きふごよう 「急な御用でございますか。」 ひしおさ 「何そ急な御用でも ? 」 あしら なるべ 「いや、別に何ですけれど : : : 。」と言ふ儀から兩手で頭を犇と抑 「いや、別に・ ・。」と可成く話を避けるやうに遇ひながら、葉山 ひッそ の起きて來るのを待ったが、寢間はいつまでも闃寂として、誰の起〈て、 「窮ったな ! 」 はしま きたらしい音もせぬので、 それほど窮るならば用の有りさうなものを、今に始ったではない せッばく 「葉山君は未だ起きませんか。」 よふけ こんばんるす が、變な人だと思ひながら、此夜深に來たのは切迫の事であらう もてなし 「今晩は留守でございます。」 きのどく をりわるるすいか に、と折惡い留守が如何にも氛毒で、せめては何とか欸待をしたい 「え \ 留守 ? 」 にばな しきり しつばう と切に考へながら、先づ出來たので新煎を出す。 柳之助は失望する前に先づ一番吃驚した。 てい そら 柳之助は心を空にしてゐる躰であったが、出された茶をばがぶり 「未だ歸りませんので。」 まる と飲むで、 ちららよ 柳之助は目を圓くして、 ふさ 「それぢや歸りませう。」と外套の釦を一つ繋けて、未た十分躊躇 「はあ。」と言ったロを塞ぎかねた。 してゐるのは、如何にも用有りげに見えたので、お種は又推して訊 「今晩は歸るまいかと思ひますが。」 しばらぼんやり ねると、彼の答は前の如く「いや、別に。」であった。それならば 「はあ、然うですか。」と姑く茫然してゐて、氣の拔けた時分に、 あひて どちら 直に歸りさうたものを、自分を對手にするでもなく、其事でも思案 「何方へ ? 」 きふりよかう してゐるらしい様子で、いつまでも遲々してゐる。 急に旅行でもした事と思ったのである。 はうまは くわいしやかた、ちのむ 次の間の枕時計が四時を打つのを聞いて、柳之助は持った帽子を 「會瓧の方逹と會飲のだと申して、下谷の方へ廻ったのでございま わきたけだ こんばん す。今まで歸りませんから、今晩はもう歸りますまいと思ひます。」側〈投出して、 まきたばこいれ あなた あき 「貴方もうお寢み下さい。」と仕舞った卷莨入を出しかける。お種 ひし′ー、えり 「はあ、然うですか。」と米だ呆れた顔をしてゐたが、 いくたび はだうす ねまき とま どちら は寢衣に羽織で、肌薄の寒いこと夥しい、幾度と無く緊々と襟を こら 「何方へ泊られたのですか。」 かきあは 隨分尋ねても行きかねまじき柳之助の氣色、行かうと行くまい掻合せては、身顫の出るのを怺〈 / 、てゐたが、 たねこま このこたへ それ・ヘっ 「い乂え、どうせ目が覺めて居りましたのですから。」 と、其は別にして、此答にはお種も窮った。言へば妬くやうでもあ これ はづ 「然うですか。」と柳之助は共氣で莨を吃してゐる。話は無し、所 るし、第一譽めた話でもない事を聞かせるも恥かしい譯、是まで言 わるざむ ざい たいがいわか 在は無し、唯惡寒いばかりにお種も辛くて、 ちゃ ったらば大概解りさうなものを、解らぬほどの人に聞かせるのは、 ころげこ そのきんじよともだちうちょ な度 「もうお遲うございますから、お泊りなすっていらっしゃいまし。丁 あれこちら とこあッた うどうち 恨猶の事好くないと考〈て、共近處の朋友の家〈醉って轉込むだので こ、ち わたりふねうしな 度拙夫の床が暖まって居ますから、那を此方〈持って參りますから」 多あらうと云ふやうに話して置くと、柳之助は渡に舟を失った心地で、 好いた人は居ずに、好かぬ人ばかりの内に泊る氣は無い。然うか うら うち げんき 多「はあ、然うですか。」と言ひは言ったものゝ、歸らうか、待って と云って、是から家〈歸る元氣は猶無い、家に居るのが可厭に此夜 見やうか、何と爲う、 しかあて しあん あたまか 深に飛出して來たのである。然し當にして來た人が不在であるから 「窮ったな ! 」と頭を掻いて、又少し思案して、 ためいきっ 71 は、歸るより外は無いが、わざノ \ 此寒さに歸った所で、甚麼もの 「窮ったな ! 」と太息を吐く。 こんばん わま いらばんきッきゃう みぶるひ ぐわいたうボタン おびたゞ ふか しょ
ことば りくっ であらうと思ふに就けて、今のお種の言葉が身に沁みる。 らしい理窟でも言ひさうな、一から十まで彼の氣に適はぬものであ をッとかへり まことしめやか よわ / 、 あひかわらす お「どうせ目が覺めて居る。」と言った。夫の歸を待って目を覺して ったが、今夜のお種は信に靜淑に、弱々とした所も見えて、不相變 あいけうせじ あはれ 居たのであらう。「拙夫の床が暖まって居る。」と言った。氷のやう 愛嬌も世事も無いが、更に憎むべしとも覺えぬ迄に、女らしく可憐 そのしたく そのせゐ もと みにくきりゃう になって歸って來るであらうからと、共支度をして待って居たので であった。共所爲か又美しくも見えた。固より醜い容色ではない、 ある。此に火の熾してあるのも、湯の沸いてゐるのも、皆夫が人に依ったら輕々しく美人と言ふかも知れぬ、色も白し、目鼻立も かへりばえ 待ってゞある。恁して十分に用意のある所ならば、歸るにも歸榮が揃ってはゐる、が、自分は決して美しいなど又は思はなかったの ねぼ かく ゆる かは ある。自分は歸ると、元が寐惚けて戸を啓ける、臺所フムプを假り が、今夜は左も右も美しいと可されたのである。何故に然うまで變 まッくら とほ うすざむ にんやりつ わか て眞暗な座敷を通って、微寒い階子を昇る、一一階はラムプが陰々點って見えたのかは、柳之助も自分ながら解らぬので。洗晒した小豆 まなかころり ひとへ えりか いてゐて、火も無ければ湯も無い、座敷の眞中に煢然と床が一つ敷色のノランネルの單衣に襟を懸けた柳條の布子を重ねて、紫太織の つめ ねみた えりはたがち のぞ いてある、煖まってゐるどころか、鐵の板のやうに冷たくなってゐ細帶を緊めて、寢亂れた襟は寬け勝に胸の白いのが覗かれる。天溿 そんなところ かたっき とりしまり る。此寒いのに那麼處へ歸って行かれるものか。 の鬢が少しく縺れて、萎えたやうな肩状をして、何處と無く取締無 かうい したく よふけあかりさ 類さんが居たらば、恁云ふやうに支度をして待って居るであら 、寒さうにしてゐる姿に、夜闌の燈の射した所は、格別好く見え くわうぜん しばら あひた たのである。 う。其を想ふと柳之助は忽ち恍然として姑く心の樂まされて居る間 ねむりしの ひそかさむさふる いっかうみ、 なり きちん は、我前に人の睡を忍むで竊に寒に震へてゐるのも忘れてゐたが、ふ 柳之助がお種を見る時は、毎も溿々しく髮を結って、服裝を整然 すわ もッたいくさ もッば けんしき と氣が着けば、待つ人は無い ! 待ってくれる人には死なれたので として、一寸坐るにも勿體臭く、專ら奥様として見識を取ってゐる ひと かう さいちゅう こんなやはらか ある ! 自分を待つ人は亡くなって、他のは恁して無事に居ると思最中のみであったから、此人に這麼柔い様子の有らうとは實に想 うらやま そゞろ へば、可羨しいのか、憎いのか、好かぬお種の姿も不覺に見られる。 も着かず、之が大きに柳之助の目には美しく見えたのである。 ながねん なるべくあ うごか をッとまちわ 彼は長年此家に往來してゐる事であるから、可成會はぬゃう / \ 猶彼の心を動したのは、夫を待侘びて目を覺してゐたのと、床を あるじつま すま あた、 とは爲てゐたものゝ、主の妻であって見れば、萬更會はずにも濟さ煖めて、湯まで沸して待ってゐるのと、共までに爲てゐながら夫の かす おもひや れなかった。會ふことは數知れぬほど會ったが、傍に出て居られて今に歸らぬとで。共胸の中を思遣れば、明日は知らず今夜の所は不 も、早く行けがしと思ふばかりで、目を着けて浸々視るほどのこと便の人でならぬ。自分は歸っても誰待つものは無い人、お種は待っ さを、 ちがひ は無い。又他から見るやうなれば見られぬゃうにして了ふので、可ても歸られぬ人、大小の差こそあるが、心細さは似たものである。 わきめ かうい 恐いものは見たさであるが、可厭なものには誰しも傍目も轉らぬ。 自分は一度たりとも類さんに恁云ふ思を爲せたことは無いが、之が こ、ろよ どう 見ることも見られる事も、柳之助は快しと爲ぬのである。今夜ば類さんであったら如何するであらう。 いつもいや さう かりは不思議に例の可厭でもなく、然かと云って別に如何と云ふ氣 柳之助は獨で考へて獨で益不便にして了って、何とか慰めて遣ら つまり さいくん あるひとり のあるでもなく、究竟お種なる蟲の好かぬ細君ではなしに、或一個のなければ心が濟まぬゃうに覺えて、 たい こ、 - つもち かたち さび 女子に對する心地で、共顔なら容なら様子なら、思はず識らず目を 「どうも居るものが居らぬと寂しいですなあ。」と取着も無く言出 へいぜい 留めて視た。今夜見るお種は彼の平生考へた葉山の妻ではない、葉した。 あはれ あなた いろ / 、 山の妻は昻然として、愛憐の無さゝうな、何處かに圭角のある、男「然うでございますよ。貴方も然ぞ種々御不自由で在っしゃいませ ふしぎ いや あが そば かど とこ うつく しま とつけ ゐら とこ をッと おもひ
と、も の端は火中に落ちて黒煙を起っるなり。直に揉消せば人は靜ると與ず、又半錢をも帶びずして、如何に爲んとするにか有らん、猶降り 6 さき に降る雨の中を茫々然として彷徨へり。 に、彼も亦前の如し。 しばし 初夏の日は長かりけれど、纔に幾局の勝負を決せし盤の上には、 少時有りて、門に入來し女の訪ふ聲して、 すきもの もしこちら 殆ど惜き夢の間に昏れて、折から雨も霽れたれば、好者ども曳終に 「宅の旦那様は僴や這裡へ被入りは致しませんで爲たらうか。」 いそがは をさ おとがひめぐら 碁子を歛めて、惣立に歸るを恰も送らんとする主の忙々しく燈とも 主は忽ち髯の顧を回して、 ころ す比なり、貫一の姿は始て我家の門に顯れぬ。 「あ乂、奧にお在で御座いますよ。」 彼は内に入るより、 豐かと差覗きたる貫一は、 ふすまひら をんな 「飯を、飯を ! 」と婢を叱して、颯と奥の間の紙門を排けば、 「おゝ、傘を持て來たのか。」 ともしび こちら 「はい。此方にお在なので御座いましたか、もう方々お搜し申しま何ぞ圖らん燈火の前に人の影在り。 みは 彼は立てるま、に目を橙りつ。然れど、共影は後向に居て動かん した。」 とも爲ず。滿枝は未だ往かざる乎、と貫一は覺えず高く舌打したり。 「然うか。客は歸ったか。」 はなれ わざことば 女は尚も殊更に見向かぬを、此方も故と言を掛けずして子亭に入り、 「はい、疾にお歸になりまして御座います。」 豐を呼びて衣を更へ、膳をも其處に取寄せしが、何とか爲けん、必す 「四谷のも歸ったか。」 入來べき滿枝の食事を了る迄も來ざるなりき。却りて仕合好しと、 「いゝえ、是非お目に掛りたいと有仰いまして、」 のびや 貫一は打勞れたる身を暢かに、障子の月影に肱枕して、姑く喫烟に 「居る ? 」 耽りたり。 「はい。」 がしら 敢て戀しとにはあらねど、苦げに羸れたる宮が面影の幻は、頭を 「それちや見付からんと言って措け。」 ひとっか 回れる一蚊の聲の去らざらんやうに襲ひ來て、彼が切なる哀訴も從 「ではお歸りに成りませんので ? 」 そこら なほ ひて憶出でらるれば、仍往きかねて那邊に忍ばずやと、風の音にも 「最少し經ったら歸る。」 かしら ぢき ひる 幾度か頭を擧げし貫一は、婆娑として障子に搖る竹の影を疑へ 「直にもうお中食で御座いますが。」 「可いから早く行けよ。」 びとり 宮は何時まで此に在らん、我は例の孤なり。想ふに、彼の悔いた 「未だ旦那樣は朝御飯も、」 ゆる るとは誠ならん、我の死を以て容さゞるも誠なり。彼は悔いたり、 「可いと言ふに ! 」 ゆる 我より容さば容さるべきを、然は容さずして堅く隔つる思も、又怪 老婢は傘と下駄とを置きて悄々還りぬ。 わびし きまでに貫一は侘くて、共の釋き難き怨に加ふるに、或種の哀に似 程無く貫一も焦げたる袂を垂れて出行けり。 わづらは はげし たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、共の哀にも 彼は此の情絡の劇く紛亂せるに際して、可煩しき滿枝にらるゝ うた 似たるやうに打眺めて、他の憎しとよりは、轉た自を悲しと思續け 苦惱に堪へざるを思へば、共の歸去らん後までは決して還らじと心 おしあく いよい ありか ぬ。彼は竟に堪へかねたる氣色にて障子を推啓れば、凉しき空に懸 を定めて、既に所在を知られたる碁會所を立出でしが、逾よ指して まなこ した、 行くべき方は有らず。はや正午と云ふに未だ朝の物さ〈口に入れれる片割月は眞向に彼の面に照りて、彼の愁ふる眼は又痛かに其光 ゐらッしゃ まつは ひと やっ
プ 53 いつも した 例より早く退けて柳之助は還って來たが、彼は出入ともに何と下 あがりおり へ言葉を掛けるでもなく、下宿屋の階子を昇降するやうに、すうと はい ひきこも すぐ 出て行って、すうと入って來て、直に二階の居間へ引籠るのであ な小はさま まごっか そもそ 間に介って狼狽されたのが姫松。抑も誰に肯たのやら、肯ないのる。お類の居た頃は、出るにも歸るにも、其姿を見て何とか言はね はじめ しゃれ のち ことわ さがしだ やら、始は何だか洒落のやうであったのが、後には段々むづかしくば氣が濟まぬゃうに、搜出しても一々辨るのであったが、此に來て をかぼれし きげんそん かほっきた ふッそんな ぶあいさっきはま げんきん なって、岡惚の星さんは機嫌を損じたやうな顔色。食べる物さへ食からは、弗と那様事は無くなって、無挨拶極るのを、「現金な男だ」 しま こは あのむッつりきふ しま かくべつあやし べて了へば可恐い事は無いと云はないばかりに、彼木訥漢の急に氣と葉山は言ってゐる。お種も慣れて了って今は格別怪みもせぬ。卩 つらにく とかく イうし たげだ コート の . 強くなった面の憎さ。左も右も捨て置いたら悪からうと、 之助は机の上へ帽子とポートフォリオを技出して、上衣を脱がうと ひど あなた ひとかほっかま ぎろん をんなあが 「酷いわ、貴方がたは。他の顏を捉へて議論したりなんぞして。」 する所へ、婢が昇って來て、 おくさま 因で葉山は氣を變へて、 「あの奥様が、お茶がはいりましたから入らっしゃいまし。」 こ、ろいき いうよ すぐをんなあと ちゃま 「ちっと心意氣でも聞かうか。」 呼れゝば猴豫をするでもなく、直に婢の跡から降りて茶の間へ行 うかゞ かべぎは ちやき なら 「是非伺ひませう。」と姫松は急遽して壁際に寄せてある三絃を取けば、お種は葉山の爲るやうに茶器を並べて、姿勢までが似てゐる これ おもひたけ かくご そば たもつおとな りに起ったのは、是からたつぶりと思の丈を絲に言はせる覺悟、乃ゃう、傍には保が大人しく遊むでゐたが、柳之助が入って來ると、 じまんのど まる まんざらひとやまもんみすてん を まっげなが くろめがち かはゆ 至少しは自慢の喉も聽いてもらって、萬更一山百文の不見手でもな睫毛の長い、黑睛勝の、圓い目を擧げて、餘り可愛がってくれぬ小 したご、ろ なにし うらまも ゃうすちッ そかたら い處を見せたい下心。 父さんをば、何爲に來たらうと云ふ様子で眤と打目戍った。其の从 かくし とけい たちあが なしみりはつどこ せいやうぐわ いぬはなさきぶたうだ 衣兜の時計を出して見ると柳之助は起上って、 は彼が馴染の理髪床にある西洋畫の、「大の鼻頭へ葡萄を出してゐる こども がくよ そのそばすわ 「行かう、もう十時だ。」 子供」の額に善くも似てゐたので、「坊や。」と言ひながら共傍に坐 あわたゞ うつむ あとこは しま はう 「あゝ行かう。」といふ聲を聞くと、姫松は三絃を挈けて慌忙しく ると、忽ち俯いて、後が可恐さうに母親の方を見向いて了ふ。 おちつきはら けふさつまいり ちゃっぽとりあ すゞすんど 取って返したが、ずっと落着拂って、 「今日は薩擎煎が出來ますから。」とお種は錫の直截の茶壺を取擧 「島すもんですか。」 げる。 れいとほ 「でも此人が歸ると云ふから。」 「あを然うですか。」と柳之助は例の通り話が無い。 わたしこなた さくはんごゆくわい 「私は此方は留めはしないわ。」 「昨晩は御愉快でしたさうで。」 しやく せき せきめん でがけさいくん しん 「さあ、葉山。」と柳之助は自分の席から二三尺ばかりを忙しく往き 柳之助は少しく赤面した。出掛に細君は、早く歸るやうに、と心 っ復りつしてゐたが、左右女が彼言っては自分を袖にして葉山を配さうに言ったのを記憶してゐる。それに歸ったのが十一時。彼は ためし 留めたがる、葉山も強ひては歸りたがらぬ様子を見て、往きっ復り 早く歸るやうにお類に言はれて、曾て早く歸らなかった例は無い。 くゐきしだいひろ つひふすま あくるひるゐあう / 、 つの區域を次第に擴げて遂に襖の外へ出て了ふ。 十時と云ったのを十一時にでも歸れば、翌日お類は怏々としてゐる。 こ、ろもち なにげ よば お種も心地は同じであらうと思へば、何氣無く茶に呼れるさへ、餘 かたみ り肩身は廣く覺えぬのである。 たあに ゆくわい あんな 「何爲、愉快ちゃなかったです、那麼事は。」 「何と云ふ藝者が參ったのです。」 「何と云ふのですか。」 さわ 「三味線でも彈いて騷ぎましたか。」 でいり ひッさ せは ない るゐ かっ そのすがた かまへ はい
まッくら し・、ゆうふさとほ っとめ たれ 「や、眞暗だ、如何したのだ。」 又始終鬱ぎ通してゐるものが、毎日の勤が何の面白からう、誰にし しよび さ おこたりがち あたりまへ このうちいや 柳之助は萎縮れた聲をして、 ても怠勝になるが當然である。然も此家が可厭さうに、出て行く時 さえみ、 かへり 「待ってゐたまへ、待ってゐたまへ。」 は冴々として、歸來と云ふと憔悴してゐる、之には何ぞ理が有らう。 ねぐち つばさ たゆ たゞし 「如何した、如何した。」 それとも塒に還る鳥の疲れた翼に飛ぶさへ怠く見えるのか、但は 、もと れい さまん、はん どれあてすゐりゃうたゞうたがひ 例の變人ゅゑかと様々に判じたが、固より何も當推量、唯疑の無 そのしゝっ いのは其事實で、 ( 五 ) ほんおとッさんおッしゃ なるどそれちがひな 「眞に御父様の有仰った通り、成程其に違無い、ステッキの音から さ まへぶれ 今日はと前觸をした今日であるのに、柳之助は何も持たずに歸っ して然うだ。」 しつばうた ま かく ふしぎ て來たので、お種も秘に尤めずには措かなかった。彼は失望に堪 左にも右にも仔細の有りさうな、不思議な、けれども共より末た むづかし しゅッきんおこた へぬ險澁い顔をして、 心得られぬのは、學校の出勤を怠らぬのが、不思議の中での不思議 ざんねん そのけしき ためいき 「もう二三日待って下さい。」と言ふさへ殘念さうな、共氣色を見て と謂ひたい。箸を持っさへカ無げに、大息ばかり吐いて、如何に快 さなか 種 = も、 快してゐる那裏でも、決して學校を休むだことが無い、休まうとし すま かぎ いっ ことばかは ものう 「はあ、然うですか。」で濟して了ったが、今日には限らぬ、毎でも たことさへ無い。人に言を交すさへ物憂さうにして居るものが、如 きげん ふしぎ ふしぎ めんだうけうじゅ 歸って來ると、不思議に機嫌を惡くしてゐる。別して不思議なは、 何して面倒な敎授が出來ゃう、學校へ出る氣が出やう。彼人の氣で かっそんな ものいひ わりあひ しゅッきんはふ ふさ これ 朝出て行くのに斷て那様事は無い、顔の色なら一一一口語なら、朝は割合は、學校も出勤も抛って、思ふさま鬱いで居さうなものを、是ばか さえ , ″、 いそ ぐわん おろそか に冴々して、謂はゞ樂しげに心の急がれる風がある。それが歸ってりは願に掛けて一日でも疎にせぬのは不思議の中の不思議と謂は あるひさ あしおも とて い 來ると憔悴として、門を入るも脚の重いやう、或は然も無く歸るこ うか、不思議の上の不思議と謂はうか。迚も有りさうも無い事、出 かす ゃうす これつ つくづへんしんちがひな とも數の中には有ったなれど、朝出る時に氣の濟まぬらしい様子の來さうも無い事 ! 之に就けても熟く變人に違無い、とお種は思ひ ためしぜんご 見えた例は前後に一度でも無い。 に思ったのである。 ふとか ゆきか、り ようだいはんお ふきげん けしき きのふ 不圖恁う見出して以來氣を着けると、往と還との容體は版で捺し 此日の不機嫌は別けて甚しく、昨日までの氣色は何處へやらであ あくるあさどうやう そのねむ うらみ たやうに、いつも / 、同じである。それは持ってゐられるステッ ったが、翌朝も同様で、共睡けな顔はいとゞ恨が有るやうに、共恨 ゆき かへりひき おさ したざしきえんふみちら キ、あのステッキでも知れる。往は飛ぶやうで、還は引摺る、と年をば又抑へるやうに下座敷の椽を蹈散しながら、お種を見ると、 ひま いんきよじよしうと しようめい びやうき 「僕はどうも病氣です。」 寄の耳ながら閑さに聞出した隱居所の舅が面白い證明。 ふしぎ きげんよ よば ちゃまはい 葉山に呼れて茶の間へ入れば、 返す 2 「もお種は不思議でならぬ。何故に出て行く時は機嫌が好 恨 にが おもひすご 多くて、歸って來れば苦い顔をするのであるやら。女氣の思過して見「僕はどうも病氣だ。」 こ、ろもちせ くつう ふきげんいひわけ 苦痛を洩すのか、不機嫌の辨疏をするのか、左にも右にも自分か 多れば、餘り好い心地は爲ぬのである。歸って來るのは誰の家であ うち ふゆくわい ふゆくわいわけそのうち うッた へいぜいきぶん あひかはらす る ? その家へ歸るのが不愉快となら、不愉快の因は共家に無けれら平生の氣分ではないことを訴へながら、不相變柳之助は學校へ出 このうちどこ さう ふゆくわい れい ばならぬ。此家の何處が不愉快で、何が氣に入らぬのか。もしお類て行くのである、而してステッキの音も例に依って飛ぶやうに。お あき はりあひなくな かへり どんな さんが此家に居ないからとならば、學校へ行ったとて居るではなし、 種は呆れる張合も失して、これで鐇來は甚麼であらう、と午後の退 より このうち いらい はい とが ふう うら し うへ しさい とほ っ かく わけ それ あのひと ひ
ほん ばかりひやくかにら いよノ、あひて う。未だ些の咋日のやうに思ひますけれど、もう廿日許で百個日に お種は考へたから、切めて話でも無くては彌敵手をしてゐられぬ なり た・つ お成なさるのでございますねえ。」 ので、又共事を訊ねて見る。 まぎ 「然うです。」 二度まで柳之助は「いや、別に。」で紛らして了ったが、今度は てい 「然ぞ御不自由でゐらっしやるだらうと思ひましてね : ・ : ・。」 ゃう / 裹みかねた躰で、 さび かな 「不自由は可いです、唯寂しくて、寂しくて、それが如何も敵はん 「用ではないです。用ではないですけれど、 : ・實に僕は弱ったで よそとま ですね。葉山君は何ですか、今夜のやうに他で泊られる事が折々あす。」 ひざす、 るですか。」 と泣出しも爲さうに見えたので、お種も驚かされて膝を前める さび ゑみもら ゅびわひね わづかうつむ とりなきた かま お種は寂しげに笑を洩して、指環を拈りながら微に俯いた。 と、折から鷄が啼立てる、其にも管はず柳之助は家を飛出した仔細 きまりわる みつ を話始める。 極の悪い時、言出し難い時、指環を拈りながら其を瞶めるのは、 かはゆ ゃうす なるど ひと、ほり お類の癖であった。其の謂はれぬ可愛らしい様子をば、葉山の妻に 成程彼の言ふ如く、用事ではない、然し尋常一様の用事よりは未 どんな おもひまう やくかい よは ねざめ にはかさいはっ 見せられやうとは、甚麼事にも思設けなかったから、柳之助は殆ど だ厄介な、久しく打絶えてゐた夜半の寢覺が今夜卒に再發して、而 これま・て おさ 其人のお種であることも、恐らくは自分の柳之助なることも忘れも其が從來ついに覺えぬほど、寂しくて、心細くて、抑へても / \ ときめ ゐた、ま て、心のみ怪しげに衝跳いた。 曳入れられるやうで、如何にしても内には居耐らなくなって、寒い たま あ つきあひどう いとまな ねまき ぐわいたうひツか 偶には内を空けるが、共は交際で如何も爲方が無い、とばかりでも夜深も考へる遑無く、寢衣の上に外套を引被けたま又で、飄然と そこ あき お種も深くは言はぬ。因で話は切れて了ったが、四時も半となるの飛出して、實は來る氣も無しに來たのであると。お種は唯呆れるば ねむ に、柳之助の歸る氣色は無い。お種は瓮寒くはなるし、少しは睡く 一躰那様事が有るべきものだか、何だか、惞には落ち かりそめ きやく おきばなし ごめんかうむわけ よほどへん かろ もなるに、假初にも客であれば、一人置放にして御免を蒙る譯にもぬので、餘程變な人もあれば有るものと、却って念にも懸けず輕く とま 行かず、泊れと言へば、今にも歸るやうなことを言ふし、如何にも聽いてゐたが、柳之助は尋常ならぬ氣色で、その心細い家へ還る氣 こうは りよく ひとり 手を着けかねて困じ果てた。 力は無いらしく見えたから、いっそ泊めたら可からう、とお種は獨 いう / 、すわ ぎめ をッとねどこ こちら うつ おッつけ しばら 掫之助は又、午前と午後とを取違へてゞもゐるやうに優々と坐り 斷にして、夫の寢床をば此方に移して、須臾夜も明けるゆゑ、暫く かう いッそこのま、 込むで、それで恁と話のあるでもなく、睡くもないから不如此儘夜横になるやうに勸めたのである。すると柳之助は何と思ったか、衝 つくねん の明けるを待たう、と云ふ了簡で乂もあるらしく唯兀然としてゐ と起って、 「いや、歸りませう、僕は歸ります。」 恨 此寒いに歸りたくもないとならば、泊りさうなもの、泊るが好ま ぼんやり さッさ ( 十一 ) 多しくないならば、面白くも無さ乂うに惘然してゐずとも、匇々と歸 あんばい 多りさうなものを、行きたくもなければ、泊りたいでもない鹽梅で氣 おちっ よくじつひともしごろ の重さうにしてゐるのは、何ぞ心の落着かぬ事が有るに違無い。共 翌日の點燈頃柳之助は又尋ねて來た。葉山は此から一盃飮まうと よふけわざ / 、たづ と かく でこそ此夜更に故々尋ねても來たのであらう。左も右も葉山に逢っ 云ふ所で、茶の間の火鉢の傍にを、て、鯛の菽乳羮を沸々いは かう どッちっ やはらわんねこひツか すツかりふゅごもりしたく て歸らねば氣が濟まぬので、恁して何方付かずに遲々してゐるのと せながら、柔かい袢を引被けて、全然冬籠の支度の出來た所を、 ま しかた この ひきい けしき と これ ふらり しさい しか
すさまふきまく をッとひとと こん しゃうどくしんくら 外は風が妻じく吹捲る。 んから、俺は一生獨身で暮す。死んだ上に夫は他に奪られる ! 這 ひど しかた なかあい あゝ可厭だ、劇い風だ。 麼可哀さうな事があるものか。死んだのは如何も爲方が無いから、 おと だいどころはう こゝろざし ほか 臺所の方でびしり / 、と柱などの干割れる音がする。何だか氣味 せめて俺だけは他の者と夫婦にはならん、是が類さんへの寸志た。 ぎよッ からかみうちあた やさき 類さんの死んだのに較べれば、俺が不自由するくらゐは何でもなの惡いと思ふ矢先に、ばたりと紙門に打當る物音。お種は慄然とし もりねがヘり いきこら て息を凝したが、傅婢が轉側を打ったのらしい。 い。類さんも死んだから、俺も不自由する ! 」 い あん おにかなしみ おもひせま なかばひとりどと 今は全く目も覺めて了って、火事でも無ければ可いがなどゝ、案 元に話をしてゐながら、思迫る餘に半は獨語になって、覺えず悲 はるかたぬきばやしきこ すさくゞ すご あいさっこま じ過して耿々してゐると、風の隙を潜って遙に狸囃子が聞える。庭の を漏すのである。元は挨拶に窮って、 ふれ のきはがさ / 、 ごもッとも 軒端を篏《と風が何かに觸るのであらうけれど、人などがむで屋 「御尤でございますとも。」 ちむし おも ねあが ことわりせ こ、ろさから あはれ 餘りと思ひながらも、理極めて哀さに、その意に悖ふことは折か根〈昇るやうにも想はれる。地蟲の鳴くやうにラムプはじい / \ 、時 ひゞきたえま きち / 、、あるひ とめだて ちりめんもんっきむだ ら言出されもせず、縮緬の紋服を暴殄にするぐらゐに止立を爲るも計は軋々、或は遠くに或は近くに、何とも付かぬ響が絶間無く耳に入 はなさき とこうめか おちっ ふッき つひ はさみをしげ きのどく って、睡らうとしても落着かれぬ鼻頭へ、床の梅が香が芬々と來る。 氣毒になって、彼の鋏は惜氣もなく竟に小袖の襟の絲を弗と斷る。 をッと小へり 睡られぬに就けて夫の歸來が待たれる。一一時は過ぎたが、三時頃 に歸ったことも無いではない。おが有るか知らぬ、有れば可い ( 十 ) とほ まに たのみ が、賴に思はる乂車の音さへ聞えぬ、巡査も巡らぬ、誰も通らぬ、 つきよがらすなきた だしぬけ そひね まくら、と ひかりまぼろし お種はふと目を覺した。枕頭のラムプの光は幻のやうに、添寢卒然に二三羽の月夜鴉が啼立てる。 おもてあしおと ねふ いま たにげ となりねどこ いびき たもつよねん 忌はしさに目を瞑って凝然として居ると、忽ち戸外に跫音がした の保は餘念も無い顔をして小い鼾を立て又ゐる。何氣無く隣の寢床 き、み・、 えりくつろ かたち ひざ を見れば、安火を入れた夜着は人の膝を立てたやうな形をしてゐるのである。もしやとお種は鬢まで被った夜着の襟を寬げて、聽耳を こまげた はずま をッとすがた が、枕ばかりで夫の姿は無い。はっと思ったが、居ない理、未だ歸欹てれば、其音は駒下駄で、はた / 、と我門に近く様子、さてはお をッとあしおと たほ むねどッきり かへり おそかへり 歸來か、と胸を動悸させて、猶能く聽けば、夫の跫音ではない。夫 らぬのであった、晩い歸來であるが、それとも未だ時が早いのか、 あたり つひかどぐちおぼ ます′、ちかづ の跫音でもないものが、益々近いて、遂に門ロと覺しい邊ではたと と起回って枕時計を見れば、一一時十分過。 ふる とま せすちこほりな 停ったので、お種は背筋を氷で摩でられるやうに悚然として震へる。 二時過ぎたのに歸來の無いのは、今夜はもう歸らぬのであらう とま かたちのみ 停ったま又で、待てども / 、動かぬ。 か。會瓧の方逹と小飮に行くと夜の更けぬことはないが、理事の百 すま さわ むねはやがねっ よびちら またおはぜいげいしゃ せさんごいッしょ 胸は早鐘を撞くやうに騷ぐのを、熟と怺へて益耳を澄してゐれ 瀬様が御一所では、又大勢藝者などを呼散して、擧句は何處かへ : そのあしおとあともどり ちがひな ば、やう / \ 動いて、共跫音は後戻をした、かと思へば又立返って : に違無い。 たま ぞく たま おとまり かうさいよ 門ロの邊に停る。放火か、賊か、二つの内 ! とお種は耐りかねて 多交際も可し、間には御外宿も可いけれど、此頃は近所に能く火事 うッちゃ それこは かうい なる ぶッさう どろばうはい 多があるし、又方々〈偸兒が入って物嘱だと云ふのに、恁云ふ時は可起きて見やうとしたが、共も可恐し、何か爲る寸で打遣っても措か やッばりよ 成早く歸るやうにして下されば可いのに、猶且醉ふと面白くなつれす、如何したら可からう、と首を擧げて四邊を拘すと、夫の枕頭 きせる これくッきゃう たばこぼん 新て、後では何も百瀬が所好だから敵はないなどゝ、好いことばかりに煙草盆がある、煙管がある、是屈竟と引寄せて、氣立ましく唾壺 っゞけうち ごじぶん 1 を連打にして、 言って、御自分もお嫌ひではないのだから爲ゃうが無い。 おきかへ おれ おれ きら し かな えり かぶ きみ
たツたひとり 「うむ。大きにこれは然うだ。」 唯一箇で遣って來るなんぞは、能々の間拔と思はなけりゃならん こそばゅ しづか 風恬に草香りて、唯居るは惜しき日和に奇痒く、貫一は又出でよ。」 そんな て、鹽釜の西南十町許の山中なる鹽の湯と云ふに遊びぬ。還れば寂「それちゃ旦那は間找なのちゃ御座いませんか。那様解らない事が ちき しくタ暮るゝ頃なり。例の如く湯に入りて、上れば直に膳を持出有るものですか。」 あかし 「間找にも大間拔よ。宿帳を御覽、東京間拔一人と附けて在る。」 で、燈も漸く耀きしに、彼の客は未だ歸り來ず、 ちひさ まるかびとりにツ 下女鹽原間找一人と、ぢや附けさせて戴きませう。」 「閑寂なのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、全で恁う獨法 「共傍に小く、 「面白い事を言ふなあ、おまへは。」 師も隨分心細いね。」 かごと 「猶且少し拔けて居る所爲で御座います。」 託言がましく貫一が言出づれば、 しばらく ゅあみ かのきやく 彼は食事を了りて湯浴し、少焉ありて九時を聞きけれど、彼客は 「然やうで被居いませう、何と申したって此の山奧で御座いますか ら。全體旦那がお一人で被入ると云ふお心懸が悪いので御座います未だ歸らず。寢床に人りて、程無く十時の鳴りけるにも、水聲空く ちんじゃう 樓を繞りて、松の嵐の枕上に落つる有るのみなり。始より共人を怪 もの、それは爲方が御座いません。」 をんなわざ まざらんには此の咎むるに足らぬ瑣細の事も、大いなる糢糊の影を 婢は故とらしう高笑しつ。 にとに いよい 作して、逾よ彼が疑の眼を遮り來らんとするなりけり。貫一は幾と 「成程、是は恐入った。今度から善く心得て置く事た。」 はなはだし み・つから あした 「今度なんて有仰らずに、旦那も明日あたり電信でお呼寄になった疑ひ得らる乂限疑ひて、躬も其の妄に過るの太甚きを驚ける迄に 至りて、始て罷めんと爲たり。 ら如何で御座います。」 ひをき かのきやく ばあや 之に亞いで、彼は抑も何の故有りて、肥瘠も關せざる彼客に對し 「五十四になる老婢を呼んだって、お前、始らんぢゃないか。」 おもひ や かく あんな 「まあ、旦那は那麼好い事を言って被居る。共の老婢さんの方でなて、恁ばかり輕々しく思を費し、又念を懸るの固執なる乎、其の謂 無き己をば、敢て自ら解かんと試みつ。 いのをお呼びなさいましよ。」 それッきり 然れども、人は往々にして自ら率る共己を識る能はず。貫一は抑 「氣の毒だが、内には共限より居ないのだ。」 へて怪まざらんと爲ば、理に於て怪まずしてある・ヘきを信ずるもの 「ですから、旦那、づ乂と外にお在んなさるので御座いませう。」 いくら 「そりや外には幾多でも在るとも。」 から、又幻視せるが如き共の大いなる影の冥想の間に纒綿して、或 「あら、御馳走で御座いますね。」 は理外に在る者有る無からんや、と疑はざらんと爲る傍より却りて なあに 惑しむるなり。 「何有、能く聽いて見ると、それが皆人の物たさうだ。」 表階子のロに懸れる大時計は、病み憊れたるやうの鈍き響を作し 叉「何ですよ、旦那。貴方、本當の事を有仰るもんですよ。」 夜「本當にも嘘にも共通だ。私なんぞは那様意氣な者が有れば、何爲て、廊下の闇に彷徨ふを、數ふれば正に十一時なり。 こんな 色 彼客は此の深更に及べども未だ歸り來ず。 に這亠円臭い山の中へ遊びに來るものか。」 彼は歸り來らざるなる乎、歸り得ざるなる乎、歸らざるなる乎な 「おや ! どうせ靑臭い山の中で御座います。」 あまた、びか ど、又思放っ能はずして、貫一は寐苦しき枕を頻回易へたり。今や 「靑臭いどころか、お前、天狗巖だ、七不思議たと云ふ者が有る、 3 おそろし 可恐い山の中に違無いぢゃないか。共處へ彷徨、閑さうな貌をして十二時にも成りなんにと心に懸けながら、共音は聞くに及ばずして みんな そんな かほ やッばり や
あすあさってやすみ 「敎場に普請を爲る所があるので、今日半日と明日明後日と休課に彼は貫一に就いて半點の疑ひをも容れず、唯變くまでも娩しき宮に なったものですから。」 心を遺して行けり。 しばら ふた 「おや、然うかい。」 共後影を透すばかりに目戍れる貫一は我を忘れて姑く佇めり。兩 こら ことば むな 唯繼と貫一とを左右に受けたる母親の絶體絶命は、過ちて野中の個は共心を測りかねて、言も出でず、息をさへ凝して、空しく早瀬 かしまし 古井に落ちたる人の、沈みも果てず、上りも得爲ず、命の綱と危くの音の聒きを聽くのみなりけり。 いと た たとへ も取縋りたる草の根を、鼠の來りて囓むに遭ふと云へる比喩に最能 旋て此方を向きたる貫一は、尋常ならず激して血の色を失へる面 わづかゑみ く似たり。如何に爲べきかと或は懼れ、或は惑ひたりしが、終に共上に、多からんとすれども能はずと見ゆる微少の笑を洩して、 みい かるた ダイアモンド の免るまじきを知りて、彼はやう / \ 胸を定めつ。 「宮さん、今の奴は此間の骨牌に來て居た金剛石だね。」 まね 「丁度宅から人が參りましてございますから、甚だ勝手がましうご 宮は俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざる爲して、折しも啼ける鶯の ども あざわら ざいますが、私等は是から宿へ歸りますでございますから、いづれ木の間を窺へり。貫一は此體を見て更に嗤笑ひつ。 後程伺ひに出ますでございますが・ 「夜見たら共程でもなかったが、晝間見ると實に氣障な奴だね。而 して如何だ ! あの高慢ちきの面は ! 」 「はあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に歸れるやうな にはか 都合になりますな。」 「貫一さん。」母は卒に呼びかけたり。 「はい。」 「はい、話の模様に因りましては、然やう願はれるかも知れません ので、いづれ後程には是非伺ひまして、 「お前さん翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は。」 「はい。」 「成程、それでは殘念ですが、私も散歩は罷めます、散歩は罷めて 是から歸ります。歸ってお待申して居ますから、後に是非お出下さ 「あゝ、そんなら可いけれど、不斷のお前さんにも似合はない、那 様人の悪口などを言ふものぢゃありませんよ。」 いよ。宜しいですか、お宮さん、それでは後に屹度お出なさいよ。 「はい。」 誠に今日は殘念でありますな。」 彼は行かんとして、更に宮の傍近く寄來て、 「さあ、もう歸りませう。お前さんもお草臥だらうから、お湯にで おひるまへ も入って、而して未だ御午餐前なのでせう。」 「貴方、屹度後にお出なさいよ、え。」 まばたせ 「いえ汽車の中で鮨を食べました。」 貫一は瞬き爲で視て居たり。宮は窮して彼に會釋さへ爲かねつ。 あゆみはし オゾーコート はづかしさ したたる ねぢ 娘氣の可羞に恁くあるとのみ思へる唯繼は、益寄添ひっゝ、舌怠き 三人は倶に歩始めぬ。貫一は外套の肩を拂はれて、後を捻向け おもて ことば ば官と面を合せたり。 叉までに語を和げて、 「共處に花が粘いてゐたから取ったのよ。」 夜「宜しいですか、來なくては可けませんよ。私待って居ますから。」 ねめつ 色 貫一の眼は燃ゆるが如き色を作して、宮の横顔を睨着けたり。彼「それは難有うⅢ」 は懼れて傍目をも轉らざりけれど、必ず然あるべきを想ひて獨り心 幻を慄かせしが、唯繼の如何なることを言出でんも知られずと思へ かく 2 ば、左にも右にも其場を繕ひぬ。母子の爲には幾許の幸なりけん、 をのゝ いかばかり て いと さう そん
「さあ、早く歸れ ! 」 「然やうで御座いますか。では此方へ。」 芻主の本意ならじとは念ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭に案「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日の所は奈何とも堪 内せり。昨夜の收めざる蓐の内に貫一は着のまゝ打仆れて、夜着も忍して、打つなり、毆くなり貫一さんの勝手にして、然して少小で かしら も機嫌を直して、私のお詫に來た譯を聞いて下さい。」 掻卷もの方に蹴放し、枕は辛うじて共端に幾度か置易られし頭を 「えゝ、煩い ! 」 載せたり。 ひざもと おきかへ 思ひも懸けず宮の入來るを見て、起回らんとせし彼の膝下に、早「それちゃ打っとも毆くともして : ・ まろ 身悶して宮の縋るを、 くも女の轉び來て、立たんと爲れば袂を執り、猶も犇と寄添ひて、 そんな 「那樣事で俺の胸が霽れると想って居るか、殺しても慊らんのだ。」 物をも言はず泣伏したり。 「え \ 殺れても可い ! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して 「えゝ、何の眞似だ ! 」 貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了った方が可いのですか 突返さんとする男の手を、宮は兩手に抱き緊めて、 ら。」 「貫一さん ! 」 にちしらす 「自分で死ね ! 」 いやし 「何を爲る、此の恥不知 ! 」 彼は自ら手を下して、此身を殺すさへ屑からずとまでに己を鄙 「私が悪かったのですから、堪忍して下さいまし。」 やかま むなる乎、餘に辛しと宮は唇を咬みぬ。 「え、聒しい ! 此を放さんか。」 「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見とも無い態を爲ず 「貫一さん ! 」 に何爲死ぬ迄立派に棄て通さんのだ。」 「放さんかと言ふに、え、もう ! 」 ふたり 「私は始から貴方を棄てる氣などは有りはしません。それだから篤 其身を楯に宮は放さじと爭ひて瓮す放さず、兩箇が顔は互に息の りとお話を爲たいのです。死んで了へとお言ひでなくとも、私はも 涌はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見じと誓〈る共人の顔の、 なは えん おのれ眺めたりし色は疾く失せて、誰ゅゑ今の別に黏なるも、仍形う疾から自分ちや生きて居るとは思って居ません。」 「那様事聞きたくはない。さあ、もう歸れと言ったら歸らんか ! 」 のみは變らずして、實に彼の宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何にし どんな まも ひま 「歸りません ! 私は甚麼事しても此儘ちゃ : : : 歸れません。」 て此に逢へる ! 貫一は其胸の夢むる間に現ともなく彼を矚れり。 宮は男の手をば益す弛めず、益す激する心の中には、夫もあら ひたぶる 宮は殆ど情極りて、纔に狂せざるを得たるのみ。 彼は人の頭より大いなるダイアモンドを乞ふが爲に、此の貫一のず、世間もあらずなりて、唯此の命に易ふる者を失はじと一向に思 手を把る手をは釋かざらん。大いなるダイアモンド乎、幾許大いな入るなり。 折から縁に足音するは、老婢の來るならんと、貫一は取られたる るダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知り かたち ちと いかに ぬ。彼の持たるダイアモンドは然ぜる大いなる者ならざれど、共棄手を引放たんとすれど、這は如何、宮は些も弛めざるのみか、其容 去りし人の誠は量無きものなりしが、嗟乎、今何處に在りや。其のをだに改めんと爲ず。果して足音は紙門の外に逼れり。 むな 嘗て誠を惠みし手は冷かに殘れり。空しく共手を抱きて泣かんが爲「これ、人が來る。」 いかばかり に來れる宮が悔は、實に幾許大いなる者ならん。 こ、 こちら ちいさ ひし いかばかり いさぎよ どう