している。 ( 『創作餘談』參照 ) く道を見出しました。」 マーテル一フンクは、生きて行くための智慧の極意は、あたかも自 これもまた、前記の『自己の爲』云々の一節である。「他人の内分が人生の主人公であるかのように意志的に行動し、しかも同時 に、われわれが出會う廣大な未知の力に對しては直ちに服從するの の印己を愛する」とは、例えば、「自分は筆をとるのは他人の内の 自分を生かす爲だ。さうして共に手を携へてェクスタシーを感ずるを義務と銘記するにある、という意味のことを書いている。武者小 爲だ。」 ( 『白樺』明治四五・一 I) といったほどの意味で、他人の苦し路のあの「帝王氣質」と「他カ氣質」の結合、あの自信滿々家の謙 みが我が苦しみとなり、他人のことが他人のことでなくなる意味で虚、敬虔な唯我獨奪者ともいうべき特徴は、そのマーテルランクの あろう。 「智慧」をユニックな人柄に體現した麒がある。マーテルランクは、 理性以上の智慧、あるいは無意識の叡智を力説しているが、これも 『智慧と運命』の著者は、犧牲は人格を高潔にする手段ではなく、 人格が高潔になった結果の一證左にすぎぬ、といっている。犧牲をまた『白樺』派の無意識奪重に相應するところが多い。 マーテルランクは「運命」の絶對的不正を前提とし、内的工夫に 犧牲と感ずる心には高慢のひそんでいることが多い、眞の犧牲はも よって自由と幸輻を築き上げることに「智慧」の本質を見出してい はや犧牲を犧牲と感じなくなった人の行爲だ、という意味のことを 書いている。マーテルランクの「啓示」によって、トルストイにた。内面工夫を件わぬ幸輻はありえない。幸輻追求者トルストイも また當然に内的工夫を説いていた。トルストイには、マーテルラン 「反抗」しはじめたとは、自己犧牲は美德ではなく、自己發揮こそ クに直接に通うところさえなくはないと思える。しかし、それと並 實は倫理的出發點なのだ、と覺った意味なのであろう。 マーテルランクは、燈臺守は海上を照らすために必要な油を附近んで、外部の瓧會的不正を匡正せずには止まぬ精が彼にはある。 トルストイの文學には、政治や哲學や科學を代行する性質があるば の貧乏人にわけ與えてはならぬ、人は「幸輻にたへる勇氣」を必要 とする、ともいっている。これはほとんど『桃色の室』の哲學であかりでなく、あまりに露骨な瓧會的不正に眼を奪われた人の常とし る。獅子は牛馬とおなじ勞働をする必要がない、というのもまたそて、人間性の闇黑そのものに歸せらるべきものをも、外的不正の結 れのヴァリエーションの一つと見うる。 果と斷する傾きさえなくはなかった。彼には「運命」そのものの 不幸な隣人がいるかぎり私は幸輻でない、というトルストイか不正に抗議せずにいられぬものがあった。マーテル一フンクによって トルストイを卒業するとは、トルストイの「理性」を名として外部 ら、「幸輻にたへる勇氣」というマーテルランクへの進みーーーこれ は一八〇度の轉回だといっていい。そのいずれの哲學をあやまりなの世界に自由を伸長するのでなく、マールランクの「智慧」によっ く實踐するのが人間により困難かは疑問だが、マーテルランクの思て内部の世界に自由を追うことを意味していた。それは文學を文學 想、とくに『智慧と運命』の思想は、武者小路だけでなく、『白樺』以外の「重荷」から解放し、より純粹文學化することを意味してい た。 派の人々の多くに「生命へ行く道」を暗示した。『智慧と運命』は、 トルストイからマーテルランクへの道は、武者小路にあっては、 「賢人には不幸も悲劇も忍び込む隙がない」という風に、人間の幸 クリンゲルの『貧窮』に寄せた感想から『桃色の室』にいたる道で 禧というものを、もつばら内的工夫によって到逹さるべき从態とし て説いているが、この「智慧」の思想は、志賀の成熟にも強く作用あった。この場合、トルストイは一切の「重荷」の代名詞を意味し 「白樺』派の文學
いる。なぜなら三四郞は裏切られるからである。この主題の前提は、 ぜ三人とも一時に寢た ? 三人とも一時に眠くなったからである。 具體的な體驗であろう。ただの空想ではない。外面的には輕いが、 心の底には深い傷痕を殘した體驗を想像してみることができる。 この作品は發表當時、みんなから判らぬと言われ、漱石は、判ら しかし、漱石の傳記には、以上の想像を實證する何の手掛りも認 なくても感じてもらえばよい、と言ったりした。「吾輩は猫である」 められない。一目惚れの初戀のようなものはあった。そのことで、正 のなかで越智東風は言う。「先逹ても私の友人で送籍と云ふ男が一 夜といふ短篇をかきましたが、誰が讀んでも朦朧として取り留めが岡子規にわざわざ手紙を送っている。その後どうなったか、誰にも ただ つかないので、當人に逢って篤と主意のある所を糺して見たのです判らない。ほかにも、似たような體驗があったかどうか、それも判 が、當人もそんな事は知らないよと云って取り合はないのです。全らない。また、悲劇的な戀愛の渦中に捲き込まれたかどうかも判っ ていない。先年、漱石の未發表の日記が公表された。そこには、女 く其邊が詩人の特色かと思ひます」漱石は、審美主義でなく、ロマ ンティシズムを主張したのである。「草枕」を書いたとき、その藝中への怒りなども書かれていたので、俗物たちは、そういう漱石を 隱したかったかもしれぬ。また、明治天皇への正直な批評もあり、 だが、「一夜」は、 術顳を小説の形を借りて述べようとした。 それを發表することは、檢閲が許さなかったであろう。漱石の未發 内容の點で、何か微妙なものがある。これが、漱石の靑年時代の 祕められた戀愛の斷片を語ってるとしたらどうであろうか。夢幻の表の日記は、これで全部なのであろうか。日付からいえば、漱石 なかに、その思い出を述べたものとしたらどうであろうか。その戀は、日記をつけていなかった時期が斷續してかなり多い。その部分 の日記が今後現われることはないであろうか。また、漱石の戀愛關 愛關係は、一人の女をめぐる三角關係ではなかろうか。私は、この 係などについて、祕密の事實が明るみに出ることはないであろう 作品にこめられた深い意味について、澁川驍の解釋に敎えられた。 それはこうである。漱石は鏡子夫人と見合結婚したことになっていか。森外の死因なども一般に萎縮腎だと信じられてきたが、少し るが、傳記の空白の部分には、深刻な戀愛の痛手があったのではな前に、本當は肺結核だったと、近親者から發表された。こういう新 いか。その痛手というのも、失戀ではなく、不德義な行爲をしたこ發表が、漱石について行われることはないであろうか。漱石の俾記 とへの反省の結果ではないか。つまり「こゝろ」の「先生の役割をの戀愛に關する部分が空白であるということは、繰り返し強調して おきたい。 演じたのではないかと想像する。そういう體驗がなかったならば、 明治三十六年十一月一一十七日、漱石は英詩を作った。 あれほど繰り返し三角關係を主題にすることはないだろう。なるほ ど、そう思ってみれば、「こゝろ」も「行人」も「彼岸過迄」も「門」 も「それから」も同じような从況の戀愛である。それを繰り返し取 1 1(X)ked at her as she looked at me " We looked and stood a moment. 上げている。それは、「こ曳ろ」では、主人公の自殺で頂點に逹する。 Between Life and Dream. そこでこの主題は終る。自殺と言えば、「處美人草」の藤尾も自殺 している。ただし、彼女の戀愛は、「それから」以後「こゝろ」まで never met since 【 の戀愛の型とは本質的に異る。三角關係とは言えない。「三四郞」の Yet oft I stand 三四郞と美禰子の淡い愛情は、強いて分類すれば、前者の系列には
の心を訪れるのは、おのれの生涯にたいする果てしない愛惜で あり、諦念であり、そしてかれを裏切った者〈の赦しの心であ る。第一章の湖の風景も美しいが、駒澤の諦念と赦しの心によ く調和した終章の京都の風景の靜謐は、またとなく美しい。挫 『絹と明察』は三島由紀夫が『群像』の本年一月號から一 0 月號ま 折者の心を靜かに包んでいるのは、京都に生きている日本の自 で連載し、一〇月に講談社から單行本として出した長篇で、同じ作 然であり、東洋的な無と諦念であり、にもかかわらず、その 者の『靑の時代』、『金閣寺』、『宴のあと』等とおなじく實在の著名 「無」を媒體としてなおかっ蘇ってくるところの、おのれのか な事件ーーここでは一 0 年ほど前の近江絹糸の " 人權スト け換えならぬ「宿命」にたいする無限の愛惜であり、慟哭なの 材をとりながら、作者獨自の世界を組みたてたものである【『群像』 である。物語の前牛が少し散漫な點を除けば、まず文句のつけ の合評ではその月の報告當番の寺田透がややくわしく筋を紹介し、 ようのない作品である。 そのあと寺田・本多・わたしで討論が行われ、作中のスト指導者の この引用のうちのカッ「内はわたしが加えたものである。ーー・磯 扱」方そ 0 他に 0 」一」解釋上 0 若干 0 相違と文學観上 0 相違が現れ田は、 0 んなふうにほとんど手ばなしで 00 作品をもち上げて」 たが、『絹と明察』という題名のうちの " 明察。ということばがど る。わたしたちが、さまざまな明と暗を論じた上で、 " とくに出色 こからきたかがはっきりしない、ということからはじまって、討論 の作品とはいえないのじゃないか ~ と結論したのとはずいぶんちが の結びの部分での、 う。なお、浪漫派ではないが奧野も、 寺田どうですか、全體的な評價として、これは」」作品です倒れた時 0 駒澤善次郞 0 偉大さ、それを讀者に感じさせえた 0 は、 惡戦のすえにえた三島文學の勝利にほかならない。人生の明察は、 本多三島由紀夫の水準からいえば、特に出色の作品とはいえな 木川にも岡野にもなく、この偉大な愚か者駒澤善次郞の魂にこそあ いのじゃないかな。 ったのである。 ( 前掲文 ) 、としており、磯田に近い評價を示してい 小田切そうね、まあそんなところだろうね。 る。 ム というところにいたるまで、作品の解釋と評價において一一一者の判 ズ 斷はだいたいにおいて共通していた。もちろん、同じような評價をす ア る者が幾人あっても、それが正當な評價だという保證にならないこ る 一つの作品をめぐって、このように對立した評價が現れているわ け とは、世評が一般」高」北社夫 0 長篇『楡家 0 人びと』 0 場合」 0 け 0 ある。。れら 0 評價 0 前提 = は、同一 0 作品にた」するちが 0 に 」て、・〈 00 と 0 ろ觸れてお」た通りだ。ただ、わたしは合評會た感受・解釋 0 仕方があり、そし個《 00 まか」點から根本的 批 で『絹と明察』に 0 」て 0 評價がお 0 ずからほぼ一致した 0 とを經な問題に」たるまミどちらが作品そ 0 も 0 に一層せま 0 て」る 驗したばかりの時に、磯田ののような批評を讀んだので驚いたのか、ということがある。 である。 3 さきの引用から知られるように、磯田の論は、駒澤という獨特な ( 長篇 0 終章 0 ) 京都 0 病院」入れられた駒澤 ( 絹糸會社 0 社長 ) 人物が作 0 主人公として見事に描きだされ = 」る、と」う判断」立 奧野健男の論が出、これにもやや驚いたが、この方はいまにはじま ったことではない。
2 2 「心を起さうと思はば先づ身を起せ」の意味する身の處しかた龜井勝一郞はつぎのように説く。 にもかかわってくるのである。一見實踐的なひびきを持っこの箴言 「嵐は到頭やって來た。」ーー「新生」第十五の冒頭の一句であ は、實は韜晦的な一種の形式主義をふかく包藏しているのである。 る。節子から身の異常を告げられて、岸本は激しい懊惱につき 藤村流と一口に呼ばれるヴォキャプフリイ、スタイルは陰密のうち おとされるーーこの間の筆は、讀者にとってあまり唐突と思は にこのような事實を露表している。 れるだらうが、前章にも云ったごとく、「家ーをふりかへって 註「春」において、主人公が品川で童貞をすてる描寫の場合にも、藤村は、「遊 はじめて納得出來る。妻お雪の旅の留守に、三吉がふと姪のお 窮」「曲輪」「女郎」「賣笑婦」などの言葉を一切もちいていない。 俊の手にふれるところがある。三人の子供逹が眠る墓場を近く かかる事情は「嵐」という言葉づかいにおいてもっともヴィ にのぞみながら、「不思議な力は、不圖、姪の手を執らせた。 ヴィッドに發揮される。「嵐は到頭やって來た」「悲しい嵐の記憶」 それを彼は奈何することも出來なかった。」ーー悲劇はこのと 「三年前の嵐の烈しさ」「漸くのことでその港まで落ちのびることの きに胚胎してゐるのだ。 出來た嵐の烈しさ」「斯の旅を思立たない前に恐ろしい嵐の身に迫 岸本と節子の關係は、この作品だけをよむと、いかにも唐突で って來た頃の心持」というような表現が『新生』のいたるところに あるけれど、藤村は周到な用意をそれ以前の作品で示してゐる みられるが、作者はその烈しかった「嵐」の中味については一言半 のだ。自分の生涯の一歩一歩を注意深く掘りさげ、これを一の 句ふれようとしない。説明ぬきの「嵐」という言葉だけで強引に最 體系に組みたてて行くのは藤村の一貫せる態度であるとは前に 後まで押し切っている。讀者はこの「嵐」の内容を「極く小さな聲 も述べた。 で、彼女が母になったことを岸本に告げた」節子の言葉からわずか まことにご丁寧千萬な解説といわねばならぬが、このような説明 に推測するにすぎない。後にも先にもこの告白の敍述以外に、讀者を一個の定説にまで流布させる力のあった最初の人は、おそらく正 を納得させる作業をすべて拔かされている。そして、その節子の短宗白鳥ではなかったろうか。 かい告白すら、愚直な花袋を驚かし興奮させたように、まったく唐 「家」の中で、三吉がお俊の手に觸れるところなどは、「新生」 突に讀者の前になげださせる仕組みとなっている。こうなれば間題 の伏線として線の太いものなのだ。從って、「新生」の第十三 は單に藤村流の形式主義というだけではすまされなくなる。それは、 回を讀んで、突如として驚くのは、讀者が迂濶なので、作者は ひとっ根から出たものとはいえ、藤村が好んでつかう「若草のやう その前作に於て筋の一端を水面に現はしてゐたのであった。 な」とか「女のさかりを思はすやうな」という形容詞や「窓に行っ 烱敏な翫賞眼をもっ白鳥のような人がこうハッキリ斷言すれば、 たださえ愛讀者をもって任ずるものの多い藤村讀者層のあいだに、 た」「雨が來た」なぞ歐文派から發明した獨特の文章とはやはり同 註一 日に談ぜられない。 ひとつの定説のできあがらないはずはない。木枝增一のような手堅 註二 このような「嵐」の用法こそ實は『新生』全篇の性格を端的に象い藤村文學史家も、宇野浩二のようなもっとも高級な讀者でさえ、 徴している、といっていい。しかし、この小説作法のイロ ( を無視ひとしくこの定説の前にはすなおにしたがって疑おうとせぬのであ した用法については、すでに多くの人たちが親切な解説をほどこ る。それほど形成された定説は頑固で根ぶかい。しかし、「迂濶」 し、確乎たる定説ともいうべきものが流布されている。たとえば、 な讀者である私には、そもそも捨吉イクオル三吉、節子イクオルお
33 新生論 んでくるのは、愛子との「間柄」がいつもその胸裡に去來するからについてはすでに書いたが、その話題のあとで、「お前のお母さん だろう。フフンスに旅立っときには捨吉の末女をひきとり、歸朝しは、一體奈何なんだらう」「輝は奈何だらう」「そんなら愛ちゃん てくればすぐ親身になって捨吉の再婚を心配してくれる愛子こそ、 は ? 」という具合に、その分娩の祕密が周圍の人びとにどの程度ま まさしく捨吉の遠望する「愛と智慧に滿ちたアッソシェ」の手近か で知られているか、捨吉はかねての疑間を思い切って節子に訊ねて な具象化だったにちがいない。作者は全然ふれていないが、そこに いる。このような話題もそのときはじめてふたりのあいだに交され は三吉・お俊時代の危機をきりぬけて、かえって單純な叔父・姪のたものにちがいないが、節子はその矢つぎばやな捨吉の問いに平靜 關係以上に成長した「友情」がたしかに交流していたはずである。 な語調で答えたあげく、「しかし、もうお話に成りましたよ」と、 だが、そのような「友情」を節子にまで期待するのは、どこまでもひとりの母親にふさわしい大人びた言葉づかいで、その間答にピリ 蟲のいい捨吉特有の身勝手というほかはない。ここに捨吉と節子とオドを打っているのである。だがしかし、それが完全に過去の「お の決定的なギャップがある。 話」と映ずるほど、捨吉の眼にもふたりの現在がゆるぎない安定感 結婚こそできないにしても、お前は叔父さんに一生を託する氣はをもって受けとられていたであろうか。 ないかと捨吉に訊ねられたとき、節子は「よく考へて見ます」とだ かような捨吉と節子との決定的なギャップを捨吉の氣づかぬはず けいって答をさけている。節子の胸裡には「泉ちゃん繁ちゃんの はない。すくなくとも作者は充分みぬいていたにちがいない。そし 大きく成った時のことも考〈て見なけりや成りませんからねえ」とて、捨吉の側にのみ精緻な心理的分析を積みかさね、その裸身をど いう間題がわだかまっていたからである。この間題は單に節子にとのように鎧おうと、節子の側に本來そなわっている一種健全な正統 ってだけでなく、捨吉にとっても本質的に重大な意味をになってい性の前には、ついに刀向いがたいこともまた、作者の本能的に感づ る。すでに人の子の母たる節子は女性特有の直顴力であやまたずそ いていたところであろう。いささかのあらがいも許されぬ節子の傀 の意咊の重さをみぬき、すぐその場にも返事したい氣持を抑えたの 儡性を抽きだすために強引に捨吉の鈍感性を張りめぐらすことによ だ。しかし、捨吉は「お前はもうそんな先のことを考へて居るの って、ふたりの乖離現象の激發を用心ぶかく避けとおそうとした作 か」と簡單に笑いすてるばかりだった。また、捨吉が一旦「廣々と者の反間苦肉の策がそこから生まれてきた。捨吉を戀愛否定論者に した自由の世界へ躍り人った」ように感じ、「兄の心に背いても、 裝ったり女性嫌惡症患者に仕立てたりして、作者と主人公とは手に あの不幸な姪を捨てまい」とひそかに決心した前後にも、節子は手をたずさえ、完全に共犯者の資格で、母性としての節子の殺に 「わたしどもはきっと最後の勝利者でございますね」という手紙を大童とならざるを得なかった所以である。もしも節子が母性として 書いてそのような捨吉に應えるとともに、「泉ちゃん繁ちゃんが大の立場と權利とを正面から捨吉に迫ったら ( すでに節子はどのよう きく成ったら、何と思ふでせうねえ」と、今度はなかば愉しげにふな意味ででもそれだけの立場と權利とを獲得している ) 、「愛と智慧 たりの祕密をそっとひろげてみせる語調でではあるが、やはり同じ とに滿ちたアッソシェ」とか「『友情』の混った男女の間柄」とい 問題を捨吉に問いかけるのを忘れなかった。 うような文學靑年じみたささやかな風倩なそ苦もなく消しとんでし 節子が捨吉とのあいだにできた子供のことを「縒りが戻って」か まったはずである。しかし、現在の節子は「縒りが戻って」からま ら八カ月も經って、ようやく捨吉に訴える隙を見出した奇怪な事實る一年も經ったすえに、ようやく手紙のなかで「遠い旅にお出掛に
4 3 なるなんてことをうかがった時は、不思議な位に思ひましたよ。そいては、一切ふれていない。しかし、作者がひそかに、この節子の の時はもう離れられないものに成ってゐましたから」と、四年むか反抗心を氣にしていることは動かせぬ事實であって、二度三度曖咊 しの怨みごとをつつましやかに述べ得る程度の「自由」しか許されなかたちのまま言及しているのである。姉の輝子の順調な結婚生活 てはいなかったのである。 と比較して、「ヤクザなものだ、ヤクザなものだ」と愚痴をこぼさ 捨吉と節子とではほぼ半分も年齡がちがい、一方は洋行 ( ! ) まずにはいられぬ兩親に對する節子の反撥や姉に對する片意地な負け でしてきた著名な文學者だが、一方は親姉妹にも片輪もの扱いされ惜しみということは、作者の説明ぬきでも一應諒解できる。しか かねぬ日蔭の女性にすぎない。しかも、ふたりは叔父・姪のあいだだ し、「從姉弟に對する強い反抗心」とは ? ここで私の推測をいえ から、捨吉は必要に應じていつでも「叔父さん」の假面をかむるこ ば、おそらく愛子に對する節子の反撥のうちには、兩親への單純な ともできたはずである。とすれば、このふたりの勝敗が捨吉の一方反抗などとは質的に異った翳りがこめられていたにちがいない。罪 的な勝負に終るだろうことは一應誰の眼にもみやすい道理である。 の子をうみおとすとき、捨吉の著書を持ってゆきたかったが素姓を しかし、用意周到な作者と主人公とは、節子の側に本來的にそなわ悟られるといけないから我慢したといい、そのイフンス通信を毎日 っている正統性のゆえに、なかなかその警戒心をゆるめない。節子丹念に切找いていた節子は、また特別の關心をはらって叔父の著書 に數珠を贈ったり、「最後まで忍ぶ者は救はるべし」と書いてやつを耽讀していたはずである。わけて自分ら一家眷屬の歴史を書いた たり、エロイズとアベラアルの傅説を聞かせたり、媾曳するにも墓長篇小説を讀んでいないはずはない。おそらく捨吉のフ一フンス出發 地をえらんだりして、徐々に「宗敎」という鎭靜劑を注射してその以前に、節子は三吉・お俊の挿話に讀みふけり、そのディテールに 效果のあらわれるまで、作者は節子から監視を放たず、決して油斷いたるまで誦んじていたにたがわぬ。もしかしたら、捨吉が内々愛 なぞしていないのである。 私はことさらこの謹嚴重厚な作者を子との「友情」をひとつの典型とみなしていることさえ、節子は鐃 冒漬する誣妄の言辭を弄しているわけではない。ただ私は節子の宗敏に感づいていたかもしれぬ。でなければ、どうして愛子に對する 敎へのたどりつきが果して自發的なものかどうかを疑うばかりであぬきがたい反抗心なぞおこり得よう。高輪に移り住んだときにもら る。二十四藏の女性といえども、自己の運命に對する忍從と諦念と した節子の言葉のなかにも、かすかにではあるが、すでにそのよう から、宗教におもむくことは絶無ではあるまい。しかし、節子は自 な節子の姿勢のよみとられることは前にのべた。とすれば、妬心と 分の苦衷を誰ひとり訴えるものもない三年間の孤獨からやっと解き ライヴァル意識とのからみあった微妙な心理的陰翳を孕むその反抗 放たれ、その戀愛のただなかでみずからを「最後の勝利者」と観じ 心のあおりには、ときとして捨吉自身なやまされたかもしれない。 ている女である。この言葉のうちには、著名な文學者の愛の對象に 「お愛ちゃんがお前を褒めて居たぜ、 なんだか俺は自分が褒め 選ばれた節子の女らしい思いあがりみたいな氣持がこめられてある られたやうに嬉しかった」などとみえすいたお上砂をかけて、節子 をなだめなければならなかった所以だろう。 と同時に、周圍に對する節子のぬきがたい「反抗心」が縫いつけら れていたのである。節子の反抗心 ! この場合も作者は「彼女の親 かようないい意味でもわるい意咊でもなまぐさい女らしさのまん や姉や從姉弟に對する強い反抗心」というような抽象語をならべてなかに生きている節子が、他からの周到な誘導なしに、内心の整に いるだけで、節子の反抗心がなにに由來し、いかに發現するかにつ促されつつ宗敎にまでたどりつくなどとは考えられない。もし節子
イ 9 新生論 愛讀者の顰蹙を買うに價している。しかし、この藤村の談話は一見 た消息を携えて訪間した新聞記者に語っている。 こま子とは廿年前東と西とに別れ私は新生の途を歩いて來まし奇矯な私の『新生』論を逆光線で照らしだし、事實において裏打 た、當時の二人の關係は「新生」に書いてあることでつきてゐちするものではないか、「新生」なぞどこにもありはしないのだ、 ますから今更何も申し上げられません、それ以來一一人の關係はと。私はたんなる好事癖から古新聞の談話まで引用したのではない。 ふつつりと切れ途は全く斷たれてゐたのです、あの人もあれか 芥川龍之介が『侏篇の言葉』において「果して『新生』はあった らあの人自身の途を歩いてゐたでせうが、その後何の消息もあ りませんでしたが三年ばかり前病氣だからといってあの人の友であらうか ? 」と間い、『或阿呆の一生』において「彼は『新生』 人が飯倉の家に來たことがありました、その時はいくらかの金の主人公ほど老獪な僞善者に出會ったことはなかった」と斷言して を贈りました、これが今までの後にも先にもたった一度の交渉いる事實は有名である。『新生』についてなにごとかをあげつらお です、最近はどうしてゐるのかまた病気で養育院に入ったというとするほどのものは、かならずこの芥川の言葉に言及している。 しかし、『暗夜行路』の作者に「絶望に近い羨ましさ」を感じてい ふのもはじめて聞きます、もしほんとうならあの人の姉がをり ますからその姉と相談して何とかせねばなりますまい、私が勝た芥川龍之介を明らめた人はすくなくないのに、その晩年二度も 手に一人でどうかすることは今の私には出來ません。 「新生』を問題にせざるを得なかった芥川の眞意を闡明しようとし 無論、これは忽卒のあいだに新聞記者に語られた言葉だ。昭和十た人は意外に乏しいのである。 註その代表的な人は井上良雄であった。私はこの秀れた批評家が笨を折ってしま 一年の夏から「萬國ペン大會出席のため南米の旅にのぼる。南米各 ったのをいつも殘念に思う。 地、北米ついで曾遊の地 ( ! ) 巴里を廻り、マルセイユより歸東、 いかにも芥川龍之介は志賀直哉を羨望したかしれぬが、そこには 紅海海上にて越年」して、昭和十一一年一一月、ようやく新居に納まっ たばかりのところへ、突然過去の亡靈と直面した狼狽を押し靜めなみずから「絶望に近い羨ましさ」と公言して憚らぬ彼岸的なあかる さがあった。すくなくとも、そこにはどうしようもない透明な諦念 がら語った藤村の複雜な氣持を、精確にったえたものではもとより が流れていた。しかし、藤村と龍之介とは同じ星のもとに生まれた ない。文章も記者の走り書きした粗雜なものにすぎぬ。しかし、 異母兄弟にほかならなかった。ただ藤村の體内をめぐるねばっこい そのとき語った藤村の全體の語調だけはやはりったえられている、 とみていいだろう。そして、その迷惑げな全體の冷淡な調子は『新血液に比較すれば、芥川のそれは先天的に水つぼかったにすぎぬ。 とすれば、芥川が「老獪なる僞善者」と喝破したその颯表たる斷定 生』の愛讀者にとっておそらく意外なものだったのではないか。そ れが意外であればこそ、「新生』後日譚としてここに再録しておくの裏には、いかにくらい敗北感が衂られていたことか。小穴隆一は この言 だけの價うちがありはすまいか。 「二つの繪』において語っている、「藤村はいやな奴だ。 阿部次郞、吉江喬松を筆頭にして『新生』という作品に獻げられ葉が芥川龍之介の口から吐き出された時に人は成程藤村といふ人間 はそんなにいやな奴かなあ、と思ひこんだ」と。まるで穢れを吐き た貢物の數はすくなくない。その貢物に十重一一十重にかこまれて、 だすように、「藤村はいやな奴だ」と芥川がいいすてるとき、人は 訷聖な光背さえ持ちかねぬこの形而上的な作品を、私はいやしげな いわば雎物的な手つきで腑わけしてきた。それは世のいわゆる藤村一言の説明も聞かぬのにそう信ぜざるを得ない力がそこにはこめら
る。倫理的な「重荷」から解放されているばかりではない。脂の乘に耐える作品は、このようにして書かれたのである。 しかし、さかのぼっていえば、志賀の場合、自己限定による自我 った作家、反響と共鳴に鼓舞された作家がいる。『わしも知らない』 の確立は、作家以前においてすでに明確に行われていたというべき は、そういう境地で書かれた作品である。 かも知れぬ。すなわち、父のところへ談判に來た父の會瓧の爭議團 獅子は、牛馬とおなじ勞働をせぬからといって責めらるべきでな い、という長與の自己是認もまた、『桃色の室』から『わしも知ら員に、就會主義者のところ〈相談に行けとすすめ、「同情した所で 君逹になんの便宜も計れないし、反って、その爲めに此方にだけ色 ない』にいたる線以外のものではない。 志賀に『わしも知らない』に相應する作品を求めるとすれば、制色不愴快な事が起る位のものだから : : : 」 ( 『或る男、其姉の死』 ) と告 作年代はずっとあとになるが、『濠端の住まひ』 ( 大正一四・一 ) がそげた當時、すでにそれは解決濟みであったというべきかも知れぬ。 れに當ると思う。 クリンゲルの『貧窮』に寄せた感想から、『桃色の室』にいたる 『濠端の住まひ』の主人公は、牝鷄を盜って、雛たちを孤兒にして 武者小路の自己脱皮の過程は、わかるような、わからぬようなもの しまった猫を憎む。しかし、その猫が明日殺されるのだと思うと、 である。あらゆる心機轉換は、掌をひるがえすに似た生きものの業 猫もまた可哀そうである。考えてみれば、猫が鷄を盜るのも、鷄の であって、事は一瞬に決するときには決し、これを論理で追えば、 飼主が猫を八つ裂きにしても飽き足りなく思うのも、ともに無理か 一生を費してもまだ足りぬこともある。武者小路の脱皮の内的過程 らぬことである。「私」は局外に中立して指一本させぬ自分を無慈 悲だと思う。それは「の無慈悲」だが、でもない人間で「のは、上述の要約のうちにことごとく寫されているとも、いえばいえ 無慈悲」を堪えねばならぬのは「不可抗な運命」だと思うのであるであろうが、祕密はすべて祕密のまま葬られているともいえる。 る。 思想的脱皮のほぼ同じ過程は、志賀にもまたあったはずである。 『凛端の住まひ』は、書かれたのは震災後のことであるが、その主内村鑑三に學び、トルストイを讀んだ志賀は、夫婦約束をして、肉 題にのみ着目していえば、『城の崎にて』『小品五つ』『好人物の夫體的關係をむすんだ女を見捨てる圭人公に、ネフリ、ードフの罪を 婦』『和解』などと並んで、大正六年に書かれていたとしても不思見ないわけには行かなかった。 ( 「大津順吉』『過去』 ) しかし、その 議でなかった。むしろ、この作品は・ー・作者の松江生活という題材「罪」の意識からの脱却の内情は、これまた不分明のまま殘されて いる。 の面を度外に措くとすればーーもっと早く、大正三年から六年まで キリスト敎の信仰からの離脱、足尾鑛毒事件に父親と爭ったトル 學の志賀の三年間に亙る休止期間を遡って『范の犯罪』 ( 大正一一・一〇 ) ストイ的人道主義からの脱出、それらの機微を語る志賀の言葉とし のの前後に書かれていたとしても不自然でなかった。『小品五つ』に かんがヘ ては、「思想に義理立てをするやうな弱い心」 ( 『大津順吉』 ) という一 收められた『宿かりの死』が、大正三年九月の制作日附になってい 句しか見出せない。「兎も角、あれ程長くつきまとってゐた、敎へ 伯るのを、その一證左としてあげることが出來る。 と云ふものが、餘りに他愛なかったのは今から思っても不思議に堪 ついでにいえば、『濠端の住まひ』は、題材の松江生活が作者に 經驗されてから約十年を距てて書かれている。これは現在の小説作〈ません。」 ( 『濁った頭しと、みずから怪しむ一「〕葉さえ彼は發して 法に較べれば驚くべきことである。私小説というものも、時の腐蝕いる。志賀にあっては、こうした思想的轉換は、愚かさから來る悲
自然主義者の自我は、『破戒』をほとんど唯一の記念として、現 が皆、自分と他人の前にかくしてゐる。又かくすだけの餘裕がある のだ。」というのは、對象的な世界の現實性に訴えることが、自己實をあるがままに觀照し納得する自我に墮し、そのリアリズムは實 を主張するぎりぎりの唯一の方法であるような瀬戸際を通過したこ生活上の經驗を敷き寫すリアリズムに轉じて行った。 「日本の今迄の敎は僣越な、暴君的な、或は女々しい、奴隷的な敎 とのない人々、主觀の眞實が客觀の世界でいかに無殘に粉碎される です。かくて日本人は安協的になってゐます。私の勘では君も餘程 かを經驗したことのない「幸輻者」たちの言葉であった。 長與の『盲目の川』の主人公は、電車のなかで女の鬢つけ油の匂安協的な氣がします。今の世に自然派前の主観をのみ主襯と思はれ いが鼻についたというので、走っている電車から飛び降りてしまてゐるのは私には可笑しく思へます。」 ( 『自己の爲』云々 ) と武者小 う。彼はまた、道で脂粉の香を漂わせた女とすれ違うと、五・六歩路が書いたのは、「君」、すなわち、木下杢太郎よりは、自然主義者 の間は息をつめて歩く。そういう潔癖一圖な「理想主義」靑年であにより多く當っている。 自然主義者において、世路の辛酸に磨り減らされた自我が、この る。この種の靑年の出現は、それ以前の日本文學にはたえて見られ なかったと思う。それが『白樺』派の身上でもあったにちがいない「世間知らず」の幸輻な靑年たちの間にあっては、まだ若々しい圭 のだが、こういうところには、いかにも自然主義前派といわれそう角を殘していた。ヘロイズムとも、ロマンティシズムとも、またオ プテイミズムとも現われた『白樺』派の上向的な自我は、法のよう な、また實際にそういわれても仕方のないところがある。 に、科學のように、威嚴あるリアリズムが坐すべき發條であった。 武者小路は、「小説では地の文章に困った。」 ( 『或る男』 ) と書いて いる。長與も小泉鐵も、いわゆる「平面描寫」は不得手な作家であその意味で、『白樺』派は、日本のリアリズム文學としての自然主 った。彼等は總じて對象のありのままの姿を客的に察し、描き義の、本來不可缺な半身であったというべきである。自然主義と 出すのが得意でなかった。このことは、彼等が、「大抵な世間と云『白樺』派の境目に育った作家によって書かれた『或る女』が、日 本自然主義文學の代表的作品に數えられているのは偶然であるま ふ奴が此方より段違ひに程度が低いこと丈けは確かだ。」と、世間 の水をくぐってみる以前からきめてかかっていたことと關係してい る。志賀をもふくめて、『白樺』派主流の作家は、農民や勤勞者を 一、志賀リアリズム 描くことがほとんどなかった。 『白樺』派のリアリズムの精髓といえば、今日なんびとも志賀直哉 『白樺』派にあっては、自然主義以前と自然主義以後とが癒着して いると思える。これを裏側からいえば、本來は自然主義の前提としの作品を思い浮べるにちがいない。有島武郞の存在が、なぜ今日の て、内在因子として、自然主義文學がもっ批評精紳とニヒリズムの讀者に失念されているのか、彼のリアリズムがなぜ『白樺』派にあ とを絶ったのか、などについては別の機會にゆずらねばならぬ。お かくれた支柱としてあるべきはずのものが、それだけ單獨に遊離し のずから別個の間題だからである。 とすれば、志賀リアリズム た形をとり、自然主義より時間的に後代にあらわれたのが『白樺』 派であって、そのことによって、彼等は自然主義者が熱い汗や冷たの特徴を見きわめることは、『白樺』派のリアリズムをその最高の い汗を流して刈り取ったものを、自身には勞することなく出發の土形態で見きわめることになる。 志賀の作品というものは、たとえそれが未知の作品であったとし 臺としたのだ、ということになる。
とあっさり書いていた。デイケンスや・ハルザックやトルストイを正 『暗夜行路』前篇には、自我が自由な、人類的な自我の理想に向お うとする羽搏きがあり、自我が社會的にひろまろうとする可能性も統の小説として親しんだ人にとって、それは怪しむに足りぬことで 閉ざされていないといえる。後篇では、それが日本的風土のなかであった。 プロレタリア文學は、象徴派以後の文學をすべて衰退期の文學現 の主人公の解脱の方へと絞られている。ここに到って、『白樺』派 の私小説は、はじめて自然主義系の私小説と交錯したのである。あ象と簡單に片づけていたが、プロレタリア文學のもっ實踐的性格が もともと志賀文學のそれと同質のものであったため、そもそもの出 るいは、『白樺』派文學と自然主義文學とは、・私小説においてはじ 發點から志賀の就會的視野の狹さは指摘しながら、志賀文學の生活 めて落ち合ったのである。そこにその後の私小説が生れた。 志賀の系統に早稻田畑の尾崎一雄が生れ、葛西善藏の流れから太密着性に對しては沒意識的であった。それが『書簡』時代の藏原に よって、半ば無意識ながら、また間接ながら、より廣い世界文學史 宰治が出たように、その後の私小説は混血によって源流が見分けが たくなっている。それだけ私小説は、さまざまの文學的流派を吸收的眺望のもとに「人間の可能性」という方から、見直されようと する段階に逹したのであった。その後、この方面からの志賀批判の し、また分枝するところの日本文學の主底流となったのである。 かくて、志賀はいま私小説の紳様、日本小説の様のごとき存扉はふたたび閉じられ、戦時下にはむしろ志賀以前 ( の後退の例さ え少なからず見受けられた。 在となっている。しかし、『白樺』派初期の自傅的小説は、今日い とにかく、私小説、とくに志賀を本奪とする私小説への批判意識 う意味での私小説ーー「私がなくなる」小説ではなかった。それら のうちには、今日ほとんど非文學的と目されるであろうほど、傲然は、おそくも昭和一〇年の線までに、プロレタリア文學の側におい ても、それと對立した「藝術派」の側においても、かなりの程度ま たる自我が作品いつばいに肩を怒らせているものがあった。 で意識化され、理論化されていたのであった。 この私小説に對する批判を、そこからもっと遡って行けば、われ 戦後に書かれた私小説論、とくに志賀直哉を中心に考えた私小説 論としては、織田作之助の『可能性の文學』がもっとも有力なものわれは萩原朔太郞の『詩の原理』 ( 昭和三年 ) に出會うと思う。萩原 の理論の發展過程を僕はよく知らないが、これだけの理論が短日月 であったと思う。有力という意味は、創作實踐の場にもっと密着し に形成されたとは考えられないから、この本の發表に先立っ相當以 ており、例えば太宰の論などに比して論として整備されていたとい 前からーー大正もかなりさかのぼった時期からーーー彼に熟していた う意味である。 織田の私小説批判は、あきらかに横光利一の『純粹小説論』 ( 昭ものに相ない。 萩原は、私小説を德田秋聲を中心に考えていたが、その理論は志 の和一〇年 ) を受け繼いだものであった。横光は、志賀流の私小説を 制目して日記體の文學といい、その狹隘性の打破を力説したのであっ賀を中心にした私小説にも完全にあてはまる。萩原は、私小説の間 題を日本リアリズムの私小説的性格の間題としてとり上げていた。 それだけに、それはプロレタリア文學側からの批判よりも、「藝術 横光とほぼ同じころ、藏原惟人は、「志賀直哉といふ人も非常によ 派」側からの批判よりも、より全體的で、より根本的な點にふれて い素質をもった藝術家ですが、本當によい作家になる爲には、餘り いた。 に生活環境が狹すぎるやうです。」 ( 『藝術書簡』一九三四・五・二一附 )