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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)
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1. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

11 初戀 で臥床へ這入ッてからも何となく眠るのが厭で、何となく待たるゝ から嬉しいのか ? 恐らく痛いから嬉しいので : : : まア如何でも宜 者がある様な氣がするので、其癖其待たるゝ者はと質されるとな いとして、痛さが消えぬ様に打たれた處を靜と撫でた。 に、何もないので、何も無いと知ッて居るが、其處が妙な譯で、夢 此處へ姉が這入ッて來て、 たしか どうね うつ、 現の間で慥有る様に思ッて居るので、如何も臥るのが厭であッた。 「秀さん何をしてお在でだ。 其故床の上に坐ッて居ると、そら、娘の姿がちら / 、目の前に現は 娘は莞爾して姉に向ひ、 にツこり れて來た。莞爾と笑ひながら自分の手を打ッた時の貌、其目元、ロ 「如何も此子は不器用で不可ません。 元で笑ひながら額越に睨んだ貌、共りきんだ目付、まア何よりも其 「此様な者は出來なくッてもいゝゃ。 わがま、ツこ すがたかたち 「出來なくッてよければ、何故敎へてくれと言ひました ? 我儘子美しい姿容が目の前にちら / 、し始めた。自分は思ひ出し笑ひを しながら、息も靜にして、其姿が逃げて往かぬ様と、荒く身動きも せず、そろ / \ 夜具の中へもぐり込んで、晝間打たれた手の處を靜 娘は口元で笑ひながら額越に睨む眞似をした。自分は我儘子と言 はれるのよりは、何とか外の名を附けて貰ひたかッた。 と頬の下へ當がツて、其儘横になツたが、何時眠ッたか其も知らず ねい 心地よく眠入ッて仕舞ッた。 共夜の事で、まだ暮れてから間もない頃自分は何の氣もなしに、 自分は此時からといふ者は娘の貌を見てる間、其聲を聞いて居 祖母の室へ遊びに往ッた。すると祖母を初めとして兩親も居れば叔 父も娘も居て何か話して居たが、自分を見ると父が眉に皺を寄せる間、誠に嬉しく又樂しく、ついうから / 、と夢の間に時を過して いさ・、か あちら て、「彼方へ往ッてお在で。子供の聞く様な話ではない。」と儼然と居た。斯うは謂ふものの娘が居ないとて、夢聊ふさぐなぞと謂 して言ッた。が自分は此場の様子を怪んで、物珍らしい心から出るふ事はなかッた。何を言ッても自分はまだ十四の少年、自分と娘と のを少し躊躇して居ると、娘が貌をふり上げて淸しい目で自分を見は年が如何程違ッて居て、娘は自分より幾歳の姉で、自分は娘の前 では小兒であるといふ事、又娘は只一時の逗留客で日ならず此土地 、其目の中には、「早く出て往ッて : : : 」といふ様な風があッた。 はた 一寸見た娘の一目は儼然として言はれた父の嚴命より剛勢だ、自分を去る人といふ事、自分は娘を愛して居るのか、將亦娘は自分を愛 して居ないのかといふ事、總て是等の事は露程も考へず、唯現在の は娘の意に從ひ直に室を出たが、共でも今室へ這入ッた時ちらりと 皆の風が目に止ッた。父は叔父に向ッて「左樣さ、若年にしては喜びに氣を取られて、其を樂しい事に思ッて居た、が其喜びは煙の 中々感心な人で。」などと話して居た。又娘は下を向いて膝を撫で如く、霧の如く、霞の如くに思はれたので、如何かすると悲しくな ッて來て、時々泣出した事もあッたが、なに、其だとて暫時の間 て居ると、祖母と母とが左右から其貌を覗き込んで、何をか小聲で たづねて居た。自分は室を出てから、何を皆は話して居るのか、何で、直又飛んだり躍ねたりして、夜も相變らずよく眠ッた。 たま ひとめぐり 叔父は僅に一週の休暇を賜はツて來たので、一週の時日はほんの 故又自分が居てはわるいのか ? と思ッたが、なアに、思込んだの めばたき ではない、ほんの目の前を横ぎる煙草の煙、瞬を一つしたら直ぐ夢の間の様であッた。もウ明日一日となツて、自分は娘にも別れな ければならぬかと、何となく名殘惜しく思ッたが、幸ひ叔父が三日 消えて仕舞ッた。 元來此日は、自分は何となく嬉しくいそ / \ として居た。然し何の追願ひをしたので、尚二三日は此方に滯留して居る事となツた。 故嬉しかッたのか共理は知らなかッた、が何がなしに嬉しかッたの然るに其夜の事で母と祖母との間に誠に嬉しい話が始まッた、共を こん どう ふしど どれ いくっ ゅめ

2. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

6 たてつけ ばあ きたないのも何も知らず、ぐッと一息に飮み、尚三四杯立付に飲ん 「おイ婆やア、誰か尋ねて來なかッたかい、予逹を。 ためら だ、娘はロの傍へ持ッて往ッて見て少し躊躇ッて居たが、其でも半 「はアい、誰もござらッさらねェでしたよ。」老婆は不審さうに答 飮干した。此時自分は、「扨も鑵子の湯は甘い者だ、」と思ッた。 へた、「誰か尋ねさッしやるかナ、お坊様。 此老婆は誠に人のよささうな老婆で、いろ / \ な事を話掛けるの 「蕨採に來たのだが、はぐれて仕舞ッたの、連の者に。おイ、老爺 や、探して來てくれないか、一寸往ッて。 で、娘は其相手をして居た。自分は又斯る山家へ娘と二人で來て、 つぎた 自分が唐突に前後不揃の言葉で賴んだのを、娘が繼足して、始繆世話になるといふのは、餘程不思議な事で何かの縁であらうと思 いとぐち ッた。其が考への緒で、種々の事を思ひ出した。閉ち、斯様な山 を話して、「お氣の毒だが見て來て、」と丁寧に賴んだ。 とッさま かや 「それ工定めし心配して居さッしやろう、これ工爺様よう、ちょッ中で、竹の柱萱の屋根といふ、此様な家でも宜いに因ッて、娘と二 くら往ッて見て來て上げさッせいな。」 人して居たいと思ッた。すると其連感で、自分は娘と二人で此家の 隣家に住んで居る者で、今一寸遊びにでも來た者の様な氣がした。 最前から手を休めて、老爺は不審さうに見て居たが、 ひとッばし あらひざらしはりめぎぬ あかねもめん すると又娘の姿が自分の目には、洗晒の針目衣を着て、茜木綿の 「む見て來て上げぺい。一走り往ッて、 たすき きぬ す、ぎ ト言ッたが、中々おちついた者で、其から悠然と、ダロク張の煙岸を掛けて、絲を採ッたり衣を織ッたり、灌洗濯、きぬた打、の てわざ 管へ煙草を詰込み、二三吹といふ者は吸ッては吹き出し、吸ッては手業に暇のない、畫にある樣な山家の娘に見え出した、いや何とな そろ′、 あがりばな く其様に思はれたので。其故自分は連にはぐれて、今此處へ來て居 吹き出し、其から徐々立上ッて、どツかと上端へ腰を掛けて、ゆッ くりと草鞋を穿き出した、穿いて仕舞ふと丁寧に尻を端折ッて、扨る者だなどといふ事は、殆んど忘れた様になツて居た。不意に表の 方が騷がしくなツた。 其處で漸と自分に向ッて、 どッちら 自分は覺えず貌を上げて而して姉を見た。 「坊様、何地等の方でさアはぐれさしッただアの ? きししめ 「お秀坊が ! 自分は方角を指示した。老婆は老爺の出て往くのを見送り、其か はなござ ら花筵を引出して來て、 第一に姉が叫んだ。 きら 「さア壤様。お掛けなせいまし、其處はえらく汚ね工だから。さお 誰しも苦痛心配は厭ひであるが樂になツてから後、過去ッた苦痛 たのしみ を顧みて心に思ひ出した程、又樂の事はない、其と大小の差はあ 坊様掛けさッさろ。 「婆やア湯をおくれ、氣の毒だが。 るが、心持は一つだ、晝間自分逹のはぐれたのは、一時は一同の 「湯かなう ? 今上げますで、少し待たツせい、一ッくべ吹ッたけ苦痛であッたが、其夜家へ歸ッてから、何かに付けて其事を言ひ出 しては、其が笑ひのとなり、話の種となツた時には、却て一同の るから。 くわんす 老婆が鑵子の下を吹ッたける間、自分は家の内を見廻した。此家樂となツた。自分は娘が嬉しさうな貌をして、此話をして居る樣子 よみにん を見て、何となく喜ばしく、而して娘も苦痛を分けた人であると思 は煤だらけに燻ぶり返ッて、見る影もないアバラス堂で、稗史など やまなか によく出て居る山中の一軒家といふ書割であッた。其中に鑵子の湯ふと、一層喜ばしく、其日の蕨採は自分が十四歳になるまでに絶え は沸返ッたが、老婆は、ヒビだらけな汚い茶碗へ湯を汲んで、其をて覺えない程の樂であッた、と思ッた。然し悲喜哀歡は實に此手の よろこび かなしみ 縁の缺けた丸盆へ載せて出した。自分は喉が渇いて居たから、器の裏表も同じ事、歡喜の後には必ず悲が控へて居るのが世の中の習 だしぬけ ぶく おいらたら うつは なかば

3. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

8 あと 此時娘は、叔父の後に續いて件の女中をつれてしとやかに玄關を る様に此娘を愛して居る様子、と自分が祖母を慕ふ様に娘が祖母を 上ッて來た。娘は、成程、母の賞めた通り誠に美しい娘だ、脊はすら慕ッて居る様子、とを見て何となく心嬉しく思ッた。 りと高く、色はくッきりと白く、目はばッちりと淸しく、眞當の美 まゆずみ よそひ 其翌日の事で自分は手習から歸るや否や、「娘は如何したかな ? 」 人だ。黛を施し、紅粉を用ひ、盛んに粧を凝らして後、始めて にんたう と見ると姉の室で召件れて來た女中と姉と三人で何やら本を見て居 美人と見られるのは共は眞成の美人ではない、飾らず裝はず天眞のたが、自分を見て莞爾したので自分も其笑ひ貌に誘出されて何故と 儘で、共で美しいのが眞の美人だ。此時の娘の身裝は旅姿の儘で、 なり もなく莞爾した。自分は是から劒術の稽古があるから、直に稽古着 淸楚とした裝で飾氣の氣もなかッたが、天然の麗質は四邊を拂ッてを着て、稽古袴を穿いて、竹刀の先〈面小手を挾んで、肩に擔いで 自然と人を照す許りであった。共に如何様に容貌が美しくても、氣部屋を出たが、心で思ッた、此勇しい姿、活湲といはうか雄壯とい 象が無下に卑しい時は、如何も風采のない者であるが、娘は見るかはうか、其活な雄壯な風と自分が稽古に精を出すのとを娘に見せ らが其風采の中に温良貞淑の風を存して居て、何處となく氣高く てやらうと思ッた。其から武者修行に出る宮本無三四の事を思ひ出 如何なる高貴の姫君といふとも恥かしからぬ風であッた。 しながら、姉の部屋へ這入ッたが、此小さな無三四は狡猾にも姉に 其に田舍者は如何程容貌が美しくても、如何程身裝が立派であッ向ッて、何食はぬ貌で、「叔父さんは ? 」と問ねた。姉は何とか對 ても、彼一種言ひ難き意氣といふか、しなやかといふか、風流とい へて居たが自分は其様な事は聞きもせず、見ぬふりで娘の方をちら ふか ? 彼一種たをやかな風を缺くものであるが、娘は其風をも備 りと見て、其なり室を出て仕舞ふと後から笑ひ聲が聞えた。自分の 〈て居た。淸水の叔父は自分の父の弟で、祖母には第一一番目の子噂だなと嬉しく思ッたが、今更考〈ると、なんの左様でもなかッた 、其故娘は自分と同じゃうに祖母の孫で、加之も最愛の孫であッ よもやま のであらう。晩方から親類、縁者、叔父の朋友、大勢集まッて來た たさうな。共夜一同客座敷〈集まッて四方山の話を始めたが、何れが、中には女客もあッた故母を初め娘も、姉も自分も其席に連ッ も肉身の寄合であるから誰に遠慮といふ事もなく其話と言ッては藩た。其中に燭臺の花を飾ッて酒宴が始まると、客の求めで娘は筑紫 中の有様、江戸の話、親類知己の身の上話、又は各自の小兒の噂な琴を調べたが如何して、中々絲竹の道にもすぐれた者で、其爪音の どで、左のみ面白い話でもないが、然し其中には肉身の情と骨肉の面白さ、自分は無論能くは分らなかッたが、調が濟むと竝居る人達 愛とが現はれて居て、歎息する事もあれば、ロを開いて大笑をする が口を極めて賞めそやした。娘は賞められて恥かしがり、此席に連 事もあッて近頃珍らしい樂しみであッた。祖母はお雪や此處へとい ッて居るのを寧ろ憂い事と思ッて居るらしく、話もせず、人から物 ふ様な風に、目附で娘を傍〈招いて、種々な事を尋ねたり語ッたりを言ひかけられると、言葉少に答をする許り、始終下を向いて居た。 して居たが、共聲の中には最愛可愛といふ意味の聲が絶えず響いて ちひ が其風は如何にも柔和でしとやかで、微塵非難をする廉も無く、何 居た様に思はれた。而して祖母は娘が少さかッた時の様に今も尚抱 となく奧床しいので、自分は餘念もなく其風に見とれて居た。 いたり、撫でたり、さすッたりしたいといふ風で、始終娘の貌を莞 自分の父は武邊にも賢こく又至ッて嚴格な人で、夏冬共に朝はお 爾々々とさも樂しさうに見て居たが、娘も今は十八の立派な娘故、 城の六つの鐘がポーンと一つ響くと、共二つ目を聞かぬ間にもウ起 流石にさうもなり兼ねたか、唯肩に手を掛けて、「ほんに立派な娘上ッて朝飯までは、兵書に眼をさらすと謂ふ人であッた。其故自分 におなりだの、」と言ッたのみであッた。自分は祖母が自分を愛すにも晨寢はさせず、常に武藝を勵む様にと敎訓された。 どれ とも

4. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

0 ぢびた いて、地下をひら / \ と飛び廻ッて居た。が、あはや「コロ」の爪止まッて、柱へつかまッて庭を見て居た。すると娘の居る座敷で誰 にかゝりさうになツた。 か立上る樣な音がしたが、直其音が近附いて來た。自分の胸はとき 「あらまア ! 彼様ないたづらを。」と娘は走せよッて、 めいた、注意はもウ其音一つに集ッて仕舞ッて心は目の前に共人の 「およし可哀さうに。 像を描いて居た、共人の像はあり / \ と目の前に見えるのに、其人 うしろ ちりげ 娘はしなやかに身を屈めて、「コロ」を押へながら蝶を逃がした。 は自分の背へ立ッて、いたづらな、自分の頸毛を引張ッて、 其から「コロ」を抱きあげてそしてやさしい手でくる / \ と「コ 「秀さん、好い物をあげるから入らッしゃい。 ロ」の頭を撫でまはした。「コロ」は叱られたと思ッたか、目を閉 「好い物 ? 」好い物とは嬉しい、と思ひながら、嬉しさに殆んど夢 ち、身を縮め、首をすぼめて小さくなツた其風の可愛らしさ。娘は中になり、後に續いて座敷へ這人ると紙へくるんだ物をくれた。開 共身の貌を「コロ」の貌から二三寸離して、しげ′と見て居たけて見るとあたり前の菓子が嬉しい人から貰ッた物、馬鹿な事さ、 こは が、其淸しい目の中には如何様に優しい情が籠ッて居たらう。「も何となく奪く思はれた、破さない様に、丁寧に、靜と撫でる様に紙 ばら う蟲なんかを捕るのではないよ、」と言ッて、其美しい薔薇色の頬へくるんで袂へ仕舞ふのを、娘はぢッと見て居たが莞爾して、 を猫の額へ押當て、眞珠の様な美しい齒を現してゆッたりと微笑ッ 「秀さん好い物を拵へて上げませう。 にツこり どんな 「どうぞ。 たが、其莞爾した風は如何様にあどけなく、如何樣に可愛らしい風 であッたらう ! 自分は猫を羨しく思ッて餘念なく見とれて居た。 娘は幾枚となく半紙をとり出して、 わらひ ちょいと 娘は頬の邊にまだ微笑のほのめいて居る貌を一寸ふり上げて自分の 「そら宜うございますか、是が何になるとお思ひなさる、是がね、」 わらひが 顏を見たが、其笑貌の中には、「何故其様に人の貌を見て」と尋ぬゅッたりした調子で話し始めた。「ーー寔は、そらね、是を斯う折 る様な風が有ッたので、あるひはなかッたかも知れぬが、自分はあ ッて、此處を斯うすると、そうら、一つの鶴が出來ますよ、そら今 あわ ッた様に思ッたので、はツと貌を赤らめて、周章てて裏庭へ逃出し出來ますよ、そうら出來た。 かんじ さんばう て仕舞ッた。が恥しい様な、嬉しい様な、妙な感情が心に起ッて何 娘は鶴を折ると其から舟、香箱、菊皿、三方などを折ッてくれ となく胸が騷がれた。 た。自分は娘が下を向いて折物に氣を取られて居る間、其雪の様な 共日の七つ下りに自分は馬の稽古から歸ッて來て、又何時もの様白い頸、其艶々とした綠の黑髮、其細い、愛らしい綺麗な指、共美 に娘の居る座敷へ往ッて見ようと思ッたが、はてまア不思議 ! 恥 しい花の様な姿に見とれて、其袖のうつり香に撲たれて、何も彼も しい様な怖い様な氣がして、往きたくもあるが往きたくもなく、如忘れて仕舞ひ、唯もウうッとりとして、嬉しさの餘り手を叩きたい 何した者かと迷ひ出して、男らしくないと癇を起して、其處で往程であッた。 くまいと決心して誓まで立てたが、扨人情は妙な者で、とんと誰か 「お姉さま。折方を敎へて下さいな。 來て引張る様で、自然と自分の體が動き出して、知らぬ間に娘の居 其から自分は折方を習ッて、二三度試して見たが出來なかッたの にんたう る座敷の前まで來た。唐紙は開いて居た。自分は座敷の方を向きもで、娘は「眞當に此子は不器用な人だ。」と笑ひながら、いやとい しなかッたが、共で居て、もウ娘が自分を見たなと知ッて居たのふ程自分の手を打ッた、痛かッた、痛さが手の筋へ染み渡ッた、が で、態と用ありさうに早足で前を通り過ぎ、共癖隣座敷の縁側で立痛さと一所に嬉しさも身に染み渡ッた、嬉しいから痛いのか、痛い かほ それ からかみ どんな さて わら かたち えり

5. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

8 初めて搜査官の前に立ったとき、もう身内は顫へた。魂は悸へた。 とも出來なかった。段々夜は更けた。見張りの人が眠げに片方に 何事か譯の解らぬことを問はれて、譯のわからぬことを答、た。日腰をかけて居る丈で、外に人はない、もし彼に逃亡を企つる勇氣が 記や書信が彼の面前に展げられ、彼のわくわくした心の上に讀みおあったなら、こんないゝ機會は又とないのであったが、 , 彼にはそん ろされたとき、そんな激しい文字を使ひ合って居た當時の氣分が自な呑氣なーー今の彼としては實際それが呑氣であったーー・計畫を考 いとま 分で了解し惡い程であった。「迫害が來た。迫害が來た。正義の爲へてる遑がなかった。掛りの人が席を引くときに、しばらく控〈て に奮闘するものは如此迫害さる。噫又呼、四五日内の = ウスに注居ろと云はれた詞の中に、腰を下ろしてもいゝと云ふ許しも出たか 意せよ。」之は誰からの端書であったか、匿名故、何の時の事やらさの様に思はれたが、もし不謹愼だといって叱られやしないかと思〈 へ彼は思出す餘裕がなかった。「禪田街頭に於ける : : の奮ば、やはり立って居なくてはならなかった。足はもう感覺もないや 闘はあつばれ武者振勇しかったぞ。俺も上京して應援したいんだ うになった。上半身がどれだけ重いのであらうとばかり感ぜられ けれども知っての通りの境遇だから惡しからず、思ってくれ。」之 た。頭はもくもくして手の中は熱い。一方の脚を少しあげて、一方 は赤旗事件の時に桃木に宛た端書である。「今夜活動寫眞を見る。 の脚だけに全身を支へて見る。樂になったと思ふのは一分間とも續 鑛夫の二三人が手に手に持ったハッパを擲げつけると、鐵のやうなかない。こんどは脚をか〈て見る。やはり一分間ともならないうち 巖壁が粉韲せられる。何たる痛快事ぞ。」「硝石 : : = 鹽酸加里。我本に支〈た方のが重みに堪、ない。歩いて見たらいくらか苦しみが減 日漸くこれを得たり。宿望漸く端緖を開く。」「本日何某來る。彼はるかもしれない。歩いて見たい。彼は思切って左の足を持ち上げ 我黨中の先輩である。余は此意味に於て彼を敬す。然りと雖も彼はた。見張の人は一心に彼を見つめてゐる。ぎよっとして彼は又姿勢 げんき 實行者ではない。」彼の日記は彼の衒氣、強がり、輕率なる義憤に をとった。何か複雜な事を考へることも出來なかった。全く頭が空 充ちて居た。彼はもとより其自署を否認するやうなことを敢てしな虚になった。雜念と云ふものは何處〈か追拂はれたらしい。考〈れ かった。ただしかしこんな無造作に作られた、端書や日記の文章がば考〈るほど、腰が下して見たくなる。長々と寢そべって見たくな どうして自分の極重惡罪を決定する材料となるのであらうかと云ふる。世界中の最も幸輻なものは、寢床の上に伸々と橫はることであ はか ねが ことを知らなかった。それから大それた不軌を圖ったと云ふこと、 るとしか思はれなかった。彼はただそれをのみ希った。 丁度一年半程前に、紀州の石川を堀江の或旅館に訪問した等のこと 彼は公判廷に於ける彼の訊間の時、極めて冗漫なる詞を以て、そ が原因であり實行であるのだと云ふこと、誰が何を云って、自分がの當時のことを陳述し、自己の自白が眞實でないことを、思切り惡 何を聞いたか。もとより時にふれ折にふれては、自分は輕擧し妄動 く繰り返した。しまひにはおろど、聲になって居た。それ故彼が他 をして居たのである。座談に一場の快を取って、その胸の血を湧か人の陳述を聞いて居て、堪〈切れずに泣いた所因を、若い辯護人は せたに止まる。二三日たてば何でもなくなってしまふ。彼は一年半すぐに悟ることが出來た。「何といふ慘ましい事であらう。」 た 前の記憶を繰り出す間に更に更に大きく叱られた。 若い辯護人は竊に心を悼ましめて居た。 彼はその時の光景を想ひ起したのだ。午後から引續いての審問に 裁判長は一度途切れた訊間を、彼の泣き聲の跡から進行さすこと 捜査官も疲れた。彼は勿論疲れた。動悸は少し鎭ったが、夕飯は喉を忘れはしなかった。強ひて平調を裝ふと云ふ様子が見えるのでも へ通らない。ゃうやく貰った一杯の茶も土臭い臭がして呑み乾すこなかった。 ムる る ひそか

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25 女房殺し まこと びつくり と思ふ」これを聽いたお美代婆さんは、吃驚した顔で「それは寔に した」「それでは薄井といふ人に會ったか」「はい、會ひました」 此答を聽いて、堅吉は溜息を吐きながら、船に倚りかゝって、し御名殘惜しい事で : : : しかし、御病氣が快く御成んなすッた上に、學 あなた ばらくは無言。お柳は首を上げて「近藤さん、貴郎も拾って頂戴」校が始まって居ますのなら、無理にお留め申す事も出來ませんが・ いひにく ・ : 」何んだか言惡さうにして居る。堅吉も何んだか言ひたい事があ 「それでは薄井も手傅って拾ったのか」と思込んで言った。「二ッ三 くださ ッ拾って被下いましたが : : : 」「お柳さん、お前は薄井さんといふるやうにして居る。流石は年寄で到頭お美代婆さんは切出した「か 人を何んと思ふね」「東京で好い御役を御勤めなさる方ださうですうやって貴郞が妾の内に御逗留なさったのも、何かの因縁で御坐い ませうが、此上は如何かいつまでも御懇意に願いたいもので : : : 」 ・ : 」「お前は薄井に連れられて東京へ行きたくはないか」「薄井さ 「それは僕も望む處だ。實に僕は自分の家の様に思って居て、失敬 んとは厭ですが、東京へは行きたう御坐います」「それでは僕とは」 ばかり仕ました」「妾も親類の息子が來て居る様に思って居ました と思切って言った「ほ乂又」と笑って「連れて行って被下いますな が : : : 如何かまあいつまでも御懇意に願ひたいもので」と同じ様な ら、いつでも參ります」と言った。 ひど この言葉で酷く安心した堅吉は、一層勇氣を出して言って仕まは事を繰返して言って居るが、未だ此他に言ひたい事が、如何もある らしく、奥齒の奧の其奥の方に何んだか噛〆めて居て吐出さずに居 ふと、思ひは、思ったが、扨て舌が動かないで、ためらって、でも る様に見える「本統にねえ、貴郞の様な御方を : : : 」と、やっと言 今言はなければ言ふ時は無いと、遠廻しの祕俾知らぬ身の、眞向か ら切込んで「お柳さん」「はい」「僕が東京〈連れて行くと言った出して「御若いのに珍らしい貴郎の様な御方を、親類に持ちました ら」と謎の様にいふ。最う大概なら讀めて居るのだが、共處が、堅 ら、行きますか」「それは祖母さんが行けと言ひましたら」「祖母さ 吉で、如何も切出して好いのやら、惡いのやら、解する事が出來ない んも一所に僕が東京へ引取ふと言ったら、來るかね」と嚴然として これ 言った。此時初めてお柳が眞赤に成って、それは珍らしく眞赤に成で、まごノ \ として苦しむ「若しねえ、貴郞の様な方に、柳を差上 って「だって : : : だって : : : 」とロ籠って、全く下を向いて仕まっげましたら、どんなに妾が嬉しいか知れません」と思切って婆さん じようだんし て「だって、妾は行かれやア仕ません」「何故行かれない」と激しは言って、間違ったら串戲に仕ゃうと、いつもにない高調子で笑出 しか・も た「何故でも : ・ : ・貴郞、知って居ながら、妾をからかっては厭ですした。堅吉は眞面目で、加之靑筋を出さぬばかりに一生懸命の色を よ。妾の事を知って居ながら : : : 」「何んだか僕は知らない」「うそあらはした。怒るのかと思ったら「若し僂が貰ふと言ったら如何し ます」と言った。これで安心して、婆さんも眞面目に成って「それ ですよ、知って居て、それで貴郞は : : : 」と言ひっ乂立上って、そ して莞爾と笑うたが、此所を去るでもない、語氣の強い程怒ったのは二ッ返辭で差上げますが、何んと申しても田舍娘で迚も貴郎方 の」と歎息する「いや、僕だって今は書生の身分だから、今が今と でもない。 は行かんが、大學の撰科へ入學して、卒業するまでには、未だ三四 年あるから、其間に充分敎育したらい乂が、それでは待つのがいや だらう」と益よ堅くなって此所を先途と言った「いえ / \ それが本 一日大嵐で海は荒れ、外へ出られぬ事があった。雨戸をしめて今 これ 日は三人、一間に集った時に、堅吉は言った。「僕も大變御世話に統で御坐いますなら、四年は愚か、五年が十年待ちました處で、柳 成ったが、もう脚気も好し、學校も始まって居るから、東京〈歸ふが二十四、好しゃ妾が七十に成りましても、お待ち申して居ります かへら さすが

7. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

116 妻が弟から聞いたといふ、この妺の苦悶の絶頂の頃の事が、チ一フと 臺所の手傳ひをし、太一は新作と追ひかけっこなどをしてゐた。 かみそり 一郞が案内しようと言った時には、お仙はまた氣が鬱ぐと言っ彼の眼に見えたからであった。 ーーー今夜こそ、今夜こそと思ってお仙は毎晩剃刀を床の下に人れ て、火鉢の側に坐り込んでゐたが、一郞の妻も「家で御案内するつ て寢た。太一を先に縊り殺して置いて、と手拭をその細首に一と卷 てますから是非行ってらしって」と勸めて、やう / \ 承知させた。 お仙は羽織を持 0 て來なか 0 たので、一郎の妻がその白ぽい小紋き卷」ては、手拭の兩端を握 0 たま、太一の寢顔を覘き込む。する の羽織を出してやった。袖たけが着物とは合はなかった。それをおともう腕が鈍ってしまふ・ 昨日の夕方お仙がちょっと外〈出た時、彼の妻はまた聞きの其の 仙は無理に合はせようとするらしく度々袂を前に返した。 小豆色の縮緬のがあ 0 たがな、と一郞は思 0 たが、それは妻話を笑ひながら話した。彼も其時は「まるで芝居のやうだ」と輕く 聞き流したが、今、眞晝間に何の物思ふ所もないやうな母子の顔 が貸しじがるであらうと思ひ返して、ロには出さなかった。 が、電車の震動でプル / \ , , 、と搖り立てられるのを見てをると、 出がけにお仙は、一郞が卷煙草入を取りに二階に登った後を追っ 却って底知れぬ怖しさを感ずるのであった。 て來た。 わし 太一の頸首は黑く細かった。お仙の洋傘を杖突いてゐる手には靜 「兄さん、此間お預けしたのを持って行っておくんなすって。俺は 殘りを疊の下〈入れて置いたが、嫂さんの前で疊なんか上げるのは脈が靑く浮き出てゐた。 たしかにヒステリイになってゐる。早く癒してやりたい。さ : ・さうして新ちゃんにはやつばり品物でやった 氣が退けるから、 方が好えやうで御座んす。嫂さんがどうも・ = ・・」と彼女は言葉を濁う思 0 て、彼は心當りの婦人科醫者をあれこれと數〈立てた。 日比谷で電車を降りて公園〈入ると、子供は元氣で驅け歩いた。 らせた。 「む ? かつがまだそんな素振でも見せるのかい ? 」と一郞は言は丘 ( 上 0 て公園の全景を眺めたり、人混みの中を音樂堂の前の廣場 うとしたが、直ぐ彼自身が惡かったと氣付いた。彼は妻に、妹が金から鶴の噴水の側〈出たりする間に、お仙は二度許り溜息をした。 を寄越した事だけは知らせたが、勿論妹の氣が濟むやうにた = 預っその都度一郞は彼女を ~ , チ〈休ませた。「疲れたらう ? 」と彼が 言ふと「いゝえ、」と彼女は答 ~ た。「面白くないかい ? 」と彼が言 てる積りであるから「禮を言 ( 、」とは指圖しなかった。 ふと「面白う御座んす」と彼女は面白くもなささうに答〈た。 「さうか ? それでは今日ついでに何か買ふが好い。」と彼は言っ 「己がまだ結婚しない前に、お前が東京〈出て來て、一絡に此公園 て、机の抽斗にあの儘投込んで置いた紙包を取出した。 一郎とお仙と太一とは一絡に電車に乘 0 た。日比谷〈行く途中をを散歩したね。」と彼は遊動圓木の側〈出た時さう言った。 お仙親子はさすがに珍らしさうに、あちこちの建物や春景色やを覘「〈え、あの時の事は ( ' キリ覺えてゐな」けれど、何でも寒い時 いてゐた。「縹緻は貴郞の兄弟中ではお仙さんがやつばり一番です節で御座んしたね。」とお仙が言った。 そんな事から二人は種々話し續けた。 よ、眼が大きくて、色が白くて。」と羨ましさうに妻が言ったのを 「あの頃、ソ一フ己の許へ四國から手紙を寄越す女があったらう ? 一郎は思出しながら、人混みと外の陽氣の加減とでいくらか上氣し てをる妹の横顔を見、それに倚掛るやうにしてポカと口を開けてかっとの話が定った折だったから、己が返事は出さないって言った をる太一を見た時、彼はふと全身に強いシ , ックを感じた。それはのを、お前が強ひて返事をやらせた = = = 」

8. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

15 初戀 りして居て、 ひ此時自分は娘を慕ッて居たと知ッて居なかッたにしろ、 ) 隱然と 「さうですね工 : 愛が存して居たので心細いとは思はなかッた、寧ろ此娘と僅二人、 「立ッて居ても仕方がありませんから、まア向うの方を尋ねて見ま人里を立離れた深林の中に手を携へて居ると思ふと、何となく嬉し せう。 い心持がして、寧ろ連の者に見附からなければ宜いといふ様な、不 たす 蕨はもウ其方除、自分は娘の先へ立ッて驅けながら、幾度も人を思議な心持が何處にかあッて、而して二人して扶けあッて、木の根 呼んで見たが、何の答へもなかッた。 を踏こえて走けて往くのを、實に嬉しいと思ッて居た、自分は二町 こちら あッち 「此方の方では無かッたかしらん。」娘は少し考へて居て、「彼方か程といふ者は、何の餘念もなく唯うか′と、殆んど夢中で走ッて も知れません、秀さん、彼方へ往ッて見ませう。 往ッた。すると突然目の前に大きな湖水が現はれた。 走出して見た、が見當らぬ、向うかも知れぬ、と又其方へ走出し 遙に向うを見渡すと、森や林が幾里ともなく續いて居るが、霞に さかさ て見たが見當らぬ、困ッた。娘はさも心配さうに頻りと何か考へて籠ッて限りもなく遠さうだ、近い處の木は梢を水鏡に寫して倒に水 居たが、心配さうな小さな聲で、 底から生えて居るが、其水の靑さ、如何にも深さうだ、薪を積上げ あなた あちこち いかさま 「秀さん、貴君、道を知ッて居ますか ? た船や筏が湖上を彼地此地と往來して居るが、如何様林から切出し 自分とて此邊はめッたに來た事のない處、道を知らう筈はない、 たのを、諸方に邇送する者らしい。日はもう七つ下り、斜に水を照 まこと が方角丈は漸よと考へついた。 らし森を照らして、寔に佳い景色である、がもう見る氣はない、娘 「い又え、よくは知らない、けれど此方の方が境だから右の方へずが貌に失望の意を現はして、物をも言はす、悄然として景色を眺め ん / 、往きやア、あの、屹度境へ出るから、さうすりやア、もう譯つめて居るのを見ては。 ゃう はない。若しか見つからなきやア、なんの、先へ歸ッてしまひませ 「おや、此様な大きな沼がある様では : : : 此方でもなかッたと見え しかた ますね工、爲方がない、後へ戻りませう。 きびす 娘は暫く考へて居たが、少しは安心した様子であッた。 娘は歎息したが如何も仕方がない、再び踵を廻らして、林の中へ 「若し先へ歸ッたら、きッと皆さんが心配しませう。其に折角一所這人り、凡そ二町餘も往ッたらうか、向うに小さな道があッて、其 に參ッたものを」 : : : 少し考へて居たが、「まア此方の方へ往ッて突當りに小さな白屋があッた。娘は此家を見ると、少し歩くのを遲 見ませう、もう一度、今度は何處までも往ッて見ませう。よウ、何 くして、考へて居る様子であッたが、 にんやり を茫然して : : : 秀さん。 「秀さん、丁度宜い。彼處の家へ往ッて賴んで、皆さんを尋ねて貰 ひょっとあすこ 又歩き出した。 ひませう。其に皆さんも私逹を尋ねて、萬一彼家へでも尋ねて往ッ 少年の頃は人里離れた森へなど往くのは、兎角妻い樣に思ふもの て、若し私逹が來たら止めて置く様にと賴んであるかも知れませ だが、まして不知案内の森の中で、加之も大勢で騷いで居た後、急ん、まア彼家へ往ッて見ませう。 に一人か二人になツて、道に迷ひでもすると、何となく心細くなる 自分は異議なく同意して、いきなり共家へ飛込んだ。家では老夫 びッくり 者で。自分も今日の様な事に若し平常の日に出遇ッたならば、定め婦が絲を取り、草鞋を作ッて居たが、我々を見て吃驚した様子。自 て心細く思ッたのであらう、が然し愛といふ者は奇異な者で、 ( 縱分は老婆に向ひ、 かけ そッちのけ たと かは それ わらち くさのや こらら

9. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

8 1 めと泣出した、すると娘は自分の肩〈手を掛けて、机に身を寄せかは父と竝んで岸邊に立ッて、二人が船〈乘込むのを見て居たが、其 どんな けて、淸しい目を充分に開いて、横から自分の貌を覗き込んで、 時の心持は如何様であッたらう、親兄弟にでも別れる様に思ッた、 「何故お泣きなさるの、何か悲しい事があるの。え。お腹でも痛い而して其別れる人の心は何人の事を思ッて居るのかと思ふと、尚悲 の。え、え、氣分でもわるいの。 しさも深かッた。娘が棧橋を渡ッて、愈船へ乘込まうとして、此方 かぶり 自分は首をふッた。 をふり向いて、 どう 「左樣ではないの。其では如何しなすッたの、泣く者ではありませ 「叔父様、御機嫌よろしう。左様なら秀さん。 んよ。よ。よ。 ト言ッた聲、名殘に殘した其聲がまだ四方に消えぬ内、姿は船の 自分は袖でいきなり泣貌をこすッて、 中へ隱れてしまッた。 あなた あした 「お姉さま : : : 貴孃は : : : あの明日もウ歸るんですか : : : 如何して 無情の船頭、船のもやひを解いて棹を岸の石に突立てる、船は岸 を離れる、もう是が別。父も悄然として次第に遠くなる船を見詰め ものやはら 娘はしげ / \ と自分の貌を見て居たが、物和かに、 あなた て居る様子 : : : すると船の窓から貌を出した、誰であらうか、此方 なさけ 「秀さん、共で和子泣いて居たの。 たづ を眺めて居る、娘ではないか。情を知らぬタ霧め、川面一面に立籠め かしら 首をかしげて問ねたが、自分が默ッて居たのを見て、自分の頭をて其人の姿をよく見せない、彼が貌かといふ程に、只ぼんやりと白 かすか また、き 撫でようとした、自分は其手をふり拂ひ、何か言ッてやらうと思ッ い者が、ほんの幽に見える許り。あゝ共さへ瞬をする間、娘の姿 さ、り たが、思想がまとまらなかッた。 あなた も、娘の影も、それを乘せて往く大きな船も櫓拍子のする度に狹霧 「お姉さま、貴孃は : 、あの、あの悲しくも何ともないの = : = 皆の中に蔽はれて仕舞ふ、あゝ船は遠ざかるか、櫓の音ももウ消え消 に別れるのが。 ひそ え、もウ影も形も : : : 櫓の音も聞えない、目に入る者は刀根川の水 娘は眉を顰めて、不審さうに自分の貌を見て居たが、 が只洋々と流れるばかり : おとッさん 「おや何故 ? 悲しくない事はありませんが、もウ父上も歸らなけ いろ / 、 ればなりませんし : : : 其に種々」言はうとして止め、少し考へて居 娘は江戸〈歸ッてから、程なく古河へ嫁入したが、間もなく身重 むしけ て、「秀さん、私ももウ今夜ぎりで歸るのですから、仲よく遊びま になり、其翌年の秋蟲氣附いて、玉の様な男子を産落したが、無残 せう。ね。さア。もウ泣く者ではありません、さア泣き止んで。 や、産後の日だちが惡く、十九歳を一期として、自分に向ッて別れ ひとこと あゝ何として泣かれよう、自分の耳には娘のいふ一言一言が、小 ぐさ る時に再會を約した其言葉を、意味もない者にして仕舞ッた。然し 草の上を柔かに撫でて往く春風の如く、聞ゆるものを、其優しい姿曾て娘が折ッてくれた鶴、香箱、 = 一方の類は、いまだに遺身として が前に坐ッて、共美しい目が自分を見て、而して自分を慰めて居る祕藏して居る。 こんにち か椴かたち ものを、あゝ何として泣かれよう。五分も經たぬ内、自分はもウ客 嗚呼皆さん、自分は老年の今日までも其美しい容貌、共優美な淸 びんづらなかんづく 座敷で、姉や娘と一所になツて笑ひ興じて遊んで居た。 、もろとー、 しい目、其光澤のある綠の鬢、就中おとなしやかな、奧ゆかし 翌日の晩方自分は父と諸共に、 . 叔父と娘とを舟に乘込むまで見送い、其たをやかな花の姿を、あり / \ と心に覺えて居る = ・ = ・が・・ ッたが、別の際に娘は自分に細々と告別をして再會を約した。自分悲しいかな、共月と眺められ花も及ばずと眺められた、共人は今何 なか こが さを かはづら こちら

10. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

8 からだ 成りまして、一生汚れた身體に成って仕まひました。共時妾さへ居る。海白く、空黑く、今にもタ立が來さうで、遠雷か、それとも潮 りましたら、そんな事は致させるのでは御坐いませなんだが、如何聲か、びかり / \ と電光は山の後で雲をつんざく。寒い程涼しい晩 あてむせびい も殘念で成りません」と手拭を顔へ當て咽入った。 だ、堅吉にはそれが蒸暑く感じられて、身體の置所が無い様になっ りつぜん 堅吉は慄然として、思はず立上ふとして、又坐って、腕を組んて來た。海へ飛込まふかと思った、何度となく海へ飛込ふと思っ で、一時に歎息だか何んだか知れない息を吐いた。實に鏡利なる鎗た、しかしながら斯う思ひながら、足はそれに向はず、いっしか知 しはらくばう の穗先で、腦天から足の裏まで貫かれたかの如く感じて、少時は茫らず小山の麓へ行った。共所は木蔭の茶屋のあった處、今は何もな と成って居た。共茫として居る中から「腹が立つ」「殘念だ」「悲しい。唯山から引いた噴水が、筧に木の葉でも詰ったのか、先程の勢 い」「情けない」「如何したら好からう」「仕様はなからうか」なぞひはなく、只ちよび / \ と吹出して居る。以前はれて居た岩、今 の念が、一皮々々生じて來て、判斷力を包む。共内で一番厚い皮がは噴水が屆かぬので、晝間の日に焦けたほとぼりが冷めぬ岩、これ 「情けない」といふ念である。弐いでは「如何したら好からう」で に彼のお柳が腰を掛けて桃を手にして居た事もあったのだ。堅吉は ある。 これにどツかと腰を掛けた時に、少しは落付いて物を考へる事が出 實に情けない親父だ。如何も情けない親父だ。して / \ 此花の如來るやうになった。 く美しく、雪の如く淸い少女を、誰が蕾の内に散らしたか、未だ積 如何しゃう、如何したら好からう、お柳を貰ふまいか、止して仕 らざるに汚したか、惡むべき天下の罪人、大罪人、瓧會の大罪人、 まは・ふか、お柳より他にお柳と寸分違はぬ女があれば好いが、無 どくちゅうあくにんだい , ( 、 極重惡人、大々惡魔、未だ情を解せぬものを、「聖の戀情でなく、 い。死んだ許嫁とお柳とがいくら好く似て居ても、どツか違ふて居 一時の好奇心で、をのカで、犯したとは、獸心、人面、獸心、寸るだけそれたけお柳以外にお柳はない。お柳より他に眼中女がな 斷に切さいなんでも厭き足らぬ。如何しても厭き足らぬ。金力でバ い。其お柳には如何にしても消滅しがたい汚點がある。知らねば格 たう アヂニチーを破る、此位な慘酷は他に決して無い 9 人あり、刀を持別、知って貰ふて如何であらう。口惜しい、其汚點は、決して消減 はらわたっかみた まなこ って人を殺し、腹を割きて、共腸を攫出し、眼をくじりて、其眼しないのである。何もそんな者を、好んで、急いで、女房にしなく 玉をゑぐり出し、共頭を立割りて、腦味噌を出したりとぜんか、そ ッてもよい。といって他に、それなら気に入ったお柳同様な女があ れよりも、我は、金力を以て處女の操を破りたる者を、一層の上に るか。無い。決して、無い。それと思込んだら眼中他に女が無い。 慘酷の度を置くべしと、堅吉は思詰めた。餘所の話、知らぬ少女世界は唯一人の戀人であるのだから、有るべき道理がない。一生狐 を、これ / 、に仕たと聽いてさへ、此位に思ふべき堅吉、それがお獨で暮すなら格別、妻とするなら彼のお柳が好い。彼の笑ふ處が好 のれの生命を犧牲に供してまでもと思込んで居るお柳の上に於て見い。こせつかぬ處が好い。何を言っても怒らない處が好い。言葉の る、苦しさ、つらさ、腹立しさ、味氣なさ、情けなさ、といふもの 通りに從ふ處が好い。何がなしに好い。如何しても好い。今日まで は、實に非常で、共非常の結果として、此所に居た乂まれない様に缺點はなかったが、初めて聞いて驚くべき缺點のある事を知った、 なって、不意と飛出した。しかせざれば、堅吉は、慥かに卒倒する共缺點・ーー先づこれを研究せねばならぬ、共上で我はどちらかに極 場合であったのだ。 めやう、斯う堅吉は考へた。 ともしび 夜だ、外は闇だ、潮頭樓の間毎々々には燈火が綺麗に輝いて居 そして出來るだけ辯護すべき方面から、お柳の身上を研究した。 ひとかは かけひ おれ