忘れじと言ひしばかりの名殘とてその夜の月は廻り來にけり 見るべき歌を作って居ない。 月光の明るい夜であった。二人は堅く契って將來を約束した。そ 生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮をとはば訪へかし れに人は心變りをして、今は我のみ一人さびしい孤獨を忍んで居 つれ る。その約束の名殘ばかりに、去年の今夜、再度過去の同じ月夜が 情ない人に戀ひ焦がれて、幾日も幾日も忍び盡した。もはや命も 廻って來たの意。かうした時間的經過の長い、劇的内容の想を三十耐 ( がたく、生きて明日まで待つ事は出來ないだらう。今この夕暮 一文字にまとめるのは、新古今集歌人の特に得意とする所である。 の迫る悲しみは忍び得ない。せめて人に情あらば、今日の最後のタ 作者は藤原有家。同じく新古今選者の一人。 暮を訪ねてくれよと言ふ歌である。「生きてよも」と言ふ初句によ って、血を吐くやうな斷腸の響きを訴へ、ついで「明日まで人はっ 何か厭ふよも長らへじさのみやは憂きに耐へたる命なるべき らからじ」加ち死んでしまった明日に成れば、さすがに人も自分を 哀れと思ふであらうと怨言し、下句に移って「この夕暮をとはば訪 かくも死ぬばかり焦がれて居るのに、何だってそんなに厭ふのだ へかし」と、到底來ないことを自覺しながら米練らしく望みをかけ らう。さのみはもはや悲しみに耐へ得ないと言ふ歌で、片戀に惱むて歌って居る。句々切々哀調綿々として斷腸の極を盡して居る。前 女心の情を盡し、正に斷腸の響きがある。「何か厭ふ」と言ふ言葉の「忘れじの」の歌と共に、同じく新古今戀歌中の名歌であらう。 の中に、そんなにも厭はなくっても好いのにと言ふ、女の恨めしげ作者は式子内親王。 な訴へが籠って居る。作者は殷富門院大輔。 疎くなる人を何とて恨むらむ知らず知られぬ折もありしに 忘れじの行末までは難ければ今日を限りの命ともがな 西行の歌。彼の戀歌はいつもかうした反省的の理智が加はって居 愛は醒め易く變り易い。今日の情熱は明日の冷灰と成るであら る。信侶的性格はそれ自身哲人的性格であるからである。 う。如かずむしろ情熱の高潮に身を投じて、愛の燃えあがった刹那 の火焔に死んでしまはう。今こそ君はそれを契ひ、二人は抱擁して 形見とてほの踏み分けし跡もなし來しは昔の庭の荻原 愛し合って居る。ただ願はくは永遠にこの瞬間を生活しよう。今日 のこの瞬間を限りとして、むしろこのまま永遠に死にたいといふ歌 昔同棲した愛の家を、今訪ねて見ればむなしい發園に變って居る 集 名 である。情熱燃えるが如く、愛に融け合った感情の高潮を盡して居との意。前に出した歌「名殘をば庭の淺茅に留めおきて」と類似し る。新古今戀歌中の名歌と言ふべきである。「忘れじの行末」は忘 ては居るけれども、此方の歌は單純であって單にそれだけの情景を れずと契ふ言葉の將來の意。作者は高内侍と言ふ女性で、後に儀同 敍述して居る。どういふ事情によって女と別れたのか、その邊がこ 礙三司 ( 藤原伊周 ) の母と成った女であるが、この歌は勿論その婚約の歌では不明である。 の日に作った實情だらう。故にこの名歌一首限りで、他には殆んど
でも、人々は科學の中に夢を感じ、自動人形の奏するオルゴール の批判も、見る人の主観によって變るのである。 0 % を、阿片の幻覺の中で聽き惚れて居た。その飾祕的な科學こそは、 あの中世のサバトから蘇生してきた、異端思想の新しき宗敎であ或る野戰病院における美談戰場に於ける「名譽の犧牲者」等 、人生の荒寥たる沙漠の中で、天體怪奇の美しき幻覺を感じさせは、彼の瀕死の寢臺を取りかこむ、あの充電した特殊の氣分ーー戦 飛エム る詩であった。 友や、上官や、軍醫やによって、過度に誇張された名譽の頌讃。一 なっかしき昔の科學よ ! 今やそのイメージは去り、科學の物珍種の芝居がかりの緊張した空氣。 によって、すっかり醉はされ しきロマンチシズムは消えてしまった。今日の「老いたる科學」 てしまふ。彼の魂は高翔し、あだかも舞臺に於ける英雄の如く、悲 は、もはや昔の若々しき科學のやうに、發生期の物珍しき發明と、 壯劇の高調に於て絶叫する。「最後に言ふ。皇帝陛下萬歳 ! 」と。 それの法的なる聯想の夢を持たない。今日の時代に於て、科學はけれども或る勇敢の犠牲者等は、同じ野戦病院の一室で、しばしば その言語の餘情にすら、昔のやうな詩的幻想を失って居る。科學は次のやうに叫んだらう。「人を戦場の勇士に驅り立てる・ヘく、かく もはや亡びてしまった ! すくなくとも我々の藝術家が、その詩的も深く企まれた國家的奸計と、臨終にまで強ひられる酒に對して、 空想の中で夢みたやうな昔の科學は、今日既に無くなってしまった 自分は決して醉はないだらう。最後に言ふ。自分は常に素面であっ のである。 た。」と。 しかしながらこの美談は、後世に傳はらなかったのである。 田舍と都會あの人情に厚い田舍の生活ー・ーーそこでは隣人と隣人 とが親類であり、一個人の不幸や、幸運や、行爲やが、たちまち鄕透視せよ ? 世界の不思議は、未だ資本主義を通過しなかった露 黨全體の話題となり、物議となり、そしてまた同情となり、祝輻と西亞に於て、その反動である筈の社會主義が、一足跳びに實現した なり、非難となる。 は、我等の如く孤獨を愛するものにまで、 といふ奇蹟である。反對にまた一方では、極端な資本主義によって しばしば耐へがたい煩瑣の惱みである。我等はむしろ都會の生活を中毒され、それの高調した弊害に苦しんでゐる現代のアメリカで、 望むであらう。そこでは隣人と隣人とが互に知らず、個人の行爲は 一も社會主義が成育せず、萌芽的にさへ、眞の深い根を持ってゐな 自由であって、何等周圍の監視を蒙らない。げに都會の生活は非人いといふ事實がある。 情であり、そしてそれ故に、遙かに奧床しい高貴の道德に適ってゐ 見よ ! 一方では季節はづれの果實が實り、一方では季節のもの る。 が、その熟すべき時期にさへ種を持たない。この不思議な事實から して、或る根本の祕密を見出すものは、どこでも民衆を統治し得べ 浪と文明文明は浪のやうなものである。それは遠い沖の方か き、權力の鍵を握ったのである。 ら、次第に岸に近づき、進んで來るやうに眺められる。だが見る人 の錯覺であり、實には同じところに上下してゐる、水の週動律にす日本の殘夢今日の日本は、瓧會のすべての文化ーー・例へば政治 ぎないのである。朝と、晝と、夕暮れと、太陽の反映する光線が、 や、習俗や、特にまた藝術やーーに於て、あまりに封建の遺風を殘 それの色彩を變へるであらう。しかしながらまた、色彩に對する美し、それの島國的な薄暗い情操で充たされてゐる。我々の時代の急 みの しらふ
くすぐ いふ・ヘきか、淫猥といふべきか、陽氣といふべきか、とても生々と分が、妙にられるやうにむずむずしてくる。ジャズの現はす一フプ した奇妙な氣分がする。 の感情ときてはたまらない。それは「戀愛」といふよりも、むしろ 今日のすべての藝術家が、アメリカ式の喜歌劇を呪ふやうに、今「痴情」といふに近い、ある卑猥にして限りなくスイートの氣分で 日のすべての音樂家はジャズを目の仇にしてゐる。彼等に言はせれある。要するにジャズの悅びは「藝術的のもの」でない。むしろ全 く「實感的のもの」である。言葉を代へて言へば精的なものでな ばジャズは音樂の邪道である。否それ所ではない。むしろ全く藝術 と呼び得ることのできないもの、藝術の聖を冒漬するものである くして生理的なものである。 さうだ。 一體に野蠻人の原始的な踊りは、亂暴で、野卑で、淫猥で、陽氣 で、それでゐて奇妙に生々した肉感的の魅惑をもってゐるさうであ 僕は音樂のことを深く知らない。しかしさういふ風な思想をもっ 人は、それ自らすでに「舊世界の感情」に生き殘された人ではない るが、ジャズの氣分がそれと殆んど近い。つまりジャズは一つの野 か。今や古き歐羅巴の文明は行き詰まってしまった。歐羅巴は老袞蠻的術である。アメリカといふ二十世紀の野蠻人が生んだ原始的 しその藝術は頽廢した。いっさいの新しき精は新大陸の方から萌音樂である。その藝術的價値の總和は、自由と鮮新と、そして實に えあがってくる。若きアメリカ。傳統のないアメリカ。藝術も禮儀ナイーヴの力強さである。 ジャズを呪ふ人々は、その浮調子で輕薄なことを指摘する。しか も知らない野育ちのアメリカ人。そして近頃著しく富裕になり、判 し僕らは、あの獨逸式の重苦しい莊重な音樂に飽きてゐる。藝術と 興の元氣正に旺盛なアメリカ人。そいつが無鐵砲に躍り出すところ は正に世界の一奇觀である。もとより奴等は亂暴である。歴史も知いふものの本質が、何かしら哲學的な、崇嚴な、意味深厚な氣分を らず、藝術も知らず、學間もなく、思想もなく、そして所謂文明人あたへねばならないといふのは、今日多くの藝術家の抱いてゐる先 として洗練を全く缺いてゐる。しかしながらーー・それ故にーー彼等入念である。しかしさういふのは、今日もはや古い思想に屬して は全く自由である。すべてが創造的である。その感情は鮮新にして ゐる。藝術の本質はもっとギリシャ的、樂天的であってもよい。輕 生々しい。然り、血のやうに生々しい。 薄だらうが、ちゃらぼこだらうが、何でもかんでも自由な感情をむ この「血のやうに生々しい」のが、實にジャズ音樂の特色であ き出して陽氣に騒げばそれで好い。かく新しきアメリカ人は考へて ゐる。 る。この生々しさは、舊世界の音樂のどんなものからも聽くことが できない。大べ ートーベンのシンフォニ 1 は僕らを藝術的に威壓す ャンキーの民衆が創造した唯一の藝術。それは後にも先にもジャ る。偉大な天才の力を感じさせる。所がジャズはさうでない。ジャ ズが唯一つあるのみだ。そしてジャズ的なる一切の藝術が、今や全 ズはでたらめである。惡ふざけと騒々しさと馬鹿々々しさの音樂で歐羅巴を風靡しようとしてゐ。多くの藝術家の熱心なる憎悪と抗 ある。むやみやたらに陽氣でちゃらぼこで、要するに藝術のあらゆ議とにもかかはらず、ジャズ的音樂とジャズ的演劇とは、洪水のや うな勢ひで歐洲に氾濫してしまった。あの文明的儀禮に惑溺してゐ 文る約束と權威とを無視した亂暴むちゃくちゃの野性藝術である。し かしながらジャズには、一種特別な不可思議な魅惑がある。ジャズ る常識家の英國紳士も、野蠻不作法のヤンキー趣味に感化されてし まった。そして何よりも皮肉なのは、趣味の洗練を誇る佛蘭西人す 幻を聽いてゐると、紳經中樞の或る部分が生理的に刺激されてゐる。 3 そいつはたまらなく聽者を肉感的にする。からだのどこか奇妙の部らが、この俗惡・卑猥・とても話にならないジャズ的歌劇に魅惑さ
とを蕪村に關して僕に語った。そして今日俳壇に住む多くの人は、 好悪の意味を別にして、等しく皆同様の察をし、上述の「定評」 春の部 以外に、蕪村を理解して居ないのである。 遲き日のつもりて遠き昔かな 蕪村を誤った罪は、思ふに彼の最初の發見者である子規、及びそ の門下生なる根岸派一派の俳人にある。子規一派の俳人たちは、詩 蕪村の情絡、蕪村の詩境を端的に詠嘆してゐることで、特に彼の からすべての主觀とヴィジョンを排斥し、自然をその「有るがまま 代表作と見るべきだらう。この句の詠嘆してゐるものは、時間の遠 の印象」で、單に平面的にスケッチすることを能事とする、所謂 い彼岸に於ける、心の故鄕に對する追懷であり、春の長閑な日和の 「寫生主義」を唱へたのである。 ( この寫生主義が、後年日本特殊の 自然主義文學の先驅をした。今日でも尚、アラ一フギ派の歌人がこの中で、夢見心地に聽く子守唄の思ひ出である。そしてこの「春日 美學を傳承して居るのは、人の知る通りである。 ) かうした文學論夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす 「詩人の笛」に外ならないのだ。 が如何に淺薄皮相であり、特に詩に關して邪説であるかは、ここで 論ずべき限りでないが、とにもかくにも子規一派は、この文學的イ 春の暮家路に遠き人ばかり デオロギーによって蕪村を批判し、且っそれによって鑑賞した爲、 自然蕪村の本質が、彼等の所謂寫生主義の規範的俳人と目されたの である。 薄暮は迫り、春の日は花に暮れようとするけれども、行路の人は 今や蕪村の俳句は、改めてまた鑑賞され、新しくまた再批判され三々五々、各自に何かのロマンチックな惱みを抱いて、家路に歸ら うともしないのである。かうした春の日の光の下で、人間の心に湧 ねばならない。供の斷じて立言し得ることは、蕪村が單なる寫生主 いて來るこの不思議な惱み、あこがれ、寂しさ、捉へやうもない孤 義や、單なる技巧的スケッチ書家でないといふことである。反對に 獨感は何だらうか。蕪村はこの悲哀を感ずることで、何人よりも深 蕪村こそは、一つの強い主を有し、イデアの痛切な思慕を歌った ところの、眞の抒情詩の抒情詩人、眞の俳句の俳人であったのであ刻であり、他のすべての俳人等より、ずっと本質的に感じ易い詩人 る。ではそもそも、蕪村に於けるこの「主観」の實體は何だらうであった。したがってまた類想の句が澤山あるので、左にその代表 的の句數篇を掲出する。 村か。換言すれば、詩人蕪村の魂が詠嘆し、憧憬し、永久に思慕した 今日のみの春を歩いて仕舞ひけり 謝イデアの内容、ち彼のポエジイの實體は何だらうか。一言にして あるきあるき 歩行歩行もの思ふ春の行衞かな 言へば、それは時間の遠い彼岸に實在してゐる、彼の魂の故鄕に對 人 まだ長うなる日に春の限りかな する「鄕愁」であり、昔々しきりに思ふ、子守唄の哀切な思慕であ の 花に寢て我が家遠き野道かな った。實はこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一 行く春や重たき琵琶の抱きごころ 貫して、讀者の心に響いて來る音樂であり、詩的情感の本質を成す 實體なのだ。以下その俳句について、個々の評釋を述・ヘると共に、 春の夜や盥を捨る町はづれ この事實を詳しく説いて見たいと思ふ。 たらひ
じうりし らうか。否々。僕等はあへてそのニヒルを蹂躙しよう。むしろ西洋 的なる知性の故に、僕等は新日本を創設することの使命を感ずる。 日本文化の特殊性 明治の若い詩人群や、明治のロマンチックな政治家たちが、銀座煉 瓦街の新東京を俳徊しながら、靑白い瓦斯燈の下に夢みたことは、 インテリジェンス 橫の文化と縱の文化 實にただ一つのイデーーーー西洋的知性の習得ーーといふことではな かづたらうか。なぜならそれこそ、あらゆる文明開化のエスプリで 横の文化と縱の文化と、二つのちがった文化がある。横の文化と あり、新日本の世界的新興を意味するところの、新しき美と生命とは、三次元の空間中で、前後左右へ廣く擴がるところの文化であ の母音であるから。過去に我等は、支那から多くの抽象的言語を學 り、縱の文化とは、限定された一地點でのみ上下へ立體的に進む文 び、事物をその具象以上に、襯念化することの知性を學んだ。そし 化である。 てこの新しいインテリジェンスで、萬古無比なる唐の壯麗な文化を 今日地球上で、文明國と言はれる世界各國の多くの文化は、たい 攝取し、白鳳天平の大美術と、奈良飛鳥の雄健な抒情詩を生んだの てい皆前者の「横の文化」に屬してゐる。ひとりただ極東の日本だ である。今や再度我々は、西洋からの知性によって、日本の失はれけが、唯一の「縱の文化」を發育させた。文化的に言って、日本は た亠円春を回復し、古の大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設實に世界の例外であり、唯一の特殊國にしてゐる。日本の世界的 しようと意志してゐるのだ。 地位を知らうとするものは、第一に先づ常識として、このことを知 現實は虚無である。今の日本には何物もない。一切の文化は喪失らねばならないのである。 されてる。だが僕等の知性人は、かかる虚妄の中に抗爭しながら、 未來の建設に向って這ひあがらてくる。僕等は絶對者の意志であ る。惱みつつ、嘆きつつ、悲しみつつ、そして尚、最も絶望的に失 足利時代の末期に、初めて日本へ來たキリスト敎の宣敎師は、日 望しながら、しかも尚前進への意志を捨てないのだ。過去に僕等本の文化についてかう観察してゐる。土人の生活程度は概して低 は、知性人である故に孤獨であり、西洋的である故にエトランゼだ 、野蠻とは言へないけれども、未だ半開の域を脱してゐない。彼 った。そして今日、祖國への批判と關心とを持っことから、一層ま等の住宅は極めて原始的な建築術によって設計され、多少の加工し た切實なジレンマに逢齏して、二重に救ひがたく惱んでゐるのだ。 た材木と紙とで、極めて素朴的に造られてゐる。富豪の住宅や將軍 孤獨と寂寥とは、この國に生れた知性人の、永遠に避けがたい蓮命 の宮殿と雖も、庶民のそれと多く異なるところはない。食物は淡泊 なのだ。 で味がなく、料理法が十分に發逹してゐない。土人の好む音樂は、 日本的なものへの回歸 ! それは僕等の詩人にとって、よるべな單純な旋律から出來てゐる歌詞を、極めて原始的な樂器に合はせて き魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。誰か軍除の凱歌と共に、 奏するもので、文明人の鑑賞からは、眞の音樂と呼び得ない程度の 勇ましい進軍喇叭で歌はれようか。かの聲を大きくして、供等に國ものである、と。 日本の文化に對して、かうした察をする外國人は、決して當時 粹主義の號令をかけるものよ。暫く我が靜かなる周圍を去れ。 3 の件天連ばかりではない。今日でも尚、日本へ來る遊覽外人の大多 ばてれん
に現代の人々の常識である。それが邪論であるか正論であるか、無的な雅語でさ〈もあるか。そしてまた我等自身にとっても同様に。 神論であるか有訷論であるかといふ議論でなしに、とにかくにも人されば宗敎はーーー罪の念を信仰の基調とする地上一切の宗敎は 人はかくの如く信じてゐるのである。あだかも昔の人々が、彼等の 今日に於ては、もはや明白に存在の可能性を失ってゐる。我等 常識に於て、とにかくにも良心をのと信じ、そして罪の意識を のあまりに現實的な時代、あらゆる溿話的敍事詩の幻滅した今日の 禪罰の観念と結びつけて信じてゐたやうに。 時代に於ては、あの宗敎の歴史に於ける最後の人親鸞ーーー彼は宗敎 されば今日に於て、たと ( 我等がいかに自ら「罪深きもの」であを心理學にしてしまったーーーでさ ( も、既に既に時代の人心から遠 ることを自覺したとはいへ、それを以ての故に何ら救靈への信仰を く絶縁されてしまってる。ああ宗敎 ! 宗敎 ! この滅び行く過去 呼び起しはしない。女を見て色情を起すほどにも、それほどにも我の美しい幻影に對して、しばし追憶の情をひろげしめよ。 等が罪深きものであるといふ敎訓は、前もって「姦淫は天國に於て 罰さるべきもの , といふ先人見を豫想されてゐなければならぬ。あ友人と表現あの小さな子供たちと話をするとき、どんなに我々 の殘忍酷薄な怒りの紳工ホバの信仰によって、それほどにも紳罰の の言葉が子供らしく、しばしば片言まじりにさへなってくるか。そ 恐怖に蒼ざめてゐた當時の人々の靈魂にとってこそ、反對にすべて してまた百姓たちと話をするとき、貴婦人たちと話をするとき、愚 の罪を許さうといふ耶蘇の輻音が、いかにも涙ぐましい愛の音樂と 鈍な人々を對手にするとき、物わかりの好い人を聽手にするとき、 して有りがたく沁み渡ったことであらう。しかも既にエホパを信じ夫々いかに我々の言葉のしながちがってくるか。單に言葉の様式ば てゐない我等、天國に於ての刑罰を信じて居ない我等、この大膽に かりでなく、調子から、發聲から、氣分から、情味から、そして實 して靈魂の恐怖を知らない現代の不逞漢共にとって、そもそも何の に内容までちがってくる。 されば私に就いて、しばらくこの點 十字架が、何の救靈が、何の「罪の許し」があらうぞ。げに許すもの齒痒ゆさを寬容せよ。ああだれがそれを私に選定させたか。 許さないもないぢゃないか。我等は罰さるべき何の罰的惡事をも 働いてゐない。ただ人間が人間に對しての惡事を、單に我等自身の別離の感情女よ、ここに私を離れて遠く行かうとするか。今寂 法廷や良心によってのみ罰さるべきーーしたがってまたそれからのしい落日の野路に立って、我等は遂に別れねばならぬ。 君よ、 み許さるべき , ー・・・・過失を犯したにすぎないのだ。と、かく今日の人それは蓮命である。 げに私はかって二人の幸輻にまでそれを意 人の常識は信じてゐる。 欲した。そして今も尚、ああ今も尚密かにそれを意欲して居ないと 明白に言へば、既に我等の時代に於ては、もはやあの「罪」とい 言ひ得るものぞ。とはいへしかし、野末の落日に背いて立っ君の ~ 安 情 ふ言葉、あの何がなし神祕的な暗い影を縹渺させる、何がなし地獄のさびしさよ。されば君は遂に行くか。暫し止まれ。いかに今日の の佗しい光線を聯想させる「罪」といふ言葉が、既に現實味を失っ君の風情のしをらしさよ。今こそ私にまで、一つの新しき、物珍し し た死語となってしまったのである。今日我等の辭書にある「罪」のき、かって知らない愛の情慾は目ざめてきた。願はくは私の古き罪 解義は、何らさうした紳祕的情感のあるものではなく、全く法律上を許せ。さばかり君に情なくした過去の「誤謬」の一切を許せ。げ 和の「犯罪」と同意義な者でさへある。みよ我等の學校に通ふ子供等 に私の過去の「認識」が、今日の君の新しき風情 この物珍しき しよくざい にまで、あの「贖罪」といふやうな言葉が、いかに不可解な、古典愛の目ざめーーーに就いてさへ、思ひがけない盲目の誤算を犯したこ
327 詩 人がすくなく、詩人その人が時代的に散文化して居ると共に、詩そ 心理を分析して、無機的に敍述するのであるから、眞の生きた人間 のものが次第に韻律性を失喪して、不純に散文化して居る有様であ 心理の、呼吸する實相を表現することが不可能である。これをその 如實の實相で表現し得るものは、その言葉に心臟の鼓動する呼吸る。特に日本の自由詩といふ文學の如きは、ポエジイとしての形態 からも内容からも、殆んど全く散文と選ぶところのないものであ ( 印ち律 ) を傅へ、氣分や感情やのセンチメントを、そのまま言 り、極言すれば「散文の一種屬」にすぎないのである。 葉に寫眞して表現する文學、ち抒情詩より外にないのである。故 かうした時代ーー詩の失喪した時代ー・ーは、かって昔の日本にも に詩といふ文學は、この意味に於て最もレアリスチックの文學であ る。詩に比すれば、小説のレアリティ 1 の如きは、虚妄の生命なき實在した。印ち德川の江戸末期がさうであった。江戸德川政府は、 影にすぎない。 朱子學の儒敎によって國民精を統一し、すべての浪漫精訷や詩的 今日、散文精と散文文化が、すべての韻文學を壓殺して居る時エスプリを禁壓した爲、國民の精訷が卑屈に散文化し、全く高邁な 代に於て、獨り尚抒情詩だけが殘って居るのは、それが詩の中での詩的精紳を無くしてしまった。勿論その當時に於ても、詩 ( 韻文 ) といふ形態上の文學は有ったけれども、それは、地ロ、狂歌、ー 核心な詩であり、上述のやうな特殊の武器を持ってるからである。 未來、散文が如何に長足の進歩をした所で、それが散文である限 柳、雜俳のやうなもので、昔の奈良朝にあったやうな、眞の純眞な り、到底この詩の表現的領域を犯すことはできないだらう。「すべ抒情精といふものは、全く時代の文化から失はれて居た。江戸時 ての詩は亡びた。だが人間が呼吸する限り、律そのものは亡びな代に於ける唯一の藝術詩は俳句であったが、それも芭蕉以後はその い。」と、ヴァレリイが或る場所で言ってゐる。詩が韻律を有する詩精紳を失喪して、概ね地ロ、狂句のやうなもの、ちいはゆる月 以上、その生命は永遠である。 並俳句に低落して居た。芭蕉以後の江戸文化は、全くプロゼックに 卑俗化して、完全にポエジイを失って居たのであった。 現代の日本が、丁度またかうした時代である。江戸時代のそれと 近代詩の中に、多分の散文精が人り込んで居るといふことは、 はちがった、或る別の會的事情によって、今日の多くの民衆は希 否定しがたい事實である。人はいかにしても、その生活して居る環望を失ひ、生活の意義を失喪し、全くプロゼックに卑俗化してしま 境から孤立し得ない。今日のプロゼックな散文時代に、プロゼック って居る。現代にあっては、殆んど純潔の詩精が失はれて居るの な文化環境に住んでる僕等は、いかに自ら努めて拒絶しても、必然である。そこで或る人々は、今日がもはや抒情詩の時代でないこ 川柳や狂歌の如き、諷刺詩の時代であることを説き、眞の詩精 に避けがたく散文化せざるを得ないのである。もし極言的な見方を すれば、今日の「詩人」といふ人々は、多少皆例外なく「散文人」 への告別をさへ宣告して居る。そして或る他の人々は、詩の散文 であるとさへ言へるのである。眞の純粹の韻文人といふものは、お化を強調し、詩精祁をプロゼックに低落させることを以て、逆に時 そらく今の瓧會に一人も居ないであらう。すべては皆、この時代の代の新しいポエジイの如く考へて居る。しかしながら眞の詩人は、 プロゼックな瓧會的環境に侵害されてゐる。 かうした時代に於てさへも、頑として一切に抵抗し、詩の純潔を守 この一つの事實は、獨り僕等の日本に限らず、世界的に共通してらうと欲するのである。もちろん、人はその環境から孤立し得な ゐる現象である。外國の詩壇を見ても、もはや背のやうな純粹の詩い。今日の詩人が、この時代に生活してゐる以上、多少とも散文精
禪に同化されるのは已むを得ない。しかしその「有る所の事實」の 8 故に、詩の「有るべき所の理念」を捨てれば、もはや詩の當爲的實文化亠咄 在性は消滅する。今日に於ける詩人の理念は、かかる時代に反抗 し、すべての散文的なるものに向って、一切から一切への安協なき 「拒絶」を續けて行くことよりない。單に外界の就會や文明ばかり ではない。汝の詩人自身の中に住むところの、時代的の散文精に 向ってさへ、不斷の否定と拒絶を以て、自己への戦ひを續けなけれ ばならないのである。一人、もしくは二人の詩人だけが、今日の日 本に於ても、たしかにこの詩人の純潔な戦ひを續けてゐる。そして この稀れなる人々の精だけが、今日の最も惡しき事情の下で、纔 かに詩を守りつつあるのである。 わ・つ 新世界からの感情 騒々しい音樂・馬鹿々々しい滑稽・陽氣な唄・綺麗な娘・花やか な舞臺・爆發・でたらめ・惡ふざけ・騷々しい音樂 これは一昨年東京にきた・ハンドマン一座の廣告ビラである。何と いふ愉快な文句だらう。これを讀んだとき、僕は世界がひっくりか へるやうな氣がした。まるで見當のちがったところから、ふいに幸 のやつが飛び出してきて橫ずつぼをなぐったやうな氣がした。 その時からして、世界がすっかり陽氣になってしまった。でたら め ! 惡ふざけ ! 騷々しい音樂 ! 何たる鮮新な感情だらう。そ の感情こそは、舊世界のあらゆる藝術、あらゆる文明に對する破壞 を意味してゐる。あの自由で、亂暴で、靑春の血氣にみちたヤンキ 1 の新文明がこれだ。初夏のさわやかな風のやうに、僕らの精を フレッシュにするもの、ふしぎな新世界からのよろこびが感じられ ジャズ ・・ハンドの音樂が丁度これだ。あいつを聽いてゐるとたま らない。愴快といふべきか、不思議といふべきか、馬鹿々々しいと
33 ひ い。成金は富裕なる野蠻人にすぎないだらう。けれども多少の時期 れてしまってゐることだ。 今や世界をあげて、物質的にアメリカの配下に屈從してゐる如をへて、漸くその感情は洗練されてくる。かくして最近、漸くアメ リカ人は一つの獨創的文化を創造し得た。アメリカ的文化 ! それ 、精的藝術的にもまた新大陸の感化に隷屬しつつある。この現 象に就いては、僕等はその悅ぶべきか悲しむべきかを知らない。たは未だ概念の明白しない漠然たるものであるが、しかも有形無形の だしかしそれは事實である。歐羅巴はすでに疲弊してしまった。舊中に、ある恐ろしい力が海の彼方から迫ってくるのを感ずる。そし 大陸の文明はその行き詰まる所に到逹した。彼等は老衰してもはやてその最も具體的な現はれとして、まづジャズ音樂を考へることが 靑春の血をもたない。ここに新しい生命を注ぐものは、ただ若き世出來る。 憐れむべきアメリカ人。彼等のもっ獨創的藝術は、後にも先にも 界からの薰風があるのみだ。新しきものはすべて野蠻であり、組野 であり、不作法であり、むちゃくちやである。それはもちろん未完唯ジャズ一つしかない。しかし既にその一を創造した。つづいてま 成の藝術にすぎない。しかしそこに生々とした生命がある。舊阯界た彼等は二を作り、三を作り、四を作るであらう。そして今日の ジャズの如く、欽々にそれらが世界の新奇として喝采され、やがて のそれとは全く根本的に異なるところの、一つの驚くべき新奇な感 情がある。その若くして旺んなるエネルギーこそは、すべての老哀はアメリカ的なる一切の文化が、歐羅巴と地球とを統一してしまふ であらう。僕はその未來を考へるとき腹立たしくなる。なぜといっ した民族を若返らせるであらう。實際始めてジャズに接する人は、 てアメリカ人の趣味には、先天的に僕等と一致しないものがあるか ふしぎなる心の若返りを感ぜずには居られない。多くの人は思ふ 9 「これは藝術ではない。だが奇妙に偸快なものだ。」と。然り、そら。思ふに僕等は、生涯を通じてアメリカ人を憎みながら、しかも れは人々の先人觀念としての藝術ーーーそれは既に行き詰まってゐる次第にその巨力に牽きずられて行くのではあるまいか。 人々は、未來派や表現派を新しい藝術だといふ。なるほど此等の を根本から一新させる藝術に外ならない。 藝術は、形式に於て舊來の型を破ってゐる。形式に於て自由であり すべて精的文明なるものは、物質的文明の上空に架設される。 孔子の所謂「衣食たりて禮節を知る」であって、實生活の根柢なき大膽である。しかし要するに此等の藝術は「歐羅巴の藝術」であ る。あの老衰した、血の氣の薄い、あの「舊世界からの感情」の名 所から學術や文藝の花は険かない。未來もしプロレタリア藝術なる 者が世に生れるとすれば、そはプロレタリアの黄金國が實現し、彼殘にすぎない。明白にいへば此の種の藝術は、すでに行き詰まった 等が十分生活の安定と餘裕とを得た後の話である。歐羅巴の文明舊世界の文化に苦しむ人々が、その窮餘の果てに考〈ついた一別路 である。即ち「舊世界の人が考へた舊世界への反逆」である。 は、彼等の諸國が地上の榮華を極めた時に全盛であった。しかして それ故に此の種の藝術の新味は、單なる外觀上のものにすぎな 今や彼等はその榮華を失はうとしてゐる。そして同時にその文明 い。彼等は自ら破壞を叫び、改造を呼んでゐる。しかも悲しいこと 一方、新世界のアメリカは、最近物質上の榮華を極めてゐる。生には、彼等自身が既に新しい時代の人でない。彼等の生活の環境は 活の向上と共に人心は元氣にあふれてゐる。しかも最近まで、彼等死にかかった歐羅巴である。そして彼等の血脈には先祖の老衰した は何の藝術をも持たなかった。けだし文化の花は一朝にして啖くも血が通ってゐる。されば如何に自ら悶えた所で、彼等は彼等以上に 別の人格となることができないのだ。見よ、その作物は全く舊世界 のでない。昨日の成金紳士は今日一朝にして茶道の趣味を解し得な
務は、何よりも先づ資本主義を確立して、眞の新しい近代的國家をやにるとがる等の帆船は、早くから地球の港々をたづね歩いた。そ つくるにめる。 の航海の途中には、魔物と妖怪で充たされた海があり、海賊は血な 今日の日本に於て、我々は季節はづれの瓧會主義に同情すべく まぐさい兇器をふるって、不吉な島々の岬から、幻燈のやうに現は あまりにフルジョア的なものに遠く、プルジョア的なものに追從すれて來た。羅針盤は魔術のために狂ひ易く、行くところに暴風雨 ますと る、未知の憧憬にこがれてゐる ! は、帆布を裂き、檣柱を粉々に碎いてしまった。 かうえき かく航海術の幼稚なる時代に於て、交易は恐ろしい冒險の事業で あった。港を出た百艘の船の中で、ただ十艘だけが無事に歸った。 感覺と精祚感覺的な人物等は、物質の肉感にのみ溺れて居り、 精の本質に屬するところの、高貴な美しいものを知らない。一方氣味あしき幽靈船の幻影は、行くところの空に浮んで、船員共の で精禪的な人物等は、感覺の世界に表現されてる、現實の美しいも經を暗くしてゐた。けれども冒險の歸結は、驚くべくまた愉快なも のを知らない。それからして前者は、アメリカ的無智の物質主義に のであった。一航海の終りに於て、荷主等は世界の寶石と財産と 低迷して、救ひがたく俗惡な者に墮してしまふ。反對に後の者は、 の、山のやうに巨大な富を所有した。彼等はその腰に劍を帶び、帽 印度的無智の心靈主義に幻惑して、永久に沙漠の中を彷徨してゐ に空想の花束を飾ったところの、古風な浪漫的な騎士であって、商 業すること自身よりも、冒險すること自身の中に、情熱の夢を持っ 原則として、感覺は物質と共に滅び、精紳は觀念と共に沒落すた詩人であった。 る。望ましき者は一つしかない。その本質に精を有するところの いかに諸君は、歐洲の近代文化を本質してゐる、商業主義のロマ 感覺主義者。逆に或は、その屬性に感覺を有するところの精紳主義ンチシズムを知ってるか。希臘のアゼンスの昔から、商業主義は自 者。 由と冐險を旗色にし、そしてス。ハルタの保守的な農業主義ーー、ち また軍國主義ーーと爭って來た。そして遂に、商人等の自由思想と テロリストの原理個人の存在を抹殺することによって、復讐が 浪漫主義とが、歐洲の近代文化を征服した。世界は新しくなって來 遂げられると思ふのは、低氣壓の象徴 ( 信號燈 ) を壞すことによった。しかしながら今日、いかにまた商業そのものが變って來たか。 て、暴風雨を防ぎ得ると信じたところの、單純な野蠻人の思想に似 今日に於て、商業はもはや昔の精訷を失ってしまった。現代の商 て居る。けれども暗殺者等にとってみれば、象徴であることの外業は、何の冒險でもなく英雄的な敍事詩でもない。商業は、今日に に、どんな宇宙の意味も實在しない。故に彼等は言ふのである。 於て純粹の實業であり、ただのけちけちした、卑賤な金まうけの業 否 ! 人間を殺すのでなく、その人間によって象徴されてる、或るにすぎない。航海は安全であり、鐵道は到るところに發逹してゐ る。昔の商業をおびやかした、あの幽靈船の幻影は、もはや地上の 矼瓧會上の一つの意味 ( 觀念の實在 ) を滅ぼすのだと。 妄概ねの暗殺者とテロリストとは、雎物史觀に反對して、観念論の海圖から消えてしまった。そこには既に何の「詩」もなく、何のロ 象徴主義を信奉してゐる。 マンチシズムの精も殘ってない。今日の商業は、もはやあの「翼 の生えた車輪」が表象してゐる、昔の天才的空想性を無くしてしま 6 2 商業商業は昔に於て、一つの浪漫的な冒險だった。いすばにやった。