完成しなかった。そのむなしい短歌遍歴の終らためて詩に移行したことからも知られる。生家は財政的にゆとりがあり、家庭には長男 ったところから詩作がはじまったが、そのままた「愛憐詩篇」の編集をする際に除外したを大事にする風習があり、母ケイの溺愛があ ま短歌的なものの一切が消滅したのではな抒情小曲など、除外を當然とおもわせるほどり、 美貌の四人の妹たちに取りかこまれてい い。自分の作歌はむなしかったけれども、そ幼稚なものであった。 たこと。たぶんそれらの一切が甘ったれを培 の詩的體驗を通じて、萩原朔太郎は傅統和歌「處女詩集『月に吠える』を出したのは、た養した。萩原朔太郎は北原白秋の詩集『思ひ の音律美を會得し、抒間の美を攝取した。そしか僕が三十四歳 ( 註。三十二歳である ) の時出』と歌集『桐の花』を、近代詩のもっとも れが「愛憐詩篇」に流れ人って感傷と詠歎のであった。それが偶然にも、ポードレエルのすぐれた成果に數えていた。それゆえ北原白 抒情となり、『戀愛名歌集』における傅統詩『惡の華』と同年であると言って祝輻してく秋を奪敬したのは當然だけれども、その傾倒 の抒情の享受となり、その音律美の分析となれた人があったが、僕としては少し寂しい思ぶりは甘ったれの熱狂以外のものではない。 った。生涯を通じて詩の本質を抒情詩にもとひもした。と言ふのは北原白秋氏や三木露風こういう甘ったれの中で「愛憐詩篇」は靑春 めたのも、詩として完美した傅統和歌〈の愛氏等が、既に早く十七歳位で詩壇に出、二十の哀傷を主題にして綴られ、ようやくその詩 や、自分の作歌體驗がその基調になっていた歳を越えた時に既に堂々たる大家になって居的道程の第一段階を形づくった。 からである。 たことを考へ、自分の過去の無爲と非才とを 悲しく反省したからだった。」 これは「詩壇に出た頃」と題する回想の一第二の段階をなす『月に吠える』への移行 萩原朔太郎の詩の仕事は、時間的におよそ節である。この歎きに多少の扮飾があるとしは飛躍的だった。この詩集におさめた作品 三つの時期に分れている。 ても、先輩詩人の十七歳と、萩原朔太郞の三は、大正三年末から大正五年末あたりまでの その第一段階が『純情小曲集』の前半をな十二歳との對比には甚だしい距りがある。そほぼ二年間にかかるものだが、その二年のあ す「愛憐詩篇」だった。前述のように、十年の晩熟は短歌や抒情小 曲の稚拙さばかりでないだに近代詩の世界に確固とした位置を占め 銓の短歌遍歴を斷ったところから詩 ( 抒情小く、 人間としてもどこか未成熟のところがある數々の作品をつくったのである。萩原朔太 曲 ) へ移行したのだが、その移行は二十八、った。それを端的にしめすのがその當時の書郞の全生涯を通じて、大正三年から同六年に 九歳のときに當っている。近代の詩人として簡類で、大正三年秋の北原白秋あての手紙にわたる時期は、創作力のいちばんさかんな年 門年齡的に遲い出發だった。 「私の戀人が二人できました。室生照道と北月であった。殊に大正四、五年は『月に吠え 郊 いったいに萩原朔太郞の詩的成熟は遲かっ原隆吉氏です。感慨きわまる。」という部分る』の全作品をはじめ、これに關連する作品 朔た。このことは大正二、三年三十八、九歳 ) がある。普通にはとうてい言えぬこういう手 ( 『蝶を夢む』に收録 ) を集中的につくったので 萩にかけて、生地の『上毛新聞』にさかんに發紙を、二十九歳の靑年が臆面もなく去々に書あって、その成熟のおどろくべき速さは、そ 表した短歌が、一半は石川啄木の『一握のきつづけたのであって、これは″戀文″といれまでの吸收や蓄積が、一擧に醗酵したもの ということができる。短歌でも新體詩でもな 砂』の模倣であり、一半は北原白秋の『桐のってもおかしくない文面である。 花』の模倣だったことからも知られるし、あ一面で萩原朔太郞は甘ったれだったのだ。い″新詩〃の内的發見によって、それまで眠
秋二かれ女號大一太大 正ト郎正 郎らた 正朔寫に雜四 四太北尾眞紹誌年習年 郎原山介五作 白篤右さ處月 斗ワこ売チ災ト ) [ を寺ぐ どこかて飛たがあッミ ) 散歩ラす 午時生っニ」タて →大正四年三月「卓上噴水」創刊號 ←大正五年六月「感情」創刊號 ←大正五、六年頃マンドリン・クラブ演奏 會記念撮影前列右から五人目朔太郞
ば、その環境から脱れたいとおもうのは當然二、三年 ( 三十八、九歳 ) の昔である。わかい別演奏會」が催された。上毛マンドリン倶樂 だった。その情操において萩原朔太郎が近代ころの萩原朔太郎はハイカ一フ趣味だったか部は萩原朔太郎が主宰し、指揮者になってい 都會的だったのに對して、鄕土の人と自ら、手品もハイカ一フ趣味のあらわれだったかたマンドリンオーケストラである。その出發 然は古くさかった。その落差から生じる孤獨もしれない。だが五十歳過ぎて奇術倶樂部のは大正四年に編成したゴンドラ洋樂會で、最 感や疎外感は、『月に吠える』中の「孤獨」正規の會員になったことには、趣味とばかり初は小さな集りだったのがしだいに規模が大 きくなり、演奏技術も上逹し、群馬縣下の各 「田舍を恐る」などの作品にあらわれている。言えない何かがあった。 " 望景。の二字を含めてここで知られる手品には一種のミステリアスな興趣があ地で公開演奏をした。その主宰者が一家を擧 ことは、「鄕土望景詩」全篇の憎惡感や疎外る。人の眼をくらまし、何かを掠めとる擦過げて上京することになったので、萩原朔太郞 感は、鄕土そのものをナマの對象にしているの一瞬の幻惑は、遊びそのものの中に韜晦すが最後のタク + を振って送別演奏會が催され たのである。 ることである。會合の席や醉ったときなど、 のではないということである。 鄕土の自然と環境が萩原朔太郎の内面にも晩年の萩原朔太郎はしばしば得意になって手萩原朔太郎は詩におけるリズムを大事に たらしたものは、疎外感の果ての孤獨感であ品を披露したが、その姿には佗びしい影がまし、その詩に音樂的イメージを織りこんだ聽 、現實についての無爲の意識であり、そこといついていた。おそらく萩原朔太郞にとっ覺型の詩人である。この聽覺的特質は詩作品 に生じる倦怠の意識であり、環境からの脱出て、手品は " 自己韜晦″に落ちこむことに魅に獨得の味わいをもたらし、古典 ( 短歌・俳 の願望であり、これらの意識が交錯して織りカがあった。・他愛ない手先の遊びなのに、自句 ) 鑑賞のうえにいろんな作用をしたが、こ なすニヒリスチックな情操であり、それの理分ではそれと意識しないで、その韜晦や自己こで少し脇道に外れて餘話めいたことを言い 論的發言としての文明批判 ( アフォリズム・評欺瞞をたのしんだのである。この自己韜晦は添えると、萩原朔太郎の文字の記憶はひどく 論など ) だった。萩原朔太郎の詩集にはここ現實の環境から脱出しようとする願望が、卑あいまいだった。當字や誤字を餘り氣にかけ に擧げた生活情操が、そのまま詩的情操とし小に變形したもののように思える。奇術倶樂なかったらしく、文字表記をまず耳で記憶し て表現されている。 部の例會へ新夫人の大谷美津子といっしょにたようだ。詩集のミス・プリントにこつけい このような生活情操にして生涯の一端を出かけ、酒をひっかけて奇術をたのしむ詩人なのがある。その極端な例が「田舍を恐る」 のぞくと、環境からの脱出の願望ーーそれのの姿は、それだけで佗びしさを感じさせる。の終りにある「惱まされる」で、これは初版 ささやかな變形として手品があった。 環境からの脱出の意志には一種の " 牙″があでは「腦まされる」だった。ミス・プリント 門 素人奇術家の集りである東京アマチ一ア・るけれども、手品の韜晦にはもはやその牙がにちがいないけれども、おかしなことに大正 十一年刊行の再版『月に吠える』でも訂正さ マジシアンズ倶樂部に、萩原朔太郞が入會しなかった。 れなかった。この種の誤りは書簡になるとも たのは昭和十二、三年ころで、年齡は五十 っとひどく、どの書簡にも當字、造字が散ら 二、三歳だった。老年のつまらぬ遊びだとい ってしまえばそれまでだが、それにしても手大正十四年二月、前橋市の柳座劇場で上毛ばっている。 0 品を習いはじめたのは、ずっと古く大正十マンドリン倶樂部による「萩原朔太郞上京送「僕の靑年期のすべての史は、全く音樂の
4 プひ * 室生犀星『第二愛の詩集』刊。「日本象徴詩 五月號に「三木露風一派の詩を放追せよ」 集』刊。民衆詩派、人道詩派の活動目立つ。 を發表、詩壇における象徴主義論、祕主 大正五年 ( 一九一六 ) 三十一歳 義論を誘發した。十一月、「詩話會」設立 三十五歳 大正九年 ( 一九二〇 ) 一月、ゴンドラ洋樂會第一回試演會を催 され會員となる。この年も多數の作品を發 す。三、四月ころから自宅で毎週一回「詩表し、その作風は『靑猫』に移行していた。九月、長女葉子生る。 * 日夏耿之介『轉身の頌』刊。民衆藝術論の機 と音樂の研究會」を開き、地元の詩人歌人、 大正十年 ( 一九二一 ) 三十六歳 運昻まる。 音樂愛好家たちに詩の講義、樂譜の解説な 三月、前橋在住の詩歌人たちと「文藝座談 どをした。六月、室生犀星と雜誌「感情」 大正七年 ( 一九一八 ) 三十三歳 會」を設け、その中心となって秋ころまで 創刊 ( 大正八年十一月終刊。涵刊三十二册 ) 。十二月 に人るとともに鎌倉に在して詩集の編集「感情」四月號掲載の作品を境にして、爾持續。十月ころからふたたび詩作品を發 に從う。この年の作品發表數はあまり多く後三年餘にわたり作品發表を中斷。この當表。 はないが、マンドリンクフプの演奏、高橋時はしきりに散文集、詩論集の刊行を企畫 * 野村隈畔死去。「日本詩人」「詩聖」創刊。 「明星」第二次創刊。 元吉と交した信仰と宗敎についての多量のした。 手紙、詩的散文というべきスタイルの文章 * 室生犀星『愛の詩集』「抒情小曲集』刊。世 三十七歳 大正十一年 ( 一九一三 ) 發表など多面的に仕事をした。・ 界大戦終る ( 休戦條約調印 ) 。全國各地に米騷動 * 上田敏死去。人道主義文學の機運昻まる。 三月、『月に吠える』を再版出版。四月、最 起る。 初のアフォリズム集『新しき欲情』出版。 三十二歳 大正六年 ( 一九一七 ) 五月、メ工ゾン鴻の集で『新しき欲情』出 大正八年 ( 一九一九 ) 版記念會催さる。「短歌雜誌」五月號發表 前年にひきつづいて二月下旬ころまで鎌倉 の「現歌壇への公開状」をきっかけに、翌 に濡在。一月、メ工ゾン鴻の集で開かれた五月、上田稻子 ( 明治三十二年六月生れ。金澤市出 各詩人グループの懇談會に出席。一一月、第身の上田伊太郎二女。當時、上田家は本鄕元富士町一一丁年にかけて歌壇批判を次々に發表し、歌壇 目、舊加賀藩卞前田家の邸内にあった ) と結婚。十人と論爭。七、八月、湯河原温泉に崙留、 一詩集『月に吠える』出版、全詩壇から注 目された。出版直前に内務省警保局の内逹一月、父密蔵老年のため開業醫をやめ、一同地へ室生犀星夫妻をむかえ、同道して小 により、風俗壞亂の理由で「愛憐」「戀を家を擧げて前橋市石川町一一十八番地へ移る田原に北原白秋を訪間。九月、女明子生 戀する人」一一篇の削除を命じらる。これに ( 北曲輪町の家は津久井院となる ) 。作品發表中斷る。 * 森外死去。室生犀星『忘春詩集』刊。 對して「風俗壞亂の詩とは何ぞや」と題すの裏で朔太郎はアフォリズム風な文章の形 成に腐心し、「文章世界」八月號にはじめ る文章を地元の新聞に發表して抗議した。 三十八歳 大正十一一年 ( 一九二三 ) 五月、來橋した室生犀星と同道で伊香保温て「散文詩」と題してその作品八篇を發 一月、「靑猫』出版。七月、『蝶を夢む』出 泉滯在中の谷崎潤一郎を訪間。「文章世界」表。
正猫 む夢を鰥 : 物郎太判 。姦物人代現 5 、 区山 E い 1 昭薮 原 刊詩 「月に吠える」表紙 ( 大正六年一一月刊 ) 「純情小曲集」表紙 ( 大正十四年八月刊 ) 純情曲 The れイ 「氷島」函 ( 昭和九年六月刊 ) 6 山。 " 、 . 伊り尾、 Blue 0 東京第一書房版 長物太第第ズ 編版編人鋼第 「猫町」表紙 ( 昭和十年十一月刊 ) いら気 第印下物を 「新しき欲情」扉 ( 大正十一年四月刊 ) 「虚妄の正義」表紙 ( 昭和四年十月刊 ) スルア 物郎太朝 「絶望の逃走」表紙 ( 昭和十年十月刊 ) 「港にて」表紙 ( 昭和十五年七月刊 ) 絶望の逃走 「戀愛名歌集」 ( 普及版 ) 表紙 ( 昭和六年五月刊 ) 架峩三を心リ ( 第第太第第物 巷にて
大ら大 十朔十 ュ奈を : 第第三 從若 兄草 - - 萩に 次右 - キみいマ →大正六年一月鎌一 . 倉にて右日夏、 耿之介 ↑大正十一年前橋 の自宅にて右か ら弟彌六妹 みねユキアイ 甥津久井逸郞 義弟津久井惣次 郎甥津久井公 平父密藏朔 太郎母ケイ 妻稻子と長女 葉子その前甥 廣瀨毅妹わか →「郷土望景詩」にうたわれた大渡 橋と利根川 ←前橋市内を流れる廣瀨川 ( 撮影伊藤信吉 )
事情は詩集「月に吠える」に附した室生犀星の「跋」に詳細に描き應安定を得た。しかし九州柳川の酒造りであった實家が破産して父 出されてゐる。 母や弟たちが上京し、その生活を引き受けたため、經濟的に行きづ 朔太郎は翌年室生犀星を前橋に招き、また室生とともに、上京し まり、また俊子と父母が融和できないために苦しんだ。そして窮乏 て、北原白秋との交際をはじめた。朔太郞は白秋の作品では、その の末、翌大正三年には俊子と離婚することとなる。 本格的詩集と見られてゐた「邪宗門」の凝りすぎた表現を好まず、 さういふ生活の中にありながら、彼は歌集「桐の花」を出版し、 その次に白秋が出した抒情小曲集の「思ひ出」を高く評價し、それ詩集「東京景物詩及其他」を出し、雜誌「朱欒」を刊行し、績いて を最も影響を受けた詩集と言ってゐる。室生犀星の示景異情」も、雜誌「地上巡禮」を出して、犀星、朔太郞のやうなすぐれた詩人を その影響をたどるとすればこの「思ひ出」に結びつくであらう。し その周邊に集めてゐたのである。 かし白秋の「思ひ出」の詩の多くは歌謠風であるが、犀星から朔太 白秋、犀星に接することによって、漸く詩における表現の道を發 郞に續いた詩の脈は、歌ふのでなく、つぶやき、叫ぶとでもいふや見した朔太郞は、大正三年から四年にかけて、初めて彼らしい詩を うな表現法である。心の中の叫びを朔太郞は表現する道を見出した書くやうになる。ちのちに「愛憐詩篇」としてまとめられた軟か のである。 な作風のものである。そこから更に進んで「月に吠える」に收めら 大正三年、朔太郎は二十八歳、數へ年で言ふと二十九歳である。 れた「天景」、「龜」、「雲雀料理」、「竹」の一群の作品が現れた。し 一般に詩人や歌人は、この年までにはその作風を一應完成してゐる かしまた迷ひの時が來て、大正四年の六月から翌年の五月頃まで彼 のが常であるが、朔太郎は極めてオクテであり、それだけに特異のは沈默するのである。この年彼は室生犀星と二人で雜誌「感情」を 詩人だった。彼は白秋よりは一つ年下にすぎないから、同輩としてはじめる。これはのち多田不二、山村暮鳥なども同人に加はり、當 つき合ってもいいのであるが、このやうな自分の立ち遲れを氣にし 時の詩壇においての最も前衞的な表現の方法をとるグループを形成 たこともあり、またあまりに輝やかしい白秋の作品に壓倒されたのした。 が原因で、自分を白秋より三つ年下だと言って、これに兄事し、熱 大正六年、彼は詩集「月に吠える」を出版して、直ちに發賣禁止 烈な、ほとんど同性愛のやうな愛着を白秋に抱いてゐた。それは本處分を受けるが、同時に詩壇から大きな反響を得るにいたる。その 卷に收録した白秋あての彼の多くの手紙に明らかに見てとれるとこ 間の事情は本卷の「風俗壞亂の詩とは何そ」、「詩壇に出た頃」など ろである。 の彼自己の思出を書いた文章を見れば明らかである。 北原白秋はこの頃、詩人としては若き大家であったが、その生活「月に吠える」はまことに劃期的な詩集であった。彼に詩のイメー 設は激動のなかにあった。彼は明治四十三年、「思ひ出」を出版して、 ジを與へた室生犀星はこの時期、ドストエフスキーや白樺派の影響 解詩壇の最高の批評家であった上田敏の激賞を受けるが、明治四十五下にあって、抒情詩といふよりもヒ「一ーマニズムの歌とも言ふべき 作 年、二十七歳のとき、人妻であった輻島俊子と戀愛して苦しむ。俊敍事的な詩を書き、小説に移行する。犀星の初期の作風を引きつい 子の夫松下某に姦通罪で告訴され、市ヶ谷の未決監に二週間拘留さ だ朔太翩がかへって抒情そのものから思想に直接する鋧い作風を深 のれ、辛うじて放免された。このあと彼もまた、何度か自殺を考へため、それを彼獨自のものとして展開したのである。 3 が、大正二年その餾島俊子が夫と離別して白秋と結婚したので、一 「月に吠える」に先行する詩形としては、北原白秋のものと三木露
版。八月、谷崎潤一郎らと榛名山に遊ぶ。 人と伊豆の旅をする。八月、『純情小曲集』編集に當る。三月、『萩原朔太郎詩集出 * 室生犀星『靑き魚を釣る人』刊。關東地方大出版。輕井澤へ行き室生犀星、芥川龍之介版。十二月、『詩の原理』出版。 震災。 * 全日本無産者藝術迚盟 ( ナップ ) 結成。室生 らと遊ぶ。次いで赤倉温泉へゆく。九月、 犀星『鶴』刊。「詩と詩論」創刊。若山牧水 銀座風月堂で『純情小曲集』出版記念會催 大正十三年 ( 一九二四 ) 三十九歳 死去。 さる。十一月、奈川縣鎌倉町材木座芝原 二月、「新興」創刊號發表の「情絡と想念」四百八十一番地 ( 移る。「日本詩人」十一昭和四年 ( 一九二九 ) 四十四歳 により同誌發賣禁止となる。三月ころ ( 推月號より佐藤惣之助とその編集に當る。 六月、前年あたりから稻子夫人を中心にし * 服部躬治死去。萩原恭次郎『死刑宣告』刊。 定 ) 、前橋公園近くで短期間下宿生活をした。 て家庭の内外が紛雜していたが、ついに單 次いで石川町の家が手狹になったので、近大正十五 身歸橋しそのまま滯留するようになる。七 くに小さな離れ家を借り、「ンドリンク一フ昭和元年 ( 一九二六 ) 四十一歳 月、離婚を決意。下旬上京して室生邸の庭 プの齋藤總彦と同居、この方で執筆した。 四月、このころから個人雑誌の發刊を計畫 で大量のノート 、原稿、反古などを燒却。 五、六月、妹ユキと關西方面に旅行し、萩したが、けつきよく中止。五月、詩話會同 稻子夫人と離別して馬込平張の家を解散、 原榮次 ( 從兄 ) をさそって若草山その他に遊人とふたたび伊豆の旅をする。十一月、府 一一兒を件って歸橋 ( 十月十四日、協議離婚雇出 ) 。 ぶ。その途次、谷崎潤一郎を訪問。このこ下荏原郡馬込村平張千三百二十番地へ移 前橋在住の萩原恭次郎、草野心平らと往來 ろ自轉車を習う。『新しき欲情』につづいる。 しながら暗い夏を送った。十月、『虚妄の * 「驢馬」創刊。「近代風景」創刊。「詩話會」 て「情調哲學」を發表する一方、前年あた 正義』出版。『現代詩人全集』第九卷刊行 解散し「日本詩人」發刊。 りから「鄕土望景詩」の制作がはじまって ( 高村光太郎、室生犀星との合著 ) 。十一月、單身上 いた。 四十二歳 昭和一一年 ( 一九二七 ) 京し、赤坂區檜町六番地乃木坂倶樂部ア。ハ * 室生犀星『高麗の花』刊。山村暮鳥死去。新 ートに假寓。編選『室生犀星詩集』出版。 感覺派文學起る。 六月、前橋の萩原家は石川町から北曲輪町 十二月、父密藏とっぜん重態となり、乃木 七十一番地へ移る。この夏、伊豆湯ヶ島温 四十歳 大正十四年 ( 一九二五 ) 坂倶樂部を引き拂って歸橋。 泉に滯在、三好逹治、梶井基次郎を知る。 * 「文學」創刊。プロレタリア文學興隆の一 二月、前橋市柳座劇場で上毛マンドリン倶この年あたりから詩集『氷島』におさめた 方、ポエジイ論、新散文詩論、超現實主義論 譜樂部による「萩原朔太郞氏上京送別演奏ニヒリスチックな作品を發表しはじめる。 盛んにおこなわる。 會」催さる。中旬、妻子を件って上京、府 * 室生犀星『故鄕圖繪集』刊。芥川龍之介自殺。 年下大井町六千百七十番地に住む。四月、東 昭和五年 ( 一九三〇 ) 四十五歳 昭和三年 ( 一九二八 ) 四十三歳 京市外田端町三百十一番地へ移る。附近に 1 住む室生犀星、芥川龍之介らと往來し、中二月、『詩論と感想』出版。四月 ( 推定 ) 、文二月、辻潤との共同編集の形になる「ニヒ 野重治、堀辰雄らを知る。五月、詩話會同藝家協會粡、年刊『詩と隨筆集』第一集の ルー創刊 ( 三號で刊 ) 。七月一日、父密蔵死
イ 09 年 の抒情小曲に感動して手紙を送り、生涯をと愛稱する女性との戀愛に惱み、北原白秋 をたずね、山寺、上山温泉などに遊ぶ。六 月ころ、獨奏家として知られた田中常彦に通じてかわらぬ友となる。五月、「朱欒」にあての手紙にも、そのことを訴えている ( = ついて短期間マンドリンを習い、欽いでイ「みちゅき」 ( 「夜汽車」と改題 ) ほか抒情小曲五レナは他に嫁し、肺結核のため、いくばくもなくして死 タリア人音樂家アドルフォ・サルコリにつ篇が掲載され、いで「創作」八月號に亡 ) 。この年は前橋市で發行の「上州新報」 の短歌欄の選をし、市内に開設された「洋 いてマンドリンを習う。十一月、家事の都「涙」ほか抒情小曲三篇が掲載され、ひきっ 樂指南所」でマンドリンを敎授した。また づき數多くの作品を發表。これに並んで、 合によるとの理由で慶應大學退學。この當 時は東京に滯留してマンドリンに熱中する「上毛新聞」に短歌と抒情小曲を數多く發十年餘にわたる短歌と手を切り、詩に専念 一方、自由劇場の公演や外人劇團の歌劇な表した。この月、妹 = キと千葉縣一の宮方してほとんど休みなく作品を發表した。 * 第一次世界大戦勃發 ( 日本、對ドイツ宣戦布告 ) 。 どを盛んにみた。朔太郞は岡山高校退學後面へ十日間ほど旅行。八月、群馬縣四萬温 高村光太郞『道程』刊。 の一時期について「爾後東京に放浪す。こ泉滯在中に發病し、父の見舞いをうける。 * 北原白秋『桐の花』『東京景物詩及其他』、三 の間音樂家たらんと志し、上野音樂學校の 三十歳 大正四年 ( 一九一五 ) 木露風『白き手の獵人』、齋藤茂吉『赤光』 入學試驗を受けるため、樂曲等の初歩を學 刊 一月、北原白秋來橋し一週間ほど滯在。三 んだが物にならないで止めてしまった。」 月、室生犀星、山村暮鳥と「卓上噴水」創 と回想している。 二十九歳 刊 ( 五月、第三號で終刊 ) 。五月、金澤市に室生 * 大逆事件に死刑の判決。帝國劇場開場。「詩大正三年 ( 一九一四 ) 歌」創刊。文藝協會、帝國劇場で公演。北原 一月、前年秋から施工中の小建物の改築成犀星を訪ね十日間ほど滯在。秋ころ ( 推定 ) 、 白秋『思ひ出』刊。「朱欒」 ( ザムボア ) 創刊。 地元の音樂愛好家たちと「ゴンド一フ洋樂 、洋風裝飾のその小部屋を書齋にした。 津久井夫妻、前橋へ歸住。 このころから前橋、高崎などでしばしばマ會」を組織。その後この樂團は「上毛「ン ドリン倶樂部」に發展し、縣下各地で公開 ンドリンを演奏。二月、金澤から室生犀星 二十七歳 明治四十五年 ( 一九一一 l) はじめて來橋し、一一十餘日滯在。六月、室演奏をした。後に一家を擧げて上京するま 大正元 生犀星、山村暮鳥との三人で詩、宗教、音で朔太郞はその中心であり指揮者だった。 マンドリン曲の作曲、編曲もし、この當時 樂の研究を目的とする「人魚詩瓧」設立。 一六月ころ、田錦町の女子音樂學校でギタ は音樂的情熱がもっともさかんだった。詩 1 を習う。十二月ころ ( 推定 ) 、「朱欒」をみ八月、梅雨ころから上京在中のところ、 て北原白秋に詩や短歌を送り、數年間にわ八日夜、室生犀星ら數人の詩歌人、畫家らに作も旺盛で、生涯を通じて大正三、四年は たって傾倒した。 より歸鄕送別の宴が催された。滯京中は室作品發表のもっとも多いときに當ってい る。作風は前年末あたりから『月に吠え * 石川啄木死去。石川啄木『悲しき玩具」刊。生犀星らと上野・淺草・銀座などを徘徊し、 酒を酌んで靑春の熱的な日々を送った。九る』の時期に入り、「淨罪詩篇」と附記し 一一十八歳 大正一一年 ( 一九一 ltl) た作品が相當數ある。 月、「地上巡禮」創刊されその社友となる。 * 「」創刊。山村暮鳥『聖三稜玻璃」 四月ころ、「朱欒」に掲載された室生犀星このころ以前からつづいていた「エレナ」
大正四年友は出京した。 私はときをり寺院の脚高な縁側から國境山膩を 私どもは毎日會った。そして私どもの狂はしい ゅめのやうに眺めながら此の友のゐる上野國や能 の生活が初まった。暑い八月の東京の街路 く詩にかかれる利根川の堤防なぞを懷しく考へる ゃうになったのである。會〈ばどんなに心分の觸で時には劇しい議論をした。熱い熱い感情は鐡火 れ合ふことか。いまにも飛んで行きたいやうな氣のやうな量のある愛に燃えてゐた。ときには根津 が何時も瞼を熱くした。この友もまた逢って話し權現の境内やの卓の上で詩作をしたりし たいなそと、まるで二人は戀しあふやうな烈しいた。私は私で極度の貧しさと戦ひながらも盃は唇 感情をいつも長い手紙で物語った。私どもの純眞を離れなかった。そしていつも此友にやっかいを な感情を植ゑ育ててゆくゆく日本の詩壇に現はれかけた。 間もなく友は友の故鄕へ私は私の國〈歸った。 立つ日のことや、またどうしても詩壇の爲めに私 どもが出なければならないやうな圖拔けた強い意そして端なく私どもの心持を結びつけるために 志も出來てゐた。どこまで行っても私どもはいっ『卓上噴水』といふぜいたくな詩の雜誌を出した も離れないでゐようと女性と男性との間に約されが三册でつぶれた。 私どもが此の雑誌が出なくなってからお互にま るやうな誓ひも立てたりした。 た逢ひたくなったのである。友は私の生國に私を 訪問することになった。私のかいた海岸や砂や 大正三年になって私は上京した。そして生活と 靜かな北國の街々なその景情が友を遠い旅中の人 大正一一年の春もおしまひのころ、私は未知の友いふものと正面からぶつかって、私はすぐに疲れ から一通の手紙をもらった。私が當時雜誌ザムボた。その時はこの友のゐる故鄕とも近くなってゐとして私の故鄕を訪づれた。私が三年前に友の故 たので、私は草臥れたままですぐに友に逢ふこと鄕を友とつれ立って歩いたやうに、私は友をつれ アに出した小景異情といふ小曲風な詩について、 て故鄕の街や公園を紹介した。私のゐるうすくら 今の詩壇では見ることの出來ない純な眞實なものを喜んだ。友はその故鄕の停車場でいきなり私の である。これからも君はこの道を行かれるやうにうろうろしてゐるのを 0 かま〈た。私どもは握手」寺院を友は私のゐさうなだと喜んだ。または 祈ると書」てあ 0 た。私は未見の友逹から手紙をした。友はどこか品のある瞳の大きな想像したと廓の日ぐれどきにあちこち動く赤襟の美しい姿を 珍らしがった。または私が時々に行く海岸の尼寺 もらったことは此れが生れて初めてであり又此れほりの毛唐のやうなとこのある人であった。私ど もは利根川の堤を松並木のおしまひに建った旅館をも案内した。そこの砂山を越えて遠い長い渚を ほどまでどく韻律の一端をも漏さぬ批評に接し たことも之れまでには無か 0 たことである。私はまで御にの 0 た。淺間のけむりが長くこ 0 上野ま歩」たりして荒〔日本海をも紹介した。それらは 私どもを子供のやうにして樂しく日をくらさせ で尾を曳いて寒い冬の日が沈みかけてゐた。 直覺した。これは私とほぼ同じいやうな若い人で 旅館は利根川の上流の、市街はづれの靜かな饋た。そのころ私は愛してゐた一少女をも紹介し あり境遇もほぼ似た人であると思った。ちゃうど る東京に一年ばかり漂泊して歸ってゐたころで親しに向って建てられてゐた。すぐに庭下駄をひっか 友は間もなくか〈った。それから友からの消息 吠い友逹といふものも無かったので、私は饑ゑ渇いけて茫々とした磧〈出られた。二月だといふのに に たやうにこの友達に感謝した。それからといふもいろ」ろなものの茅立ちが南に向いた畦だの崖たはば 0 たりと絶えた。友の肉體や思想の内部にい のにぞくぞく生えてゐた。友はよくこの磧から私ろいろの變化が起ったのも此時からである。手紙 のは私だちは毎日のやうに手紙をやりとりして、 5 ときには世に出さな」作品をお互に批評し合「たをたづねてくれた。私どもは詩を見せ合 0 たり批や通信はそれからあとは一「も來なか 0 た。私は 2 哀しい氣がした。あの高い友情は今友の内心から 評をし合ったりした。 りした。 子供は笛に就いてなにごとも父に話しては なかった。 それ故この事實はまったく偶然の出來事で あった。 おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせ であったのだ。 けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。 もっとも偉大なる大人の思想が生み落した 陰影の笛について、 卓の上に置かれた笛について。 健康の都市 君が詩集の終りに