122 ていた。『桃色の室』を發表した年、すなわち、『自己の爲』云々の得過程があった。 文章を書く前年に、武者小路は「トルストイおやぢが自分をこんな 一〇、「自然主義前派ーか ? 人間にしてしまったのです。自分は他人の運命を氣にする苦痛に耐 へられない男です。少くも他人のことには無頓着だといふ顔をして ここまで來れば『白樺』派は果して「自然主義前派」かどうか ? ゐないと今の生活をつづけることが苦痛なのです。そのくせ今の生の間題にもふれねばなるまい。 活をつづけるより外仕方のない男なのです。」 ( 『武郞さんに』 ) と書い 『白樺』派の文學は、自然科學の方法が瓧會生活の観察に導入さ た。「トルストイ主義、就會主義は、自分に重荷を負はせよう負はれ、充分に浸潤し、そこに樹立された必然性の概念に自我が必死の せようとしてゐる。すなほにこの重荷を負はされる時には今の自分反抗をこころみた、という意味では自然主義以後の文學ではない。 のやうに力のないものは動きがとれなくなる。自分は先づこの重荷『白樺』派の文學は、例えば北條民雄の文學が、きつばりと自然主 をはらひのけた。」 ( 『自分に荷へる重荷』 ) というのは、『自己の爲』義以後の文學である意味では、自然主義以後の文學でない。北條民 云々の翌年に書かれた言葉である。 雄は、一個人の特異な宿命が、文學史上の特殊な時點と不思議なほ ここでトルストイとは、瓧會主義と。ヒューリタニズムの代名詞でどびったりと一致した作家であった。 あり、したがってまた幸德秋水や木下尚江や德富蘆花や内村鑑三の しかし、『白樺』派の人々は、いうまでもなく自分たちを自然主 代名詞でもあった。トルストイのお湯を流したとき、『白樺』派の義以前などとは考えていなかった。武者小路は、「私はまだ今の人 人々は、その流したお湯の量に比例して、瓧會的にひろく機能する 間が眞の客麒をすることが出來るとは思へません。客觀客と云ふ 連帶感の赤ん坊をも流してしまったのである。 人の多くは私の目から見ると僣越な人のやうな氣がします。今の時 トルストイの名聲が西ヨーロツ。ハで高まったのは、一八八〇年以代はもう自然主義の云ってゐる客觀では滿足出來ませぬ。もっと個 後のことであった。それはマーテル一フンクが作家活動をはじめたの人的です。今にまた客の出來る時代が來るでせう、しかし又すぐ とほぼ同時代であった。しかし、トルストイは農奴解放以前に思想主觀的な時代が來ます。私逹は自然派前の主観には滿足は出來ませ 感情の根本を決定された古い型の作家であり、マーテル一フンクは象ん。しかし自然派以後の主時代のなぜ來つ、あるかを察知するこ 徴主義の洗禮をうけた新時代の作家であった。トルストイがヨ との出來ない人を嘲笑します。」と、例の『自己の爲』云々の論文 ロツ。ハで驚異の眼をもって迎えられたのは、もはやユゴーやバル でいっている。「今の世に自然派前の主観をのみ主観と思はれてゐ ザックやデイケンズの文學が返らぬ過去の文學となった世紀末におるのは私には可笑しく思へます。私は自己が自然と合一するまでは いてであった。いわばマーテルランクを生まねばならぬまでに爛熟客には何事も知る事が出來ないと思ひます。自然派の作物は如何 した西ヨーロツ。ハ文學が、自己に失われた鮮烈な野性の體現者としに人間が僅かの客観性すらもってゐないかを語ってをります。」と トルス も書いている。彼等は自然主義の客性をふみ越えたもの、自然主 てトルストイに撹目したのであった。『白樺』派の人々が、 トイからマーテル一フンクへと脱出したのは、先頭と後尾とが並んで義の客麒性をしも主觀的とみる段階に逹したものと自任していたの 走る世界の文學競技場に飛び入りして、右から左へとバトンを受けである。 渡したのに似ていた。拔けた一周のうちに、社會的リアリズムの修 實際また、『世間知らず』の鵠沼ゆきのくだりなどは、自然主義
3 5 び起っあたわざるわが身を危ぶみつつ「夜明け前』の制作に畢生の亡き父の魂を呼びつづけた捨吉は、晩年の狂氣の原因を「簡單な衞 生上の不注意」によるものではないかと考えなおしてみるほど、と 力を傾注しなければならなかったのである。 # 「夜明け前』を完成し、ふたたび獲た新夫人と「曾澁の地」フランスを廻ってみこうみ父親の生涯に思いを馳せた。しかし、「父の發狂が左様し 歸國した途端に、なまなましい過去の亡靈と面接ぜざるを得なかったのが藤村の た外來の病毒から來て居るとしても、そのために父に對する心はす のがれがたい宿命の實相であったともいえる。 こしも變らなかった。恐い、頑固な、窮屓な父は、矢張自分等と同 ポォル・ロワイアルの客舍にあって、常人からは隔絶されたおの じゃうな弱い人間の一人として、以前にまさる親しみを以て彼の眼 が宿命を明瞭に自覺したとき、藤村はその恐怖にたえきれず、そこ に映るやうに成った」のである。とすれば、衝撃とともに受けとめ からの遁走を企圖し、いままでどおり一般瓧會と入りまじりたいと た長兄の話は、藤村の心を以前にもまして父親の方へ惹きつけずに 希わすにはいられなかった。藤村は「幼い心に立ち歸らねばならなはおかなかったに相異ない。自己の身うちをめぐる「不思議な力」 い」と思い、透谷との運命的な邂逅にいたる若き日を追體驗した。 の根源を、怖れとともに、「弱い人間の一人」である父親の生涯の おこたひ しかし、宿命的な罪業の意識は到底拭うべくもなかった。心の苦し「隱れた行爲」にまで探及せずにはいられなかったはずだ。それこ みにたえかねて、藤村は亡き父を呼び、自己の體内をめぐる血液に そ藤村の宿命そのものの根柢的な追尋にほかならなかったから。 思いをこらした。この外遊三年間の「心の戦ひ」はそのまま歸國後 靑山半藏の生涯が藤村の父島崎正樹の一生をうっしたものである の半生を規定した。『新生』から『嵐』を經て『夜明け前』にいた ことは周知の事實である。『家』『新生』において斷片的に描かれた る過稈はその孤獨な「心の戦ひ」の文學的實踐にほかならない。 父親の挿話はすべて『夜明け前』に序列正しく組み入れられてあ 「この作の主人公が遠い族から抱いて來た心に歸って行くまで」と る。しかし、「同族の間に起って來た出來事」は無論のこと、その いう藤村の言葉はこのような文學的全道程を語るものでなければな發狂の醫學的究明などについては、あの厖大な「夜明け前』全篇を らない。藤村の『假裝人物』はあの『夜明け前』にほかならなかっ通じて、つゆいささかも觸れられていない。私はここに『夜明け たのだ。 前』の重要な徴表をながめたいと思うものである。 『夜明け前』は私にとって非常に面白い作品とはいえなかった。こ 簡單に結論を述べたい。 とに第一部は退屈そのものだった。第二部の後半ぐらいから私はよ 臺灣から上京して來た長兄と面談したとき、捨吉は長兄から「父うやく本氣になって作者の描く世界に惹きこまれたにすぎない。極 の生涯に隱れたもの」を聞かされた。「あれほど道德をやかましく 言すれば、村山知義の脚色した演劇『夜明け前』の方がはるかに印 おこなひ 言った父でも誘惑には勝てなかったやうな隱れた行爲があって、そ象ぶかかった、といっていい。瀧澤修扮するところの主人公が蓮の れがまた同族の間に起って來た出來事の一つであった」という話を葉っぱを頭にのせて、もの狂わしい振舞いをするあたりから幕切れ はじめて聞かされたのである。この父の祕密は『新生』の終りにまでは、のべっ涙が出てきて閉ロした。芝居をみてあんなに泣いた 近く、それだけ書かれているきりで、捨吉がどんな氣持でこの話を經驗はあとにもさきにもない。「どうして俺はかういふ家に生れて おのづから 受けとめたかは全然髑れられていない。しかし、藤村はこの話から來たか」とお民に嘆息する靑山半藏は「自然に歸れ」という本居宣 劇甚な衝撃を受けたにちがいない。巴里の客舍にあって、しきりに長・平田篤胤の敎えに憑かれ、一個の求道者としてその後半生をふ
135 宮本百合子 本文學にまぬがれぬ「宿命」だということは、私小説を滅すものこ そ實は私小説の命脈を窮極において更新するだろうという豫想を含 んでいる。それはまた、日本文學が個人生活をはなれ、直接經驗を はなれて考える能力を吸收するにあたって、「文學が解ったり、風 流が解ったりすると云ふ事は一種の惡趣味」という遊戯排除の精 が、かならず防腐劑の役目をつとめるだろうという意味でもある。 古い足枷を破るものは、外から、新しい生活體驗ばかりから來る のではあるまい。内から、新しい思考方法だけから來るのでもある まい。今はまだ、戦爭が日本に何をもたらしたかを斷言できる時期 ではない。それにしても、われわれの戰爭體驗は實に未曾有のもの 一本の矢 であったが、その體驗から果してどれだけの新しいものが生れたろ といえば、日本の降服が全國民に知ら 一九四五年八月一四日 うか ? とにかく、文學の新しい道は、行爲の變革と精訷の變革 された「玉音放送」の行われた、その前日にあたるわけだがーー・宮 と、二つのものの交叉によって切り開かれねばなるまい。その際、 よく「想ふ」ためによく「爲す」志賀文學型の實踐的性格は、やは本百合子は、そのころ網走刑務所にいた宮本顯治にあてて、かなり り發火における撃鐵の役割を演じねばならぬように僕は思う。 ( 五長い手紙を書いている。 ( 呂本顯治は、その年の六月はじめに集鴨か ら網走 ( 移されていた。百合子は、輻島縣郡山市開成山の弟一家の 〇・九・四 ) 疎開先きに同居して、七月のはじめ以來、網走行きを計晝し、切符 が手に人らぬために動けないでいた。そういう从況のもとで書かれ た手紙である。 そのなかにこんな一節がある 「わたしはこうしているうちにだんだん一途な氣になって來ま す。どうしてもゆかなくてはすまない氣がつのって來ます。そ の気分は、だんだん自分の身が細まって矢になるようなこころ もちょ。雲になり風になりたいというのではなく、一本の矢と なるようです。それは一條の路を一つの方向に駛ります。そう しか向けないのよ、矢というものは。只一點に向って矢は弦を はなれます。」 この一節につづけて、彼女は詩のようなものを書いている。 「わがこころひともとの矢まだら美しき鷹の羽のその風 ( 昭和二十六年二ー五月 ) 宮本百合子 その生涯と作品
2 2 「心を起さうと思はば先づ身を起せ」の意味する身の處しかた龜井勝一郞はつぎのように説く。 にもかかわってくるのである。一見實踐的なひびきを持っこの箴言 「嵐は到頭やって來た。」ーー「新生」第十五の冒頭の一句であ は、實は韜晦的な一種の形式主義をふかく包藏しているのである。 る。節子から身の異常を告げられて、岸本は激しい懊惱につき 藤村流と一口に呼ばれるヴォキャプフリイ、スタイルは陰密のうち おとされるーーこの間の筆は、讀者にとってあまり唐突と思は にこのような事實を露表している。 れるだらうが、前章にも云ったごとく、「家ーをふりかへって 註「春」において、主人公が品川で童貞をすてる描寫の場合にも、藤村は、「遊 はじめて納得出來る。妻お雪の旅の留守に、三吉がふと姪のお 窮」「曲輪」「女郎」「賣笑婦」などの言葉を一切もちいていない。 俊の手にふれるところがある。三人の子供逹が眠る墓場を近く かかる事情は「嵐」という言葉づかいにおいてもっともヴィ にのぞみながら、「不思議な力は、不圖、姪の手を執らせた。 ヴィッドに發揮される。「嵐は到頭やって來た」「悲しい嵐の記憶」 それを彼は奈何することも出來なかった。」ーー悲劇はこのと 「三年前の嵐の烈しさ」「漸くのことでその港まで落ちのびることの きに胚胎してゐるのだ。 出來た嵐の烈しさ」「斯の旅を思立たない前に恐ろしい嵐の身に迫 岸本と節子の關係は、この作品だけをよむと、いかにも唐突で って來た頃の心持」というような表現が『新生』のいたるところに あるけれど、藤村は周到な用意をそれ以前の作品で示してゐる みられるが、作者はその烈しかった「嵐」の中味については一言半 のだ。自分の生涯の一歩一歩を注意深く掘りさげ、これを一の 句ふれようとしない。説明ぬきの「嵐」という言葉だけで強引に最 體系に組みたてて行くのは藤村の一貫せる態度であるとは前に 後まで押し切っている。讀者はこの「嵐」の内容を「極く小さな聲 も述べた。 で、彼女が母になったことを岸本に告げた」節子の言葉からわずか まことにご丁寧千萬な解説といわねばならぬが、このような説明 に推測するにすぎない。後にも先にもこの告白の敍述以外に、讀者を一個の定説にまで流布させる力のあった最初の人は、おそらく正 を納得させる作業をすべて拔かされている。そして、その節子の短宗白鳥ではなかったろうか。 かい告白すら、愚直な花袋を驚かし興奮させたように、まったく唐 「家」の中で、三吉がお俊の手に觸れるところなどは、「新生」 突に讀者の前になげださせる仕組みとなっている。こうなれば間題 の伏線として線の太いものなのだ。從って、「新生」の第十三 は單に藤村流の形式主義というだけではすまされなくなる。それは、 回を讀んで、突如として驚くのは、讀者が迂濶なので、作者は ひとっ根から出たものとはいえ、藤村が好んでつかう「若草のやう その前作に於て筋の一端を水面に現はしてゐたのであった。 な」とか「女のさかりを思はすやうな」という形容詞や「窓に行っ 烱敏な翫賞眼をもっ白鳥のような人がこうハッキリ斷言すれば、 たださえ愛讀者をもって任ずるものの多い藤村讀者層のあいだに、 た」「雨が來た」なぞ歐文派から發明した獨特の文章とはやはり同 註一 日に談ぜられない。 ひとつの定説のできあがらないはずはない。木枝增一のような手堅 註二 このような「嵐」の用法こそ實は『新生』全篇の性格を端的に象い藤村文學史家も、宇野浩二のようなもっとも高級な讀者でさえ、 徴している、といっていい。しかし、この小説作法のイロ ( を無視ひとしくこの定説の前にはすなおにしたがって疑おうとせぬのであ した用法については、すでに多くの人たちが親切な解説をほどこ る。それほど形成された定説は頑固で根ぶかい。しかし、「迂濶」 し、確乎たる定説ともいうべきものが流布されている。たとえば、 な讀者である私には、そもそも捨吉イクオル三吉、節子イクオルお
は白樺派にも宮本百合子にもトルストイにも深く入って行けなかっ にかみに似たとぼけた姿勢がある。「宮本百合子論」においてそれ た。特に武者小路氏は私にはニガテであったが、この「『白樺』派は明らかだ。宮本百合子といふ、評者がもっとも親愛したらしい一 の文學」 ( 單行本「『白樺』派の文學」の一部 ) を讀んで、はじめて武者人の作家の成長と、その心の變化の經緯は注意深く、説得的に書き 小路實篤といふ人が分るやうに感じた。武者小路といふ一個の天才進められる。しかし、その最後に到って、「二つの庭」が、その全 的な存在は、日本の文學史の中でも類型の少い人であるらしいが、 力を擧げて爲すべき仕事の準備的作品にすぎないとして、突然不滿 この人は、明治末といふ歴史の特定の時期に置き、またその出身のげにその後の生涯が締めくくられるのを見るまでは、氏が宮本百合 社會圈を明確にしなければ、今からのちの日本人には一層分りにく 子のどの部分に重點を置いてゐるのか分らぬほどである。そこで讀 くなるのではないかと考〈る。この人は今後も多く讀まれ、特に若者は立ちどまり、はじめて、最初の夫に對して、日本の女として過 い人に親しまれるであらう。しかし、その天空の一角から突如とし分に求める所のあった彼女、留置所で醫師を呼びとめた時の彼女、 て電光のやうにひらめく着想が、どのやうな背景を持ち、根を持っ のちの夫に對する飛んでゆく矢のやうな、また懈の木にからまる蔦 てゐるかは分らなくなるにちがひない。芥川龍之介や佐藤春夫がこ のやうな彼女の姿が浮び上り、その意味が分って來る。 の人に見出した文學上の救ひが、この二氏より十三四年あとに生れ ここに編集された他の文章についても、この手續きは同様であ た私には分らなかったのだから。 る。氏は終戰後九年目かに、かって兵として住んでゐた田舍の小學 明治の時代、自然主義といふ特定の文學上の考へ方の歪みから、 校を訪れるといふ隨筆が最初に置かれてゐる。そこに同行した佐々 人間を全體として、幼兒のやうなものとして、また野の獸のやうな木基一のやうに、我々讀者もまた少し戸まどふ。感動が描かれず、 ものとして救ひ上げるには、どのやうな性格とどのやうな環境が必 その場面の具體性が克明に描かれてゐるからである。私自身は、「宮 要であったかを、本多秋五の述作は、細心に、巧みにすくひ上げて本百合子論」を讀んだあとで、この「天龍河畔の小學校」について 示してゐる。當然、この派の仕事を理解し得なかった私も、また私の感動が湧いて來たのである。宮本百合子といふ作家の戦前、戦時 より後の世代のものも、「白樺」派の人々の開いたこの思考の自由中、戰後のあり方を描くことは、實は本多秋五の心の中にある幾筋 さに、多かれ少かれ自分の考へ方生き方を負うてゐるのだ。 かの時と體驗の中の大きな一つの筋であり、それをものさしのやう 私はこの評論を讀みながら、これが出來上るまでに長い年月、お に傍らに置くことによって「天龍河畔の小學校」といふ彼自身の心 そらく二十年以上の年月のあひだ、この文の筆者の心の中で、味はの筋の印象が、遠まはしに、しかも間違ひなくやって來る。そのと れ、吟味され、體驗が加はるごとに比較されて、この内容が育ってきはすでに、それは宮本ーー本多といふつながりの次に、讀者であ 來た成層的な經過を感ずる。なぜ、どの點で武者小路といふ人やそ る私や、その他多くの人々の終戦時の生き方の反省を呼び出す、と 説の友人たちが、自分にとって意味があるのか、といふことを考へつ いふ結果になってゐるのだった。 づけて來た人のみが書けるやうな仕事であり、それを納得できるや 人は色々な生き方、語り方をするものだが、文士の仕事もまた實 作う細心に描き上げたのがこの仕事になったのであらう。 に色々な書き方、訴へ方をするものだ、といふのが私のそのときに 本多秋五といふ人の書き方は、具體的であるけれども、同時に効得た印象であった。 3 果を遠まはしに持って來ないと滿足しないやうな、直接法を嫌ふは 氏の書き方の持ってゐる具體性は、大變幅があり、同時に宇野浩
が一九五〇年にいたって發表されるような感情のしこりを、藤村の 式の時に結婚式などするのはひどいといっ迄も怒って居られまし 6 た。この氣持は靜子夫人に對して、ことに妹のこま子様 ( 廣助の一一再婚はその近親者にあたえたとみていいのではないか。 つづけて西丸文を拔き書きしてみれば 女、『新生』の節子のモデルとなった女性 ) のこともあって、面白くな 靜子夫人が家の人となってからも子供さん方は加藤さん加藤さ い感情を抱いておいででした」ということになる。この文章の「十 んといっておいでで、一一三年してからやっとお母さんというよ 月三十日」という日づけは廣助の葬儀の日か、藤村の結婚式の日か うになりました。蓊助様は結婚に反對でどうもしつくり行きま 曖昧だが、いずれにしても瀬沼の「年譜」の日づけとはくいちがう せんでした。 こととなる。しかし、「一日ちがいで妻籠では葬式、星ケ岡では結 靜子夫人が來られてからは二階に上って餘程の人でなくては會 婚式」という語り手の記億はおそらくまちがいではあるまい。「一 われないことにしましたので、玄關で追拂われたと怒って歸る 日ちがい」は無論、偶然の戲れにすぎない。しかし、そのマのわる 人もあり、折角遠方から來たのにちょっと顔だけでも見せてく い偶然によって、おそらく藤村の再婚の式場に列席した島崎家の親 れればよいとか、玄關だけで上れともいわぬとかいう方もあ 戚はほとんどいなかったのではあるまいか。そして、「いくら絶交 り、後援者の大倉喜七郞さんでさえ二度位玄關拂いに會ったこ しているからとて兄が死んだのに葬式の時に結婚式などするのはひ とがあり、今日は誰にも會わないで書くよといえばそれが嚴密 どい」という感情は、單に久子ひとりのものではなく、語り手をも に實行されたのでした。 こめて、暗に島崎家の親族全體を代表するものではなかったか。と 靜子夫人のお留守の時には親戚や知人も座敷のこたつや茶の間 もかく、私どもは「ささやか」な「父の再婚披露」には、「兄妹の に通してもてなされました。しかし加藤家の方々は裏口から入 代表」として二だけが出席したことを、蓊助の記述から知るばか って茶の間や居間に入り、島崎家の方々は應接間ということに りである。その殤二も「繼母の鏡臺や行李が飯倉の家へ蓮び込ま なって居りはるばる木曾から出て來た高瀬家 ( 藤村の長姉の嫁ぎ れる頃」は、近くに部屋をさがして、そちらへ移っていったのであ る。 先 ) の方々も玄關で待っていても春樹様にも靜子様にも會え ず、すごすご歸られることもあり、蓊助様が高瀬様へ遊びに行 この事實は藤村の再婚生活の首途をうらなう、ほとんど象徴的な けば一月も二月も泊って來られるというので、高瀬様でもその 意味をもっているように思える。藤村は廣助の妻・こま子の母たる 仕打が少しひどいと怒っておいでで、木曾の方々に對しても皆 朝子の死をみおくった直後に、『新生』を公表している。また、昭 この様なエ合でした。 和十一一年一一月、日本ペンク一フプ代表として夫人同件で半年の外遊を 靜子夫人の親友というか手下というか、手足となって御用をた 終え、麹町下六番町の新居に移ってまもなく、藤村は行路病者とし す人に栗原と飯野という人があり、隱田の行者の妹で、二人と て養育院に收容されたというこま子の新聞ニ、ースに面接しなけれ も獨身で飯倉時代から來ていましたが下六に移ってからは用が ばならなかった。すべてこれらも偶然のかさなりにすぎまい。しか 多いので、いつも來て代る代る御用を勤めて居ました。使いに し、このあしき偶然の戲れによって、「この氣持は靜子夫人に對し いったり、女中のすること以外の夫人の用をたしていました。 て、ことに妹のこま子様のこともあって面白くない感情を抱いてお 靜子様はだんだん丈夫になり肥って立派な體格になられ、以前 いででした」という曖昧な、靜子にとってはほとんど理不盡な文章
いというわけにはゆかぬ。 發展、發展の必要についての文學者の見識と具體的な努力の發展に 平野と反對に、わたくしはこのたたかいに賛成する。そしてこの水をかけぬがいい。政治と文學の新しい關係を眞正面からとりあげ たたかいが、千萬人の子供の「犧牲」を一人ーー極く一部の子供の たのは近代日本文學史上プロレタリア文學がはじめてだったが、そ 「犠牲」ととりかえることで、その先にはもはやどんな子供の「犠れが未成熟のまま挫折したことはさきの小林の作品などに見られた 牲」も必要ではない時が來るのを夢見る。平野はこれにたいして、 通り疑いのない事實としても、そのことで政治と文學の對立を「永 まだ「犠牲」になっていない一人の子供のいたいけさをたてにとっ遠の問題」にまつり上げるようなことはしないがいい。小林の負い て、無數の子供が現實に「犧牲」になっている事情の變革に反對す 目と未熟の側面だけをつつき出すことで、小林が實際に創造し得た る。そして、これが「藝術家」の立場だと言う。つまり「藝術家」 側面と平野自身の關係の問題を回避するような仕方はやめるがい は、民衆の幸輻そのもの、民衆の人間的解放そのものに本質的に對い。 立するというわけだ。「民衆とは自分だ」という荒 ( 同上 ) とは論理 ところで、「ひとりのいたいけな子供の犧牲」というような類い の上で丁度正反對に、民衆と平野はここで全く對立することにな のものをたてにとって瓧會變革への反對を主張するやり方は、瓧會 る。「論理語を度棄せよ」という「近代文學」の内部ではこんなこ變革の理論と運動が始まって以來、世界各國でくりかえしむしかえ とは一向差支えないのか知らぬが、とにかく論理上そういうことにされて來たまことに陳腐極まる , ーーそこで「永遠の問題」に見える なる。現實に「犠牲」となっている民衆と對立する平野は、あたか ということにもなる・ーー常套手段だ。それにしがみつくことで自身 もこんにちの會的な矛盾の「犧牲」になどなっていない階級に屬を守ろうとする「うからやから」はむかしからあったし、今もある する人物であるかのように見える。 し、これからもまだ出て來るだろう。これこそ、そのような「うか だが、本當のところは、「ひとりのいたいけな子供を犠牲に」すらやから」にとっての「既成のノルム」にほかならぬ。平野はこの ることに反對することで實は平野自身が何かの「犧牲」になりたく 種の「既成のノルム」によりかかって見せることで戦爭を通じても ないということを言おうとしたに相違ない。しかし平野の論理は自 なおこのような「既成ノルム」はちっとも「崩壞」などしてはいな 身を民衆との對立に導く。このことは「犠牲」になりたくない平野いことを自身實證して見せている。「手ぶらで歩きだす」という言 にとって、あまりさいさき好い見通しを與えぬ。平野は、あたかも い方は勇ましくていいが、こうした「既成のノルム」をぶら下げて 千萬人の子供が現實に「犠牲」になどなっていないかのように「ひ「歩き出す」のでは「手ぶらで」ということにならぬ。これでは一 とりのいたいけな子供を犧牲にして = = = 建立しなければならぬとし切の既成の觀念を投げ捨てて手ぶらで歩きだせと主張した輻田が、 任たら」などといわぬがいい。藝術家は民衆の現實に幸輻になる道に實はデーヰという一 0 の「既成の觀念」を背負って、「手ぶらで 者 對立せねばならぬというような主張をしないがいい。このような仕歩きだせ」という一つの主張を手にぶらさげて出て來たのとあまり 學方で政治と文學とを對立させるやり方をやめるがいい。平野が「犧違わないことになってしまう。 牲」になりたくないのは實は「由來、目的のために手段をえらば 「人間侮蔑とは反對に、 ' 人間の奪嚴と個人の權威を瞭然と打ちだす ぬ」 ( 同上 ) 由の「政治」に對してだが、政治を「永遠」にそういう ためには、いまこそ『個人主義文學』の確立が必要なのだ」という ものだときめこむことで、そういう政治そのものに反對する政治の「個人主義文學」の主張はすべてこのようなところに發している。
し、その將來についてはかねがね諒承も得たいと思っていたが、そ なかには、たしかに性慾描寫の問題もふくまっている。しかし、そ ういう自分の厚意も無にするような勝手なふるまいをされたので こにだけつよいアクセントを打っことは、やはり誤解といわねばな は、とても監督の責任も負いかねるから、もはや娘をひきとっても るまい。 らうしかない、とその父親にむかって立派に主張できるだけの師匠 もう一度中村光夫を引用すれば、中村は『蒲團』の題材を「どう としての體面を、主人公は最後までくずしてはいないのである。主 好意を持って見ても浮氣の出來損ひ」にすぎぬ、と批評している。 人公が内心なにを妄想していたかを一應別とすれば、それはまだま しかし、「浮氣の出來損ひ」にもいたらぬところに、實は『蒲團』 だ「浮氣の出來損ひ」の域にも逹していない、というべきだろう。 一篇の主題は存したのである。中年男の浮氣心か眞劍な戀愛かと、 無論、そのような師匠の假面の内側で、主人公がなにをのぞんで 一度も作者も主人公もっきつめようとしなかった點では、いかにも 「浮氣の出來損ひ」とも」えようが、もしも行動と」う一點に留意」たかは、從順な細君と」えども夙に看破して」たかもしれぬ。娘 して『蒲團』をよめば、「浮氣 0 出來損ひ」の段階にも逹して」なもそ 0 ような主人公の男心に甘えかかり、娘らし」媚態を示したこ とがあったかもしれない。しかし、二十歳前後の花やいだ女學生の いことは一目瞭然である。竹中時雄という主人公は、新時代にも一 應寛容な、しかし人の娘をあずかる現世の責任も忘却できぬ師匠格眼に、世帶や 0 れのした妻子にとりまかれたゲ面の中年男が、戀 の人間として終始ふるま」、その師匠の立場を一度だ 0 て踏みはず愛の對象として映じたことはまずなか 0 た、とみるのが安當だろう。 したことはな」のである。文學志望の若」娘を寄食させながら、手現に、同年輩の學生に血道をあげるようにな 0 たのがなによりの證 をと「て文學の道を訓えてやることは、最初から娘の兩親も承知の據である。」や、主人公にしてからが、師匠の假面にかくれて、一 上なら、主人公の細君も諒承夛みのことだ 0 た。娘は文學にも戀愛體なにをのぞんで」たかは、一向にさだかでない。家庭を破壞する とかしないとかなぞ、明瞭に主人公の意識にのぼったこともあるま にも理解ある先生として主人公を信賴し、娘の父親も父親なりにそ の人柄を信用して」た。この周圍の信賴を、主人公は最後まで踏み」。ただあきらかなことは、倦みよどんだ自分の家庭に花や」だ空 はずしては」な」 0 だ。外觀上 0 通俗道德に甘んじて、主人公は娘氣をまきちらす若」娘の存在をたのしみ、そのたのしみをできるだ の戀愛のよき理解者であるとともに、父親がわりの保護者ともならけながく喪」たくな」とう主人公の氣持だけである。むかしから 少女崇拜の性癖のあったらしい主人公は、處女の美をだれにも手折 ねばならぬ。このような主人公の強いられた假面は、最後までとり はずされては」な」 0 である。娘の戀人の無謀な上京にからんで彼らせたくな」、と希 0 たにすぎな巉しかし、だれにも手折らせた くないとは、できれば自分で手折りたいと希う氣持の裏返しににか らの情交が最後に曝露されたため、愛人の退京を説得するかわり に、娘が父親に 0 れられて歸國しなければならぬ羽目に」たるまならぬことぐら」は、文學者たる主人公は内省したこともあ 0 たに で、主人公は師匠と」う體面に金しばりにされて、娘 0 手ひと 0 握ちが」な」。一歩誤まれば危機に直面し、陷穽におちこまねばなら 0 = は」な」 00 ある。小泉一一一吉は叔父 0 假面 = かくれ = 、さりげ 00 ともよく辨えながら、それをさりげなく師匠 0 體面彌縫し、 田 なく姪の手を握「てしまうが、竹中時雄に」た 0 ては、娘の髮の匂危く彌縫することに内密 0 よろこびさえおぼえて」たかもしれぬ。 そこ〈娘の戀愛事件がもちあがり、結局娘は父親につれられて歸國 いにせいぜい胸ときめかしている程度にすぎない。 これが『蒲團』の輸郭である。だか 7 まだ修學中のわかい男女のことだから、彼らの戀愛に充分同倩しなければならなくなる。
ている。なんの批評もしていない。それは、當時の自然主義の感覺 という個性的な長篇を書きつづけていたのである。同時に、「坊っ 〃ちゃん」のような、自然主義文學とは全く軸を異にした作品を發表から物足りぬばかりでなく、現在の讀者の鑑賞カからも同じことが している。だが、漱石は一方では、自然主義文學の眞劍な態度には言える。小學生や中學生の讀み物には面白いが、高等學校や大學で、 もう一度讀み返してみようとは思わない。讀み返せば、なぜあれほ 深い敬意を拂っていた。これは晩年までつづいた。藤村の「破戒」 なども、その價値をはやくからみとめている。漱石は、明治一二十九ど夢中になったかと、過去の自分を顧みて怪しむ氣持さえ起きる。 年四月一日付の森田草平宛の手紙で、「破戒」を讀みながらの感想私は今度讀み返してみて、この小説の「時」が、大變短いのを知っ て、少し意外であった。四月から七月までの一學期間の出來事にす を傳えている。 ぎない。それだけでなく、内容も大變かんたんである。伊藤整は、 「坊っちゃん」こそ漱石文學のなかで最も傑作である、坊っちゃん 破戒は二三日前買ひました。先日紅綠が來て破戒の著者は此著述をやる 爲めに裏店へ這入って二年とか三年とか苦心したと聞いて急に島崎先生に という靑年は、いかにも當時の日本人らしい日本人であるから、と 對し〔て〕も是非一部買はねばならぬ氣になりすぐ買って來ました。是は 言っていたことがある。坊っちゃんの行動の據り所である正義感 只買って來たのです。面白くてもつまらなくても構はない買って來たので ーマニズムとは異質のもので、いわば、庶 は、義を前提にしたヒュ す。夫から半分程よみました。第一気に人ったのは文章であります。普通 民的正義感とも呼ぶべき性質のものである。漱石は、その持主とし の小説家の様に人工的な餘計な細工がない。そして眞面目にすら , / \ 、す てこの主人公を設定したのである。それは成功した。 た / 、書いてある所が頗るよろしい。所謂大家の文辭の様に裝飾澤山でな 自然主義文學者たちの批評はむろんあたっている。現在、私たち いから愉快だ。夫から氣に人ったのは事柄が眞面目で、人生と云ふものに が「坊っちゃん」を初めて讀めば、何かしらじらしい讀後感を覺え 觸れて居ていたづらな脂枌の氣がない。單に通人や遊蕩兒や所謂文士がか き下すものと大に趣を異にして居るからです。まだ後半はよまないから批るであろう。だが、全くべつの要素もふくまれている。それは、 評は出來ないが恐らく傑作でせう。今迄の日本の小説界にこんな種類のも「坊っちゃん」の前提になっているモラルに關する間題である。こ のはなからうと思ふのです。只一篇のモーチーヴが少々弱いかと思ふ。 の作品では、正義という倫理をとりあげている。むろん、それは前 ーマニズ 述の通り、永遠の正義というきびしいものではない。ヒュ この言葉は、漱石の生活度と文學觀を傅えるものとして面白ムとはまず關係がない。だが、正義は、自然主義文學者が否定した い。漱石は、自然主義の文學にも、決して偏見をもっていたのではものである。漱石の文學で初めて成立した新しい文學的主題であ ない。だが、自然主義文學を支持する人たちは、漱石の文學を、人る。人生には、どんなに淺い部分についてであれ、善と惡の戦いで 生と眞劍に取り組んでいないという點で、強く非難した。この人た解決しなければならぬ問題がある。それは人生の深い部分にも關係 ちは、人生の眞實は、無理想、無解決であり、現實暴露の悲哀にみをもっている。抽象的に言えば、それは人生いかに生くべきかとい ちていると考えていたのである。なるほどかれらの批評は當っていう大上段の課題にも通じる解決である。人生の淺い部分でも、善と よう。「坊っちゃん」は、たしかに、近代小説の骨組をもっていな惡の衝突を避けるのは、やはり悪しき安協と言わなければならぬ。 い。主人公の思想や行爲が、前近代的なのはいいとしても、それを この安協を排して、眞實を求めて生きる場合、カとなる據り所 扱っている作者自身の態度が近代的ではない。主人公と一緒に甘えは、これも幾らか抽象的だが、やはり正義感である。正義感にもい
8 6 判と同じことをいくたびかくりかえしたにちがいない。みずからの 月十一一日大學病院にて死、病名結核性腦膜炎。 島崎冬 ( 春樹妻 ) 明治十一年十二月十五日生、明治四十三年八藝術のためにその家族を「犧牲」にした罪業を忘却することは、藤 月六日死、病名脚氣産後出血。戒名寶室妙珠信女。 村にとって永劫にかなわなかったはずだ。だからこそ「新生」事件 古い過去帳をノートに書きうっしながら、野田は、「何か冷いも に直面した藤村は、その實生活擁護のために、みずからの藝術的破 のが背筋をさっと流れるような、慄然たる思いに誘われた。病名は綻なぞかまっていられなかったのだ。今度こそ實生活上の破滅はあ 夫々まことしやかに記されているが、何れも榮養不良と手當不十分 くまで回避されねばならぬ。『新生』は實際その目的遂行のために から來る死であるに違いない」と。この野田の言葉はおそらく正し書かれたふしぶしがある。しかし、藝術の犧牲さえいとわなかった い。西丸文によれば、「冬子様は小諸にいればよかった、三人の子苦しい實生活擁護は、はからずもながく尾をひくこま子という現し 供は書物の犠牲になったともいっておいでで、春樹様も三人のお墓身の犧牲者をうみださざるを得なかった。さきにふれた菊池重三郎 の『強情』は、その現實の犧牲がいかにふかくながいかを證してい へ行くこともできない程すまない様な氣がするといってお悲しみで る。次兄廣助はついにその死まで藤村と義絶したままであった。廣 した」とあり、蓊助文によれば、「信州小諸から上京して『破戒』 執筆當時の慘憺たる貧乏暮しは、私共の生母が榮養不良で鳥目にな助の娘久子は藤村の再婚に釋然たるあたわなかった。その久子の るほど切りつめたもので、三人の娘を一年の間に失ったのも此の時「不滿の感情」は次第に島崎家全體のものとなっていった。藤村の だった。それほどの犠牲と苦惱の中で創作を進めた『破戒』出版の子供たちでさえ、その死にいたるまで大磯の家に立ちょったものは 一人もなかった。そして、そのような「不滿の感情」のうらがわ 段になって云々」とある。ここにもあしき偶然がはたらいており、 で、頑固な父親さえ死ねば、藤村の妻になれると信じこんでいたら その偶然は「書物の犧牲」としか當事者には映らないようなもので あった。藤村自身の『芽生え』における感慨なぞ、ほんの上澄みをひしいこま子は、アカの他人に「強情」と題する文章を發表せしめる とすくいしやくいあげたにすぎないだろう。從來、困苦にたえた作ほど、貧窮し、おちぶれなければならなかったのである。 藝術のためその生活をいけにえにするか、生活を成りたたせるた 家生活の美談として受けとられかねまじきこの事件の核心は、「今 めにその藝術を犧牲にするかーーー一見相反する二つの藝術行路上の から云へば二十何年か前、島崎藤村が『破戒』といふ小詭を書きっ つあった時、どんな犧牲を拂っても此爲事を仕上げる決心で出來る危機に面接して、藤村の心から嗟嘆したのは、ただ宿命的なあしき だけ生活を縮小し、家族逹は其爲榮養不良になり、何人かの娘が一偶然のつみかさねにほかならなかったはずだ。ほとんどそれは死屍 人一人死んで行く事を書いた事がある。私はそれを見て、甚しく腹累々と形容してもいい。そのような宿命にあらがうべく、藤村はみ を立てた。『破戒』がそれに價する作物かと云ひたくなった。何人ずからの血統の淨化として、どうしても『夜明け前』を完成しなけ かの娘がその爲死ぬといふのは容易ならぬ出來事だ。『破戒』が出ればならなかったのである。その再婚生活の特異な形態は、第一の ーベンせんとする藤村の苦し 來る出來ないの間題どころではないではないかと思ったものだ」と危機と第二の危機とをいわばアウフへ いう『邦子』の作者の男々しい批判につきている。阿部知二の紹介まぎれの設計に端を發している。實は靜子夫人が第三の犠牲者か、 していた作曲家ベルリオーズの挿話の實例などをもちだすまでもな最初の幸輻者かを私は知らぬ。ただ私はその再婚を結論とする藤村 、藤村自身その胸の底にひめたる祕めごととして、志賀直哉の批獨特の作家コースがいかに藤村個人にとって、ぬきさしならぬ運命