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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集
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1. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

とか前近代的とかのなまやさしい形容を絶する一種の原始欲情にほ的、メ , トの上にはじめて成立し、島崎藤村の『破戒』はその家族 かならず、 = ゴ〈の忠實はほとんど絶對専制的とでも評するしかなの病氣、あいつぐ死という「犧牲」においてはじめて完成した。藝 いものであった。したがって、細君以外の女に「一種の戀愛」を感術か家庭かという二者一が藝術家生活の場合しばしばおこりがち じた以上、その感情の絶對のまえには、細君の嫉妬も愁訴も苦なくな所以がここにあり、ひろくバ ~ ザ , ク、スタンダール、フ 0 オペ エル、プル 1 ストらが獨身もの乃至それにちかいものとして終始し 消しとぶはずである。しかし、絶對専制主たるこの作者といえど も、この場合にかぎり細君の哀訴のまえに屈服せざるを得なかったた一半の理由もまたそこにある。平俗な意味では、葛西善藏の妻子 のだ。大體はじめから女か細君かというような一一者擇一的な態度をも嘉村礒多のそれも決して幸輻ではなか 0 た、と私は信じている。 ここにわが私小説家をめぐる獨得の一一律背反が生ずる。藤澤淸造か 回避するところに、限定づきの「一種の戀愛」は成立し得た、とい えよう。だから、この事件に處した志賀直哉の態度は世の平俗な亭ら川崎長太郞にいたる私小説家がす・〈て現世放棄者としてのみよく 棲息し得た理由も、伊藤整が彼らを「逃亡奴隷、と規定した根本の 主ばらと同列にならぶ微温ぶりに終始したのである。この場合にか ぎり、一夫一婦制を基調とする凡俗な家庭道德は志賀の = ゴを支配理由もまたここに存する。 しかし、志賀直哉の場合、藝術か家庭かという一一者擇一は結局そ しおおせたのだ。これはこの作者にとって「稀有」のことがらとい れとしてはおこり得なかった。すこし意味をずらせば、『半日』を わねばならぬ。 しかし、それはやはり半面の眞實にすぎない。『萬暦赤繪』だっ書いた森鸛外の場合も、『新生』を書きあげた島崎藤村の場合も、 藝術家生活としての二者擇一はおこらなかったのである。鸛外・藤 たかで、作者みずから書いているように、この作者はまた「オンド リの本能」が人一倍強烈であ 0 た。家庭の平穩はそのような本能を村・直哉らは、おお根のところ否定す・〈き「現世」をはじめからな にほども所有しなかったゆえに、比較的容易に現世放棄者となり得 主導調とする「家内安全」にほかならなかった。ここに家庭の絶對 者であると同時に調和者である一個の男性が成立する。『山科の記た世の私小説家どもとは反對に、放棄すれば彼らをして彼らたらし 憶』一聯の作品における現實處理は、やはりこの作者なりに必然でめて」る現實的地盤を喪失しなければならぬだけの「現世」にしか とつながれていたからである。そこに彼らが世のつねの私小説家と あった。しかし、間題はやはりそれだけではすまされない。ここか は面目を異にする本質がある。 ら藝術家生活という間題、藝術と實生活との相關關係が新しくうか くりかえせば、『山科の記憶』一聯の作品に描かれたような體驗 びあがってくるのである。藝術家の場合、わけて日本の私小説家の ような場合、その藝術家生活の持續と家庭生活の平穩とはしばしばに直面したとき、志賀直哉にあ 0 ては結局藝術か生活かという二者 擇一はおこり得なかった。しかし、この事實はそのような問題性を 一致しない。家庭の和樂は藝術家の情熱をなしくずしに沈滯させ、 家庭の危機と」う餌食によ 0 て、はじめてその藝術衝動は切迫感を志賀が意識しなか 0 たことを」ささかも意味しな」。志賀は彼なり にその問題を鏡敏に感受せざるを得なかった。その結實がすなわち 獲得する。さきにふれたように、私小説が生の危機意識にモティー フを持ち、その危機感が形而上的な生の不安や孤獨から隔絶された『邦子』一篇にほかならぬのである。 この作についても作者自身のつぎのような註解がある。 具體的なものとして成立している以上、そのような傾斜はまぬかれ 「邦子」は前の材料 ( 『山科の記憶』一聯の作の題材をさす ) の心的經 がたいのである。岩野泡鳴の有名な五部作は家庭の破壞という現實

2. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

躓ずかせ、焦だたせ、反撥さえ感ぜしめる苦澁の筆つきにみちていをうけとり、その言葉を聞いたか、見向きもしていない。心せまい るが、わけて捨吉が外遊を決意した夜、その思い立ちを節子に向か女の常として、節子が姉の幸輻な結婚と突然おちいった自分の境遇 とをひそかに比較したり、たえす從姉の愛子に對して訷經質になら って「好い事がある、まあ明日話して聞かせる」という言葉づかい で切りだす個所あたりはちょっと讀者を唖然たらしめる。作者はそざるを得ないような微妙な心理については、捨吉は一切かえりみよ れまで節子を語るたびに「不幸な姪」「可愛さうな娘」「重い石の下うとしない。そのような捨吉の鈍感性に荷擔して、作者もこの場合 の節子の氣持にわけ人ろうとはせず、岸本は妻の最後の形見を「惜 から僅に頭を持上げた若草のやうな娘」「彼ゅゑに傷ついた小鳥の ゃうな節子」といったあんばいに口先ではたえずいたわってきてい気もなく」節子に分けた、などと語っているにすぎない。 註一捨吉の長男と次男を指す。 るだけ、外遊の決意をそのような言葉づかいで打ち明けようとする 註二節子の姉を指す。事件の直前に一外交官の妻として、外國に赴任する。 個所につきあたると、驚かざるを得ないのだ。無論、捨吉は祕書格 捨吉が禪戸に向かう途中、鎌倉から塔の澤に遊んで、一タ友人ら というような名目ででも節子をフフンスへ連れてゆこうなどとは一 度だって思い泛べたこともなかった。しかも、戸で出帆を待っ捨と別離の宴を惜んだという敍述を讀むと、思わず讀者の心は、捨吉 の小さな子供らを相手に、いま頃は叔父さんはもうどこどこまで行 吉は、「その日まで彼が節子のために心配し、出來るだけ彼女をい っていらっしやるだろうなどと噂しながら、自己の不安と寂寥とを たはり、留守中のことまで彼女のために考へて置いて來たといふの は、どうかして彼女を破滅から救ひたいと思ふからであった」といまぎらそうとしているにたがわぬ節子の暗いすがたの方〈惹かれず にはいられない。しかし、捨吉は友人に古い小唄などを所望して、 うような感想をもらしている。だが、捨吉は節子のために一體どの ただ自己中心的な悲壯感に溺れようとしているばかりである。 ような處置を講じておいたというのであろうか。欽第に節子が人目 綜じて、節子がどのような態度で捨吉を拒み、あるいは受け人れ につくようになるのをおそれ、捨吉はただ注文した洋服や鞄のでき たか、身の異常を知ってから小さな胸のなかでみずからのゆくすえ あがるのを待ちどおしく思っていただけではないか。捨吉のかよう をいかに想いやったか、つい半年前まで一緒に暮らしていた姉の輝 な感想は、讀者にはなんのことやらさつばり分からぬ。私はこの個 所を一一度よみ三度よみ、もしかしたら、節子を高輪の家に移し、上子の結婚生活やかって自分と同じ運命におちいったかもしれぬ從姉 京する嫂の移轉費用を負擔し、おそらく節子のためにも當座必要なの愛子の現在をどんな氣持でわが身とひきくらべたか、日頃婦德を 金を用意しておいただろうことを、作者はこのような捨吉の感想と人一倍やかましくいってくる父親や田舍で弟たちと寡婦のように暮 らしている母親のことをいかに思いわずらったか、しかしそのよう して語っているのではないか、と想像してみた。 捨吉は新片町から高輸の隱れ家に移り住む日、「泉ちゃん繁ちゃな暗澹たる氣持のなかからも捨吉に對する感情にどのような變化が んのことは、お前に賴んだよ」という言葉にそえて、亡き妻の最後生ずるにいたったか、したがって捨吉の外遊の決意がどんな衝撃を 生 の形見となったひと重ねの睛着と厚い帶とを節子にわけあたえていあたえ、その出發までの心慌ただしい日々のなかからどのような眼 というような、節子の内部に立ち る。それは亡妻の結婚の日の記念であるばかりでなく、愛子の結婚ざしで捨吉を眺め暮らしたか 7 式のときにも輝子のときにも役立ったものである。だがしかし、節入った描寫は、すくなくとも『新生』前篇にあっては、まったく見 當らないのである。作者は最初からそのような敍述を用心ぶかく避 子の場合はー・捨吉はここで節子がどのような氣持でこの贈りもの

3. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

2 7 ら、父娘が歸國したのちまでも、主人公の師匠としての體面は全自身の回想をもとにした立言であることは、改めてことわるまでも ない。だが、はたしてその前提を文字どおりにうけとっていいであ 、感謝こそされ、恨まれる筋あいなぞ皆無だった、ともいえよ ろうか。『東京の三十年』のなかの「私のアンナ・マアル」という 作者の回想は、文學的野望につかれた花袋が『蒲團』という劃期の その全き師匠の體面を花袋はわれから剥奪してみせたのだ。師匠 作品を發表した前後の空氣を描いていて、つきぬ興趣を與えるが、 の假面にかくされた性の發動に根ざすエゴの實髑を剔抉し、それに よる自己の瓧會的體面の抹殺をあえて遂行したのである。この前人そこに書かれた「世間に對して戦ふと共に自己に對しても勇敢に戦 未踏の作因に衝県され、抱月評に代表されるように、もと肉の人ではうと思った。かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの、それと 打明けては自己の精も破壞されるかと思はれるやうなもの、さう ある人間本性の内的曝露をほとんど正視するにたえぬまで赤裸々に いふものをも開いて出して見ようと思った」という有名な章句を、 示した作として、世人が思わず嗟嘆したとしても、明治末年の道德 的な空氣のなかでは必ずしも失當ではない。藤村が『新生』においはたして額面どおりに受けとってもいいだろうか。それは自己の社 て姪との不倫な關係を曝露した裏がわには、自分からあばかずにい會的體面の剥奪という前人米踏の作因にたえた作者の決意をそのも られぬ現實的作因ともいうべきものがかくされていた、と私は猜し のとして泛ばせてはいる。しかし、「私のアンナ・マアルは其時 ているが、『蒲團』にそのような現實的作因はなにひとつなかった、 ( 『蒲團』執筆當時 ) 故鄕の山の中に歸ってゐた。私はそれをその前の と思う。いってみれば、ただみずからの文學的野望のためにのみ、 年の秋に、旅行の途次訪間した。私の心の中のかの女の影は愈濃か 花袋はおのが體面を剥奪してみせたのである。 になった。書かうか、書けばその戀をすっかり破って棄てることを しかし、純然たる文學的野望のために、自己の瓧會的體面をふみ覺悟しなければならない。書くまいか、そしてその慧の時機の來る にじる、というような莫迦げたふるまいは、『蒲團』以前だれひと のを待たうか」という作者の動搖は、必ずしも正直な回想ではない。 りとして敢行したものはいないのである。あとから考えれば、コロ第一に、「私のアンナ・マアル」というような言葉づかいそのもの ンプスの卵ともいえるが、そこになみなみならぬ勇氣を必要とした が、すでに當を得たものではない。書けば「私のアンナ・マアル」 ことは、ここにことわるまでもなかろう。自己一身の實際上の利害との戀をすっかり破りすてねばならぬ、書かないで戀の成就を待っ を犧牲にしても、假藉なき人間眞實を追及したいと念願した花袋のた方がいいか、というような言いまわしは、作者の體驗を的確に語 希求と實驗は、まぎれもない花袋の獨創にかかるものだ。このようった言葉ではない。『蒲團』をよんでもあきらかなように、花袋が な花袋の身うちに鬱積してきた熱烈な制作態度に、世人はただしく「私のアンナ・マアル」などと戀人よばわりすることがすでにおか 前代未聞の冒險を感得し、『蒲團』を劃期の作品と評價したのであ しいのだ。まして、その戀愛の成就云々にいたっては、事實にもあ る。とすれば、『蒲團』における「性慾描寫」の是非などは、そのわず、『蒲團』の中味にもしていない。花袋の眞意は、『蒲團』を ような花袋の制作態度から派生した一副産物にすぎぬのである。 書きあげて、もし「これが出たら : : : もしこれをかの女が讀んだ 無論、このような私の立論は、『蒲團』の題材が架空のものではら」と想像した場合の「恥しい、きまりがわるい」氣持にたえて、 なくて、田山花袋イクオル竹中時雄という前提の上にたった話であ『蒲團』を執筆し、發表した苦しみを語りたかったのだろうが、そ る。「私のアンナ・マアルを書かうと決心した」というような花袋れを「私のアンナ・マアル」などという語り口で回想しているとこ

4. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

やるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪惡に對する應報 トの讃美です。決して誹謗じゃありません。兄さんの自由説なんて は、當然われわれ自身で引き受けてやるのだ。」人々は、大審問官 信じられません。それはローマです。いや、ローマも全體を盡して の仲間を崇拜し、感謝する。自由を棄て去って、初めて幸輻にな いません。それは審問官の思想です。カトリックのなかでも、一番 悪いものです。イヴァンは聞き返す。 ジェスイットや大審問官 る。大審問官の事業は、初めて完成する。 たちは、物質的幸輻のためにだけ團結したのであろうか。せめて一 その結果、何億人かの幸輻な幼兒と何萬人かの善惡認識の呪いを 背負った受難者ができる。この受難者は、キリストの名のために靜人くらいぼくの老審問官のような人があったと、想像してもいいじ かに死んでいく。靜かに消えていく。棺の向うには、ただ死を見出やないか。アリヨーシャは、大審問官の祕密が紳を信じていないこ とにあるのを知って、それを指摘した。イヴァンは、それを認めた。 すだけである。だが、われわれは祕密を守って、かれら自身の幸輻 のために、永遠なる天國の報いを以て、かれらを釣っていくのであ 老審間官は、荒野で苦行のために一生を棒にふりながらも、人 る。あの世に何かあるとしても、かれらのような人間にはあたえら類への愛という病を治すことができなかった。人生の日沒にあっ れぬであろう。 つまり、少數の中心人物は、何萬人の受難者をて、恐ろしい精靈の勸告に從うことだけが人類を幸輻にすると知っ たのである。虚僞と計略で、人間を死滅に導くのだが、それに氣づ 操って、何億人の民衆を支配するという階層的支配の樹立に成功し たのである。これは、キリストの仕事の訂正である。大審問官の勝かれぬように注意し、自分たちは幸輻だと思いこませなくてはなら ぬ。それを、キリストの名において實行するのである。つまり、 利である。いや、勝利の保證はまだない。大審間官は、「ヨハネの 默示録」に示されている世界の終末、キリストの再臨に言及しなが大審問官は、生涯を通じて、キリストの理想を熱烈に信じていたの 「こうした『唯一者』は、あらゆる運動の指導者の間に、今 ら、言葉の限りを盡す。 「人の話や豫言によると、お前は再びだ ! この世へやって來るそうだ。再びすべてを征服して、選ばれたるひまで決して絶えたことがない。」イヴァンは、大審問官は、きわめて とびとや、偉大なる強者を連れてやって來るそうだ。けれどもわれ執拗に、きわめて自己流に人類を愛していた、という。「大審間官」 彼らはただ自分を救ったばかりだが、 の結末は、キリストが無言のまま大審間官に接吻する。これが答え われはこう言ってやる、 われわれは萬人を救ってやった、とな。またこんな話しもある。やのすべてであった。大審間官は、「暗闇」にキリストを放ち、もう 二度と來るな、という。大審問官はどうなったか。かの接吻は胸に がてそのうちに意氣地のない者どもがまたまた蜂起して、獸の上に 長跨って祕密を手にしている姦婦の面皮を引き剥がし、その緋袍を引燃えていたが、依然として元の理想に踏みとどまっていた。 ここで、話を戻したい。それは、「大審問官」の動機についてで シき破り、醜い體をむき出しにするという話だ。しかしその時はわし しが立ち上って、罪を知らぬ何億という幸輻な幼兒を、お前に指さしある。「兄弟の接近」と「叛逆」の二つの章が、それを語っている。 て見せてやる。彼らの幸輻のために彼等の罪を身に引受けた我々はイヴァンは、アリヨーシャを誘って旗亭に入り、魚汁と茶と櫻の ジャムを食べながら、話し始める。イヴァンは、二十四歳、アリョ お前の行手に立塞がり、「さあ、出來るものなら我々を裁いてみろ』 大 ーシャは二十歳である。イヴァンは生活欲に燃えている。アリヨー と云ってやる。」大審間官は、キリストに向い、おれの仕事を邪匱 シャと話しあうのは、十年ぶりである。その間、外に出て、放縱な してくれるな、明日はお前を烙き殺してくれる、という。 2 ここで、アリヨーシャは、突然叫ぶ。ーーあなたの劇詩は、キリス生活に耽っていた。アリヨーシャは、信院に入り、ゾシマ長老に愛

5. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

に明確な政治的意味をもっていたということを知らねばならない わめて頑固な信念であって、「ムイシキンがロゴージンになり、窓 6 ( たとえばウエルギリウスの作品、あるいは大部分のエリザベス朝 2 が。ハイプ懸けになったところで、ドストイエフスキイやセザンヌの 演劇 ) 。藝術作品のこうむってきたたえまない意味の變動、内容の 様式に變りがなければ、それでよいのである」ということになる。 喪失を見つけなければいけない、喪朱ー・・・とりわけイデオロギー 小説の場合、彫刻や繪畫にくらべて、「スケマ」や様式の内在、 およびその發展の過程をたどることが比較的困難なことをマルロオな一部の内容の喪失は、『純粹な』美的活動という ( 『藝術のための 藝術』という ) 錯覺を強化してきたのである。」 ( ルフ、 1 プル『美學 も認めている。おそらく、マルロオにとって、小説を彫刻や繪書に 還元できればどんなに好都合だったか知れないのである。『東西美入門』 ) 實際、過去の作品が、その當時もっていた「イデオロギー的政治 術論』を讀みながら、わたしはマルロオが自身の小説から、それの もつイデオロギー的内容や主題のアクチ = アリティをすべて拔きと的内容」のアクチ = アリティでもって、今日のわたしたちに同じよ 、純粹な様式美としてそれらを美の祭壇にまつり上げようとしてうに訴えることはできない。それでは、様式やフォルムとしてわた したちに訴える過去の作品の美とはいったい何なのか。『サフンポ いるのではないか、ということは、またマルロオがすでに『征服 1 』はその緋色のスケマによって、『ポヴァリー夫人』はその茶色 者』『人間の條件』『希望』のような小説を書くエネルギーを喪い、 ますます現實と國民から遠ざかってゆきつつあることを説明するものスケマによって、『。ハルムの僧院』はその紫色のスケマによって わたしたちにいったい何を語りかけるだろうか。そういう疑問は依 のではないか、という疑問の起るのを抑えることができなかった。 『東西美術論』のなかで、マルロオは『征服者』から『希望』にい然としてのこる。様式とフォルムにただうっとりと見入ることはも ちろん可能である。人生の重苦しさを逃れる一つの手段として、そ たる彼自身の小説を自ら誹謗しているかの如くである。 小説家や文學者が美術に興味をもち、美術を愛好するのをとがめれは有效でさえあるだろう。しかし、今日の藝術を創造するために 立てすることはできない。しかし、人生〈の熾烈な關心を喪い、主は、それだけでは足りないのである。過去の作品の様式とフォルム を選ぶこと、選んだものを再び現代の内容と主題に結びつけ、統一 題への興味を失った ( したがって、アクチ = アルな主題を發見でき し、綜合することが肝要なのだ。でなければ、過去の作品の様式と なくなった ) 結果、もつばら様式やフォルムの美にひかれて美術に フォルムをいかに精密に探索してみたところで、それらは依然とし 赴くとしたら、それは一種の頽度にほかなるまい。藝術は審美家の 「空想美術館」のなかにのみ存在するものではなく、たえず生きたて「空想美術館、の壁にならんだ亡靈の列にほかならない。それら 人生との相互關係において、いわば相互の滲透において存在するもの様式やフォルムが現代の世界に生きかえるためには、まず肉體を とり戻さねばならない。様式やフォルムに生命をふきこむものが必 のだからだ。 要なのである。 「『石でつくられた聖書』である何々寺院は、宇宙の縮圖であり、 わたしはここで、内容と形式の統一とか、主題と様式の統一とか 當時の人びとがまだ本でよむことのできなかったもの ( そしておそ いうおきまりの定式を持ち出すつもりはない。藝術家が一個の生活 らく、生きたロ承俾説によってはもはや知りえなかったもの ) を、 彫刻や燒繪ガラスで敎えていたという事實ーーこれを知らねば、つ人としてもっ表象は、必ずしも彼の藝術的表象と同じではない。ピ カンは實生活の件侶である自分の妻の顏を、あのように歪んだ像と まり學ばねばならない。外見は『純粹に』美的な作品が、ひじよう

6. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

驗を素に、存分に作った小説。或る程度打込んで書く事が出來た。信州 いくらもひきはなしていない。主人公にいたっては、小説家が劇作 沓掛の千ケ瀧ホテルで前半を書き、戸倉といふ温泉に移って後半を書い家になりかわっただけで、志賀直哉まるだしである。 た。此小説は或人々に好かれ、或人々には好かれてゐない。女に對する しかし、そのような中途半端にもかかわらず、やはり『邦子』一 考へ方で分かれるらしく、大體所謂フ = ミニストの傾向にある人々には 篇は作者の作品系列からいっても、一個獨立の作品として眺めても 此小説は愴快でないらしく、その反對の考へ方をする人々には同感を得 るらしい。私自身では自分のものとして「これも亦一つのもの」として 重要な意味を持っている。最近、尾崎一雄の『梅のさく村にて』も 愛著を持つ。 上林曉の『姫鏡臺』もほぼおなじ主題を提供していたが、家庭か藝 この作品において、作者は藝術家生活個有の一一律背反を眞正面か 術かという一一者擇一におちいりやすい藝術家生活の矛盾は、『邦子』 らその主題にすえた。これは私小説でもなければ心境小説でもな一篇においてやはりもっとも精細をきわめている。重要なことは、 い。その意味では「存分に作った小説」にちがいない。悲慘な境遇志賀直哉という一個強靱な生活者が『邦子』を書くことによって、 に生いたったひとりの女性をヒロインとし、配するに中年の一戲曲一藝術家としての生活的危機を切りぬけ、卒業していった過程にあ 家を以てしたこの作品は、いかにも作者自身の家族構成とはちがつる。『山科の記憶』一聯の體驗をもととして、細君を作中で自殺さ た「作った小説」といえよう。しかし、それはこの作品の額縁に關 せることによって生活的危機克服を遂行したその制作過程を、やは する一設定にとどまり、作の中味については、わけて下端女優とス り私は生活者としても藝術家としても正統な態度と思わぬわけには キャンダルをおこした主人公に抗議する細君のロ吻は『山科の記 ゆかない。細君ならぬ女性に「一種の戀愛」を感じた場合、それを 憶』一聯の細君と生きうっしである。私の疑問に思う點は、ホテル押しすすめたらいかなる悲劇が惹起するか、と藝術的にあらかじめ の女ポーイや女給などしながら日暮しをたて、あげくの果に人の妾想定することによって、起り得べき劇を回避し得たその生活態度 にまで巓落していった過去を持っ女主人公のぬぐいがたい心理的負は、『好人物の夫婦』以來のこの作者の鏡敏な警戒心を中心とする いめが、主人の戀愛事件に關してはまるで空白になっている事實で生活の智慧にもとづく。いや、すでに『濁った頭』もまた宗敎と性 ある。無論、ヒロインの閲歴とその自殺とはふかいつながりを持っ慾との矛盾をひとつの極限にまで想定することによって、宗敎的戒 ているだろう。結局自殺というかたちでしか亭主に抗議し得なかっ律を卒業していった過程にほかならない。かかる生活と藝術との微 た絶望と悲嘆は、その過去の經歴と切りはなし得ない。しかし、そ妙なパフンスの恢復は、もと志賀直哉がまもるべき生活的地盤をし の結末にいたる道程で、女主人公の幻滅と嫉妬とがあまりに生一本かと把持していたことによるものだろう。それは現世放棄者ならぬ 反すぎて、そのひたむきの生一本さがかえって自殺にまで導いた、と この作者なればこそ、よくなしとげ得た事實である。こういう生活 律も考えられる。とすれば、このヒロインはかなり特異な性格の女性と藝術とのパフンス恢復の作業の上に、はじめて『濠端の住ひ』も のとみるべきかしれぬ。尤もその場合、主人公がヒロインの過去をい『城の崎にて』も花さくことができたのだ。藝術家として志賀直哉 ささかも自己の行藏のロ實としないことは、この作者らしくて氣持の態度が正統であり、健康である所以だろう。 がいい。つまり、女主人公の過去とその破滅にいたる道ゆきとは、 しかし、かかる制作態度を一歩押しすすめれば、生活のために藝 5 存分に考えぬかれ、つくりあげられたとはいえないのだ。その異常術を犠牲にすることになる。『半日』を書いた森鷦外や『新生』を な輪廓にもかかわらず、女主人公の姿態は『山科の記憶』の細君を書いた島崎藤村らの危機克服の過程に、藝術を手段化する氣配は否

7. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

合である。一言にして云へば、藝術は彼等に於て人生を出發點とし 4 は、セザンヌの畫を「恐ろしい畫」とか、「險な晝」とかみて、 加歸着點としたのである。」 ( 『革命の畫家』 ) というような一一一〔葉にして 三〇年以上も拒みつづけたイフンスの、頑固な美術的傳統のなかっ も、印象派の模寫的寫實にあきたりぬ氣持だけは明らかだが、そのたことだけは確かである。ゴッホやゴーガンへの彼等の親近は、も 寫實をはじめて發見し、喜悅と誇りをもって寫實を追及した人々のしかしたら、彼等の以前の浮世繪蒐集などに媒介されたかも知れな 必至を、果してどれだけ理解したうえの言葉であるか、という段に なると疑間が殘るのである。 『白樺』派の人々が、若い時代から、すぐれた美術鑑賞眼の持主で これは僕にもよくわからぬことなのだが、あえていえば、『白樺』あったことに疑いはない。だが、その鑑賞眼は、東洋美術も西洋美 派の後期印象派に對する理解には、なにか飛躍的なところがあり、 術も、結局はそこを「出發點とし歸着點とする」外ない根本的なも そのものの本來の姿とはズレたところがありはせぬかと思われる。 ので、いわばあまりに根本的でのみありすぎはしなかったか ? そ 一九世紀のヨーロツ。ハ繪畫は、宗敎的、あるいは文學的題材をすこに前述の「跨ぎ」の問題が關係して來るのである。 てて、寫實主義や印象主義にむかい、視覺の藝術として純粹化の道 日本でカント哲學が普及したのは、世界的には新カント派哲學の をすすんだが、印象主義の寫實がいわばオートマティックに發展さ時代であった。そのために、日本のカント理解は、新カント派のレ せられた極には、人間が視覺一般に解消されるような傾向を生み、 ンズをどれほどか透したものであった。それと同樣に、『白樺』派 そこから逆に、視覺の奥なる人間の主體性が再認識され、強調されが西洋美術の理解にめざめたのは、世界的には後期印象派の時代で るにいたった。後期印象派以後にも、純粹視覺藝術の道がすすめらあったので、後期印象派という切斷面から彼等は西洋美術一般をな れ、繪畫的なものが追求されたことに變りはないが、寫實全盛期のがめた。そういうことがいわれるのではあるまいか ? そこに「跨 對象追隨に較べれば、それ以前と以後の時期は「人間的」な繪畫のぎ」の間題があるのである。劉生のデ = ーラーやファン・アイクへ 時期といわばいえる。『白樺』派は、その前の方の「人間的」繪畫 の「復古」も、そう考えてはじめてよく理解されるように思う。 の段階から、後の方の「人間的」繪畫の段階へ、直接的に移行した 美術史家は、ちょうどこのころ、岩村透が、畫壇の新傾向 氣味がありはしなかったか ? 「再現」藝術を陳腐として「表現」藝術を主張する傾向ーーに警告 一時期前には、べックリンやホドラーやクリンゲルを愛好していを發して、ヨーロツ。ハの美術は「眞」の研究を先にして「裝飾的の た『白樺』派の人々が、その後ただちに後期印象派に傾倒して行っ美」に缺けている、日本の美術は「眞」を後にして「裝飾的」に走 たところには、美術の文學的理解といったものが橋架けていはしなりすぎているといい、裝飾美の點では日本人は「中學生でも歐羅巴 かったかと思われる。武者小路は、「彼は樗牛の弟の齋藤野の人の の美術家以上」だが、寫實の確實さという點では「日本人は専門家 紹介でべックリンやクリンゲルを愛した。しかしその前に志賀からでも歐羅巴の美術家以外の素人にも及ばぬ」と斷じ、だから、「末 シャ・ハンヌやミレーやラファエル前派の人逹のものを愛することを だ基礎の固らぬ我國の洋畫にとっては寫實超克の新運動の必至性な 敎はった。一 ( 『或る男』 ) といっているが、そのシャパンヌやミレー く」、後期印象派の模倣は迷惑でもあり、有害でもある、といった フュアスタンド ゃ一フファエル前派に對する愛好にも、文學的理解が混っていはしな ことを記している。ゴッホやセザンヌより、マネの「理解」をこ かったか ? 少なくとも、そこから後期印象派への飛躍的移行にそすすめたい、という木下杢太郞の懸念は、この岩村の憂慮にほぼ

8. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

イのそれであった」とし、鸛外、トルスト分されているのに着目して、この分裂に卓 ( 七年制 ) の中學生であったころに、學生運 イ、プロレタリア文學蓮動などに批判を加え拔な考察をこころみた。これは、『近代文學』動にしたがって放校され、法政大學豫科に入 ながら、政治と文學との「見事な融合一致」の創刊にあたって、『「新生」覺え書』をつゞって、荒、佐々木らを知り、また明治文學談 を「全人類の場」において夢み、それ故に、り、戰後の出發をする評論の方向につながっ話會にも加わった。こうして、この年少の三人 文學の見方としては、仲間の三十代使命説をている。藝術と實生活との二律背反を戀愛かは、同じ世田谷區に住んで、文藝學の共同研 もうけがう構想をしめした。そこに彼の『近らの自由と金錢からの自由との二つの契機に究を八年近くっゞけ、「世田谷一一一人組」と俗 代文學』の出發點があった。 おいて乘りきることにみる卓見であり、手堅稱される緊密な交友關係をつくった。荒、 これに對し、平野は『高見順論』 ( 昭和一い平野の思索と方法の勝利である。 佐々木らは大井廣介らの『現代文學』 ( 『塊』 二・七・批評ー同・九・一〇・人民文庫 ) をもっ平野、本多はここに深く間わぬ山室とともの後身・昭和一四・一一ー一九・一 ) の同人にな て、その現名による評論家としての出發をに、『近代文學』の三十代後期のプロ科系のり、また三人の研究會からリイフレット 『文 こころみた。彼は深くアフィ = テを感ずるグルウブに屬するトリオであるとすれば、荒藝學資料月報』 ( 昭和一四・一〇創刊 ) を出し らしい高見順に身をすりよせ、内部から可能正人、佐々木基一、小田切秀雄は三十代前期たりしたが、この小研究會が治安維持法違反 な制作をさぐり、男の思想的屈服と妻の不倫のグルウブといってよいトリオであろう。こに間われて、戦爭下に檢擧されるという苦難 門 との分ちがたい因果關係からのめりこんで行の二つのグルウブの契點は、働きながら靜かをなめた。 く生活頽度をあかし、その詭話體小説の背後な情熱を頽勢のプ 0 蓮動にそ又いでいた山室 = 一人は、これらの同人雜誌に據って、文藝 切にある弱氣な自己欺瞞をつき、そこから描きらのプ 0 科系の月刊『批評』 ( 昭和一一・七ー批評をこころみはじめた。しかし = 一人のうち だされる「現代的錯亂の典型」のなかに、自一二・一〇 ) であったようにみえる。 で、いちばん早く世に出たのは、たぶん最年 一我再建の苦しい摸索をみてとり、跡づけよう * 『批評』には、これに先だっ宍戸儀一編集の季少の小田切であったろう。その師片岡良一の 木とした。そして、志賀直哉と葛西善藏との二 刊『批評』 ( 昭和七・一一及び昭和八・六の二敎導で、文學のおもしろさを知り、昭和十四 册 ) があり、後に西村孝次らの『批評』 ( 昭和 佐つの私小説の傅統の中にこれをすえて、高見 年から『古典研究』に國文學關係の研究をか 一四・八ー一九・四 ) がある。 人順の場合を勘案しようとする平野定式をみせ かげ、昭和十六年末には、萬葉集から子規、 荒るし、また文學と實生活とのせめぎあう宿命荒正人は中學時代にキリスト敎に入信し、 晶子、左千夫、茂吉におよぶ『萬葉の傳統』 五についての考察をほどこしている。つまり、 山口高等學校に人って、一年年少の佐々木基をあらわし、また『間隙の克服』 ( 昭和一七・ 多平野の文學的立場はすでにこのころまでに、 一を知り、マルクス主義から學生運動にした二・中央公論 ) を書いて、評論家として登場 およそできあがっていたといえる。これらのがって、共に停學處分の憂き目にあうのであしてきた。戦時における「時代と個人とのず 野文學的思考をささえた實證的研究は、『「破る。二人はまたともに東大文學部に入って、れの文學的處理」と副題して、伊藤整、太宰 戒」を繞る問題』 ( 昭和一三 ・一一・學藝 ) にプロ科系の『批評』に加わり、平野らを知り、治、眞船豐らの作品をとりあげ、「現實に於 おいて、發表當時の批評が主題もしくは動機また小田切秀雄との交友がひらかれたもののける否定さるべきものをその根源まで探って 3 について社會的抗議と自意識上の相剋とに二ようである。小田切は東京府立高等學校描き盡し以て眞にその克服に資」さなければ

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規定するような提出の仕方では片づかぬとれる。こうして、多くの平野定式がうちたてる。しかも、『新日本文學』五號 ( 同・一 9 し、人間の尊嚴と個人の權威とを瞭然とうちられていったことは改めて説くまでもないだは、岩上順一、瀧崎安之助、菊池章一、ぬや ま・ひろしによって、『新文學創造の主體』 だすために、「個人主義文學の確立」を必要ろう。 批判をのせている。平野が小田切の「兩面作 とすると説いた。さらに有島武郞の『宣言一 ところで、小田切秀雄は德田秋整の『假裝戰」と呼んだ立場 ( 『私は中途半端がすきだ』 ) っ』と、小林多喜二あての志賀直哉の手紙 ( この中に「主人持ちの文學」論がある ) とを指標人物』 ( 昭和一一一・二・近代文學 ) や、石川逹三は、「民主主義文學」の左派からの批判をう に、プ 0 レタリア文學運動史の素描をおこなの『生きてゐる兵隊』 ( 同・三・新日本文學 ) け、『私は中途半端なぞ嫌だ』 ( 昭和一三・ い、「政治の優位性」という原理的要の犯を論ずるところから、戰後の批評活動をはじ近代文學 ) を書いて、『近代文學』同人を脱退 した誤謬や犧牲を根本的に見直さなければなめた。そして『新文學創造の主體』 ( 同・六・しなければならぬ窮境にかりたてられたよう 新日本文學 ) 、『實感の主人持ち』 ( 同・近代文學 ) にみえる。 らぬとした。 * 小田切秀雄の同人脱退は『近代文學』昭和一一一一 平野は自然主義文學の實行と藝術、プロレを皮切りに、『主體の恢復』 ( 同・七・新生 ) 、 年四月號に、埴谷雄高が『編集後記』で、「意見 タリア文學の政治と文學等、それぞれの時期『絶對の場所』 ( 同・中央公論 ) 、『新しい人間内 の相違により、同人より脱退」と書いている。 において取りだされた對立を、作者の内部の容のために』 ( 同・瓧會評論 ) 、『新文學の足場』 可能な制作にく、 0 て、自己の内面 0 問題に ( 同・潮流 ) など、「新し」文學的創造の主體私の理解すると 0 ろでは、小田切は「世田 雄ひっかけて、周密に考えぬくところから、近形成」のために、みずから「無茶なことをや谷三人組」の最年少者として、むしろ荒・ 切代文學者の宿命の問題として提示している。ったわけだが、さうせずにはゐられなかっ佐《木と近いところで、「ルクス主義を把握 これは一作家の問題でも、一時代の問題でた」というような情熱を傾けて、たった一し、いわゆる「近代的自我」の主張から、當 も、文學史の問題でも、およそ同じ發想であ月ぐらいの間に、これらの論文を矢つぎ早に時の状況における緊張關係において、「新文 基 學創造の主體」を考えていたのだと思う。 木 り小林多喜二と火野葦平、轉向と戦犯とい發表した。 これらの論文は、一方において、すでにみ「權力の重苦しい壓迫からの自由としての解 佐ったように、思いもかけぬ角度から、一種の 人對蹠的思考をくりひろげながら、これを具てきたような『近代文學』の荒・平野などの放の歡ばしさ」を感じたのは、荒と同じ若さ 荒體的な統一と對位として眺めうる場所におい主張に通ずる實感の固執、主體性の確立を説における解放感であり、それだからこそロ「 五て、全極的に把握し、理論に抽出しようとすきながら、他方において『新日本文學』の岩ン的なまでに情熱を傾けて、文學者として何 多る。このために、しばしば私的告白に似たさ上順一らに代表される舊プ 0 レタリア文學系よりも文學的創造に堪える主體性の確立を説 わりや感慨をこめながら、作家制作の祕密、の硬化した「正統」ルクス主義からの控制いたのである。世界觀、リアリズム、現實、 野歴史生成の祕密をあかして、そこに理論的晶をうけているかに思わせるところがある。っ民衆といった問題を、ひとまず文學者の自身 華をおこなうという方法をとっている。逹意まり「民主主義文學」の若い期待される指導の實感にひきつけ、生ま身の自分ひとりで孤 5 平明な私小説ふうな文章を驅使して、これを理論家としての負托にこたえなければならぬ獨な批判と努力とによって檢討してゆくより 3 正反の文學的辯證法とさえしていたかに思わというところからきた微妙で困難な立場であほかに近道がないことを強調するにあった。

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38 イ しかった。 明治四十五年 ( 一九一一 l) 五歳 大正元 大正十五年 ( 一九二六 ) 十九歳 本多秋五年譜 一一一月、十七歳で嫁に來た母ちかが死んだ。昭和元 一月、「朱雀」第二號に、隨想「新居雜話」、 享年三十八歳。「一番最初の記憶というと、 いつも母の死を思い出す」 ( 「古い記憶の井二月、「朱雀」第三號に「埋め草にでも」 明治四十一年 ( 一九〇八 ) さなげむら 九月二十二日、愛知縣西加茂郡猿投村 ( い戸」 ) 。母の生涯は、育兒と家事とにあけくを寄稿。そのなかに、「一つの仕事をやっ ている間は絶對に他の事がやれないのが私 れた、忙しい、短い一生であった。 まの猿投町 ) 花本に生まれた。父松三郞・ の性質」ということばがみえる。この中學 母ちかの末子。家は麹製造業を兼ねた農大正二年 ( 一九一 lll) 生仲間のはじめた「朱雀」は、おりからの 父が繼母ちゑと再婚した。 家。十五歳年長の兄鋼治 ( 縣會議長・代議士 同人雜誌全盛期の一端に位置するもので、 などをつとめた。昭和三十九年十二月歿 ) 、十歳大正四年 ( 一九一五 ) 四月、猿投第一一尋常高等小學校 ( 現在の靑「朝」「辻馬車」「鷲の集」「驢馬」「靑空」 年長の兄靜雄 ( 工學博士、もと遞信省官吏、 「新思潮」などとも離誌交換が行なわれて いま名古屋の日本電話施設會瓧の瓧長、瀬戸古木小學校 ) に入學。 いた。誌面にはそうじて新感覺派の情調が 陶の蒐集研究家 ) 、そのつぎの兄春三は幼歿、大正九年 ( 一九二〇 ) 十三歳 漂っていた。四月、八高文科乙類に入學、一 三歳年長の姉華子 ( 小堀家に嫁す ) 、一歳年六年生の秋、名古屋市の城の近くの白壁小 長の兄義雄 ( 名古屋高商を卒業、森家に養子に學校に轉校。放課後の「餘課」をほとんど年間寮生活をした。この八高時代に四十年 しない田舍の小學校から行ったのでは、名にわたる友人平野謙・藤枝靜男と知った。 行き、岡崎で自動車販賣店と修理工場を經營、 昭和十九年、召集されてサイ・ハンに向かう途中、古屋の中學は受かるまい、という父の配慮昭和二年 ( 一九二七 ) 一月、「朱雀」第六 . 號に小説「鄕愁」、七 戦歿 ) がいる。下の妹は出生後數週間で死からの轉校であった。中學一年の兄義雄と 月、「朱雀」第七號に小説「夜の日記」、十 亡。これらの兩親兄姉は、本多の精祁的支ともに伯母の家に下宿した。 月、「朱雀」第八號に小説「曉闇を凝視す 持者としてかけがえなく貴重な存在であつ大正十年 ( 一九二一 ) 十四歳 た。すぐ上の兄義雄については、愛惜の情四月、愛知縣立第五中學 ( 後の熱田中學 ) にる」を發表。靑春の憂鬱な日々の感覺的、 スケッチ的な藝術派の小説で、短くて勁い のこもった「戰死した兄のこと」 ( 昭和一一人學。 文體を持ったものである。八高附近の瀧子 十五年八月「近代文學」 ) という一文を書いて大正十四年 ( 一九二五 ) 十八歳 いる。本多みずからも、封建的家族制度の十月、熱田中學の仲間ー渡邊綱雄 ( 津南夫 ) に家を借り、繼母と兄義雄と姪 ( 長兄の長 ・渡邊鈴彦・小川安政・古川辰三郞・下鄕女 ) とで暮らした。藤枝靜男によれば、部 もっともよい部分の庇護を受け、恩惠を蒙 ったと語っている。本多家のすがた、かれ羊雄・今井銀欽郎らが同人雜誌「朱雀」を屋には、ロダンの「考える人」の寫眞と、 トルストイの大きい横顏寫眞とが飾られて 發刊、本多も創刊號に隨想「言葉の價値」 の幼少時代、父母のことなどについては、 「近代文學」に九回にわたって連載されたを寄稿、第二號より同人に參加した。とくあづたという。「白樺」から、プロレタリ に、のち、早大文科に行った渡邊綱雄と親ア文學〈と移行しつつあったのが本多の八 「古い記憶の井戸」に書きとめられている。