしまふ。けれども物質は變らないで、初めにあっ としてーー騎士たちは、二つの寢臺の間に劍を横たへた。 た通りである。そこで或る曇った日などに、つまらない夫婦者や、 から匂ひを嗅いでゐるか、も一つは、我々のだれもがするやうに、 飽きてしまった戀人などが、どんよりとした空を眺めながら、獨り ずっと粹な仕方で彼等を慣らし、無邪氣な愛らしい家畜として戲れ でつくづくと思ふのである。時は既に過ぎてしまった。過去は夢のるかである。前の仕方によれば、吾人は永久に女溿への思慕と奉公 ゃうなものである。けれども夢でない證據として、悔恨の記念は今をつくし得る。その遠くから匂ってくる白粉や肌の香は、いつも我 に殘る。兩度もはや、情熱の噴火してゐる火山の上では、生涯の誓我を夢みるやうに、幸輻に導いてくれるであらう。もし後の仕方に をしないであらうと。 よれば、同じゃうにまた我々は幸輻である。なぜといって我々は人 間であり、彼等は人間ではないものーーーー可愛らしい家畜ーーであ 顛倒された趣味獅子や、比や、孔雀や、鷄や、その他一般の禽る。そしてどんな人々も、仔大のいたづらや、愚かさや、嫉妬深さ めす 獸にあっては、第はどれも美しく雌は必ず醜い。しかるに不思議なや、無自覺や、エゴイズムや、野卑や、下劣さやに腹を立てない。 ことに、我々人間だけはその反對である。我々の婦人たちは天使の のみならず大が大らしくあるほど、それが益よ可愛らしく、愛嬌あ ゃうに美しく、我々の男たちは熊のやうにしか見えない。といふ人 りげに見えるのである。 間一般の思想は、その實人間の雄の思想ーーーそれがいつでも人間全 かくの如く、我々はしなければいけない。部ち我々の頭の上に、 體の思想を代表する。 にすぎない。されば見よ。鷄の雄はいっ 遠く天上界にまで彼等を置くか。でなければ反對に、彼等を我々の もいぶかしげに頸をかたむけてゐる。 寢臺の下に、ずっと低い地位に見るかである。しかしながら我々 「他の禽獸にあっては、また人間にあっては、雄はどれも美しく雌は、兩者の中間を避けねばならない。女でもなく、家畜でもな はきまって醜い。しかるに我々鷄だけは、ふしぎにもその反對であ . く、我々の同じ種屬として、人間として婦人を愛したり、取扱った りするのは、決して絶對に避けねばならない。それは婦人に對する る。ああ何んと私の妻たちが美しく愛らしいかよ。」と。 かくすべての動物は、同性のを恝めすして異性の美を帰愛す禮儀でなく、た親切の仕方でもない。なぜならば彼等は、それに る。そしてここに、性的實感による美的鑑賞の錯誤がある。故に、 よって耐へがたいものになってくるから。あまっさへ我々は、愛に 亡・ ( く よって惠まれる筈の、特別の幸輻を無くしてしまふ。 いっ我々の趣味が訂正されるか ? 未來、もし女性が男性を情伏し たとき、したがってまた女性の思想が、それ自ら人間一般の思想を 代表し得たとき、その時我々の正しい趣味が言ふであらう。「いか 社會と文明 わいじゃく に男性は雄々しくして美しきかな。いかに女性は矮弱にして醜きか な。獅子に於ても、孔雀に於ても、自然のあらゆる禽獸に於ての如唯物主義者の道德觀醫者は人類一般の保健に對して、常に職業 的の責任を感じて居る。或る傳染病の流行は、すべての醫者たちの 人間に於てもまた。」 ふたたび
はないか。ああ祖先はどこにあるか。とかれは 7 憔悴した魂をはばたいてもがくのである。それ は巳に彼の手の中にある。しかも彼自らはそれ を知らない。何故だ ? かれもまた神ではない 人間だからだ。生きたる人間性の悲劇た。持っ て生れた業だ。悲しい渾一命だ。 あまりにはなやかにして孤獨なる風景、光、 影。 かれはすばらしく、よにもふしぎな原始幻燈 繪の魅力を、そんなものではない、さきに云っ た様に「新しい戦慄」を現代文明に技げた。人 人はその戦慄によって自分の魂をみつめるであ らう。さうして高めるであらう。 かくて彼は、われわれをかのプラトーのイデ アの世驟の人口に、導いて行った。眞に彼を理 解しようとしなかった或る人々は、夢中にかれ の跡を追って、長い架空の鐵橋を渡った。後を 追った人々は、最早歸路を知らない。ああ實に 多くの人々が、ここに於いて、みじめにも路頭 に迷ふ、路頭に迷ふその盲目のエピゴーネン逹 だ。 詩とは、人々の魂を迷はし、うれしがらせ、 殺すことであるか。とすれば、彼の靑猫は怖し い現代の吸血猫、かの山海のあひだに變幻出沒 するところの・ハンピールーー怖るべき電氣猫。 詩とは、人々の魂を救ひ、淸めるものでなけ ればならないとすれば、彼の詩集「亠円猫」は人 人が載慄を感ずるまで君の電魂を洗って呉れる ともあれ、あまりに「華やかにして、孤獨な る」かれの藝術は、何時の時代に於ても、日本 語の讀まるるところに於ては、いよいよ美しい 香気を放つだらう。なぜといふに、香氣そのも のの實體は何時何所にあっても香氣そのもので あるから。 げに、靑猫は麝香のあやしげな猫である。 それは象徴でもなく夢でもなく、あくまで現 實そのものである。・ 藏原伸二郎 卷尾に この書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始 め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩 原朔太郎詩集」その他既刊の詩集中にも散在 し、夫々少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、 この「定本」のものが本當であり、流布本に於 ける誤植一切を訂正し、併せてその未熟個所を 定則に改定した。よって此等の詩篇によって、 私を批判しようとする人々や、他の選集に拔萃 しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定 本」によってもらひたい。 著者 珍らしいものをかくしてゐる 人への序文 萩原の今ゐる二階家から本鄕動坂あたりの町 家の屋根が見え、木立を透いて赤い色の三角形 の支那風な旗が、いつも行くごとに閃めいて見 えた。このごろ木立の若葉が茂り合ったので風 でも吹いて樹や莖が動かないとその赤色の旗が 見られなかった。 「惜しいことをしたね。」 しかし萩原はわたしのこの言葉にも例によっ て無關心な顔貌をした。 或る朝、萩原は一帖の原稿紙をわたしに見 てくれた。いまから十三四年前に始めてわたし が萩原の詩をよんたときの、その原稿の綴りで あった。わたしは讀み終へてから何か言はうと したが、それよりもわたしが受けた感銘はかな りに纖く鏡どかったので、もう一度默って原手 北原白秋氏に捧ぐ 小 曲 集
らしきもの」が悅ばれる。 的情慾をいやしみ、人間的臭味を嫌ふことで有名である。聖人であ しかしながら、いま彼等のあまりに人間的なる天使が、東方の怪 るほど、支那では人間に遠く、羊や鹿の妖精に近くなって考へられ る。或は全く、人間性を超越した紳仙の如く思惟される。我々の日奇なる偶像にまで、正にその語らうとする所を聽け ! 我等は既に でさへも、 人間に倦きた。人間的なものへの好尚が、いかに久しい間、世界の 本ーーそれは文明的に、半ば支那の屬國であった。 同様に東洋風の倫理が普遍してゐた。ち「塵の世を厭ふ」人間嫌文明を支配してゐたことよ。けれども今、我等の中の移り氣な者が 日、久考へてゐる。結局して我々の眼が、どんな道德と眞理に到逹し得た ひが、その自體の情操で、何かの高潔な德に屬するものの女く かを。人々は眼をはなち、遠く東方への旅情にあこがれてゐる。聽 しく一般に考へられてゐた。我々の「俗」といふ一言葉が、今でも け ! 基督教の民よと、かってあの聰明なニイチェが叫んだ。君等 尚、人間的臭氣への賤辱を意味してゐるほど。 ーマニズムを棄せよ。それからして絶大なる、別の新しき かく東方の情操は、本質的に「人間的なもの」への嫌惡から出發のヒュ してゐる。それからして必然に、一方では「人間的でないもの」へ自由の道徳、超人の道がひらけてくる ! の崇拜に導かれる。これによって、超人や、英雄や、仙や、妖怪 科學はその夢を無くしてしまった丁度あの宗教が沒落した時、 や、法や、呪文や、その他すべての人間らしからぬ異様のものが 科學の偶像がこれに代ったのである。十八世紀から十九世紀にか 考案され、さまざまの怪奇な佛像が崇敬される。そして或は、人の 夢によく見る唐突の幻想に誘はれる。すべて東洋風の特色がここにけ、科學はその若々しき靑年の浪漫感で、すべての人類が夢に見て 根を有してゐる。あの支那人や土耳古人に特有なる、東洋的の殘忍 ゐた、昔からの様々な空想を實現した。例へば彼等は、風船や、飛 行機や、電信や、蓄音機や、幻燈や、寫眞やの、多くの驚くべき發 性と非人道、その暗黑好きの犯罪性、破倫的性向。そして一方で は、驚くべき崇高無比な道德があり、超人の底知れぬ高德が、至善明をし、たいていの人が想像し得る、魔法の幻燈を映し盡した。 實に近代の初頭に於ける、科學の新しき功績ほど、人間を驚かせ と至美の究極する理想を高稱してゐる。しかしてこの兩面の矛盾こ そ、ひとへに同じ哲學の裏と表に外ならない。東洋 ! げにそれは た不思議はなかった。正に「科學」といふ一つの名辭は、祕的な 紳のやうに氣高く、また獸のやうに醜い、兩面怪異の相貌である。 超自然にさへ感じられた。人々はその不思議を、未だ中世の迷信か 地球の反對の側に於て、我々はまた西洋を見るであらう。あまり ら找け切らない、あの錬金術のミステリズムと混同して、魔法的の に人間臭く、人間的でありすぎる希臘の々がそこに立ってゐる。 驚嘆でさへも考へてゐた。そして市中のつまらない見世物すらが、 そしてあの明るく陽快なる歐羅巴の空と風光とが。げに西洋的なる電氣人形やマグネットやの顴覽物で、到るところに物珍しい客を呼 んでゐた。その見世物の觀客たちは、單に「科學」といふ一一一口語から 義情操の根源は、全くもって熱情的なる、むしろ執念深き人間性への 正 して、不思議な魔法的の驚異を感じ、今日の人が心靈術の實驗にで 愛着である。然り、西洋といふ言葉それ自身が、既にヒュ の 妄 ティの情操を感じさせる。そこには何等のグロテスクな巨像もなも望むやうな、氣味あしき妖怪的な幻想を感じてゐた。 げに科學こそは、その頃のなっかしき人にとって、不思議な幻燈 、何等の超人間的な宗敎や哲學もない。一様に西洋は現實的であ 0 一様に彼等の趣味は科學的である。そこでは、美術と、文學の風景であり、人の詩的空想を亠円空に飛翔させる、ふしぎなロマン 5 2 と、道德と、文化のあらゆる本質の感情から、ひとへにただ「人間チックの風船だった。この近代の歴史に於て、尚十九世紀の末葉ま
かういふときの人間の感覺の生ぬるい不快びよ、びよ、びよ、びよ、びよ、びよ、び 干からびた髮の毛のやうなものをつかんだ。 ひはり よ、びよと空では雲雀の親がいてゐる。 さから慘虐な罪が生れる。罪をおそれる 河原よもぎの中にかくされた雲雀の集。 なまぐさい春のにほひがする。 心は罪を生む心のさきがけである。 びよ、びよ、びよ、びよ、びよ、びよ、びおれは指と指とにはさんだ卵をそっと日光おれはまたあのいやのことをかんがへこん にすかしてみた。 よ、びよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。 人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこ うす赤いぼんやりしたものが血のかたまり おれはかわいさうな雲雀の集をながめた。 のやうに透いてみえた。 集はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬 つめたい汁のやうなものが感じられた、 人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。 のやうにふくらんだ。 いとけなく育くまれるものの愛に媚びる感そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液體あるとき人間が馬のやうに見えること。 がじくじくと流れてゐるのをかんじた。 人間が人間の愛にうらぎりすること。 覺が、あきらかにおれの心にかんじられ こ 0 卵がやぶれた、 人間が人間をきらふこと。 おれはヘんてこに寂しくそして苦しくなっ野蠻な人間の指が、むざんにも纖細なものああ、厭人病者。 を押しつぶしたのだ。 ある有名なロシャ人の小説、非常に重たい 小説をよむと厭人病者の話が出て居た。 おれはまた親鳥のやうに頸をのばして集の鼠いろの薄い卵の殼にはといふ字が、赤 くほんのりと書かれてゐた。 それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小 中をのそいた。 集の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼ 心が愛するものを肉體で愛することの出來 いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。 んやりとしてくらかった。 ないといふのは、なんたる邪惡の思想で かぼそい植物の纖毛に觸れるやうな、たとその可愛らしいくちばしから造った集、一 あらう。なんたる醜惡の病氣であらう。 所けんめいでやった小動物の仕事、愛す へやうもなく DELICATE の哀傷が、 おれは生れていっぺんでも娘たちに接吻し べき本能のあらはれ 影のやうに訷經の末梢をかすめて行った。 たことはない。 集の中のかすかな光線にてらされて、ねずいろいろな善良な、しほらしい考が私の心 ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せ の底にはげしくこみあげた。 みいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに めては兄らしい言葉を言ったことすらも おれは卵をやぶった。 光ってゐた。 ない。 わたしは指をのばして卵のひとつをつまみ愛と悅びとを殺して悲しみと呪ひとにみち ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。 た仕事をした。 えあげた。 おれは人間を愛する。けれどもおれは人間 くらい不愉快なおこなひをした。 に生あったかい生物の呼吸が親指の腹をくす 月 を恐れる。 おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。 ぐった。 死にかかった大をみるときのやうな齒がゆ地面には小石や、硝子かけや、草の根などおれはときどき、すべての人々から脱れて 3 2 孤獨になる。そしておれの心は、すべて がいちめんにかがやいてゐた。 い感覺が、おれの心の底にわきあがった。
人でさへが、單に結論としての政見を一にするといふことから、常誹謗者に答へて私の思想に於て、その結論だけを直截に述べれ に同志として握手して居る。政治家の場合にあっては、否定と肯定ば、人々は私を獨斷家と言ふ。そこで論證を詳しく書けば、人々は との矛盾がなく、敵と味方との關係がはっきりして居る。 私を常識家だと言ふ。ソクラテスが始めて口を開いた時、人々は彼 藝術家の良心は、かうした「黨人の良心」とちがふのである。眞を奇説家だと言った。だが後にその眞意が解った時、人々は彼を常 の純粹な藝術家等は、いかなる絶對の敵をも持たず、いかなる絶對識家だと言った。科學の不思議な發明を見て、法のやうに驚嘆し の味方をも持たないといふこと。彼が常にただ一個の單位であり、 た未開人が、原理の説明をきいて失望し、科學を輕蔑したといふ話 獨立人であるといふことにのみ良心を持つ。或る政治家的の文學がある。それを理解した後で見れば、眞理はすべて平凡であり、だ 者、印ち「文學的黨人」と呼ばれるものは、彼等の畠ちがひの良心れも知ってる常識にすぎないのである。 によって、文學を害毒して居るのである。 單純な人間單純な人間といふものは存在しない。すべての生き てる人間は、ひとしく皆複雜である。單純と言はれるものは、自他 の性格や事情について、知覺批判するところの、智慧の反省を缺い てゐるのである。單純とは、その人の性格について言ふのではな く、無智 ( 智能の缺乏 ) について言はれるのである。 美とその樂器すべて天質的な藝術家等は、避けがたくみな逃避 的な傾向を持ってゐる。なぜと言って彼等は、忍びがたい環境や運 命から、精紳の美しい諧音が磨り滅らされ、苦痛によって心のハー モニイ ( 美は常に諧音である ) を無くしたところの、世俗の有りふ れた苦勞人化ナることを恐れるから。火事や暴動の起きてる時に、 彼の大切な樂器を抱へて、おどおどと逃げ廻ってる音樂家を、だれ がそもそも臆病者と言ふだらうか。藝術家が逃避的であるといはれ ることは、誹謗でなくして賞頌である。 の 不易流行變化するものは趣味性のみ。詩それ自體の本質は永久 絶 に不易である。趣味性の變化を見ることから、詩の本質する精紳を の誤る勿れ。 2
うに、かうした紳々に供物を捧げる人々は、膩ねの、愼ましい祈願をかける人々の々は、同じゃ 海の印象が、かくの如く我々に敎へるのである。 2 きさ 皆社會の下層階級に屬するところの、無智で貧しうに愼ましく、小さな些やかな祠で出來てる。人それからして人々は、生きることに疲勞を感じ、 い人々である。 生の薄暮をさ迷ひ歩いて、物靜かな日陰の小路に、人生の單調な日課に倦怠して、早く老いたニヒリ 「原則として」と小泉八雲の一フフカデオ・ヘルン さうした佗しい々の祠を見る時ほど、人間生活ストになってしまふ。だがそれにもかかはらず人 が評してゐる。「かうした々を信ずる人は、概のいちらしさ、悲しさ、果敢なさ、生の苦しさを、人は、尚海の向うに、海を越えて、何かの意味、 佗しく沁々と思はせることはないのである。 して皆正直で、純粹で、最も愛すべき善良な人々 何かの目的が有ることを信じてゐる。そして多く である。」と。それから尚ヘルンは、かかる訷々 の詩人たちが、彼等のロマンチックな空想から、 を泥靴で蹴り、かかる信仰を讒罵し、かかる善良 郵便局ポードレエルの散文詩「港」に對應無數に美しい海の詩を書き、人生の讃美歌を書い な人々を誘惑して、キリスト敎の僞善と悪魘を敎する爲、私はこの一篇を作った。だが私は、その てるのである。 へようとする外人宣敎師を、仇敵のやうに痛罵し世界的に有名な詩人の傑作詩と、價値を張り合は うといふわけではない。 てゐる。だがキリスト敎のことは別間題とし、か 父 父はその家族や子供等のために、人生の うした信仰に生きてゐる人々が、概して皆單純で、 戰鬪場裡に立ち、絶えず戦ってなければならぬ。 正直で、善良な愛すべき人種に屬することは、た 海海の憂鬱さは、無限に單調に繰返されるその困難な戰ひを乘り切る爲には、卑屈も、醜陋 しかにヘルンの言ふ如く眞實である。此等の貧し浪の波動の、目的性のない律動運動を見ることに、も、追從も、奸譎も、時としては不道德的な破廉 い無智の人たちは、實にただ僅かばかりの物しか、 ある。おそらくそれは何億萬年の昔から、地球の恥さへも、あへて爲さなければならないのである。 その飾々の恩寵に要求して居ないのである。田舍劫初と共に始まり、不斷に休みなく繰返されて居だが子供たちの純潔なロマンチスムは、かかる父 の寂しい畔道で、名も知れぬ村社のの、小さなるのであらう。そして他のあらゆる自然現象と共の俗惡性を許容しない。彼等は母と結托して、父 祠の前に額づいてゐる農夫の老婆は、その初孫の に、目的性のない週期蓮動を反覆してゐる。それに反抗の牙をむける。概ねの家庭に於て、父は常 畸着を買ふために、今年の秋の收穫に少しばかりには始もなく繆もなく、何の意味もなく目的もなに孤獨であり、妻と子供の聯盟帯から、ひとり寂 の餘裕を惠み給へと祈ってゐるのだ。そして都會い。それからして我々は、不斷に生れて不斷に死しく仲間はづれに除外される。彼等がもし、家族 の狹い露路裏に、稻荷の鳥居をくぐる藝者等は、 に、何の意味もなく目的もなく、永久に新陳代謝に於て眞の主權者であり、眞の専制者であればあ 彼等の弗箱である客や旦那等が、もっと足繁く通をする有機體の生活を考へるのである。あらゆる るほど、益、・、家族は聯盟を強固にし、益、ゝ子供等 ふやうに乞うてるのである。何といふ寡慾な、可地上の生物は、海の律動する浪と同じく、宇宙のは父を憎むのである。だが父の孤獨は、實には彼 憐な、愼ましい祈願であらう。おそらく神々も祠 方則する因果律によって、盲目的な意志の画動で が生殖者でないことに原因してゐる。子供たち の中で、可な人間共のエゴイズムに、微笑をも動かされてる。人が自ら欲情すると思ふこと、意は、嚴重の意味に於ては、父の肉體的所有物に屬 らしてゐることだらう。だがその々もまた、さ志すると思ふことは、主觀の果敢ない幻覺にすぎ してゐない。母は子供たちの細胞である。だが父 うした貧しい純良な人と共に、都會の裏街の露路ない。有機體の生命本能によって、衝動のままには眞の細胞ではない。言はば彼等は、子供等にと の隅や、田舍の忘られた藪陰などで、佗しくしょ行爲してゐる、細菌や蟲ケ一フ共の物理學的な生活って「義理の肉親」にすぎないのである。それ故 んぼりと暮して居るのだ。常に至る所に、人間のと、我々人間共の理性的な生活とは、少し離れたにどんな父も、子供をその母から奪ひ、味方の聯 生活があるところには、それと同じゃうな階級に距離から見れば、蚯蚓と脊椎動物との生態に於け盟陣に人れることはできないのである。 屬するところの、様々の々の生活がある。そし る、僅かばかりの相違にすぎない。すべての生 しかしながら子供等は、その内密の意識の下で てその祺々の祠は、それに祈願をかける人々の、 命は、何の目的もなく意味もない、意志の衝動には、父の悲哀をよく知ってる。そして世間のだれ 欲望の大小に比例してゐる。ほんの僅かばかり よって盲目的に行爲してゐる。 よりもよく、父の實際の敵ーー戦士であるところ
302 した笑談を言ったりするのは、無意識に意識されてる、内氣な羞恥 現實はそのどっちほどでもなく、相變らずの日課を繰返すところ の、平凡で中庸的なものに過ぎない。ーーー老年になってから、その 心によるのである。文學の場合に於ても、その同じことがしばしば 一生を回顧する人々は、自分があまりに長い間、寢床の中で考へすある。 ぎたことを後悔する。 失はれた靑春老年になってから、靑春の過ぎたことを過度に悲 風化と圭角友人もなく、孤獨で生活してゐる人々は、圭角の多しむ人々は、おそらく靑春といふ言葉の、文學的に魅力するヴィ い、鋧い岩礁に譬へられる。稀れに人と逢ふ時、彼等はそれで對手ジョンやイメージを、深くその固定観念に持ってるのである。實際 を突き刺し、對手の皮膚を傷つけ痛める。しかもそれが悪意でなの靑年時代は、すくなくとも主欟者自身にとって、靑春といふやう く、全くの無意識でされるのである。それによって彼等は、その愛な言葉の詩美に價するほど、そんなに價値のあるものではない。 敬する者からも遠ざけられ、いよいよ以て孤獨のものになってしま「失はれた靑春」といふやうな言葉が、その文學的魅力によって、 ふ。反對に瓧交的な人々は、風雪によって圭角が取れ、圓滿なもの人を必要以上に不幸にするのは、一種の迷信的災害である。 に醇化されてゐる。彼等の場合は、イロニイでさへも、人を傷つけ ないやうに言ふ手を知ってる。 ヘルンへの思慕私が死んで、來世が動物に轉生したところで、 決して悲しいとは思はない。なぜなら鳥や蟲の生活が、人間以上に 醉漢と猫アルコールの生理作用は、瞳孔を擴大し、日光を眩し不幸だとは思はないから、と言った佛敎信者のヘルン ( 小泉八雲 ) く感じさせる。そこで多くの酒飲み共は、書間から窓を閉め、カー の言葉は、その表面の意味以上に、詩人の優しい自然愛や、異邦に テンを深く垂らし、地下室の薄暗い隅に椅子を占めて、黄昏のやう寂しく漂泊して居た人の、無限に涙ぐましい心境を思はせる。そん な素朴な信仰から、子供らしい素直な心で、安心立命をしてゐたと な光の中で、酒を歓むことを好むのである。すべての醉漢は描に似 ひとみ てゐる。晝間、醒めてる時は瞳孔が小さく、夜間醉ってる時には大いふことが、ヘルンといふ詩人に就いての、無限に悲しい思慕なの きくなる。そこで意識の朦朧と酩酊してる、薄暗い黄昏の闇の中で である。 も、生醉ひその本性にたがはぬ如く、よく事物の本質を判定して誤 らない。醉漢にもまた一得がある。 少年の基礎教育少年時代に、基礎敎育としての韻文をよく學ん だ人々は、それのきびしい體操によって、文章の骨格となるべき格 眞面目の羞恥心あまり眞面目すぎるものは、それによって滑稽調を會得し、且っそれによって、ストイックな文學精を養成され な感を與へる。と言ったニイチェの言葉は、ドン・キホーテの場合 る。反對にそれを學ばなかったり、不完全にしか敎育されなかった に最もよく適應してゐる。眞面目すぎる人間は、それによって人々人々は、一生文章の骨格を會得せず、且っその上にも、ストイック から、喜劇的に見られはしないかといふことを、ひそかに反省するな精紳を缺くことから、文章上の「骨なし」や虚脱者になってしま ことによって、逆に時々、わざと不眞面目な様子をする。最も嚴肅ふ。 な人間が、時々出放題のことを言ったり、惡ふざけをしたり、誇張
人物はない。詩人の女から嫌厭される理由である。 の病氣でもなく、怠惰からその一生を寢床に暮したオプローモフ は、あらゆるインテリ中での、最も秀れたインテリだった。反對に 雑音の必要人生をコンファタブル ( 住み心地よく ) にするため生産的な人間。ーー一生を絶え間なく働き續けてる人間 といふも には、多少の雜音といふこどが必要である。街の混雜した料理屋のは、實には何も爲して居ないところの、最も非インテリ的な人間 や、百貨店の食堂で飮食することを好む人々は、多數の人々の出入である。 する足音や、あちこちの卓で聞える話聲や、入り混った笑ひ聲や、 皿を運ぶ音や、給仕人の叫ぶ聲や、床に物の落ちる音や、一隅で鳴 汽車の中て二つの平行したレールの上を、互に同じ速力で走る ってる蓄音器やの、いろいろな物音の構成する雰圍氣を、食物と共汽車に乘ってる時、人はだれしも變な氣になる。こっちの窓から顔 に味はひながら樂しんで居るのである。宴會の樂しさも、同じゃうを出す時、向うの乘客の顏が見え、しかもそれが、いつも同じ所で にまた、多人數の入り混った話整や笑聲やが構成する、陽氣な雜音ぢっとして居る。もしそれが知人であったら、互に手を出して握り の空氣に外ならない。雜音のない生活環境は、宴會のない人生と同合ひ、煙草の火をつけ合ふこともできるのである。それから尚、列 じである。あまり靜かで閑寂すぎる田舍の環境は、都會の生活に慣車の扉を開けて踏臺に立ち、向うの車へ乘り移ることもできるので れた人には、墓場のやうな憂鬱を感じさせ、却って經衰弱症を誘ある。實際それは、何でもないことなのである。なぜならこの場合 因させる。今日の文明では、實際に「冥想する精」さへが、雜音 には、二つの列車が同じ物の續きであり、こっちから向うへ行くの の環境から生育してゐる。昔の詩人や哲人等が、深山の奧に庵を結は、同じ一つの列車の中で、座席の位置を變へるとひとしく、何の び、朝夕ただ鳥影を見て暮したのとは反對に、現代の文人や知識人危險もないことだから。しばしば私は、平行して走る汽車を見る 等は、彼等の書齋を街頭に近くし、窓を雜音に面して開放しなが時、さうした「乘りかへ」への誘惑を強く感ずる。だがその誘惑の ら、詩や人生に就いて冥想してゐる。もしその多少の雜音が無かっ衝動を感ずる時、心がぞっとするほど寒氣立ってくる。なぜならこ たら、實際に彼等の頭腦は空虚になり、何事も考へることができなの場合、いっその一瞬間に、列車の速度が變るかも知れないから いのである。 だ。私がもし、踏臺から片足を出した一瞬間に、他方の汽車が速カ を増し、急に離れて追ひ拔けたらどうなるだらうか ? 人間の運命 オプロ 1 モフ的人生一定の職業もなく、何のこれといふ仕事も とチャンスについても、常に同じことを考へて戦慄する。 なく、無爲に怠惰でごろごろしながら、世俗の人々を輕蔑して、自 て 分を高く思ひあがってる人間は、實際に於て、まさしくそれだけの床の中その思想朝、寢床の中で考へる時、今日の一日の生活 に 價値があり、俗人にすぐれた何物かを持ってるのである。たとへ生が、ひどく無意味に退屈であり、何の仕事への興味もなく、人生そ 涯に於て、何一つの仕事をしないでも、實には既に「爲してゐる」 のものが厭はしいほど、暗黒で絶望的なものに考へられる。反對に 港 のである。なぜなら「爲す」といふことの意味はーー藝術にまれ、 また或る場合は、何かしら樂しいことが、何處かで自分を待ってる 礙著作にまれ、その他の何事の仕事にまれ・ーー結果の生産についてでやうに思はれ、漠然とした幸輻の豫感が、朝の麗らかな空の下で、 はなく、それの生産に至る迄の、過程の生活中にあるのだから。何微笑みかけてるやうに思はれる。だが起きて着物をきてしまへば、 ドア
主戰論の原理我々自ら戦はうといふ意志がないのに、我々を強いかにしばしば七の屬和弦が必要であることよ。今や私は私の思想 制して戦はせようとする者があるならば、その者に向ってすら、我に於ける不協和音ーーーそれは思想の平坦を破り、思想に變化と矛盾 我の戦ひを主張せねばならぬ。 とをあたへる。 を解決し、尚且っそれで以て、次に來るべき新 調への準備をやらねばならぬ。 警燈 ! 貴族主義者であって、個人主義であって、そして周且っ げに私は、あまりに熱烈な熱烈な幸輻への欲情をもって、いっさ 瓧會主義者と共に現實の破壞を叫ぶ人々に注意せよ。彼等は普通に いの幸輻主義の思想を嘲罵した。そしてまたあまりに叛逆的な叛逆 ニヒリストと呼ばれる。 ( おおニイチェ ! おお一フスコーリニコ的な自然主義の感情をもって、あまりに叛逆的な自然主義の思想の フ ! ) さればニヒリストを警戒せよ。彼の「夢」を天界に置くとこ全景を抹殺した。尚且っ私は他のあまりに「人間的なもの」や「非 ろの、そしてそれ故に地上に於ては、常に「叛逆のための叛逆」で人間的なもの」や「貴族的なもの」や「貴族的でないもの」やに對 あるより外、何の滿足な國家をも見出すことのできない、かくの如 してすら、それと同じ態度で、それと同じ評論をあへてしたのであ き偉大なる悲家を警戒せよ。 る。されば私自身に就いて、もはや何も言ふべきところはないであ らう。げに私は、敵の「感情」を以て敵の「思想」に挑戦した。即 幽暗悲しいことには、何人も厭世家であり得ない。かれらはた ち敵の幸輻と信仰を愛するが故に、敵の信仰を呪ったのである。あ だ悲家であるにすぎない。大いなる暗黒の、または薄明なる暗黒あ私 ! 嫉妬深き人間 ! ここに愛を求め得ない心の悲哀がある。 の。 孤獨がある。そしてこの々しい復讐が燃えあがる。いかに人々は かかる思想家を警戒せよ。かかる意地惡き復讐を警戒せよ。 私 ! 嫉妬深き人間 恐らくは私にまで、それが最後のものであ 明白に言って、私は何のドグマをも持ってやしない。そしてまた らうところの藝術・ , ーーげに私の才能は外に行き道がない、そして私何の主義をも。主義 ? それが私に何であらうぞ。我等はかかる概 の生活もまたーーに對して、いかに久しく私が信仰を持ち得ないこ 念を超越する。我等の思想は「論議さるべきもの」でない。我等の とよ。そしていかに速やかに人々が、そこに安心立命して居ること 思想は「直感さるべきもの」である。げに我等「主義を持たないも よ。ここに私のいらだたしい嫉妬がある。 の」は叫ぶ。眞理はいつも矛盾の景中にのみあり得ると。そしてた だかかる眞正の眞理ばかりが、よく讀者をして絶對の観念へ導くで 無意義なる人生どんな眞面目な仕事も、遊戯に熱してゐる時ほ あらう。それはイズムでない、イデヤでない。理論でない、認識で どには、人を眞面目にし得ない。 といふ事實ほど、人生の不眞ない。それはただ讀者自身が、讀者自身の純眞性に於てのみ感じ得 面目と無意義を語るものはない。 ることのできるーーー感じから感じへ直接に捉へられるーー一つの き し 「一「ロ葉なき眞理」に外ならない。しかして諸君がそれを感じ得たな 七の屬和弦に於て音樂に於ける七の屬和弦は、調の主和弦によ らば、そこにこそ始めて私の中心思想が、私の統一された人格が發 引って解決され、且っ樂曲を終止の情感へ導く。あまっさへそれは見されるであらう。印ちそれが私の主義である。主義を論じない主 「轉調」の準備ともなり得るのである。されば我等の思想に於ても、義である。見よそこに私の良心は何を叫んでゐるか。ああこの時代
178 居る人たちは、一種の恐怖と嫌惡の感情とで、私に様々のことを話のだ。 してくれた。彼等の語るところによれば、或る部落の住民は大紳に かうした思惟に耽りながら、私はひとり秋の山道を歩いてゐた。 憑かれて居り、或る部落の住民は猫に憑かれて居る。大神に憑か その細い山道は、徑路に沿うて林の奥へ消えて行った。目的地への れたものは肉ばかりを食ひ、猫紳に憑かれたものは魚ばかり食って道標として、私が唯一のたよりにしてゐた汽車の軌道は、もはや何 生活して居る。 所にも見えなくなった。私は道を無くしたのだ。 さうした特異な部落を稱して、この邊の人々は「憑き村」と呼び 「迷ひ子 ! 」 一切の交際を避けて忌み嫌った。「憑き村」の人々は、年に一度、 冥想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉であ 月の無い闇夜を選んで祭禮をする。その祭の様子は、彼等以外の普 った。私は急に不安になり、道を探さうとしてあわて出した。私は 通の人には全く見えない。稀れに見て來た人があっても、なぜかロ 後へ引返して、逆に最初の道へ戻らうとした。そして一層地理を失 をつぐんで話をしない。彼等は特殊の魔力を有し、所因の解らぬ莫ひ、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず人ってしまった。山 大の財産を隱して居る。等々。 は第に深くなり、トに / 徑は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間 かうした話を聞かせた後で、人々はまた追加して言った。現にこ が經過して行き、一人の夫にも逢はなかった。私はだんだん不安 の種の部落の一つは、つい最近まで、この温泉場の附近にあった。 になり、大のやうに焦躁しながら、道を嗅ぎ出さうとして歩き廻っ さすが 今では流石に解消して、住民は何所かへ散ってしまったけれども、 た。そして最後に、漸く人馬の足跡のはっきりついた、一つの細い おそらくやはり、何所かで祕密の集團生活を續けて居るにちがひな山道を發見した。私はその足跡に注意しながら、次第に麓の方へ下 い。その疑ひない證據として、現に彼等のオク一フ ( の正體 ) をつて行った。どっちの麓へ降りようとも、人家のある所へ着きさへ 見たといふ人があると。かうした人々の談話の中には、農民一流のすれば、とにかく安心ができるのである。 頭迷さが主張づけられて居た。否でも應でも、彼等は自己の迷信的 幾時間かの後、私は麓へ到着した。そして全く、思ひがけない意 恐怖と實在性とを、私に強制しようとするのであった。だが私は、 外の人間世界を發見した。そこには貧しい農家の代りに、繁華な美 別のちがった興味でもって、人々の話を面白く傾聽して居た。日本しい町があった。かって私の或る知人が、シベリヤ鉞道の族行につ の諸國にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を異にし いて話したことは、あの滿目荒寥たる無人の曠野を、汽車で幾日も た外國の移住民や歸化人やを、先祖の氏神にもつ者の子孫であら幾凵も走った後、漸く停車した線の一小驛が、世にも賑はしく繁 う。或は多分、もっと確實な推測として、切支丹宗徒の隱れた集合華な都會に見えるといふことだった。私の場合の印象もまた、おそ 的部落であったのだらう。しかし宇宙の間には、人間の知らない數らくはそれに類した第きたった。麓の低い平地へかけて、無數の建 數の祕密がある。ホレーショが言ふやうに、理智は何事をも知りは築の家屋が並び、塔や高樓が日に輝いて居た。こんな邊鄙な山の中 しない。理智はすべてを営識化し、話に通俗の解説をする。しか に、こんな立派な大都會が存在しようとは、容易に信じられないほ も宇宙の隱れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲學どであった。 者は、彼等の窮理の最後に來て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。 私は幻燈を見るやうな思ひをしながら、欽第に町の方へ近付いて 詩人の直覺する超常識の宇宙だけが、眞のメタフィジックの實在な 行った。そして到頭、自分でその幻燈の中へ這人って行った。私は