明治六年ョリ十三年マデ私立梅泉小學ニ入リテ普通小學科及漢學 4 ヲ修シ同十四年東京府第二中學ニ入テ第三年級ニ至リテ退校シ岡 千仭石川鴻齋ニ就テ漢學ヲ修メ次テ三田英學校ノ大學豫備門受驗 柳田 泉 科ニ入リ明治十七年第一高等中學校ニ入リ現時同校ニ在リテ英語 政科第一年ニアリテ修業ス これは、いわばホントの紅葉傳の一トコマであって、一節などと刑律ニフレ或ハ起訴受訴等セシコト總テ無之候 明治廿年四月 大きく見得をきるべきものでないが、知らぬ人、氣づかぬ人が多い と思うから、書いておきたい。 それはどういうことかというと、紅葉が高等學校時代に、アルバ 尾崎德太郎 3 イトとして女學校の先生をつとめたという事實である。年代がいっ本文は以上の通りであるが、この履歴書は、その性質上、本人自 のことかというと、明治二十年四月前後から何カ月間と推定される筆であったろうと思う。 が、その女學校は、當時小石川區諏訪町三十一番地にあった東京女さてこの履歴書であるが、一見すると、ありふれたいわゆる履歴 子専門學校というのであった。 書と同じことで、そのまま見すごしてしまいそうなものである。然 この女學校がそもそも珍らしいもので、或はこれについて先ず紹し紅葉の傳記について多少知識をもった眼でよむと、まことに面白 介した方がよいかとも思うが、今それは暫く他日のことにして、紅い比較研究の資料を提供していることがわかる。そうして、從來流 葉だけのことにする。紅葉はこの女學校の先生として何を敎えたか布の紅葉年譜を訂正しなければならないのではないかという事實 というと、國文でも英語でもなく、漢文となっている。そこがいかが、そこからいろいろ出てくるのである。それを一つずつ箇條書き にもアル・ハイトらしくて、まことに面白い。紅葉がこの學校に就職にしてみよう。 したときの履歴書というものが今日殘っていようとは、本人も思い第一は、紅葉の通った小學校の名である。流布の年譜では、櫻川 がけなかったろう。私はそれを、東京都史紀要の第九、「東京の女學校とあるが、この履書では私立梅泉小學とある。梅泉の二字が 子敎育」というもの ( その内容は友人手塚龍麿君の手になったもそっくり櫻川の誤植であるとは思えないが、もし誤植であるとすれ の ) で見出したのである。 ば、間題はない。さもないとすれば、梅泉は公稱、櫻川は町名によ その履歴書の全文を引けば る俗稱であったかとも思う。 履歴書 第二は、小學校通學の年限で、履歴書の方は明治六年から十三年 府下飯田町五丁目廿三番地までとなっているのに、流布年譜では、六年は寺子屋、小學校は七 年から十一ー十二年までとなっている。 東京府平民 漢學敎授 第三は、中學入學の年で、履書では、はっきり十四年とあり、 尾崎德太郎 慶應三年十二月生流布年譜は十二年となっている。 紅葉傳の一トコマについて せつ
第四は、中學をやめた年で、履歴書は第 = 一年級でやめたとあるかそれは東京市〈の願書で推定されるが、紅葉の祖父 ( 母方 ) 荒木舜一 ら、十四、十五、十六年と足かけ = 一年は中學に」たことになる。然庵も醫者であ 0 た。こ 0 醫師と」う點で兩者が相知 0 間柄であ 0 た るに流布年譜は入學の翌十五年にやめたことにな 0 て」るのは、とみれば、わりにすらりとこの疑問はとけると思うのである。 ( 早稻田大學敎授・國文學 ) どういうものであろう。 第五は、履歴書では中學をやめてから岡千仭や石川鴻齏について 漢學をやったとなっているが、流布年譜では、中學にいながら修 していたことになっている。 第六、三田英學校に通ったのは、履歴書の通りだと、やはり明治 横尾三千代 十六年あたりになるらしいが、これだけは流布年譜の方の十五年説 の方が具合がよい氣がする。 父紅葉に永別の當時はまだやっと數え年の三歳、昔流に云えばそ 第七、大學豫備門入學は、履歴書は十七年、流布年譜は十六年、 一年ちがう。履歴書で、豫備門といわず、第一高等中學校といってれこそ「西も東も知らざりし」である。よく「父の想出を」と人に いるが、これは明治十九年四月に改稱されたからそういっているの聞かれるが、顔も覺えず聲も知らずでは何とも父を語るすべもな で、この履歴書の出た明治廿年四月現在では第一高等中學校であい。只まわりの人々から聞くおぼろげな父の片影を心の中に組み立 ててあかこうかとひとりしのぶに過ぎない。今も座敷の壁にかけ 、入學したときは東京大學豫備門であった。 第七は、高等中學校での學籍で、この英語政科というのは、從來られてある大きな油繪の額Ⅱ頬杖をついてジ , とこちらを見下し の年譜で知られなかている父の淺黑い顔、せまったひたい、や乂釣り気味の疳の強そう ~ 一、 . った傳記的知識であな大きい目。私が幼い頃からよく人毎に「お父さんそっくり」と言 われ / 、していたことを近頃つくみ、なるほどなと思う。母からき 、 ) 響、「」・ ( ~ 〕、るように思う。 最後に一つ殘ったくと性格までどうやら父ゆずりだが惡い面ばかり多分に頂いてしま 疑問は、紅葉とこのったようだ。父は座談の面白い人だったそうで、相手の人柄や年齡 であるが、私の想像父のこり性も有名だし又思うま一向御遠慮なしにズケ / \ と云 をいえば、この女學う相當な毒舌家でもあったらしいから、初對面の人には一寸取りつ 校の校主木村松といきにくい感じではなかったろうか。しかし一面かなり溿經質で苦勞 うのは、もと醫者ら性で人一倍深い愛情の持主であったことはすでにいろ / 、な方面で ←いい」しく ( 男か女か、多聞いたり讀んだりしている。無ロでつ乂しみ深い母は中々私達に父 生前の諸文を集めた遺著「草紅葉」 の想出など話してはくれなかったが、父が日頃料理に對してのロや 5 分は女であろう ) 、 明治三十六年十一月刊 ( 所藏岡保生 ) 額の中の父 1 1 ロ
イ 36 九日、妹はる死去。徳太郞は母方の祖父母 明治十五年 ( 一八八二 ) 十六歳 荒木家で養育されることになった。祖父舜 庵は、内職に茶碗の繪を描いたり、寒暖計近隣の島田氏の勸めにより、三田英學校に の目盛りを人れる仕事などをして生活して入學。ここで英語を學び、大學豫備門への いた。 人學をこころざしたためである。一方、石川 慶應三年 ( 一八六七 ) 鴻齋について漢詩文を學び、縁山 ( 芝の三 * 樋口一葉、佐佐木信綱が生まれた。 縁山からとった ) と號して詩作に熱中した。 十二月十六日 ( 太陽暦に直せば一八六八年一月 明治六年 ( 一八七三 ) 七歳 五月、その一篇「柳眼」を投書雜誌「頴才 十日 ) 、江戸芝中門前町に生まれた。本名、 徳太郞。父は尾崎惣蔵、母は庸。父惣蔵は七月、始めて久我氏の寺子屋に入り、讀み新誌」一一五九號に掲載。 * 江見水蔭、栃木縣書記官のもとに預けられ 元來、屋號を「伊勢屋」という芝の商家の書きなどを學んだ。このころ、禪明町の荒 げぼり る。 出であるが、牙彫の名人谷齋として有名で木家に近い濱松町一丁目七番地に住む山田 あった。 ( 牙彫とはいうが、實は象牙彫ではな武太郞 ( 後年の美妙 ) と親しく交わった。 明治十六年 ( 一八八三 ) 十七歳 く、鹿の角などを材料としていたから、角彫の * 九月四日、樺島喜久が生まれた。 * 泉鏡花が生まれた。 方が正しいといわれる。 ) が、その一方また、 九月、溿田一ッ橋にあった東京大學豫備門 「赤羽織の谷齋」すなわち奇行に富む幇間 に入學。丸岡九華、前田香縁、小澤德堂ら 明治七年 ( 一八七四 ) 八歳 としても當時ひろく知られていた。母庸 の組織していた文友會に、安藤津水の紹介 芝、櫻川小學校に入學。 は、江戸芝溿明町居住の漢方醫荒木舜庵、 によって、その最初から加盟した。この會 せい夫妻の長女で、舜太郎、フサの弟妹が は、課題の漢詩文を各自持ち寄って批評添 明治十二年 ( 一八七九 ) 十三歳 あった。 削し、それをまた小册子に筆耕、回覽に供 * 幸田露件、石橋思案、中村花痩らが生まれた。 東京府第一一中學校 ( 後の府立一中、現在の都することとしていた。 * 徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古がなっ立日比谷高等學校の前身 ) に入學。在學二年 * 矢野龍溪『經國美談』など刊行され、政治小 た。 間で中退。 説隆盛。 明治三年 ( 一八七 0 ) 四歳 明治十三年 ( 一八八〇 ) 十四歳 明治十七年 ( 一八八四 ) 十八歳 妹、はるが生まれた。 芝愛宕下仙臺屋敷内にあった岡鹿門の漢學文友會を解散し、凸々會を組織した。これ すいゅう 塾、綏猷堂に入り、漢籍を學んだ。 * 巖谷小波、菊池幽芳が生まれた。 は遠足、討論演説、運動などを主とする會 * 川上眉山、東京府第一中學校に入學。 で、石橋思案らも新たに加わった。この會 明治五年 ( 一八七一 l) の遠足などに參加する一方で、人情本をも 五月十九日、庸死去。享年二十四。八月十 耽讀し、八月には二世梅暮里谷峨の「春色 つの
に噪し。先生初め昌平黌に學ぶ。後京攝の間友人丸岡九華、石橋思案、また、前記の如く君子等の、快樂の一派和歌詩文の上品より、 を歴遊し四方の俊士と深く交はり戍辰の亂に舊交をあたためることのできた山田美妙等と小説狂文都逸の心意氣一切無差別書集め、 は俗論喧騰の中に在り獨り正議を持論して屈相計って、硯友瓧を結び、五月から仲間の詩我樂多文庫の名にしをふ、諸彦も我れも樂多 せず後東京に來られ大學史局及び書籍館に官文をそのまま綴じた回覽雜誌「我樂多文庫」き雜誌を月に編して、而して讀書餘間の憂睛 たり辭して北海に航し函館より札幌に至り歸を發行した。近代文學史上、同人雜誌としてし、噫これ天下無上の快樂、倶にせんとの有 志の君逹、珠玉を空しく祕めたまはず、賣ら 途靑森秋田山形の諸縣を經歴し奇を討勝を探最初というべきである。 紅葉はこの時「硯友瓧戯則」を草した。ん哉ノ、とのたはば、我も言はん買はんか らる共雷名なるや世人尤も知る所なり」と、 紹介されている漢學者である。紅葉の漢詩文「明治文豪傅之内尾崎紅葉」に七條の全文がな / 、、。」 と記している。これ等の表現でも察せられ の敎養はここに受けた。なお岡鹿門の塾は芝のっているが、その中から引用すれば、 愛宕町の舊仙臺藩邸にあり學生は十人位であ「一、戲則は規則の洒落にして、國音驥足にるように、眞劍に文學に思いをひそめたもの 通ず。驥足は笑名抄 ( これで和名抄とよむのではなく、ただ趣味的で、遊戲的な文筆同好 った。 ( 町田則文著「明治國民敎育史」 ) 紅葉はつづいて明治十五年、十六歳の時、サ ) に馬の足とあり、これは初の中こそ馬の者の集りにすぎなかった。それがおのずから = 一田英學校〈入學した。この學校は芝愛宕下足でも、本瓧の舞臺で腕を磨けば、つまり千このような戲文として示されている。 にあり、主として大學豫備門に入るべき學生兩 ~ ~ といふ價値が出るとは、 ( テ深い意味紅葉はこの頃、横井也有の「鶉衣」、森川許 六の「風俗文選」など好み、小説としては、 を養成する所で、明治十七年一月七日の新聞ネ。」 「郵使報知」は同校の敎授法の親切、課程のとあるように哉作者臭の濃い第一に初ま京傅、馬琴ものをしりぞけ、西鶴、近松、そ の他三馬、焉馬の戲文などを耽讀していた。 序の齋整の宜しさで、前年及び前々年の同校っている。そして、 「我樂多文庫」の手寫本には紅葉は「江島土 出身者の豫備門入學率の最高をたたえている「五、文庫を三門に種類をわけ、第一門を小 が、紅葉も、この前年明治十六年九月の大學説とし、心織筆耕と名け、第二門を戲文狂歌産滑稽貝屏風」を連載したが、これは芝浦に 俳句新躰詩など乂し、千紫萬紅と名け、第三住む三人の放蕩者が、家賃をふみたおして江 豫備門入學者の中に入っていたわけである。 紅葉はすでに文學趣味を持っており、明治門を五三桐の飛花落葉 ( デプ洒落るノ》と島巡りをする途中の失敗を一九・三馬ばりの 十五年、少年相手の雜誌「頴才新誌」に「柳名け、狂句端唄都《逸落語謎とす。どれもこ洒落と滑稽とで綴ったもので、前年思案らと 共に江島に旅したことをモデルにしている。 眼」と題した漢詩を技稿してのせられていれも、とかく御氣に入るの門なり。」 る。そして大學豫備門に入るや、丸岡九華等と、その内容を間わず網羅して募ることを江戸化政期戲作の影響の強い習作であるが、 すでに才氣煥發で、洒脱な紅葉の性格や、後 と、文友會と呼ぶ漢詩文を中心とした批評・示している。 添削の會を作り、それも一年半ほどで解散、また紅葉はその初號に半可通人の署名で、年の才氣ある作風の萌芽はうかがわれる。さ らにつづいて、第八號から「僞紫怒氣鉢卷」 こんどは運動、遉足、演説を主旨とした凸々披露の文をかかげたが、その後半に、 會に變ったが、これもやがて牋絶した。しか「あ、何とせうどふせうと凝っては思案のいをつづけてのせているが、これも洒落や穿ち し、明治十八年早春、これらの會で相知ったらばこそ、筆の林に閑居して、不善を爲さぬに、化政期文學の影響をかぐことができょ
←明治二十二年頃帝國大學國文科在學中 明治四年頃右から母庸妹はる紅葉 ←父谷齋の作った牙彫の簪 ( 所藏橫尾三千代 ) 今八歳頃の紅葉
ぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではなり ゃ。借る方に無抵當といふ便利を與ふるから、共便利に對する報 6 あたま い。學問の好きな頭腦で實業を遣る者の仕事を責むるのは、それは酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安 そしり 可かん。人の怨の、世の誚のと言ふけどの、我々同業者に對する人いと詐って貸しはせんぞ。無抵當で貸すちやから利が高い、共を承 の怨などゝ云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじゃ。世の知で皆借るんじゃ。それが何で不正か、何で汚はしいか。利が高う そしり 誚と云ふのは、多くは嫉、共の證據は、働の無い奴が貧乏しとれば あはれ て坏當と思ふなら、始めから借らんが可え、那様高利を借りても急 愍まるじゃ。何家業に限らず、財を拵へる奴は必ず世間から何と を拯はにや措れんくらゐの困難が様々にある今の瓧會じゃ。高利貸 か攻撃を受くる、然ぢやらう。財の有る奴で評判の好えものは一人を不正と謂ふなら、共の不正の高利貸を作った瓧會が不正なんじ も無い、共通ぢやが。お前は學者ちやから自ら心持も違うて、財なや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したう どを然う貴いものに思うて居らん。學者は然うなけりゃならんけても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは爲ん。共必要を見込 ど、世間は皆學者ではないぞ、可えか。實業家の精紳は唯財じゃ、 んで仕事を爲るが則ち營業の魂なんじゃ。 おも 世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲が 財といふものは誰でも愛して、皆獲ゃうと念うとる、獲たら離す る財じゃ、何ぞ好え所が無くてはならんぢやらう。何處が好えのまいと爲とる、のう。其財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋 か、何で那様に好えのかは學者には解らん。 常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲 お前は自身に供給するに足るほどの財があったら、共上に望む必くるのが不正なら、總ての商業は皆不正でないか。學者の目から かんがヘ 要は無いと言ふのちゃな、それが學者の考量じゃと謂ふんぢやが。 は、金儲する者は皆不正な事をしとるんじゃ。」 いた 自身に足るほどの物があったら、それで可えと滿足して了うてか 太くも此辯論に感じたる彼の妻は、屡ば直道の顔を倫視て、あは ほろぶ らに手を退くやうな了簡であったら、國は忽ち亡るじゃーー。瓧會のれ彼が理窟も之が爲に挫けて、氣遣ひたりし口論も無くて止みぬべ さう ひそかよろこ 事業は發逹ぜんじゃ。而して國中若隱居ばかりになって了うたと爲きを想ひて私に懽べり。 きり おごそかかしらふ れば、お前奈何するか、あ。慾に限の無いのが國民の生命なんじ 直道は先づ嚴に頭を掉りて、 ゃ。 「學者でも商業家でも同し人間です。人間である以上は人間たる道 そんな 俺に那様に財を拵へて奈何するか、とお前は不審するじゃね、俺は誰にしても守らんければなりません。私は決して金儲を爲るのを つまりかね は奈何も爲ん、財は餘計にあるだけ愉快なんじゃ。究竟財を拵へる惡いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正當に儲けるの が極めて面白いんじゃ。お前の學間するのが面白い如く、俺は財の です。人の弱みに付入って高利を貸すのは、斷じて正當でない。那 はぎま 譬へば間が災難に遭った。あれは 出來るが面白いんじゃ。お前に本を讀むのを好え加減に爲い、一人様事が營業の魂などとは : 前の學間が有ったら、其上望む必要は有るまいと言うたら、お前何先は一一人で、而も不意打を廴したのでせう、貴方は那の所業を何と と答へる、あ。 お考へなさる。男らしい遺趣返の爲方とお思ひなさるか。卑劣極る お前は能う此家業を不正ちゃの、汚はしいのと言ふけど、財を儲奴等たと、然ぞ無念にお思ひでせう ? 」 をま くるに君子の道を行うてゆく商賣が何處に在るか。我々が高利の金 彼は聲を昻げて逼れり。然れども父は他を顧て何等の答をも與へ を貸す、如何にも高利じゃ、何故高利か、可えか、無抵當じゃ、そざりければ、再び聲を鎭めて、 そんな どう かわ そねみ かね かね そんな そん
大學に入る頃であり、「我樂多文庫」を創刊して三年目、この五月はず。』斯うした抱擁力が大きかった爲に硯友瓧が一大盛力を目然 からそれを公賣しはじめてゐた。小波は獨逸學協會〈通ひ、水蔭は自然に張られたので有った。硯友瓧の勢力は、紅葉が『春陽堂』と 東京英語學校に通ってゐたが、この二人は杉浦重剛の稱好塾の仲間の握手 ( 伊藤註ー二十三年 ) と『讀賣新聞』の入瓧 ( 伊藤註ー二十二年 ) とに依って、自然に擴張した。別働隊としては柳浪と自分が、金港 である。先に小波が硯友瓧に入り、水蔭も誘はれて加はった。 水蔭は硯友瓧にこのとき參加しただけで、ほとんど仕事らしいも堂の『都の花』に奮鬪し、又博文館の『日本之文華』に小波、眉山 のを發表せず、鄕里の岡山〈去ったが、翌二十二年に「我樂多文二人が活躍したからでもあった。 ( 略 ) 」 庫」が「文庫」と改稱されて吉岡書店から出た頃からまた紅葉に近「『此ぬし』 ( 伊藤註ー明治二十三年九月春陽堂刊 ) を紅葉が書く頃は、 づき、上京し、家を借りて、母を呼び二人で暮した。その頃その書飯田町から牛込北町四十一番地 ( 蜀山人の屋敷跡 ) 〈轉じてゐた。此 店から「新著百種」な處から大學に通ふ筈なのを、大學は詰らないと云って行かなかっ る叢書が出され、「一一た。けれども祖父母 ( 荒木舜海と云って、元は漢法で有った ) の手前、 人比丘尼色懺悔」をそ大學〈行ってゐる體にしなければ成らぬので、角を冠っては家を 筋向ふの家といふ れの第一册に書いて紅出て、筋向ふの家に飛込んで小説を書いた。 葉が世に認められた。のは則ち僕の住居なので ( 略 ) 然うして美濃紙ーー障子紙の卷にし その頃のこと、また硯て有るのに、例の毛の長い繪筆で、一氣呵成にして書いたのが『此 友瓧が次第に文壇の中ぬし』で、たしか三日間で脱稿したと記憶してゐる。晩年紅葉が遲 心的な勢力となった事筆に成ったのは『文章報國』で、文章に、否、その用字にまで凝り 情を水蔭は次のやうに固って、一日三行が難かしいといふやうに成ったのは、紳經衰弱の 書いてゐる。そこには、結果なので『此ぬし』時代には、實際健筆家の一人で有った。」 新しい書き方を紅葉が紅葉が作家としての自信を得て大學を中途退學する頃の事情を傅 樹立して新風を開いたへる一節である。 といふ時の勢ひもあ紅葉の父が幇間をしてゐた彫刻家の赤羽織の谷齋 ( 伊藤註ー本名尾 り、また一一十一一 = 一歳で崎惣きだといふことを紅葉は内絡にしてゐた。それが次第に嚀に一 ありながら、しつかりのぼっても、江見や川上眉山や同派の畫家武内桂舟等は気づかなか一 した紅葉の性格が現はった。川上眉山がそのことを人に言はれ、江見がそれを嘘だと信こ れて來たからでもあて紅葉に語った場面が、水蔭の「自己中心明治文壇史」にある。 る。 「 ( 略 ) 實は xx が川上に向って、尾崎の親父が幇間の谷齋だと云っ 「全く紅葉は『來る者たんだ。川上は、ナニそんな事は無い。親友の僕等が知らないのが は抗ます、去る者は追何よりの證據だと云った處が、 x x は冷笑する様に、それは尾崎が 明治三十七年博文館より刊行された「紅葉全集」 7
2 8 あんま さしつか 理だった。」 さいあいつま さは か。絵り長く退いてゐたら、學校の方で差支 ( るだらう。」 さしつか かま 彼は最愛の妻の氣に障った事を不圖言って、その不機嫌を見て、 「差支へても管はん。」 にはかとりな わび しきりことわ そんなやけ こま 遽に執成すやうに、詫でもするやうに、頻に斷った、固より無理な つもり おもひあま 「那麼自棄を言っちゃ困るね。もう少し休むだら出る方が可いよ、 ついくちばし どを言ふ意ではなかった、思餘って不知ロ走ったのであるが、無理獨で引籠って居るよりは却って氣が霽れるから。」 いや じッさい と尤められて見れば、無理であると心着いたので。すると、「類さ おもかけむね 「もう何を爲るのも否た、何も出來は爲んよ。實際僕は生きとる さいあいつまおもかげ ん」の軈然とした面影が胸に浮むだのである。最愛の妻の面影は始樂が無いのだ、生きて居らうとは思はんよ」 てじゃくビール 終眼前には隱顯てゐるが、それが忽ち不興の眼色をして怨めしさう 葉山は手酌の麥酒を一口飮むで、 に視たのである。 「困ったもんだ。」 しきりわ やぐら もた 柳之助は濟まぬと思った、無理である、と頻に詫びた。けれども と櫓の上へどっさりと靠れる。 おちっ まぼろしおもかげ さび さび 心が落着かぬ、則ち幻の面影は共色を釋かぬのである。耐りかね 「僕は實に寂しくて可かん。君、それは實に寂しいものだよ。それ こんな どう て柳之助は、 さい に這麼雨の降る日などは、如何しゃうかと思ふやうだ。何所〈行っ うち ~ 、ゆうせんかうにひ たま かう こ、ろもち 「妻はね、妻は : : : 。」 さすが ても家中線香の氣がして、それが實に耐らんね。恁云ふ心地で一月 と言出したが、さて何と言ったものやら、有繋に惑ったのであも居ったら僕は屹と病氣をする、病氣をしても看病する者は無し、 る。 よ 慰めてくれる者は無し、一日だって僕は寐てゐられやせん。設然う きやく 「妻は君も能く言ったけれど、非常に客を喜んでね、僕とは違ってなったら如何せうかと思ふと、實に心細い。今でさ〈這麼心地なの 愛相が好かった。」 だから、あ又否だ、否だ ! 」 ふきよう そうけた みぶるひ とは言ったが、是では未だ其不興を釋くには足らぬと思った。然 惣毛竪ったやうに柳之助は身顫をする。 しばら そんな し早速に言ふべき事が出なかったので、姑く考へてゐたが、何を思 しま 「那麼事まで考〈た日には際限が無い。どうも今更も無い、何 出したか、又涙ぐむで了ふ。 も天命と思切るより外は無いのた。」 たうていおもびき 「時に、君は學校の方は如何した ? 」 「僕は到底思切れんよ。」 もちあっか おもひき と葉山は持扱ってゐた「時に」をやう / 、用立てる。 「思切れんと云ったって : かま いや おもひき 「學校 ? 學校なんぞは管はん、もう否だ。」 にが かしらふ 「だって、思切れんぢゃないか、僕の身になって見給、な。君は 苦い顔をして柳之助は頭を掉る。 酷だ。」 すみりうのすけ ちしつがくせんくわ ざんこくひど なにほどおもひき 鷲見柳之助は大學の地質學專科を卒業して、今は東京物理學院の けうじゅっと きんべん 「殘酷は過いね。君が何程思切れないと云った所で、お類さんが生 こん亡っ しか 敎授を勉めてゐるのであるが、勤勉であり、懇切であり、而も十分返るちゃなからう。」 きうけ きは おもひき いきかへ に實力のある所から、學院の氣承も生徒の信用も極めて好い、慾に 「ちや思切ったら生返るか。」 しけんてん うはさ たい せきた けしき は試驗の點が少し辛いと云ふ噂の外に、此人に對する非難の聲は全 と柳之助は急立った氣色。 そんな かなし く無い。學院では實に難有い大事の人になってゐるのである。 かま さうい 「又那麼無理を言ふよ、君の心は十分察してゐるわね、けれども哀 しよくげふ 「管はぬたって、然は行かないちゃないか、自分の職業ぢゃないむで傷らずだよ。君は細君の爲に體を毀しても苦しくないのだね。」 さい から ようだ まど ひなん たま いや いや
庵方で養育された。この母系の祖父は漢方醫豫備門在學中、二級下に美妙が人學して、舊 で、決して貧窮とも見えなかったが、裕輻で交を復し、これが硯友瓧の創立にまで發展す もなく、内職に寒暖計の目盛り入れなどしてる。やがて紅葉と美妙は、文學上のフイバル いた。こうしてみると、紅葉の幼時は、早くとなるのであるが、この二人が、無邪氣な幼 母を失ったこと、父とも別居し母かたの祖父年の日、芝紳明前で、早くも遊び仲間であっ 田淸人母に養育されたことで、必ずしも幸輻ではなたということは、不思議なめぐりあわせであ かったが、偏屈な性格に育たなかったのはこる。 の祖父母の愛が深かったせいであろう。 このように紅葉は、年號が明治と改まり、 紅葉の幼少時については、紅葉歿後、四年首都が東京と改まる、その最後の年、慶應の 尾崎紅葉は、本名德太郞、慶應三年十二月目に出た傅記研究として最初の「明治文豪傅江戸に生まれた。そして下町の色彩も濃い芝 十六日、江戸芝中門前町で生まれた。父は武之内尾崎紅葉」 ( 明治四〇年九月文祿堂 ) に、でそだった。しかもその父は藝に打込む洒脱 田谷齋 ( 本名尾崎惣藏 ) と呼び、象牙彫刻の名五歳の頃、近所の子供のいろは骨牌の讀み役なエ藝家であった。彼の眼には江戸の名殘り 人であった。こういう名人肌の技藝の人に多をつとめたこと、七歳の時、寺子屋に入り、 が生き、その血管には名人肌の父の血が流れ い畸人性があった。その逸話として、九代目機智頓才に富み、十歳ばかりの時、半紙二つている。このことは、紅葉文學の素因、表現 市川團十郎が、谷齋に煙草入れの筒を註文し折位の新聞ごっこをしたことなど記していに濃い影響の尾をひいている。 たところ、いくら催促しても出來てこないのる。文字〈の關心が早く芽生えていたといえ紅葉はこの生地に愛著を持っていたよう で、團十郎は金をやったら早く彫るだろうとよう。 で、習作時代の雅號縁山は芝の三縁山に因 三十圓ほど使者に持たせてやった。谷齋はそ明治七年、八歳で櫻川小學校に入學していみ、また明治十八年の終り頃から、終生用い の三十圓の金ですぐ金の延べ板を買い、それるが、この頃、近所に山田武太郎、後の美妙た紅葉の雅號も、芝の紅葉山によったのであ に領收證を彫って返したといった江戸ッ子的がいたため交友關係をむすんだ。美妙はそのった。なお習作時代には、半可通人、素蕩夫、 な氣骨のあった人と江見水蔭は傅えている。父吉雄が島根縣警部長として赴任したあと、花紅冶史、狂文亭などの戲作者的な雅號も用 ( 「水蔭講演全集」第二卷 ) 母よしと芝訷明前に別居し、一家は桶屋をいいているが、それは一時的であった。 谷齋は假名垣魯文等とも懇意であったが、 となんでいた。家が近く、紅葉は一つ歳上で 門 身を新橋幇間の群に投じ、常に緋縮緬の羽織あったが、おたがい渾名でよびあう遊び仲間 を着て、花街に出沒したため、世人は彼を赤であった。この交友は間もなく切れ、明治十紅葉は東京府第一一中學校中退後、岡鹿門に 尾 羽織と呼んでいた。紅葉はこうした父を持っ二年、紅葉が東京府第一一中學校に入學した時、ついて漢籍を學んだ。鹿門は「明治文人銘々 ことを祕密にしていた。 一一級上に美妙がいたのでふたたび友情が復活傳」 ( 編集人岡田良策・明治十七年十月 ) に「岡 紅葉の母の名は庸。紅葉は六歳の日、このし、そこを紅葉が二年で退いたので、また絶先生は名を千仭と稱し字は天爵鹿門と號す。 母を矢い、芝神明町八番地の母の實家荒木舜え、三度目に、明治十七年九月、紅葉が大學仙臺の人なり。禀性正義絶倫詩文を以て江湖 尾崎紅葉入門
イ 46 村松定孝「尾崎紅葉と硯友瓧の文學」 ( 壽星社 ( 明星明治三七・一一 ) 松村綠「浦松小四郎守眞の死ー『比丘尼色懺悔』 「近代日本文學の系譜」上卷所收昭和三〇 : ) 山田美妙「紅葉子の幼時」 ( 解釋と鑑賞昭和二四・二 ) の鑑賞」 ( 少年世界明治三七・一一 ) 宮澤成博「尾崎紅葉小論」 勝本淸一郞「紅葉の血統」 ( 文藝評論昭和二四・四 ) ( 峯書房「近代日本文學作品論」所收昭和三一・四 ) 泉斜汀「紅葉先生の幼時」 ( 學苑昭和二五・三 ) ( 文藝倶樂部明治三八・一 9 芹澤朝子「尾崎紅葉」 片岡良一「尾 - 崎紅葉の『金色夜叉』」 ( 法政大學 小林榮子「紅奪追憶」 ・六 ) 小栗風葉「紅葉先生の門下敎授法」 出版局「近代日本の小説」所收昭和三一 ( 明治大正文學研究昭和二五・五 ) ( 文章世界明治三九・一〇 ) 伊狩章「後期硯友瓧文學の研究」 安田保雄「一葉と紅葉」 ・一二 ) 後藤宙外「紅葉山人評傳」 ( 矢島書房昭和一一三 ( 國語と國文學昭和二五・一一 ) ( 文章世界明治四〇・三 ) 伊狩章「硯友瓧の文學」 ( 塙書房昭和一 = 六・一 9 塚原澁柿園「尾崎紅葉」 ( 中央公論明治四〇・九 ) 岡保生「紅葉の初期文體について」 ( 國文學研究昭和二五・一 ll) 鶴田賢次「中學時代の尾崎紅葉」 五雜誌論文など ( 中學世界明治四一・一一 ) 山本健吉「『金色夜叉』による反時代的小説論」 ( 群昭和二六・六 ) 泉鏡花「紅葉先生の玄關番」 藤の屋「紅葉山人の『色懺悔』」其一、二 ( 文章世界明治四一一・九 ) 勝本淸一郎「尾崎紅葉ー家系その他」 ( 女學雜誌明治一一二・四 ) ( 明治大正文學研究昭和二七・六 ) 輻州學人「新著百種の『色懺悔』」 楠山正雄「尾崎紅葉論」 ( 國民之友明治二二・四 ) ( 早稻田文學明淪四三・一 ) 塩田良平「金色夜叉の本文成立について」 ( 大正大學學報昭和二七・六 ) 忍月子「おぼろ舟及び紅葉の全斑」 田山花袋「尾崎紅葉とその作物」 成瀬正勝「紅葉文學の史的位置」 ( 國民之友明治一一三・四 ) ( 太陽明治四五・九 ) ( 國語と國文學昭和二八・一 ) 透 谷「『伽羅枕』及び『新葉末集』」第一、泉鏡花「硯友瓧の主腦尾崎紅葉」 田順「紅葉山人と竹柏園大人」 ( 女學雜誌明治二五・三 ) ( 中央文學大正八・七 ) 第二 ( 心の花昭和三二・二 ) 巖谷小波「竹柏會と紅葉山人」 雪丸「不言不語を讀む」 岡保生「『柵草紙』時代の鷓外と紅葉」 ( 心の花大正一二・四 ) ( 文學界明治二八・三 ) ( 明治大正文學研究昭和三二・七 ) 丸岡九華「硯友瓧文學蓮動の追憶」 ( 一ー 八面樓主人「硯友瓧及其作家」 人見圓吉「尾崎紅葉の處女文集」 ( 早稻田文學大正一四・六ー大正一五・四 ) ( 國民之友明治二九・一 ) ( 學苑昭和三二・ ( 靑年文明治二九・ (l) 巖谷小波「文豪紅葉山人の面影」 靑年文記者「紅葉」 島本晴雄「紅葉作『隣の女』の系圖」 ( 現代昭和三・五 ) 綱島梁川他「『多情多恨』合評」 ( 比較文學昭和三三・四 ) ( 早稻田文學明治三〇・一〇 ) 輻田淸人「尾崎紅葉論」 岡保生「紅葉文學の問題點」 ( 國語と國文學昭和七・四 ) 佐藤迷羊「金色夜叉前編を讀む」 ( 批評昭和三四・一 ) ( 早稻田文學明治三一・八 ) 柳田泉「尾崎紅葉についての一考察」 田淸人「『三人妻』の人間像」 ( 明治文學研究昭和九・六 ) 諸家「金色夜叉上中下篇合評」 ( 國文學昭和三四・五 ) ( 藝文明治三五・八 ) 山本正秀「言文一致と尾崎紅葉」 岡保生「尾崎紅葉」 ( 國文學昭和三五・三 ) ( 明治文學昭和九・七 ) 泉鏡花・小栗風葉「紅葉先生」〈談話〉 岡保生「『多情多恨』ノート」 ( 明星明治三六・一一 ) 片岡良一「天外と紅葉」 ( 明治文學昭和九・七 ) ( 言語と文昭和三六・九 ) 市野標「幼時の紅葉山人」 ( 傳記昭和一一・七 ) 諸家「故尾崎紅葉君追慕演説」 勝本淸一郎「資料發表・明治文學史」 ( 新小説明治三七・一 ) 星野麥人「紅葉先生と一葉女史」 ( 解釋と鑑賞昭和三七・四ー ) ( 書物展望昭和一七・一二 ) 山岸荷葉「故紅葉大人談片」 山本健吉「嵐ヶ丘と金色夜叉」 ( 新小説明治三七・ (I) 寺島友之「多情多恨と金色夜叉」 ( 文學界昭和三七・五 ) ( 國語と國文學昭和二一・一〇 ) 花房柳外「故紅葉山人と演劇と」 ( 新小説明治三七・三 ) 勝本淸一郞「關西人尾崎紅葉」 編集岡保生 ( 自由婦人昭和二三・ 柳川春葉「故紅葉山人逸話」