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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)
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1. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

2 3 ちに成って、本統に心細くって : : : 」と相談柱に立てかけた。 引張られて行った。 失策った、取逃しかけたと、大いに驚いた。お鉞はこれでは成ら 急に、東京見物に連れて行って遣るといふので、無理無體にお鐵 ぬと話口を捕へて「ほんとに心細いだらうねえ、お前さんを一人に と薄井とに引張られて、汽車に載せられた。如何もお柳には、これ して逝ったお婆さんも邪見だが、全體旦那もあんまりだねえ : : : 」 を拒む事が出來なかった。 と言った。蓋し、これは、さぐりの針を一本打込んだのだ。 「本統ですよ、早く歸って呉れ又ばいゝんですが、困って仕まひま しかも すよ」とこれは眞から困ったらしく言った。お鐵は此所ぞと「全體 其留守に堅吉は歸って來た。加之一度は東京へ着いた。けれど お前さんは今の旦那を如何思っておいでだい」「如何って、別にも、お柳が薄井の屋敷に來て居ゃうとは、訷ならぬ身の何んで知ら う。急いで逗子へ來て見た。家は錠を下されて住む人無し。お美代 あのよ 正しくお柳は別に如何といふ深き考〈はないのである。善とも惡婆さんは死んで黄泉の人、お柳は東京〈、誰と、何しに、共處は知 とも考、ては居らぬ。唯良人だと思ふて居るのである。如何って別れねど、行って居る事は近所の人から聽いて知れた。不審で / \ 成 により、別に言ひ様は無いのである。 らぬ。仕方なく引歸して東京へとも思った。何にしても解す可らざ もどかしがってお鉞は眞向から切込んだ「如何だね、お柳さん、 る事だ。何事でお柳は東京へ行ったらう、誰に誘れて行ったのだら かへり お前さんも御婆さんに別れて唯一人此所に居ても、何んだらうか う、手紙を二三度出して歸期を知らしてあるのに、如何したのか。 れうとうはんたうあららこちら ら、潮頭樓へ遊び半分、手傅ひに來たら好いだらうにねえ。それで 遼東半嶋を彼方此方、幾多の困難を堪忍んで、測量の事業を終 以て旦那の歸るのを待って居た方が、餘程好からうと妾は思ふよ」 り、恙なく歸って見れば、此有様。浦嶋が感に似て居る。 とこれから至極巧く理屈を合せて、如何してもそれが好い様に説立 族にやつれ、つかれノ \ て、色も黑く、體も瘠せた。其やつれ、 てた。迂濶と乘る。締めたと喜んで益よ説立てるお鐵の辯に、くる其つかれ、それは片時も忘れぬ最愛の妻を見るの樂しみで愈すべ くるとくるめられて、それぢやア何分と言ふ事になった。 く、歸って來て見れば、老婆は死し、妻は居らぬ。 かっ 赫と上せて眼前の物を辨ぜぬ様に成った。好しゃ如何なる用向が なんどもたんども けれども流石に薄井の居る部屋へは行かなかった。再三再四お鐵あったにしろ、お柳が東京へ行った事に就ては、一點のゆるす處が なぐりたふ が勸めたけれど行かなかった。後には手を引張って連れて行かうと無い。見當り次第撲斃さねば腹が治まらぬ様に成った。 したけれど行かなかった。 直ぐ東京へ引歸して、心當りを搜さねばならぬ。自分がこれ程に 苦勞をして歸ったのに、まア如何したのだなアと胸が張裂ける程疳 すていしょん 十圓の出處は薄井からだといふ事をお鐵が明かした時に、お柳は癪を起して、又停車場へ立戻った時は夢中であった。切符を買った ふさ 閉いだ。此義理に責められて、止む事を得す、薄井の部屋に行っ のも、汽車に乘ったのも、丸で知らず。 大船の乘かへの時に、遇った、それは向ふから來た旅客の中に、 お柳とお鐵とがーーー見る間にお鐵は姿を隱して仕まった。お柳は喜 薄井が歸京する時に、停車場まで送って行くべく、お柳はお鉞に んで、急いで、此方へ駈けて來る、堅吉もづか / \ と駈寄る、衝 けた すていしょん こなた おろ なか

2. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

8 3 らぬ。必らず軍曹の資格を身につけて歸る。そして、歸ったらトフ に軍曹だ。 ックを一臺買入れて、運輪業をはじめるつもりだと言ってゐた。信 嫂は呆れたやうな顔になって、 ー、・・何言ってるの。數ちゃん、ね、戰死 ! 今朝陸軍省から電報平は錐を刺込まれたやうに應〈た。そして識らぬまに聲を出して唸 った。△一でついいましがた姉と話してきたやうに、一人立ちになる がきて : 必要もない數男のこれが本心だった。故人の事志とちがった不幸を 信平は棒立ちに立竦んだが、母親も淸一もすぐに巳之吉叔父のと 悲しむ心よりも、信平には、この時ほど彼の籤のがれの口惜しさが ころ〈駈けつけて行ったと聞いて、飛んで行った。 身に沁みわたったことはなかった。 その口惜しさが、頭の隅っこに殘ってゐる鮫の井の田や佐市のこ 、だからこのふってわいたやうな大きな事件のかげに鮫の井の田の とを、はげしい憎惡と侮蔑で追ひたてた。 ことは溺れてしまったかに見えた。 ききつけて村の人々が續々と見えた。くやみをのべただけで歸る 信平が駈けつけた時には、巳之吉叔父の家ではもう祭壇ができ て、數男の伍長の軍服姿の寫眞が飾られて、その前に巳之吉叔父や者は殆んどなく、みんな通夜の仲間入りをしにあがったので、巳之 吉叔父の家は店先から奥まで村の人たちで詰った。そして、かうい 叔母や、本家の伯父伯母やその長男や次男などがごっちゃに坐って ふ人々の集りのなかで、彼等の素朴ないくさばなしのなかで、佐市 ゐた。信平の母親も淸一もゐて、母親が彼を手招いてなかに加 ( も鮫の井の田もそんなものは消えてなくなっちま ( ! と信平は思 た。 しかし母親は〈一から戻った信平に、鮫の井の田の結果を訊ねようひつづけた。 十一一時を過ぎると再び身うちの者だけになって . 、故人に就てのは としなかった。淸一もそのことは言ひ出さなかった。 そのことを誰も言ひ出さなかったので、信平はたすかったと思っなしも一段落のかたちだったが、母親は田のことは訊ねなかった。 その夜から母親は巳之吉叔父の家にゐ殘って、家〈は廻りつかな た。ほっとして、できるならこのだしぬけな大きな悲しみのため に、そんなことはその場の夢であったとみんな思ふやうになって欲かった。淸一もやはり叔父のところでたち働いた。 だから信平は翌日は一人で野良をやった。鮫の井の田のことはま しかった。鮫の井の田も、佐市も、カナダ麥の芋粥も、消えてなく だそのままだったけれど、母親は夕方一寸歸った時、葬式の相談が なれ ! 彼はそれをからだのなかへ叫び込んだ。 夜はそのままでみんなで通夜をした。陸軍省からの電報は簡單にまだまとまらぬなぞと話してきかせただけでまた氣忙しげに出掛け てしまった。淸一も夜一寸歸って、村長が見えて、村葬になる模様 古北ロで名譽の戰死とだけしか知らせてはこなかったので、人々の 話はしぜん昨日着いたといふ數男の手紙を足がかりとしてのびてゆだから、葬式は骨が屆いてから出すことになったなぞと言ってきか くのだったが、その手紙はもう人《の手から手に渡ったあと再び巳せたが、田のことは訊ねないでまた出掛けて行った。 しかし、その翌日の夜になって、母親は淸一と一緒に歸ってきた 之吉叔父のところに返されてあったのを、信平は讀ませて貰った。 が、信平を見ると、 陣中で忙しく書かれた手短かな亂筆だったが、そこには數男の腹を かういふことがあるからな : : : 戰爭になると・ 割った本心が撮み出されてあったのを信平は見た。この戰爭では必 と言った。 らず功をたてて軍曹になって凱旋するつもりだ。斷じて伍長では歸

3. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

「奉職」 小さい時から苦勞をしつゞけた姉の言葉は、なさけないがその通 「先生のことか、よし、聞いとかう」 りだと思はれて八穗は身が緊った。びんばふな暮しが切なくなっ て、 「さよなら」 「姉さん、私どこかに出る」 「どうしても歸る ? ぢや氣をつけてお歸り、暗いから」 「ほんとか」 道はよく凍ってゐた。歩きながら八穗は考へた。代用敎員でも先 「え」 生だ。先生なら生徒を敎へさせてくれるだらう。近頃偉いことをた くらんでゐる高ぶりだけで、肝腎の粒子を働かす工夫はまるでうつ 「ほんとに出たいなら、姉さんが口を見つけてあげよう。どんなと ちゃらかしだ。その態が思ひ返されて、殘念さと恥しさとにピシピ こがい ? 」 「ーーー學校」 シ打たれた。しかし子供を相手にしたら、また案外な道が開けさう 「學校 ? 學校って小學校 ? 割に安いよ。でもお前には他のな樂しい氣もしてきた。道のりも忘れて考へ / \ 歩いて行くうち、 勤めは向くまい、學校ならねどうにかーーーあら御免よ、姉さんたらいっか家の見える所まで來てゐた。 心配しすぎてね。だって姉さんの時は相談する誰もなかった。 はんきれ 幾日か待って、 xx 村役場の封筒で半片の辭令がきた。 先生になるなら師範の一一部へおはひり、こゝにゐて通へばい又し」 「いえ、すぐ出たい」 「三級下俸っていくらくれるんだろ」 隱してわざとこんなことをきくと、母は、 「すぐって、ぢや代用敎員に ? でも損だよ」 「どれきたか、よかったな」とちゃんと承知でゐた。 「それでもいの。賴むとこ無いかしら」 「さうね。 さうノ、永村さんは視學だっていふから、あの方に 町から汽車で二つ目の漁村の小學校だった。八穗は明日から出る つもりで、その用意をしてゐると、ちゃうど歸ってきた父もいつに 賴んでみてあげよう」 「きっとよ」 ない上機嫌でこまみ、注意などした。が八穗はもう敎へ子の上にあ 「あ人いとも」 れこれ理想だらけで、他の話は空の耳であった。 夕方、爐にあたって見てゐると、鐵瓶の湯氣が障子の硝子窓の内 店の方から呼ぶ聲がして、姉は立って行った。一人殘されたら急 側で凍って、太古の木の葉の形を作ってゐる。奇妙なさまみ、の葉 に心細くなって家に歸りたくなった。母が案じてゐるだらう。出る とき留めなかったからオリオンへ行くものと分ってゐたらうけどっぱが火の加減で次第に寄ったり消えたり又出來たりする。 「八穗、何夢中で見てるのよ」 ・ : 堪らなく歸りたくなって、火燵から拔けた穴をトン / 、叩い 「ほら、この硝子、こんなにほら」 て、店へ出ていった。 「なに、どれ、おやほんとに」 「あの、姉さん、私歸る」 あ 「さう手をつければ失くなってしまふってば」 「かへる・ーーいま御馳走しようと思ってたのに」 ノ、、、さあ、うまい汁でも煮よう」 「うん、い乂のー・ー・賴むね、あれ」 2 母が火をついで鍋をかけたら、太古の葉は皆流れてしまった。そ 「なに」

4. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

ながらも、眼に近い家族に邪慳にあたりたくなる人倩だ。 それでも父の歸らぬ晩は、吹倒れになってはしないかと夜中すぎ 「八穗、こ乂から學校へ通ふのは遠くて困るべ」と兄がきいたら、 まで母は炭をつぎ / 、待った。朝も父の留守を氣取られまいと早く 「學校は止す」と短く答へた。 とうに退學の手續はすましてあった。保護者の印は、父が留守の起きて、誰か來れば、 間の入用を思ってか開けつばなしにしてあった手文庫から拔いて押「今朝早く用が出來て町へ行った」とっくろった。 愚かな兄はこんなことに關はりもなささうにしてゐたが、北海道 した。 父がまた歸って四日も家に・ゐると、きまって岡田の婆が停を半みの牧夫のロがきまったので、母は暗い六疊で股引や足袋などにつぎ をあて、何足も行李の中にキチンとつめてやった。それをかついで ちに餘る道のりを使によこす。それが又可愛げのない子で、 出かける時、母が涙をこぼすと、自分もペソをかいて默って出た 「お父さ居るか」 が、町から用をすまして見送りに遲れまいと戻ってきた八穂に途中 「どこから來た」 まつだて で逢ふと、 「松館から」 「母さんの泣みそに困ったちゃ八穗、汽笛がなったら發ったとおも 「なにしに來た」 「酒の錢岡田へ拂ってくれろって」 送って行くといふのを、無理に歸して、珍しく元氣だった。 「うちでア酒飮まね工。間違ったべ」 あんまりムシャクシャして家の中が我慢出來ず、日暮だといふに 八穗がピシ / 、應對してゐると、父が出て來てその子とコソ / 、 八穗はマントを被って外へ出た。プ一フ / 、歩いてると、いつの間に 囁きごとをする。歸りしなに、八穗きゃうだいには一度も手づから か町へ來てしまった。どこへ行かうあてもなく迷ってゐるうちにカ くれたことのない金をそっと握らせてやる。だからその子はよろこ フェ・オリオンのある通りへ出た。入らうかな、何といって入らう んで又使にくる。 かとためらってゐると、女給の多美さんが見つけて、 「お父さ居ねか」 「あら八穂さん」と呼んだ。 「居ねェ」と叱るのに、 「どうれ、八穗さんてほんと ? 」とそのあとから政江の聲だ。 「ちょっと留めろ、行ったか」と父がいつになく落ちつかず出るや 「姉さんゐる ? 」 うにさへなった。 吹雪がっゞくと人のもぐるやうな吹きだまりが出來て、町との往「いゝえ、今留守、すぐお歸りだからお入りなさいな」 店には誰もお客がなく、もう一人きみといふ女給がストウヴの側 來も途絶えてしまふ。野中にぼつつりと吹雪かれてゐる家は、人の で本を讀んでゐた。二階へ上らうとしたが止して、皆と火の周りに 心まで荒れた。母は人が變ったやうに愚痴つぼくなって、十日餘り も留守にして歸る父にコセ / 、したことをいふ。うめ合はせのつも集った。 おほぎゃう りで言ふのに、大仰にとりあげて言返す父は尚さもしい。僅かの過「八穗さん、イントルゲンチャってなに ? 」 「知らない」 9 ちもタ暮の影ぼふしのやうにおそろしく伸ばされて扱はれる。こん すべ 「知ってても私等風情には敎へる術がないわね」こじれた物言ひも なにこんぐらかりの集になった原も岡田の畜生婆の惡だとは承知し 亡に ふぜい じやけん けど

5. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

おらやつばり軍隊へ出られたらよかったと思ふ。 : : : 數ちゃ そして、出掛けようとしてゐると、そこへ表から次郎の聲がし んはうまくやってる。 と、彼もつい同じゃうな聲になって、巳之吉叔父の一人息子の數 信ちゃんは行ったかい ? 男のことを言った。 次郎が這人ってきた。 すると、次郞は三たび聲を變へて、 淸一はすっかり身仕度をしたなりで起ったまま、信平でなしに彼 それはさうと、今夜きっとその佐市のところへ行けよ。いい が代りにいま行くところだと言ふと、 か ? お前が ? : なるほど、それがいい。 と、ひったてるやうに言った。 次郎は安心したやうな顏を見せて歸って行った。 信平はうんと答へて起ちあがった。が、その實のいらない返事が 四 次郞にはもの足りなかったか、 三反の田が手にはいるんだ ! 馬鹿め ! 淸一は信平が思ったより早く歸ってきた。 と、聲をたてて笑った。 信平は、兄がきつばり話をつけてきてくれればその方がいいと思 ふことの方が多かったが、しかし、さう思ふことがどうしても非道 家に歸ると、みんな野良から三時のおやつにあがってきてゐた。 おらやつばり軍隊へ出られたらよかった。 なことのやうに思はれる氣持もそばにあった。だから、彼は母親の 信平は先廻りをしてさう言ひながら這入った。 ゃうに爐端から起ちあがって兄を迎へなかった。 ーー何んだ ? 駄目だったのけ ? 佐市はやつばり留守だったと言ひながら淸一はあがってきたが、 母親が慌てて芋を呑落して訊ねた。 そのむっちりした顏色が信平には讀みとれるやうな氣がした。 數ちゃんが茨ましいよ。 それでどうだった ? そこで信平は、いま一度佐市の話をしてきかせなければならなか 母親が乘出してきくと、だから娘に言ひ渡してきたと淸一は答へ った。 すると、淸一はやにはに起ちあがって それで ? どうもかうもあるものか。△一の使ひの者がきつばり言ひ渡し よし ! ぢやおれが行ってきてやるー てきたんぢゃねえか。 きつい顔で言った。母親がつづいて、 さうだ。信平でない方がいい。△一の使ひの者だと言ふんだか それから信平のゐる爐の方へ寄ってきながら、娘はおやちが歸る 次ら信平でない方がいいわ。それで信平は明日からでも一番うなひをまで待ってくれと言ふんだが會っても仕様がないと言って歸ってき の たと彼は言った。 始めちまへ。 村 兄さんどんな氣持だ ? それがいい。おれが今夜行って、きつばり言ひ渡してくる。 と、信平は片手で榾火を掻き起しながら言った。 その通り、淸一は晩飯がすむとすぐに小ざっぱりした野良着に着 2 どんな ? かへた。 て、

6. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

ちがいらいらして、そんな時は押入れの中へかくれてゐる。 リガックリとしてどうしても治らなくて動けなくなってしまふ。 やつばり、渡と二人で遊んでゐる時のことを思ふと世界が廣々と して空も高いし、心の中が野原のやうに青々として氣持がいい。 「小母さん左様なら」 日曜に渡が目藥差しの變り型の空瓶を持って來てくれる約束だか と言ふと、 ら家に待ってゐると、渡は末だ來ない代りに三木の家のねーやが來 「もう、よっちゃんと遊ぶのいやになったの」 て、一一宮様のお孃様もお母様とおいでになっていらっしゃいますか ときまってお母さんは變なことを訊き出して自分の方から今日はら奥様が坊ちゃまをお呼び申して來いでございますと言ふ。私を坊 歸りなさいと言ふまで歸してくれない。 ちゃまと言ふのはこのねーやばかりだ。行けないとさう言ってくれ 「い乂え、さうぢゃありまぜん」 るやうにねーやに返事をすると、母が、一寸行っといでときかぬか 「ぢやもっと遊ばない」 ら、渡のことが氣にかかるが行ってすぐ歸るつもりで、ねーやにつ 「そんでも、局〈お父さんのお辨當持って行かんならん時間ですか いて行くと、三木のお母さんが私の顏を見るなり睨むやうな眼で笑 ら」 って、 「それは小母さんがお母さんにお話してうちのねーやが代りに持っ 「いいでしよ」と言った。 てったげるのよ」 何がいいのか判らないが、 「ふんでも : ・・ : 」 「はい」と返事をする。 「一寸いいこと話したげるから一寸ここ〈いらっしゃい」 ねーやが竹を買ひにやられた上、こしらへたのかも知れない。節 「何ですか」と言ってそば〈行くと、三木のお母さんは手速く私のも太さもよく揃はない竹馬が縁側にもたせかけてある。 體をつかま〈て、自分の子でもないのに膝の上〈抱きかか〈て兩手「ゆたかさん、よっちゃんはまだ竹馬に乘られないのよ、だから今 でぎゅっと締めつけて 日はゆたかさんが先生になってくれるのよ、よくって」 「これでも歸る方がいいの」 三木のお母さんが言ふ。 と言ってくすぐったりする。敎育のあるお母さんがすることでは 「いゝえ、私下手です」と答〈ると、一一宮のお嬢樣とねーやの言ふ ないやうに思ふ。もがいてすり拔けると、 加代ちゃんが、 「あら、やつばりいやなの、渡と遊びたくなったのでせう、いい 「片足で歩いて片一方の竹馬を肩にかつぐのしてみせない」 子 わ、この頃ゆたかさんはいけなくなったのね、あんな惡い子供と仲 と言ふ。よっぽど乘ってみようと思ったが、加代ちゃんの人にも の 官 好しになっていけないわ、渡なんかと遊ぶなら小母さんもうなんに のを賴む時の言ひ方が、軍人の子だかは知らないが女のくせに生意 任 も知らなくってよ」 氣だから癪に障る。そしてそれはいいとして折角見せてやっても、 さうすると三木は自分のお母さんを私にとられたのだと思ふのか 加代ちゃんは見世物かなんかを見る氣でおもしろがって見るだけの お母さんを無茶苦茶にたたいて泣き出す。その騷ぎの間に逃げて歸ことで、藝は藝、人は人といふやうな考〈を持ってゐるのか知らな ればいいのに、足がすくんでしまって、心臓のあるところがガック いが、藝を見せてやった效果がない。少しも自分を大事にしないし、

7. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

頃まで待っててくれといふ命令だ。所在なさに、又昨日の杏のやう 憤っちゃ駄目よ。けふはよっぽど止さうかと思ったの。都合 な顔をした藝者をよんで、トフンプなどして他愛もなく遊んだ。 のわるい事もあったし、それに雨も降ってゐたので : 藝者を返すと、間もなく奥様が見えた。 それでも奥様は夕食に箸をつけてから歸られた。 逢ったら、いろんな話をするつもりだったが、顏を見ると、何に 暗い、道のわるい、方向のさつばりわからぬ松原の道を、さんざ も話す事はない。 んに迷ひ迷って、二人は又手をつなぎながら歩いた。かうして歩い そんなもの見なくたってよござんす。と、奥様は私の手にあて下さる奧様のお志のほどを思ふと、私はもうこのま、死んでもい った旅行案内を奪って、食卓の下へ押し込んだ。 いやうな心持になった。 では、どうしたらいでせう ? と、私は醉つばらった眼を 強ひて見張ってき乂返した。 翌日も曇ったり降ったりした。 遠く〈行っちゃいやよ。と、奧様は媚びるやうに答〈た。私 けふこそは來て下さるまいと思って、別れの手紙など認め、夕飯 はその媚びるやうな眼に征服された。 の膳に向って、チビリど、のみはじめてゐると、案外にも奧様は又 やみ 來て下さった。 一寸先は暗だ。私はとにかく小町園、荷物をあづけて、而も勘定 をすまして、手拭までもらって、奧様と手をつないで歩いた。暗い ゅうべは思ひがけなく奥様が來て下さった嬉しまぎれか、或ひは 町を歩いた。どこまでもどこまでもと歩いた。私はどこをどう歩い 一本よけいに飲んだ爲か、ひどく訷經が昻奮して、さんえ、子供の てゐるか知らない。が、奧様はよく知 0 てゐるのだ。御自分の家 ( ゃうに駄《をこねた擧句、奧様の歸られたあとで、妙に胸が一杯に お歸りになる道を歩いてゐられる事を知ってゐるのだ。私と奧様となって、ポ 0 ポ 0 涙さ〈とめどなく流した。 こつばづ はそれだけ地位が違ふ。道がわるかったので、一一人は時々手を放さ その涙の顏を女中に見られたのが小愧かしくて、爰の家にゐるの なければならなかった。けれども星は美しい夜だった。 が一刻もいやになった。それに天氣がばかによくなった。とにかく デッとしてゐられなくなったので、朝飯をすますと、すぐ勘定して 四日目には奥様〈電報などかけた。どうせ來ては下さるまいと思出かける事にした。 につてゐると、 や 大そうお早いのですね。これからどちら〈おいでになりま の ー引御婦人のお客様でございます。と、翌日の午後、女中が物靜す。と、女中が云った。 ス かに懊をあけて案内した。私はハッと嬉しかった。が、坐るか坐ら さア、とにかく藤澤まで出よう。 ニぬのに、 それでは車屋さんにさう申して置きませう。 ル けふはすぐ歸ります。あしたまた來ます。と、奧様は意地の 惡い事を仰しやるのだ。 あんなに駄々をこねたまんまで、永久に遠いところ〈行って了ふ 7 9 それぢや、お歸りなさい。もう來なくたってよござんす。と、 1 のも、何だか寢覺がわるいやうな氣がしたので、藤澤の方〈ゆく電 癪に觸ったので、私は心にもない事を云った。 車に乘る事は見合はした。

8. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

「母さんも林檎がいゝ」 「はい、わかりました」 ・よし / 、と父は元氣で出てゆく。 校長の氣に入るやうに書くほかはないが、授業は自分がするんだ から自分の信した通りしよう。結果の良い方が勝だと八穗は人を甘「い人になったらう。あれでオリオンさへ氣を焦らすやうなこと く見ることを覺えた。甘く見られないためか校長は時間中に受持のを言はなきゃね」 「あゝ」 高等科を放っておいて、時どき拔足で見廻りにきた。 「お父さんも惡かったと後悔してゐるんだけど、あの岡田の女が何 三十九人の中に、呼んでも返事さへ・せず、「お口がないの」って とか彼とか脅かすんだ」 言へば泣出す男の子と、「先生だっこしたい」と時かまはずに立っ 「脅かされねばいゝに」 てくる、十一になってもまだ六つくらゐの白痴の子とがゐた。一一人 「さうゆくもんぢゃない。あの女は匱だよ。いろ / 、考へれば憎い は他の子供に邪するから別にして、クレオンと手工材料を持たせ て、好きなやうにさせておいた。それがある日、校長の眼につくけど、お父さんの心も思って我慢するのさ」 十六の時お嫁にきた母は今でも十六の素直さだ。八穗にすれば父 と、得たりとばかり入ってきて、 「これはどうしたんです、出來ないからといってこれでは父兄に濟に責めたいことも多かったが、この母の前では何も言へない。 初めて月給を貰った日、家へ歸って、その三十五圓から宿代や小 みません」と叱りつけて元通りに直させた。 じゃうぶくろ など差引いた殘額一一十七圓餘りはひった从袋を出すと、母は有 「先生、校長さんなぜ先生を叱るの」 難いなと、父は八穗の骨折りをすまないなと、一一人とも眼をショポ 八穗は默って唇をかんだ。 ショポさぜた。暖かい家庭の空氣が久しぶりに戻ってきた。 家から通ふのは大變なので、八穗は小使の世話で漁師の家の一一階 雪も消えて少しづっ陽氣があた又かになり始めた頃、八穂は足が を借りた。生れて初めて知らない人なかに泊るのが心細くて、土曜 の午後はどんな事があってもきっと家へ歸ることにしてゐた。家の痛んできた。幼い時に足を病んだことがあったが、それが又起った 見えるところまでくると、急に思ひがこみ上げてきて走るやうに着らしい。土曜の午後、家へ歸る八穗はこの痛い足を引きずって歸っ た。汽車を降りてから練兵場をひとっ越して、そこから六町ばかり く。その足音で母も、 田圃みちをゆく。風がしんで痛くて歩けなくなると立止っては又歩 「八穗か」 戸をあけて「來たか / \ 」とうろど、するくらゐだった。一月ほいた。 「なんぼびんばふの子だらうと人様に思はれるから、もう學校はや ど前から、町の或る店の帳場へ働きに出るやうになった父も、晩に は歸ってきて、今までにない暖かい心を見せてくれた。あくる日曜めな、ね、お父さん」 母が、やっと家についた足を揉んでくれながら父に言ふと、父も はのう / 、と寢坊して、父の出勤も床の中で見送る。 やぜてきた八穗のすねを撫でて、 「何買ってきてやらう」 「うん、片輪になれば自分の損だ、もう行くな」 「さうね、林檎」 片輪になれと言ったつけ、それで片輪になったんだ、と冗談らし 「母さんは ? 」

9. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

きれ 市をかぶせてゆく。だん / \ それが固まりかけて重いったらない。 りくれた小遣をすっかりはたいてきた。 この病人にこんなことしてい又のかと思った。 そんなことがあった或る時、八穗は右腰のかたまりのあるあたり べッドは一週間ほどで出來てきた。頭からすぐ胴で、手足がな が濕るやうだから、おやと思てゐるうち次第にジク / 、濡れてくる しろもの 、氣味のよくない代物だ。この甲羅にはまって十二年は何が何で ので、起上ってしらべると、腫物から膿が流れてゐる。 もひどいな、と八穗は亠円くなった。 「母さん、膿ツ」 からだが土の型でしばられると、一そう切なくなった。その苦し おどろいて飛んできた母は、 さを何かで父母にあたり散らした。父母が何でも云ふなりになる 「どうしよう、どうしよう」とおろ / 、聲で自分の肌着で膿を抑へ と、それが又八穗のをたかぶらせてなほ無茶を言った。夜も眠れようとした。 「いけない、いけない、黴菌だから」 なくて、敎へ子の一人々々を思ひ出しては呼ぶと、あたゝかい涙が わきゅ 湧湯のやうにあふれて流れた。 八穗にどなられて脱脂綿をもってきた。ぬぐひ取る母の指は震へ ある日、牧夫に行った次兄の由造が安物の洋服をきてひょっこり た。八穗はポロ / 、、泣いた。 なまり 歸ってきた。北海道言葉の卑しつぼい訛が聞き辛い。母は兄の好き 膿は出てもど、尚出て、一度に脱脂綿一包ほどドプ ~ 〈、に濡らし な豆腐汁をうんと拵へて食べさせた。 た。一日に五六・ヘンもしぼらねば、流はとまらなかった。 「もう向うへは行かない」 そんな最中に珍しく姉の志穗がやってきた。見舞だらうと思って 隣りの部屋のばたへどっかり尻を据ゑて、二月ぐらゐは何もせゐたら、 ず新聞をあちこち引っくりかへしてゐた。それも惓いたか、こんど 「お母さん、由造はゐないでせう」と坐った。 は何とか用事を作っては出歩き始めた。愚か者でも親身にすれば外「あゝ、いくら言ひきかせても出歩いて : : : 」 へさらしたくなかったか、母がいろ , / \ すかして出さぬゃうにすれ 「この間から何度もうちへ來ましたがね。今日はどうしても北海道 ば、 へ行くと言張ってきかないので、私ひとりでやっては濟まないから 「おれを馬鹿にする」と怒った。 お伺ひに出ました」 朝めしが濟むのを合圖のやうに出てゆく次兄の留守に、 「またか、心配かけるの」 「落ちついて家の仕事を少しでもしてくれる心があればいのに」 母はぢっと考へてゐたが、 と母は寢てゐる八穗にこぼした。何か手頃な仕事を見つけてあてが 「どうしても行きたいものは留めてもきくまいし : : : でも一先づ家 っても、どれもやる氣力も能力もなか , った。時には出たま上一日もへ歸るやうに言っておくれ」 三日も戻って來ないことさへあった。 「いゝえ、もう家へ歸ってお談議をきくのは倦いたから、荷物や何 かを私に取ってきてくれって」 「無分別だから若しものことがあっては : : : 」 家中で心配して、母は夜中も寢なかった。そんなに心配させても 「 : : : さうか」 仕様なしに母はあきらめて立上った。この前持たせてやったもの 又ひょっこり平氣で歸って來て、 2 「雇うてくれるロを探しに三戸へんまで行って來た」と母がこっそはどうしたものやら、何一つ荷らしいものは持って歸らなかった さんのヘ

10. 日本現代文學全集・講談社版105 現代名作選(一)

が浮くやうに附く。唇は動くけれども口は開かない。 をかへておいた。 0 くるま 「小母さんと一緒にこの俥に乘って行きませうね」 先生は中で「はい」でもなく、「へい」でもなく「フィフィ、ヘ 三木の母が先に乘った。どういふ風にして、どこへ足をおいて腰 ンヘン」といふやうな返事ばかりしてゐるのだけがはっきり聞きと をどこへ掛けたらいいかと迷ってゐると、俥夫がひょいと抱いて乘 れる。 けっ お壤様で せてくれる。そして小母さんと一絡に腰から下を毛とんくるんでし まって、自分の體がどういふ風にひっかかってゐるのか分らないう 。。 0 。。。」波さんとこの。 0 。 0 。。なさ 。永田さんでは 。おいでになりちに、浮き上るやうに俥が上った。俥がゆれながら三木の母の顔が 申して。。。。 お話になり 横からのぞき込んだ。匂ひがした。 まして。。。。。 本當にどういたしましたら。。 外か 0 0 0 0 0 「いいでしよ」 0 0 0 0 0 間覗一ひ 0 0 0 0 0 も - っ - 0 0 0 0 0 0 0 0 0 : : : 何がいいのか判らないが、 三木のお母さんの話がと切れてしまふと、先生が小使室の方の見 「はい」 える窓をあけて、大きな聲で小使を呼んだので、あわてて立ち聞き と返事だけした。 をやめて小使室の方へ忍び足で走った。お茶を持って出て來た小使 「そら御覽なさい。渡だったのよ、加代ちゃんはね、渡が又あとで にもう少しでぶつかるところだった。 おっかないものだから、お母さんに訊ねられた時、ゆたかさんの名 十 を言っちゃったのよ、でも加代ちゃんだけは堪忍してあげるのよ、 三木のお母さんと一の人力車に乘せてもらって家に歸った。外あげるでしよ」 「はい」と言はうとしたら涙の方が先きに出て來て、目が熱かっ は薄暮れてゐた。人力に乘ったのは生れて初めてだから嬉しかっ た。けれども三木の母と同じゃうに前を向いてゐたからよかった。 た。いつも通る道が低いところにあって景色がちがって見えた。 唾ばかり呑み込んでゐたら、土橋を曲るところで、くらっと俥が はじめ三木のお母さんが歸ってから先生が小使室へ來て、今日は 歸ってよし、あした話をしてやると言ふので喜んで學校の裏門の方ゆれて、三木の母は又言った。 「いいでしよ」 の道から急いで歸らうとして門の外まで出て來ると、角に人力車が 何がいいのか判らなかったが、三木の母の匂ひが、耳の後から鼻 一臺あって、そのそばにもう先へ歸ってしまった筈の三木のお母さ の中を刺すやうにして來る。 んが不意に立ってゐた。微笑んでこちらを向いてゐる。 「あぶないわ、もっと小母さんにしつかりくつっていらっしゃい」 「待ってたげたのよ、いいでしよ」 腰骨が急にだるくなった。 と言ふ。 もう一つ曲り角のところへ來て俥がゆれた。そのはずみに思ひ切 三木のお母さんが微笑むといつでも大きい眼の中が目の玉の白い って浮かせてゐた腰を膝へどしんと下してしまった。 ところがほんの少しになってしまふまで黒味ばかりになってくる。 三木は病氣の時いつもかうしてお母さんとお醫者へ行く。そして そして顏が少し傾いていやいや人形のやうに輕く氣のつかないくら ゑくに ( 昭和十一年七月「文學生活」 ) ゐにゆれ出す。その次にきめの細かい白い顔の兩頬に一つづっ笑窪その時だけは着物を着てゐる。