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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集
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1. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

る ) 忌なら止せ、勝手にしやがれ。江戸っ子の面汚しめ。 あそばされましたが、當月十一日、更に水戸へ御立退きに相成り ました。 ( 金次郎は手酌でぐい / 、飲んでゐる。半三郞は又かんがへてゐ る。薄く雨の音。向うより常磐津文字若は雨傘を半開きにして足 金次郞それ見ろ。おれたちの主人といふ公方様は家來どもを置去 早やに出づ。 ) りにして、自分ひとりで逃げて行ってしまったぢゃあねえか。そ てんが んな主人にいつまでも忠義立てをするのは馬鹿の骨頂だ。天下茶文字若 ( 内に入る ) たうとう降り出しましたね。 しゅう けれえ ( 金次郞はだまって飮んでゐる。 ) 屋の芝居ちゃあねえが、もう斯うなりゃあ主でねえ、家來でね あだちもとゑもん え、一本立の安逹元右衞門樣だ。恭順を守らうが守るめえが俺達文字若あら、みんなだんまでどうかしたんですかえ。 金次郞だれだ、誰だ。 ( 透し視る ) おゝ、師匠か。大層早かった の勝手次第で、だれの指圖を受けることもねえ筈だ。 な。 半三郞でも、兄さん : 金次郞え乂、だまって聞け。おれがこれから上野へ駈け込まうと文字若だって、なるたけ早く屆けてくれと云ふから、大急ぎで駈 け付けて來ましたのさ。貞女といふのはまあこんなものさね。 いふのは、主人の爲でもねえ、忠義のためでもねえ、この金さん おほで ( 笑ひながら縁に上る ) 半さん、今晩は : の腹の蟲が納まらねえからだ。田舍侍が錦切れを嵩にきて、大手 をふってお江戸のまん中へ乘込んで來ゃあがって、わが物顔にの金次郞そんな奴に口をきくなよ。まあ、息つぎに一杯のめ。 ( 茶碗 をさす ) さばり返ってゐる。それちゃあ江戸っ子が納まらねえ、第一にこ の金さんが納まらねえ。べらぼうめ、錦切れが何だ。錦切れが怖文字若これで飮むのかえ。 くって、五月人形をひやかしに行かれるか。おれは去年飾田の質金次郞亭主のいふことを肯くのが貞女だ。飲め、飮め。 小さいお猪ロはな 屋へ行って、蛇を種にして十兩まき上げて來た一件から、役向き文字若いくら貞女でも茶碗ちゃあ遣切れない。 いのかえ。 の方もたうとう不首尾になって、まだ若えくせに隱居を申付けら れ、弟のおまへが家督を相續することになった。隱居といへば隱金次郎いくちのねえ女たな。おい、半三郎。猪口を持って來い。 ( 半三郞は無言で奧へ人る。 ) れた身分だから、引込んで小さくなってゐればいゝゃうなものだ が、江戸っ子の面を泥草鞋で踏みにじられちゃあ、隱居のおれで文字若おまへさん。兄弟喧嘩でもしたんちゃあないかえ。あんな おとなしい人をいちめるのはお止しなさいよ。 も我慢は出來ねえ。相馬の金さんはチャキ / 、の江戸っ子だぞ。 半三郞では、御主君の仰せに背いても、あなたは上野へ行くと仰金次郞あんな馬鹿野郎を相手に、喧嘩をする張合もねえや。 ( 奧に 向ひて ) ゃい、やい、早く持って來い。何をぐづ / 、してゐゃあ しやるのですか。 ん がるのだ。 金次郎まだわからねえか。おれ逹にはもう御主君なんて云ふもの 馬はねえといふのに : : : 。江戸っ子のおれたちが田舍者を相手に喧文字若およしなさいよ。可哀さうちゃありませんか。 ( 金次郞の顔 をみて ) おまへさん、額の傷はもう好いんですかえ。 嘩をする、唯それだけのことよ。 につきだんじゃう 金次郞なに、もう何でもねえ。 ( 額をなでる ) 飛んだ仁木彈正だ。 半三郞それでは却って御主君に不忠となりはしますまいか。 7 7 ( 奧より半三郞は猪口を持って出で、文字若の前に置く。 ) 金次郞いつまで同じことを云ってゐゃあがるのだ。 ( じれて呶鳴 おたちの ひたひ ちよく

2. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

をなご しつえう 知らぬ證書らしいのを老爺に見せて居た。他にも證文や裁判所用紙見るから執拗らしいおちうと云ふ女兒であった。 雨の降る晩、夜更けた門を叩いて、脊の低い源作は五つにもなる に書いたものがドッサリ人って居た。 すはたおぶ 娘を、素肌に負って來た。 せんあん 「先生様、これでも矢張り馬脾風でがすかね。」と寒い所爲もあら あの家この家 ふる うが、顏色を變へて顫へて居る。 ちょ 然し、些いと見た所では確にヂフテリアとは云はれない。單純な いんとう へんたうせんえん 扁桃腺炎でも小兒には斯う來る事がある。熱も八度以下、咽頭も然 くび 卩氣掛りなはグッタリ頸を横に曲げて、始終痛 う腫れては居ない。隹一 だえき さうに唾液ばかり飮んで居る。で、源作に然う話して聞かせると、 その年の十一月、私の居た南小泉村にヂフテリアが激しく流行し「然うですか、そんでは有難いな。若し馬脾風なぞだら、俺ア何ぜ たちわら うすべえかと思った。」と胸を撫でて喜んで居た。 た。尤もその年は甚い雨っゞきで、百姓どもは立藁の相場を心配し あいそ せいおんため 、もき 尚ほ念の爲め聲音を驗さうと思って、種々愛想なぞして見たが、 て居た。提灯張り茂三の伜が初發で、僅か一月ばかりの間に、十二 こども 三名の新患者を出した。小學校は當分臨時休業、縣廳から視察醫員兒童は源作に縋り付いてしぶとく口を利かない。意地惡い上目遣ひ して、ヂロ / 、此方の顏色ばかり窺って居る。源作がハフど、し が來ると云ふ騷ぎ。頸曲りの區長は朝ッばらから酒臭くなって、 こちとら にしらてんで 「主等も銘々に氣を付ける事ッた。病人一人出る度に此方等の手數て、叱ったり嚇したりして見ても駄目であった。 「隨分剛情な兒だな。」と私はロを利かせる事を思切った。 がどの位だと思ふ。納め金ばかり責めるツて小言吐かすが、こんな せんあんこは 「然うでもないんですがね。矢張り先生様が恐いんでがすべもの、 時の事を見せい。」と赤筋張って小作人の女子どもを叱り付けて歩 誰にでも斯うでがす。」と親父の方が小さくなって居た。 いた。 らうばい 兎に角、その晩は一號の血淸を注射して經過を見る事にした。 で、何の病人も初めは狼狽して必ず私の所へ連れて來る。併し、 次の朝も源作は仕事を休んで、おちうを負って來たが、様子は大 身上の爲る家はヂフテリアと聞くと直ぐ仙臺の醫者を呼寄せるの して變って居ない。耳下の腫が心持赤味を持ったやうだ。「こ長痛 で、終ひまで私の手に掛って治療を受けた患者はやっと四五人位し いか、痛いか。」と鉛筆で些いノ \ 壓して見ると、ピクリノ \ とそ か無かった。何れも村で數へられる貧乏人ばかりだ。病氣は癒して も藥禮は些っとも集らない。診察料どころか、少し癒りかけると藥の度に身體を縮める癖に、剛情に泣きもしない。手に二錢銅貨を固 おもや 取りにも來なくなるのが多い。母屋の石岡隱居と相談して、血淸はく握って居た。 なけし 「何うで御座りすべ。少しは良い方で御座りすべかねし。」と源作 泉前金の事と嚴重に長押へ貼札までしたが、矢張り何にもならなかっ こびんやけどあと た。無いものを取らうとは云ふまいと、高を括って憎いほど猾るくはオド / 、して私の顔色ばかり氣にして居る。源作は小鬢に火傷跡 のある、鼻も口も思切って小さな、苦勞性らしい小男である。 構へて居る。年寄のある家は中でも困らせた。 扱った患者の中で、一番經過の不定型なのは、馬車曳き源作の娘「然し、餘り痩せやうがいぜ、病人だから少し氣を付けて養生さ せなくちや不可ないよ。」 であった。その前にも聘耳で二三度來たやうだが、顏の蒼膨れた、 しま み、たれ あをぶく おど

3. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

恐ろしいほど光りが出る。今度だって矢ッ張り、御新造さんのこ おカけれども今日にも萬一のことがあったら、後悔なさいますよ。 とや奥様のことで、世間が先生を葬らうとすればする程、先生に 桃中軒 ( 思はず足を踏み入れて ) そんなに惡いのか。 はそれと戦ふ勇氣が出て、藝に後光がさして來ると、松月さんもおカ昨夜院長先生からも、直接電話がか人ってゐませう、今朝か 舌を卷いてゐなすった。 ら弟子どもや皆、心ある者は集って、お出でなさるのを待って居 おカ藝はそれでも : : : それだけちや人間が濟むまい。兎に角、あ りました。 たしは今日先生に會って思ふだけのことは云はして貰ひます。坊桃中軒 ( 暗然として ) 知ってるよ。知らないで : : : ゐるのぢゃな ちゃんの事などでも、厭ゃな噂ばかり聞くので、あたしはそれも い。 心配して居ます。 おカ先生 ! 桃雲大體この頃の坊ちゃんの仕方が好くありませんよ。時たま寄 桃中軒待ってくれ。今日は然う : : : 棘々しく云ってくれるな。少 宿から歸って來ても、御新造さんなど睨め廻してお小遣など持ち し : : : こ乂ろの痛むことがあるのだ。 出す様子は、まるで不良少年だ。 お貞先生。けれども何故病院へいらしって下さらないんです。み はなづな おカ鼻綱の取りゃうが惡いと、小牛でも暴れると云ふからねえ。 な私のぜゐのやうに取られてゐるんです。 お貞桃雲。もうお前何も云はないがい又よ。あたしと云ふ餘計者桃中軒お妻はおれを : : : 怨んでゐるだらうなア。尋ねて行ったの が入ってゐるから、それで家が揉めるんでせう。 は : : : 二十日も前だ。おらアその時も : : : あいつの顔が見られな 大の啼音聞ゆる。姿見など片付けゐたるお米、耳を立てる。 かった。 ( 俯向くやうにして呟く ) お米おや御散歩からお歸りのやうでございますよ。 おカ先生 ! かぶ お貞、空嘯きて立たず。お力も立たず。 桃中軒 ( 同じ調子ながら、被せて ) おらア幽靈を見たんだよ。 桃中軒雲右衞門、角袖外套のごときものを詹て外より歸り來る。 一同、驚いて雲右衞門を見詰める。 奧の間に入らんとして、廊下ロより顏を出す。 桃中軒おらアお妻の顏に、その時あり / 、と幽靈を見たんだ。そ 桃中軒お、おカか。久しく見えなかったな。 ( 大の鎖をそこに投 れは女だ、お妻も死ぬ時は、やはり只の女であったといふ : : : 悲 げる ) しい幽靈の姿なのだ。おりやお妻に限って、そんな幽靈を見せら おカつい病院の方へ通って居りますから。 れようとは思はなかった。 門桃中軒外は寒いよ。雪にでもなりさうだ。 ( 紛らすやうに笑って、視おカ先生。それは何んですか。奧様が少しこの頃氣が立って、些 ひが 衞線は飾經質に ) お貞、松月爺さんはまだ歸らないか。 時でも先生を傍に引き付けて置かうとして、怨んだり僻んだりな 雲お貞さア、氣がっきませんでしたよ。 さるのを、女の幽靈と仰しやるんですか。 こんばん 中 雲右衞門、その氣色を不快さうに見て、奥に人らんとする。 桃中軒おれはお妻だけは、根本骨の髓まで藝の人だと思ってゐ しにぎは おカ先生、わたし少し今日、お話があって參りましたの。 た。それがいま死際になって : : : やはり只の女であったと、思ふ の桃中軒病院のことではないか。それなれば今日は謝まる。少し胸 ことが寂しいのだ。 ( と項垂れしが、また何か云はんとするお力に被せ に持ってることがあるんだ。 て ) 先づ思っても見ろ。お妻はおれに心を殘しながら : : : 一人寂

4. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

1 イ 6 堀田も金があると云ふ程の身分でも無かったのですが、根が臆面た、多分・ ( ナナかマシマロだったんでせう。 無しですから、人に御馳走で連れて行かれても、決してびよこびよ 暫くすると、女は病氣が癒って退院致しました。退院すると、堀 せきはん こなどはしないで、寧ろ尊大に構〈てると云ふ風でしたから、どこ田の家〈先逹のお禮と云ふのでお赤飯を屆けてよこしたさうです。 へ行っても、好いとこの息子さんだらう位には思はれたものださう堀田のお袋は「感心な人だ。」と言って、大層喜んださうですが、 かしやく ですーーーそれに堀田の姉が藝者をしてたものですから、姉に勸めて堀田は良心の呵責も受けず、平氣な顔をして、大きな茶碗に六杯と 姉の旦那を引っぱり出さしたりなどして、それに自分の兄貴と自分それを喰べたさうです。 わん とが附いてって、構はず大騷ぎを遣るといふやうな事が度々有った 年が明けて、貯めたお金を持って、女が廓を出て來たのは、それ んで、すっかり顏が好くなってしまったんです。 から間もなくだったと言ひます。 なんでも堀田の買ってた女とかいふのは、その當時もう三十位だ 出て來ますと、女は直ぐ堀田の家を訪ねたものです。そして堀田 ったとか言ひますーーー堀田は十八か九ですよーーお職を張り通して のお袋に會って、「どうか嫁にしてくれ。」と賴んださうです。けれ 居て、隨分金持な女だったさうです。 ども堀田には勿論それ程までの考はなかったことだし、お袋は又年 で、よく勘定が足りなくなると、堀田は女から金を借りたものだ が餘り違ふからといふので、斷ってしまひました・ーー・尢も堀田の話 さうです。けれども次に行く時は前に借りただけはきっと持ってつ に依ると、「べらんめえ、歳が違ったって夫婦になれねえ訣がある て返して來る、そして又新しく借りて來る、又それを返しに行ってもんか。」位なことは、確に言ったことがあるのです。女はそれを 又新しい借りを拵へて來るといふ風でしたから、割合に厭がられも 信じて來たのですねえ。 ぜず、だんだんに近しくなって參りました。 併し、然ういった正直な女ですから、斷られても別に怒りはせず その内に女は躰が惡くなって、人院をしましたーーーなんでも二タ に、「御縁がないんでございませう、致し方がございません。」て、 月ばかり人って居たとか言ひます。すると、堀田のお袋が堀田に向笑って歸ったさうです。 って、「始終行って世話になってゐながら、斯んな時に見舞に行って 女はそれから自分の田舍へ歸りました。 やらない法はない。」ッて、五十錢銀貨を一つくれましたさうです。 その女がゐなくなってからも、堀田は相變らず柏木田へ出かけた 堀田は早速見舞に出掛けました。女に會って、さて訣を話して見さうです。そして前の女の妹女郎を買ってゐたさうですが、これが 舞金を出しますと、女は大層喜びましたが、「お志だけで澤山、お又ちきに引かされて、ゐなくなってしまひました。 金は人りません。」と言ったさうです。すると堀田は「ぢゃあ俺が それで暫くその家へ行かずにゐる内に、その家の直ぐ前の家へ行 貰っとくよ。」と言って、お袋の志をお袋に内密で着服してしまひくやうになりました。 ましたーーー無論女には貰ったつもりにしといて貰って。 この第二の家でも堀田は餘程好いとこの息子と思はれたさうで それから色々話をして、さて歸る時に、女の枕元に手もつけすにす。始めて上った時は例の姉さんのお供でしたが、なにしろ姉を姉 置いてあった見舞物の西洋菓子を一箱貰って來たものださうですとも思はず、姉の那を日一那とも思はぬ奴ですから、側から見て居 見舞物を持ってった奴がそれを置かずに、人の見舞物を貰ってると、なんのことはない、堀田がは那で堀田が藝者や取卷を迚れて 歸って來たんですーー・・・何でもゴム見たいな菓子だと言って居まし來てゐるやうに見えたと言ひますからねえ。 からだ あが

5. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

しよく 「は。そいでも貴方、食なざア隨分好い方で、俺よりも澤山喰べる 「丹野もあれで中々始末屋だから、考へてるな。」と老人も笑って たまご 5 位でがすがね。今朝も鷄卵の大きいのを二つも喰べて來たんでが居た。 あやま す。」と悪い事でも謝るやうに、眞赤になって言譯して居る。 雨はビショ / 、と降って、疊でも柱でも家中が濕氣臭い。 きたなどてらくるま よりか くび 穢い褞袍に纒って、柱に凭掛けられたおちうは、息をゼイ / 、嶋 翌朝は源作の代りに、女房のお吉が藥取りに來た。頸の短い、肥 らしながら、カ無い目の隅から二人の顔をヂロ / 、見較べて居た。 った、色の白い、奥州特有の農夫の娘であった。源作を三十五六と 「鷄卵も鷄卵だが、牛乳は是非飮ませろ。それに、こんな雨降りのしても、年は十四五も違ふらしい。病人の容態は何うだと聞いて ひと 中を連れて歩いちや不可ない。他へ傅染したら何うする。家へ歸つも、「別に變る事はないとしゃ。」と他に賴まれたやうな事を云って をなご あった たら女子へ然う云って、暖かく寢かして置くんだぞ。」 居る。 かみ かりあ ゅうべ せき 「家のお吉は上の家の刈上げの手傅ひで、二三日前から那方さ行っ 「昨夜あたりから聲は嗄れないか。咳嗽は何うだ。」 てるもんでがすから。」 「然うだね、然う云へば整は少し嗄嘶れたかね。咳嗽は出いせん。」 たんの 「上の家ッて、丹野は何うでも病人は尚ほ大事だらう。若し死にで と薬を持って歸って行った。 もしたら何うする。」 「いゝえ、丹野が大事たなんて、なんぼお吉だッてそんな譯ではが アせん。世間でこそ色々な事云ふけど、俺ア何んとも思って居せ その午後は村役場に、豫防法の會議があったので、私は石岡隱居 ん。」と年には隈びた顔を混雜させて、何氣なく云った私の言葉を と一緒に、 xx 醫師の代理に出た。そして、自分の意見だけ簡單に しき うる 切りと打消して居た。そして、「何んののと云はれて詰らんねえ。陳べて、蠅の煩さい小使部屋に皆の歸りを待合せて居た。 つむぎ 歸りは上の家さ廻って、無理々々でもお吉を迚れて歸りす・ヘえ。」 後から黄縞の紬の羽織を着た男が入って來た。 と、ブッ / 、云ひながら歸って行った。藥局の小窓から見て居る 「おい源吉、これでいつもだけ。」と小使を使って土瓶に酒を買は ぬかるみ ふみこみろ またび と、低い下駄を穿いて畠の泥濘をビショ / 、と濡れて行く後姿が、 せ、蹈込爐に跨火しながら飲始めた。これが丹野に相違ないと見て さを一 たばこやに 雨の中に小さく見えた。 居ると、先方でも些い′相手欲しさうに見て居る。煙草の脂で齒 がっかう 「あの通りの馬鹿でがすからな。年中女房を他の自由にされて居る が眞黑く染った、頸に絹ハンケチを卷付けた三十恰好の男であっ わらし わか こ 0 んです。馬鹿な奴だ。あの女兒だッて誰の種だか判るもんですか。」 と後でお茶の時に石岡隱居がこんな事を云って苦々しがると、 「何んだ、たかが二百圓。何時まで吟味してるんだ。」と此方へ聞 「そだッて、大根と女房は盜まれる位自慢だッて云ふから、好いか かせる積りか、ブッ / 、云って居た。 はぐき も知れせん。」と奥様は齦を出して笑って居る。 「君ですか、その石岡隱居の家を借りて、開業したと云ふ醫者様 「丹野も丹野だな。要造の女房であんなに手を燒いた癖に、まだ懲は。」と到頭口を切って來た。「何うです、患者はありますか。惡い はや りないと見える。」 ものが流行りますね。いや、然うぢゃない。君等から見ると好いも 「要造はあんな三百代言見たいな奴だからだけんど、今度ア小前の のが流行るんだっけ。」と罪の無い事を云って笑って居る。村の者 者だから安心なもんで御座りすべさ。」 の話には、好い身代を大半飮み潰したの、女狂ひして死ぬまで本妻 ひと あつら ふと

6. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

火の番 ( 顏を上げる ) 生きてるとも。誰だ。をかしな事を言ふの 6 火の番だ。居眠り火の番か。 1 は。 火の番 ( 目を明かないで ) あんまりくだらねえ事ばかり言ふから、 捕吏誰でもねえ。おれだよ。 眠くなるんだ。 火の番おれはまだ死にゃあしねえよ。誰が死ぬものか。 捕吏とてもかなはねえ。 ( 小屋を出る ) ちゃあ、あばよ。 捕吏向きになる奴があるものか。っ . 「ⅱたな 火の番 ( 冷淡に ) あばよ。 火の番冗談だ。何が冗談だ。 捕吏 ( 小屋を離れながら ) あばよ。頭固ちちい。 ( 行ってしまふ ) 捕吏生きてるなと言ったのがよ。 火の番 ( 立ち上がる ) 頑固ぢぢいたあなんだ。おれにゃあ名がある 火の番生きてるともさ。當り前た。死んでたまるものか。 ぞ。 ( また坐って、火をいちる ) あんなおっちょこちょいが、手先の 捕吏分からねえな。お前、冗談が分からねえのか。かう寒くっち 何のと言って、いばってゐやがるんだ。やま大一疋でも、捕まっ ゃあ、冗談の一つも言はなけりゃあ、とても遣り切れたもんちゃ たらお慰みだ。 ねえんだ。 ( 金次郎、出て來る。頬冠り、ふところ手で、尻をはしよってゐ 火の番そんな事を言ってると、體でもあったまるのか。 る。火の番小屋の前まで來ると、立ち留る。火の番は圍爐裏の火 をいぢりながら、金次郞に背を向けてゐる。 ) 捕吏話にならねえ。 ( 行きかける ) 火の番まあ、あたって行けよ。 金次郎ぢいさん。あたらして貰っても好いか。 捕吏 ( 火の番小屋へはひって、手を暖めながら ) 塞いな。 火の番 ( 肩越しにぢろりと相手を見て ) あたるが好いやな。 火の番誰がよ。 金次郞ちゃあ、あたらして貰ふぜ。 ( 小屋へはひって、手を暖める。 捕吏誰がって、みんながよ。天氣がよ。 火の番の半身、障子の蔭に隱れる ) 寒いなあ。 火の番おれは寒かねえ。 火の番おれは寒かあねえ。 捕吏寒いから寒いと言ふのに、何もさう怒るこたあねえ。 ( 火の番金次郎そいつあしあはせだ。おいらは寒いよ。この一月、暖まっ 答へず ) 寒いと言ったって、おれが首になる氣遣えはねえんだ。 たことがねえんだ。 ( 火の番答、ず ) だが、ここいらは吹きつつあらしのせゐか、格別火の番お前、どこにゐるんだ。 かたもんせんめくらながや また寒いな。 金次郎片門町の冒長屋にゐたんだ。あすこが又寒い所よ。 火の番なあに、もっと寒い所があら。 火の番もう、そこにゐねえのか。 捕吏そりゃあ、あるだらう。 金欽郞家賃が高過ぎらあ。 ( 懷を明けて見せる ) おいらあ、もう一 火の番ぢゃあ、なぜそんなむだを言ふんだ。 文なしだ。 捕吏とつつあん。お前今夜どうかしてるぜ。おれはお前が寂しか火の番酒か。ばくちか。 らうと思って、元氣づけに話をしてやってるんだ。揚足ばかり取金次郞冗談言ひっこなしだ。おいらあ堅氣の商人だ。商賣ですっ ってやがる。かりにもお客だ。もうちっとやんはり口を利くもん たのだ。 いびき だ。 ( 火の番、鼾をかく ) え。とつつあん。 ( 火の番、鼾をかく ) 好い火の番商賣はだめだ。この頃のお上の遣り口ぢゃあ商人は上った ゐろり

7. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

こども 「源作、病人は些と長びくやうだな。」と、手を洗ひに臺所へ來る 4 死んだ小兒は未だ病院から歸って來て居ない。床の間には、戒名 幻と、源作は急に姿勢を直してお辭儀した。け、返事するにも當惑しの無い位牌〈線香を立て、あ 0 た。茶の間には近所の者やら弔み人 をな・こ て居る。 やらが詰掛けて居て、臺所には手傅ひの女子どもが賑かに喋りなが 「あの婆さんぢや、とても小兒の看護は難かしい。矢張りお吉を連ら庖丁を鳴らして居る。お吉もその中に交って襷がけで働いて居た れて來なくちゃ駄目だ。全體、こんな病人を抱へて居て、る奴も が、私の顔を見ても格別挨拶するのでも無い。 わらぢば きじり 遣る奴だが、行く奴も行く奴ぢゃないか。」 峯吉は草鞋穿きのまゝ木尻に腰掛けて、手盛りで飯を詰込んで居 「んでがすけど、丹野〈はお吉も長らく奉公して居たもんで、諸道た。喰ふだけ喰ふと、膳を投出してサ ' サと何處か〈出て行かうと 具の納ひ所でも何んでも、家の人逹より好く知ってるんでがす。今する。 度來たお連は未だ馴れねえ、是非來て居ろッて旦那が云ふもんでが ほたび いら 「峯吉小父ア。忙しい、遁げちゃ駄目だよ。又一本杉さ行くたべ すから。」と話す間も榾火を弄ったり、咳拂ひしたりして、私の顔え。」とお吉は笑ひながら聲を掛けた。 を見ないやうにして居る。 「馬鹿吐かせ。俺アお寿の方を掛合ひに行くんだ。」 わりき 「そんな事ばかり云ってると、病人は死ぬぞ、承知か。」と嚇して うつむ 「嘘だ、お寺さは多利が行ったもン。そんな事云はねえで薪木でも 見ても、默って俯向いて居た。 こなして下れせいよ。」 「確りしないか、馬鹿な男だ。」と叱り付けて歸り掛けると、源作 「厭んだね。俺ア昨夜から夜通した。佛様だか蜜柑箱だか背負はせ ふしゃうおと は見送りに立って來て、然も云憎さうにモヂノ \ しながら、 せんあん られて火葬場まで行って來たんだから、不淨落しに一杯引掛けて寢 「先生様、實は何時もノ、來て頂いても、診察料も上げられないの べえ。旦那歸って來たら寺さ行ったと云って置くんたぞ。あの佛だ で、俺アはア : : : 」と眞赤になった。 らそんで澤山だ。」と笑ひ / \ 出て行った。 「そんな遠慮は明日から後でして、今日は先づ病人を大事にしろ。」 はり お吉は物置へ出たり人ったりして、獨りでツリ / \ 働いて居た。 「そいに、注射の分も一本だけ借になってるもんでがすから。」と そこ〈淸太郞は手眠醉って車〈乘って歸って來た。目を赤く腫ら オド / 、して戸口に立って居る。 して居る。 くや 家へ歸ると、地木綿の短い羽織を着た二人迚れの作男が、所の風 びるなかひ 「何んだ。弔みに來てくれた人にお膳も出さないで、早く用意しろ で晝中灯の點いた提灯を下げながら、丹野の小兒のお知らせに來た。 ひる よ。今に火葬場から皆が歸って來ッぞ。」と大聲で臺所へ云付けて 氣管切開後經過が悪くて、今日の正午ごろ病院で死んだと云ふ。 わざ / 、 わぎら 居る。今まで手持無沙汰に堪へて居た人逹も、急に煙草人を腰に納 「態よの所、御苦勞でげした。」と石岡隱居が矢張り所の風で勞ふめて座敷のお膳〈坐った。私も無理に強ひられてその席〈出た。 たかばつつけ たらふくあづきもち 席がや、亂れて、話島が高張付になった頃、源作は稼ぎ着物で縁 「ま、これで二三日ア鱈腹小豆餅に有付けツからなア。」と若い者 側からオヅ / 、弔みを述べに來た。淸太郎は最うグ一フ / 、に醉拂っ は笑ひながら出て行った。 て、議論にもならない政治論なぞ始めて居た。 「源作か、好く來て呉れた。まア坐れ。色々世話掛けたが、到頭駄 目だッたぞ。」と淸太郎は据わった目で小作人を見て居る。 しつか 諍どか かいみやう

8. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

秋葉 ( 聲 ) はい / 、、唯今。 者、洋裝、極度の近眼。表ロより大聲に怒鳴りつゝ入り來る。 お妻、雲右衞門常用 0 黒き手提力。 ( , ( 金入れ ) を持ちて、靜か倉田どうしたんだ / 、、何んだ「てこんな處〈降りたんだ。 巳之吉お倉田さん。好いところ、來て下すった、どうにも、 たに お妻はい、お爺さん。 ( と手提げを渡す ) 斯うにも、進退谷まってゐるところだ。 松月さうですかい。それちゃ、チ , ックラ行って來よう。 倉田こんな番狂はせは誰の發案なんだ。桃中軒は何處にゐる。お 巳之吉待った、松月爺さん。おい等も一緒に行かう。 れが會って談じつける。 松月わしは使ひだ。遲れると又、先生に叱られます。 瀧右それが倉田先生、先生はこ又にゐないんですよ。 松月、トボ / 、と去る。舞臺やゝ暗くなる。 倉田何、居ない ? 巳之吉奧様、爺さん一人ぢや駄目ですよ。一緡にな「て飮み出さ瀧右土地の料理屋で、〈、 ' てゐるんですよ。 れては、それこそ騷動だ。夜が夜中でも今晩中に國府津〈着」て倉田お妻さん。 ( 《傍」行き ) こりや一體どうしたんです。僕は大 ゐないぢや、明日がどうにもなりませんぜ。 阪以來の友人として、職業をはなれて明日の乘込みに景氣をつけ しゃ お妻さ、それも思ひますけれど = = = 頭取や貴方が行って、素直に てやらうと思って、わざ / \ 瓧を休んで沼津まで出張してゐたん 歸ってくれるでせうか : ( と嘆息する ) た。急行が着いた。三鞭酒の壜を兩手に握って、大聲に雲右衞門 巳之吉斯うしませう。ちゃこれから、奧様とあたしと一緖に行っ 萬歳と一等室に躍り込むと、居る筈の者が居ないぢゃないか。列 て、先生の料簡を聞いて見ませう。壁に馬を乘りかけて置いて、 車ポーイに聞くと、急に靜岡で下車したと云ふ話だ。何アんだ、 どうする氣なのかあたしには分らない。 何んのことだと云ったところで、喧嘩にもなりやしない。丁度そ お妻あたしが : の時、擦れ違ひの下り列車が發車するところだから、夢中になっ 巳之吉奧樣、あたしは自分の損得ばかりで云ふんちゃねえ。こん しにいき て車掌臺に飛び乘って來たんだ。御覽、眼の玉が一ッ飛んぢや った。 な事が世間に聞えたら、一座の死活にもか又はりますぜ、何萬と 云ふ金をかけて、仕込みをしてゐる者の身にもな 0 て御覧なさお妻どうも相濟みません。何しろ急なことで・・・・・・あたし共にもど い。座方ではどんな騷ぎをしてゐるか知れやしません。 うしてい又か、見當がっきませんでした。 お妻全く : : : 困ってしまひます。 倉田誰が責任者です。第一にその責任を問はなければならない。 お妻、外方の夕暮を見詰めて、何か考へてゐる。 僕は今度、個人的友情から各社の友人に賴んで、國府津まで出て 巳之吉奧樣、思案してゐる時ちゃありますまい。どうなさる、時 貰った者もあれば、明日の乘込みにもそれえ \ 趣向を立て又ある 間がないんですよ。あなたが踏ん切って下さらないぢや、みな宙 んだ。稻田君、君がついてゐて何んたる失態だ。責任者を出し給 に迷ふぢゃありませんか。奧様、奧様。 へ、責任者に會はう。 お妻 ( ホ , と溜息 ) 少うし : : : 考へさして下さいよ。 巳之吉先生、それが全くの不意打ちなんですよ。誰だってこゝ〈 8 お妻、物思はしげに柱の方〈行く時、倉田楚水、宿屋の番頭に小 3 着くまで、氣が付いてる者はありやしません。 鞄を持たせて、遽しく停車場の方より入り來る。楚水は新聞記 倉田言譯にゃならないよ、桃中軒だって氣違ひちゃねえ。

9. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

2 ったな 夜叉王ぜっぱ詰りて是非におよばず、拙き細工を獻上したは、悔信殊に愚信はお風呂の役、早う戻って支度をぜねばなるまい。 五郎お風呂とて自づと沸いて出づる湯ちゃ。支度を急ぐこともあ んでも返らぬわが不運。あのやうな面が將軍家のおん手に渡り るまいに : : : 。先づお待ちゃれ。 て、これぞ伊豆の住人夜叉王が作と寶物帳にも記されて、百千年 をとこをうな の後までも笑ひをのこさば、一生の名折れ、末代の恥辱、所詮夜信はて、お身にも似合はぬ不粹をいふぞ。若き男女がむつまじ 叉王の名はった。職人もけふ限り、再び槌は持つまいぞ。 う語らうてゐるところに、法師や武士は禁物ちゃよ。はゝ、 かへでさりとは短氣でござりませう。いかなる名人上手でも細工 は。さあ、どざれ、ござれ。 あつば ( 無理に袖をひく。五郞は心ならずも曳かるま人に、打連れて の出來不出來は時の運。一生のうちに一度でも天睛れ名作が出來 橋を渡りゆく。月出づ。桂は燈籠を持ち、賴家の手をひきて出 ようならば、それが印ち名人ではござりませぬか。 夜叉王む曳 かへで拙い細工を世に出したをそれほど無念と思召さば、これか 賴家おゝ、月が出た。河原づたひに夜ゆけば、芒にまじる蘆の根 やまが らいよ / 、精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を に、水の聲、蟲の聲、山家の秋はまた一としほの風情ちゃなう。 作り出し、恥を雪いでくださりませ。 かつら馴れては左程にもおぼえませぬが、鎌倉山の星月夜とは事 ( かへでは縋りて泣く。夜叉王は答へず、思案の眼を瞑ぢてゐる。 變りて、伊豆の山家の秋の夜は、さぞお寂しうござりませう。 日暮れて笛の聲遠くきこゅ。 ) ( 賴家はありあふ石に腰打ちかけ、桂は燈籠を持ちたるま、、橋 の欄に凭りて立つ。月明かにして蟲の聲きこゅ。 ) 賴家鎌倉は天下の覇府、大小名の武家小路、をならべて綺羅を 競へど、それはうはべの榮えにて、うらはおそろしき罪の巷、惡 魔の彙ぞ。人間の住むべきところで無い。鎌倉などへは夢も通は ぬ。 ( 月を仰ぎて云ふ ) かつら鎌倉山に時めいておはしなば、日本一の將軍家、山家そだ ちの我々は下司にもお使ひなされまいに、御果報拙いがわたくし げかうみち いはや の果報よ。忘れもせぬこの三月、窟詣での下向路、桂谷の川上 で、はじめて御目見得をいたしました。 賴家おゝ、その時そちの名を間へば、川の名とおなし桂と云うた かつらまだそればかりではござりませぬ。この窟のみなかみに ふたもと は、二本の桂の立木ありて、その根よりおのづから淸水を噴き、 末は修禪寺にながれて入れば、川の名を桂とよび、またその樹を 女夫の桂と昔よりよび傅へてをりますると、お答へ申上げました す、き ( けいけう おなじく桂川のほとり、虎溪橋の袂。川邊には柳幾本たちて、芒と蘆 とみだれ生ひたり。橋を隔てゝ修禪寺の山門みゆ。同じ日の宵。 ( 下田五郞は賴家の太刀を持ち、信は假面の箱をか、へて出づ。 ) 五郎上様は桂どのと、川邊づたひにそゞろ歩き遊ばされ、お供の 我々は一足先へまゐれとの御意であったが、修禪寺の御座所もも はや眼のまへぢゃ。この橋の袂にたゝずみて、お歸りを暫時相待 たうか。 たをやめ 信いや、いや、それは宜しうござるまい。桂殿といふ嫋女をお見 出しあって、浮れあるきに餘念もおはさぬところへ、我々のごと き邪外道が附き纒うては、却って御機嫌を損ずるでござらう ぞ。 五郞なにさまなう。 ( とは云ひながら、五郞は病不安の體にてた、ずむ。 )

10. 日本現代文學全集・講談社版34 岡本綺堂 小山内薫 眞山靑果集

31 イ シリと胸に張りつき、常のやうにむづかりもしませぬ。 る時に心が輕く、攻める時には心が痛むと云うてゐられまし こ 0 將門合戦は大人でも厭やだ。 ( と生欠伸をみ、また柱に凭れる ) 四郎と東の君は去る。 將門貞盛、ほんたうに然う云ったか 9 ( 間 ) 然し、然し : : : お前を 遠く人馬の騒音聞ゅ。 奪ったことは何んと云った、伯父を殺したことは怨んでゐる筈だ。 ごぢん 三郞 ( 耳を立てとお、後陣が引き上げて來たやうだ。もう間も 東の君いえ、そのやうな怨みは聞きませぬ。 なく夜が明けるだらう。 將門お身を遁れさせたのは何日の日だ。 東の君一昨日の朝、との又先勢が羽鳥の館を圍んだ時でござりま經明 ( 坐ったま將門に ) 貴所、貴所。 ふちしろみち ( と、うつら / 、してゐる ) 將門うん・ す。供の者をつけて間道から、藤代道に出て歸りました。 こ度ろぎ あらそひ 經明どうだ、まだ蟋蟀の音が耳に聞えるか。 將門然し貞盛はどうする氣だ。爭鬪をこのまには置けまい。 東の君太郞ぬしは、一日も早く京都へ歸りたいと云うて居られま將門うん : ・ した。 經明は乂はゝ、どうした小次郎。 將門 ( 間を置きて ) 先刻おれは、自分に不思議な心を見たと云った 將門と云ふのは。 な。それを考へてるのだ。おれは妻子の生命が無事と聞いた時 東の君苦しい爭闘の巷から、その身を退きたいのでござりませ に、打たれたやうにガッカリしたのだ。助かった嬉しさは云ふま う。都には婿入りすべき家も定まり、權門の便宜もあると云うて でもないが : : : 同時におれは力が脱けた。うつぶんに眞樹を怨ん 居りました。 ゅづるき で張りつめた心が、欺かれたやうにブツリと、弓弦が斷れたやう 將門所領はどうする。名はどうする。 な心持がする。 東の君爭ひの上に立っ名など、惜しう思はぬので。こざりませう。 みやこふうが なんびと たゞ京の風雅に憧れてゐるやうに見えました。所領は何人の手に經明しかし然う云っても、眞樹はそこの妻子を賣ったのだ。信賴 さ、も みつぎもの する味方を賣るほど、賤しい鄙しい心はないと思ふ。 渡っても、年々の貢物さへ送られ又ば、それで好いのかと思ひま う乂ん、おれは眞樹を云ふんぢゃない。それより大きいもの す。 塾 ~ ・わ′、り だ : : : 上の方にあるものだ。何か大きな機關があって、おれ逹は 將門然うか : : : 然う云ふ心もあられるかなア。 ( 氣が付いて急に ) : 怨んだり、憎んだり、 その糸は操られて、逐ったり逐はれたり : 四郞、夜が更けて朝霜が降り初めた。稚兒の顏にかゝっては好く もちあそび ふしど そんな事を一生してゐるのぢゃないかと思ふだけよ。誰か玩具に ない。姉御前を導いて、假屋に臥所を設けてやりやれ。 する者があって、そいつに笑って見てゐられるやうな氣がするだ 四郎兄者、そこには無事に歸った稚兒の顏を、見てやらうとは思 けよ。 はぬので。こざりますか。 經明また初めたな、は乂は乂ゝ。それ / 、見ろ、三郎の目が睨ん 將門お、然うであった、どれ / \ 。 東の焄抱きたる兒を差し寄せて見せる。 でるぞ。また何か云ひ出すぞ。 將門云はれたって好い。おれは疲れた。 將門うむ。好く眠ってゐる。かくべっ面窶れもしなかった。 こごころ 將門、ゴロリと板敷に寢る時、門前急に騷がし。 東の君それでも合戦の恐ろしさが、兒心にもわかるかして、キッ