主人公 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集
87件見つかりました。

1. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

しないままに、狎入れにいれたなりで國もとへ歸るということが、 いる。しかし、この描寫ははたして事實を直寫したものだろうか。 主人公の竹中時雄はすでに三十六歳にもなり、三人の子供と世帶やそもそも腑におちない。喰いつめものの靑年が下宿屋を夜逃げした つれした細君にとりまかれている中年男である。そういう年配の男わけでもあるまいし、どんなにとりみだしていたとはいえ、良家の のふるまいとしては、まるで「靑年の心を脱しない人」みたいな靑子女が寢具類をとり片づけもせず歸國するなどとは、常識は考え くさい所業にすぎない、と發表當時生田長江が難じたことがあつられない。机類などの梱包こそ間に合わなかったかもしれないが、 た。しかし、一般にはあの最後のしめくくりに衝撃されたのであ身のまわりのものを始末もしないなどとは、到底考えられない。そ る。島村抱月にしても、中年男のふるまいとして、よく思いきってういう場合、父親というものは、普通に考えられるより、よく氣の あそこまで書いたと思えばこそ、赤裸々な懺悔録というような批評つくものである。おそらく父親は運送屋をたのんで、手廻しよくす べてを國許に送り屆けるくらいの手配をしたにちがいない。女主人 をくだしたにちがいない。『蒲團』という非交學的な破格の題名に ふさわしい結末として、たしかに世人はショックをうけたに相異公の歸國は、半月たてばまた上京できるというような呑氣なもので ない。『蒲團』をきっかけに、性慾描寫の是非をめぐって論爭がかはなく、もはや再び上京することはできそうもない状況のなかでお わされたのも、そのことの一傍證だろう。無論、今日の讀者からみこなわれた。そうであるだけに、かえって跡をにどすまいとするた れば、あの主人公のふるまいは、本人が眞劍なだけに、滑稽でもあしなみは、父にも娘にも見失われていなかったはずである。つま 非現實的で 、すくなくとも『蒲團』の結末だけは不自然であり、 、子供じみてもいて、そこから性慾描寫の是非などをひきだすこ と自體が理解しがたいかもしれぬ。しかし、そういう事情をこめある、といわねばならぬ。この個所は作者の妄想あるいは假構にほ て、かねがね私はあの結末を作者のいわば妄想ではないかと疑わずかなるまい、というのがまえまえからの私の意見である。 私は單なる揚げ足とりとして、こんなことを書くのではない。 にいられなかったのである。 主人公が女主人公の蒲團を敷き、夜着に預を埋めて泣いた場所「蒲團』全篇を注意してよめば、主人公が直接に行動に出た個所は、 は、ことわるまでもなく自宅の二階であり、雨戸を一枚あけると流結末の蒲團をひっかぶって泣くところだけである。その他はす・ヘて れるように光線が射しこんだとあるところをみれば、すくなくとも「温情の保護者」の假面をかぶることを鐱儀なくされて、主人公は 日暮れ前の時刻である。白晝、シラフのまま自宅の二階の部屋に女ヒロインの手ひとっ握ることさえ叶わぬのである。師匠と女弟子と いう現世的覊絆に金縛りにされて、主人公は終始一貫手も足もでな の蒲團を敷いて、そのなかで泣いている最中に、もし細君でもあが いのである。この小心な主人公のなし得たことは、せいぜい醉つば ってくれば、なんと辯明すればいいか。そういうことに全然考慮を はたらかさないこの中年男の心理は、どんなに昻奮妝態にあったにらって厠に寢ころぶくらいのふるまいにすぎない。これを逆にいえ しても、はなはだ非現實的といわねばなるまい。もし細君にみられば、主人公の竹中時雄という人物は、最初から最後まで信賴すべき 師匠としての建て前をくずしていないのである。かりにも性慾描寫 山たら、主人公のその状況がなんともひっこみのつかない醜態である ことくらい意識できぬ主人公とも思えない。もしかしたら、作者のなどという論爭めいた論議が、この作品を中心として起る地はほ とんど全くない。しかも、抱月は「此一篇は肉の人、赤裸々の人間 論月はないけれど、そのとき家人はみな留守だったかもしれない。 0 ) 当】ロい 7 いや、そんなことの前に、女主人公とその父親が夜具類を荷作りもの大膽なる懺悔録である」と評し、二十五年たっても、白烏は實生

2. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

方も氣がフクになる。それはたとえば、房江について、 " 彼女はあ働運動のなかにくさるほどあるが、この大槻の場合のように天氣睛 の戦死した生さぬ仲の善雄のことを、格別に愛してゐたわけではな朗にそれが行われるというものではない。 いとぐち これらの副主人公の多くは、岡野にあやつられた菊乃をもふ いのに、拒まれたときから、自分の中に母性愛を信じる緒がつい くめてその大部分が主人公を沒落に追いやるのにはたらいたひとび た。拒まれたので愛してゐることになり、死なれたので、さう信じ てはならない理由がなくなった % " 滿たされないことで、いつまでとである。主人公はこれらの人物の實體をほとんどどれも見ぬくこ とができなかった。ただかれは、瀕死の床で主観的な赦しの心境に も渇くがままに放置っておくことで、その感情を不滅のものにする たちいたっただけなのである。これでは、磯田のいわゆる″「宿命」 〃というふうに描かれていて、 といふ、房江の獨特の精練法は : ことがら自體は深刻だが、ここには熟練した三島がいて安心できるにたいする無限の愛惜であり、慟哭なのである。というのも、主人 公に關することばとしてはなはだすわりがわるいということがあら 仕事をやっている、ということで讀者としても氣がフクになるので ためていわれねばならぬことになる。一面を不當に誇張し、他の面 ある。こういうたぐいのものよりももっとおもしろいのは、岡野と かれが聖戦哲學研究所をやっていたころの昔のグループで、一人はを不當に取上げない昨今の浪漫派の批評は、こういう結果に陷るこ とを避けがたいのである。 今ではいかがわしい占で暮しをたて、一人は纎維同盟 ( 勞働組合 なお、″慟哭″ということばが、戦爭中に保田與重郞をはじめと 中では右派の全纎同盟がモデル ) のオルグとなり 、村川という資本家か ら岡野を通して千三百萬を受けとってストを組織する、というたぐする右翼 " 文學者。の手でどんなに汚されたか、そのためこのこと 、村川の意を受けてまず菊乃を送りばにたいする憎惡の記憶がこの稿のうちに寫しとるたびごとにどん いの人物になっている。岡野は こみ、靑年大槻やこの纎維同盟ォルグを使ってストを挑發するきわなに強くわき上ってきたかについて、ややくわしく書いておきたい と思ったが、もはやそのスペースを失った。こういうたぐいの記憶 めて有能な陰の人物であるが、かれはまたヘルダーリンを愛讀しハ をもたない年齡のひとはこのぶんだけでもほんとうに幸輻だと思う イデガーに傾倒している人物でもある。戦爭中の聖戦哲學者たちが 現在も時代の深部でまったく奇怪な現代的な動き方をしている様子が、ことばのもっ歴史的な附加物などはやはり知っておいてもらい が、一應描けていて ( あまり妻みはないがとにかくこの小説の主人たいと思い、とにかくこういうことがあるということだけを書きそ 公など岡野にだまされたままで感謝して死んでゆくはこびになってえておく。 いるていどには ) 作者の人間欟察をこの岡野の眼をかりて書いてい る諸部分とあわせて、作品の幅と奧行きとを豐かにするのに役立っ ている。なお、大槻という靑年勞働者がしだいに階級的自覺をもっ ようになる經過の描寫は、作者として苦勞が多かったようだが、 『潮騷』の主人公のような描き方になっているために實在感に乏し く、またストのあとでたちまち組合ポス化して行く經過が作者によ ってほぼ肯定的に描きだされているのがめだっ。作者はそういうも のだと信じこんでいるらしい。たしかに、そういう實例は日本の勞 ( 昭和三十九年十一月 )

3. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

舍での信書檢閧という間題についても、寮母たちが監督下のエ女 ( 本を倒してゆく手のこんだ經過を描く、というきわめて當世ふうの の同性愛から嫉妬でのぞき狂になっている、という角度から描かれおもしろさを盛りこんでいるのであって、それは、人權ストをさ ていて、人權問題が性の匂いと心理との方に流されていることと照え、ともすれば大資本がわのまわし者の手で挑發された外發的なも 應している。 のにすぎぬ、と思わせかねないほどの描き方として現れているので これは小さな例にすぎない。全體としてこの主人公は、人權ストある。勞働者がわからの登場人物についてはのちに論ずることにす が起らざるをえないような經營體の經營者として、勞働者との具體るが、大局的にはその場合すら以上のような描き方のワクを出てい 的な對抗關係において描かれることがすくなく、古風な家父長倫理ない。 をふりまわす特異な人物という心理的な側面の方に、もつばら作者 こういう具合だから、主人公の資本家は、主として心理的側面で としての關心と人物像創出の努力とが向けられている。作中でスト 薄い毒をふきかけられて登場し、意想外のストにぶつかって敗北 ライキが突然に , ーーほとんどまったくとうとつに起ってしまうはこ し、重病になって入院するーーというはこびのはてに、終章にいた びになっているのは、以上のことの結果にほかならない。作者はこ って磯田のいわゆる″果てしない愛惜んや諦念や赦しゃ慟哭やとい の作品を書くに當ってずいぶん綿密な調査を行ったと傳えられていうものをもってきても、それが強い力にならないのはいうまでもな るが、彦根の町の様子や近江八景や京都郊外の風物や等々が實に見いことだ。黑谷の夜明けの鐘の音がなかなか見事に描きだされてい 事に描きだされているほどには、この作中でのストライキに必然性るほどにも、これと重なりあうはずの主人公の最後の心境は十分に を與えることができないで終った。このことは、心理的にだけ見る描かれていない。というより、ほんとうの悲劇となるためには主人 習慣をもったひとが、ほんらい心理的な解釋だけではとらえがたい 公があまりにも輕薄に、うわっつらだけでとらえられ、輕薄の衣裳 會的な必然性という側面をもった勞働組合やストライキやの論理をまとった深い悲劇というところにまでは逹しなかった。作者はそ を理解しようとしても、それはなかなか容易なことでないという事れをねらったはずなのだが、こういう性質の素材はこの作者の人間 情を示している。さしあたりその部分を描くために調べてみる、と觀と美學ではもともと處理能力の範圍外のものなのである。昨年の いうていどのことでは表面的なものに終りやすく、それが表面的な この作者の短篇『劍』は成功した作品だったが、それは大學の劍道 ムものに終ってしまったことにすら自分では氣づくことができないほ部主將という設定の主人公が作者の處理能力の範圍内の人物だった どなのである ( さいきんの三島由紀夫は、『喜びの琴』等でもそう からにほかならぬ。作者が自己の守備範圍を破り出ようとするのは リだったが、みように瓧會思想づいたことでかえってかれの作品の藝 いいが、『絹と明察』の場合のように、主人公がまさに資本家とし 術性をそこなう結果になっている。このことについて、過日わたして勞働者および他の資本に敗北し、破滅してゆくというような階級 に は『東京新聞』に書いた『三島由紀夫の思想』という文章のなかで的な經緯は、いまのところこの作家にはふさわしくない。だから、 ややくわしく指摘しておいた ) 。 批 終章のところで、主人公がすべてを赦すという心境にいたったと もっとも、三島は、勞働者階級には關心がないが、資本家階級の ころを描いても、それはそういうこともありうるかも知れぬという 經營戦爭の方には興味をもっているらしく、經營學プームや産業ス ていどに描かれているにすぎず、作者自身からして主人公の赦しの パイ小詭流行という現从をふまえて、同業の大資本と銀行とが中資心境の必然性を追及するよりも病室とそのそとでの菊乃〈の岡野の

4. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

驗を素に、存分に作った小説。或る程度打込んで書く事が出來た。信州 いくらもひきはなしていない。主人公にいたっては、小説家が劇作 沓掛の千ケ瀧ホテルで前半を書き、戸倉といふ温泉に移って後半を書い家になりかわっただけで、志賀直哉まるだしである。 た。此小説は或人々に好かれ、或人々には好かれてゐない。女に對する しかし、そのような中途半端にもかかわらず、やはり『邦子』一 考へ方で分かれるらしく、大體所謂フ = ミニストの傾向にある人々には 篇は作者の作品系列からいっても、一個獨立の作品として眺めても 此小説は愴快でないらしく、その反對の考へ方をする人々には同感を得 るらしい。私自身では自分のものとして「これも亦一つのもの」として 重要な意味を持っている。最近、尾崎一雄の『梅のさく村にて』も 愛著を持つ。 上林曉の『姫鏡臺』もほぼおなじ主題を提供していたが、家庭か藝 この作品において、作者は藝術家生活個有の一一律背反を眞正面か 術かという一一者擇一におちいりやすい藝術家生活の矛盾は、『邦子』 らその主題にすえた。これは私小説でもなければ心境小説でもな一篇においてやはりもっとも精細をきわめている。重要なことは、 い。その意味では「存分に作った小説」にちがいない。悲慘な境遇志賀直哉という一個強靱な生活者が『邦子』を書くことによって、 に生いたったひとりの女性をヒロインとし、配するに中年の一戲曲一藝術家としての生活的危機を切りぬけ、卒業していった過程にあ 家を以てしたこの作品は、いかにも作者自身の家族構成とはちがつる。『山科の記憶』一聯の體驗をもととして、細君を作中で自殺さ た「作った小説」といえよう。しかし、それはこの作品の額縁に關 せることによって生活的危機克服を遂行したその制作過程を、やは する一設定にとどまり、作の中味については、わけて下端女優とス り私は生活者としても藝術家としても正統な態度と思わぬわけには キャンダルをおこした主人公に抗議する細君のロ吻は『山科の記 ゆかない。細君ならぬ女性に「一種の戀愛」を感じた場合、それを 憶』一聯の細君と生きうっしである。私の疑問に思う點は、ホテル押しすすめたらいかなる悲劇が惹起するか、と藝術的にあらかじめ の女ポーイや女給などしながら日暮しをたて、あげくの果に人の妾想定することによって、起り得べき劇を回避し得たその生活態度 にまで巓落していった過去を持っ女主人公のぬぐいがたい心理的負は、『好人物の夫婦』以來のこの作者の鏡敏な警戒心を中心とする いめが、主人の戀愛事件に關してはまるで空白になっている事實で生活の智慧にもとづく。いや、すでに『濁った頭』もまた宗敎と性 ある。無論、ヒロインの閲歴とその自殺とはふかいつながりを持っ慾との矛盾をひとつの極限にまで想定することによって、宗敎的戒 ているだろう。結局自殺というかたちでしか亭主に抗議し得なかっ律を卒業していった過程にほかならない。かかる生活と藝術との微 た絶望と悲嘆は、その過去の經歴と切りはなし得ない。しかし、そ妙なパフンスの恢復は、もと志賀直哉がまもるべき生活的地盤をし の結末にいたる道程で、女主人公の幻滅と嫉妬とがあまりに生一本かと把持していたことによるものだろう。それは現世放棄者ならぬ 反すぎて、そのひたむきの生一本さがかえって自殺にまで導いた、と この作者なればこそ、よくなしとげ得た事實である。こういう生活 律も考えられる。とすれば、このヒロインはかなり特異な性格の女性と藝術とのパフンス恢復の作業の上に、はじめて『濠端の住ひ』も のとみるべきかしれぬ。尤もその場合、主人公がヒロインの過去をい『城の崎にて』も花さくことができたのだ。藝術家として志賀直哉 ささかも自己の行藏のロ實としないことは、この作者らしくて氣持の態度が正統であり、健康である所以だろう。 がいい。つまり、女主人公の過去とその破滅にいたる道ゆきとは、 しかし、かかる制作態度を一歩押しすすめれば、生活のために藝 5 存分に考えぬかれ、つくりあげられたとはいえないのだ。その異常術を犠牲にすることになる。『半日』を書いた森鷦外や『新生』を な輪廓にもかかわらず、女主人公の姿態は『山科の記憶』の細君を書いた島崎藤村らの危機克服の過程に、藝術を手段化する氣配は否

5. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

し、その將來についてはかねがね諒承も得たいと思っていたが、そ なかには、たしかに性慾描寫の問題もふくまっている。しかし、そ ういう自分の厚意も無にするような勝手なふるまいをされたので こにだけつよいアクセントを打っことは、やはり誤解といわねばな は、とても監督の責任も負いかねるから、もはや娘をひきとっても るまい。 らうしかない、とその父親にむかって立派に主張できるだけの師匠 もう一度中村光夫を引用すれば、中村は『蒲團』の題材を「どう としての體面を、主人公は最後までくずしてはいないのである。主 好意を持って見ても浮氣の出來損ひ」にすぎぬ、と批評している。 人公が内心なにを妄想していたかを一應別とすれば、それはまだま しかし、「浮氣の出來損ひ」にもいたらぬところに、實は『蒲團』 だ「浮氣の出來損ひ」の域にも逹していない、というべきだろう。 一篇の主題は存したのである。中年男の浮氣心か眞劍な戀愛かと、 無論、そのような師匠の假面の内側で、主人公がなにをのぞんで 一度も作者も主人公もっきつめようとしなかった點では、いかにも 「浮氣の出來損ひ」とも」えようが、もしも行動と」う一點に留意」たかは、從順な細君と」えども夙に看破して」たかもしれぬ。娘 して『蒲團』をよめば、「浮氣 0 出來損ひ」の段階にも逹して」なもそ 0 ような主人公の男心に甘えかかり、娘らし」媚態を示したこ とがあったかもしれない。しかし、二十歳前後の花やいだ女學生の いことは一目瞭然である。竹中時雄という主人公は、新時代にも一 應寛容な、しかし人の娘をあずかる現世の責任も忘却できぬ師匠格眼に、世帶や 0 れのした妻子にとりまかれたゲ面の中年男が、戀 の人間として終始ふるま」、その師匠の立場を一度だ 0 て踏みはず愛の對象として映じたことはまずなか 0 た、とみるのが安當だろう。 したことはな」のである。文學志望の若」娘を寄食させながら、手現に、同年輩の學生に血道をあげるようにな 0 たのがなによりの證 をと「て文學の道を訓えてやることは、最初から娘の兩親も承知の據である。」や、主人公にしてからが、師匠の假面にかくれて、一 上なら、主人公の細君も諒承夛みのことだ 0 た。娘は文學にも戀愛體なにをのぞんで」たかは、一向にさだかでない。家庭を破壞する とかしないとかなぞ、明瞭に主人公の意識にのぼったこともあるま にも理解ある先生として主人公を信賴し、娘の父親も父親なりにそ の人柄を信用して」た。この周圍の信賴を、主人公は最後まで踏み」。ただあきらかなことは、倦みよどんだ自分の家庭に花や」だ空 はずしては」な」 0 だ。外觀上 0 通俗道德に甘んじて、主人公は娘氣をまきちらす若」娘の存在をたのしみ、そのたのしみをできるだ の戀愛のよき理解者であるとともに、父親がわりの保護者ともならけながく喪」たくな」とう主人公の氣持だけである。むかしから 少女崇拜の性癖のあったらしい主人公は、處女の美をだれにも手折 ねばならぬ。このような主人公の強いられた假面は、最後までとり はずされては」な」 0 である。娘の戀人の無謀な上京にからんで彼らせたくな」、と希 0 たにすぎな巉しかし、だれにも手折らせた くないとは、できれば自分で手折りたいと希う氣持の裏返しににか らの情交が最後に曝露されたため、愛人の退京を説得するかわり に、娘が父親に 0 れられて歸國しなければならぬ羽目に」たるまならぬことぐら」は、文學者たる主人公は内省したこともあ 0 たに で、主人公は師匠と」う體面に金しばりにされて、娘 0 手ひと 0 握ちが」な」。一歩誤まれば危機に直面し、陷穽におちこまねばなら 0 = は」な」 00 ある。小泉一一一吉は叔父 0 假面 = かくれ = 、さりげ 00 ともよく辨えながら、それをさりげなく師匠 0 體面彌縫し、 田 なく姪の手を握「てしまうが、竹中時雄に」た 0 ては、娘の髮の匂危く彌縫することに内密 0 よろこびさえおぼえて」たかもしれぬ。 そこ〈娘の戀愛事件がもちあがり、結局娘は父親につれられて歸國 いにせいぜい胸ときめかしている程度にすぎない。 これが『蒲團』の輸郭である。だか 7 まだ修學中のわかい男女のことだから、彼らの戀愛に充分同倩しなければならなくなる。

6. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

あり、この小説の主人公はそういう人物として設定されているが、 を離れて、〃人間性の脊理〃などということをもちだしてこの小説 作者や批評家までが資本家の意識の額面だけを追うのでは、勞働者の辯護をやるやり方、そのことだけでなく全體として作品そのもの との關係で生ずる事件などは理解のしようがない。低賃銀と權利壓の實際を正確に讀みとることの代りに、深刻めいたきらびやかなこ 迫とにたいして、時をつかんでたたかいにたちあがる勞働者の論理とばやもっともらしい決まり文句などで作品のうちのある側面だけ と心理はもともとっかみようがない。 この小説の主人公が、 を恣意的に誇張し、それを批評であるかのごとくふりまわすという ″おのれのために金をけるといふことなど、考へたこともなかっ ところに、昨今の浪漫派の批評の特色が見出されるということ、こ た一生だ。と死の床で考えるような資本家であったことは、一應これである。 ういう資本家もありうるとして認めていいが、そのことでなにもか そして、ある側面だけを恣意的にーーー作品の實際をはなれて誇張 れの勞務政策が低コスト・低賃銀・權利壓迫を内容としたというこするということは、他の重要な側面を見のがす、または取上げな とが消えはしない、ということである。 い、ということの裏返しである。この長篇でいえば、勞働者がわの こういうことをすべてとり落したままで、磯田はさらに欽のよう代表的な人物として主人公と對置されながらかなりに詳細に描かれ に書く。 ている大槻という靑年勞働者およびその戀人でのちに妻になる弘 愚かな駒澤にたいして、駒澤の會社の支配權をひそかにねらっ子、また狂言まわしを兼ねて現代的な奇怪な陰の人物として動く岡 ている明敏な岡野という人物は、さしずめドン・キホーテにた野、さらに中年の " 文學藝者〃で主人公の工場の寮母となる菊乃、 いするサンチョの役割を作中で演じている。だが愚かな駒澤と主人公の正妻で結核療養所にいる房江、等々、副主人公格の多くの 賢明な岡野と、どちらが人生にたいする本當の「名察」を持っ個性的輪廓あざやかな人物たちが主人公をめぐって精緻に配置され ていたか ? 岡野、と人は考えるかもしれぬ。しかし、人生に ており、それらの人物の入り組んだ活動でこの作品のおもしろさが は、見ようとすることによってかえって盲になり、素直に盲に つくられているという面もあるので、主人公にだけ眼を向けること なりきることによって本當に物を見ることができるという逆説は作品の受けとめ方として安當でないばかりか、この主人公はかれ もまた成立しているのだ。そういう人間性の脊理に目をそむけだけでこの長篇に讀者をつなぎとめるのにはもともとすこしムリな て、どうして人生や藝術について語りえよう。 ム くらいの人物なのである。副主人公格の人物たちに作者がかなりに ズ 殘念ながら作品はこういう文學的な決まり文句の通りにはできて力を傾けなかったならば、この作品はさらに色あせたものとなった いない。素直に盲になりきることによって本當にものを見ることがであろう。 る できる、というような从態から最も遠くにいる作家として活動して け これらの人物のうち、回復の見込みのない療養所生活で孤獨な異 きたのが三島であることくらいは、磯田だって知っているはずだ。 に 常にかたくなな強い個性となった房江と、敗れて入院した主人公に 評そしてこの作の主人公も、さいごにすべてを赦す心境になった、と たいして " 使い古した箒みたいな誠實だけ〃をあらわにしてつくす はされていても、それで″本當に物を見ることができるようになっ 前〃文學藝者〃の菊乃とは「筋の展開のために必要な補助的人物と 礙た〃かどうかといえば、もはやいうまでもなくそういうところに して設定されているだけでなく、そういうタイプの女性については 3 は、この人物は逹していない。 むしろ問題なのは、作品の實情作者のペンは實にのびのびと輕い毒をふくんで動きまわり、讀者の

7. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

っている。具體的には、″おのれの生涯にたいする果てしない愛惜 びたびまのあたりにそれを見たかまたはこれから見ることになって 8 であり、諦念であり、そして彼を裏切った者への赦しの心である。 いるのだ。茶番劇がそういうものとして描かれているならいいが、 ・ : おのれのかけ換えならぬ「宿命」にたいする無限の愛惜であ三島のこれは、たんなる茶番劇に終ってはいないにしても、重大な 、慟哭である″、というわけだ。だが、こんなに調子のいいこと ド一フマになるには作者の特技としての薄い毒で主人公がちつにけに ばで説明ーーーというより歌うようにもち上げてしまってさしつかえされてしまっているのである。 ないほどに、その愛惜や諦念や赦しなるものがこの作品のなかに實 このことは、作者が主人公を主として心理的な側面からとらえて 際に描きだされているであろうか。作者の意圖のうちには、そうい いることに理由の一つがある。もちろん作者は、主人公のモデルが うふうにしたいということがあったに相違ないが、同時に、作者近江絹糸の資本家であり、一代でたたき上げた人物で、經營規模が は、この主人公を存分につきはなして、卑小な劣等感とその裏がえ中くらいであるために新しい機械の導入がやり易く、しかも經營理 しとしての倨傲、善意と自己過信と押しつけと勘定だかさとみみつ 念や勞務管理方式ではきわめて古風な封建的なものを強行しやすか ちさと、すべてこれらを、この作家獨特のすばやい毒のある觀察で った、という資本競爭上の″利點″をもっていたことなどについて 欽々とあばきだし、それを主人公の行動・會話としてまたは狂言ま も、調査して書きこむことをおこたってはいない。磯田も〃妙に私 わし的な岡野という人物の觀察という設定を通して作中にくりひろの心に殘ったもの。として第一一章に書かれている古井戸のことを書 げているのであって、その結果は、主人公をムイシュキン公爵やド きそえているが、主人公の會瓧の酷使にたえかねた女工たちが十何 ン・キホーテとはおよそ異質のちつぼけな存在にしてしまっている人もとびこんだというのがこの井戸で、作者は工場がわによる信書 のである。ムイシュキンやドン・キホーテなどをもちだしたのは、 檢閲つ人權スト〃などといわれたのは、こういうたぐいのことが 磯田の批評のなかに、 " 人はおそらくこの主人公のうちに、ドン・ たくさんあって、それらに對する反對がストの目的のうちにかかげ キホーテのそしてムイシ = キン公爵のおもかげが宿っているのに氣られていたからであった ) のことなどとともに、こういう井戸の存 づくであろう″という一節があるからだが、どうも浪漫派の手にか在を書くことも忘れてはいないのである。 かると事が大げさになってかなわない。三島の毒は、まわりは早い ・ : その しかし作者は、この井戸をどのように描いているか。 / が消えるのも早いので、もっと沈んだ強い毒でないとムイシキン井戸には錆びたプリキの覆いがかかり、雨の日は日もすがらかしま ほどの強い免疫體は生みだしえない。むしろ問題は、作者がこれをしい音を立てた。夜きくと、その雨音は、死んだ少女たちの靈の鼓 茶番として設定している、ということである。このようなやり方自笛隊の行進を聽くようだ。しかしもう藝者ではない菊乃は、そんな 體が大きな問題をはらんでいることはいうをまたぬが、いま重要な ことを怖がるふりをしてみせる必要もなかった〃、というふうにす のは、作者が茶番劇として仕立てたもののなかではムイシ = キンやらりと藝者麒察ふうのものに轉じてしまっていて、なぜ十何人が技 ドン・キホーテはおろか、 " おのれの生涯にたいする果てしない愛身したかを勞働條件や戦後としては特殊なここの勞務管理方式の重 惜〃やそのたぐいとしての諦念や、赦しや、宿命や、慟哭ゃなど壓との關係でとらえるということにはどれほどの關心も示していな は、描かるべくもないということだ。人生には重大なド一フマがまさい。靈の鼓笛隊という氣のきいたイメージの方が前面に出てきてし に茶番のような形をとって進行することが多く、誰しもがすでにた まって、事態の重みがうすれてしまっているのだ。このことは、宿

8. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

: この世は本質的には彼 ( 主人公 ) の論理に從ってゆくべきで 複雜な心の動きのおもしろさを追うことの方に力をそそいでいる。 あるにもかかわらず、彼の目の前に生起したのはスト一フィキと もしも赦しがほんとうの深い必然性をもって描きだされていたら、 いうまさに驚くべき椿事であった。彼の目の前に生起したのは それだけでもこの作品は偉大になったろう。奧野健男は、さきにも 假象なのであろうか ? それとも彼が生涯をかけて信じてきた 引用したように、主人公の偉大さを讀者に感じさせた點で " 三島文 父家長倫理が迷妄だったのであろうか ? この戦慄的な「世界 學の勝利〃たと斷定しているのだが、主人公の偉大さなどというも の崩壞」を前にして彼は何をどうしたらよいのであろうか。第 のはどこにも逆説的にも描きだされてなどいないのだ。奧野はま 九章における勞働組合員と駒澤 ( 主人公 ) との對決は、あたかも た、この作品は " すべて人間の行爲を惡意にみちた冷たい眼で描き 『喜びの琴』の三幕一場にも似て、夢想と現實との決定的な落 ながら、美しい自然と同化して行く人間を感動的に救いあげている 差を前にした人間を襲う凄絶な孤獨と挫折感とを見事にとらえ 小説である。 ( 前掲文 ) と書いているが、このことばの前半はともか ている。 く、後半は作品中のどこをさすのか一切不明である。大資本家の祕 戰慄的な何やらとか、人間を襲う妻絶な孤獨と挫折感、などという 密の手先として競爭相手の經營のスト扇動にあたった岡野が、この 長篇の末尾のところで、主人公の臨終の場から逃げだして河原に出最大限のことばをイ。ー = ッシでなしにもちだされると、タフな て自然の風物に見入るが、まさかそれが " 美しい自然との同化。と三島由紀夫でさえ ( きえきするのではないのかと思うが、そういう ことよりも、主人公の家父長主義的な勞務管理政策をもつばら " 夢 いうことでもあるまい。 しかし、こういう作品にたいして、奥野の讃辭どころか、それこ想。のたぐいとしてストの現實を對比するような、あらつ。ほい浪漫 ・ / とか、 " 「宿命」に的判斷で瓧會・政治の間題に進んで發言する傾向が昨今の浪漫派の そ″果てしない愛惜であり、諦念であり、 一つの特質となっているところに、より大きな問題がある。こんに たいする無限の愛惜であり、慟哭なのである。などというまったく " 果てしない。ことばでほめちぎってくれる磯田のような浪漫派のちの市民生活の空虚な自由にたいして、 " 自由からの逃走。 ( フ 0 ム の書名 ) として軍國主義・ファシズムの強力政治のなかに民衆と知 批評家がいるから御時勢はありがたいものだ。林房雄が復活すれば 三島由紀夫が『林房雄論』で林の免罪符を大量配布するし、三島が識人とを組織しようとする動向があり、磯田をふくめて昨今の浪漫 派はこれと對立するよりもむしろ精的にはあい通ずる面を示して こういう長篇をかけば磯田らが最大限のことばで辯護してくれる、 いる。このような危險は、もともとこの小説の主人公のような資本 という仕組みになっているのは、昨今の浪漫派のあまりにも非ロマ ンティックな共同ぶりである。すぐれた資質をもっ三島は、こうい家が、家父長倫理による勞務政策をとる場合に、それが低「スト維 う流れにむしろ藝術的に對立して行くことが必要だとわたしは思持のための勞働者の權利壓迫とわかちがたく結びつき、きわめて實 利主義的なものであることをさえ、ほとんど問題にしない三島やま ったく問題にしない磯田やの、就會的にはまったくあらつぼいやり 四 方に結びついている。家父長主義でそういう實利を得ている資本家 浪漫派の批評ぶりをもうすこし拜見することにしよう。『 - 絹と明が、その實利のことは自己の意識のなかからはずしておいて、もっ ばら家父長倫理の倫理性だけを信ずるということはありうることで 察』の主人公がストにぶつかるところについての説明である。

9. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

の作品を讀んでいるかどうかを思案したり、たしかに讀んでいたに日記』を讀めばすぐわかるように、ジッドはそのような創作方法を ちがいないとカんだりすることは、本來からいえば滑稽な錯誤にす彼のいわゆる純粹小説論の實驗として、近代小説理論の極北を夢み ぎまい。しかも、私はその滑稽な錯誤を犯さざるを得なかった。 たひとつの實驗裝置として提出したのだった。横光利一の『花々』 『新生』という作品自體がそのように私を強要してやまぬのだ。こ ( ? ) もそのようなジッド的方法を踏襲しているかに聞いた覺えが こにその創作方法の重要な徴表がある。 ある。それらは近代小説の強いられた意識的な技法上のデカダンス たとえば、フランスゆきを決意した主人公が最近筆を執りかけたにほかならなかった。しかし、『新生』の場合は、いわば自然發生 自傅の一部を「これが筆の執り納めであるかも知れない」と思いっ的な必然として、作者はもっとも素樸にそのような方法にしたがっ つ、讀み返してみる個所がある。作者はそこでその自傅の一部をなたまでである。ここに『新生』一篇の持つなまなましい特異性が露 がながと挿人しているのだが、その引用文は一字一句『櫻の實の熟表している。 する時』からのひきうっしにほかならない。また、作者はときどき 德田秋聲は『元の枝へ』その他一聯の作品を書き、後にそれを 主人公の感想文なども挿んでいるが、それも藤村の紀行文その他に『假裝人物』一篇に集大成した。森田草平は『煤煙』を書き、つづ みいだされる章句ばかりである。今日私どもの讀む島崎藤村の作品 けて『自敍傳』を草した。『元の枝へ』は現實の事件の渦中にあっ は、また『新生』の主人公岸本捨吉の執筆にかかるものであった。 て、全體の見透しもっかぬなかで書かれたが、『假裝人物』はすで かかる徴表のもっともいちじるしい個所は、主人公が「自由の世に事件も落著し、全圓的な回想を平靜になし得る地點に立ったと 界」へ出てゆきたいと希い、「懺悔の稿」を書こうと思いたち、實き、現實を再構成するものとして新たな序列に書きかえられた作品 際にそれを世間に發表するという過程の敍述にある。その道ゆきの である。『煤煙』は餘燼なお消えやらぬ境地にあって、女主人公の 描寫は『新生』下卷の主要な内容を形成しているが、讀者はその性格さえよくつかめぬままに書かれたが、『自敍傅』はそのような 「懺悔の稿」をほかならぬ『新生』上卷のこととして受けとり、そ渦中からようやくのがれた作者が前作の補足の意味を含めて書いた こにいささかの懷疑もさしはさまない。「懺悔の稿」がいかなる標後日譚である。秋聲の場合と草平の場合とをひとしなみに扱うわけ 題を持っていたかは明らかでない。だが、讀者は大正七年五月一日 にはゆかぬ。しかし、それらを『新生』上下卷と比較した場合、そ から十月五日に亙って東京朝日新聞に連載された島崎藤村作『新こにはなにか本質的な相異がある。『新生』も血煙たてる事件のさ 生』上篇を指すものとして、それを讀むしかないのだ。藤村という なかに書かれ、その下卷には上卷を書く作者自身が描かれている イ者が『新生』という作品を書き、その作品のなかで主人公に一作 が、無論下卷は上卷の後日譚ではない。それはあわせてひとつなが 品を書かせ、讀者はそれをも『新生』という作品として受けとるし りの作品を構成するものだ。同時に、『煤煙』と『自敍傳』とが辛 かないように、作の仕組み自體が成り・たっているのである。考えてうじて保っている藝術上の一線をこえた領域にまで、それは踏み入 みれば、讀者は合わせ鏡のまんなかに立たされたような混亂を覺えっている。 るはずである。無論、こういうためしも絶無ではない。ジッドは ことわるまでもなく、作品世界と現實世界とはすくなくとも一對 「贋金つくり』を書き、その主人公たる作家エドワールにやはり 一の關係にある。それは現實世界に對立し、拮抗し、ときには凌駕 「贋金つくり』という作品を構想させている。だが『贋金つくりのさえする。作者が事件の渦中で筆をつけた場合も、事件そのものを

10. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

たり、汽車に乘りおくれて寄席をききにまわったりする、一種の藝物に對する嫌惡が、市民とは別人種とされる藝術家の藝術家的生活 術家的な氣分本位の生活である。こうした主人公の存在を、なんらの擁護に、少くとも意識的に方向づけられたことは、あとにもさき 疑問の餘地ないものとして、天降り的に肯定している態度からいっ にも一度もなかった。白樺派との最大の相違はそこに求むべきかも ても、これはおそらく宮本百合子の全作品中もっとも白樺派的なも知れない。藝術家を主人公にした『伸子』においてさえ、俗物主義 のである。ここから逆に、『伸子』の作者をつき動かしたもののなへの嫌惡は、ひとり藝術家だけでなく、人間 ( 日本人 ) 全體のより かには、この種の「プルジョア」的な生命感の奪重、自己完成の理人間的なあり方への解放をめざしている。強いてあげれば、「帆』 想がふくまれていたことがわかる。私の個人的な好みをいえば、『伸 が唯一の例外であるが、これも市民と藝術家の截斷に意識的という 子」の作者と、プロレタリア作家宮本百合子との間に、この『帆』的までには到っていない。 な作品のふくらみがもっとあってもいいと思う。あった方が一層お プロレタリア作家 もしろいと思う。戦後になってから、『二つの庭』や『道標』が書か れたのは、この部分に必要なふくらみをもたせたものとも讀める。 宮本百合子は、一九二七年 ( 昭和二年 ) 一一月末日に東京を發ち、 第二次外遊までの最後の作品といっていい『一本の花』は、ある湯淺芳子とともにンヴェトへ向い、ハルビンを經て、一二月一五日 會事業團體につとめて編集事務にたずさわるインテリ女性を主人にモスクワへ着いた。二八歳であった。 公にしている。彼女の身邊には、同居している女子大の敎師や、同 三年間にわたる第二次外遊中、大部分はソヴェトに滯留し、國内 窓生である上流階級の若い夫人もいるが、他方では、夜學生や、印の各地を見學旅行したりしたが、その間、二九年 ( 昭和四年 ) には、 刷工場の勞働者や、セッルメントの保姆などが接觸をもって來る。 七カ月にわたってウィーン、ベルリン、 ハリ、ロンドンなど、西ョ ーロツ。ハ各地を旅行した。第一次外遊のとき、アメリカからまわる この小説は、このあとの方の面で、初期の『日は輝けり』から、こ の時期の『黄昏』『氷藏の二階』『一太と母』などにつながる作品系はずで見殘した西ヨーロツ。ハを、ノヴェトを基地として、そこから 列、すなわち、勤勞下層階級の生活に注目した作品系列に入るもの の出張といった形で見たわけである。 ラ・ボアント・ド・つ・ヴィ である。ここでは、主人公の「生存の尖端」が、全人格的でない ソヴェト滯在中には、ゴーリキイに會い、また片山潜と面談する 官能の誘惑にひかれながらも首を横にふらせる。同時に、それがま機會をも持った。次弟英男の計報に接したのはレニングラードに滯 た生命感の奪重そのものとして、人間の「群」への接近を求めさせ在中のことであった。もちろん、西ョ ! ロッパ各地への見學旅行 る。「群」のなかの道を本能的にかぎ分けさせる。『伸子』を完成し も、彼女の生涯にとって小さからぬ事件であったはずである。「道 子て、個人生活の「泥沼」の記憶を整理し了えた作者は、處女作時代標』によれば、フランスでは戀愛に似た事件もあった。 合 三年たって ) 三〇年 ( 昭和五年 ) の一〇月、彼女はモスクワを出 百のひろくはあるが靉靆たるところもあった視野をそのまま恢復した 本 のではなく、ある新しい視野にむかって羽搏いている。省略の多發し、往路とおなじくシベリヤ經由ながら、こんどはウフジヴォス 宮 い、ポキポキと句切れて、局面轉換の早い文體もまた、なにか新し トックへまわって、一一月に東京へ歸った。東京に歸った彼女は、 5 いものが作者に胎動しはじめたことを感じさせる。 4 早くも翌一一一月に日本プロレタリア作家同盟へ加盟した。當時は日 ここまで來てはっきりすることだが、宮本百合子にあっては、俗本のプロレタリア文學運動の最高潮期にあたっていた。