數 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集
461件見つかりました。

1. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

度位徹夜して勉強するので毎日の下讀などは殆どして往かない。その初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつゞいては、數學 れで學校から歸って毎日何をして居るかといふと友と雜談するか春は非常に下手で且っ無知識であるけれど試驗さへ無くば理論を聞く 水の人情本でも讀んで居た。それでも時々は良心に咎められて勉強のも面白いであらうといふ考を今に持って居る。これは隈本先生の 御蔭かも知れない。 する、其法は英語を一語々々覺えるのが第一の必要だといふので、 今日は知らないが其頃試驗の際にズルをやる者は隨分澤山あっ 洋紙の小片に一つ宛英語を書いてそれを繰り返し・ / \ 見ては諳記す ズルとは試驗の時に先生の眼を偸んで手控を見たり鄰の人に聞 るまでやる。併し月に一度位の徹夜では迚も學校で毎日やるだけを いたりする事である。余も入學試驗の時に始めて其味を知ってから 追っ付いて行くわけには往かぬ。 ある時何かの試驗の時に余の鄰に居た人は答案を英文で書いて居後はズルをやる事を何とも思はなんだが入學後二年目位にふと氣が ついて考へて見るとズルといふ事は人の力を借りて試驗に應ずるの たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのを其人は自分の 勝手ですらノ \ と書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余であるから不正な上に極めて卑劣な事であると始めて感じた。其以 の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよノ心細後は如何なる場合にもズルはやらなかった。 明治二十二年の五月に始めて咯血した。其後は腦が惡くなって試 くなった。此人は其後間もなく美妙齋として世に名のって出た。 併し余の最も困ったのは英語の科でなくて數學の科であった。此驗がいよ / \ いやになった。 明治二十四年の春晢學の試驗があるので此時も非常に腦を痛め 時數學の先生は隈本 ( 有尚 ) 先生であって數學の時間には英語より 外の語は使はれぬといふ制規であった。數學の説明を英語でやる位た。ブッセ先生の哲學總論であったが余には其哲學が少しも分らな の事は格別むづかしい事でもないのであるが余にはそれが非常にむい。一例をいふとサプスタンスのレアリテーは有るか無いかといふ づかしい。つまり數學と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬに まらない、とう / 、學年試驗の結果幾何學の點が足らないで落第し有るか無いか分る筈が無い。哲學といふ者はこんなに分らぬ者なら こ 0 ( 十四日 ) 余は哲學なんかやりたく無いと思ふた。それだから滅多に哲學の講 義を聞きにも往かない。けれども試驗を受けぬ譯には往かぬから試 余が落第したのは幾何學に落第したといふよりも寧ろ英語に落第驗前三日といふに哲學のノート ( 蒟蒻板に摺りたる ) と手帳一册と を携へたま乂飄然と下宿を出て向嶋の木母寺へ往た。此境内に一軒 したといふ方が適當であらう。それは幾何學の初にあるコンヴァー の茶店があって、そこの上さんは善く知って居るから、斯う / 、で ス、オッポジトなどといふ事を英語で言ふのが余には出來なんだの で其外二行三行のセンテンスは諳記する事も容易でなかった位に英二三日勉強したいのだが百姓家か何處か一間借りてくれまいかと頼 一語が分らなかった。落第してからは二度目の復習であるから初のやんで見た。すると上さんのいふには二三日なら手前どもの内の二階 うにない、餘程分り易い。コンヴァースやオッポジトを英語でしやが丁度明いて居るからお泊りになっても善いといふので大喜びで其 べる位は無造作に出來るやうになったが、惜しい事には此時の先生二階へ籠城する事にきめた。 それから二階へ上って蒟蒻板のノートを讀み始めたが何だか霧が はもう隈本先生では無く、日本語づくめの平凡な先生であった。併 し此落第のために幾何學の初歩が心に會得せられ、從って此幾何學か曳ったやうで十分に分らぬ。哲學も分らぬが蒟蒻板も明暸でな こんにやくにん

2. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

4 在て特に一頭地を出だす者は衆人の尊敬を受け易く、又千歳の古人一文學者として芭蕉を觀るに非すして一宗の開祖として芭蕉を敬ふ % は時代といふ要素を得て嫉妬を受くる事少きなめり。獨り彼の松尾者なり。和歌に於ける人丸を除きては外に例のなき事にて、しかも 芭蕉に至りては今より僅々二百餘年以前に生れて共一門は六十餘州 堂宇の盛なる、芭蕉塚の夥しきは夐かに人丸の上に出でたり。 ( 菅 に廣まり弟子數百人の多きに及べり。而して其齡を問へば則ち五十原の道眞の天紳として祭らるゝは其の文學の力に非ずして主として 有一のみ。 其の人の位地と境遇とに出でたるものなれば人丸、芭蕉と同例に論 古來多數の崇拜者を得たる者は宗敎の開祖に如くはなし。釋迦、 ずべからず ) もち 耶蘇、マホメットは言ふを須ゐず、逹磨の如き弘法の如き日蓮の如 されば芭蕉の大名を得たる所以の者は主として俳諧の著作其物に き其威靈の灼々たる實に驚くべきものあり。老子、孔子の所説は宗 非ずして俳諧の性質が平民的なるによれり。平民的とは第一、俗語 敎に遠しと雖も、一たび死後の信仰を得て後は宗敎と同じ愛情を惹を嫌はざる事、第一「句の短簡なる事をいふなり。近時これに附す 起せるを見る。然れども是れ皆上世に起りたる者なり。日蓮の如き るに平民文學の稱を以てするも亦偶然に非ず。然れども元祿時代 紀元後二千年に生れて一宗を開く、共困難察すべし。殆んや共後三 ( 芭蕉時代 ) の俳句は決して天保以後の俳諧の如く平民的ならざり 百年を經て宗敎以外の一閑地に立ち、以て多數の崇拜者を得たる芭しは、多少の俳書を繙きたる者の盡く承認する所なり。元祿に於け はくしゅ 蕉に於てをや。人皆芭蕉を呼んで翁となし芭蕉を畫くに白髮白鬚六る共角、嵐雪、去來等の俳句は或は古事を引き成語を用ゐ、或は文 七十の相貌を以てして毫も怪しまず。而して共年齡を問へば則ち五辭を婉曲ならしめ格調を古雅ならしむる抔、普通の學者と雖も解す 十有一のみ。 べからざる所あり、況んや眼に一丁字なき俗人輩に於てをや。天保 に於ける蒼軋、梅室、鳳朗に至りては一語の解せざる無く、一句の 〇平民的文學 註釋を要するなく、兒童走卒と雖も好んで之を誦し車夫馬丁と雖も 爭ふて之を摸す。正に是れ俳諧が最平民的に流れたるの時にして、 多數の信仰を得る者は必ず平民的のものならざるべからず。宗敎 ち最廣く天下に行はれたるの時なり。此間に在て芭蕉は其威靈を は多く平民的の者にして、僣侶が布敎するも説敎するも常に共目的失はざるのみならず、却て名譽の高きこと前代よりも一層二脣と歩 はう・ヘんぼん を下等社會に置きたるを以て、佛敎の如きは特に方便品さへ設け其を進め來り、共作る所の俳諧は完全無缺にして祁聖犯すべからざる ゑんぜん 隆盛を極めたるなり。芭蕉の俳諧に於ける勢力を見るに、宛然宗敎者となりしと同時に、芭蕉の俳諧は殆ど之を解する者なきに至れ 家の宗敎に於ける勢力と共趣を同じうせり。共多數の信仰者はあなり。 偶よ其意義を解する者あるも之を批評する者は全く共跡を斷ち がちに芭蕉の性行を知りてそを慕ふといふにあらず、芭蕉の俳句をたり。共様恰も宗敎の信者が經文の意義を解せず、理不理を窮め 誦してそを感ずといふにもあらず、唯芭蕉といふ名の自ら奪くもず、單に有難し勿體なしと思へるが如し。 なっかしくも思はれて、かりそめの談話にも芭蕉と呼びすつる者は おきな これ無く、或は翁と呼び或は芭蕉翁と呼び或は芭蕉様と呼ぶこと、 〇智識徳行 恰も宗敎信者の大師様、お祖師様など乂稱ふるに異ならず。甚しき べう は溿とあがめて廟を建て本奪と稱して堂を立つること、是れ決して 平民的の事業必ずしも貴重ならす、多數の信仰必ずしも眞成の價 はる

3. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

284 旅人の見て行く門の柳かな樗良 一、古雅に長じて他に拙なる者、纎細に長じて他に拙なる者、疎第 春雨や松に鶴鳴く和歌の浦同 に長じて他に拙なる者等の如きは如何の方針を取てか進むべき。 同 我庵は榎許りの落葉かな 應へて日く、一定の方針ある可き理なし。一は自己の長ずる所を けんかく 以上の句は皆句調の巧を求めず、只ありのまゝの事物をありのま して益よ長ぜしめよ。他は自己の及ばざる所に向って研覈せよ。 まにつらねたる迄なれば、誠に平易にして誰にも分るなるべし 9 兩者若し竝び行ひ得べくんば竝び行へ。 而して其句の價値を間へば印ち多くは是れ第一流の句にして俳句一、自己の長ずる一方に向って専攻するの方針を取るも猶多少の變 化を知るを要す。變化を知るは勉めて自己の句の變化を試むるに 界中有數の佳作なり。 在り。勉めて古今の句を多く讀むに在り。古人又は一時代の格調 を模倣するも可なり。 第六修學第二期 一、人あり、古俳人某の俳句の格調他に異なるを見て厭ふ可きもの ありとす。一度自ら其句を摸して稍よ眞を得るに及んで忽ち其格 一、利根のある學生俳句をものすること五千首に及ば又直ちに第二 調の新奇を愛するに至ることあり。故に博く學び多く作るを要 期に入る可し。普通の人にても多少の學問ある者俳句をものする す。 こと一萬首以上に至らば必ず第二期に入り來らん。 一、句數五千一萬の多きに至らずとも、才能ある人は數年の星霜を一、諸種の變化を要する中にも最も壯大雄渾の句あるを善しとす。 經る間には自然と發逹して、何時の間にか第二期に入り居る事多 壯大雄渾の趣は説き難しと雖も、之を形體の上について言はん に、空間の廣き者は壯大なり。湖海の渺茫たる、山嶽の巍峨た し。蓋し自ら多くものせずとも多年の間には他人の句を見、説を 聞くこと多きがためなり。 る、大空の無限なる、或は千軍萬馬の曠野に羅列せる、或は河漢 星辰の地平に垂接ぜるが如き、皆壯大ならざるは無し。勢力の多 一、第一期第二期の限界は判然たるものに非ず。然れども俳句をも き者は雄渾なり。大風の颯々たる、怒濤の澎湃たる、飛瀑の濛々 のする人は初めは五里霧中に迷ふが如く、他人任せに句を作るが たる、或は洪水天に滔して邑里を蕩流し、或は兩軍相接して彈丸 如き感あり。只よ句數と歳月とを積むこと多ければ略よ一句のこ 雨注し、艨艟相交りて水雷海を湧かすが如き、皆雄渾ならざるは なしつき、古人の句を見ても自分の句を見てもあらましの評論も 無し。 出來、何となく自己心中に賴む所あるが如く感ずるに至らん。此 一些事一微物につきても猶比較的に壯大雄渾なる者あり。例へ 邊より上を先づ第二期と定めん。 ば牡丹を見る者、牡丹數輪の花を把り來ると、只よ一輪の牡丹を 一、第二期に入り來る人と雖も、共人の稟性に於て進歩の方法順序 に於て相異あるがために、發逹する部分に程度の相異あるを免れ 把り來るとを比較すれば、一輪牡丹の方花の大きなるやう感ず可 ず。例へば甲は意匠の點に於て發逹したるも言語これに副はず、 し。是れ花の特別に大なるに非ず、一輪なれば比較すべき者なき がためなり。或は庭園中の牡丹を詠ずると、場所を指定せずして 乙は言語の點に於て發逹したるも意匠これに副はず、丙は雅趣を 只よ一株の牡丹をのみ詠ずるとを比較すれば、後者の方牡丹の大 解して纎巧を解せず、丁は繊巧を解して壯大を解せざるが如き是 なるを感ず。是れ亦牡丹の大なるに非ず、比較すべき者なきがた れなり。

4. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

きょむはうふつ す。然れども客の世界に於て文學的の場所を選擇し ( 一 ) それをて一箇窈窕の美人を虚無髣髴の間に想見せしむるもの、これ成功し 文學的に文字に現したる ( 一 l) 處に於て文學といふ固より不可を見たる十七字の姿態なるべしと。誠に此説の如き者あり。只よ其譬喩 ざるなり。客的の俳句數首を左に掲ぐ。 の適切ならざるのみ。俳句に詠ずる所の者を分って二種となすべ さみたれ し、曰く小にして精なる者と大にして疎なる者と、小にして精なる 五月雨や垣根に白き草の花 叟柳 五月雨や眞菰の中に板の橋 者稍、、ある人の譬喩に近し。されども此譬喩全くは當らず。更に之 かっしか 碧梧桐 を小景近寫に譬ふ。大にして疎なる者は或人の言はざりし所、之を 野の道の葛飾あたり蓮咲 靑薄萩の若葉を壓すべ 虚子 疎晝に譬ふ、疎畫は空間の廣きことを許す、局部の精細なることを ( 七月十日 ) 許さざるなり。 若葉せり楠の根株にもり / 、と 瓢亭 うつは 〇器の大小世の人或は俳句を以て器小なりとす。實に十七八字の 天地に俯仰する者なれば之を小説、長篇の韻文等に比して器の小な〇戸外遊戲といふもの古より我邦に存する者鬼事、隱れ子、いく さ事、游泳等小兒のすなるものを除きては其種類極めて少し。其之 る論を竢たず。されど器の小なるを以て之を捨てよといふ人あるに しうきくやふさめかさがけ 至っては其意を得ざるなり。こゝに寶石を納るべきさ又やかなる函れ有るは多く上等瓧會の歡娯に供する者にて蹴鞠、流鏑馬、笠懸、 いぬおふもの を持つ人あり。共人に向って「汝何ぞ此の如き小き器を持って滿足大追物、打毬等なりとす。 ( 鷹狩、牧狩抔は全くの遊戯に非ず、今 の射的の如し。今の大弓は稍よ戸外遊戲に近し ) 共外の戸外遊戲は する。其小き函を捨てよ。其代りに大なる倉庫を建つべし、巨萬の 財産は大なる倉庫に非ざれば納れ難し」と言はんに誰か其愚を笑は皆西洋より來りしものにて中に就きて今最も盛んに行はるゝを端艇 ざらん。函は物を納るべき爲に作らるゝ者、共物小なれば函も隨っ競漕とす。端艇競漕は河上、湖上又は海上數町の間を占むるを以て て小なるを便とす、共物大なれば函も隨って大なるを便とす。而し其空間の廣き點に於て外観を壯ならしむべく又多數の人の覽に供 て其物に至りては大にして善き者あり、小にして善き者あり。兩者するを得べし。只よ此遊戲は ( 他の戸外遊戯に比して ) 多額の費用 各特色あるを以て一を取り他を捨つべからざるは論なし。物已に大を要すると競漕に適せる水面を要するを以て廣く一般に及ぶこと能 あに 小あり。函豈大小なきを得んや。俳句の趣味は其簡單なる處に在はず、僅かに隅田川と横濱海上とに限りたるを近來琵琶湖上にても り。簡單を捨て、複雜に就けよといふ者は終に其の簡單の趣味を解之を試むるに至れり。所謂陸上邇動なるものは端艇競漕を除きて殆 ど總ての戸外遊戲を含む者なり。而して普通に陸上蓮動會又は陸上 せざるの言のみ。落語家日く大は小を兼ぬるといへども杓子は耳掻 競技會と稱する者は競走を主とし高飛、桿飛、幅飛、槌投、クリケ の代りを爲さずと。 ット球、鐵丸技等の種類之に屬す。此れと全く種類を異にする陸上 〇俳句と繪晝世の人或は俳句を誹って曰く共幽玄といひ豪爽とい ふ、概ね十七字界中に就ての評言のみ、其説く所、他の詩文の包容遊戲あり、之を競馬と爲す。遊戲は多く年少血氣の多人數を驅りて 蘿する所に比して、何の幽玄かあらむ、何の豪爽かあらむと。是れ其一場の競爭を試ましむるを常とするに獨り競馬は共仕掛の大なるに 松 人の斯く感ずるなるべし、、山輩の新體詩を無上にありがたがる者比して少人數の ( 比較的 ) 老人を驅り、しかも其費用は端艇竸漕等 には芭蕉蕪村の俳句を説くとも其妙を解せざるは當然のみ。ある人よりも遙に多きを要するを以てこは多く紳士富豪の導有物に歸せ 5 6 。此技我邦人の嗜好に投ぜぬにや近來いよど、振はざるが如し。 又俳句を論じて曰く之を繪晝に譬ふ、單に柳眉を晝きて ( 中略 ) 以 ちゅさんはい はこ おにご一

5. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

を數ふるの必要はありと假定するも、固より七つと知りたる鐘を六囂の聲に驚かされて夢猶全く醒めざる德川政府を根柢より覆して遙 つまで數ふるなど丸でま、事の心中なり。誰れか捧腹絶倒せざらんの沖に運び去りたり。今日日本晝の衰頽は德川幕府の末年に似たる ゃ。要するに道行の文は句々の間に瑕瑾多く全體の上に統一無く 者ありとせば所謂大家の言は自家の危急を知らざる德川氏の誇言に 悪句のかたまりとも謂ふべき者なり。道行以外の文は流暢なる敍事同じきなからんや。吾れは日本畫の運命に於て危む所無き能はざる てうたく に瑕瑾少く其他少しにても彫琢したる所皆缺點あり。近松は終に形なり。然れども吾れは日本畫の滅びよと思ふに非ず、之を永久に榮 式的名文を作る能はざるなり。 えしめんことを欲するなり。之を永久に榮えしめんことを欲すとい 〇以上三子者の優劣は吾れの判ずる能はざる所なれども皆文學史〈ども今日の妝態にては終に永久の持續に堪へざらんことを恐るゝ の上に功績を殘したる點に於て同じく、時代の觀念を除きて評論すなり。 れば皆幾多の缺點ある所に於て亦同じ。試みに世人に向って其優劣〇日本畫は如何にして持續すべきか。吾れは此間に答へて日本晝 はる を間はんか、俳諧の宗匠は多く芭蕉を以て第一と爲さん。然れどもの一大家 ( 今の所調大家より夐かに勝りたる者 ) 出づるに非ざれば 是れ信用すべき言に非ず。何となれば彼等は多く西鶴集林を知らざ 此腐敗せる日本畫を一新し永久に持續すること能はざるべしと言は ればなり。小 説家は多く近松を以て第一と爲さん。然れども是れ亦ん。只恨むらくは人物は必ずしも瓧會の需用に應じて直ちに出で 信用すべき言に非ず。何となれば彼等は多く芭蕉を知らざればな來る者に非ざるを。然らば其の大家に需むる所は如何。大家にして 。而して西鶴を以て第一と爲す者は或る一派の小説家の外恐らく 從來の日本晝と面目を異にする一畫風を創開するあらんか、吾れは は極めて少からん。芭蕉は今日に於て名譽の頂點に逹せり。今後之最も熱心に之を歡迎すべしといへども牙は吾れの希望外にしてこゝ を尊ぶ者漸く少からんか。近松は今日に於て一層の名譽を得んと に論ずる日本畫持續とは間題を異にせり。日本畫持續は從來の日本 ( 九月五日 ) す、今後或は多くの信仰者を得ん。 晝に多少の進歩を爲すを以て足れりとせん。多少の進歩とは種々の 點に於て進歩するを望まざるに非ずといへども主として新意匠に富 やく 〇西洋畫漸く勢を加へ來りて或は日本畫を壓し去らんとするの観まんことを望むなり。試みに今日日本書家の爲す所を見よ。先生躍 けつか・フ りふゃう ざんがん あり。而して一人の日本書家の能く之に頡頏するものあるなし。危鯉浮萍を畫く、第子も亦躍鯉浮萍を畫く。先生巉巖急流を畫き危橋 いかな。所謂日本晝の大家なる者は人の西洋を説くを聞いて唖然と を著け樵夫を著く。弟子も亦巉巖急流を畫き危橋を著け樵夫を著 して笑って曰く言ふ莫れ西洋々々と。洋畫の卑俗なる焉んぞ高尚な く。何ぞ其意匠に富まざるの甚しきや。畫に筆畫色彩ありて自己の る日本畫を壓するを得んや。況して洋畫盛大なりといふと雖も書家意匠無くんば是れ美術に非ずして職工的技術なり。近時職工的技術 の數の僅少なるは日本晝家の千を以て數ふると相比して數に於て優の精密に赴くと共にます / \ 日本畫無からんとするは展覧會を一見 劣既に明かなり。洋畫能く何の點に於てか勝を制せんと。是れ恐らせし人の知る所なるべし。嗚呼日本畫の運命かゝって一縷の絲に在 くは時勢を知る者の言に非るなり。徳川氏の將に亡びんとし薩長の り。危いかな。 漸く起らんとするや、徳川氏は曰く天下の大を保ち三百の諸侯を率〇寫生といふ一事は少くとも西洋畫をして日本畫の如き陳腐に陷 ゐ加ふるに祖宗の威靈を以てす。二三強藩の叛くあるとも能く何事らしめざるの利あり。況んや寫生ならずして好晝を作すこと極めて ツいせ′ノ をか成さんと。何ぞ計らん時勢は海嘯の闇を惓いて來るが如く、囂難きをや。日本畫家曰く寫生は卑き手段なり、理想の高きに如かず い・つれ ・い、フ

6. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

り。同時代に數派の流行せし事を知らずして、無理に各派一系の 2 句をものするには最も宜し。併し名勝舊跡の外にして普通尋常の 傅統を立てんとする者は歴史研究家の弊なり。同時に同様の流行 景色に無數の美を含み居る事を忘るべからず。名勝舊跡は其數少 せりしこと、ち時代一般の特色ありしことを知らずして、其特 、人多く之を識るが故に陳腐なり易し。普通尋常の場處は無數 色を一俳人の専有にせんとする者は個人研究家の弊なり。或は俳 にして變化も多く且っ陳腐ならず、故に名勝舊跡を目的地として 諧を研究する者和歌、漢詩、西詩を知らず、偶某歌詩人の家集 途々天然の美を探るべし。鳥聲草花我を迎ふるが如く、雲影月色 を讀んで日く、此人某俳人に似たりと。而して彼は和歌、漢詩、 我を慰むるが如く感ずべし。 西詩の特色を以て此一人に歸せしが如きこと無きにあらず。文學一、芭蕉は自白して我に富士、吉野の句無しといふ、眞なり。而し 者は學問無かるべからざるなり。 て彼亦松嶋に於ても一句を得ざりしなり。世の文人墨客多く此等 一、俳句をものするには空想に倚ると寫實に倚るとの二種あり。初 の地に到り佳句を得ざるを嘆ずる者比々是れなり。是れ蓋し美術 學の人概ね空想に倚るを常とす。空想盡くる時は寫實に倚らざる 文學を解せざるの致す所か。富士山の形は一般の場合に於て美術 べからず。寫實には人事と天然とあり、偶然と故爲とあり。人事 的ならず。只よ共日本第一の高山たると、種々の詩歌傅説とは之 の寫實は難く天然の寫實は易し。偶然の寫實は材料少く、故爲の をして能く神聖ならしめたるも、其聖なる點は種々に言ひ盡し 寫實は材料多し。故に寫實の目的を以て天然の風光を探ること最 て今は已に陳腐に屬したり。吉野、松嶋の如きは其占有する所の も俳句に適せり。數十日の行脚を爲し得べくんば太だ可なり。公 空間廣くして一見猶幾多の時間を費す者、是天然の美ありとする 務あるものは土曜日曜をかけて田舍廻りを爲すも可なり。半日の も美術的ならざるなり。 ( 印ち美術に爲し得べからざるなり ) た 閒を偸みて郊外に散歩するも可なり。已むなくんば晩餐後の蓮動 とひ美術的なるも俳句には適せざるなり。只此光景を破碎して に上野、墨堤を逍遙するも豈二三の佳句を得るに難からんや。花 幾多の俳句と爲さば爲し得べきも、一部の光景は其地全體の特色 晨可なり、月タ可なり、午烟可なり、夜雨可なり、何れの時か俳 を帶びざるが故に、世人は承知せざるなり。而して芭蕉の如きも 句ならざらん。山寺可なり、漁村可なり、廣野可なり、谿流可な 猶不可能的の景色を取て俳句となさんとカむるに似たり。豈無理 り、何れの處か俳句ならざらん。 なる註文ならずや。況んや松嶋の如きは甚だ天然の美に於て缺く 一、寫實の目的を以て旅行するとも汽車ならば何の役にも立つま る所多きをや。世人は奇を以て美となす、故に松嶋の奇景を以て じ。只よ心を靜め氣の散らぬゃうに歩む方最も宜し。靴下駄より 日本第一の美となす。誤れるの甚しきなり。古來松嶋の名詩歌な も草鞋の方可なり。洋服蝙蝠傘よりも菅笠脚袢の方宜し。連なき く其名畫なき固より共處なり。若し松嶋の詩歌俳句等にして秀俊 一人旅殊に善し。されど行手を急ぎ路程を貪り體力の盡くる迄歩 なる者あらば、そは必ず松嶋の眞景に非ざるなり。 ( 吉野は我之 むは却て俳句を得難し。たま / 、知らぬ地に蹈み迷ひ足を引きず を知らず、故に鉉に論ぜず ) りてやう / 、に夜山を越え山下に宿を乞ひたるなどは此限にあら一、今試みに山林郊野を散歩して其材料を得んか。先づ木立深き處 ず。 に枯木常磐木を吹き隝す木枯の風、とろ / \ 阪の曲りアに吹き 一、普通に旅行する時は名勝舊跡を探るを常とす。名勝舊跡必ずし 溜められし落葉の又はら / 、と動きたる、岡の邊の田圃に續く處 も美術的の風光ならずと雖も、しかも屋史的の聯想あるが爲に俳 斜めに冬木立の連なりて其上に鳥居ばかりの少しく見えたる、冬

7. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

286 究すること小説家の如く精細なるを要叱ずと雖も、天然を講究す一、題目已に壯大なるあり、題目已に纎細なるあり。四季の題目を 以て之を例せんに る事は成る可く精微なるを要す。蓋し精細なる人事は之を十七宇 中に包含せしむる能はずと雖も、精細なる天然は包含せしめ得ペ 夏山夏野夏木立靑嵐五月雨雲の峰秋風野分 き者多ければなり。 霧稻妻天の河星月夜刈田凩冬枯冬木立枯野 一、纎細精緻なる句は一々に引例に及ばざる可しと雖も、見當りた 雪時雨鯨 る者數首を取りて左に列記せん。 等は其壯大なる者なり。又 たん みづすましまひ / 、 蒲公英や葉を下草に喙て居る秋瓜 東風菫蝶虻蜂孑孑蝸牛水馬虫蜘子蚤 草刈りて菫選り出す童かな鸛歩 蚊撫子扇燈籠草花火鉢巨燵足袋冬の蠅埋 白魚をふるひょせたる四つ手かな其角 火 同 鶯の身をさかさまに初音かな 等は其纎細なる者なり。壯大を壯大とし纎細を纎細とするのは普 杜若しぼむ下から開きけり 自友 通なれども、時としては壯大なる題目を把て比較的纎細に作する 愛らしう撫子の花つぼみけり の技倆も無かるべからず。例へば五月雨を詠ずるに 萩の花追々こけてさかりかな孤舟 雲濡れて温泉を吐く川や皐月雨春來 草の葉や足の折れたるきりノ、す荷兮 山陰に湖暗し五月雨吟江 臼起す小春の草のほのかなり 吟江 と大きく深くのみものせず、却て 埋火に年よる膝の小さよ咫尺 五月雨に蛙のおよぐ戸口かな杉風 はこペ草枯野の土にしがみつ 三味線や寢衣にくるむ五月雨其角 一、壯大なる事物は少く纎細なる事物は多し。數箇の纎細なる事物 などゝやゝ纎細にものするが如し。又これと同じく纎細なる題目 を合すれば一箇の壯大なる事物となる・ヘく、 一箇の壯大なる事物 も時として比較的壯大に作するの技倆なかるべからす。例へば胡 を分てば數箇の纎細なる事物となる・ヘし。 蝶の題にて 一、壯大を見る者纎細を見得ざるが如く、織細を見る者亦壯大を見 寐る胡蝶羽に墨つけん縁の先坡仄 得ざるが多し。注意せざるべからず。 飛びかふて初手の蝶々紛れけり 嘯山 一、壯大にも雅俗あり、纎細にも雅俗あり。壯大を好む者單に壯大 とやさしく美しく趣向っけるも固より善けれど、そはありうちの を見て雅俗を判するを知らず、纎細を好む者單に繊細を見て雅俗 事なり。これを少し考へ變へて を判するを知らず。今の宗匠者流は纎細にしてしかも雅致を解 ある程の蝶の數見るつむじかな せず、俗趣を主とす。故に其句俗陋なり。今の書生者流は壯大に 眞直に矢走を渡る胡蝶かな木導 偏してしかも熟練を缺く、故に陳腐に陷らざれば必ず疎豪にして 趣味の解す可らざる句を爲す。他人の句を評するも亦之を標準と 一、雅樸を好む者婉麗を嫌ひ、婉麗を好む者雅樸を嫌ふの癖あり す。纎細なる者は膽を大にすべし、壯大なる者は心を小にすべし。 之を今日の實際に見るに、昔めきたる老人は雅樸の一方に偏し かきつばた ぼうふり

8. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

( に ) 第三基 ( 基を置く ) ( は ) 第二基 ( 基を置く ) ( 一 ) 攫者の位置 ( 攫者の後方に網を張る ) ( 三 ) 短遮の位置 (ll) 投者の位置 ( 四 ) 第一基人の位置 ( 五 ) 第二基人の位置 ( 七 ) 場右の位置 ( 六 ) 第三基人の位置 ( 九 ) 場左の位置 ( 八 ) 場中の位置 直線いほ及びいへ ( 實際には線無し、或は白灰にて引く事あり ) は無限に延長せられたるものとし直角ほいへの内は無限大の競技場 ストライカー たるべし。但し實際は本基にて打者の打ちたる球の逹する處印 ち限界となる。いろはには正方形にして十五間四方なり。勝負は小 勝負九度を重ねて完結する者にして小勝負一度とは甲組 ( 九人の味 方 ) が防禦の地に立つ事と乙組 ( 即ち甲組の敵 ) が防禦の地に立っ 事との二度の半勝負に分る又なり。防禦の地に立っ時は九人各其 、三等の位置を取る。但し此位置は勝負中多少 専務に從ひ、一、 動搖することあり。甲組競技場に立っ時は乙組は球を打つ者等一二 人 ( 四人を越えず ) の外は盡く後方に控へ居るなり。 〇べ 1 スポ 1 ルの勝負攻者 ( 防禦者の敵 ) は一人づっ本基 ( い ) より發して各基 ( ろ、は、に ) を涌過し再び本基に歸るを務とす、 ホームイン 斯くして歸りたる者を廻了といふ。べースポールの勝敗は九勝負終 りたる後ち、各組廻了の數の總計を比較し多き方を勝とするなり。 例へば「八に對する二十三の勝」といふは乙組の廻了の數八甲組廻 了の數二十三にして甲組の勝なりといふ意なり。されば競技者の任 務を言へば攻者の地に立っ時は成るべく廻了の數を多からしめんと し、防者の地に立っ時は成るべく敵の廻了の數を少からしめんとす るに在り。廻了といふは正方形を一周することなれども其間には第 蘿一基第二基第三基等の關門あり、各關門には番人 ( 第一基は第一基 松 人之を守る第二第三皆然り ) あるを以て容易に通過すること能はざ るなり。走者 ( 通過しつある者 ) 或る事情のもとに通過の權利を 7 失ふを除外といふ。 ( 普通に殺されるといふ ) 審判官除外と呼べば アウト 走者 ( 又は打者 ) は直ちに線外に出でて後方の控所に入らざるべ からず。除外三人に及べば其の半勝負は終るなり。故に攻者は除外 三人に及ばざる内に多く廻了せんとし、防者は廻了者を生ぜざる内 に三人の除外者を生ぜしめんとす。除外三人に及べば防者代りて攻 者となり攻者イ 弋りて防者となる。此の如くして再び除外三人を生す れば部ち第一小勝負終る。彼れ攻め此れ防ぎ各防ぐ事九度、攻む る事九度に及びて全勝負終る。 〇べースポールの球べースポールには只よ一個の球あるのみ。而 して球は常に防者の手にあり。此球こそ此遊戲の中心となる者にし て球の行く處印ち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戲の中心も 常に動く。されば防者九人の目は瞬時も球を離るゝを許さず。打 者走者も球を見ざるべからず。傍観者も亦球に注目せざれば終に共 要領を得ざるべし。今尋常の場合を言はゞ球は投者の手に在りて 只よ本基に向って投ず。本基の側には必ず打者一人 ( 攻者の一人 ) 棒を持ちて立つ。投者の球正當の位置に來れりと思惟する時は ( 印 ち球は本基の上を通過し且つ高さ肩より高からず膝より低からざる 時は ) 打者必ず之を撃たざるべからず。棒球に觸れて球は直角内に フェアポール 落ちたる時 ( 之を正球といふ ) 打者は棒を捨て乂第一基に向ひ一 ストライカー 直線に走る。此時打者は走者となる。打者が走者となれば他の打 者は直ちに本基の側に立つ。然れども打者の打撃球に觸れざる時は 打者は依然として立ち、攫者は後 ( 一 ) に在りて其球を止め之を投 者に投げ返す。投者は幾度となく本基に向って技ずべし。此の如く して一人の打者は三打撃を試むべし。第三打撃の直球 ( 技者の手を 離れて米だ土に觸れざる球をいふ ) 棒と觸れざる者攫者能く之を攫 し得ば打者は除外となるべし。攫者之を攫し能はざれば打者は走者 となるの權利あり。打者の打撃したる球空に飛ぶ時 ( 遉近に關せ ず ) 共球の地に觸れざる前之を攫する時は ( 何人にても可なり ) 共 ( 七月一一十三日 ) 打者は除外となる。 ストライカー インニング

9. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

「 : : : その三十一年の部の前半について、次の幾つかのことが想 の水害のとき、水浸しになって手のつけられなくなった『竹乃里 定出來るやうに思はれる。一つは、此の三十一年の前半、歌數か 歌』の稿本を左千夫から見ぜられたと、土屋文明氏に語ったことが ら言〈ば三十一年中の四分の三許りは、必しも三十一年製作の順 あるといふ。 を追って記されたものではなく、百中十首の選を求めるのを直接 ところが戦後になって、誰もが永久に失はれたと思ってゐた子規 の動機として、舊案をも一時に整理抄録したものであらうといふ 自輯の『竹乃里歌』が、どういふ經路でか明かにはされてゐないけ ことである。百中十首は、遠人選となってゐる『夜の戸をさゝぬ れども、正岡家の當主忠三郎氏の手もとに歸って來たのである。そ 伏屋の蚊帳の上に風吹きわたり螢飛ぶなり』が、正岡本の二十八 れは土屋氏によれば、半紙縱二つ折りの袋綴、二百四十八枚の、紙 年の部に見られる外は、すべて三十一年の部に見られるが、金州 捻綴にした册子で、明治十五年以後三十三年までの歌が録してあ 諸作を始めとして、その起原はもっと前にあったらうと思はれる る。短歌千九百三十三首、中十四首は重出歌、未完結短歌と思はれ 作が少くない。二十九年には、全集收録の作もなく、正岡本にも る十首、長歌五首、旋頭歌十一一首、未完結旋頭歌と思はれる一首、 全く缺けて居るのであるが、二十九年著想の作も、三十一年整理 新體詩十五首、端唄八首である。 に當って、推敲完成の上三十一年の部に收録されたといふことも その原本の形を出來るだけ損はないやうにして、全歌集を兼ねて あり得るやうに思はれる。同じ事情は三十年についても、或る程 刊行されたのが『正岡子規全歌集竹乃里歌』で、編者は土屋文 度あてはめられるのかも知れない。又二十八年以前の部は、原形 明、五味保義兩氏。昭和三十一年十一月に刊行された。所收の歌數 は早くから存したとしても、三十一年の部の整理と並行して再整 は五味氏によれば、二千四百三首、内短歌一一千三百三十九首 ( 外に 理集輯されたと考へられるかも知れない。百中十首が『歌よみに 完結せざるもの十 ) 、長歌十八首、旋頭歌十二首 ( 外に完結せざるもの 與ふる書』を契機として、その實行面として企てられた如くに、 一 ) 、新體詩十五首、端唄八首。新體詩・端唄は別として、これが今 『竹乃里歌』の現在見る如き形を取るに至ったのは、百中十首が 日集めることのできる子規の和歌の總數である。 動機であると言っても大過なきゃうに思はれる。」 ここにはもっとも完全な子規の和歌の蒐集として、これを再録す このことから、本集の『竹の里歌』における明治三十一年の歌の ることが望ましいのだが、あまりに分量が多いので、見合ぜざるを えなかった。そして次善の策として、七人の弟子が直接原本『竹乃制作の年を、二十九年まで遡らせることができることになる。それ 里歌』に據って選出した、最初の子規歌集『竹の里歌』をこれに當は、明治三十一年に、突然始まったやうに見える子規の短歌革新の てた。全歌集の約四分の一が收録されたわけだが、子規が短歌革新事業が、實際は二十九年ごろから實作を重ねて來た成果の上に企て られたものであることを推量させる。 の意欲を持った明治三十年以降の作品に限られてゐるから、その範 なほっいでに言へば、伊藤左千夫が蒙ってゐた濡れ衣は、この原本 解圍では、採録比率はもっと上廻るはずである。 の發見で一應晴れたものとい〈よう。そして茂吉が見たといふ『竹 なほ原本『竹乃里歌』においては、明治二十九年の作歌を缺き、 三十年は愚庵から贈られた柿の歌五首のみであり、三十一年の歌數乃里歌』稿本は、遺稿編輯に關與した七人の廻覧した本として、別 に編輯幹事の抄寫した『竹乃里歌』の三十年以後の部があって、そ はもっとも多い。そのことについて、土屋氏の「竹乃里歌解説」の 4 の抄出本が水害に水沒したのではないかと、土屋氏は推測してゐる。 欽の一章が參考になる。

10. 日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

た。もうひとつの、殘された極は子規の體質行させ、その燈をかかげながら萬葉集・源實 とも革新的短歌論の提唱者として子規の先輩 であった。三十一年に發表する子規の、「歌に合ったリアリズムの様式であった。これら朝・良寬・田安宗武・大隈言道・橘睹覧など よみに與ふる書」は、論文そのものとして較二つの極が、具體的に作品のうえにどのようを發見して行った。大判のはなやかな機關誌 べれば「亡國の音」よりも、より精緻にしてに實現してくるかを典型的に示す作例があ『明星』をもって、全國的に若い新しい亠円年・ 戰鬪的ではあったけれども、鐵幹の『東西南る。實作のことになれば、明星派としては鐵女性を集めている新詩瓧に對して、根岸短歌 北』に寄せた子規の序に、「余も亦、破れた幹作品よりは、晶子の作品によるのが好都合會は三十一年三月にはじめての會合をひらい たが、俳句關係の弟子たち五、六人の集りに る鐘を撃ち、銹びたる長刀を揮ふて舞はんとである。ともに明治三十三年の作品である。 まさご 欲する者、只々其カ足らずして、宜しく鐵幹 0 眞砂なす數なき星の其中に吾に向ひてすぎなかった。岡麓のグループが翌年二月 に、伊藤左千夫がさらにその翌年一月、長塚 子規 光る星あり に先鞭を著けられたるを恨む。」と書いたの 〇夜の帳にささめき盡きし星の今を下界節が三月から來るようになってようやくコー は、謙遜でも虚勢でもなかったのである。 スにのりはじめた。現代の巨大な短歌結瓧ア の人の鬢のほっれよ 「歌よみに與ふる書」においても子規は、あ ますところなく偶像破壞者としての面目を發ともに星を材料にしてうたって、これだけラ一ラギ派の源流は、そういう从態であった。 揮している。古今集 , ーー新古今集歌風 ( 平安ちがう作柄を實現するのである。前者が人間子規は、じぶんの短歌・長歌・旋頭歌・新 朝和歌様式 ) の徹底的否定に對して、萬葉集中心的・地上的とすれば、後者は人間離れ體詩その他二千餘の作品を集めた稿本『竹乃 里歌』をみずから編んでいたが、その原稿は 的。。ハラダイス的である。 歌風 ( 奈良朝和歌様式 ) の強力な肯定という立 場をとった。その兩様式を、アイディアリズ子規が短歌をつくりはじめたのは前記のよ子規歿後行方不明になっていた。そのため、 ムとリアリズムとの對立として典型化してかうに俳句よりも早く、明治十五年からの作品從來數種類の子規の歌集が、それぞれの編者 んがえれば、子規は後者をえらんだのに對しが殘っている。田舍の舊派の師匠の手ほどきの校訂によって刊行されてきた。それらのう て、鐵幹は前者の立場をとるものであることをうけて以來、二十五年ころまでの作には後ちもっとも數多くの作品を集めているのが は明らかである。俳句における子規とは、こ年の作風をおもわせるものはほとんどない。『定本子規歌集』 ( 寒川陽光編、昭和三年三月、ア のところでかなり相異が出ているとみられ新しい調子の出はじめるのは二十八年ころかルス刊 ) と、改造瓧版全集第七卷 ( 昭和五年五 る。俳句においては唯一者であった子規は、らで、三十一年以後の作風はすっかり變って月刊 ) とである。 様式上の對立者としての芭蕉と蕪村とを、そいる。その年は「歌よみに與ふる書」の發表子規自筆稿本『竹乃里歌』は、半世紀以上 門 れら先逹の眞實の姿を發見しつつ、ともに認された年でもあって、つまり理論と實作とがも行方不明になっていたが、戦後になって遺 子めて行った。兩極を、じぶんのなかで綜合し車の兩輪のような關係で新しくなってゆく過族の手にもどり、それをもとにして、昭和三 た。あるいは、綜合するよりほかなかった。程を示している。その意味で、短歌革新は俳十一年十一月、岩波書店から『正岡子規全歌 短歌のばあいでは、アイデルな様式につい句革新よりもさらに意識的・戰闘的であった集・竹乃里歌』が刊行された。これには短歌 てはすでに據點がつくられていた。子規は他が、同時に試行錯誤をくりかえしながらの手二千三百三十九首のほか少數の長歌。新體詩 の、もうひとつのポールを確保すればよかっさぐりのようなコースでもあった。理論を先その他を含めているが、短歌については前記