9 た。けれども女の方でも後には、そんな考〈でのみ此方の扶助を甘 いきさっ いやおう 私は金を返さうと主張する女の心の奥に潜んでゐる何物かを凝乎 んじて受けてゐなかったことは、長い間の經緯で否應なしに承知し と疑ってみた。それで、さうなれば、どんなに金を山ほど積んでも てゐる筈であった。 倍々、金では濟まされないといふことになる。けれども、そんな者 「うむ、それは、あんたのいふとほり、初はそんなことを云ってゐ が、若しあっては、彼女が私に對してとかく眞實のある返答を避け たことも覺えてゐる。けれどもお前も段々、そんなつもりばかりでようとするのもその筈である。可矣、それなら此方にもそのつもり 私に長い間依賴してゐたのではなかったらう。」 がある。 さういふと、女はそれに何といって應へたらい又かと、ちょっと 「私は金が取り戻したいなどとは少しも思ってゐない。けれども、 考へてゐるやうであったが、 あんたが眞意を打ち明けて、私の處に來てくれようといふ心が全く 「そない金《て、お金のことをいはんとおいとくれやす。」と、ま無いものなら、私も有り餘る金ではないから、それで濟ますといふ たロを突いていった。 譯には行かぬ。金でも返してもらふより爲方がない。」 それで、大分心が平靜に復ってゐた自分は又感情が激してきて、 「ほんなら何ぼお返ししまよ。」 「金のことをいはんと置いてくれて、私は好んで金のことをいひた 女は本當に金を返す氣らしい。 くはない。けれども出來ぬ中から無理をして出來る限りの事をして さうなると、やつばり自分は元々金よりも女の方に鮑くまで未練 上げたといふのは、そこに、とても一口では言ひ盡すことのできぬ があるので、ロの中で云ひ澱んでゐると、女は重ねて、 私の眞心が籠ってゐるからぢゃないか。何も金が惜しいのでいふの 「なんぼでよろしい。」と、いって、此方の意向を測りかねたやう ぢゃない。」 に私の顔を見守りながら、 女はやつばり簟笥に凭りかゝりながら、 「私もさうたんとのことは出來ま〈んけど、何ぼくらゐか、云うて 「それはよう解ってます。 : そやからお金をお返ししますいうてみとくれやす。」 ます。何ぼお返ししまよ。」 女が金で濟まさうとするらしい意向が見えればみえるほど自分 「いや、私は金が返してほしいのぢゃない。今お前がいふやうに、 は、この女は金錢などには替 ( られない、自分にとっては何物にも 私がこれまで爲たことが、よう解ってゐるなら、少しも早くその商優る、欲しい物品であるのだと思ふと、どんなにしても自分の所有 賣を止めてもらひたい。」 にしたい。 女はそれに對して確答を與へようとはしないで、 「私は金は返して欲しいとは思はない。けれどもあんたが金を返し 「お金をお返ししさ〈すりや、あんたはんに、そんな心配してもらて私との約束を止めようといふのなら、私は初から上げた金を全部 はんかてよろしいやろ。」 返してもらふ。」 私の靜まりかけてゐる心は又しても女の云ひやうで激してくるの 「初からの金て、どのくらゐどす。」 であった。 「それは、あんた自分でも知ってゐる筈だ。いっかの手紙にも書い 「お前は、お金をどれだけか私に戻しさ ~ すれば、それで私と今ま たくらゐはあるだらう。」 での事が濟むと思ってゐるのか。」 すると、女は勃然として、 むつ
なん 「何云うてはるのやろ、來んちふことがおすもんか、毎日々々來てさんどした。やさしい、えゝ人どすせ。」 8 プはりますがな。 「あ、さうかねえ。」と、田原は輕く返辭をしたが、さうなるとも : お重さんは又思ひ切ったひ物をしやはるよっ う自分の方からその上餘計な口を利かうとせずに、對手のロを探っ 彼女は、隣家の人間が、女と田原と兩天秤にかけて、うまいことてみた。彼は彼女の抱へられてゐた家へは一と頃始終出入りしてゐ をしてゐるやうにいふのである。田原もそれには、どちらを信じてたのである。 「この頃は行かないのか。」 可いか甚だ迷った。人柄や身分からいったら女の隣家の人間は家主 「えゝ、近頃ちょっと往きまへん。やつばりその時の番どすさか の隱居さんとは、まるで違ってゐた。けれども、あれきり男が來ぬ から といふのも、どうも空つきし嘘とも思へなかった。田原は、やつばい。」 り、人のいふことばかりは安心して信じてゐられないので、身を斬 田原はそれまで、いろ / 、に迷ってとても效果はないと知りなが るやうな庭の寒氣に身を曝しながら根氣よく毎晩のやうに、そうつらも、ある手蔓で、始終泣廓に出人りしてゐる松原警察の刑事に賴 と女の家の路地の入口のまはりを徘徊して、それらしい人間の出入んだり、又大阪の方に本部のある私立探偵社などの手で探らした りを見張ってゐた。が、つひぞそんな男に出會はなかった。 りしてみたが、駄目であった。それでその日は餘分に療治代を遣っ て、明日も又來てくれる約束をして歸した。 翌日療治がすんだ後で、田原はや又改って、 さうしてゐるうちにも日の經つのは存外早くって、寒い一月二月 はいっしか過ぎて、ぢきに三月になり四月が來た。去年の冬の初紅「時に、あんたに一つお願ひしたいことがあるんだがねえ。」 「何でごはりますか、私で叶ひますことやったら。」 葉の散る頃から丁度京都の冬空の色と同じゃうに、陰氣に鬱結して ゐた田原も、その頃になると東京から知った者がやって來たりし 按摩は脱ぎ棄てた羽織を取って引掛けながらいった。「實はねえ、 て、少しはそのために氣まぎれたりすることもあったが、深い失望その金山といふ妓と自分とは大分人組んだ關係があるんだ。ところ と無念に傷けられた、生々しい胸の創痍は春が來ても花が険いても が、あの女の旦那といふのが誰れだか分らないんだ。それをぜひ知 癒すべくもなかった。そして昔しの仇討ちを志願してゐる者が年中りたいと思って隨分苦心して訊ねてゐるんだが、どうしても分らな 仇敵にめぐり會ふ機會を待ってゐるやうな苦しい緊張した心持ちをいのだ。それで君におねがひといふのはその旦那が何處の何といふ 人間かうまく訊き合はしてもらひたいと思ふんだ。」 續けて、さまみ、に肝膽を碎いてたが一向手がかりもなかった。 やがて京都の春も老いて初夏になった。ある日田原は宿に命じて すると、山科の在所産れであるといふ小膿らしい按摩は、臆病さ 按摩を呼ばした。按摩はまだ三十ばかりの男であったが、話の様子うな顏になって、 とくい 「へえ、そら何とかして訊いてみたら、分らんこともおへんやろ では、その顧客先きは主に祇園の廓にあるらしかった。田原は何氣 が、その爲に又向うに迷惑をかけて私の商賣の妨害になるやうなこ なく按摩を對手に祇園の妓女の話などをしてゐると、彼は田原の關 係のある女のことをもよく知ってゐた。 とでもおしたら、ちょっと此方が困りますよって。」 「あの人もう疾うに引かはった。先の金山さんですやろ、よう知っ 「大丈夫だよ。君、そんなことのある筈はない。それとなく氣に掛 てま丁。今度又その後の金山さんが出來ましたけど、 : ・えゝ太夫けておいて、噂ばなしの中に自然に訊かうとするのでなければうま
子ーーーさう云ったものに魅せられた不吉な子であるやうな感じがさ れた。私たちは歩くのに疲れた。それらしい影にも見當らなかっ 「嘘ちゃないのか ? 斯うなってから嘘をついたって仕様がない こ 0 かすり よ。男らしく正直に云っちまふんたな。嘘ぢゃないか ? ー 「この邊で鳥打帽をかぶって飛白の着物を着た十八九位の學生風の 「嘘ぢゃない : 私と弟とが代る , ぐ、訊ねたが、はどこまでも斯んな風に云ひ張男が二人、ぶら , , 、やってゐたのに氣がっきませんでしたでせう か ? 」と、私は停留場のそばの踏切番だか轉轍手だかの小屋の前に った。 立って、二三人ゐた若い男の人たちに訊いた。 「ではその秋山と云ふ子も七里ケ濱から長谷〈引返したのか ? 」 「さあ : : : 氣がっかなかったが、それは何時頃のことですか ? ー 「ウム : 「何時頃ってはっきりしたことはわからないんだが、この邊で待っ 「どう云って ? 」 「貴様時計を賣ったら長谷〈歸って來いって。歸って來なかったらてることになってゐたんで = : = 」 「どうも氣がっきませんでしたね : : : 」さっきから幾度もその邊を ひどい目に會はすって・ ぶらノ、やってゐたので、舊式な鳥打帽をかぶった私を刑事とでも 追求すればするほど、私たちは混亂ともどかしさを感じた。兎に 角の云ふなりになって、長谷の停留場に着くと、私たちは電車の思ったかのやうな顏して、彼等の一人は云った。 私たち三人はそこからまた電車に乘り、驛前で下りて、警察署の 下り口をとは離れて、改札ロの外 ( 出ると、とは十間程も後に 離れて、をその邊をぶら / 、歩かせた。は海岸通りの暗い方〈すぐ前の蕎麥屋にはひって、私と弟とはビールを飮みには天丼を 住ったり、引返して線路を越えて大佛の方 ( 往ったり、雨あがりのあてがひながら、また同じことを繰返してに訊いた。がどこまで 路を日和下駄でチョコ / 、と歩いた。袴を穿いて、短いマントの帽押して見ても、の答 ( は同じだった。 「ほんとに嘘ちゃないのか。警察へ行ってからでは、どうにもなら 子をかぶって、猫脊の恰好して、チョコ / 、と私たちのさきになっ て歩いた。路次めいたところ〈這人って行ったり、明るいところ〈なくなるんだよ。お前がいくら剛情を張ったって、刑事も居るし、 出て來たり、さうして三十分餘りもそちこち歩いてゐたが、私の氣お前の嘘なんか通りつこないんだからね。それがはっきりしないう ちは幾日だって留められるよ。今のうちお前がはっきり云ふと、僕 のせゐか、の歩調がだん / \ 速度が加って行くやうに思はれた。 後で考〈ると、その時の脚がだん / 、震 ( て來て、自然にさ等がどんなにも謝って許して貰ってやる事も出來るけれど、警察〈 がその時にはさうとは考〈なかつ出てまで嘘をついたとなると、ほんとにたゞごとでは濟まないこと うした歩調になったのだらう たので、自業自得とは云ひながら、八幡前の時計屋で朝飯を喰べたになる、お父さんだって隨分迷惑をせにゃならんことになるんだか きりで空腹でもあらうし、また相手の奴等にはすっかり脅迫され切ら、今のうちにほんとのことを云って呉れ = = = 」と、私たちは氣が 良 ってゐるので、其奴等が掴った際の後難を怖れて、氣が氣でないの氣でなく、賴むやうにしつこく云ったが、 不 ・ : 」と、は云ひ張った。 「嘘ちゃない : ではないかと思ふと不憫でもあったが、またさうして私たちのさき 「どうもそれでは仕方がないなあ . と、私たちは諦らめるほかなか 幻になってマントの帽子を深くかぶってチョ「 / 、と默って行ったり 3 った。單に時計だけのことだとまた考〈ゃうもあるとしても、不良 來たりしてゐる姿を見ると、何かしら凶兆の小黑い烏めいたものの
てゐられないと云ふ腹だった。 ・ 6 ことをしたのかなあ。氣をつけろ ! 」と私は叱ったが、それにして 「こっちで預かると云ふ譯にも、 ・ : まだそれだけの手續きがつい も一人の惡智慧でなかったと云ふことが、自分としてはせめても てないことだからな」 の慰めであった。 「でもさうした不良少年の品物を私たちが家に持って歸ると云ふの 「そんなものが居るんですかねえ、おっかねえや / 」と、お寺の もなんですから、どうか時計はこちらで : : : 」 婆さんやおせいたちも舌を卷いた。 「では、こっちで預っても仕方がないんだが、まあ = ・ : ・」と、警部 翌日は春季皇靈祭で、睛れたいゝ天氣であった。境内の櫻もぼっ をとり 補は苦笑しながら時計を片寄せた。 ぼっ険きかけてゐた。私たち三人して、を囮にして、不良少年を 「それではその相手の奴等を引張って來て、此奴の云ったことに間 狩り出さうと云ふ譯である。多少興味のあることでもあった。 違ひないやうでしたら、何とか此奴の處分だけは許していたゞけま 「逆縁ながらそれではひとつ、敵討に出かけてやるかな」と、私は せうか。何しろ免从式前でもあり、入學にも差支〈るやうなことに笑 0 て云「たりした。「僕が餘り創作が出來な」ので、の奴とん なるんで、何とか處分だけは許していたゞきたいと思ふんですが」 だ創作をやった」と、云ったりした。には昨日の通りの服裝をさ と、警部補の顏に視人りながら哀願の調子で云ったが、 せた。「鞄は置いて行ってもい又だらう、マントを着てるからわか 「それはいづれ明日署長と相談の上で、すべて署長の意見にあるこ らないから」と云ったが、鉤裂きのま乂の袴に日和を履かした。私 とですから : : : 」と、彼はやはり冷淡な調子で云った。 たちは各自にステッキや、井出君は太い竹の棒を持った。「不良少 外に出て、私たちはす 0 かり疲れ切 0 て驛前から自動車で寺に歸年なんて生意氣だ ! ま〈たら毆り「けてやらうか ! 」と、井出 ったが、井出君も東京から來てゐた。 君は逞ましい腕に力をこめて云った。 「警察で云ったことは嘘ぢゃないんだらう ? 嘘だったらたい〈ん 「しかしそんな奴等だから、刃物位は持って居るだらうから油斷し だぞ、もう本式にな 0 ちま 0 たんだからね。でもまだ今のうちなちゃ」けませんよ」と、私は注意した。警察の手にまる前に自分 ら、嘘なら嘘だ 0 たと云ふと、これからでも行 0 て謝 0 て來てやる等の方でま ( 、誠意を以て彼等の改悛を求め、場合に依 0 ては自 が・ = = ・」と、やつばし私には腑に落ちないところがあるので訊いた分等もいっしょになって警察〈謝ってやってもい、と思った。 「それでは出かけて來るからね、晩にはどっさり御馳走をこしら ( 「嘘ちゃない」と、は云った。 て置いて呉れ、凱旋祝ひをせにゃならんから : ・ : ・」とおせいに云ひ 「奧で警部さんにどんなことを訊かれた ? 」 つけて、私たち四人は九時過ぎに寺を出た。 「お母さんがあるのかないのかとか、どうしていっしょにゐないん 弟を先頭に、それから二十間ほど離れて、それからまた二十間 だとか : : : 」 程後になって私と井出君とは並んで、ゆっくりした歩調で建長寺前 「そんなことだけか ? 」 の通りを町の方 ( 繰出して行った。うらゝかな春の日の光りとは、 「さうだ」 そぐはないやうな自分等の氣持だった。八幡前の石段を登り、神前 けいだい 「それにしても、警部さんの前であれだけの答辯の出來る人間が、 に好首尾を祈り、表の高い石段を降り、境内の舞樂殿の附近や石の 不良少年見た」な奴等に威嚇かされた位で、どうしてこんな馬鹿な鳥居前のあたりなどでは、特に目に 0 き易いやうにをぶら / \ さ
なんでせうが兄さんは少しその禪の方へ、凝ってると云ふ譯でもな して置きたいから : : : 」 「いやさう云ふ譯でしたらなんですけど、三月と云ってももうぢきいんでせうが、多少頭を使ひ過ぎる爲めもあるんぢゃないでせう ですからね、さんが中學に入りさへすれば、また私たちの方で預か、私なんかには分りませんけど : : : 」 「そんなことはないよ。禪とは別問題ぢゃないか。誰が禪見たいな ってもどうにでも都合がっきますからね : : : 」 「いや僕もそんなことも考へない譯ではないがね、僕も實はおやち阿呆らしいものに引かゝって、自分の生きる死ぬるの大事なことを のところへ歸りたいのだよ。一切を棄てて、おやぢといっしょに林忘れる奴があるか ! 」と、私はムッとして聲を勵まして云ったが、 多少圖星を指された氣がした。 檎の世話でもして、兎に角永く活きる工夫をしたい。僕も死にたく ないからね。このまゝで行ったんでは俺の健康も永いことはないと 「それでは兎に角行李を詰めませうか」と、弟はおとなしく起っ 云ふことが、此頃だんノ、はっきりと分って來た。君、おふくて、次ぎの室の押入れからの行李を出して來た。 學校へは急に鄕里に不幸が出來て歸ることになったからとに云 ろ、君はまたあんなことになるし、今度はどうしても俺の番だと 云ふ氣がして、俺もほんとに怖くなって來た。こは昔地獄谷と云はせて、學校道具を持って來させた。晝のご飯を運んで來た茶店の って罪人の刑場だったさうだが、俺は唯佛様の居る慈悲の里とばか娘も殘って居て手傅ったが、私の腹の底は視透かしてゐるらしいの り思ってやって來たんだがね、さう聞いて見ると成程この二年は地だが、ロへ出しては云ひ出さなかった。寺の老和尚さんも「さうか 獄の生活だったよ。こゝを綺麗にして出るとなると七八百の金が要よ。坊やは歸るのかよ。よく勉強してゐたやうだったがなあ : : : 」 るんだがね、逃げ出した爲め e 君のやうな別な地獄へ投り込まれる と云ったきりで、お婆さんも、いつも私がを叱る度に出て來ては 事になるかも知れないがね、それにしても死訷に脅かされて居るよ とめて呉れるのだが、今度は引とめなかった。私たちの生活のこと りはましだと云ふ氣がするよ。僕はどうかするとあの佛殿の地藏様を知り拔いてゐる和尚さんたちには、斯うした結末の一度は來るこ とに平常から氣がついてゐるのだった。行李の中には私たち共用の の坐ってゐる眞下が頸を刎ねる場所で、そこで罪人がやられてゐる 光景が想像されたり、あの白槇の老木に浮ばれない罪人の人魂が燃空氣銃、が手製の弓を引く爲め買って來た一一本の矢、夏中寺内の 院の古池で鮒を釣って遊んだ繼ぎ竿、腰にさげるやうに出來たテ えたりする幻覺に惱されたりするが、自分ながら經がどうかして る氣がして怖くなる : : : 」と、私は弟の顔を見ると泣いても訴へたグスや針など入れる箱ーー・さう云ったものなど詰められるのを、さ い氣持をそゝられた。 すがに淋しい氣持で眺めやった。妻に宛てた簡單な手紙も入れさせ 「いや、さう云ふ譯でしたらそれではさんの方はさう云ふことにた。 「濟んだら一杯飮まうか , と云って娘に仕度をさせた。 鄕しませうか。兄さんの方は後でまたゆっくりと方法を考 ( て、國へ 「まだ出る頃ぢゃないのか ? 」と、弟の細君のお産のことを訊い 出歸るにしても旅へ出るにしても、兎に角餘り無理をなさらない方が の いゝでせうーと云って弟は私の憔れた顏にちょっと視入ったが、 父 「もうとっくに時が來てるんでせうから、この間から今日か / 、と 「それにしても、さう云ふ氣持が出るのも一つは病氣のせゐなんで せうが、さんの時なんか今目を瞑ると云ふ間際までも死だとか待ってるやうな譯で、今晩にもどうかと云ふ譯なんでせう」 3 何だとかそんなことは云はなかったやうですがねえ、さう云っては 「そりやたいへんだね。何しろ今年はみんなが運がわるいやうだか
8 8 居心地が好ささうに思はれる。座敷のまんなかに陶物の大きな火鉢 私はそちらへ頭を振向けながら、 を置いて、そばに汚れぬ座蒲團を並べ、私の來るのを待ってゐたや 「いや、もう、かうして來て見て、思ってゐたほどでなかったので うである。私は、つく乙、感心しながら、 安心しました。」と、そちら〈聲を掛けた。 「これは好い處だ、こんな處にゐたのか。いっからこ又にゐたの。 ちゃうど氣候の加減が好いので、いつまで起きてゐても夜の遲く まあ、それでも此様なところにゐたのならば、私も遠くにゐて長いなってゐるのが分らないくらゐである。 間會はなくっても、及ばずながら心配して上げた效があったといふ やがてまた母親が、 ものだ。うゝ好い簟笥を置いて。」私はさういひながら尚ほ立って 「もう二時を疾うに過ぎたえ。 ・ : あんたはんもお疲れやしたろ。 ゐると、 お休みやす。」 おやこ 「まあ、どうぞこ又〈お坐りやして。」と、母子とも , ~ \ して云 といったので、やうやく氣が付いて寢支度をした。 ふ。 やがて火鉢の脇の蒲團に座を占めて、母親はの間の自分の長火 ひとりぐら 鉢の處から新しい宇治を煎れてきたり、女は菓子箱から菓子をとっ そこがあまり居り心が好かったので、何年の間といふ長い獨棲生 てす又めたりしながら暫く差向ひでそこで話してゐた。 活に飽いてゐた私は、さうして母子の者の、出來ぬ中からの行きと 「長いことあんたはんにもお世話かけましたお蔭で私もちょ「と樂どいた待遇ぶりに、「ひに覺えぬ、温い家庭的情味に浸りながら一 になったとこどす。」 ヶ月餘をうか , ( 、と過してしまった。その爲に、まだ春の寒い頃か 自分でもよく口不調法だといってゐる彼女は、たら / 、しい世辭ら傷ねてゐた健康をも、追《暖氣に向ふ氣候の加減も手傅って、す もいはず、簡單な一「「葉でそんなことをいってゐた。 つかり回復したのであった。 と 私はいくらか咎めるやうな口調で、 女は用事を付けてその月一ばいだけは一週間ばかり家にゐたまゝ 「そんならそれと、なぜ、もっと早く此處〈來てくれ話をするとで休んでゐた。どこか ( 一絡に歩いてみようかといって誘っても、 も言ってくれなかったのだ。一ヶ月前此方〈來てからばかりぢゃな やかま 「ほんとに商賣を度めてしまうてからにします。」とばかりで、夜 い、もう今年の初め頃から、あんなにやい / 、喧しいことを云って遲く近處の風呂にゆくほかは一日靜かにして家にとぢ籠ってゐた。 寄越したのも、それを知らぬから、入らぬ餘計な憎まれ言をいったそして稚い女の子の氣まぐれのやうに、ふと思ひ出して風爐の釜に ゃうなものだった。かうして來てみて私は安心したけれど。」 湯を沸かして、薄茶を立てて飮ましたりした。そして、そこにある すると、母親も次の間の懊の蔭から整を掛けて、 塗り物の菓子箱を指して、 「この子がさういうてゐました。おかあはん、私はロが下手で、よ 「わたしが二月に病氣で寢てゐる時これを持って、見舞ひに來てく ういはんさかい、あんたから、お出でやしたら、ようお禮いうてえれた人が、その時私を度めさすいうてくれたんどっせ。」 やちうて。・ : ・ : 此家のことも、もっと早うにお返事すりや好うおし 「へえ、そんな深い人があるの。」 たのどすけど、この子が二月に一と月ほど、ちょっと心配するほど 「深いことも何もおへんけど。」 患ひましたもんどすさかい、よう返事も出しま〈なんだのどす。」 「そして引かすといった時あんたは何と云ったの。」
とになったよって、それを私からあんたはんによう斷りいうてくれ といって、主人はしんみりとした調子で話した。 さっき : そんな譯 私は、主人が先刻から何度も繰返していふ、姉さんがきつうそれるやうに、姉さんからくれえ、も賴んではりました。 どすよって、あんたはんももう好い時節の來るまで餘り氣を急かん で泣いてはりますといふのを聞かされるたびに、その女の泣いてく れる涙で、長い間の自分の怨みも憤りも悲みも凡て洗ひ淨められと置きやす。この話急いたらあきまへん。私も御縁でこして及ばず て、深い暗い失望のどん底から、すっと輕い、好い心地で高く持ちながら仲に入って口をきゝました以上は決して惡い話には致しませ 上げられてゐるやうな氣がしてきた。そして今まで凝乎と耐〈てゐんつもりどすよって。」と、賴母しさうに私を慰めてくれて、 「それにしてもあの母親は、姉さんも、お母はんといふ人目先の慾 る胸がどうかして一とところ薐んだやうになるとともに、何ともい へない感謝するやうな涙が淸い泉のやうに身體中から温く湧いてくの深い人どすいうてはったが、ひどいことをする婆さんどすなあ。 たゞ一時金貰うたかて見込みのない人やったら爲方がないやおへん るのが感じられた。私は、その涙を兩方の指先に拂ひながら、 「あゝさうですか。それで今ほかの人間の世話になってゐるといふか。」繰返してそれを呆れてゐる。 「いろ / \ お骨折り有難うぞんじます。」 のですか。」私は早く先きが訊きたくて心が無暗と急いだ。 と、私は主人の前に頭を下げて心から禮をいったが、さうして 主人はうなづいて、「それを姉さんいうてはりました。今世話に むざ / 、 なってる人といふのは、一緒になるといふやうな見込みのある人と無殘々々人の樂みにさして置くのを承知しながら、今すぐにも自分 の方へ取戻すことの出來ぬのが堪へ難い不滿であり、今までの長い ちがふ。おかみさんもあるし、子供も二人とか三人とかある人で、 間の、とてもいふに云へない自分の、その女の爲に忍んで來た慘憺 これまでにもう何度も引かしてやらう云うてたことはあったけど、 たる胸中を考へれば考へるほど、そんな破滅になってしまったのが 姉さん自身ではもうあんたはんの處に行くことに、心は定めてゐた 餘りに理不盡であるやうに思へてどうしたら此の耐へがたい胸を鎭 んやさうにおす。そこへ去年の秋のあの風邪が原因でえらい病氣し て自分は正氣がないやうになってゐるところを付込んで、お母はんめることが出來るかと思った。それとともに、向うの人間にどれだ けの恩義を被てゐるか、それは分らないにしても、又たとひ、果し は目先の慾の深い人やよって、今の人がお母はんに金を五百圓とか 潰って姉さんの身を引受けよう、ほんなら、どうぞおかせしますて彼女のいふことを信じて母親に對して生さぬ仲の遠慮といふこと を認めるにしても、あまり女の心のいひ甲斐なさと賴りなさとが焦 といふことに、自分の知らぬ間に二人で約束してしまうて、醫者か ら何からみんなその人がしてくれて、お蔭で病氣も追々良うなった躁しかった。そしてその向うの人間といふのは、いっか彼女が自分 のやし、今となって向うの人にも深い義理がかゝってあのお方の方で話して聽かした去年の二月にも病氣の時引かしてやらうといひ出 したその人間のことであらう。その人間ならば決してさう深い譯は 宵ばかり〈義理を立てる譯にもゆかんやうになった。それで今急にど るうするといふことも出來んさかい、こゝ半歳か一年待ってゐてもらなかった筈である。それに此の間の夜松井の女主人の處〈たづねて をり 凍 ひたい。その間に好い機があったら又此方から手紙を出すか、話を往って會った時の話にも、此度病氣で愈廢業する時にももう女の 身に付いた借金といふ程のものも無かったといふし、そんな深い客 するかするさかい・ のあったことは知ってゐる様でなかった。松井の女主人のいふので 「それで半歳か一年待ってくれといふのですか。」 うしろ 「まあ、さういうてはるのどす。今急にあんたはんの處 ( 行けんこは、あの佛壇の阿彌陀様の背後から出てきた羽織袴を着けた三十餘 ぢっ
3 イ 8 ずる / 、べったりでは、俺は迷惑だと云ふんだ。兎に角はっきり云 くドシゾと壁際に打倒された。おせいは胸倉を取って、上から武者 って、賴むなら賴むで、はっきりして貰はうぢゃないか。云って見振りついて來た。そして起きあがらうと蜿いてゐる自分の背中の上 たらい・、ぢゃないか。剛情だなあ : : : 何と云ふ惡黨かねえ。お前と へ、裂け目の上の附鴨居が壁土といっしょにドシンと落ちて來たの 云ふ女は ! 」 で、自分はカッと夢中になって、「こん畜生 ! こん畜生 ! 」と叫 「云はないよ。誰がそんなこと云ふ奴があるか ! 手前こそい悪び續けてゐるおせいの顔や頭を處構はず打ったり蹶ったりしてゐた 黨ぢゃないか。何もかもわかってる癖に、晝間は晝間で、夜は夜で が、ヒーツと云ふ悲鳴を聞いて、手足を止めておせいの顏を視る いぢ 毎晩鷄の鳴く時分までもそんなことを云ひ出しては人を虐め拔いてと、ロからタラ 2 \ 血が出てゐたので、自分もゾッとした。それで やがって、誰が出て行ってやるもんか ! 一生でも取附いてやるか また彼女は氣でも狂ったかのやうにしがみ附いて來た。 らね : : : 惡黨 ! 薄情野郎奴 ! 忘れやがったかよ、この惡黨野郞 「こん畜生 ! こん畜生 ! お前はあたいのあれを忘れたね。あた 奴が ! 」齒を喰ひしばり、眼を血走らせて、蓬々とした髪の中からいのあの、大事なあのことを、忘れてゐるんだね、お前さんに見せ 角でも出さうなやうな形相して、おせいも斯う叫び罵った。 こそしなかったが、もう形がちゃんと出來てゐたんだよ。丁度セル ごくだうもの 「ム : : : この獄道者が ! 因業爺は爺として、あのおふくろの心配 ロイドのキューピーさん見たいに、形がちゃんと出來てゐたんだ が、貴様にはわからないのか。だからなぜ最初おふくろが迎ひに來よ。あたいが誰にも氣附かれないやうに、そっと裏の桃の樹の下に て呉れた時に、素直について歸らなかったんだ。永い間あのおふく 埋めて、命日には屹度水などやってゐたんだよ。この十九日で、丁 とに ろが、俺たちのことを庇ってゐて呉れたんぢゃないか。その義理と度になるんだよ。それを貴様は何だ ! 愰け臭ってゐやがるんかよ、 しても、俺は一日だって貴様を置いてやるわけには行かないんだ。 忘れてゐやがるんかよ ! この畜生野郞が ! そんな薄情者だか たった今のうち出て行け ! 桂庵へなりどこへなり、勝手に出て行ら、田舍のあんないゝ子供さんたちのことだって、見てやれないん ちゃないか。手前の薄情から、あたいのあれを、呪ひ殺したも同様 「誰が出て行くもんか。老ぼれ ! お前さんの方で出て行くがい ぢゃないか。あたいはね、默って他所へは嫁にも行けない身體なん い、あたいは行かないよ。なんだその、眼鏡なぞかけて、鬚なぞ生だよ。白を切って他處の赤んぼを産むことの出來ない身體なんだ やかしたって、ちっとも怖かないんだよ」 よ。だからこそ、手前のやうな老ぼれの傍にもゐたいと、足蹶にま 「何だと、老ぼれ : : : もう一遍云って見ろ。 ・ : 毆ぐられるな ! 」 でされても、出て行かないんぢゃないか。それが貴様にわからない 「何遍だって云ってやる。云ってやるとも ! 」 のか ! わかっ・てゐても、わからない風をして、今まで虐め通して 自分の右の拳固が、おせいの丸く紅い頬桁目がけて、一一三度續け來たんだね ? さあ、お前の方こそ、はっきり云ってご覽 ! それ ざまに飛んだ。く カ勢ひょくうまく當らなかったので、今度は起ちあがお前に云へたら、あたいはこれからだって、出て行くよ。出て行 がってふら / 、する脚をあげて蹶飛ばさうとしたが、 ってやるとも ! 身技げしたって、構ふもんか。さあ、はっきりと 「何、この老ぼれ野郎が、人を蹶飛ばす氣か。 : : : 敗けやしない 云って・こ覽 ! それとも、あたいの口から、こんなことまで云ひ出 させたくって、斯うして來たのか ? ぞー敗けやしないぞ ! 」斯う云って、彈力の塊りそのもののやう : エーン、口惜しい ! ロ な勢ひで、兩手を突張りながら向って來て、自分はひとたまりもな惜しい ! 」見る間に紫色に腫れあがった唇から血をタラ / 、疊の上 あしげ
「何枚位出來たんだ ? 」 氣ない顔して云った。 「いや昨晩から書き出したんでまだ六七枚しか書いてないが、これ 睛れたいゝ天氣であった。海が靑く輝いて居た。床の間の大花瓶 ふ亡い からずん / \ 書けるんだから」 の梅が二三輪綻びかけたのも風情ありげに見えた。獵銃の音など聞 えた。斯んな氣持なら書けるぞ ! と云ふ氣がされた。あの不幸な 「ぢや兎に角帳場へ行って話して來よう」 それで、五六日延期と云ふことになり、其の後二晩ばかし徹夜な從兄が最後まで人をも世をも怨まず、與へられた一日々々の生を感 どして十五六枚まで書き續けたところ、。ハッタリど筆が進まなくな謝するやうな氣持で活きてゐた。靜かな謙遜な心境が同感出來るや った。晩酌をやめたり徹夜なんかの習慣がほとんどなかったのに二うな思ひが、私の胸にも動きかけてるのを感じた。「これでいの 晩も續けた爲めに頭も身體の調子もすっかり狂はして了った。一二だ斯う云ふ氣持で素直に書いて行けばいゝのだ」斯う思って私はま た新らしく原稿紙に題を書きつけた。この小説で私は從兄の靈魂か 日ぼんやり机の上を眺めてゐたが厭になって原稿を破いて了った。 その晩私は自棄氣味で酒を飮んでゐると内田がやって來た。 ら責められてる氣がする。靈魂を欺くことは出來ない。靈魂を否定 「氣に人らないで破いたが二三日にも二三十枚でも書きあげるつも したところが、自分の良心の苦痛は去らない。私がこの小説を書き りだから心配するなよ。どうせ金が足りなければ僕の小さな本の版續けられないのは單に技巧などで困って居るせゐではなく、さうし 懽でも賣って拂ひをするから。何しろこの原稿では實に厭になってた根本的な缺陷、自責の念から書き澁って了ふらしい。やつばし素 るんで、金の問題でなくどうしても今度は片附けて歸りたいと思っ直な謙遜な氣持にならなければいけないと思った。さう思ふと氣分 が輕くなって、筆を持っ勇氣が出て來た。斯うして雜念を去って机 てるんだから : : : 」 「いや實は今帳場へも寄って來たんだがね、何しろ七十圓からにな に向ってゐられると云ふことだけでもたいへんな幸輻なことではな ってゐるさうだからね。それに君は遲くまで飲んでは藝者々々なんいか、さう思って二三枚書き續けて行った。 て云ふてんで、ひどく厭がってゐるやうだから、兎に角一と勘定し が午後内田がやって來て、帳場で相談でもして來たか險はしい顔 して坐るなり、 て貰ひたいと云ふんだがね : : : 」 「そいつは困ったね。兎に角君からもう一度話して呉れよ。何だっ 「今度はたゞでは延ばすまいから君の持ってるものを質人れして幾 らかでも入れることにするから君の持ってるものを出せ」と云ひ出 たら明日東京の本屋へ手紙を出して交渉してもいゝから」 二人で帳場へ行って話をすることにしたが、何しろ私はひどく醉した。 「そんな馬鹿なこと出來やしないよ。後幾日のことでもなし、そん ってゐたので、却ってまづい印象を與へることになったらしい。が な譯なら東京へ手紙を出して金を拵へることにする : : : そんなこと その晩の事は私にはよく分らなかった。それで其翌朝はいつになく 出來るもんか」と、私はムッとして云った。 早起きして、机に向ふ氣になった。 「ゆうべはすっかり醉拂って了ってよく分らなかったが、内田君何「そんなら俺の方でも引受けられないよ。何が馬鹿なことなんだ。 とか云ってゐましたか ? 」と、私はお膳を持って來たお内儀に訊い金がなくて拂へなければ、さうするのが當然ぢゃないか」 3 こ 0 「そりやさうかも知れないが、しかし二三日中にも片附けられるん 2 「え、今日お見えになる筈です。今に見えませう」と、お内儀も何だから、そんなことまでせんだっていゝ」
言葉を改めながら、 せぬし、あんたもそんな病後の事だから、それは又の日に讓って置 をり お「姉さん、今いろ / \ あんたはんから聞きました事譯はあらまし私 く。それで今こちらの親方から聽いたとほり、爲方がない好い機の から兄さんにお話して兄さんも心よう納得してくりやはりましたよ來るまで辛抱してゐるつもりでゐるから、あんたもその氣でゐても って、それはどうぞ安心しておくれやす : : : 。」といって、暫く間 らはねばならぬ。」私は、あれほど、逢はぬ先は會ったらどうして を置いて一層聲に力を籠めて、 くれようと憤怒に驅られてゐたものが、さうして悄然と打沈んでゐ 「その代り私がかうして仲に入って口を利きました以上は、姉さんるのを面と向って見ると、打って變ったやうに氣が弱くなってしま 今度また私にまでも謔をお吐きやすやうなことがおしたら、その時って、怨みをいふことはさて置き、か ( って、やつばり哀れつぼい いたは こそ今度は私が承知しまへんで。 : よろしいか。」と、念を押す容姿をしてゐる女を劬り慰めてやりたい心になった。 ゃうに云った。 すると彼女は私からはじめて物をいひかけられて、どんな氣にな おとな 彼女はそれで又温順しく、「〈え。」とうなづきながら兩手の襦袢ったのか、今までの温順しく沈んでゐた様子とはやよ變った調子に の袖でそっと涙を拭いてゐる。まだ商賣をしてゐる時分から色氣のなって、 なりふ ないくらゐ白粉氣の少い女であったが、度めてから一層身裝振りな 「あんたはん何で山の井さんへいて、その話をしておもらひやさん あたら きりゃう ど構はぬと思はれて、可惜、つくれば、目に立つほどの標致をおも のどす。」と、飾經質の口調で不足らしく云ふ。山の井といふのは ひ做しにか妙に煤けたやうに汚してゐる。そのう〈今泣いたせゐか初めて女を招んでゐた茶屋の名である。 美しい眼のあたりがひどく窶れてゐる。此處のあるじが先きも、戻 私は、女のさういった發作的の心持を推測しかねて、ちょっと不 って來てからの話に、 思議さうに彼女の顔を見たが、 「姉さんがおいひやすのが本間に違ひお〈んやろ。自分も好きで世「あんた今、此の場でそんなことをいひ出したって爲方がないちゃ 話になってる旦那があるのやったら、あんなものやお〈ん。この隣ないか。」といったが、おほかた彼女の腹では自分の心にもなく今 りに越しておいでやしてからでももう三月か四月になりますけれの人間に急に脱ぐことの出來ない恩義を被なければならぬゃうにな ど、姉さんが綺麗にしておいでやすのを内の者だれかて一寸も見い ったのも、自分の知らぬ間に母親とその男との仲に立って専ら周旋 しま ( ん。お湯にかて、さうどすなあ、十日めくらゐにおいでやすしたのがその客で入ってゐたお茶屋の骨折りであったことを思っ となり のを見るくらゐのものどす。」といって、隣家にゐてそれとなく氣て、もう今となっては、一寸拔き挿しならぬ破目になってしまった すがた の付いてゐる、女の平常のことを噂してゐたが、今ちっと女の容姿のも、私が最初からの茶屋を通して話を進めなかったことの手ぬか を打ちまもりながら心の中で、なるほど主人のいふとほり、今の彼 りを云ふのであらうと思った。けれども、さう成り入った原因をい 女にはつくるの飾るのといふ氣は少しも無いものと見た。そして私〈ば又彼女にもさうした責めがないでもなかったのだ。 もやっと口を切って、彼女に話しかけた。 主人も私の言葉につれて、 いちぶしじう 「私も一伍一什のことを話して、あんたにとくと聽いてもらひたい 「姉さん、そんなこともう、今いはんと置きやす。いつでも後にな ことは山ほどあるけれど、それをいひ出す日になれば腹も立てねば って、あんたはん逹二人で又笑ってそんなことは話せますよって。」 ならぬ、愚癡もいはねばならぬ。とても一とロや二たロでは言ひ盡と抑へるやうにいって、 ぐち、