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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集
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1. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

有明のうすらあかりは こころはひとつによりて悲しめども なにをして遊ぶならむ。 かなしめどもあるかひなしゃ 7 硝子戸に指のあとつめたく われも櫻の木の下に立ちてみたれども ほの白みゆく山の端は ああこのこころをばなににたとへん。 わがこころはつめたくして みづがねのごとくにしめやかなれども 花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。 まだ族びとのねむりさめやらねば いとほしゃ こころは二人の放びと つかれたる電燈のためいきばかりこちたし されど道づれのたえて物言ふことなければいま春の日のまひるどき わがこころはいつもかくさびしきなり。 ゃ。 あながちに悲しきものをみつめたる我にし あまたるきにすのにほひも もあらぬを。 そこはかとなきはまきたばこの烟さへ 女よ 夜汽車にてあれたる舌には佗しきを 旅上 いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。うすくれなゐにくちびるはいろどられ まだ山科は過ぎずや 粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。ふらんすへ行きたしと思へども くちがね 女よ 空氣まくらのロ金をゆるめて ふらんすはあまりに遠し そのごむのごとき乳房をもて そっと息をぬいてみる女ごころ せめては新しき背廣をきて あまりに強くわが胸を壓するなかれ ふと二人かなしさに身をすりよせ きままなる族にいでてみん。 そと しののめちかき汽車の窓より外をながむれまた魚のごときゅびさきもて 汽車が山道をゆくとき あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかみづいろの窓によりかかりて れ ところもしらぬ山里に われひとりうれしきことをおもはむ さも白く険きてゐたるをだまきの花。 女よ 五月の朝のしののめ ああそのかぐはしき吐息もて うら若草のもえいづる心まかせに。 あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ こころ 女よ 金魚 そのたはむれをやめよ こころをばなににたとへん いつもかくするゆゑに 金魚のうろこは赤けれども こころはあぢさゐの花 その目のいろのさびしさ。 女よ汝はかなし。 ももいろに険く日はあれど さくらの花はさきてほころべども うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。 、か′はか - り・ ふち なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。 こころはまたタ闇の園生のふきあげ 音なき音のあゆむひびきに 櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ

2. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

ひとみ 若ければその瞳も悲しげに ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしりいひとりはなれて砂丘を降りてゆく 靜物 傾斜をすべるわが足の指に づれば くづれし砂はしんしんと落ちきたる。 なにかしらねどうす紅く長きものが走りて 靜物のこころは怒り なにゆゑの若さぞや 居たりき。 そのうはべは哀しむ うつは この身の影に険きいづる時無草もうちふる ありぢごくの黒い手脚に この器物の白き瞳にうつる へ かんかんと日の照りつける夏の日のまっぴ 窓ぎはのみどりはつめたし。 若き日の嘆きは貝殼もてすくふよしもなし。 るま ひるすぎて空はさあをにすみわたり あるかなきかの蟲けらの落す涙は 海はなみだにしめりたり 草の葉のうへに光りて消えゆけり。 しめりたる浪のうちかへす あとかたもなく消えゆけり。 ああはや心をもつばらにし かの遠き渚に光るはなにの魚ならむ。 われならぬ人をしたひし時は過ぎゅけり 若ければひとり濱邊にうち出でて 根川のほとり さはさりながらこの日また心悲しく 音もたてず洋紙を切りてもてあそぶ わが涙せきあへぬはいかなる戀にかあるら このやるせなき日のたはむれに きのふまた身を技げんと思ひて む かもめどり涯なき地平をすぎ行けり。 利根川のほとりをさまよひしが っゅばかり人を憂しと思ふにあらねども かくありてしきものの上に涙こぼれしをい水の流れはやくして わがなげきせきとむるすべもなければ かにすべき おめおめと生きながらへて ああげに今こそわが身を思ふなれ 今日もまた河原に來り石投げてあそびくら朝の冷し肉は皿につめたく 涙は人のためならで せりいはさかづきのふちにちちと鳴けり しつ。 我のみをいとほしと思ふばかりに嘆くなり。 夏ふかきえにしだの葉影にかくれ きのふけふ といす ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとあづまやの籐椅子によりて二人なにをかた 蟻地獄 らむ。 しと思ふうれしさ さんさんとふきあげの水はこぼれちり たれかは殺すとするものぞ 曲ありちごくは蟻をとらへんとて っゐふう 抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。さふらんは追風にしてにほひなじみぬ。 おとし穴の底にひそみかくれぬ たんらんひとみ 純 よきひとの側へにありてなにをかたらむ ありぢごくの貪婪の瞳に すずろにもわれは思ふゑねちゃのかあには 濱邊 5 かげろふはちらりちらりと燃えてあさまし 7 るを ゃ。

3. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

0 2 おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る、 わたしの胸は、かよわい病氣したをさな兒わたしの卑屈な不思議な人格が、 ぼんやりした光線のかげで、 鴉のやうなみすぼらしい様子をして、 の胸のやうだ。 白っぽけた乾板をすかして見たら、 人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて わたしの心は恐れにふるえる、せつない、 なにかの影のやうに薄く寫ってゐた。 居る。 せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。 おれのくびから上だけが、 おいらん草のやうにふるヘてゐた。 ああいっかも、私は高い山の上へ登って行 見知らぬ犬 った、 さびしい人格 けはしい坂路をあふぎながら、蟲けらのや うにあこがれて登って行った、 見しらぬ大 さびしい人格が私の友を呼ぶ、 山の絶頂に立ったとき、蟲けらはさびしい わが見知らぬ友よ、早くきたれ、 この見もしらぬ大が私のあとをついてくる、 涙をながした。 ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづ みすぼらしい、後足でびつこをびいてゐる あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、 かに話してゐよう、 かたわ おほきな白っぽい雲がながれてゐた。 不具の大のかげだ。 なにも悲しむことなく、きみと私でしづか な幸輻な日をくらさう、 ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、 遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よ自然はどこでも私を苦しくする、 わたしのゆく道路の方角では、 そして人情は私を陰鬱にする、 しづかに、しづかに、二人でかうして抱きむしろ私はにぎやかな都會の公園を歩きっ長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、 道ばたの陰氣な空地では、 かれて、 合って居よう、 とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好ひからびた草の葉っぱがしなしなとほそく 母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、 きだ、 うごいて居る。 母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合 はさう、 ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、 ああ、都會の空をとほく悲しくながれてゆああ、わたしはどこへ行くのか知らない、 ありとあらゆる人間の生活の中で、 おほきな、いきもののやうな月が、ぼんや く煤煙、 おまへと私だけの生活について話し合はう、 りと行手に浮んでゐる、 まづしいたよりない、二人だけの祕密の生またその建築の屋根をこえて、はるかに小 うしろ さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好さうして背後のさびしい往來では、 活について、 きだ。 大のほそながい尻尾の先が地べたの上をひ ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そう きずって居る。 そうとして膝の上にも散ってくるではな ょにもさびしい私の人格が、 いか らふ

4. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

いきほひたかぶる機能の昻進 そは世に艶めけるおもひのかぎりだ 勇氣にあふれる希望のすべてだ。 ああこのわかやげる思ひこそは 春日にとける雪のやうだ やさしく芽ぐみ しぜんに感ずるぬくみのやうだ たのしく うれしく こころときめく性の躍動。 とざせる思想の底を割って しづかにながれるいのちをかんずる あまりに憂鬱のなやみふかい沼の底から わづかに水のぬくめるやうに さしぐみ はちらひ ためらひきたれる春をかんずる。 花やかなる情緒 深夜のしづかな野道のほとりで さびしい電燈が光ってゐる さびしい風が吹きながれる このあたりの山には樹本が多く ならひのきふ 楢、檜「山毛欅、樫、齠の類 枝葉もしげく鬱蒼とこもってゐる。 ロや各、 永遠に永遠に孤獨なる情緖のあまりに花 そこやかしこの暗い森から やかなる。 また遙かなる山山の麓の方から さびしい弧燈をめあてとして むらがりつどへる蛾をみる。 片戀 いなご 蝗のおそろしい群のやうに 光にうづまきくるめき押しあひ死にあ市街を遠くはなれて行って 僕等は山頂の草に坐った ふ小蟲の群團。 空に風景はふきながされ ぎぼしゆきしだわらびの類 人里はなれた山の奥にも ほそくさよさよと草地に生えてる。 夜ふけてかがやく弧燈をゆめむ。 君よ辨當をひらき さびしい花やかな情緒をゆめむ。 ル小リ はやくその卵を割ってください。 さびしい花やかな燈火の奧に 私の食慾は光にかっえ ふしぎな性の悶えをかんじて っと、 あなたの白い指にまつはる 重たい翼をばたばたさせる 果物の皮の甘味にこがれる。 かすてらのやうな蛾をみる あはれな孤獨のあこがれきったいのち 君よなぜ早く籠をひらいて をみる。 はむ 鷄肉の腸詰の砂糖煮の燻肉のご鼬走 をくれないのか いのちは光をさして飛びかひ ぼくは飢ゑ 光の周圍にむらがり死ぬ ああこの賑はしく艶めかしげなる春夜のぼくの情慾は身をもだえる。 君よ 露つ。ほい空氣の中で 花やかな弧燈は眠り燈火はあたりの自然君よ 疲れて草に投げ出してゐる にながれてゐる。 ながれてゐる哀傷の夢の影のふかいところむっちりとした手足のあたり ふらんねるをきた胸のあたり で ぼくの愛着は熱奮して高潮して 私はときがたい祕をおもふ ああこの苦しい壓迫にはたへられない。 萬有の生命の本能の孤獨なる

5. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

8 5 竹の節はほそくなりゆき 竹の根はほそくなりゆき 竹の纖毛は地下にのびゆき 錐のごとくなりゆき 絹絲のごとくかすれゆき けぶりのやうに消えさりゆき。 おれの力は 馬車馬のやうにひつばたく。 そしてだんだんと おれは天路を巡歴した 異様な話だが おれはじっさい獨身者であった。 白夜 夜霜まぢかくしのびきて あのと さむそら 跫音をぬすむ寒空に 微光のうすものすぎさる感じ ひそめるものら 遠見の柳をめぐり出でしが ひたひたと出でしが 見よ手に銀の兇器は冴え 闇に冴え あきらかにしもかざされぬ ひたひ そのものの額の下にかざされぬ。 なツ ) れ、が ああ髮の毛もみだれみだれし 暗い土壤に罪びとは 懺悔の巣をぞかけそめし。 あるみにうむの薄き紙片に すべての言葉はしるされたり ゆきぐもる空のかなたに罪びとひとり ひねもす齒がみなし いまはやいのち凍らんとするぞかし。 ま冬を光る松が枝に 懺悔のひとの姿あり。 夜の酒場 夜の酒場の 暗綠の壁に 穴がある。 かなしい聖母の額 額の裏に 穴がある。 ちつぼけな 黄金蟲のやうな 祕密の 魔術のぼたんだ。 眼をあてて そこから司く がく 夜の酒場の壁に 穴がある。 月夜 へんてこの月夜の晩に ゆがんだ建築の夢と しるくはっと 醉つばらひの圓筒帽子。 見えない兇賊 兩手に兇器 ふくめんの兇賊 往來にのさばりかへって 木の葉のやうに ふるヘてゐる奴。 いっしよけんめいでみつめてゐる みつめてゐるなにものかを だがかわいさうに 奴め背後に氣がっかない、 遠くの異様な世界は 妙なわけだが だれも知らない。 よしんば 醉つばらっても さかづき 靑白い妖怪の酒盃は、 「未知」を語らない。

6. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

ぎないのだ。それ故に思想家は、思想家たる限りに於いて、常識の つまらない泣鼓者であり、白を黒に曲辯するの外、少しも純一の情 熱を持たなかったらうか ? だれが夫を知るだらう。寧ろ或は、彼引力に曳きずられてゐる。彼等は地上を飛躍する翼を持たない。 等こそ哲學の否定に鬱憤してゐた。ソフィスト等のすべての議論 先づこの事實を知り、しつかりと意識し、それによって自分を恥 は、畢竟さまざまなる方面から、概念の虚妄であり、思辨の取るに かしく、非力に思はないやうな思想家とは、友人としての縁がな く、我々の詩人的な氣風に於て、議論をしようと思はない。 足らないことを論證したもの、それで以て哲學者の獨斷的偏見と、 豫感から情操へ、情操から思想へ、思想から概念へと、かく我々 その概念至上主義との迷妄とを敎へたものに他ならない。彼等は哲 學上のニヒリストで、知識に於ける既成概念のあらゆる權威を、根の認識は固形して行く。より早き、朧げなる豫感の中にのみ、實の 本から否定しようと意欲した。決して必ずしも、單なる論理の遊戲生命ある、水々しき、躍動する内容が存するのである。思惟をし たま て、いたづらに固形せしめる勿れ。乾からびた論理よりも、その生 者ではなかったらう。 しかしながら我々は、より人間的なる深い親しみを、あの正直な生しき肉質の充實を取れ。我々をして、願はくは「思想以前のも の」に踏み止まらしめよ。 ソク一フテスの方に感じてゐる。同じく逆説の名人でありながらも、 その單純な意志の中に、すぐれた人の好さを感ずるからだ。そこに 思想家の散歩區域我々の思考にして、漸く經驗的なものを離 は全く、二つの異った熱情がある。單に否定すること自體に於て、 そのニヒリズムを滿足してゐる逆説家と、一方では、否定しつつ破れ、純粹に抽象的なものに深入りをしてくるならば、その時、先づ 我々は一通りの學者である。しかしながら學者である。もはや思想 壞しつつ、底に創造を意志してゐる精紳と。 ソクラテスに於て、我々の最も親しい、信賴すべき人格を見るの家ーーその言語の響きに於ける、人間的な意味を考へて見よ。 である。ソフィスト等は、この點で我々を寂しくする。彼等は創造ではない。我々にして學者でなく、思想家であることを願ふなら ば、いつもその書齋の外に、人生の廣い散歩區域を持たねばならな を持たないのである。 い。工場や、監獄や、酒場や、色街や、林や、森や、野道やなど。 思想以前のもの意味が、ただそれだけで盡きて居り、文字から 思想と感情 1 事物は、感情が思ふほどに複雜でない。思想が認 して思想が見透されるやうな文學は、解りよいといふ德を除いて、 これが主観上では、反對に意識され 概ね淺薄のものにすぎない。實に深遠な思想をもつものは、情操が識するほどに單純でない。 複雜して、枝葉がざまざまに人りこんで居り、その單純な意味からてゐるのだけれども。 義は、全體が矛盾して見えるほど、茂みの中に幽邃な影を漂はして居 のる。何よりも眞理は、あらはに主張されることを忌むのである。何思想と感情 2 思想は感情の乾物である。失はれてしまったもの しかしながら永く保存に耐 虚となれば眞理は、いつも概念の背後に感じられて居り、皮相に言明は、單に血液と水分ばかりでない。 さるべきものでないから。 % 思考する限りに於て、概念から超越することはできないだらう。 2 どんな概念でもーー・抽象であり、普遍の常識にす漠然たる敵すべての偉大な人物等は、避けがたく皆その敵を持 然るに概念は なま

7. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

放縱し、入内の定まった皇后を誘惑して驅落ちしたり、腕力を振っ て皇太子を床の上に叩きつけたりした。言はば一種の暴力的テロリ 來めやとは思ふものから蜩の鳴くタ暮は立ち待たれつつ ストで、單身藤原氏に復讐を計晝した快漢である。正に一代の英雄 この種の同想の歌はたくさんあるが、集中でこの一首が卓絶して的變愛詩人であるけれども、藝術家としての天分はさのみ高い方で 秀れて居る。蜩のなく薄暮の空に、戀の哀愁が漂ふやうな絶唱であなく、勿論人麿等の萬葉歌人に比して劣って居る。貫之が評した如 く、彼の歌は意氣餘って言葉足らず、氣概に克って情操に至らぬ恨 る。作者は不明。 みがある。しかし凡庸歌人の凡庸歌集たる古今集の中で見れば、流 石に何と言っても獨歩の特色ある大歌人で、他に比肩する者を見な たかづら今は絶ゆとや吹く風の音にも人の聞えざるらむ 消息の絶えてしまった戀人を、寂しく怨んでゐる歌である。 ( 註 ) 喙く花は千草ながらに仇なれど誰かは春を恨みはてたる たまかづらは蔦科に屬する植物の名で「絶ゅ」の枕詞だが、寧ろ縁 語のやうに使用されてる。 どの女もどの女も、皆無情で恨めしい奴ばかり。言ひたい怨言は たくさんあるが、さりとて憎み切ることも出來ないと言ふ意味。幾 月ゃあらぬ春や眥の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして 度も裏切られて失戀し、女を憎みながらしかも愛に心を惹かれてゐ 在原業平の歌で古來名歌として定評されてる。別れた昔の戀人をる、惱ましく未練の心絡がよく歌はれて居る。作者は藤原興風。 思ひ、今の孤獨を述懷した歌。 ほととぎす鳴く聲きけばあぢきなく主さだまらぬ戀せらるはた 見すもあらず見もせぬ人の戀しくはあやなく今日や眺め暮さむ 前掲「ほととぎす鳴くや五月の菖蒲草あやめもわかぬ戀もするか 外で一寸見た女に戀を感じて詠んだ歌。「あやなく今日や眺め暮な」と同想異曲の歌である。やはり初夏の季節に於ける、人戀しく さむ」といふ句によって、季節が春の永日であることを聯想させて浪漫的な氣分を歌って居る。作者は素性法師。 備考。寫本には「初聲きけば」とあるが、他本には「鳴く聲きけ る。作者は同じく在原業平。 ば」と出て居る。「鳴く聲」の方が落着きがあって好いやうである。 おも 名君や來し我れや行きけむ思ほえず夢か現か寢てか醒めてか 大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ 作者不明 ( 讀みひと知らず ) とあるけれども、歌の格調から推察 あこがれ ェロス 戀は心の鄕愁であり、思慕のやる瀬ない憧憬である。それ故に戀 してこれも業平の作であらう。業平はかうした調子の高い、重韻律 1 でリズミカルの歌を好んで作った。彼は時の政府に反抗して一世にする心は、常に大空を見て思ひを寄せ、時間と空間の無窮の涯に、 ひぐらし うつつ あだ ぬし

8. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

どれだけ私を感激させたことか、「何といふ善良な人たちだ。何と こと故もし私が容貌試驗に於て落第であったならば、もちろんあの 2 人は手紙なんか書かないにきまって居ます。また、さうでなかった いふ敬愛すべき人たちだ」と私は心の中で何度も繰返した。 あの晩の父上、母上の御姿も鐵雄さんや芳雄さんの御様子も家子としたら何等かの通信を期待することができる。ここに私の方で投 様の華やかな衣裝も凡て私の心に慕はしさと快よさとを以て深く言 己げかけた謎があるのです。 憶されて居ります。かうした幸輻に充ちた私の思ひ出と感謝の情と さしあたり私の方から詩集をお贈りするとよいのだが、殘念なこ をあなたの御家族一同に御傅へしたく思ひます。 とには今どこをさがしても一册もないのです。それ故この手段は駄 目です。何かよい文通の機會を考へて下さい。 さて例の間題については二度新らしい立場から考へ直して居りま 今度の件ではあなたは勿論、章子様には特に一方ならぬ御心勞を ・ : 寫眞を見て考へて居たときは、欲する心と かけました。御二人の御厚情は心底より感謝にたへないことです。 す。あの人に逢ふ前 欲しない心と丁度五分々々の所で混惑して居りました。然るに今度 殊にあの晩の章子様の御心勞は推察以上だと思ひます。 實は章子様宛特に御禮状を出さねばならないのですが、此の手紙 歸鄕してからは欲する方の心が六分、欲しない方が四分になりまし にすっかり用件をかいてしまひましたから心もちだけで失禮しま た。ここで私の要求するものはあと一分の強みです。 そこで今、私の考へて居ることは、暫らくの間あの人と友人としす。此の手紙を御一一人で御覽下さるやう御願ひ致します。父よりく れぐれもよろしく申しました。萩原。北原白秋様。章子様 て交際して見たいことです。 * この縁談はけつきよく成立しなかった。 あなたもよく御存じの通り、私は非常に缺點の多い人間です。そ れ故、對手の人にもさうした性格上の特點もある程度まで知っても らはないとならない。 ( 後になって失望するやうなことがあっては 室生犀星宛 御互に不幸ですから ) 一方また私の方でも對手の人の性格や思想や 大正十一年十二月在、前橋 特に結婚についての要求や將來の生活上に於ける希望等について一 拜啓「忘春詩集』 - をありがたう。週日前から腸を害して臥床し 涌り意見をきいておきたいと思ひます。さういふわけで、ここ暫ら てゐるので、この病中の憂鬱を慰めるべく、親しい友の見舞をうけ く交際してお互に話すべきことだけは話して然る後に相互の間で問 たやうでこの上もなくなっかしい。以前犀星詩集をもらった時も病 題をきめたく思ひます。 中であったが偶然にいつも君の著書が僕の病を見舞ってくれるの 併し交際すると言っても、互にかう場所がはなれて居ること故、 でうれしい。今、封をといて最初の詩を少しょんで見たが、やはり 直接の交際はむづかしい。それ故、手紙で凡ての話をしたいと思ひ 新たなる感動の切々と迫るものがある。この詩集には、愛兒を失は ます。 そこであなたに御願ひしたいことはかうした私の意見をそれとなれた以後の君の寂しい生活が非常によく語られてゐる。佐藤春夫の くあの人に話して、あの人から私の所へ手紙を發信してくれるやう序ではないが、やはりかうした眞の氣分は小説よりも詩だね。『忘 春詩集』は、とにかく近頃詩壇の一異彩だ。何といっても君の詩は にたのんでいただきことです。 しつかりしてゐる。つかむだけのものは充分っかんで、しかも平淡 尢もこれは私にとって一つの試驗です。既に見合 ( ? ) もすんだ

9. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

0 7 道路の敷石に叩きつけた。 故鄕よ ! 老いたまへる父上よ。 僕は港の方へ行かう 空氣のやうに蹌踉として はとば 波止場の憂鬱な道を行かう。 人生よ ! 僕は出帆する汽船の上で 笛の吠えさけぶ響をきいた。 古いさびしい空家の中で 椅子が茫然として居るではないか 9 その上に腰をかけて 編物をしてゐる娘もなく 暖爐に坐る黑猫の姿も見えない 白いがらんどうの家中で 私は物悲しい夢を見ながら 古風な柱時計のほどけて行く 錆びたぜんまいの響を聽いた。 じぼ・あん・じゃん ! じぼ・あん・じゃ 古いさびしい空家の中で 昔の戀人の寫眞を見てゐた。 どこにも思ひ出す記意がなく らんぶ 洋燈の黄色い光の影で かなしい情熱だけが漂ってゐた。 私は椅子の上にまどろみながら ひとけ 遠い人氣のない廊下の向うを 幽靈のやうにほごれてくる 柱時計の錆びついた響を聽いた。 じぼ・あん・じゃん ! じぼ・あん・じゃ 猫。靑猫。萩原朔太郞 詩藝術の評論はーーっまりは無駄だ。何より も讀んで感ずるより仕方がない。その人らし く、かって氣ままに感ずるよりほか仕方がな い。だから所詮、僕の氣ままな感想は、僕にま で共感した「靑猫」に過ぎないであらう。 蜘蛛の絲のやうな彼の言葉のつながりを見 よ。最初の一句から、最後までーー言葉のなく なった長い後まで、いつまでもへんにねばりつ いてゐる彼の言葉を見よ。彼の心臟には日本語 の蜘蛛の絲がある。 かれの心臟はもちろんーー古い日本のものだ またさみしい世界の原始の風景でもあ るのだ。さうしてそれは讀者の心臟にまで何と 執念深くねばりつくのだ。よみをはったながい 後まで、そのにほひ、音、風景は、異様にさみ しくのこってゐる。 これはかれのすばらしく成功した一つの表現 だ。表皮感覺ではない。只の印象である譯がな いーーもちろん説明でない、宣傳でもない、じ つにねばり強い靈魂感覺の表現だ。表現は讀者 の心に、完全にその個性の心象を移するにあ る。 かれは蛇だーーーわれわれは蛙だーー何といふ 手あらなことなしに、とかしこんでしまふ悪蛇 は魔氣を吐いて他動物を惱ますといふ。 かれの詩にはふしぎな心靈の策氣がある。 こんもりとした森の木立のなかでいちめ んに白い蝶類が飛んでゐるむらがるむ らがりて飛びめぐるてふてふてふ てふてふてふてふ これはただ蝶が飛んでゐるばかりではない ね。ふしぎなーーさむしい魂のーーーかわけ るあこがれを心の奥に、へんにうすぐらくしめ った森の奧の晩景を、さうしてーーぼくの心は 何といふ理由もなく無しゃうにはがゆくさみ しがる。 かれの詩はかれの云ふ靜かな靈魂のノスタル ヂアであり、かの「春の夜にきく横笛のひび き」である。さむしい人間の心の奥のあこがれ の世界。あけぼのの情緒の流るる彼岸。 かのつかれたる心靈の奧の方に、しだいに生 物意識の消滅しゆく方向、薄暮である、タ月の 仄かに匂ふところ、およおよとおぼめく奇異な 動植物のすがたをみる。 ここにいっぴきの猫がゐる。 このねこがーーー何の變哲もなしに詩になる時 と、一つの象徴の對象として取人れらるるとき と、その人の主観にひんまげられて出て來る時 と只單なる概念として、現はれる時とがあるで あらう。 しかもかれの猫はそのいづれにもそくしな い。ぼくがひそかに興味をもっところは又そこ だ。 ポードレールの猫は我々の見る普通の西洋猫 だが、へんな悪魔主義の玩具である。時に猫族

10. 日本現代文學全集・講談社版60 萩原朔太郎集

ろひょろしていた内田魯て、「僕はヘーゲルといふ哲學者は蟲が好かない。ただ彼の思考的 2 庵に鶸外が、牛を食って、方式には : : : 」と書いている。誰かが、萩原の思辨哲學を、それと いい米の飯を食って、そ裏表になっている處世哲學との關係でしらべてくれるならば助かる れから馳け足をしろと昔と思う。 すすめたことのあったの を私は思い出していた。 『純情小曲集』の「愛憐詩篇」の最初に「夜汽車」がある。これは はじめ「みちゅき」として大正二年 ( 一九一三年、朔太郎二十七歳 ) に 萩原さんが牛を食った發表されたが、これが朔太郞の岡山生活にどんな關係があるのか私 かどうか私は知らないは知りたい。熊本高等學校から岡山高等學校へかわって、それから が、萩原さんという人はの岡山でこの人は戀愛のようなものに落ちこんだことがあったので 食いもののことに全く無頓着だったのではなかったかと思う。美にはないかと私は思うことがある。その戀愛は年上の婦人との間のも ついてあれほど禪經質だった人が、この基本的で物質的な食いもののだったかも知れない。ヘルムアフロディテ風のものであったかも について、その味について、味ということのわからぬようなところ知れない。新潮瓧版五卷全集の伊藤信吉編年譜は詳細をきわめてい をあの人は持っていたのではなかったかと私は疑う。しかしこれるが、それを眺めていても何となしそんな氣になってくるようであ ( 作家 ) は、誰か、そうでないことを知っていて書いているかも知れない。る。 私は、萩原朔太郎詩というものにはじめてぶつかって受けた全く 萩原さんと私 特別のおどろきのことをよく覺えている。しかしその後になって、 萩原さんがいろいろと思辨的な詩論を書いて、そのなかで、「實感」 村野四郎 ないし「實感派」に觸れているのを讀んだときは眼があいた心地が したと覺えている。これは、じかに萩原さんの口からも聞いた。お私は、萩原さんから一二度手紙をもらったことはあるけれど、親 どろいたというのは、生理的・心理的な實感というものをかかるもしく話をしたことは一度もなかった。あのどこか畫數の足りないよ つくり のとして萩原さんがとらえていて、詩におけるもの、詩からくるもうな漢字や、偏と旁が・ハラ・ハラになったような字體の手紙は、戦前 のと區別して扱っているそういうやり方をこの人がしているというまで大切にしまっておいたが、それも「月に吠える」や「靑猫」や ことに對するおどろき、感心でもあった。 「純情小曲集」の初版本といっしょに、みんな戦災で燒いてしまっ 「とはいへ僕の詩論は : : : 」といって「へーゲルの所謂辨證論的系た。 圖に屬する」自分のことを書いているのなどにもこれは結びつける しかし萩原さんを偲ぶと、私はなぜか、ほかの多くの先輩たち、 ことができる。しかしそこで、當然ながら、「ついでだからーとしたとえば白秋や柳虹のように親しく口をきいた詩人たちより、ずつ 前橋市北曲輪町の朔太郎の生家