貫一 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

泣人る宮を尻目に掛けて。 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換 いとをし みい 〈て最愛みし人は芥の如く我を悪めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤は 「お前でも酷いと云ふ事を知ってゐるのかい、宮さん。是が酷いと つんざ とほ 彼の胸を劈きて、幾と身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を 云って泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は : : : 貫一は : : : 貫一は 血の涙を流しても足りは爲んよ。 啖ひて、此熱腸を諭さんとも思〈り。忽ち彼は頭腦の裂けんとする を覺えて、苦痛に得堪〈ずして尻居ににれたり。 お前が得心せんものなら、此地〈來るに就いて僕に一言も言はん まび 宮は見るより驚く遑もあらず、諸共に砂に塗れて掻抱けば、閉ち と云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、共暇が無かったなら、 はふりお たしぬ 後から手紙を寄來すが可いちゃないか。出拔いて家を出るばかり たる眼より亂落つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨 たより うしろ ひて、迫れる息は妻しく波打っ胸の響を傳ふ。宮は彼の背後より取 か、何の便も爲ん處を見れば、始から富山と出會ふ手筈になってゐ いだきし ゆりうごか をの、 みい たのだ。或は一所に來たのか知れはしない。宮さん。お前は奸婦だ 縋り、抱緊め、撼動して、戰く聲を勵せば、勵す聲は更に戦きぬ。 よ。姦通したも同じだよ。」 「如何して、貫一さん、如何したのよう ! 」 そんなひど あんま 「那様酷いことを、貫一さん、餘りだわ、餘りだわ。」 貫一はカ無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと わんごろ 懇に拭ひたり。 彼は正體も無く泣頽れつゝ、寄らんとするを貫一は突退けて、 あ、みい かう 「操を破れば奸婦ぢゃあるまいか。」 「吁、宮さん恁して二人が一處に居るのも今夜限だ。お前が僕の介 ぎり 「何時私が操を破って ? 」 抱をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言ふのも今夜限だよ。 いくら みい 「幾許大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見て 一月十七日、宮さん、善く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一 さらいねん 居るものかい ! 貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、共夫を出拔は何處で此月を見るのだか ! 再來年の今月今夜 : : : 十年後の今月 よそ いて、他所の男と湯治に來てゐたら、姦通して居ないといふ證據が 今夜 : : : 一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死ん みい 何處に在る。」 でも僕は忘れんよ ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。來年の今 「然う言はれて了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が ふの、約束してあったのと云ふのは、共は全く貫一さんの邪推よ。 月が : : : 月が : : : 曇ったらば、宮さん、貫一は何處かでお前を こっち 私等が此地に來てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて來たの恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ。」 ものぐるはむせびい だわ。」 宮は挫ぐばかりに貫一に取着きて、物狂しう咽入りぬ。 そんな 「何で富山が後から尋ねて來たのだ。」 「那樣悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだ ことば 宮は共唇に釘打たれたるやうに再び言は出でざりき。貫一は、恁 から、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐ なか おろ あんま く詰責せる間に彼の必ず過を悔ゐ、罪を詫びて、共身は未か命まで て下さいな。私はお肚の中には言ひたい事が澤山あるのだけれど、餘 たった 色 も己の欲する儘ならんことを誓ふべしと信じたりしなり。設し信ぜ り言難い事ばかりだから、ロへは出さないけれど、雎一言いひたいの 金 ひそか ざりけんも、心陰に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかり は、私は貴方の事は忘れはしないわーー・私は生涯忘れはしないわ。」 「聞きたくない ! 忘れんくらゐなら何故見棄てた。」 幻も然せる氣色は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一圖の心變 まこと 「だから、私は決して見棄てはしないわ。」 を、貫一はなか / 、信しからず覺ゆるまでに呆れたり。 ひど ぎり いかり

2. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

置物にされて、謂はゞ棄てられて居るのだ。棄てられて居ながら共 木を裂く如く貫一は宮を突放して、 8 くるしみ 愛されて居る妾よりは、責任も重く、苦勞も多く、 苦ばかりで 「それちゃ斷然お前は嫁く氣だね ! 是迄に僕が言っても聽いてく たのしみ のぞみ 樂は無いと謂って可い。お前の嫁く唯繼だって、固より所望でおれんのだね。ちえゝ、腸の腐った女 ! 姦婦い」 はたけ 前を迎ふのだから、當座は隨分愛しも爲るだらうが、共が長く續く 其聲と與に貫一は脚を擧げて宮の弱腰を礑と錫たり。地響して横 まろ ものか、財が有るから好きな眞似も出來る。他の樂に氣が移って、 様に轉びしが、なか / 、聲をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまゝ ぢき 直にお前の戀は冷されて了ふのは判って居る。其時になってのお前砂の上に泣伏したり。貫一は猛獸などを撃ちたるやうに、彼の身動 こ、ろもち たふ の心地を考へて御覽、那の富山の財産が共苦を拯ふかい。家に澤山も得爲ず弱々と僵れたるを「なほ憎さげに見遣りつゝ、 かね の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になって居ても、お前はそ 「宮、おのれ、おのれ姦婦、やいー 貴様のな、心變をしたばかり はざま れで樂かい、滿足かい。 に間貫一の男一匹はな、失望の極發狂して、大事の一生を誤って了 僕が人にお前を奪られる無念は謂ふまでも無いけれど、三年の後ふのだ。學問も何ももう震た。此恨の爲に貫一は生きながら惡魔に くら のお前の後悔が目に見えて、心變をした憎いお前ちゃあるけれど、 なって、貴樣のやうな畜生の肉を啖ってる覺悟だ。富山の令 : やつばり 猶且可哀さうでならんから、僕は眞實で言ふのだ。 令夫 : ・ : ・令夫人 ! もう一生お目には掛らんから、共顏を擧げて、 僕に飽きて富山に惚れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も眞人間で居る内の貫一の面を好く見て置かないかい。長々の御恩に みい をぢ をば 言はんけれど、宮さん、お前は唯立派な所へ嫁くといふ共ばかりに預った翁さん姨さんには一目會って段々の御禮を申上げなければ濟 迷はされて居るのだから、共は過ってゐる、共は實に過ってゐる、 まんのでありますけれど、仔細あって貫一は此儘長の御暇を致しま つまり みい 愛情の無い結婚は究竟自他の後悔だよ。今夜此場のお前の分別一つすから、隨分お逹者で御機嫌よろしう : : : 宮さん、お前から好く然 みい で、お前の一生の苦樂は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が う言っておくれ、よ、若し貫一は如何したとお訊ねなすったら、あ 大事と思ふなら、又貫一も不便だと思って、賴む ! 賴むから、もの大馬鹿者は一月十七日の晩に氣が違って、熱海の濱邊から行方知 う一度分別を爲直してくれないか。 れずになって了ったと : かひ 七千圓の財産と貫一が學士とは、二人の幸を保つには十分だよ。 宮は矢庭に蹶起きて、立たんと爲れば脚の痛に脆くも倒れて効無 今でさへも隨分二人は幸輻ではないか、男の僕でさへ、お前が在れきを、漸く這寄りて貫一の脚に縋付き、聲と涙とを爭ひて、 うらやまし ば富山の財産などを可羨いとは更に思はんのに、宮さん、お前は如 「貫一さん、ま : : : ま : : : 待って下さい。貴方これから何・ : : 何處 何したのだ ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛くは思はんのかい。」 へ行くのよ。」 すく きぬはだ はづか 彼は危きを拯はんとする如く犇と宮に取着きて、匂滴る乂頸元に 貫一は有繋に驚けり、宮が衣の披けて雪可羞しく露せる膝頭は、 沸ゆる涙を濺ぎつ長、蘆の枯葉の風に揉るゝゃうに身を顫せり。宮 夥しく血に染みて顫ふなりき。 むせびたき も離れじと抱緊めて諸共に顫ひっ、貫一が臂を咬みて咽泣に泣け 「や、怪我をしたか。」 寄らんとするを宮は支へて、 こんな かま 「鳴呼、私は如何したら可からう ! 若し私が彼方へ嫁ったら、貫「え乂、這麼事は管はないから、貴方は何處へ行くのよ。話がある 一さんは如何するの、それを聞かして下さいな。」 から今夜は一所に歸って下さい、よう、貫一さん、後生だから。」 かね さま はねお どう

3. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

「相違ありません ! 」 夜會結に爲たる後姿の女は躍り被って引据れば、 「屹度 ? 」 「あれ、貫、貫一さん ! 」 すくひ 採を求むる共聲に、貫一は身も消入るやうに覺えたり。彼は念頭 「共の證據をお見せ下さいまし。」 を去らざりし宮ならずや。七生まで共願は聽かじと郤けたる滿枝 の、じ 「證據を ? 」 くちさを」 の、我の辛さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけん あれど 「はあ。口頭ばかりでは私可厭で御座います。貴方も那程確に有仰 を、独慊らで我が前に責むる乎と、貫一は怺〈かねて顫ひ居たり。 ったのですから、萬更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いま滿枝は縱まに宮を捉〈て些も動かせず、徐に貫一を見返りて、 はざま すまい、然やうなら其だけの證據が有る譯です。共の證據を見せて 「間さん、貴方のお大事の戀人と云ふのは是で御座いませう。」 おもて 下さいますか。」 頸髮取って宮が面を引立て、 「見せられる者なら見せますけれど。」 「此女で御座いませう。」 「見せて下さいますか。」 「貫一さん、私は悔しう御座んす。此人は貴方の奥さんですか。」 どう 「見ぜられる者なら。然し : : : 。」 「私奥さんなら奈何したのですか。」 「いゝえ、貴方が見せて下さる思召ならば、 すはや 「貫一さん ! 」 驚破、障子を推開きて、貫一は露けき庭に躍り下りぬ。衝と共迹 彼は足擦して叫びぬ。滿枝は直ちに推伏せて、 やかま に顯れたる滿枝の面は、斜に葉越の月の冷き影を帶びながら仍火の 「え長、聒しい ! 貫一さんは共處に一人居たら澤山ではありませ 如く燃えに燃えたり。 んか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し靜に して聽いてお在なさい。 つまりかう 間さん、私想ふのですね、究竟恁云ふ女が貴方に腐れ付いて居れ こと ばこそ、甚麼に申しても私の言は取上げては下さらんので御座いま そんな 家の内には己と老婢との外に、今客も在らざるに、女の泣く聲、 いはれ せう。貴方は那様に未練がお有り遊ばしても、元此女は貴方を棄て よそ 詬る聲の聞ゆるは甚だ謂無し、我或は夢むるにあらずやと疑ひっ て、餘所〈嫁に入って了ったやうな、實に畜生にも劣った薄情者な あんま つ、貫一は枕せる頭を擡げて耳を澄せり。 のでは御座いませんか。 けはひ ふすま 私善く存じて居ますわ。貴方餘り男 共聲は急に噪しく、相爭ふ氣勢さ〈して、はた / \ と紙門を犇か はねの らしくなくてお在なさる。それは如何にお可愛いのか存じませんけ すは、愈よ怪しと夜着排却けて起ち行かんとする時、ばっさり紙門 めききまろ れど、一旦愛相を盡して迯げて行った女を、いつまでも思込んで遲 夜の倒るゝと齊しく、二人の女の姿は貫一が目前に轉び出でぬ。苛ま遲して被るとは、まあ何たる不見識な事でせう , ・貴方はそれで こんな れしと見ゆる方の髪は浮藻の如く亂れて、着たるコオトは雫するば も男子です乎。私なら這女は一息に刺殺して了ふのです。」 はねかへ かり雨に濡れたり。共人は起上り様に男の顏を見て、嬉しや、可懷 宮は跂返さんと爲しが、又抑へられて聲も立てず。 はざま しやと心も空なる氣色。 3 「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義の 「貫一さん ! 」 と匐ひ寄らんとするを、薄色魚子の羽織着て、 と、實に立派な口上を有仰いましたでは御座いませんか。共程義の いや な、こ あきた いで いで ひをチう

4. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

のけぞ たる急所、一聲號びて仰反る滿枝。鮮血 ! 兇器 ! 殺傷 ! 死ん。 ばちあた 體 ! 亂心 ! 重罪 ! 貫一は目も眩れ、心も消ゆるばかりなり。 而して迚も此の罰の中ったでは、今更左右と思っても、願なん おもひじに 宮は犇と寄添ひて、 ぞの悩ふと云ふのは愚な事、未だみ、憂目を見た上に思死に死にで 「もう此上は奈何で私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴も爲なければ、私のは滅しないのでせうから、此世に未練は澤山 方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦された積で喜ん有るけれど、私は早く死んで、此苦艱を埋めて了って、而して早く きょ で死にますから。貴方もどうぞ共でもう堪忍して、今迄の恨は霽し元の淨い嶇に生れ替って來たいのです。然う爲たら、私は今度の世 どんな て下さいまし、よう、貫一さん。私が這麼に思って死んだ後まで には、甚麼艱難辛苦を爲ても屹度貴方に添遂げて、此胸に一杯思っ いきかはりしにかはり すツかり も、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替死替して七生まで て居る事も悉皆善く聽いて戴き、又此世で爲遺した事も共時は十分 貫一さんを怨みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴に爲てお目に掛けて、必ず貴方にも悅ばれ、自分も嬉しい思を爲 方の口からお念佛を唱へて、之で一思ひに、さあ貫一さん、殺して て、此の上も無い樂い一生を送る氣です。今度の世には、貫一さ あんな 下さい。」 ん、私は決して那麼不心得は爲ませんから、貴方も私の事を忘れず たっか 朱に染みたる白刄をば貫一が手に持添〈っゝ、宮は其の可懷しきに居て下さい。可うござんすか ! 屹度忘れずに居て下さいよ。 おもひっ 拳に頻回頬擦したり。 人は最期の一念で生を引くと云ふから、私は此事ばかり思窮めて 「私は是で死んで了〈ば、もう二度と此世でお目に掛ることは無い死にます。貫一さん、此通だから堪忍して ! 」 きは きッさき のですから、せめて一遍の回向をして下さると思って、今はの際で 聲震はせて縋ると見れば、宮は男の膝の上なる鋩目掛けて岸破 どんな 唯一言赦して遣ると有仰って下さい。生きて居る内こそ甚麼にも憎と伏したり。 それッきり くお思ひでせうけれど、死んで了へば共限、罪も恨も殘らず消えて 「や、行ったな ! 」 かう つんざ 土に成って了ふのです。私は恁して前非を後悔して、貴方の前で潔 貫一が胸は劈けて始て此聲を出せるなり。 く命を捨てるのも、共の御詫が爲たいばかりなのですから、貫一さ 「貫一さん ! 」 これまで のんど ん、既往の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。 無殘ゃな、振仰ぐ宮が喉は血に塗れて、刄の半を貫けるなり。彼 みひら よう、貫一さん、貫一さん ! は共手を放たで苦しき眼を糶きっゝ、男の顔を視んと爲るを、貫一 あのとき そゞろ 今思へば、那時の不心得が實に悔しくて / \ 、私は何とも謂ひやは氣も漫に引抱へて、 こば うが無い ! 貴方が涙を零して言って下すった事も覺えて居ます。 「これ宮、貴様は、まあ : : : 是は何事だ ! 」 おもひあた ちと 後來屹度思中るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの聲も、今だに 大事の刄を拔取らんと爲れど、一念凝りて些も弛めぬ女の力。 なぜあのときすこし 夜耳に付いて居るわ。私は一圖の迷とは謂ひながら何爲那時に些少で 「之を放せ、よ、之を放さんか。さあ、放せと言ふに、えゝ、何爲 も氣が着かなかった乎。愚な自分を責めるより外は無いけれど、死放さんのだ。」 こんなとりかへし んでも這麼回復の付かない事を何で私は爲ましたらう ! 貫一さ 「貫、貫一さん。」 ばちあた ん、貴方の罰が中ったわ ! 私は生きて居る空が無い程、貴方の罰 「お長、何だ。」 が中ったのだわ ! だから、もう是で堪忍して下さい、よ、貫一さ 「私は嬉しい。もう : さけ みかう かな ・ : もう思遺す事は無い。堪忍して下すったの どうかう

5. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

3 イ 6 て呻きながらも ですね。」 「宮、待て ! 言ふことが有るから待て ! 盟、豐 ! 豐は居ない 「まあ、此手を放せ。」 「放さない ! 私は是で安心して死ぬのです。貫一さん、あゝ、もか。早く追掛けて宮を留めろ ! 」 呼べど號べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅の如く う氣が遠く成って來たから、早く、早く、赦すと言って聞かせて下 あたり いそがは おきかへ 憤りて起ちしが、又仆れぬ。仆れしを漸く起回りて、忙々しく四下 さい。赦すと、赦すと言って ! 」 おだまき おと みまは くらま 血は滾々と益す流れて、末期の影は次第に黷く逼れる氣色。貫一を拘せど、はや宮の影は在らず。其の歩々に委せし血は苧環の絲を 曳きたるやうに長く連りて、疊より縁に、縁より庭に、庭より外に は見るにも堪へず心亂れて、 何處まで、彼は重傷を負ひて行くならん。 「これ、宮、確乎しろよ。」 かく いたみ 盤石を曳くより苦しく貫一は膝の疼痛を怺へ / \ て、左にも右に 「あい。」 よろぼ も塀外にひ出づれば、宮は未だ遠くも行かず、有明の月冷かに夜 「赦したぞ ! もう赦した、もう堪 : : : 堪・ : : ・堪忍・ : : ・した ! 」 さきりこ は水の若く白みて、ほのみ \ と狹霧罩めたる大路の寂として物の影 「貫一さん ! 」 あたり 無き邊を、唯獨り覺東無げに走れるなり。 「宮 ! 待て ! 」 「嬉しい ! 私は嬉しい ! 」 こたま ことば 呼べば谺は返せども、雲は幽にして彼は應〈ず、を作して貫 貫一は唯胸も張裂けぬ可く覺えて、言は出でず、抱き緊めたる宮 一は後を追ひぬ。 が顔をば紛り下っる熱湯の涙に浸して、共の冷たき唇を貪り吮ひ あはひいくばく つばき 固より間は幾許も有らざるに、急所の血を出せる女の足取、引捉 ぬ。宮は男の唾を口移に辛くも喉を潤して、 ふるに何程の事有らん、と侮りしに相違して、彼は始の如く走るに 「それなら貫一さん、私は、吁、苦しいから、もう是で一思ひに ちかづ こなた つか 引易へ、此方は漸く息疲るに及べども、距離は竟に依然として近 しの えぐ く能はず。這は口惜し、と貫一は滿身の力を勵し、にる又ならば僵 と力を出して刳らんと爲るを、緊と抑へて貫一は、 かく れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱る長ほどに、帶は忽ち颯と釋 左も右も此手を放せ。」 「待て、待て / 、ー よろめ つまづ けはら けて脚に絡ふを、右に左に錫拂ひっ曳、跌きては進み、行きては踉 「いえ、止めずに、」 き、彼もはやカは竭きたりと見えながら、如何に爲ん、共處に伏し 「待てと言ふに。」 また み・つから て復起きざる時、躬も終に及ばずして此處に絶入せんと思へば、 「早く死にたい ! 」 まろ 漸く刀を捗放せば、宮は忽ち身を回して、輾けっ轉びつ座敷の外貫一は今に當りて纔に聲を揚ぐるの術を餘すのみ。 あへき のが 「宮 ! 」と奮って呼びしかど、憫むべし、其聲は苦しき喘の如 に脱れ出づるを、 あせ き者なりき。我と吾肉を啖はんと想ふばかりに躁れども、貫一は既 「宮、何處へ行く ! 」 いかりな かひな 遣らじと伸べし腕は逮ばず、苛って起ちし貫一は雎一擱と躍り被に聲を立つべき力をさ〈失〈るなり。さては効無き己に憤を作し れば、生憎滿枝が死骸に躓き、一間許投げられたる其處の敷居に膝て、益す休まず狂呼すれば、彼の吭は終に破れて、汨然として一涌 の鮮紅を嘔出せり 頭を碎けんばかり強く打れて、躇りしまゝに起きも得ず、身を竦め はふ しツかり のめ いか いたで こた ぜっにふ

6. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

あた 忽ち兵營の門前に方りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者に異らず。 はなち つばまぶか に圍れたるなり。一人は黒の中折帽の鐔を目深に引下し、鼠色の毛梹「お大變な衂ですぜ。」 しか 絲の衿卷に半面を裹み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの 貫一は息も絶々ながら緊と鞄を掻抱き、右の逆手に小刀を隱し持 したばき しりからげ 下穿高々と尻褻して、黒足袋に木裏の雪踏を履き、六分強なる色木ちて、此上にも狼藉に及はゞ爲んやう有りと、油斷を計りて故と爲 ひたうめ の弓の折を杖にしたり。他は盲縞の股引腹掛に、唐棧の半纒着て、 す無き躰を裝ひ、直呻きにぞ呻き居たる。 けづり 弓「愴い奴じゃ。然し、隨分撲ったの。」 茶ヅックの深靴を穿ち、衿卷の頬冠に鳥撃帽子を頂きて、六角に削 びんらうじ ひんだ みのたけ 成したる梹榔子の逞しきステッキを引抱き、いづれも身材貫一より梹「え曳、手が痛くなって了ひました。」 わかもの 弓「もう引揚げやう。」 は低けれど、血氣腕カ兼備と見えたる壯佼どもなり。 「物取か。恨を受ける覺は無いぞ ! 」 恁て曲者は間近の橫町に入りぬ。辛うじて面を擡げ得たりし貫一 いたみ 「默れ ! 」と弓の折の寄るを、貫一は片手に障へて、 は、一時に發せる全身の疼痛に、精禪漸く亂れて、屡ば前後を覺え あひて 「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手にならう。物取なざらんとす。 かねく らば財は與れる。譯も言はずに無法千萬な、待たんか ! 」 ふりおろ めくるめ たかに、はっし 答は無くて揮下したる弓の折は貫一が高頬を發矢と打つ。眩き びんらうじ くたん っゝも迯行くを、猛然と追迫れる梹榔子は、件の杖もて片手安に肩 こた の邊を曳と突いたり。蹈み耐へんとせし貫一は水道工事の鐵に跌 はや きて仆る又を、得たりと附入る曲者は、餘に躁りて貫一の仆れたる つま・つ あなたはずみ に又跌き、一間ばかりの彼方に反跳を打ちて投飛されぬ。入替りて 第一章 そびら 一番手の弓の折は貫一の背を袈裟掛に打据ゑければ、起きも得せ アイス で、崩折るゝを、疊みかけんとする隙に、手元に脱捨てたりし駒下 翌々日の諸新聞は坂町に於ける高利貸遭難の一件を報道せり。中 ちゃう ひるその 駄を取るより早く、彼の面を望みて投げたるが、丁と中りて痿む爾に間貫一を誤りて鰐淵直行と爲るもありしが、負傷者は翌日大學第 こ はねお ・をど 時、貫一は蹶起きて三歩ばかりも逍れしを、打轉けし梹榔子の躍り二醫院に入院したりとのみは、一様に事實の眞を傅ふるなりけり。 をがみうち ちぎ 蒐りて、拜打に下せる杖は小鬢を掠り、肩を辷りて、鞄持つ手を斷然れど共人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。 れんとすばかりに撲ちけるを、辛くも忍びて衝と退きながら身構し彼等を識らざる讀者は湯屋の喧嘩も同じく三面の記事の常套として めつぶしくら あびて 叉が、目潰吃ひし一番の怒を作して奮進し來るを見るより今は危し看過すべく、何の遑か其の敵手の誰々なるを間はん。識れる者は恐 夜と鞄の中なる小刀撈りつ曳馳出づるを、輙く肉薄せる二人が笞はくは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利かずなるまで撃蹐されざりしを 金雨の如く、所嫌はぬ滅多打に、彼は敢無くも昏倒せるなり。 本意無く思へるなるべし、又或者は彼の死せざりしをも物足らず どう 梹「奈何です、もう可いに爲ませうか。」 覺ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣よ こいっ り爲せる業ならんとは、諸新聞の記せる如く、人も皆思ふ所なりけ た弓「此奴おれの鼻面へ下駄を打着けよった、あゝ、痛。」 たうがらしつ 2 衿卷蜷除けて彼の撫でたる鼻は朱に染みて、西洋蕃椒の熟えたる とき つま・つ 0 てい ノ わざ

7. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

お堅い貴方なら、何爲這医淫亂の人非人を阿容活けてお置き遊ばす「あれ、貫一さん ! 」 と滿枝の手首に縋れるま一心不亂の力を極めて捩伏せ のけざま のですか。それでは私〈の口上に對しても、貴方男子の一分が立た 仰様に推重りて仆したり。 んで御座いませう。 何爲成敗は遊ばしません。さあ、私決してもう一一度と貴方には何「貫、貫一さん、早く、早く此刀を取 0 て下さ」。而して私を殺し も申しませんから、貴方も此女を見事に成敗遊ばしまし。然もなけて下さいーー貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛っ て死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方 礼ば、私も立ちませんです。 の手に掛って死にたいのですから、後生たから一思ひに殺して下さ 間さん、奈何遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴 すくひ あやし 方も男子の一分をお立てなさらんければ濟まん所では御座いません 此の恐るべき危機に瀕して、貫一は謂知らず自ら異くも、敢て拯 か。私此で拜見致して居りますから、立派に潰って御覽あそばせ。 の手を藉さんと爲るにもあらで、而も見るには堪〈ずして、空しく ふたり 卒と云ふ場で貴方の腕が鈍っても、決して爲損じの無いやうに、 悶〈に悶〈居たり。必死と爭〈る兩箇が手中の刄は、或は高く、或 いッこう 私好い刄物をお貸し申しませう。さあ、間さん、之をお持ち遊ば は低く、右に左に閃々として、恰も一鉤の新月白く風の柳を縫ふに きらめ どう 彼の懷を出でたるは鑞塗の晃く一口の短刀なり。貫一は其の殺氣似たり。 「貫一さん、貴方は私を見殺になさるのですか。奈何でも此女の手 に撲れて一指を得動かさず、空しく眼を耀して滿枝の面を睨みた に掛けて殺すのですか ! 私は命は惜くはないが、此女に殺される り。宮ははや氣死せる乎、推伏せられたるまゝに聲も無し。 「さあ、私恁して抑〈て居りますから、吭なり胸なり、ぐっと一突のは悔しい ! 悔しいリ私は悔しいⅢ」 五體を揉みて、唇の血を 彼は亂せる髮を夜叉の如く打振り / 、、 に遣ってお了ひ遊ばせ。え乂、もう貴方は何を遲々して被居るので 噴きぬ。 と す。刀の持様さ〈御存じ無いのですか、恁して拔いて ! 」 彼も殺さじ、是も傷けじと、貫一が胸は車輪の廻るが若くなれ と片手ながらに一揮揮れば、鞘は發矢と飛散って、電光袂を廻る ど、如何にせん、共身は内より不思議の力に緊縛せられたるやうに ゆるぎ 白刄の影は、忽ち飜って貫一が面上三寸の處に落來れり て、逸れど、躁れど、寸分の微搖を得ず、せめては聲を立てんと爲 のんど 「之で突けば可いのです。」 れば、吭は又塞りて、銕丸を啣める想。 こんな 力も今は絶々に、はや危しと宮は血聲を揚げて、 「さては貴方は這医女に未だ米練が有って、息の根を止めるのが惜 くて被居るので御座」ますね。殺して了はうと思ひながら、手を下「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫 す事が出來んのですね。私代 0 て殺して上げはせう。何の雜作も無一さん、此刀を取って、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さ ちょッ ん、後生です、さ、さ、さあ取って下さい。」 からり はずみ い事。些と御覽あそばせな。」 又激しく捩合ふ郤含に、短刀は戞然と落ちて、貫一が前なる疊に 言下に忽焉と消えし刄の光は、早くも宮が亂鬢を掠めて顯れぬ。 呀と貫一の號ぶ時、妙くも彼は跂起きざまに突來る蹼を危く外突立 0 たり。宮は虚さず躍り被りて、我物得 0 と手に爲れば、潰ら じと滿枝の組付くを、推隔つる腋の下より後突に、も透れと刺し して、 くや

8. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

さきだ はざま 當時彼爾十五歳ながら間の戸主は學ぶに先ちて食ふべき急に迫られ 宮はシオールを搖上げて鼻の半まで掩隱しつ。 さきだ さきだ 8 ぬ。幼き戸主の學ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては 「あゝ寒い ! 」 さきだ はうむり そばたひた 葬すべき急、猶之に先ちては看護醫蘂の急ありしにあらずや。自 り。宮は猶默して歩めり 男は肩を峙てゝ直と彼に寄添へ 活すべくもあらぬ幼き者の如何にして是等の急を救得しか、固より 「あゝ寒いⅡ」 ひとっ なほ 貫一がカの能ふべきにあらず、鴫澤隆三の身一個に引受けて萬端の 宮は仍答へず。 みなしご 世話せしに因るなり。孤兒の父は隆三の恩人にて、彼は聊か共舊徳 「あゝ寒いⅢ」 に報ゆるが爲に、啻に共病めりし時に扶助せしのみならず、常に心 彼は此時始めて男の方を見向きて、 着けては貫一の月謝をさへ間支辨したり。恁くて貧き父を亡ひし孤 「如何したの。」 うしろみ 兒は富める後見を得て鴫澤の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆる 「あゝ寒い。」 あつばれ とかく あきた に共短き生時を以て慊らず思ひければ、左右は其忘形見を天晴人と 「あら可厭ね、如何したの。」 成して、彼の一日も忘れざりし志を繼がんとせるなり。 「寒くて耐らんから共中へ一處に入れ給へ。」 亡き人常に言ひけるは、苟くも侍の家に生れながら、何の面目あ 「何の中へ。」 りて我子貫一をも人に侮らすべきや。彼は學士となして、願くば再 「シオールの中へ。」 ことば かみ をかし び四民の上に立たしめん。貫一は不斷に此言を以て警められ、隆三 「可笑い、可厭だわ。」 にはか ものい 男は逸早く彼の押〈しシオールの片端を奪ひて、共中に身を容れは會ふ毎に亦此言を以て喞たれしなり。彼は言ふ遑だに無くて暴に みまか 歿りけれども、共の常にロにせし所は明かに彼の遺言なるべきの たり。宮は歩み得ぬまでに笑ひて、 むかふ くわんいち 「あら貫一さん、是ぢや切なくて歩けやしない。あゝ、前面から人み。 ひそか 然れば貫一が鴫澤の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰 が來てよ。」 なまし まか たはむれな に疎まる乂如き憂目に遭ふにはあらざりき。憖ひ繼子などに生れた 恁る戲を作して憚らず、女も爲すまゝに信せて咎めざる彼等の いかばかり かく はざまくわんいち しぎさは いかに らんよりは、恁て在りなんこそ幾許か幸は多からんよ、と知る人は 關繋は抑も如何。事情ありて十年來鴫澤に寄寓せる此の間貫一は、 おろそか めあは 尊し合へり。隆三夫婦は實に彼を恩人の忘形見として疎ならず取 今年の夏大學に入るを待ちて、宮が妻せらるべき人なり。 扱ひけるなり。然ばかり彼の愛せらるゝを見て、彼等は貫一をば娘 の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、當時彼等は構へて 第三章 然る心ありしにはあらざりけるも、彼の篤學なるを見るに及びて、 間貫一の十年來鴫澤の家に寄寓せるは、怙る所無くて養はる又な漸く其心は出で來て、彼の高等中學校に入りし時、彼等の了簡は始 さたま いとけな り。母は彼の幼かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中學を卒業すめて定りぬ。 とも なげき 貫一は篤學のみならず、性質も直に、行も正しかりければ、此人 るを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆の中に父を葬ると與 物を以って學士の冠を戴かんには、誠に獲易からざる婿なるべし、 父在り に、己が前途の望をさへ葬らざる可からざる不幸に遭へり。 ひそか と夫婦は私に喜びたり。此身代を讓られたりとて、他姓を冒して得 し日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦しき痩世帶なりけるを、 どう せつ なかばおほひ かこ いまし

9. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

あすあさってやすみ 「敎場に普請を爲る所があるので、今日半日と明日明後日と休課に彼は貫一に就いて半點の疑ひをも容れず、唯變くまでも娩しき宮に なったものですから。」 心を遺して行けり。 しばら ふた 「おや、然うかい。」 共後影を透すばかりに目戍れる貫一は我を忘れて姑く佇めり。兩 こら ことば むな 唯繼と貫一とを左右に受けたる母親の絶體絶命は、過ちて野中の個は共心を測りかねて、言も出でず、息をさへ凝して、空しく早瀬 かしまし 古井に落ちたる人の、沈みも果てず、上りも得爲ず、命の綱と危くの音の聒きを聽くのみなりけり。 いと た たとへ も取縋りたる草の根を、鼠の來りて囓むに遭ふと云へる比喩に最能 旋て此方を向きたる貫一は、尋常ならず激して血の色を失へる面 わづかゑみ く似たり。如何に爲べきかと或は懼れ、或は惑ひたりしが、終に共上に、多からんとすれども能はずと見ゆる微少の笑を洩して、 みい かるた ダイアモンド の免るまじきを知りて、彼はやう / \ 胸を定めつ。 「宮さん、今の奴は此間の骨牌に來て居た金剛石だね。」 まね 「丁度宅から人が參りましてございますから、甚だ勝手がましうご 宮は俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざる爲して、折しも啼ける鶯の ども あざわら ざいますが、私等は是から宿へ歸りますでございますから、いづれ木の間を窺へり。貫一は此體を見て更に嗤笑ひつ。 後程伺ひに出ますでございますが・ 「夜見たら共程でもなかったが、晝間見ると實に氣障な奴だね。而 して如何だ ! あの高慢ちきの面は ! 」 「はあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に歸れるやうな にはか 都合になりますな。」 「貫一さん。」母は卒に呼びかけたり。 「はい。」 「はい、話の模様に因りましては、然やう願はれるかも知れません ので、いづれ後程には是非伺ひまして、 「お前さん翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は。」 「はい。」 「成程、それでは殘念ですが、私も散歩は罷めます、散歩は罷めて 是から歸ります。歸ってお待申して居ますから、後に是非お出下さ 「あゝ、そんなら可いけれど、不斷のお前さんにも似合はない、那 様人の悪口などを言ふものぢゃありませんよ。」 いよ。宜しいですか、お宮さん、それでは後に屹度お出なさいよ。 「はい。」 誠に今日は殘念でありますな。」 彼は行かんとして、更に宮の傍近く寄來て、 「さあ、もう歸りませう。お前さんもお草臥だらうから、お湯にで おひるまへ も入って、而して未だ御午餐前なのでせう。」 「貴方、屹度後にお出なさいよ、え。」 まばたせ 「いえ汽車の中で鮨を食べました。」 貫一は瞬き爲で視て居たり。宮は窮して彼に會釋さへ爲かねつ。 あゆみはし オゾーコート はづかしさ したたる ねぢ 娘氣の可羞に恁くあるとのみ思へる唯繼は、益寄添ひっゝ、舌怠き 三人は倶に歩始めぬ。貫一は外套の肩を拂はれて、後を捻向け おもて ことば ば官と面を合せたり。 叉までに語を和げて、 「共處に花が粘いてゐたから取ったのよ。」 夜「宜しいですか、來なくては可けませんよ。私待って居ますから。」 ねめつ 色 貫一の眼は燃ゆるが如き色を作して、宮の横顔を睨着けたり。彼「それは難有うⅢ」 は懼れて傍目をも轉らざりけれど、必ず然あるべきを想ひて獨り心 幻を慄かせしが、唯繼の如何なることを言出でんも知られずと思へ かく 2 ば、左にも右にも其場を繕ひぬ。母子の爲には幾許の幸なりけん、 をのゝ いかばかり て いと さう そん

10. 日本現代文學全集・講談社版5 尾崎紅葉集

「さあ、早く歸れ ! 」 「然やうで御座いますか。では此方へ。」 芻主の本意ならじとは念ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭に案「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日の所は奈何とも堪 内せり。昨夜の收めざる蓐の内に貫一は着のまゝ打仆れて、夜着も忍して、打つなり、毆くなり貫一さんの勝手にして、然して少小で かしら も機嫌を直して、私のお詫に來た譯を聞いて下さい。」 掻卷もの方に蹴放し、枕は辛うじて共端に幾度か置易られし頭を 「えゝ、煩い ! 」 載せたり。 ひざもと おきかへ 思ひも懸けず宮の入來るを見て、起回らんとせし彼の膝下に、早「それちゃ打っとも毆くともして : ・ まろ 身悶して宮の縋るを、 くも女の轉び來て、立たんと爲れば袂を執り、猶も犇と寄添ひて、 そんな 「那樣事で俺の胸が霽れると想って居るか、殺しても慊らんのだ。」 物をも言はず泣伏したり。 「え \ 殺れても可い ! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して 「えゝ、何の眞似だ ! 」 貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了った方が可いのですか 突返さんとする男の手を、宮は兩手に抱き緊めて、 ら。」 「貫一さん ! 」 にちしらす 「自分で死ね ! 」 いやし 「何を爲る、此の恥不知 ! 」 彼は自ら手を下して、此身を殺すさへ屑からずとまでに己を鄙 「私が悪かったのですから、堪忍して下さいまし。」 やかま むなる乎、餘に辛しと宮は唇を咬みぬ。 「え、聒しい ! 此を放さんか。」 「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見とも無い態を爲ず 「貫一さん ! 」 に何爲死ぬ迄立派に棄て通さんのだ。」 「放さんかと言ふに、え、もう ! 」 ふたり 「私は始から貴方を棄てる氣などは有りはしません。それだから篤 其身を楯に宮は放さじと爭ひて瓮す放さず、兩箇が顔は互に息の りとお話を爲たいのです。死んで了へとお言ひでなくとも、私はも 涌はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見じと誓〈る共人の顔の、 なは えん おのれ眺めたりし色は疾く失せて、誰ゅゑ今の別に黏なるも、仍形う疾から自分ちや生きて居るとは思って居ません。」 「那様事聞きたくはない。さあ、もう歸れと言ったら歸らんか ! 」 のみは變らずして、實に彼の宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何にし どんな まも ひま 「歸りません ! 私は甚麼事しても此儘ちゃ : : : 歸れません。」 て此に逢へる ! 貫一は其胸の夢むる間に現ともなく彼を矚れり。 宮は男の手をば益す弛めず、益す激する心の中には、夫もあら ひたぶる 宮は殆ど情極りて、纔に狂せざるを得たるのみ。 彼は人の頭より大いなるダイアモンドを乞ふが爲に、此の貫一のず、世間もあらずなりて、唯此の命に易ふる者を失はじと一向に思 手を把る手をは釋かざらん。大いなるダイアモンド乎、幾許大いな入るなり。 折から縁に足音するは、老婢の來るならんと、貫一は取られたる るダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知り かたち ちと いかに ぬ。彼の持たるダイアモンドは然ぜる大いなる者ならざれど、共棄手を引放たんとすれど、這は如何、宮は些も弛めざるのみか、其容 去りし人の誠は量無きものなりしが、嗟乎、今何處に在りや。其のをだに改めんと爲ず。果して足音は紙門の外に逼れり。 むな 嘗て誠を惠みし手は冷かに殘れり。空しく共手を抱きて泣かんが爲「これ、人が來る。」 いかばかり に來れる宮が悔は、實に幾許大いなる者ならん。 こ、 こちら ちいさ ひし いかばかり いさぎよ どう