左千夫 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集
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1. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

にも此頃二本の者を拵へたり。 れさす。 ほづま 逹の字の下の處の横畫も三本なり。二本に非ず。 左千夫來り秀眞來り麓來る。左千夫は大きなる古釜を携へ來りて 切の字の扁は七なり。土扁に書く人多し。 茶をもてなさんといふ。釜の蓋は近頃秀眞の鑄たる者にしてつまみ 助の字の扁は且なり。目扁に書く人多し。 の車形は左千夫の意匠なり。麓は利休手簡の軸を持ち來りて釜の上 0 0 0 0 廠摩磨匱などの中の方を林の字に書くは誤なり。此頃活字にも此 に掛く。其手紙の文に牧溪の書をほめて 誤字を拵へたれば注意あるべし。 我見ても久しくなりぬすみの繪のきちの掛物幾代出ぬらん 兎免共に四角の中の劃を外まで引き出すなり。活字を見るに兎の といふ狂歌を書けり。書法たしかなり。 字は正しけれど免の字はことさらに二畫に離したるが多し。併し此 左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。 等は誤といふにも非るか。 五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。獻立左の如し。 「つか」といふ字は冢塚にして豕に點を打つなり。然るに多少漢字 味噌汁は三州味噌の煮漉、實は嫁菜、一一椀代ふ。 たます すりわさび を知る人にして冢塚の如く豕の上に一を引く人多し。されど冢塚皆 鱠は鯉の甘酢、此酢の加減傳授なりと。余は皆喰ひて摺山葵ば 東韻にして「つか」の字にあらず。 かり殘し置きしが茶の料理は喰ひ盡して一物を餘さぬものとの 0 0 全愈などの冠は入なり。人冠に非ず。 掟に心づきて俄に當惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飮む。 分貧などの冠は八なり。人にも入にも非ず。 大笑ひとなる。 禪祗の祗の字は音「ぎ」にして示扁に氏の字を書く。普涌に祗 平は小鯛の骨拔四尾。獨活、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。 ( 氏の下に一を引く者 ) の字を書くは誤なり。祗は音「し」にして 肴は鰈を燒いて煮たるやうなる者鰭と頭と尾とは取りのけあ 祗候などの祗なり。 さざえ 廢は廣く「すたる」の意に用ゐる。广だれのは不具の人をい ロ取は燒玉子、榮螺 ( ? ) 栗、杏及び靑き柑類の煮たる者。 ( 三月一日 ) ふ。何處にでも广だれの方を用ゐる人多し。 香の物は奈良漬の大根。 〇正誤前々號墨汁一滴にある人に聞けるま又雜誌明星廢刊の由記した 飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同 るに、廢刊にあらず、只今印刷中なり、と與謝野氏より通知ありたり。 時に出し且っ飯且っ酒とちび / \ やる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出 余は此雑誌の健在を喜ぶと共にたやすく人言を信じたる粗相とを謝す。 し各よ椀にて食ふ。後の肴を待っ間は椀に一口の飯を殘し置くもの なりと。余は遂に料理の半を殘して得喰はず。飯終りて湯桶に鹽湯 二月一一十八日睛。朝六時半病牀眠起。家人暖を焚く。新聞を 滴 を入れて出す。余は始めての會席料理なれば七十五日の長生すべし 一見る。昨日帝國議會停會を命ぜられし時の記事あり。繃帶を取りか とて心覺のため書きつけ置く。 けみ 墨ふ。粥二碗を吸る。、梅の俳句を閲す。 點燈後茶菓雜談。左千夫、其釜に一首を題せよといふ。余間ふ、 今日は會席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶に湯のたぎる音如何。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の 活けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取り 遠音にも似たらんかと。乃ち 0 れんげう 題釜 のけて雛を祭れと侖ず。古紙雛と同じ畫の掛物、傍に桃と連翹を亂 ゐのこ うど

2. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

ソレニ昨夜善ク眠ラレヌノデ今朝ハ泣カシカッタ。ソレデモ食ヘル ダケ食フテ見タガ後ハ只不偸快ナバカリデ且ッタ刻ニハ左ノ腸骨ノ ホトリガ強ク痛ンデ何トモ仕様ガナイノデ只叫ンデバカリ居タ程ノ 惡日デアッタ。 十月二十八日雨後曇 午後左千夫來ル丈ノ低キ野菊ノ類フ橫鉢ニ栽ヱタルヲ携へ來ル 鼠骨來ル 繃帶取換ノ際左腸骨邊ノ痛ミ堪へ難ク號泣又號泣困難プ極ム 此日ノ午飯ハ昨日ノ御馳走ノ殘リフ肴モ鰕モ蒲鉾モ昆布モ皆一ッ ニ煮テ食フコレハ昨日ョリ却テウマシオ祭ノ翌日ハ昔カ一フサイノウ マキ日ナリ 晩餐ハ余ノ誕生日ナレ・ハニヤ小豆飯ナリ鮭ノ味噌漬ト酢ノ物 ( 赤 貝ト烏賊 ) ノ御馳走ニテ左千夫鼠骨ト共ニ食フ 食後話ハズム余モイツモョリ容易クシャベル十時頃一一人去ル 十月一一十九日曇 ・ 3 日記ノ無キ日ハ病 明治三十五年三月十日月曜日晴 勢ッノリシ時ナリ 午前七時家人起キ出ヅ昨夜俳句フ作ル眠フレズ今朝ハ暖爐ヲ焚カ ズ 八時半大便、後腹少シ痛ム 同四十分痺ヲ服ス 録十時繃帶取換ニカ、ル横腹ノ大筋ツリテ痛シ 此日始メテ腹部ノ穴ヲ見テ驚ク穴トイフハ小キ穴ト思ヒシ 臥 ニガランドナリ心持惡クナリテ泣ク 十一時過牛乳一合タ一フズ呑ム道後煎餅一枚食フ 十二時午餐粥一碗鯛ノサシミ四切食ヒカケテ忽チ心持惡 3 クナリテ止ム 午後一時頃牛乳 始終ドコトナク苦シク、泣ク 午後四時過左千夫蕨眞一一人來ル左千夫紅梅ノ盆栽ヲクレ蕨眞鰯 ノ鮓ヲクレル クサリ鮓トイフ・田 五時大便 蕨眞去ル 晩飯小田卷 ( 饂飩 ) サシミノ殘リ腐リ鮓金山寺味噌 ( 長塚所贈 ) ウマク喰フ 七時頃麻痺劑フ服ス 夜牛乳煎餅蜜柑飴等 左千夫歌ノ雜誌ノ事フ話ス九時頃去ル ソレョリ寢ニ就ク睡眠善キ方ナリ 此頃ノ藥ハ水桑一一種 ( 一ハ胃ノ方、一ハ頭ノオチックタメ ) 三月十一日 朝ストーヴヲ焚ク大便牛乳十時朝飯粥二碗鯛ノサシミ 七切程味噌腐鮓蕗ノ薹 , ト梅干蜜柑三ケ十一時牛乳コ、 ア入煎餅一枚 十一時半廱痺周ヲ服ス陸ノオマキサン梨數顆持テ來テクレ 午後一時半頃繃帶取換 三時碧梧桐來ル腰背痛俄ニ烈シク廱痺劑ヲ呑ム種竹山人來ル 直ニ去ル 五時頃晩餐ゴモク飯一碗フダマキサシミノ殘リ鱈汁鱈 ト人參ノ煮物九時頃牛乳 夕方ョリ碧梧桐妻來ル十時共ニ歸リ去ル 十一時過父痛烈シク起ル廱痺劑ヲ服ス 此頃ハ一日ノ牛乳三合必ズコ、アヲ交ゼル レ

3. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

→病床の子規 ←子規筆伊藤左千夫像 →↓獺祭書屋藏書目録表紙と その一部 ′ ) いッ 一ますな 第をー一を : 久陬 1 を ! まを 一卅 一叫 一当 、駅第。を当みー 一を 一、い第こをい ・、耳 ~ ル気当材ご 当 - 時、朝い靆ン、をⅵ言を当ます第第を一 一ナ第をは一え新をを画 一之々す ↑子規自筆手製歌カルタ *

4. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

長塚節「竹の里人」 ( 馬醉木明治三六・ 高濱虚子編「子規句集講義」 ( 友善堂大正一五・一 l) 齋藤茂吉・土屋文明編「子規短歌合評」 (5 円磁瓧昭和二三 ・三 ) 伊藤左千夫「絶對的人格」 ( 馬醉本明治三九・一 ) 橋田東聲「正岡子規全傳」 ( 春陽堂昭和一一・ lll) 中村草田男編「俳句の出發」 ( 創元社昭和二四・六 ) 中村樂天「正岡子規」 吉田冬葉「子規の俳句と其一生」 ( 右同 ) ( 俳書堂「明治の俳風」明治四 0 ・九 ) ( 交蘭瓧昭和八・八 ) 藤川忠治編「短歌の革新」 ( 潮文閣昭和二六・五 ) 三井甲之「空想文學を排して日本派の將來を論 ( 山海堂昭和八・九 ) 井手逸郞「子規」 藤川忠治「正岡子規」 ( アカネ明治四一・ lll) 邦枝完二「小説子規」 ( 六興出版社昭和二六・五 ) ず」 黒澤隆信「子規・節・左千夫の文學」 服部嘉香「常識的革命者・正岡子規」 ( 金星社昭和八・一一 ) 景浦直孝「人間子規」 ( 早稻田文學明治四三・一 ) ( 汎文社昭和九・ ll) ( 子規五十年祭協賛會昭和二六・九 ) 河東碧梧桐「子規を語る」 伊藤左千夫「正岡子規先生」 「正岡子規研究文獻目録稿」 小泉苳三「正岡子規根岸短歌會の位相」 ( アララギ明治四四・九 ) ( 國立國會圖書館プリント昭和二六・九 ) ( 立命館出版部昭和九・一〇 ) 香取秀眞「十とせの月日」 靑木月斗「子規名句評釋」 ( 非凡閣昭和一〇・一 ) 寒川鼠骨「隨攷正岡子規」 ( ア一フラギ明治四四・一 0 ) ( 一橋書房昭和二七・一 0 ) 篠田太郎等「正岡子規研究」 齏藤茂吉「短歌迚作論の由來」 ( 樂浪書院昭和一 0 ・一一舊版ー昭和八 ) 「正岡子規五十年祭記念」 ( アララギ明治四五・六 ) ( 愛媛縣圖書館協曾昭和二ヒ・一 0 ) 宮田戊子等「正岡子規の新研究」 ( 叢文閣昭和一〇・六 ) 高濱虚子「子規について」 ( 創元社昭和二八・六 ) 寒川鼠骨「正岡子規」 ( 文章世界大正一・一〇 ) 岡崎望久太郞「正岡子規」 ( 創元社昭和三一・四 ) 中村不折「淸廉高潔の生」 香取秀眞「正岡子規を中心に」 ( ホトトギス大正ニ・八 ) ( 學藝書院昭和一一 ・三 ) 寒川鼠骨「正岡子規の世界」 ( 靑蛙房昭和三一・一 0 ) 吉野左衞門「子規居士の追憶共他」 河東碧梧桐綱「子規言行録」 ( ホトトギス大正四・一 0 ) ( 政敎社昭和一一 ・一二 ) 茂野冬篝「隨攻子規居士」 ( 同人社昭和三二・ 矢田挿雲「初對面の子規先生」 曾我鍛「松山と子規と漱石」 眞下五一「へちまの水ー正岡子規の生涯ー」 ( ホトトギス大正四・一一 ) ( 三好文成堂昭和一二・四 ) ( 刀江書院昭和三四・一 ll) 木下春雄「子規居士の月並論」 明治文學研究會編「正岡子規」 五味保義「子規といふ人」 ( ホトトギス大正五・九 ) ( 大都書房昭和一三・一 0 ) ( 白珠書房昭和三七・一一 ) ( 澁柿大正七・一 l) 野村光雄編「正岡子規讀本」 ( 櫻楓社昭和三八・一 ) 赤木格堂「子規夜話」 藤川忠治「正岡子規」 ( 新生瓧書店昭和一四・二 ) 岡麓「正岡子規」 ( 白珠書房昭和三八・一一 ) 橋田東聲「偉大なる几人子規」 ( 短歌雜誌大正一一・七 ) 河村敬吉「病詩人の日記」 楠本憲吉「正岡子規」 ( 明治書院昭和四一・三 ) ( 日新書院昭和一五・一一 ) 眞下五、一「正岡子規」 ( 佼成出版昭和四一・九 ) 大谷句佛「子規に就ての感想」 ( 懸葵大正一一・一 0 ) ( 三省堂昭和一七・三 ) 柴田宵曲「子規居士」 ( 櫻楓社昭和四二・一 ) 松井利彦「正岡子規」 岩城準太郎「正岡子規の文體革命運動」 結城健三「子規の文學精飾」 を・牙書房昭和一七・一一 ) 久保田正文「正岡子規」 ( 人物叢書 ) ( 東洋圖書「表現と鑑賞」大正一三・ ( 吉川弘文館昭和四二・七 ) 柳原極堂「友人子規」 ( 前田書房昭和一八こ l) 小島徳彌「正岡子規と日本派俳句」 三松堂「文壇百話」大正一三・ 柴田宵曲「子規居士の周圍」 四雜誌・單行本所收論文 ( 六甲書房昭和一八・一 0 ) 三並良「子規の事ども」 ( 日本及日本人大正一三・五 ) 高濱虚子「正岡子規」 ( 甲烏書林昭和一八・一 9 島田亠円峰「初期の正岡子規」 齋藤茂吉「正岡子規」 ( 創元瓧昭和一八・一 (l) 伊藤左千夫「賛正岡先生歌」 ( 早稻田文學大正一四・六 ) ( 心の花明治三五・一 0 ) 參河東碧梧桐「子規の回想」 ( 昭南書房昭和一九・六 ) 岡麓「正岡子規」 ( アララギ大正一五・こ 山口誓子「子規諸文」 ( 創元社昭和一一一・一 9 阪井久良伎「子規先生を哭す」 ( 明星明治三五・一 0 ) 三井甲之「正岡子規論」 5 高濱虚子「子規句解」 ( 創元社昭和二一・一 0 ) ( 日本及日本人大正一五・一 ) 河井醉茗「故正岡子規子」 ( 文庫明治三五・一 0 ) 小泉苳三「歌人子規とその周圍」 ( 馬醉木明治三六・七 ) 島田靑峰「晩年の正岡子規」 ・三 ) 伊藤左千夫「竹の里人」 ( 羽田書房昭和ニ一一

5. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

8 2 やきてにてうまらにをせとあたらしもか ほと酢とにひでてや食はん る靑人草鼓打ち / 空ながめ虹もが立 れの心をおくりくるみちにあざれぬそ っと待っ久に雨こそ降らめしかれども をやきてうまらにくひぬうじははヘども待てるひじりは世に出でぬかも つくみ、し長き短きそれもかも老いし老い ざる何もかもうまき そらみつやまとのいもは鳶のねのとろ又に旱して木はしをるれ待っ久に雨こそ降 ひじり れ我が思ふおほき聖世に出でわをし つくえ \ し故鄕の野に摘みし事を思ひ出ですなるつくいもなるらし けり異國にして 救はず雨は降れども 一、やまめ ( 川魚 ) 三尾は甲州の一五坊より 女らの割籠たづさへつくみ、し摘みにと出なまよみのかひのやまめはぬばたまの夜 る春したのしも ぶりのあみに三つ入りぬその三つみな をあにおくりこし 煮兎憶諸友 0 0 0 一、假面ニっ某より 下總のたかしがもとゆ贈り來しにこ毛兎 くりやかたな 0 0 0 を廚刀音かつど、と牛かひの左千夫わざをぎのにぬりのおもてひょとこのま 0 0 0 がぐちおもて世の中のおもなき人にか がほふりふた股の太けき煮て桐の舍も 0 0 0 0 さんこのおもて あきみつもをすあなうまそびらの肉の 0 0 0 炙れるをむさぼるは吾ぞ殘れるをほっま 一、草花の盆栽一つは麓より もがも家遠み呼ばむすべなみもみち葉 のも雌もあはれ幸なし 秋くさの七くさ八くさひとはちに集めて うゑぬきちかうはまづさきいでつをみ おくられものくさ′ぐ、 なへしいまだ 一、史料大観 ( 臺記、槐記、扶桑名晝傳 ) 一、松島のっとくさみ \ は左千夫蕨眞より このふみをあまし乂人このふみをよめと たばりぬそをよむとふみあけみればも まっしまのをしまのうらにうちょする波 じのヘになみだしながるなさけしぬびて のしらたまそのたまをふくろにいれて かへりこし歌のきみふたり 一、やまべ ( 川魚 ) やまと芋は節より 旱の歌一一首 しもふさのゆふきごほりのきぬ川のやま ひでりぐも べのいをははしきやし見てもよきいを 天なるや旱雲湧きあらがねの土裂け木枯 ことぐに あめ

6. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

401 仰臥漫鋒 村、村井某、森田義郎 午前八時頃午後七時頃 七月七日晴 午前八時半午後 七月八日睛 午前七時半午後五時半 七月九日睛イワシコ、豆腐 午前九時十五分此日衰弱疲勞ノ極ニ逹ス 七月十日雨煽風器成ル ノマズ 七月十一日睛始メテ蜩鳴ク 二度呑ム 七月十二日睛、始メテ蠅鳴ク、茶ノ會席料理デ碧梧桐、四方 太、虚子會ス 午前八時午後四時四十分 七月十三日睛、鼠骨、熱サニ堪へズ、壽子、鳴翁訪ハル 午前四時午後三時過 七月十四日小雨、懷中汁粉、碧梧桐番 午前一一時午後三時 七月十五日晝曇夜雨、虚子番、 午前一一時午後一時半午後九時半 七月十六日曇義郎番 午後零時三十五分 七月十七日曇、碧梧桐番、秀眞來 午前一時午後零時三十分午後八時半 七月十八日曇鼠骨番 午前九時半午後五時半 七月十九日虚子番此日疲勞極點ニ逹シ昏々 午前九時半 一立 . ま 1 ー ム給苳海↓省 七月一一十日碧梧桐鼠骨來正午疲勞稍よ囘復 ノマズ たぬき 七月二十一日曇左千夫蕨眞來、月樵ノ狸ノ畫フ見ル 午前十時 七月二十二日晴義郞番、如水子來 午前九時半 七月一一十三日雨 七月二十九日曇左千夫番 午前十時卅五分 ・多・ ~ れトイ /

7. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

るやうに思はれた。其顏が三たび變った。今度は八つか九つ位の女 何か出るであらうと待って居ると又前の耶蘇が出た。これではい すこし の子の顏で眼は全く下向いて居る。額際の髮にはゴムの長い櫛をはかぬと思ふて、少く頭を後へ引くと、視線が變ったと共にガラスの めて髪を押へて居る。四たび變って鬼の顏が出た。此顏は先日京都疵のエ合も變ったので、火の影は細長い鍵の様な者になった。今度 から送ってもらふた牛祭の鬼の面に似て居る。箇様にして順々に變は屹度風變りの顏が見えるだらうと見て居たけれど、火の形が變な って行く時間が非常に早く且っ共顏は思はぬ顏が出て來るので、今ためか一向何も現れぬ。や乂暫くすると何やら少し出て來た。段々 度は興に乘ってどこ迄變化するかためして見んと思ひはじめた。丸明らかになって來ると仰向に寢た人の横顔らしい。いよ / \ さうと で見せ物でも見るやうな氣になったのだ。さう思ふとそれから變り きまった。眼は靜かに塞いで居る。顔は何となく沈んで居て些の活 ゃうが稍遲くなった。 氣も無い。たしかにこれは死人の顏であらう。見せ物はこれでおや ( 明治三十三年一月 ) 其次には猿の顏が出た。それが西洋の昔の學者か豪傑かの顏と變めにした。 った。其顔は少し橫向きで柔かな髮は肩迄垂れて居る。極めて優し い顔であるが只見たやうに思ふだけで誰の肯像か分らぬ。それから 暫くは火が輝いて居るばかりで何の形も現れて來ぬ。獪見つめて居 ると火の眞中に極めて明るい一點が見えて來た。それが次第に大き くなって往く。終に一つの大目玉が成り立った。それが崩れると又 暫く何も出來ずに居たが、やう ~ 、丸髷の女が現れた。其の女の鬢 が兩方へ張って居るのは四方へ放って居る光線がさう見えるのであ る。其光線の鬢は白くまばらなので石膏細工の女かと思はれた。此 女は初め下向いて眼を塞いで居たが、其眼を少しづ又明けながら其 四月二十九日の空は靑々と睛れ渡って、自分のやうな病人は寢て 顏を少しづ乂あげると、段々すさまじい人相になって、遂に髮の逆居る足のさきに微寒を感ずる程であった。格堂が來て左千夫の話を 立った三寶荒と變ってしまふた。荒様が消えると耶蘇が出て來したので、ふと思ひついて左千夫を訪はうと決心した。左千夫の家 た。これは十字架上の耶蘇だと見えて首をうなだれて眼をつぶっては本所の茅場町にあるので、牡丹の頃には是非來いといはれて居た 居るが、それにも拘らず頭の周圍には丸い後光が輝いて居る。耶蘇から今日不意に出て驚かしてやる積りなのだ。格堂はさきへ往て左 めんにほ が首をあげて眼を開くと、面頬を著けた武士の顔と變った。その武千夫の外出を止める役になった。 者の顔をよく / \ 見て居る内に、それは面頬でなくて、ロに呼吸器 晝餉を喰ふて出よとすると偶然秀眞が來たから、これをもそ乂の 光 春を掛けて居る肺病患者と見え出した。其次はすっかり變って般若の かして、車を竝べて出た。自分はわざと二人乘の車にひとり横に乘 上面が小く見えた。それが消えると、類病の、頬のふくれた、眼を剥った。 いたやうな、氣味の惡い顏が出た。試に其顏の恰好をいふと、文學 今年になって始めての外出だから嬉しくてたまらない。右左をき 〃者のギポンの顏を飴細工でこしらへて其顔の内側から息を入れてふよろ / 、と見まはして、見える程のものは一々見逃すまいといふ覺 2 くらました、といふやうなエ合だ。忽ち火が三つになった。 悟である。併しそれがために却て何も彼も見るあとから忘れてしま はんにや 車上の春光

8. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

る。「短歌も今のやうでは減びますよ。寫生一點張りではかうなるれだけでは論じっくをないものがあるといふことである。詩人とは 6 のは當然でせう。アララギがいけなかったのだ。第一、想像や幻想單に詩を作る人でなく、その時代々々に生きて志を言ひ切った人の を排してどこに詩が匂って來ますか。それに較べると明星の短歌革謂だとすれば、子規はやはり詩人であり、透谷や獨歩や啄木ととも 新は大したものでしたよ。」有明はその「明星」を舞臺にして活躍に、明治といふ時代を代表する少數の眞の詩人の一人なのである。 した詩人だったから、かう言ふのも無理もないが、結局子規に對す る評價は、時代の思潮とともに大きく動いた。そして戦後は、いは この集に收めた『竹の里歌』は、子規の歿後の刊行であるが、最 ゆる第二藝術論による傳統詩歌批判の聲が擴がるとともに、評價のも早く刊行された子規歌集である。それは凡例に記されてゐるやう 最低の時期を迎へるに到ったらしい。 に、明治三十七年に歌の弟子たち七名 ( 伊藤左千夫、香取秀眞、岡麓、 歌人や俳人たちすらも、子規のものなど讀まなくなった。「想像長塚籔蕨眞、安江秋水、森田義郞 ) によって、明治三十年から歿年ま や幻想を排してどこに詩が匂って來ますか」といふ有明の言葉は、 での長歌十五首、旋頭歌十二首、短歌五百四十四首を選んで收めた 歌壇でも共鳴者がふえて來たやうに思、る。象徴主義、超現實主ものである。そしてそのとき據ったものは、子規自筆の『竹乃里 義、イマジズムなどの新しい方法の信奉者が輩出して、寫生主義は歌』といふ歌稿であって、それには明治十五年から始まって、新體 如何にも古くさい詩歌の方法であるやうに思へて來た。 詩長歌などをも併せて二千首ばかりが記してある、と書いてある。 だが子規は、そのやうな斬新な詩の方法の影にかすんで來ただけ だがこの子規自輯の『竹乃里歌』は、その後紛失して、幾種類か ではない。「ホトトギス」の俗流寫實からも、ますますその存在を出された子規歌集は、すべて編者の努力によって新たに輯められた 無視されるやうになって來た。虚子が子規の俳句を高く買はなかつものである。大正十一一年二月には齋藤茂吉、古泉千樫の共編で『正 たことは前に言ったが、彼の書いた『子規句集講義』その他を見て岡子規竹乃里歌全集』が出され、同十五年四月には、寒川鼠骨の編 も、彼はほとんど子規の第一級の作品を擧げてゐない。それで、虚子纂で『子規全集』第六卷として「和歌新體詩漢詩」篇が出された。 の擧げた句を子規の代表作とすると、結局子規は大した俳人ではな この全集版の編輯後記には、原本『竹乃里歌』を八方搜索につとめ いといふ印象を得るやうになってゐる。子規の第一級の作品に對し たが、つひに發見することができなかったと書いてゐる。これらの て第一級の讃辭を捧げるといふことを、虚子はつひにしなかった。 歌集には、明治三十年以前の作歌も、集められるかぎり集めてあ ここ數年のあひだに、子規評價がまたやや上向きになって來たやる。「尤も據るべき原本を失ってゐるのだから、書簡、その他の雜 うに思ふ。明治百年の聲とともに、明治といふ新しい時代を擔った筆類を漁って得た僅な收穫に過ぎない。」 ( 全集、編輯後記 ) 一人の巨人として、再認され出した。これは單に、歌人または俳人 昭和三年三月に、同じく寒川鼠骨の手で、『定本子規歌集』が出 としてその業蹟を評價されるよりも、もっと大きい、綜合的な評價されたが、その序の中に、「居士生前の自輯になった所の『竹乃里 といふことになる。これはその俳句において、如何ほど虚子がすぐ 歌』の稿本が、前記七弟子により子規文庫から持出された儘行方不 れてゐたとしても、子規の偉大さはそれとは別の次元で評價されな明となったことは、まことに千古の恨事で」云々とあって、その紛 ければならないといふことである。あるいはまた、有明や白秋が如失の事情がやや明かにされたが、香取秀眞はその持出し犯人を伊藤 何に子規における想像力の缺如を言い立てても、やはり子規にはそ左千夫と推定してゐた。そして齋藤茂吉は、左千夫の明治四十三年

9. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

なく引き出して見る。所感二つ三つ。 七 余は幼き時より畫を好みしかど、人物畫よりも寧ろ花鳥を好み、 複雜なる晝よりも寧ろ簡單なる畫を好めり。今に至って尚其傾向を〇左千夫曰ふ本人呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その 變ぜず、其故に畫帖を見てもお姫樣一人畫きたるよりは椿一輪畫き歌の大きくして逼らぬ處を見るに決して經的痩せギスの作とは思 たるかた興深く、張飛の蛇矛を携〈たらんよりは柳に鶯のとまりたはれずと。節曰ふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと 思ふ。その歌の悲壯なるを見て知るべしと。蓋し左千夫は肥えたる らんかた快く感ぜらる。 畫に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨畫ども多き畫帖の中に彩人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引 ばんりよくそうちゅうこういってん き比べて同じ様に思ひなすこと人の常なりと覺ゅ。斯く言ひ爭へる 色のはっきりしたる晝を見出したらんは萬綠叢中紅一點の趣あり。 呉春はしゃれたり、應擧は眞面目なり、余は應擧の眞面目なるを内左千夫はなほ自説を主張して必ず共肥えたる由を言〈るに對し て、節は人廱呂は痩せたる人に相違なけれども其骨格に至りては強 愛す。 しゆきゃう く逞しき人ならむと思ふなりと云ふ。余は之を聞きて思はず失笑せ 手競畫譜を見る。南岳、文鳳一一人の晝合せなり。南岳の晝は何れ あれい り。蓋し節は肉落ち身痩せたりと雖も毎日サンダウの唖鈴を振りて も人物のみを晝き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帶ぶ。南岳 の畫は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の畫は人物少くと勉めて運動を爲すがために其骨格は發逹して腕力は普通の人に勝り も必ず多少の意匠あり、且っ共形容の眞に逼るを見る。もとより南て強しとなむ。さればにや人廬呂をも亦斯の如き人ならむと己れに 引き合せて想像したるなるべし。人間はどこ迄も自己を標準として 岳と同日に論ずべきに非ず 或人の畫に童子一人左手に傘の疊みたるを抱へ右の肩に一枝の梅他に及ぼすものか。 ぶんてう を擔ぐ處を畫けり。或は餘處にて借りたる傘を返却するに際して梅〇文晁の繪は七輻溿如意寶珠の如き趣向の俗なるものはいふ迄もな の枝を添〈て贈るにゃあらん。若し然らば晝の簡單なる割合に趣向く山水又は聖賢の像の如き繪を描けるにも尚何處にか多少の俗氣を は非常に複雜せり。俳句的といはんか、謎的といはんか、而も斯の含めり。崋山に至りては女郞雲助の類をさ〈描きてしかも筆端に一 點の俗氣を存せず。人品の高かりし爲にゃあらむ。到底文晁輩の及 如き晝は稀に見るところ。 ぶ所に非ず。 抱一の畫、濃艶愛すべしと雖も、俳句に至っては拙劣見るに堪へ ず。其濃艶なる畫に其拙劣なる句の讚あるに至っては金殿に反故張〇余等關西に生れたるものゝ目を以て關東の田舍を見るに萬事に於 て關東の進歩遲きを見る。只關東の方著く勝れりと思ふもの二あ りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚し。 り。日く醤油。日く味噌。 公長略晝なる書あり。齠に一草一木を畫き而も出來得るだけ筆畫 六を省略す。略畫中の略畫なり。而して此のうち幾何の趣味あり、幾〇下總の名物は成田の不動、佐倉宗五郞、野田の龜甲萬 ( 醤油 ) 。 牀 ( 十三日 ) 何の趣向あり。蘆雪等の筆縱横自在なれども却て此趣致を存せざる が如し。或は余の性簡單を好み天然を好むに偏するに因るか。 5 ( 十二日 ) 〇名所を歌や句に詠むには其場所の特色を發揮するを要す。故に未 はういっ は」・卩

10. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

2 2 繪師なにがし繪をかく偐より左千夫節 雨はれぬ 白玉の眞白さ又花吸ふ蝶の吹きまどはさえ と共に其賛をかく賛の歌若干、朝顔の 又飛び返る 繪に 久方の雲の柱につる絲の結び目解けて星落 神四首 うがひすと夜の衣を脱ぎもあへず端居の風ち來る 歌のの御手を開けば吹く風に露の散るご の秋ちかづきぬ 空はかる臺の上に登り立っ我をめぐりて星 と白王の散る かゞやけり 曉のおきのすさみに筆とりて繪がきし花の 足引の山の御紳の山移りいでましの雨に朝藍薄かりき 天地に月人男照り透り星の少女のかくれて 花洗ふ 雪に雀の繪 見えず ながい くれなゐ 曉の長寐し居ればよべの間に雪つもりぬと 紅の花みてる野に月出で又の子が吹く さぎ 妻來て告げぬ 久方の星の光の淸き夜にそことも知らず鷺 くだの音聞ゅ 鳴きわたる 橋欄に月の繪 御いくさのが取り持っ御劒のさきゅした 住吉ののそり橋タされば松の木の間に細久方の空をはなれて光りつゝ飛び行く星の たる血の雨はげし ゆくへ知らずも き月見ゅ 七月一日例會録二首 はたおりひめ 左千夫へ ぬば玉の牛飼星と白ゅふの機織姫とけふこ 綠羽の蠅のみことが蠅つどひ黄屎の饗をき いほ ひわたる 竪川の流れ溢れて君が庵の庭の木賊に水は こしをす見ゅ こえずや おうた 八月十九日〔例〕會録一首 嶇われ白絲手繰り機織りていくさの君に布 星録九首 たてまつる 嵐ふく闇のいさり火亂れつゝ黒戸の沖に鯛 まさど 釣るらんか 眞砂なす數なき星の其中に吾に向ひて光る 送大我從軍二首 星あり 格堂が平賀元義の歌送りこしける返り 薄織の夏着の衣のかくしどに筆さし人れて 事に たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光 いくさに行くも 上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ 我を照せり こと 言さへぐから山越えていくさ見に再び行く のき 玉水の雫絶えたる檐の端に星かゞやきて長 を再び送る みつるぎ くぐそあへ うてな