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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集
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1. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

人のはそれよりも獨程度を進めたるなり。斯く句法の變化するに至 植込のつじ山吹姫小松 碧梧桐 町りたる原因を尋ぬれば 桃の木や土黑うして麥の畑 古來ありふれたる五七五調に飽きて新調を得んと欲したること 鶯や押上町の家の梅 複雜なる趣向を詠ぜんとしたること 夏木立深うして見ゆる天王寺 印象を明暸ならしめんとしたること 涼む子等床儿舁き行く川の中 新事物を詠ぜんとしたること 強飯や暮秋人稀に野の小店 の四箇條に歸すべきが如し。 松蟲や道放にして友死したる 舊に飽き新を望むは人情の常なり。況して比較的に多くの俳句を 爭ひは白菊分っ黄菊かな 見、比較的に多くの俳句を作りて單調に飽きたる一一人が、月並宗匠 植込の句の名詞多き、土黒うしてといへる形容の細なる、鶯の句 連の如く古例を奪崇ぜず、却ていづこにか古人未開の地を得て自己の名詞多き、皆印象を明にしたる者なり。 の詩想を花喙かんとする二人が、今日に在りて此新調を成すは固 夏木立の句の「深うして見ゆる」と八字に長くしたるは或は不必 より怪むに足らざるなり。 要なりとの評もあらん、「深く見ゆる」と短く言ひて可なりとの説 複雜なる趣向を詠ぜんとしたることは前にも言へるが如し。趣向もあらん。されども此句は「深うして」と長く言ひて始めて此句が 複雜なれば文字自ら多くなること論を竢たず。文字多くなれば五七現さんとする印象を明暸ならしむるなり。言ひ換ふれば「深く」と 五の調は自ら破る、なり。且っ複雜なる事を現さんとすれば短き言 いひたると「深うして」といへると少し異なりたる光景を示すな 語、短き句法を用ふるの必要あり。漢語及び漢文法は此必要に應ずり。野は「深く」といふよりも「深うして」といふ方、木立が一層 るために用ゐられしなり。助辭少くして名詞多きもこれがためな深く見ゆることにして、此場合には一層深く見ゆる方、趣味多し。 蓋し俳句の趣向が包含する空間の廣狹は、自ら共空間を現すべき文 印象を明暸ならしめんとしたることも前に言へり。印象を明暸な字が占め得たる空間の廣狄、又は其空間を現すべき言語が占め得た らしめんとすれば共客観の光景中に在る者は成るべく多く之を現さ る時間の長短と關係あり。「深うして」と文字を多くし聲を永くす ざるべからず、又其事物の位置と形从と運動との模様は成るべく細れば趣向中の空間も自ら廣く深く見ゆるやうに感ずるなり。 かに之を言はざるべからず。さてこそ自ら文字多くなれるものな 涼む子等の句は名詞多く句法詰まりて印象明に、強飯の句は稍よ れ。さてこそ助辭少くして名詞、形容詞多くもなれるものなれ。 複雜なる趣向を詠じたるために長句法を取れり。 明治時代の新事物の名稱には漢語 ( 又は洋語 ) を用ふること多 松蟲の句は「道放にして」といひ「友死したる」といひし句法新 し。故に其事物を詠ぜんとすれば勢ひ漢語を用ゐざるべからず、從奇にして碧虚二人屡よ之を用ふ。「旅にして」とばかり言ひて可な って漢語の多きを致すなり。然れども新事物を詠ずるは二人の創始 り、「道 . の字は不用なりとの説もあるべけれど、こには道の字 する所に非ず、此一箇條は此論には關係少し。 ( 新事物を詠ぜんと最も必要なり。若し旅にして友死すとのみ言はゞ同行の友が旅籠屋 試みたるは鳴雪も吾も碧虚一一人に先だてりと覺ゅ ) にて死したるか、或は己は遠地に在りて族行中の友の訃に接したる ある 例句は多く前に擧げたりといへども、猶こに數句を補ひつ。 かの事となるべし。此句意は旅路を歩行きっゝある間に道にて同行 ロ目目ロ自目ロ

2. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

326 る所なり。例へば 栩堂 病起婢を呼び僂を呼び春の風 同 病起小春の綠に出でつ の病起の如し。併しこは「病起」と讀みきって少しく時間を置いて 更に次の句を讀むやうにすれば音調に於て五字句と大差無し。作者 の意は知らず。又 感あり十二月何日としるす 極堂 の如き初四字なるもあり。 牛件は學ばずして俳句を善くす、亦巧緻なり。句法は成るべくた るみ無きゃうに作る、故に「や」「かな」等の切字太だ少し。昨春 藤紫に明けっ乂じ紅にタす 牛件 等の句を作る。是より「す」の切字流行す。「す」は最も句のしま りを強くす。 昨年の流行語の中に「日午なり」「何午なり」といふあり。こは 秋の水湛然として日午なり 鳴雪 といへる句に始まれるなり。 昨年中著き進歩を爲したるは把栗なり。把栗昨春始めて俳句を試 み、秋冬に至りて既に一家を成す。其趣向多く漢詩より來る。淸幽 瀟洒誦すべき者多し。亦好んで「午なり」の語を用ふ。 舟人の魂祭る火や荻の中 把栗 斃れて而して後已む案山子かな 東窓また西窓に月を見る 鳴子かしましく案山子靜なるタ 林間に松蕈を燒く煙かな 人去って鳴子閑なり午の村 紅葉深し石雲を吐く處 山茶花に霜滴りて庭午なり 竹窓を霰打っ夜の夢奇なり 目ロロロロロ目ロ 把栗 小春日さして書卷まばゆき机かな 同 落葉に坐して山見る土手の小春かな 同 試みに蹈めば氷の薄きかな 一口 枯野十里行き盡して人に遇はす 把栗と對峙する者を墨水とす。墨水の句澹泊中に趣味深き處あ り。句法も亦平凡にして奇を衒はざる處に雅致を寓す。昨春に至り 大に進歩したるが如し。 蔓をもて提る西瓜の覺東な 名月や子も寢ねである縁の端 三日月は殘して柳散りにけり 肌寒やみなし子に乳を探らるゝ 朝寒や浪靜なる海の面 星飛ぶや新涼を趁ふ舟二艘 箒木や庭狹うして初嵐 しんとして牡丹崩れぬ智恩院 夏川や草刈どもがかち渉る 美人病めり芍藥半ば凋落す 更衣侍の子の人と爲 涼み遠き花火を見る夜かな ( 二十一一 l) 蒼苔も昨年中に著く進歩す。其句奇找なる者、又は實景を寫して 新鮮なる者多し。 水の上や蜻蛉飛べば蜻蛉飛ぶ 蒼苔 蜻蛉や拔きそろへたる劒のさき 蔦靑き小使部屋のうしろかな 朝寒み小鳥ヒンクワッツウと鳴く 落葉がら / 、饅頭なんど賣る小店 ( 三月八日 ) ロⅱ百ロ

3. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

104 右の誤は字典にもあり麑嶋人も佛敎家も一般に知らであれば正し 自分が病氣になって後ある人が病牀のなぐさめにもと心がけて鐵 ( 八日 ) 網の大鳥籠を借りて來てくれたのでそれを窓先に据ゑて小鳥を十羽たき由いひこされたり。 ばかり入れて置いた。其中にある水鉢の水をかへてやると總ての鳥 雜誌日本人に「春」を論じて「我國は舊と太陰暦を用ゐ正月を以 が下りて來て爭ふて水をあびる様が面白いので病牀からながめて樂 しんで居る。水鉢を置いてまだ手を引かぬ内にヒワが一番先に下りて春の初めと爲し曳が」云々とあり。語簡に過ぎて解しかぬる點も て浴びる。浴び様も一番上手だ。ヒワが浴びるのは勢ひが善いのであれど昔は歳の初印正月元旦を以て春の初となしたりとの意なら 目た乂く間に鉢の水を半分位羽ではたき散らしてしまふ。そこで外ん。陰暦時代には便宜上一二三の三箇月を以て春とし四五六の三箇 の島は殘りの乏しい水で順々に浴びなくてはならぬゃうになる。そ月を以て夏となし乃至秋冬も同例に三箇月宛を取りしこといふまで もなし。されど陰にては一年十二箇月に限らず、十三箇月なる事 れを豫防する積りでもあるまいが後にはヒワが先づ浴びようとする も多ければ其場合には四季の内何れか四箇月を取らざるべからず。 とキンバラが二羽で下りて來てヒワを追ひ出し二羽竝んで浴びてし これがために氣候と月日と一致せず、去年の正月初と今年の正月初 まふ。其後でジャガタ一フ雀が浴びる。キンカ鳥も浴びる。カナリヤ も浴びる 9 暫くは水鉢のほとりには先番後番と鳥が詰めかけて居といたく氣候の相異を來すに至るを以て陰膺時代にても嚴格にいへ ば歳の初を春の初とはなさず、立春 ( 冬至後約四十五日 ) を以て春 る。浴びてすんだ奴は皆高いとまり木にとまって頻りに羽ば・たきし て居る。其樣が實に愴快さうに見える。考へて見ると自分が湯に入の初と定めたるなり。其證は古くより年内立春などいふ歌の題あ ( 七日 ) 、古今集開卷第一に る事が出來ぬゃうになってから最う五年になる。 年の内に春は來にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ とあるも此事なり。此歌の意は歳の初と春の初とは異なり、されば 余は漢字を知る者に非ず。知らざるが故に今更に誤字に氣のつき いづれを計算の初となすべきかと疑へる者なれば之を裏面より見れ し程の事なれば余の言ふ所必ず誤あらんとあやぶみしが果してある 人より敎をたまはりたり。因って正誤かた , ・ ~ 、之を載せ併せて其好ば此頃にても普通には便宜上歳の初を春の初となしたる事なるべ し。されど朝廷の儀式にも特に立春の日を選びてする事あり。公事 意を謝す。 こんげん ( 略 ) 賴瀬獺懶等の旁は負なり頁にあらずとせられ候へども負に根源に 立春日 供若水 あらず員の字にて貝の上は刀に候勝負の負とは少しく異なり候右 若水といふ事は去年御生氣の方の井をてんして蓋をして人に汲せ 等の字は刺より音生じ候又聖の下は壬にあらず王 ( 音ティ ) に候 ず春立つ日主水司内裏に奉れば朝餉にて之をきこしめすなり荒玉 呈望等皆同様に御座候右些細の事に候へ共氣付たるまゝ ( 一老人 の春立つ日之を奉れば若水とは申すにや云々 とあるを見ても知るべし。平民就會にては立春の儀式といふ事は知 又ある人より ( 略 ) 菩薩薩摩の薩は字原薛なり博愛堂集古印譜に薩摩國印は薛らねど節分 ( 立春前一夜 ) の儀式は種々ありて今日に至る迄其幾分 いりまめ ・ : とあり譯經師が假釋にて薛に二點添付したるを元明より産のを存せり。中にも此夜各よの年齡の數に一つ增したるだけの熬豆を 紙に包みて厄拂に與へ來年の厄を拂はしむるが如きは明かに立春を 字に作り字典は薩としあるなり唐には決して産に書せず云々

4. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

ざこ つらぬ 五寸許りの雜魚を葛に串いて賣って居る。さういふのを煮て食ふと五問程ある英文の中で自分に讀めるのは殆ど無い。第一に知らない 4 お實にうまい。併し小骨が多くて肉が少くて、食ふのに骨の折れるや字が多いのだから考へやうもこじつけやうも無い。此時余の同級生 うなわけだから料理に使ふことも出來ず客に出すことも出來ぬ。 は皆片隅の机に竝んで坐って居たが ( これは始より互に氣脈を通ず 日本は嶋國だけに何も彼も小さく出來て居る代りに所謂小味など る約束があった爲だ ) 余の鄰の方から問題中のむづかしい字の譯を いふうまみがある。詩文でも小品短篇が發逹して居て繪晝でも疎畫傅へて來てくれるので、それで少しは目鼻が明いたやうな心持がし 略筆が發達して居る。併し今日のやうな世界一家といふ有様では不て善い加減に答へて置いた。共時或字が分らぬので困って居ると鄰 にうかん の男はそれを「幇間」と敎へてくれた、もっとも鄰の男も英語不案 經濟な事ばかりして居ては生存競爭で負けてしまふから牛でも馬で もいちどでも櫻んぼでも何でも彼でも輸入して來て、小い者を大き内の方で二三人鄰の方から順々に傅へて來たのだ、併しどう考へて も幇間では其文の意味がさつばり分らぬので此の譯は疑はしかった くし、不經濟的な者を經濟的にするのは大賛成であるが、それがた けれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と譯して置い めに日本固有のうまみを全滅する事の無いやうにしたいものだ。 それに就いて思ひ出すのは前年やかましかった人種改良問題であた。今になって考へて見るとそれは「法官」であったのであらう、 それを口傳へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたの る。若し人種の改良が牛の改良のやうに出來る者とすれば幾年かの 後に日本人は西洋人に負けぬゃうな大きな體格となりカも強く病もで、法官と幇間の誤などは非常な大滑稽であった。 それから及落の掲示が出るといふ日になって、まさかに豫備門 無く一人で今の人の三人前も働くやうな經濟的な人種になるであら ( 一ッ橋外 ) まで往て見る程の心賴みは無かったが同級の男が是非 う。併し其時日本人固有の稟性のうまみは存して居るであらうか、 ( 十三日 ) 行かうといふので往て見ると意外の又意外に及第して居た。却て余 何だか覺束ないやうにも思はれる。 等に英語など敎へてくれた男は落第して居て氣の毒でたまらなかっ 「日本人」に「試驗」といふ間題が出て居たので端なく試驗といふた。試驗受けた同級生は五六人あったが及第したのは菊池仙湖 ( 謙 二郞 ) と余と二人であった。此時は試驗は屁の如しだと思ふた。 極めて不愉快な事件を想ひ起した。 こんな有様で半は人の力を借りて人學して見ると英語の力が乏し 余は昔から學校はそれ程いやでもなかったが試驗といふ厭な事の いので非常の困難であった。それも共の筈共立學校では余はやうや あるため遂には學校といふ語が既に一種の不愉快な感を起す程にな う高橋 ( 是淸 ) 先生に。ハーレーの萬國史を敎へられて居た位であっ ってしまふた。 た。それで十七年の夏休みの間は本鄕町の進文學舍とかいふ處へ英 余が大學豫備門の試驗を受けたのは明治十七年の九月であったと 思ふ。此時余は共立學校 ( 今の開成中學 ) の第二級でまだ受驗のカ語を習ひに往った。本はユニオン讀本の第四で先生は坪内 ( 雄藏 ) は無い、特に英語の力が足らないのであったが、場馴れのために試先生であった。先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時 驗受けようちゃないかといふ同級生が澤山あったので固より落第のは夢中で聞いて居る、其の代り余等のやうな初學な者には英語修業 積りで戲れに受けて見た。用意などは露もしない。ところが科によの助けにはならなんだ。 ( これは書生氣質が出るより一年前の事だ ) とにかくに豫備門に入學が出來たのだから勉強してやらうといふ ると存外たやすいのがあったが一番困ったのは果して英語であっ ので英語だけは少し勉強した。もっとも余の勉強といふのは月に一 た。活版摺の間題が配られたので恐る / 、それを取って一見すると

5. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

192 めるだけに可なりに骨が折れて容易には出來上らない。幼き娘逹は繪の具を向の方へ突きやってしまふた頃、孫生がいふには、實は渡 幾らか寫生を見たいといふ野心があるので、遊びながら畫の出來る邊さんのお孃さんがあなたにお目にかゝり度いといふのですがと意 のを待って居た。時々畫帖を覗きに來て、まだよと小さな聲で失望外な話の絲口をほどいた。さうですか、それはお目にかゝり度いも 的にいふのは今年七ツになる兒である。其中内の者が外に餘って居のですが、といふと、實は今來て待っておいでになるのです、とい る繪の具を出して遣ったのでこの七ツになる兒と、直ぐ共姉に當るはれたので、余は愈意外の事に驚いた。共うち孫生は玄關の方へ 十になる兒と二人で畫を畫き初めた。年かさの大妨さんといふのが出て行て何か呼ぶ様だと思ふとすぐ其渡邊のお孃さんといふのを連 傍に居て監督して居る。一一人の子は余が寫生した果物帖を廣げてそれて這入って來た。前からうす / 、噂には聞かぬでもなかったが、 れを手本にして畫いて居る様子である。林檎にしませう、これがい固より今遇はうとは少しも豫期しなかったので、共風采なども一目 いでせう抔といふのは七ツになる兒で、いえそれはむづかしくて畫見ると豫て想像して居ったよりは遙かに品の善い、それで何となく けませぬ、櫻んぼにしませうといふのは十になる兒である。それか氣の利いて居る、いはゞ余の理想に近いところの趣を備へて居た。 ら、この色が出ないとか繪の具が足りないとか頻りに騷いで居た余は之を見るとから半ば夢中の様になって動悸が打ったのやら、脈 が、遂に其結果を余の前に持ち出した。見ると七つの兒の櫻んぼの の高くなったのやら凡て覺えなかった。お孃さんはごく眞面目に無 書はチャンと出來て居る。十になる方のを見ると、是れも櫻んぼが駄のない挨拶をして其れで何となく愛嬌のある顔であった。斯うい 更に確かに寫されて居る。原圖よりは却て手際よく出來て居るのでふ顏はどちらかといふと世の中の人は一般に餘り善くいはない、勿 論惡くいふものは一人も無いが、さてそれだからといふて、之を第 余は驚いた。やがてこれにも飽いたと見えて朝顔の晝の出來上るの も待たずに皆歸ってしまふた。余はたった一輪の花を畫いたのが成一流に置くものも無い、其れで世人からは其程の奪敬は受けないの であるが、余から見ると此程の美人。 ~ ~ 天人といふとどうしても俗 績がよくなかったので、稍よ困りながら、大きな葉の白い斑入りの に聞えるが余がいふ美人の美の字は美術の美の字、審美學の美の字 やつを畫いて見たが、是れは紙が繪の具をはじくために全く出來ぬ のもあり又自ら斑入りのやうに出來上るのもあってをかしかった。 と同じ意味の美の字の美人である。は先づ幾らも無いと思ふ。 蔓の料れて居るエ合を見るのも何と無く面白かった。この時どやど唯よ十分な事をいふと少し余の意に滿たない處はつくりが、じみ過 やと人の足音がして客が來たらしい。やがて刺を通じて來たのは孫ぎるのである。勿論極端にじみなのでは無い、相當の飾りもあって其 ( 二十三日 ) 調和のエ合は何ともいはれん味があるが、それにも拘らず余は今少 生、快生の二人であった。 しはでに修飾したらば一層も二層も引き立って見えるであらうと思 百四 ふ。けれどそれは餘り贅澤過ぎた注文で、否寧ろ無理な注文かも知 ( ッヾキ ) 二人とも二年ばかり遇はなかったので殊に快生などはこのれぬ。これだけでも余の心をして恍惚となる迄にするには十分であ った。話はそれからそれと移って快生が今迄居た下總のお寺は六疊 前見た時には子供々々したいっその小信さんのやうに思ふて居たが 今度遇って見ると、折節髭も少しばかり伸びて居たので、いたく大一間の庵室で岡の高みにある、眺望は極めて善し、泥坊の這入る氣 人びた様な感じがした。余は寫生の畫き殘りを尚畫き續けながら話潰は無し、それで檀家は十二軒、誠に氣樂な處であったなどといふ 話に稍よ涼しくなるやうな心持もした。暫くして三人は暇乞して歸 をしてゐたが、共うち繪は略出來上ったので寫生帖を傍に置き、

6. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

人時に中七字の句法を稱して全體の姿致を見ず、印ち金箔を拜して芭蕉に劣らざるのみならず、往々其師を倒する者亦多し、幾百の 2 % 佛體を見ざるの類なり。而して其實、中七字の巧を弄したるは此句人材中學識に於て才藝に於て唯一と稱せられたる晉子其角は如何、 の缺點なり。 古事古語を取て之を掌上に丸め、難題を難とせず俗境を俗ならしめ 一笑を弔ふ ず、縱横に奔放し自在に驅馳して傍ら人無きが如き共人も、造化の 祕蔵せる此等の大觀に對しては終に片言隻語のこゝに及ぶ者なし。 塚も動け我泣聲は秋の風 はる 如動古人墓といふ古句より奪胎したるにや。「我泣聲は秋の風」十大弟子中誠實第一なる向井去來は韻に於て聲調に於て夐かに芭 あら えみし と一氣呵成に言ひ下したる處、夷の思ふ所に匪ず、人丸の歌に「妹蕉に勝りたり。而して彼は如何。さすがに去來は一二の豪壯なる句 が門見む靡け此山」と詠みしと同一筆法なり。 無きに非るも、亦是れ芭蕉に匹敵すべき者に非るなり。其他嵐雪は 秋風や藪も畑も不破の 如何。丈草は如何。許六、支考は如何。几兆、尚白は如何。正秀、 乙州、李由は如何。此等の人或は一二句の豪壯なる者あらん、終に 新古今集攝政太政大臣の歌に 數句を有ぜざるべきなり。況んや共他の小弟子をや。 人すまぬ不破の關屋の板あれにしのちはただ秋の風 これらより思ひょりたりとは見ゆるものから、藪も畠も不破の關 元祿以後俳家の輩出して俳蓮の隆盛を極めたるは明和、天明の間 さびしをり と名所の古を忍び今を叙べたる筆力、十七字の小天地綽々として餘なりとす。白雄は寂栞を著して盛んに蕉風を唱道せりと雖も、其神 裕あるを見る。高館の句は豪壯を以て勝り此句は悲慘を以て勝る。 髓を以て幽玄の一一字に歸し、終に豪壯雄健なる者を説かず、共作る 好一對。 所を見るも句々纎巧を弄し婉曲を主とするのみにして、芭蕉の堂に 猪も共に吹かる野分かな 上る事を得ず。蓼太は敏才と猾智とを以て一時天下の耳目を聳動せ 暴風山を搖かして野猪吹きまくらるゝさま、悲壯荒寒筆紙に絶えりと雖も、固より共眼孔は針尖の如く小なりき。蕪村、曉臺、闌更 の三豪傑は古來の蕉風外に出入して各一派を成せり。此三人の獨得 吹き飛ばす石は淺間の野分かな なる處は芭蕉及び其門弟等が當時夢想にも知り得ざりし所にして、 淺間山の野分吹き荒れて燒石空に翻るすさまじさ、意匠最妙なり 俳諧史上特筆大書すべき價値を有す。されば其俳句中には雄健の筆 と雖も、「石は淺間の」とっゞく處多少の窮策を取る、白璧の微疵を以て豪壯の景を寫したる者に匱しからず。然れども彼等の壯は芭 なり。 蕉の壯に及ばず、彼等の大は芭蕉の大に及ばざりき。文政以後蒼 せいちゅう ぐんあ 滑稽と諧謔とを以て生命としたる俳諧の世界に生れて、周圍の群乢、梅室、鳳朗の如き群蛙は自ら好んで三尺の井中に棲息したる 動に制御瞞著せられず、能く文學上の活眼を開き一家の新機軸を出者、固より與に大海を談ずべからず。是に於てか芭蕉は揚々として ああ だし、此等老健雄邁の俳句をものして嶄然頭角を現はせし芭蕉は實俳諧壇上を濶歩せり。吁暿芭蕉以前已に芭蕉無く芭蕉以後復芭蕉無 きなり。 に文學上の破天荒と謂つべし。然れども是れ徒に一の創業者たるに 止まるなり。後世に在て猶之を模倣する者出でざるに至アては實に 不思議なる事實にして、芭蕉をして二百年間只よ一人の名を負はし むる所以ならずや。蕉鬥の弟子にしてしかも其力量に於ては決して とほ

7. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

いふやうにするのが目的であるのだ。 果して二つの虎が出て來た。 金聖歎の評は全篇の評と一囘々々の評と一節一句の評と三種あ 武松道「阿呀我今番罷了」 る。此全篇の評にはいろ / \ 議論のある事で、水滸俾を七十囘で切 もうおしまひだ、と武松は弱ってしまふた。 りあげたり、宋江を無暗に惡くいふなどは固より作者の意にも違 只見那兩隻大蟲。在黒影裏。直立起來。 再び驚いた。二匹の虎はっ乂立って歩行いて來た。これは虎の皮ひ、且っ穩當ならぬ處がある。併し金聖歎は自分の説を作者の本意 を被た獵師であったのだ。此一段の文章はこで切りあげたが適當だなど乂吹聽するけれど、其實作者の名をかつぐばかりで、矢張自 分の伎倆を見せるつもりだから、無理に異を立てるやうな事をす であらう。 る、見る者も其事を十分に呑み込んで置いて其上で聖歎の評を見る 畢竟此一段は作者が虎を出すために苦辛したので、一歩々々虎に と聖歎の評は面白い事が多い。七十囘以下は戦爭ばかりで文章が面 近づいて行く其道が一々波瀾をなして居る。しかも其波瀾は次第に 大きく急になって終に文章の極處印ち山に逹するやうになる。併し白くないといふので七十囘以下のある本を嘘としたのは一見識あっ 虎を手打にしたといふだけで突然と落ちてしまふては何だか物足らて善い。併し李獅々の一段がないのは惜い。李迸を上々の人物とし ぬので最後に又二匹の虎を出して來て全くの結局とする、これが所宋江を奸詐として兩々照して見せた處などはこじつけでも何でも、 とにかく働いて居る。これは畢竟水滸俾の作者が宋江をうまく寫し 謂餘波である。自然を主とする者は別であるが、若し文章をこしら 得なかった爲に宋江の人物をあらはすやうな處が一つも無い、金聖 へて面白くするといふならば恐らくは此打虎の一段よりうまく書く 歎も宋江をほめるべき處が無いのに窮して、いっそ惡者にしたら評 のは餘程難い事であらうと思ふ。 が振ふだらう、といふ位の事であったらう。 武松が三度虎をすかす處は事實にあり得べき事ではないが、しか 一囘々々の評はつまらぬ事も多い。それよりも一節一句の評は面 し若し人と虎との鬪を芝居に見せるならば、部ち客的に寫すとな らば到底斯く書くより外は無い。三度すかした處などはなか / \ う白い。此評は文章を解剖したものであるから少しでも文章の面白い まくこしらへてあるといふて善い。とにかく水滸傅の文章は侮るべ處には評語が非常に澤山ある。それには長いのも短いのもあるが、 前にも少し擧げた通り短い評には「虎」「人」「奇文」「第一碗」「硝 からざる者がある。 棒十六」抔の如き一字二字三字四字位なのもある。此評には非常に 氣の利いて居るのがある。これは丁度義太夫語りの三味線彈きが掛 金聖歎の評 聲をかけるやうなもので、これがために本文に勢がついて來る。若 八終りに臨んで金聖歎の評に就て一言して置かう。金聖歎が水滸傳し頭から、うるさいといふてのけるならそれ迄であるが、其掛聲が を評したのは今の批評家が小説を評するやうに其缺點を探し出すの善く調子を外さぬゃうに行く處はなか / 、うまいものである。若し ではない。評とはいふもの乂ほめてばかり居る評なので、ほめる方かういふ詳しい評の仕方は金聖歎から始まったとすれば獪更金聖歎 は無暗矢鱈にほめる、若し原書に缺點があっても、それを缺點としは一種の枝倆を備〈て居た批評家と目する事が出來る。 ( 明治三十三年九月 ) て誹らざるのみならず寧ろそれを辯護する側に立って居る。其評あ 3 るがために、つまらぬ處も面白くなり、面白き處は猶面白くなると

8. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

と思うことがあるというのに過ぎない。私はどうしても字が書けな彼の歌想は他の歌想に比して進歩したる所ありとこそいふべけ 4 い。人が死んで香典なぞを持って行く。御花とか何とか書かなけれれ、之を俳句の進歩に比すれば未だ其門墻をも覗ひ得ざる處にあ ばならない。それが必ずひどいものになる。下手でも眞面目に書けり。 俳人の極めて幼稚なる者とい〈ども趣味の多様なる事は曙覽 ばいいとは思うものの、いやな、見るからに不快な文字ができて自の歌の僅に新奇ならんとせしが如きに非ず。曙覽をして俳人たら 分が下賤なもののように見えてくる。子規その人に關係があるのかしめば殆ど其名だに傅ふる能はざりしなるべし。 どうかわからないが、私はついああいう字が書けたらなと思うことすなはち、子規はここで俳句の標準を以て歌に臨んでゐるので、 があり、子規の文字についてくどくどと書きたくなるがそれは止めこの點において、一年前「百中十首」を以て出發した當時の態度 が、そのまま續いてゐることを示すものだと言〈よう。さうして、 ( 作家 ) 曙覽の歌の特色とするところが、ちゃうどこの子規の立論に好都合 であったとともに、またそれが子規のこれまでの態度に一つの反省 をもたらす機縁にもなったのだと推察される。實朝以後只一人の歌 人が、俳人の極めて幼稚なる者にすら及ばないと、大膽に論じ去っ て、さてその ~ 後に子規は何か割り切れない氣持を殘したのではある 柴生田稔 まいか。 子規の「曙覽の歌」は、明治三十二年の三月から四月にかけて、 それから三ヶ月後、明治三十二年七月から九月にかけて、子規は 新聞「日本」に發表された。同じ「日本」に明治三十一年の一月か「日本」に「歌話」を連載するが、八月二日に至って、次のやうな言 ら三月にかけて、「歌よみに與ふる書」と「百中十首」とを發表し、葉が現われて來てゐる。 和歌革新の蓮動を起してから、ちゃうど一年たった時期のことであ〇所謂新派の歌は複雜 る。その結末のところで、子規は次のやうに論じてゐる。 なる材料を上三句に籠 之を要するに曙覽の歌は萬葉に實朝に及ばざる事遠しとい〈どめて下二句は無用の語 も貫之以下今日に至る幾百の歌人を壓倒し盡ぜり。新一一一〕語を用ゐを綴りたるが多き故 新趣向を求めたる彼の卓見は歌學史上特筆して後に傅〈ざるべかに皆頭重脚輕の病に陷 らず。彼は歌入として實朝以後只一人なり。眞淵景樹諸平文雄輩る。殊に俳人の作りし に比すれば彼は鷄群の孤鶴なり。歌人として彼を賞讃するに千言歌は俳句の下に十四 萬語を費すとも過讃にはあらざるべし。然れども彼の和歌を以て字を添〈たる如きあ 之を俳句に比せんか。彼は殆ど作家と稱せらる又だけの價値をも 有せざるべし。彼が新一一一〕語を用ふるに先だっ百四五十年前に芭蕉〇歌は全く空間的の趣 子規晩年のスケッチ玩具帖の一部明治三十五年 一派の俳人は、彼が用ゐしよりも遙かに多き新言語を用ゐたり。 向を詠まんよりは少し九月二日の晝 曙覽から宗武

9. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

二十三日に、續日本歌學全書の「近世名家家集上卷ーから「天降 く時間を含みたる趣向を詠むに適せるが如し。 〇俳句にては全く空間的なる趣向を詠むに易く、時間を詠むに適言」抄を見出して、目を見張ったのであった。子規は早速宗武を取 せず。故に俳人の歌を作る者多く此心得を移して純客觀の趣向をり上げて「歌話」の原稿一回分を書き了へ、三ヶ月ぶりの外出で高 捉へんとす。若し俳句十七字に詠み得る如く純客觀の趣向を短歌濱虚子宅を驚かして、「宗武にうかれて來た」と告げるのである。 三十一字に詠み得るとせば略二倍だけの複雜せる趣向をも詠み得つまり子規には、宗武を迎〈る機が熟してゐたのであった。これ べき筈なれども、實際歌にては俳句程の複雜なる趣向すら詠まれを一口に俳句調から萬葉調〈の變化と言ふのは、不十分なので、根 本的に歌の本質への開眼と見るべきである。さらに翌年平賀元義の ざるが如し。そは兩者句法の相異に因るなり。 〇俳句にては雜の句は極めてつまらぬ者なれど、歌にては雜の歌發見のこともあるが、この曙覽から宗武への數ヶ月が、特に重要な 時期であったやうに思はれる。 に面白きが多し。 ( 明治大學敎授・歌人 ) 和歌革新に手を着ける以前明治一一十七年に、子規は「和歌と俳句 とは最も近似したる文學なり。極論すれば其字數の相違を除きて 外は全く同一の性質を備へたる者なり」 ( 「文學漫言」 ) と言った。 治三十一年「歌よみに與ふる書」を發表して後、また子規は「歌 書簡から見た初期の子規と碧・虚 は俳句の長き者、俳句は歌の短き者なりと謂ふて何の故障も見ず、 歌と俳句とは只詩形を異にするのみ」 ( 「人々に答ふ」十 (l) と言っ 阿部喜三男 た。この態度は、前記のやうに、革新着手後一年の「曙覽の歌」ま で續いてゐる。それが三ヶ月後に、このやうに變化したのであっ子規關係の新資料で近頃おもしろく見ているものに、子規〈送ら た。この八月二日の「歌話」は、今引用して見ると、むしろをかしれた知人門人の書簡類がある。それは正岡忠三郞氏が所藏されるも くなるほど分かりきったことだと言へる。しかし子規は、忠實な實 0 を雜誌『大阪手帖』の昭和年 3 月號から今日までに碧梧桐・鳴 雪・紅綠・飄亭・羯南・漱石 ( 未發表 ) ・佐伯政直と連載され、虚子 驗を重ねて來た揚句、曙 のを高濱年尾氏が『ホトトギス』年 4 月號から連載されているも 覽の歌の檢討を經て、こ のである。これはまだ發表の途中のものなのだが、ここにそれらか の確認に到着したのであ った。 一〕ら見た子規・碧梧桐・虚子に關する一端を記してみよう。なお天理 圖書館藏『雁のたより』にも同類の資料が見られる。 ちゃうどこのあとに、 も物第み一は 4 画を髣 7 を 子規の碧梧桐宛は全集 ( 改造瓧版 ) によると幻年 5 ・ 6 月頃のも 子規はまた「田安宗武の一【簡い第」 ~ ) 第一 0 , ををいのを第 0 第 あ、も。り・ - J と のが最初で、「歸鄕中は種々御意見承り面白く存候其後御目的は矢 天降言といふを見て吾は 張り御變更もなく文學に志させられ候哉」とある。子規は二十四 いたく驚きたり」といふ 經驗をする。これは八月子規筆「曼珠沙華」原稿明治 = 一十年 + 月中旬作歳、この年は歸鄕して年を迎え、東京〈戻ってからの書簡で、碧梧 5 のはー

10. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

の根本にして人を感動せしむるのカ亦多くこゝに在り。然れども用 なり。若し埋むにカ入れたらんには俗句と成り了らん。落ち埋むと あたら 字餘りにして埋むを輕く用ゐたるは蕪村の力量なり。善き句にはあ語、句法の美之に件はざらんには、可惜意匠の美を活動せしめざる のみならす、却て其意匠に一種厭ふべき俗氣を帶びたるが如く感ぜ らねど、埋むと迄形容して俗ならしめざる處、精細的美を解したる しむることあり。蕪村の用語と句法とは其意匠を現すに最も適せる に因る。精細なる句の俗了し易きは蕪村の夙に感ぜし所にゃあら ん、後世の俳家徒に精細ならんとして益俗に墮つる者、蓋し精細者にして、しかも自己の創體に屬する者多し。其用語の概略を言は 的美を解せざるが爲なり。妙人の妙は共平凡なる處、拙き處に於てんに あやふ ( 一 ) 漢語は蕪村の喜んで用ゐたる者にして、或は漢語多きを以 見るべし。唐詩選を見て唐詩を評し展覽會を見て書家を評するは殆 し。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者に非るなり。 て蕪村の唯一の特色と誤認せらる長に至る。此一事が如何に人の注 「手に草履」といふことも若し拙く言ひのばしなば殺風景となりな意を惹きしかを知るべし。蕪村が漢語を用ゐたるは種々の便利あり ん。短くも言ひ得べきを「嬉しさよ」と長く言ひて、長くも言ひ得しに因るべけれど、第一に漢語が國語より簡短なりしに因らずんば あらず、複雜なる意匠を十七八字の中に含めんには簡短なる漢語の べきを「手に草履」と短く言ひし者、良工苦心の處ならんか。 「鮎くれて」の句、此の如き意匠は古來無き所、縱しありたりとも必要あり。又簡短なる語を用ふれば叙事形容を精細に爲し得べき利 あり。 「よらで過ぎ行く」とは言ひ得ざりしなり。常人をして言はしめば 指南車を胡地に引き去るかすみかな 鮎くれしを主にして言ふべし。そは平凡なり。よらで過ぎ行く處、 閣 0 坐いっ遠き蛙を聞く夜かな 景を寫し情を寫し多少の雅趣を添ふ。 や鑑や髭に落花を捻りけり 顔しかめたりとも額に皺よせたりとも斯く印象を明暸ならしめ 鮓桶をこれへと樹下の床儿かな じ、事は同じけれど「眉あつめたる」の一語、美人髣髴として前に 三井寺や日は 0 逼る若楓 よとぎ 柚の花や善き酒ナ塀の内 蒲團引きあふて夜伽の寒さを凌ぎたる句などこそ古人も言へれ、 0 0 0 0 耳目肺腸こゝに玉卷く芭蕉庵 蒲團其物を一句に形容したる、蕪村より始まる。 蓴をうたふ彦根の偸夫かな 「頭巾眉深き」只よ七字、あやせば笑ふ聲聞ゅ。 鬼貫や新酒の中の貧に處す 足袋の眞結び、これをも俳句の材料にぜんとは誰か思はん。我此 月天心貧しき町を通りけり 句を見ること熟せり、しかも如何にして此事を捉へ得たるかは今に 、、 0 0 0 0 0 0 、、 秋風や酒肆に詩いたふ漁者樵者 怪しまざるを得ず。 雅鳴くや舟に魚燒く第む沸 燕「齒あらはに」齒にしみ入るつめたさ想ひやるべし。 の如き此例なり。されども漢語の必要ありとのみにて濫りに漢語を 用ゐ、爲に一句の調和を缺かば佳句とは言はれじ。「胡地」の語の 9 如き餘り耳遠く普通に用ゐるべきには非るを、「指南車」の語上に 3 蕪村の俳句に於ける意匠の美は既に之を言へり。意匠の美は文學在り、「引去る」といふ漢文直譯風の語下にあるために一句の調和 ロ 芸ロ 0 0 0 0 0